失われし英雄譚【一次募集終了】   作:雪兎の手

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誤字報告ありがとうございます。修正しました。


第一章 ようこそ、来巣探偵事務所へ
プロローグ


 

 ───日本の某県来巣市。

 

 すっかり日の落ちた道を一人、男は暗い顔をしながら歩いていた。その足取りは重く、深い悲壮感が漂っていた。

「ああああ……最悪だ」

 

 男、櫟肇(いちいハジメ)は人通りがないことを良いことに心の声をだだ洩れにする。

 

「終電で寝過ごしちゃうし、タクシー呼ぶお金もないし。家までまだまだかかるぞ……」

 

 肇はさらに言葉を続けようとして、前方から歩いてくる人に気付き、慌てて口をつぐんだ。

 夜道を歩いているということを思い出し、少し警戒しながら夜闇に目を凝らすと、どうやら女性のようで自然と体の力が抜ける。

 

「こんばんは」

「え、あ、こんばんは」

 

 まさかこんな夜に知らない人間から挨拶されるとは思わず、慌てて肇も挨拶を返す。

 街灯の光に照らされた相手は色が抜け始めた金髪の女であり、フード付きのパーカーにショートパンツというラフな格好であった。

 歩いてきた女はなぜかその場で足を止めて肇を見つめている。

 

「えーと、何か用ですかね?」

「ちょっとね。ところでお兄さん。いま一人?」

「はあ……そうですけど」

「ふーん。あんまり一人で出歩かないほうがいいよ。ほら、もしかしたら運悪く出会っちゃうかもしれないでしょ?」

 

 アタシみたいな殺人鬼にさ、と続けながら金髪の女は懐から大振りなナイフを取り出す。

 月の光を反射して、凶器が鈍く輝いた。

 

「は? え、ど、ドッキリ?」

「でもただ殺すだけだとつまらないし、お兄さんのために三十秒待ってあげるね。……いーち、にーい」

 

 金髪の女が狂気的な笑みを浮かべて数字を数え始める。

 その段階に至って、ようやく肇は現状を把握した。

 

 自分はいま、獲物として見られているのだと。

 

 

◇◇◇

 

 

 人通りのない暗い道をひた走る。

 俺には全く意味が分からなかった。なんで終電で寝過ごして長時間歩いた挙句、殺人鬼に追われているんだろうか。

 あの目は、きっと()()だった。幼いころから目立った才能もなく、平坦に平穏に平凡に日々を暮らしてきた自分でも、あの殺意が本物だと思わせる妙な迫力があった。

 

 なぜこんなことになった? 俺はいつも通りバイトを終えて、電車に乗って……それで寝過ごしてしまっただけだ。何も悪いことはしていない。

 友達はいない──学生時代の友人とは疎遠になった──し、彼女もいない。ただその日を生きるだけのフリーター暮らしという自堕落な生活。そんなつまらない人生に刺激を求めていたのは事実だ。

 しかしいくらなんでもこんな仕打ちはないだろう。誰が好き好んで得体のしれない人物に殺意を向けられたいと思うだろうか。

 

 そんなことを考えている時、唐突に()()は起こった。

 前方にある影が揺らめいたかと思うと、先ほどの殺人鬼がそこから身を乗り出しこちらにナイフを振るう。

 

「ぐうッ……!」

 

 反射的に身を捩って躱そうとするも、武術の心得もなければ、大して運動もしてこなかった体は思うように動かず腕を切りつけられてしまう。

 

「はぁ、はぁ……」

「あーあ、見つかっちゃったね。お兄さん」

 

 血と共に汗が滴り落ちるのが分かる。

 いっそ気を失ってしまいたいくらい怖いのに、痛みがそれを許さない。

 

「せっかく時間をあげたのになー。まあ異能も魔術ももってない人間じゃ逃げるのなんてほぼ不可能だけどね」

「あ、あの!」

「ん?」

「ゆ、許してくれ! ここ、殺さないで!」

 

 最後の策である。俺は土下座をして命乞いを敢行した。何か大切なものを失っている気がするが、背に腹は変えられない。死にたくないという思いだけが俺を支配していた。

 だってしょうがないだろう。俺は今まで平和な日本でのほほんと暮らしてきたのだ。

 刃物を持った人間、しかも瞬間移動とかいう魔法のような力さえ使える相手にどうしたらいいのか見当もつかなかったし、なにより恐ろしかった。

 

「あー。命乞いね。しなくていいよそんなの」

「へ? じゃあ」

 

 淡い期待を込めて顔を上げた俺を裏切るように、彼女は笑いながら無慈悲に告げる。

 

「見逃すわけないでしょ。四肢を動かせなくして、体中を切り刻んで、内臓を引きずり出して……最大限苦しめながらお兄さんを殺してあげる」

 

 ああ、だめだ。これは。

 どうあっても逃がすつもりはないのだろう。

 それなら、俺は。

 

 俺は腕の傷をもう片方の手で押さえ、震えながらも、観念したように立ち上がると殺人鬼の後方に視線を向ける。

 そして目を見開いて声を漏らした。

 

「──え」

「ん? なに?」

 

 殺人鬼が俺の視線を追うように振り向いた直後──俺は先ほど拾って隠し持っていた石を握って振りかぶっていた。

 

「なにも……がッ!?」

 

 魔法使い(?)でも衝撃は受けるのか、側頭部めがけて全力で二発殴ると、殺人鬼はよろめいて地面に倒れ伏す。

 

 ざまあみろ!ぺッ!

 俺は倒れた殺人鬼の頭に向けてダメ押しに石を投げつけ、ビシッと指を差して声の限りに叫ぶ。

 

「窮鼠猫を噛む、だああああ!!!」

 

 うん、自分でも意味がわからない。けれど正常ではいられなかった。極限の死の恐怖と、どうしても逃れられない絶望が目の前にある時、人間は半ば自暴自棄になるのだ。吹っ切れるとも言う。

 絶望は既に、怒りへと変わっていた。

 

 俺は即座に踵を返すと再び走り出す。アドレナリンが分泌されているのか腕の痛みはそこまで感じない。好都合だ。これならまだ走れる!

 なにせ相手は影から現れるような奴だ。普通の人間ならしばらく動けないだろうが、いまは何が起きても不思議ではない。

 

「誰か! 助けてくれ!!!」

 

 走りながら声の限りに叫ぶ。

 正直、人がいようがあの殺人鬼から逃れられると思わないが、今は少しでも生存確率を上げたかったし、声を上げて気を逸らさなければ恐怖でおかしくなりそうだった。

 

 その直後、遠くで大きな笑い声が聞こえてくる。

 ──ハハハハハッ! 面白い!

 

 マジか。渾身の力で殴ったのだがもう起き上がったみたいだ。やはり奴は人間ではないのかもしれない。

 しかしまずい。この辺の土地勘がないうえに、人払いでもしたかのように不自然に人がいない。

 どうする、どうする! どうしたらあいつから逃げられる? 一体どうしたら──

 

 その時、またしても前方の影が揺らいだ。

 例のごとくあの殺人鬼が現れる。

 

「まさか命乞いの直後に殴られるとは思わなかったよ。ハハッ、面白いなあ」

「それは、ハァ、どうも。そのまま、ハァ、見逃してもらえると、ハァ、嬉しいんだけど!」

 

 恐怖を表に出さないように後退りしながらできる限り大声で言葉を発する。内心では漏らしそうなほど怖いのだが、震えそうになる体を必死に抑える。

 息が上がってしまってめちゃくちゃきつい。いまは少しでも息を整える時間が欲しかった。

 

「いやあ、逃がさないってさっきも言ったでしょ? それに、こけにされたまま逃がすわけにはいかないよ」

「ああ、そうかい!」

 

 言い切ると同時に後方へのダッシュを始める。

 これでも高校時代は陸上部に所属して汗を流したものだ。ほぼ幽霊部員だったけど。

 

「……一度上手くいいったからって勘違いしてしまっているみたいだね、お兄さん」

 

 殺人鬼の言葉を無視して走り続ける。

 しかし呼吸はすっかり荒くなり、あまり足が動かない。追いつかれると思って振り向くと、殺人鬼は先ほど影から出てきた地点から動かずにこちらに手を向けていた。

 なにしてるんだ? よく分からないが距離は取れた。立ち止まって再度荒い呼吸を繰り返す。

 

「『彼の者 黒き塵と共に現れ 空を血の赤に染め上げる』」

 

 その時、女の歌うような声が閑静な住宅街に響いた。同時に、周囲に黒い砂粒のようなものが漂い始める。

 なぜだか嫌な予感が止まらない。先ほどから本能が警鐘を鳴らし続けているような感覚だ。

 いや、大丈夫なはずだ。殺人鬼からは十メートルは離れている。よくわからないけど、今はとにかくスタミナを回復する!

 

「我が声、我が祈りに応えよ──【八咫烏の鉤爪】」

 

 そういえばあいつが出てくるのは()()()()()()()()()()()。なら明るいところまで──ザシュ──行ければ?

 

 俺は唐突に腹部に違和感を覚え、下を向いて腹部に目をやると、右の脇腹がごっそりと抉れるように無くなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「は? い……あああああああああああああああああ!?!?」

 

 傷を認識した瞬間に激痛が走り、口からは勝手に絶叫が出ていた。しかしすぐに吐血によってその声も出なくなる。

 痛い! 痛い! なにがあった? なにが?

 思考がまとまらない。血が非現実的なくらいに吹き出し、内臓が外へとこぼれ出ていく。

 立っていられず地面に倒れ込むと、自分の血がばしゃりと跳ねた。

 

「ただの人間が逃げられるわけないじゃん。理解した?」

「あ……ああ……」

 

 気付けば殺人鬼はすぐ近くにまで来ていた。それも当然か。俺は倒れて動けないのだから。

 出血のせいか急速に意識が朦朧としてきた。痛みも多少ましに感じられるが、なんの意味もない。

 既に指すらも満足に動かすことができず、ただ呼吸することしかできなくなっている。

 

 その呼吸も浅く、早くなっていく。

 クソ、死ぬのか。俺は。

 

「死にたく……ない……」

「残念。もう終わりだよ」

 

 風切り音を最後に、俺の意識はそこで途切れた。

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわあああああああ!?」

 

 俺は叫び声を上げながら飛び起きた。

 汗でシーツがびっしょりと濡れていて、髪が肌に張り付いてきて不快だ。

 

 いや重要なのはそこじゃない。俺は殺人鬼に襲われて……

 

「そういえば腹は!」

 

 ガバっと布団をめくるとそこには無傷の自分の腹があった。

 驚いて腕も確認するが、傷どころか傷跡さえ残っていない。

 一体どういう……?

 

「ククク、倒れているのを見つけた時は心配したが、随分元気そうで良かった」

「! えっと、あんたは?」

 

 目覚めたばかりで混乱して気づかなかったが、俺のベッドの端には今まで見たこともないような美女が座っていた。

 赤みがかった、長くて艶やかな黒髪が特徴的な人だ。切れ長な赤い瞳と目元のほくろも相まってミステリアスでセクシーな雰囲気を醸し出している。

 さらに言えば、場所も変わっていた。あの路地からいつの間にかどこかの小奇麗な室内に移動していたみたいだ。

 

「君がどこまで覚えているか分からないが、私が来た時には君は既に致命傷を受けていたよ」

「あの、俺ナイフを持った人に襲われて、それで……」

「ああ、大丈夫。その人は私が来た時に逃げていったよ。捕まえられなかったのは申し訳ないけれどね」

 

 どうやらこの人が助けてくれたらしい。傷を治したのもこの人だろうか?

 

「傷が治っているのが気になっているみたいだね。いや、私も驚いたよ。君が異能に目覚めていなければ絶対に死んでいるタイミングだったから」

「異能……俺が? それに異能と傷が治ることに関係があるんですか?」

「もちろん。異能者は総じて魔力を持ち、瀕死の傷も治すことができるからね」

 

 信じられない。俺に異能だって?

 非現実的だが、しかし実際に助かっているのは事実だし、目の前の女性の表情も俺を騙しているようには思えない。俺を殺そうとしたあいつもそれらしきものを使っていたし。

 いや、いまはそんなことより。

 

「俺……助かった、のか……」

 

 助かったのだ。あの狂人を前にして。

 安心すると麻痺していた恐怖が蘇ってきて一気に体が脱力する。

 そして同時に疲労感もどっと溢れ出てきた。疲れた……。

 

「色々あって疲れただろう。今はゆるりと休むと良い。また起きたらここを案内するよ」

「ありがとうございます……それじゃあお言葉に甘えて……」

 

 ここはどこなのか、異能とはなんなのか、この人は何者なのか……。

 疑問は尽きなかったが、耐えきれない体の怠さと眠気に目を瞑ってしまう。

 心地よいベッドに身を委ねると、すぐに意識は緩やかに落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──これが、始まり。

 俺と異能者と、失われた***を巡る物語の、最初の一幕である。

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