夕暮れが路地の奥まで沈み、事務所の看板だけが湿った空気に滲むように淡く灯っていた。
机は壁際へ寄せられ、折りたたみの長机が二つ。油の匂いを含んだピザの箱、紙皿、コンビニの唐揚げとサラダ、そして小鍋の寄せ鍋が白い湯気を立てている。電気ポットのコトコトという小さな沸騰音が、室内のざわめきをやわらかく包んだ。
「お疲れさまでしたー! まずは乾杯ね!」
灰吼宮楼歌がプラスチックカップを高く掲げる。隣の灰色の狼は、興味深げにカップの縁をちょんと嗅いで、くすぐったそうに鼻先を引っ込めた。
「あなたは匂いだけ。飲めないんだから」
蜥川蜴信はいつのまにか配膳係に回り、無駄のない手つきで皿を並べていく。
「宗介さん、唐揚げとサラダ、どっち多め?」
「サラダ多めで。ああ、ありがとう」
葉月宗介は受け取った皿を持ち直し、近くにいた煉谷氷愛へ小さく会釈する。
「煉谷さん、お鍋を――」
「お気遣いなく。自分で取ります」
氷愛はにこりと微笑み、レードルを手に取った。金属が鍋肌に触れて澄んだ音を立てる。
ソファには白銀紘平。包帯の残る腕をだらりと伸ばし、顔色は戻りつつも動きはまだ慎重だ。
「ほら紘平も、飲み物」
楼歌が放った缶を、紘平は片手で難なく受け、無言のまま軽く掲げる。隣の肇は、湯気の立つ椀を両手で受け取った。
「ありがとうございます、楼歌さん」
「若いんだからどんどん食べな。あ、まだ熱いからやけどしないでね」
フロッケが「わふ」と短く鳴き、同意の尻尾を一度だけ床に打つ。
入口付近で様子を見ていたアルカ・ロンジェナートが、壁の時計に視線を上げてから、短く頷いた。
「全員、そろったようだね。――では、乾杯の音頭を頼もう」
「はーい、私ね!」
楼歌が笑って立ち上がる。カップの縁で氷が触れ合い、ちいさく鳴った。
「みんな、生きて帰ってきたことに。今回は安定勝利、ほんとにお見事。――かんぱーい!」
「乾杯」
宗介、氷愛、蜴信、肇、紘平、そしてアルカ。それぞれ違う高さの声が、不思議と同じ芯で重なる。プラスチックの軽い接触音がいくつも弾け、湯気と笑いが混ざった。
最初の皿が落ち着くと、自然と戦闘の話題へと移っていく。笑いながらも、ときどき輪の温度が引き締まる。
「しかし、煉谷さんの最後の一撃は……お見事でした」
宗介が背筋を正す。
「ありがとうございます。でも、葉月さんの誘導がなければ収束は間に合いませんでした。それに――肇さんの判断も良かった」
「いえ、自分はただ……避け続けただけですから」
「“避け続ける”には、体力と判断が要ります」
氷愛が穏やかに告げる。
「助かりました」
宗介はわずかに照れて、カップの水で口を湿らせた。氷愛の言葉に、肇の箸が止まる。胸の奥で、戦場の光景が波紋のように広がった。爆ぜる白光、焦げた空気、そして自分には届かなかった背中――。
「……俺も、強くなります」
ぽつり、と漏れた声に、視線が一斉に集まる。
肇は気後れしない。言葉にしたぶんだけ、肺が少し軽くなる。
「次、誰かが傷つく前に動けるように。せめて、足を引っ張らないように」
「引っ張ってないよ」
楼歌が即答した。
「私たち全員でチームなんだよ。役割は、その時々で毎回変わるから」
「……それでも」
肇は俯き、照れ隠しの笑みをこぼす。
「それでも、やっぱり、背中を追いかけたい」
宗介が静かに頷く。
「だったら、基礎から一緒に。回避のライン取り、次の休みにでも」
「お願いします」
短い約束の握手に、狼が鼻先で割り込んできた。ふに、と湿った感触。
「はは、ちょっと!」
「せっかくだから握手してもらいなよ!」
楼歌が笑い転げる。肇はおずおずと狼の肉球に掌を重ねた。柔らかくて、温かい。ほんの少し、涙腺が熱くなる。
「……それにしても、あの異形は何だったんだ? 眷属系か、強化系か――印象が揺れた」
宗介が箸を置いて言い、氷愛が同調するように頷く。
「並の攻撃では傷つかない身体能力。強い条件依存の再生……厄介でした」
「ほんとそれ。俺の銀の壁、あっさり割られたしな」
紘平が苦い顔で肩をすくめる。
「アルカは、何か知ってる?」
楼歌は杯を傾けつつ、器用にフロッケの背を撫で、視線でアルカへ話を振った。
灰色の狼は耳をぴんと立て、しかしすぐに鍋の匂いへと意識を戻す。いまは作戦会議より団子の時間らしい。
「ああ、あれは私自身も興味を持っている対象だ。せっかくだ、この場で共有しておこう」
アルカはグラスを静かに置き、卓上を一度見回した。湯気が薄く揺れる。
「この世界には“特異な力”が確かに存在する。古来から伝わる私の魔術、この国で語られる怪異、そして近年になって実在が確認された異能者だ。どれも同じ箱に入れて語られがちだが、同質ではない」
宗介が背筋を正し、楼歌が自然と声を潜める。
「私は主に“異能の起源”を追ってこの地に来たわけだが――調査を進めるうち、異能とは明確に異なる反応を示す存在に行き当たった。今回の反応も、その系統に属する」
氷愛がレードルを置く。金属が鍋肌に触れて小さく鳴った。
「異能対策課や研究会とは情報を共有している。だが残念ながら、現時点で掴めているのは輪郭だけだ。異能と同じく理屈も系譜も不明。実際に対峙したのも、討伐が成立したケースも――今夜が初だよ」
「じゃ、俺らの大手柄ってわけだな!」
真剣さを押し流すように、紘平があっけらかんと胸を張る。場の張りがふっと緩み、湯気と笑いが混じった。
アルカは口角だけで笑って、短く頷いた。
「事実だ。君たちはよくやってくれたよ。――また奴らが現れた時も、頼りにしている」
「まかせて! うちには宗介と氷愛っていう二大エースがいるんだから」
「俺たちもいるっすよ」
「そうそう、マジメもいるしな」
「その呼び名は審議でお願いします」
楼歌が胸を張れば、蜴信と紘平がすかさずツッコミ。“マジメ”と呼ばれた肇は、苦笑いで軽く抗議の手を上げる。狼が肇の膝に顎をのせて「わふ」と一声、なんとなく賛成の一票を投じた。
◇◇◇
その後夜が深まり、食事と会話が落ち着いたところで、アルカが掌を軽く打った。
「よし。――今夜はここまでだ。休む準備をしようか」
片付けは早い。蜴信がゴミ袋をまとめ、紘平は片腕でも動ける範囲で椅子を戻す。楼歌はテキパキと机を拭き、狼がモップの動きを楽しそうに目で追った。氷愛はレードルを洗ってから、手帳に短くメモを付す。宗介はドアの鍵を確認し、肇は空いた皿を重ねながら深い呼吸をひとつ。
「はい、みんな記念写真撮るよ!」
楼歌が自撮り棒を取り出す。全員が慌てて寄り、狼が中央で胸を張る。
「アルカ、真ん中入って」
「主役ではないさ。だが、入ろう」
小さなシャッター音。笑顔が一瞬、画面の中で凍り、すぐに溶けた。
「じゃ、解散。――各自気を付けて帰宅するように」
通りに面した窓の外は、もうすっかり夜の色だった。看板の灯りが雨上がりの路面に二重に揺れ、事務所の中だけがぽつりとあたたかい。
「……ふぁぁ。よし、帰るかぁ~」
紘平が大きく伸びをして立ち上がった瞬間、バランスを崩してソファに尻もちをついた。
「いてっ。床が回ってる」
「床は回らないよ」
楼歌がため息をひとつ。狼が心配そうに鼻先を寄せると、紘平は「おお、おまえはいいやつだな」とやたら真剣に撫でた。
「オレは、全然酔ってないっす」
蜴信がタブレットを抱えたまま胸を張り、次の一歩で見事に躓く。
「はいはい、“全然”ね」
楼歌が肘を取って立て直す。
「帰り道の交差点、二つっすよね……いや、三つっす……ん? 四つ?」
「蜴信くんは地図より足元!」
「りょーかいっす!」
「……ぼくは、ぜんぜん酔ってません」
肇が真顔で言い切って、ふらりとよろめく。
「ほら、肩貸す。つかまれ」
宗介がすっと横に入り、肇の腕を自分の肩に回す。
「ありがとうございます、宗介さん……」
「“さん”いらない。ほら、片足ずつ。ゆっくりでいい」
「……はい」
宗介は歩幅を合わせ、段差の前で一拍置く。
「ここ段差。足上げて。そう、いい感じ」
氷愛はレードルを拭いた布巾をきちんと畳み、アルカの前で姿勢を正す。
「本日はお疲れさまでした。……今回の件、記録は明日午前に共有します」
「頼もしいね。無理は禁物だが、期待しているよ」
「承知しました。――おやすみなさい、アルカ」
氷愛は静かに一礼し、宗介と肇の後ろへ回って足元を気にしてやる。去り際、狼の頭を撫でてから段を降りた。
「はーいタクシー呼んでおいたから酔っ払いどもは乗せてくよ!」
楼歌が手早く指示を飛ばし、二人を左右から支える。
「了解っす! ……うん、歩けるっす」
「よしよし。宗介、肇を支えてあげて」
「了解」
扉のところで、アルカは軽く指を鳴らす。看板の灯りが一段だけ弱まり、室内の空気が落ち着いた。
「気をつけて。――それと、狼を戻すのも忘れずに」
「はーい!」
楼歌の明るい返事と、三人のばらばらな「はい」が重なって、階段を下りていく足音に混じった。
外は、雨の匂いを少しだけ残した夜。路地の向こうで、楼歌の「こっちだってば!」という声と、宗介の「段、段。足、上げろ」の低い声が遠くなる。
足音が消えるのを待って、アルカは扉を静かに閉め、内鍵を回した。
静けさが戻る。テーブルの上には、整えられた紙皿の山と、湯気の消えた小鍋。電気ポットの保温灯が小さく灯り、冷蔵庫の低い唸りが部屋の奥で続いている。
アルカはひと息つき、机の角を指先で整えるように撫でた。手首の内側――張り巡らせた糸は、今夜は静かだ。
「……よし」
洗面の蛇口をひねってコップ一杯の水を飲み、窓を指二本ぶんだけ開ける。雨上がりの夜気が薄く入り、紙の匂いと混ざって、事務所はすぐに“寝る前の温度”になった。
彼女は棚から薄手のブランケットと枕を出し、ソファの背を倒す。壁のスイッチを落とし、デスクライトだけを残すと、部屋は港の灯りのように静まった。
ふと、さっきの写真が頭に浮かぶ。寄り合って笑う輪。肩を貸す手。からかい合いと、支え合い。
悪くない。胸の奥で、その言葉が確かな重みを持つ。
アルカはブランケットを肩にかけ、デスクライトを指先で軽く叩いた。
「続きは、明日だ」
独り言のように呟いてライトを落とす。暗闇はやわらかく、どこか人の気配の残り香がある。
横になってから、もう一度だけ手首の糸に意識を向ける。――反応なし。
「……うん、悪くないさ」
誰にも聞こえない声で付け加え、浅い呼吸を整える。
事務所は、眠りにつく準備を終えた。冷蔵庫の唸りと、窓からの夜風が、子守歌の代わりになった。
今回は日常回でした。ここからもう一話あって、一章終盤に入っていきます。
年内に一章完結までいきたい…!