公安局の石つぶて 作:もずくスープ
『火薬は洗剤ではありません。武器は洗濯せずに人に使いましょう』
壁に貼られた文面を私はじっと睨んでいた。
この注意書きを書いた人間は馬鹿だ。どこのアホが火薬と洗剤を間違えるんだ。
注意するならちゃんと「ポケットの中身確認!」とか分かりやすく書きなさいよ。
無駄に洒落を利かせようとしているのが絶妙にムカつきます。
モラルの欠如をユーモアセンスと履き違えているここの経営者の神経に頭がクラクラとしながらも、私は深夜のコインランドリーで洗濯が終わるのを待っていた。
サオリさんの背中の垢を一片残らずこそぎ落として銭湯から帰宅した後、私は寝る直前になって今日の洗濯を済ませていなかったことを思い出しアパートから出てきた。
サオリさんは明日で良いだろうと止めたが、私はこういうのはその日のうちにやっておかないと気が済まないタイプだった。
家事というのは基本毎日やるべきである。
今日は雨だからとか、用事を済ませてからとか、そういう先延ばしをやればやるほどいざやる時に億劫になる。
仕舞いには面倒臭いから溜まり切ってからやろうなどと「明日やろうは馬鹿野郎」根性が発動して後日痛い目を見ることになるのだ。
そういうわけで私は半分ほどを衣服が占めた洗濯カゴを抱え、玄関先でサオリさんに「馬鹿野郎この野郎!」と言い捨てて飛び出てきたのである。
こじんまりとしたコインランドリーには私の他に人はおらず、洗濯機が回る音のみが寂然と響く。
ガタガタ音を立てて動くドラム式洗濯機の黒い蓋にちょこんと座った私の姿が映っている。
すぐ後ろのガラス張りのファサードの奥は光一つ見えない真っ暗闇だ。
なんとはなしに、ホラーもののきっかけ場面に良くある光景だと思った。
様々な映像資料が脳裏によぎり少しだけ背筋が寒くなってくる。
瞬きした瞬間後ろに不気味な影とか、自分の姿が奇妙なものになってたりとか、突然停電して変な音がしだすとか。
大体天井の明かりがおかしくなるのが定番ですよね。チカチカっと瞬いた後にこうフッと現れてね。
余計な妄想するんじゃなかった。怖くて見上げた天井から視線を戻せなくなってしまった。
私はやけくそ気味に長椅子に勢い良く上体だけ横にして目を瞑った。
サオリさんにも着いてきてもらったら良かったななんて今更な弱音を独りごちながら、瞼の裏の光を感じながら洗濯機が揺れる音に集中した。
洗濯機の前で無心になって瞑想し続け、洗濯を終えた合図の機械音ではっと目を開いて立ちあがる。
いけない、普通に寝落ちしそうになっていた。
私は着ていたジャージの袖で口の端から頬に垂れた涎を拭いて、洗濯機に近寄り蓋を開けた。
洗濯の終わった衣服に手を伸ばそうと屈んだところで、私はふと後ろに何かの息遣いのようなものを感じて咄嗟に振り返った。
振り返った先のガラス張りの向こうには暗闇が広がるのみで、ぽつりぽつりと弱い街灯の明かりが頼りなく灯っている。
人の影はない。人じゃないものの影も、特には見られない。
おかしいな、何だか妙な、空気の揺れのようなものを感じたが。
気のせい、にしてはやけにその熱や温度が
視覚とその他の五感で得られた情報の差異に、途端に寒気と緊張が神経を伝って指先まで走った。
今まで覚えたこともない第六感めいたものの発動まで感じ出す始末だった。
冷や汗が額に滲むのを感じていると、私の恐怖心を追い立てるように、続けざまに上の方から壁を叩くような音が聞こえてくる。
こつん、こつんと、一定のリズムで天井を這うようにゆっくりその音が移動する。
私は振り向いたままの姿勢で石になっていた。
これはもう終わったかもわからんね。むしろホラー展開的には始まりですか?
これが
ばかなことを言うなド阿呆め、その吊り橋落ちてるじゃないか!
半分パニックになりながらも残り半分の冷静さで私は何も気付いてない風の外見を装い、迅速かつ丁寧にドラムの中の湿った衣服をカゴの中に放り込んでいく。
そう、心霊に最も有効な対抗手段は気付かぬふり。
とにかくさっさと出てしまえばいいのだ。
口笛でも拭きながら陽気に帰ってやればこっちのもの。
顔を出そうが声を出そうが全部気のせいだと思い込めばそれまでで奴らは基本何も出来やしない。
気づいてもらえなければ存在すらできない貴様らは所詮現世からの敗北者なのだ、ふはは!
衣類を全てカゴに入れ後は立ち去るだけだと幽霊相手に勝利を確信した私に、しかし緊張は別の種類のものとなって再び襲ってきた。
『動くな』
突然真横から聞こえてきた甲高いノイズ混じりの声に、私は生理的反応として首をすくませた。
皮膚の上から頭蓋に押しつけられるそれは、口の形からして余り馴染みのない銃の消音器のようだった。
口径は大きく拳銃用ではなさそうだ。
ああ、敵は幽霊ではなかったのですね。安心したような、もっと安心できなくなったような。
横目で其方を確認しようとするが、目のすぐ横に突きつけられた黒い筒のせいで何も見えない。
かろうじて見えた足元には何処にでも売ってそうないたって平凡な黒のスニーカー。何の判断材料にもならなかった。
『声も出すな。少しでも口を開けば君は明日の朝見知らぬ地下室で目を覚ますことになる』
わーお。素敵な脅し文句でございますね。
言い慣れてそうなあたりその道のプロでございますか?
問答無用じゃないあたりまだ温情な相手のようですが、一方的に銃を突きつけ誘拐を示唆してくる時点で関わりたくない手合です。
私が洗濯機の縁に置いたままの右手をゆっくり引こうとすると、こめかみに押し付けられる感触が強くなった。
どうやら油断はしてくれないようです。
高いような低いような、独特の音域の声が警戒する私を宥めるように穏やかに言葉を吐く。
『私は君の敵ではない。むしろファンと言ってもいい。無理に攫ったり乱暴したりするようなことはないと誓う。声が機械越しなのは許してくれ、正体がバレるわけにはいかない。君の能力を十分評価して身元が割れそうな要素は全て排除した』
その人物が強盗目的ではなく私に個人的な用があることがその言葉で確定した。
私に繋がりのある人間と言ったらヴァルキューレ関係しかいません。
ファンだとか、能力を評価だとか、この人は一体何処の世界線から飛んできたんですか?
公安局の名誉雑用係長の座を保持し続けたこの私に向かってファンだなんて、この人は雑用界のテッペンでも目指しているんでしょうか。
私はこの人物のイカれ具合が相当酷いことを確信した。
『これは君を助けるためでもある。君は今色々な人間に追われている。私のようなファンにも、そうでない者にも。大勢が君の身柄を狙っているんだ』
人違いしてませんか? ちゃんと話す相手確認して喋ってます?
確かに私は絶賛ヴァルキューレから身を隠している最中だが、色んな人から狙われるなどと言うほどの話ではないと思うのだが。
不正の件にしろ何にしろ、私の持っている情報の価値なんて容易く握り潰せる程度のものだ。
手元に証拠もなければ私自身に事を動かせるだけの社会的立場もない。
仮に尾刃局長や他の公安局員が私の発言を上に報告したとしても、「そいつに何ができるんだ」の一言で一蹴される程度の問題なはず。
尾刃局長みたいに個人的感情で私を捕えようとしている人ならともかく、発言権もなく市民権すら怪しい今の私を付け狙うほど暇な人間がそうほいほい居るとは思いたくなかった。
いたとしても精々がヴァルキューレ内部で動いているような人物がひっそり私を消そうと目論むくらいで、大勢が狙うだなんてそんな大袈裟な事態にはなりようがないと思うのですが。
私は胡乱な目を向けたくなるのを必死に抑えながら、その人物の気が済むまで好きに喋らせることにした。
元より私にはそれ以外の選択肢はなく、向こうも私のことなどお構いなしに話していたが。
またノイズ混じりの声が上から降ってくる。
『ファンとして今の状況はとても残念だ。君のような優れた人間がボロ屋で召使のごとく犯罪者に媚びへつらっているのを見るのは辛い。夢を捨てたと言いつつ自らのそれを楽しそうに語って聞かせるほど、この短い間に君が彼女に心を許してしまっているのも非常に歯がゆい』
今度は人違いではないと確かに分かった。
言及された内容は明確に私とサオリさんのことを示していた。
私が夢をサオリさんに語ったのなどつい数時間前の話だ。
言葉から察するにこの危険人物は監視と盗聴の両方をかなり密に行っていそうだった。
サオリさんを犯罪者と呼ぶわりにアナタもやってることは立派に犯罪者ですよね。
しかしそんなことをして何の得になるのだろう?
今の私をウォッチングしてもお見せできるのはドケナメ制圧術(テロリスト専用)くらいのものです。
あの素晴らしき屈辱の公安局生活と今とで大した変化は私には訪れていない。
なんならこれもう歴としたストーカーじゃないですか?
私は違う意味でも緊張してきた。
急にお尻触ってきたりしませんよね?
心霊、強盗ときてまた別ベクトルの恐怖ですよ。
やば、サブイボ立ってきました。
貧相な体が好きとか言い出したら顎に掌底食らわせたったります。
私が気持ち手を後ろに回していると、機械変声は構わず私に独り言を浴びせかける。
『君は現在錠前サオリと行動を共にしている。彼女は一見君を保護しているように見えるが、本当にそうか? おかしいとは思わないのか、彼女と君は何の関わりもない他人だ。なぜ彼女のような極悪なテロリストが見知らぬ他人の世話を甲斐甲斐しく見てやる。そこが肝だ。それが君の首に巻きつく新たな鎖となるからだ。君自身がそれを一番実感しているはず、違うか?』
そう言われるとその通りではあった。
私があのアパートを出ていかないのはそこに居たいからではない。自らの道義的責任がそれを許さないからだ。
貯まる一方の義理の累積に私が若干息苦しく感じているのも本当のことだ。
一方的に与え続けられる恩を少しでも返すために家事などを買って出ているが、実際こんなのはこれっぽっちも借りの返済になんかなっていない。
その心理を利用して彼女が私を縛っているというのなら、事実確かにそれは功を奏しているのかもしれない。
しかし彼女は最初にいつでも出て行くことを私に許可した。
それを断り無理に義理を通そうとしているのはあくまで私の意思によるもので、仮に私が彼女の言葉に頷けばその束縛の前提は容易く崩れることになる。
そうでなくとも義理人情で繋がれる鎖は互いの信頼があってのものだ。
会って数日程度の人間にそれを期待するなど、そんな脆い仕掛けで罠を張るほど彼女は考えの甘い人物だろうか。
だがよくよく思い出してみると、彼女が私に「出ていって良い」と言ったのは初めの一回のみだった。
むしろその後は私の体調を気にして、より家から出さないようにもしていた。
それはただの彼女のお節介から来るものだと私は考えていたが、その変化に何か理由があるとするならばこの人物の言い分を完全に否定することも出来なさそうだった。
『錠前サオリはいつでも君を放逐して然るべきだった。彼女とて追われる身、金銭的余裕もあるとは言えず同じく追われる君を隠して態々リスクを増やすこともない。身銭を切って何の得にもならない、情をかける相手でもない逃亡中の病人を介抱し、その後の面倒すら見てやるなど常識的に考えてあり得ない。彼女が罪滅ぼしや君への同情のためにそれをやっていると? 甘い考えだ。彼女が君を手元に置く理由は、それが彼女の仕事のうちだからだ。金を貰って君の軟禁を請け負っている。そして必要とされた時には君を依頼人に引き渡すだろう』
つまりこの人は、サオリさんの本当の目的は私を監視し売り渡すことだと言いたいらしい。
可能性の話だとしても余り聞き心地の良い話ではない。
始まりが偶然でも事の成り行きとしてはあり得ないこともない。しかしやはり私にはどうにも真実味の欠ける内容だった。
そもそも本当にそれを必要とする依頼人がいるのか。
もしいたとしてサオリさんを利用するという迂遠な手段を取っていることにも納得がいかない。
態々そんな手間も金も掛かるやり方でやる理由は?
捕まえたいならすぐに捕まえればいいのに、私の居場所を捕捉しておきながらそれをしないのはどういう理由が?
与えられた仮説を端から否定せず尤もらしい推論に組み立てようと勝手な頭が考えを巡らしだすと、甲高いノイズ音が耳に障ってそれを阻害した。
『繰り返すが、私は君のファンであり、君を助けたいと思っている。このままボロ屋のカビた畳と一緒に朽ちていく君の姿も、どこぞの組織に売られバラされる君の姿も見たくない。君はここで終わるべき人間じゃない、私はそれを知っている。君の望みはヴァルキューレでしか叶えられないというが、本当にそうか? 今のヴァルキューレなどもはや骸に過ぎない。腐り落ちた骨や内臓の代わりに詰まっているのは、肥溜めに群がる蠅以上に汚らしい悪党共の欲望だ。ファンとして言うが、君の居るべき場所はそこじゃない。君の能力や考え方は権力の忠犬に成り下がった今のヴァルキューレには到底相応しくない。むしろ君の野望はもっと別の領域で叶えられるものだと私は思う』
随分なことを言うファンですね。
ファンなら在り方を押し付けずに素直に応援しなさいよ。
誰に何と言われようと私はヴァルキューレに夢を見たんです。
今のヴァルキューレが不甲斐ないのは本当かもしれませんが、だからと簡単に鞍替えできるほど私のヴァルキューレへの想いは軽くはなかった。
そのために覚悟して辞めてきたというのに、今更やっぱり別の組織に移りますじゃ格好もつかないし意味もないじゃないですか。
現実的には勿論そうすべきなんでしょうけど。
黙ったまま否定も肯定もしない私を見て、返事など最初から期待していなかったかのようにその人物はすぐに話を切り上げた。
『いずれにしろ、まだまだ君には見てもらわねばならない現実がある。ひとまず、明日の正午にそのメモに記した場所へ行け。錠前サオリにはバレるな。来るときは必ず一人で来い』
言い終えるや否や私の足元に一枚のメモ用紙が落ちた。簡単な地図と地名がそこには書かれてあった。
それと間を開けずに自動ドアの開く音がして、足音も立てないでその気配は私から離れていく。
私は少しだけ顔を傾け横目にその人物の姿を捉えようとしたが、輪郭を覆い隠すように被ったパーカーからちらりと覗いて見えたのは僅かにひらめいた黒いスカートの裾だけだった。
不審者から解放された安堵で私はカゴを両手で抱えながら床にへたり込んだ。
心中では気丈に振る舞っていたが実際はかなり怖かった。
相手が私のファンを名乗る意味不明な人物だからまだ良かったものの、これがマフィアや警察内部からの刺客だったら私の体はもうとっくにここにはなかっただろう。
きっと見知らぬ場所で転がされ、山埋めコースか海コンクリコースを選ばされたに違いない。
上手く隠れられているつもりでしたが、その気になっていた私の姿はきっとあちらからすればお笑いだったでしょう。
ふ、ふへへ、膝も笑っておられる。
彼の人物が言うように、サオリさんの存在は確かに私にとって都合が良すぎる気がしないでもなかった。
改めて第三者視点から考えると不自然と感じるのも当然かもしれない。
最悪の想定はするべきですか。それくらいはして当たり前でしたね、本来ならば。
思い返せば少々私は無条件にサオリさんを信じすぎていた、きっと熱に浮かされてたんでしょう。
よほどあの時感じた肌の温もりに安心していたんですかね。
少なくともこうして接触してくる人間が出て来たということは、サオリさんのことにしろヴァルキューレへの対策にしろ現状維持ではまずい。
ずっと棚上げにしていたこの先の展望というやつについても、早い所見当をつけてやらないといけない。
「取り敢えずこのメモに記された場所に行けば、何か分かるんでしょうか」
何を見せられるのか怖い気もしますけど、無視したらもっと怖い目に合いそうです。
行かないという選択肢はない。
私は足元のメモ用紙を拾い乱雑にジャージのポケットに突っ込んで、サオリさんが待つボロ屋のアパートへの帰路に着いた。