公安局の石つぶて 作:もずくスープ
『ところで最近はどこも不景気だな。かつてはここも軽工業で栄えた町だったんだが、オートメーションと巨大工場の台頭で瞬く間に
やけに感慨深いような調子の声を出して彼女は話題を突然変えた。
は? 急に何ですか。
『いつの世も、産業の発展は旧世代と新世代という対立構造を生むものだ。いずれも勝者はその片方だが、しかし彼らの勝利に必要なのは巧妙な戦略を打ち立てることではなく業界を支配するシステムに擁立されることだ。その本質を見据えた上で勝負に臨む者の多寡こそが勝敗の行方を決めるのだよコマくん』
誰がコマくんですか。親しげに呼ばないでください。この変態が。
というか、え? これ続くの?
警察の不正問題からいきなり産業物語に話題転換するんですか?
話の方向性違いすぎるでしょう、どこのクソドキュメンタリー番組ですか。
私は今あなたに滅多滅多に心を侵され情緒がぐちゃぐちゃな状態なんですけど。
何なら今すぐにでも目の前のガラスをぶち破ってフライハイしたいくらいの精神状態なんですけど。
そんな極限状態の中にある私を放ったらかしに「ファンXの気まぐれ社会派雑談」などというクソプログラムを勝手に始めるつもりかきさま。
冗談じゃないぞ。
私はキリキリと痛む側頭部を押さえながら呆れ混じりに彼女に訴えた。
「急になに、何なんですか。脈絡がなさすぎます。D.U.産業物語なんて今はどうでもいいですよ。無駄話なら他所でしてください、馴れ馴れしく呼ばないでください、ついでに私をお家に帰してください」
『無駄話ではないのだよコマくん。ここにおけるシステムというのを組み立てたのが、他ならぬ彼女たちヴァルキューレなのさ』
私の訴えを全く無視して彼女はそう言った。
しかしそんなことを言われてもにわかには信じがたい。
警察と町工場の盛衰に一体何の関係があるというんだ。
「ヴァルキューレが産業構造に何か絡んでいると? 警察は銀行でも証券屋でもないんですよ。経済について全くの素人である警察に影響力なんか微塵もあるとは思えませんけど」
『君らしくもない浅慮だな。警察は仮にも法を執行する機関だぞ。例えば知能犯罪などの取り締まりが経済に影響しないわけがない。それに余地があろうとなかろうと強引にでも割り込むのがビジネスだろう。そこに知識の有無や素人プロの垣根は関係ないさ』
言われてみればそれは確かにそうだが、いちいち尤もらしい言葉で指摘してくるのがムカつくな。
頭痛も相まって更に私の中でイライラが積もっていく。
「私は頭が痛いんです。能書はいいから早いところ喋ること喋って私を解放してください」
『おや、体調不良か? 私はもっと君との推理ゲームを楽しみたいのだが、大事な君の身体が病魔に侵されるのはファンとして見過ごせない。錠前サオリの管理怠慢だな、私なら君をそのような不健康な状態には導かないというのに。全く歯痒いな、今すぐにでも君を迎えに行きたいよ』
「そういうのもいいです。というか主にあなたのせいです。そういう気色悪い発言ごとに私のHPがゴリゴリ削れていくんですよ。察しろこの駄変態」
『…………そうか』
なにちょっとしょんぼりしてるんですか。変態が一丁前に傷ついてんじゃねーですよ。
ここにきて初めて動揺を見せた彼女だったが一つ咳払いするとすぐに気を取り直して本題に戻った。
『「経済植民」、この言葉の意味を知っているか?』
「……自治区が行政主体としての主権を保ちながらも経済活動や資本形成は民間に頼らざるを得ない状況で、実質的には区内政策すら企業の影響下におかれている状態のこと、だったと思います」
『その通り。つまり内政が外的要因によって正常に機能していない状態のことだ。その行き着く先は破壊的改革か自治崩壊の二択。人道主義における権利とは普遍的かつ平等に与えられるものだが、それはあくまで理想で現実にはそぐわない。実際には権利とは戦いの中で勝ち取るしかない。しかし戦いの土俵にも立てない弱者にはその機会すら与えられることはなく、強者に食われ養分となるか従順な奴隷として搾取され続けるのみ。ここにおける強者はカイザーを始めとする巨大資本のことで、弱者は中小規模の学園自治区やここのように旧態依然とした過去の産業都市などだな』
そんな横暴な論理には到底賛同しかねますが、確かに一部ではそれが真実と言わざるをえないかもしれません。
企業同士の云々は分かりませんが、生徒の数がものを言う学園同士の関係においてはそういう支配者のセオリーがまかり通ることもある。
合併合同分離分割。その時々の情勢によって力のない学園は力のある学園の都合によって振り回され、その結果衛星学園化したり逆に対抗するための統一運動などが起こり一つの文化圏にとって不可逆的変化を余儀なくされるケースも少なくない。
『小さな学園自治区はD.U.近郊にも数多くある。歴史はあれど生徒数を減らしたり運営が厳しくなったりして近年閉鎖を余儀なくされた学園も少なくない。他校に吸収された場合を除き、そういった自治区は改めてD.U.に編成され、新たな民間の場として市民や企業によって公平に再利用されることになる。破綻したとはいえ元は一つの圏を築いていた地とあってその利用価値は様々、企業や不動産屋には垂涎の的だ。その土地を巡っては熾烈な陣取り合戦が起きるのは必然。だが実際には既にそこで経済活動を行う大手が幅を利かせ、傘下連盟を張り巡らせその市場管理をほとんど一手に担うことが通例化している。結果今のD.U.には複数の企業都市が形成されることとなった。中堅や新鋭たちはその様子を歯痒く思いながらも何もできない。さて巨大資本には都合の良いその流れは、あるいは都合が良過ぎて予定調和のようでもあるな。勿論偶然などではない、彼らにとってそれは用意周到に計画された開発行為に過ぎない』
「待ってください、まさか」
『そうだ。その計画の一端はヴァルキューレが率先して担っている。具体的には計画の前段階における土地権利者の排斥活動などだ。市民への嫌がらせ、営業の妨害、それこそ反社会的な組織を雇って治安を悪化させたり、公権力を濫用して違法に取り締まり圧力をかけたりとな。もちろん潰す相手は選んでいるが、やり方は選ばない。ケースによっては企業も連携して
私は開いた口が塞がらなかった。
嘘だ本当だの前に、警察を使ってそんな絵図を描こうという人間の存在が信じられなかった。
もう何から突っ込んで良いのか。
何か反論しないといけないとは思いつつも具体的な言葉は一つも浮かんでこない。
ギアが外れてひたすらに空転するだけの私の頭の中を置き去りにして、なおも彼女は続けた。
『学園自治区に限らず、中小規模の商工業地帯でもやり方は同じだ。ここは軽工業が主力の町だったが近年はその業績も悪化し彼らにとっては手を入れやすくなった。時代遅れの閉じた旧社会的コミュニティを破壊し新たなフロンティアとすべく、企業の依頼により警察が手を入れた結果見事なまでのゴーストタウンとなった。あとはスクラップアンドビルドするだけで一つの企業都市が出来上がる。ここを買ったのは確か大手食品メーカーの米印食品だったか。元々地理条件には恵まれた立地だから経済的な利用価値も高い。オーナー連中から巻き上げた土地の権利書は彼らへの大事な商品として署の引き出しの中で厳重に管理されている。ついでに言うなら、この方法は大量の失業者や中退者を生みながらの企業主導の都市開発となるため当然ジェントリフィケーションは加速する。浮浪者は増え行き場を失った人々は反社会的組織に流れる。皮肉にもそういった流れ者たちはカイザーのような大手企業や警察に小銭で使われまた他の地区を潰す計画の一端を担うことにもなるのだが、まあそれは余談だな』
軽々とそんなことを言ってのけた彼女の神経を私は疑った。
警察が市民を攻撃して彼らの生活圏を奪っている?
その結果生活に困窮した人々が反社会組織を形成している?
それが警察の裏の顔だと? 世間を騙してそんな悪どい金儲けを企むのが警察の本当の姿だと?
『窓の外を見てみろ。噂をすれば、だな。まるで自分たちの縄張りであるかのように白昼堂々と商談と洒落込んでいる。制服すら脱いでいない、隠れる気も更々ないのだろうな』
彼女の言葉に促されるように半ば無意識的に窓の外に視線をやる。
広々とした道路の向こうには傘を携えた人物が二人見えた。
片方はヴァルキューレの生徒、もう片方の身綺麗なスーツを着込んだ人間と何事か話し込みながら歩いている。
手や脇の下に書類の束を携えて時折建物を差しながら、指で数字を作って首を振ったり頷いたりしている。
露骨過ぎるほどに露骨な仕草だ。しかしここにはそれを気に留めるような人間は私以外に存在しない。
しばらくの間立ち止まって話し合っていた彼らは話がまとまったのか笑顔で一つ握手をした後、脇に挟んでいた書類を各々の鞄の中に仕舞って来た道を引き返していった。
私は何を思うでもなく、呆然とその跡を眺め立ち尽くしていた。
気づけば頭は痛みから解放されていたが、代わりに胸にどす黒く重たいものがぶら下がっていた。
それは怒りや恨みといった攻撃的なものではなく、誤魔化しや言い訳といったどこまでも後ろめたい防衛本能のようなものだった。
「そんな、出鱈目な。お、汚職なんて次元の話じゃありませんよ。そんなの、そんなの」
辛うじて言葉を発した私に彼女は朗らかに笑って返した。
『はは、そうだな。職を汚すなんて大層な言い方はふさわしくない、元より汚れ切った職だ。表の顔は厳正なる公共の僕かもしれないが、裏の顔は徹底的に弱者を虐げ踏み潰す土地ブローカーみたいなものだ。ここ最近の話でもない、規模の大きさは違えど昔から似た様なことはやっていた』
昔からって、一体いつから?
私がヴァルキューレに入る前? 彼女たちの正義に憧れ入学を志望するようになったその前?
馬鹿げた話だとは思うが、まさかヴァルキューレという組織がキヴォトスの歴史にその存在を確立させる以前からだとでも言うつもりか?
何が何だか、生まれてこのかた培ってきた全ての常識を根底から疑わされるような衝撃が私を襲った。
ありえない。ありえるわけがない。
頭の中ではひたすらにそう繰り返しながらも、私の望みとは裏腹に一度植え付けられた疑心の種は止めどなく成長していく。
しかし私はその疑問の苗に上から蓋をし、なけなしの気力を振り絞って彼女に反論した。
「だ、だとしても! あなたのその与太話が仮に真実だったとしても、それだけでヴァルキューレの正義が嘘になるわけじゃない! 裏でコソコソと企んでいる人たちは知りませんが現場の警官は市民のために身を粉にして職務を全うしているんです! 寝る間もないほどの激務に毎日身を置いているんですよ!? そんな邪な考えを持ってやれる仕事じゃない!! あなたには茶番に思えるかもしれませんが本人たちにとっては崇高な理念がちゃんと存在している!! そうして犯罪者と戦ってきた先輩たちの背中を私は知っています!!」
『たとえばそれは君が仰ぎ見たかつての尾刃カンナのような、か? 強く美しく義に忠実な清廉たる正義の理想が、責任と妥協の泥濘にその身を堕としたとしても偽りのないその本質が、彼女という光の下で正義に邁進した自らの過去こそがその理想に
「良い加減にしてくださいッ!!」
私は遂に耐えかねてヒステリックに彼女へと感情をぶちまけた。
「あなたは何なんですか! そうやって好き勝手に他人の事情を穿って、全て理解したような態度で批判して! 本人たちでもないのになぜそんなことを言い切れるんですか! ならっ、ならあなたはそんなに立派な人間なんですか!?」
喉の奥から絞り出した言葉はほとんど相手を否定するだけの、拙い反駁だった。
信じたくない真実から目を背けて相手の不信にのみ槍先を向ける、苦し紛れの反撃にすぎなかった。
しかし私の根底にあるヴァルキューレへの信心を守るためには、たとえ不格好でもそのような不遜な物言いを許すわけにはいかなかった。
『批判などしないさ。この場において私はただの傍観者で、君のファンに過ぎない。ヴァルキューレに対して何か特別な思いを抱くことも直接行動に移すこともしない。ただ君のような素晴らしい人間が無為に朽ちていく世界が許せないというだけだ。嘘に塗れた体制の正義より君個人の正義を支持している。だからこうして真実を知る者として君に助言したいだけの、ただのファンの一人なんだよ』
「だから、それが何なんですか! 立場も能力もない無能一人を捕まえてそんな与太話を吹き込んで何が変わると言うんですか! 目的は? 動機は? それに何の意義が!? わたっ、私には理解できません! あなたの今行っていることこそ何の意味もないじゃないですか!」
『君は理解していないんじゃない。理解したくないだけだ。理想との乖離の中で無闇に自己価値を貶め、現実がそぐわないのは自分が不甲斐ないからと必死に納得しようとしているのと同じだ。残念ながら君の投げた想いは尾刃カンナには届いていない。おそらく他の公安局の人間にもな。それは君が無能だからか? いいや違う。元より君が求める正義などヴァルキューレには存在しないからだ。蟻に空を飛ぶことを強いるのは酷だろう。それは誰のせいでもない、現実がそうできているというだけの話なんだよ。しかし蟻には不可能でも君には可能なんだ。大義のために自らを卑小な石の一投に見立て、全てを擲ってみせた君だからこそな。君は良い加減諦めて自身の存在について価値があることを認めるべきだ。そして君が抱いていた崇高なるヴァルキューレ像は、実像とは似ても似つかない虚像だったと受け入れるべきだ。真実それは君の妄想の産物でしかない。ならばもう嘘偽りの偶像に理想を投影することはやめて、君は君の理想を実現できる世界へと臨むべきじゃないか?』
悪足掻きの様な私の稚拙な反撃は、あくまで第三者的立場を崩さない彼女には何のダメージもなかった。
それどころか、失敗に心挫かれるたびに幾度となく繰り返してきた私の誤魔化しの常套句の本質すらも彼女は看破してしまった。
本当の所私は自分が救いようのない無能だと本心から思い込んでいるわけではなかった。
掲げた理想とそれを為せるだけの力があるという自尊心がそれを許さない現実に阻まれた時、私は自尊心を犠牲にして理想を守っていただけだった。
無能だへっぽこだと言われ蔑まれようとも、それは私が足りないだけで理想の方が間違っているわけではないと。
私に能力さえあればきっとこの理想は理解され、先輩や公安局のみんな、カンナ局長、そしてヴァルキューレは私の考えを認めるに違いないはずだと。
故に私にとって本当に否定されたくなかったのはその理想の方だった。
そしてその理想の本意というは、彼女らにあの日叩きつけた宣誓文そのものだったのだ。
だからこそ私は警察官としての全てを代償にそれを彼女たちに投げたのだ。
そうまでして果たしてきた想いが初めから無意味だったなどと、そんな事実は到底私には受け入れ難かった。
「……それでも、ヴァルキューレに正義はある。あなたが知らないだけなんだ。警察官として市民のために捧げられる矜持が絶対にある。曲げても曲がらない道義が、正義が」
私は聞かない子供のようになおも彼女に言い返した。
都合の悪い真実などないと、私の信じるものに嘘はないのだと。
聞き苦しい私の我儘に、彼女は数秒黙って唸るようにその口を再び開いた。
『……ふむ、手強いな君は。ここに至って未だ君の警察への信仰心は死んでいないようだ。それはただの理想や願望によって支えられるものではない。君の根幹にある具体的な憧憬がそれを支えているのだろう。ならば心苦しいが、私はファンとして君のためにもそれを完全に奪ってやらなければならない。つまるところ君の望まない現実そのもの、その最たるものを突き付けなければ、な』
何を言うつもりなんだ。
やめてくれ。
これ以上私から奪わないでくれ。
そこに踏み入るのだけは、私にとっての聖域を侵すのだけは頼むからやめてくれ。
私に詰められたあの日の尾刃局長のように、私は彼女の言葉から耳を遠ざけようとした。
私は咄嗟に目の前の窓を開け放ち、彼女の声を物理的に排除しようと端末を持つ手を振り上げた。
しかしそれは既に遅かった。
本当にそれを守りたかったのなら彼女から話を聞く前に、せめてあと数秒早くそれをするべきだった。
それはもしかすると、彼女に何を言われても揺るがないという驕りを持った私への罰だったのかもしれない。
断罪の刃が下りるが如く、頭上の端末から彼女の言葉が私に降り注いだ。
『君の敬愛してやまない尾刃カンナが今どこで何をしているのか教えよう。彼女はまさに先ほど私が言ったようなことを、公務として子ウサギタウンで立派に遂行しようと走り回っているぞ。クライアントであるカイザーインダストリーから見返りに受け取った高価な銃を自慢気に振り回しながらな。見下げ果てた正義心だとは思わないか? これでもまだ君は彼女を正義の側の人間であると疑わないつもりか?』
決定的だった。
彼女の目論見通りに、そして私の予感通りに、彼女の放った言葉は私のなけなしの反抗心を根本からへし折った。
振り上げた腕は力を失いだらんと垂れ、手からこぼれた端末は乾いた音を立てて床に落ちた。
視界は暗く狭まり、開いた口からはか細い息だけが漏れる。
窓の外から風が吹き煽られた雨が窓枠を潜って私の頬を濡らすが、その温度感触すら感じられない。
自分が立っている場所も定かではなかった。
何も言わない私に端末の向こうの彼女は淡々と話しかける。
『君の決意が無意味だったとは私は思わない。その行動こそが君の理想を体現しているからな。しかしその理想が輝く場所は今のヴァルキューレにはない。泥で継ぎ接ぎされた穢れた人形のために、無理にその光を消耗させることはない。君自身のために、その光を使え』
彼女はそこで言葉を区切り、これで話は終わりだと告げた。
『その端末は便利だから持っておくといい。通信は高度に暗号化されてミレニアムの天才たちでもない限り追跡は出来ないようにしてある。通話も独立したネットを使用し他者からは探知が不可能なように改造した。君の役に立つだろう。……では近いうちに、また会おう』
煩わしかった無機質な音が途絶えて、数分、数十分。
長い時間、私はそこに立ち尽くしていた。
重たい首を上げ窓の外を見ると、いつの間にか雨は上がっていた。
あまねく空を覆っていた鈍色の重たい雲には所々亀裂が入り、その隙間を貫く光芒が午下の閑全としたD.U.の街に刺すように降り注いでいる。
濡れた街はきらきらと陽光を受けて輝いていた。
鳥たちは安心するかのように空高く飛んで歓喜の声を盛んに街に響かせる。
曇ったガラスの向こうに広がるその幽玄な風景を前に、しかしその何処にも私の心を置けるような場所はなかった。
窓枠ひとつ隔てた境界の内側にしか私の居場所はなかった。
薄汚れ荒れ果てたこの廃墟の中に押し込まれ、どうしようもなく破滅してしまったこの幻想の本当の在り方を、私は埃がこびりついた床の上に蹲りながらあてもなく探し続けた。
狭い六畳間の一室。
サオリさんのアパートに帰宅した私は電気もつけないまま部屋に横たわってカビ臭い畳の上に鼻をつけ目を閉じていた。
健康に悪そうな臭いを嗅ぎながら、瞼の裏にはいくつもの心像が浮かんでは消えていく。
端末に写し出された元同僚の顔、廃墟群の真ん中で握手する二人の人物、ヴァルキューレに置いてきた想いと夢、激しく糾弾しながらも何より憧れを向けた公安局の面々。
いつぞやの尾刃局長の凛とした力強い背中と、それとは真反対の縋り付くような弱々しい姿。
そのどれもが褪せた色となって、呼吸とともに静かに沈んでいく。
沈着した心の澱は薄く広がり、その上に浮上した感情は重たく穏やかに凪いでいる。
意識だって、あるのかないのか。
閉じた視界の中でそれらの沈んでいく心像以外に時の経過を感じさせるものは何もない。
暗闇の中で、ツンと目の奥を刺激する辛い臭いに堪えながら私はじっとその時を待っていた。
「ササネ、帰ったぞ。電気が点いていないが……寝ているのか?」
建て付けの悪い扉が開く音がして玄関の方から声がする。
サオリさんが帰ってきたようだった。
私がすでに寝てしまっていると判断したのか、彼女は部屋の電気をつけないまま畳の上に足を下ろした。
彼女は音を立てないように静かに私に忍び寄ると、畳に突っ伏した私をひっくり返し外気で冷えた手を私の額へ乗せた。
私はその行動と手の冷たさに驚いて思わず身じろぎを返してしまったが、彼女はそんな私をあやすように続けてさすりと私の頬や首を撫でた。
彼女に拾われたその日と同じく、ぶっきらぼうで粗野ながらも不思議と安心感を覚える手付きだった。
しばらく自分の手で私の熱を測っていた彼女だったが、ふと手をのけると立ち上がり、部屋の脇に畳まれていた布団をさっと敷いて軽く私を持ち上げその上に静かにのせた。
薄っぺらい煎餅布団を私の首のあたりまでしっかりと掛け、上着を脱いでからそれも布団の上から私に掛けた。
そのまましばしの間、私の頭の横で彼女の気配がじっと動かず私が不審に思っていると、彼女はおもむろに私の頭に触れた。
またもや驚いて反応しそうになるが、私はぐっとこらえて狸寝入りを続ける。
肩にはかからない程の長さの髪を梳くようにして彼女の細くて長い指がゆっくりと私の顔の横を上下に往復する。
私は目を閉じたまま彼女の手を受け入れ、彼女にされるがままに目を閉じていた。
次第に思考がとろんと蕩けていき無意識に「ままぁ」と呟きが漏れてしまったが、彼女はそれを弱った私の寝言と勘違いしたのか意外にも優しい返事が返ってきた。
「そうだ。今はただ、ゆっくり寝ていろ。お前の仕事は、今はそれだけだ」
普段の彼女からは想像もつかないほど、それは優しい声音だった。
ママだこれ。かなりママだよこれ。もはやママ以外のなにものでもないよ。
私は混乱した。
彼女が優しくないとは思わないがなぜそんな声を赤の他人である私に向けられるのか、私には不可解が尽きない。
親切心だけでここまで出来るものなのだろうか。
よもや本当に私のママになるつもりではなかろう。
いや、万に一つくらいはそれもあるかもわからんね。
だってこんなに優しくするのはママ以外にはママになりたい人しかありえない。
ママ願望もない人間がこんな母性溢れるママリティの高い行動を取れるはずがない。
その証明に私の心は既に彼女のことを50%ママであることを認めている。四捨五入すると100%ママだ。
ということはやはりサオリさんは私のママだった?
私のママは世界一ィィィィーーーッ! 私がまだオギャってる途中でしょうが! 同情するならチチをくれ!
普通に熱もあろう上に寝惚けかけているせいか巫山戯た私の別人格たちの暴走に歯止めが効かない。
お前ら黙れ! 静かにせい!
それでもさっきまで精神的に死にかけていた人間か貴様ら!
ちょっとばかしバブ味を感じたからと一斉に騒いで、情けないったらありゃしない!
とりあえず私はサオリさんのことを半分ママだと認めて、残り半分は不可解な謎のままとして消化できないでいた。
オギャる内心と解せない内心をひた隠して、私はしばらく狸寝入りを続けて彼女の気の済むまで撫でられていた。
それまで浅かった私の呼吸が次第に落ち着いていき、深く長いものへと変わると彼女は意外と簡単に私から離れた。
もうちょっと撫でてくれてもよかったですけど。別に寂しいとかは思ってませんけど。
ちょっとくしゃみとかしてみようかしら、なんて甘えたな小悪魔が私の中で頭をもたげてくるが必死に押さえつける。
サオリさんは朝から働いてきた後なのだから、彼女の方が私よりよっぽど休息が必要だ。
しばし無心になって布団の温もりを感じながら耳をそばだてていると、彼女は私が寝ているのとは反対側の壁側を陣取り寝る準備をしているのか布が擦れる音がする。
その音が落ち着いた数秒後に、やはり疲れていたのだろう、彼女はすぐに寝息を立て始めた。
サオリさんが寝入ってから数分が経って、私は横になった体を慎重に起こしてサオリさんの方をゆっくりと見た。
彼女は私に背を向けて寝ている。
薄いカーテンからだだ漏れた月の光がタオルケットに収まりきらなかった彼女のむき出しの白い肩を照らしていた。
私にはしっかり布団掛けておきながら、自分はそんな寒そうな格好で寝て。
あなたの方が風邪引いちゃうじゃないですか。
仮に明日私のほうが先に起きてこれ見てたら罪悪感ですごいことになりますよ。
本当にあなたは私をどうしたいんですか、全く。
私はすっくと立ち上がると、自分に掛けられていた布団と上着を持ち上げサオリさんにしっかり掛け返した。
恩と布団の掛けられ放しは性に合いません。
巷では「掛けられたら掛け返す、倍返しだ!」とか言うみたいですし、恩は返せなくともせめて布団は掛け返しちゃります。文句は受け付けませんので、ご勘弁を。
私はちゃぶ台の上のメモ用紙に簡単な書簡を残し、布団脇に畳まれ置かれていた私用のジャージに素早く腕を通す。
現在時刻を確認する。
安っぽいアナログ時計の針はまだ天辺を回っていない。
夜が明けるまではまだまだ時間があった。
残してきた想いの行方と、彼女たちの正体を確かめるためには十分な時間だ。
果たしてそれをやったとして、目的を遂げられる保証はない。
それどころか全くの無駄になる可能性のほうが遥かに高い。
正真正銘、ここが私最後の正念場となる。
ここで引いたら女が、いえ、私が廃るってもんです。
迷いを断ち切るために千切れるほどに両の頬を引っ張って腹を決める。
ちょっと引っ張りすぎて痛いほっぺたを押さえながら、私は寝ている様子のサオリさんに控えめの声量で、しかしはっきりとその言葉を彼女へと告げた。
「ありがとうございます、サオリさん。今まで良くしてもらって、本当に感謝しています。それと、ごめんなさい。あなたに受けた恩は返せるかどうか分かりません。でももしそれが可能な状況になったら、一番に返しに行きますので。どうかそれまで待っていただけると、助かります。重ねて、今まで本当にありがとうございました。不義理で申し訳ありませんがこれでお別れです」
私はその場に正座して深くお辞儀をする。
心からの感謝の念を込めた礼を数秒しっかり済ませると、決心が鈍ってしまう前に私はサオリさんのアパートから勢いよく飛び出した。
アパートの敷地を出る直前に誰かの声がした気がするが、後ろは振り返らない。
振り切れなかった過去に決着を付けるためにも、ここで後ろを振り返るわけにはいかなかった。
今は考えるな前を向け。走るんだコマ!
RUN! KOMA! RUN!
夜の町は冷え込み、街灯の少ない路上は暗闇に飲まれきっていた。
寒さによるものだけではない身体の震えと、あまりにも暗い足元に踏み出す一歩が思わずもつれてしまいそうになる。
もちろん恐怖はある。しかし後悔はない。
たとえ答えが見つからなくとも、信じる道は自分で決める。
馬鹿で無能でぽんぽこぴーになる前の私の、最初の挟持がそれだと私は思い出したのだ。
そうして選んだ私の道が、どこに続いてどこで途切れてしまったのか。私はそれを知りにいかなければならない。
光の見えないその暗闇の中へと、無謀を承知で私はその身を投げたのだった。