公安局の石つぶて 作:もずくスープ
私は顔を下に伏せ、冷たい床に額を押し付けていた。
今の表情を目の前の彼女にほんの少したりとも見られたくなかった。
僅かな感情の発露すらも、自らのそれを今の彼女に読み取られたくなかった。
がらんどうの作り物である私の情動を、それを作り上げた張本人である彼女にあけすけに推し量られることが悔しかった。
それは「反骨」という私にとって最後の殻を守る術でもあったが、それすらも彼女によって与えられた外殻であるかもしれないことを思えば、どこまでも道化である自らの存在が寄る辺なく滑稽な渇いた無機物のようにも感じられてならなかった。
臓腑の冷たい熱に震え蹲る私を無視して、彼女は上から平坦に語り続ける。
「第3分校を使い裏で算盤を弾いていたのは私だ。お前を泳がすために公安局を妨害していたのも、廃墟でお前に語った公安局のリベートに関して尾刃カンナにその不正取引を促したのも」
彼女が打ち明けたその内容に今更驚くことはない。
私に接触したあの人物がなぜあんなにも詳しかったのか。簡単なことで、彼女本人がその計画者であり実行者だからだった。
マッチポンプでもない、単なる狂言回しだ。
私を陥れるためだけの狂言回し。
「お前もあそこであれを見て気づいただろう。なぜ私がコソ泥みたいな真似をしてまであれを回収していたか、その理由が分かるか?」
彼女は続けて、私に確かめるように問いかける。
私はもう片時たりとも口を開きたくなかった。
彼女の問いに押し黙り、拒否を示す。
だがその回答の放棄を彼女は私に許さなかった。
「私が聞いてるんだ。答えろ、コマ」
彼女は私の髪を掴んで無理やり面を上げさせた。
有無を言わさぬ鋭い眼光が私を貫き、その答えを迫る。
まるで当然の如く私にその義務があると詰るかのように。
私は苦虫を噛み潰すような思いで、出来るだけ感情を押し殺しながら淡々とそれに答えた。
「……防衛室や上層部が公安局の予算を中抜きしていたために公安局は財務状況が圧迫され、その不足分を補うために偽造領収書を作り活動財源として裏金作りを行っていた。私は単純にそう推測しました。ですが、それでは財務室がすぐに不審に気づくはずです。財務に関するヴァルキューレの書類は防衛室を介さず事務部から財務室へと直接郵送されますから。本来はその状況は筒抜けになるはず。だから、実際は少し違う方法をとった」
「どういう方法だ?」
「公安局の領収書を事務部から抜き取って隠蔽し、表面上公安局の申告は例年通りの量に見せかけ財務室の目を誤魔化した。しかし実態として公安局は裏金収入がなければ立ち行かない状況。貴女はその状況を利用して不正資金の一部隠れ蓑にした。つまり、抜き取った領収書分の請求額に裏取引で得た不正利益の一部をあてがい補填した。「存在しない領収書」の換金作業を貴女が行っていた、現金のみが彼女たちの手には渡り本当の出所など誰も知りはしない。そうして貴女の手によって首の皮一枚でつなげられていた公安局から、防衛室や上層部はそのつなげられた分の余裕からより多くの予算を着服する。要するに、資金を循環させる仕組みを施して
「正解。合格だよコマ。優秀な後輩を持てて私は嬉しいぞ」
彼女は本当に嬉しそうな表情で私の頭を撫でた。
その手を振り払う気力もなく、私はされるがまま彼女に撫でられた。
「ヴァルキューレの汚職癖は今に始まったことじゃない。防衛室の手癖が悪いのもな。それこそずっと昔から、一部で因習的に行われていたことだ。私の前任者たちは防衛室と企業に媚び諂いながら、言われるがまま細々とした裏稼業に手を染めていた。地上げや反社会勢力の買収、あの廃墟でお前に話して聞かせた内容さ。だが、私から言わせりゃ彼女たちは商売のやり方を知らない。そんな小遣い稼ぎに使うには余りに大きい権力だということを理解しなかった。それこそ製造、流通、通信、派遣とあらゆる利権にコネのある防衛室と組めば天下さえ取れる。私はそれを理解し、それを行える立場にいた。だから私は金の沙汰で政治していたケチくさい防衛室の連中を上手く誑かしてこのビジネスを動かすことにしたのさ。おかげで今やD.U.を牛耳る闇の複合企業、公にできない取引商談はなんでもウチにご相談あれって具合だ」
あの廃墟の時に感じたのと同じ胸糞の悪さが私の身体の内を襲ったが、私はすぐにどうでもよくなった。
今更何を感じても意味のないことだと思った。
結局は私も彼女に踊らされた人間の一人なのだから、その醜さ汚らしさに義憤を抱くことに徒労に似た諦念を覚えたのだ。
無駄に感情を見せて彼女を喜ばせるより、この置き場のない虚無感に耐える努力をすることの方が今の私にとって余程有意義だった。
「どいつもこいつも頭が悪いよな、コマ。少しでもまともに脳みそを使える人間ならこの程度の成功は朝食にスクランブルエッグを拵えるくらい簡単なことだ。だが多くの人間は保身や競争に頓着するばかりで足元に転がっている石の価値に目を向けようとしない。たとえそれの価値を理解したとしても、下らないプライドや臆病な防衛本能が邪魔してそれを拾ってみる勇気も持てない。その点お前は見所がある。卑小な自らの手で出来ることを最大限模索し、最も効果的な方法でそれをぶつけ、それを為し得るだけの胆力がある。そして何よりそれに見合うだけの思考力も。お前のそういうところが私は好きだ」
彼女にそんなふうに褒められても私はちっとも嬉しくなかった。
いつか私が淹れたお茶に対して気まぐれに吐いた「うまい」の一言の方がよっぽど嬉しかった。
喉まで出かかったそんな思いを、私は必死にお腹の奥へ押しとどめた。
言えば寂しさが溢れてしまいそうだったから。その寂しささえも彼女によって作られた感情だと分かっていたから。
極めて不本意な賛辞を私に送りながら、彼女はしかし一転して口調を変え今度は私を批判しだす。
「だがそんなお前に唯一足りなかったものがあるとすれば、それは『覚悟』だ。行動を起こすための安っぽい決断の覚悟ではない、自己存在の変容を受け入れる真なる覚悟。恐怖を葬る覚悟、理想に悖る覚悟、悪に阿る覚悟、他者を嬲る覚悟。お前はいつもその覚悟から逃げてきた。その繰り返しの結果がこの暗いコンテナの中だよ。お前は希望に逃げるべきじゃなかった。汚い現実と目を背けたい真実を受け入れ、背負い、その責任と向き合うべきだった。可能性に至った時点で私を追い詰め破滅させるべきだった。唯一お前にだけはそれが出来たんだよ、覚悟さえあればな」
その通りかもしれない。
私はいつも恐怖に身を委ね、理想に縋り、悪を軽蔑するばかりで、他者を傷付けることに怯えていた。
だから任務では常に失態ばかりをさらし、活躍する同僚たちに焦りと嫉妬を覚えながら何もせず、惨めな自分の足元を見て「でもいつかきっと」と淡い期待を抱き続けた。
そのどれか一つにでも変化を受け入れる努力をしていれば、そのどうしようもない自己嫌悪の泥濘から抜け出せることももしかしたらできたのかもしれなかった。
彼女のことを、先輩のことを見限りその罪を糾問することも、あるいは可能だったのかもしれない。
私は心の内ですら彼女の言葉に何一つ反論できなかった。
反論する気力も最早残ってはいなかったが。
打ちひしがれ黙りこくる私に彼女が満足そうに頷く。
これで「答え合わせ」は終わったのだろうか。
彼女はさてと呟き手を除けたかと思うと、すぐに手を戻して俯いていた私の顎を掴んで持ち上げた。
「ずっと……お前のその目が気に入らないと思ってた」
無気力に弛緩した私の左目の水晶体に、彼女の暗い瞳孔が映る。
その瞳はまるで深い孔が開いたように何の光も反射せず、吸い込まれてしまいそうなほど濃い闇に染まっていた。
私の意識は否応なく彼女の瞳の奥にあるその闇に向いた。
「世の中を知った気になって、全ての不条理が自分の肩にのしかかっているかのような目をする。『ああ、こんな世の中を生きる私は不幸です』ってな。……だが、だがそのくせお前は人を疑わない。その不幸の原因を他人に見出し取り除こうとする努力をしない。お前を踏み付け、お前をいたぶり、お前を利用してゴミのように捨てる人間がお前の隣人であるなどとは考えもしない。お前を虐げる人間に対して臆面もなく『でもこの人は良い人だ』なんて目を向ける。甘ったれたガキの目だ」
彼女の深い闇の中に、僅かな色がつく。
それは怒りの色だった。
なぜ彼女が怒りを覚えているのか、私には理解できなかった。
表面上は冷淡さを装いながらも、彼女は感情を確かに燻らせ私の目の奥を覗き返した。
「お前の憧れる『正義』ってやつの正体を教えてやる。弱者救済も悪人断罪も全部子供騙しの戯言さ。それらしい理屈をつけて都合良く全体を統制するための道具に過ぎない。イデオロギーの衝突が生む相克の副次的虚妄の産物とも違う。もっと明確な、社会的役割として正義は存在している」
何だと思う? 彼女が問う。
分からない。私は答えた。
かつての私なら「善意による人間秩序の保護」とでも答えたかもしれないが、今の私には本当にその答えが分からなかった。
途方に暮れる私の返答を待たず、彼女は言う。
「答えは支配と従属だ。集団を集団たらしめる共同幻想の維持に避けては通れない原形態だ。放っておけば混沌へと向かう集団を縛る非有の鎖ともなるそれは、法や規範と置き換えてもいい。集団はより強固な統率を成し遂げんと、規範となる共同幻想を必要とする。すなわち正義を。それは時に偏見であり、妄想であり、神話であり、権威だ。その正義を疑問視し集団を弱体化させる可能性を持つ内部の不穏分子や外敵の存在を強く否定し、それを排斥しようという自然発生的な作用こそが集団における悪の原理だ」
それはつまり、お前のような規範に従属しない者たちを。
彼女が舌で唇を湿らせながらそう嗤う。
「いついかなる場合においても正義が先に来て、悪は要請に応じその都度生産される補助概念ということになる。個の集団にとって殆ど絶対的とも言える正義に対して、悪は極めて相対的なものだ。では私たちにとっての悪とは何か。連邦という一個の巨大な集団に属する者たちにとっての"悪"とは。無論それは既存の支配構造に従属しない存在だ。支配を受け入れない存在だ。集団すなわちそれを支配する強者の正義に対して、従わない者共の悪。どうだ? お前が信じてやまない善悪なんて軟弱で不誠実な二元論で推し測るよりも、よっぽど単純明快な二項対立だろ? これが社会的な正義と悪の本質さ」
詭弁だ。暴論だ。
私はそう叫びたかったが、彼女の表情にはそれを許さない確信めいた思想があった。
ドロドロと腐って掻き混ぜられた理性の中に、確かな形を持って中心に据えられた重石のような泥まみれの真理がそこには存在していた。
喉の奥が引き攣ったように痙攣する。
胃の底がからからと乾く。
直に触れるには余りに苛烈な彼女の思想が、その灼熱で私の身を焦がしているかのようだった。
「治安の維持? 市民の安全? 馬鹿を言え。そんなおままごとに付き合ってられるか。ヴァルキューレの本当の役割は連邦生徒会というただ一つの正義に従わない反逆者共の駆除。権力ってのはそのためにあるもんだ。法律条例云々は口実に過ぎない。理不尽な暴力に虐げられる弱者共なんざ関係ない。現に私たちに従いさえすりゃどんな無法者も同じ"正義の僕"だ。従わなければ無実の弱者でも打ち倒すべき"悪の徒"だ。こんな立派な欺瞞が他にあるかよ」
欺瞞。それはまさしく欺瞞そのものだ。
ヴァルキューレが公然と謳う『正義』を根本から否定する道理だ。
私があの壇上で叫んだ宣誓を、公安局で叩き付けた表明を、手に入らないと分かっても縋り付いたその遥かなる理想を、全く無意味なものへと変えてしまう惨い真実だった。
それは何よりも私の心を痛めつけた。
「防衛室はそのことを他のどの組織よりもよく理解してる。権力が何のためにあるのか、ヴァルキューレが何のためにあるのかをな。現防衛室長はその正義と悪の扱い方をよく分かっている。だから彼女には人を動かす力がある。理解したか? お前の信じる『正義』なんざ最初からヴァルキューレには存在しないんだよ。未来永劫それが顕れることも決してない」
とどのつまり、私がヴァルキューレに抱いていた想いというのはどこまでもちぐはぐで片思いの憧憬だったのか。
その偶像にありもしないものを投影し、叶うことのない荒唐無稽なおとぎ話を私は無邪気に信じていたのか。
何が正義か。何が忠義か。
全てはその欺瞞のために飾られる精巧な贋作に過ぎなかった。
それはつまり彼女と出会う前から、幼心に『正義』を抱いたあの日から、私の骨身は既にその贋作へと溶け込んでしまっていたということだった。
私の心臓の根基は彼女に奪われたわけではなかった。
初めからそこには何もなかったのだ。
「そしてその正義ってのはな、こうやって振るうもんなんだよ」
彼女の右足がブレたと同時に、私のお腹に重たい衝撃が走る。
私はその場に蹲り、空っぽの胃をひっくり返して涎と胃液を地面に垂らした。
ひきつけを起こして伸び縮みする内臓が攪拌器のように私の内側をかき混ぜる。
続けざまに彼女は泥や埃に塗れた私の髪を乱暴に掴み上げ、上がった面に硬い拳を叩きつけた。
口の中に血の味が滲む。鼻をつんとつく嫌な臭いが鼻腔に充満した。
その痛みよりも、その熱よりも、彼女に殴られたことに私は激しい恐怖を覚えた。
彼女は念入りに私の希望を手折って、代わりに絶望を塗りたくったのだ。
「『従わない者に制裁を、従順な者には支配を』 誰も言わないのなら私が言ってやる。その簡潔なたった一文こそが、この混沌とした世界にとってただ一つ確からしい正義だ」
ぼろぼろになった私の服の裾を持ち上げ、血で汚れた私の口端を彼女が拭う。
荒れた髪を撫でつけ肩を持ち、だらりと力なく崩れ落ちそうな私の体を支える。
向き合う形で正面に膝をついた彼女が、その最後の"真実"を私に与える。
「警察内部の不正を調査中だった私を第3分校に呼び出し、建物ごと燃やして暗殺。影で暗躍しつつ内部からヴァルキューレを崩壊せしめんと活動していたスパイの三黒ササネは、近年稀に見る極悪人として今日の昼頃に一級危険人物として全国に指名手配される。これが『正義』を夢見た"悪"の代償だ」
そんな、そんなものが、わたしの。
そんなもののために、わたしは。
何がいけなかったのだろう。
どこから間違ったのだろう。
私の人生は、命は、心は、一体何のためにあったのだろう。
疑問が頭の中に溢れ返り思考を圧し潰す。
「そしてお前は私と共に闇に消え、これから変わっていくこの世界の礎として陰謀の根元に埋められる。それもこれも、お前に覚悟がなかったからだ。お前に力がなかったからだ」
こんなはずじゃなかった。
こんなことになるなんて思わなかった。
こんなもののために私は生きたわけじゃなかった。
已のところで保っていたそれがぷつりと切れた。
空洞に成り果てていたはずの私の空の器から、熱が水滴となって零れ出す。
一度堰を切って流れ出したそれを、今の私に止める術はなかった。
「泣いてるのか? 可愛いな、私の人形は」
彼女が私の頬を優しく撫でる。
まるで本当に人形を触るみたいに丁寧な手つきだった。
いま私を打ち付けたばかりのその腕で、彼女は私を包み込み私を慰めた。
彼女が私の頬に顔を寄せ耳元で陶然と囁く。
「お前みたいな甘ったれには何度チャンスがあっても真の正義は成し得ない。正義のために悪を背負う覚悟がないお前のそれは、ただの子供の我儘だよ。これからは私の手の中でその幼稚な正義を大事に抱き締めながら、そうやってずっと可愛らしく泣いてろ」
乾いていたはずの体から涙が溢れて止まらない。止まってくれない。
泣いてもどうにもならないとわかっているのに。
誰が助けてくれるわけもないとわかっているのに。
からっぽの器はその空虚さに耐えきれず意味のない嗚咽を垂れ流していた。
彼女は服が濡れるのも厭わず私の頭を肩に置き、ただひたすらに優しく愛おしそうに私の身を抱いていた。
「ああ、そうだコマ。一つだけ私の予想外のところでお前が役に立ったことがあるから教えてやろう。尾刃カンナだ。お前のおかげであいつは簡単にこっち側に落ちてきた。ちゃちな裏金工作なんか比じゃない巨額リベートの実行そして指示役として、彼女はしっかり我々と同じ正義を果たしてくれてるよ」
尾刃局長。
あの人は、あの人だけが、本当に私を必要としてくれる最後の人だった。
それがたとえ仮初の『私』でも、私があの人に見た光をあの人も私に見てくれていた。
それを、他ならぬ私が奪ってしまった。
ごめんなさい。わたしは、あなたを。
「警察を代表して礼を言わせてくれ、三黒ササネ。尾刃カンナを正義に導いてくれてありがとう」
私を抱きしめ背中を撫でる彼女の手が、哀しみに暮れる私の身体を凍てつかす。
寒い、寒い、寒い。
全てを捨てて飛び出してきた今の私に、凍えるその身を温めてくれる存在などいない。
先輩も、尾刃局長も、サオリさんも。
彼女たちの温もりと絶望的に隔たった孤独な崖の下で、私はただその寒さに凍えて震えることしかできなかった。
「ありがとうコマ。私のために踊ってくれて」
私は、私の温もりは、何処に 。
長い抱擁の後。
私は彼女に引っ張られて暗いコンテナの外に出た。
足取りは重いが、抵抗などはしなかった。
今の私にあるのが彼女だけだと分かったから。
彼女なしでは私はきっと生きられない。
それを理解して、私はむしろ晴れた気持ちでその手に従った。
親鳥についていく雛のように、私は引かれるまま彼女の後についていく。
外界に出るとまず、設置されたライトの明かりがぐっと眼孔の底を押さえつけた。
光の刺激に少し目が馴染んでそっと瞼を開けると、そこでは多くのヴァルキューレ生徒が慌ただしく走り回っていた。
こんなに大勢、いったいどこにいたのだろう。
どこか場違いにも、そんなふうに素直な感想を抱いた。
わたわたと動き回るそれがまるで雀が跳ね回っているかのようにも見えて、私は少しだけ面白さを感じた。
ぼんやりと彼女たちの動きを目で追っていると、その中の一人がこちらに気付いて駆け寄ってくる。
彼女はひとつ大仰に敬礼をしてきびきびと話し始めた。
「報告いたします! 第3分校での工作を終えた別班がただいま合流完了致しました! 分校は予定通り炎上し大手メディアも早速ヘリなどを飛ばして報道を始めたようです。輸送船舶の用意も完了し、いつでも作業に入れる状況です。現在任務は滞りなく進行しております!」
「ご苦労。逃げたテロリストの方はどうだ」
「はっ、目下捜索中ですがいかんせん敷地が広くまだ発見には至っておらず……申し訳ありません」
「まあいいさ、放っておけ。野犬の始末なんかよりもこれからの作業の方が大事だ。よし、全班作業に取り掛かりコンテナを船に移動させていけ。あの中にはキヴォトスの"恐怖"もあるからな、丁重に運べよ。うっかり壊したり吹っ飛ばしたりしたら計画が台無しだ。メディアの注目が第3分校の炎上に向いてる間に出航できるよう急げ。それと書類はまだ必要なものを除いて残りは全てまとめて燃やしておけ。あまり煙の出ないようにな」
「はっ! 承知いたしました! 二から四班はコンテナの移動を急げ! 五、六班はクレーンの操作と積み込み作業! 残りは引き続き警備の継続と書類の処分だ!」
恐らく夜明けも近い時間帯だというのに、彼女は元気一杯といった様子で「いそげー! サボってる暇はないぞー! そこ駄弁るな!」と勇ましく指示を飛ばしながら走り去って行った。
にわかに活気づいていく港の空気を肌で感じながら漫然と全体を見渡すと、燃え盛るコンテナが視界の端に映った。
埠頭場の端の方にまとめて寄せられたそれらは轟々と燃えて、白み始めている東の沿岸に揺らぎと赤色を与えていた。
「金とインクを食った書類はよく燃えるな。うっかり煙が港の外に流れないと良いんだが。まあ第3分校の方が派手に燃えているし、通報されても消火中と適当にシラを切ればいいか」
あの中には私のよすががあった。
希望にはならずとも過去に納得をつけるための仮の決着点が。
それが今ガソリンとオイルの臭いに塗れ鉄の中で無情にも燃えている。
その姿を見て私は改めて何もかもが無為だったことを悟った。
私の感傷など意にも介さず、傍らの彼女は満足げに息を吐き出して朗々と私に語り掛ける。
「これでマネーゲームは終了だ。中々どうして楽しかったせいで若干名残惜しくもあるが、ちゃんと計画も進めないといけないからな。私はお前と違って命令はちゃんと聞くし仕事も出来るイイ女だ。ここからは次のフェーズ。D.U.を取り巻く現状に変化を齎す壮大な計画の第一歩、お前にはその展開を進めるための鍵になってもらう。これにより今後のキヴォトスの勢力図は一気に様変わりするだろう。ゲヘナやトリニティ、ミレニアムといった自治区にでかい顔をさせる状況もこれまでだ。シャーレとかいうあのいけすかない救世主気取りの機関も、防衛室はあれを取り込むか解体するつもりでいるがまあそう上手くもいかないだろう。私としてはSRTあたりを使ってあれを揺さぶる算段でいたが、さてまだあの駒は上手に動いてくれるか怪しいところもあるからな。まあどうにかするさ」
不穏な言葉を次々と雑に放りながら彼女は私を港の端へと連れて行く。
私は黙ってそれに着いていく。
気が付けば目の前に壁があった。
いや、壁のように見えたそれは船の側面だった。
今まさにクレーンで貨物の積み込みが行われているコンテナ船だった。
「お前にはこれからあの船に乗ってもらい荷物と一緒にひとまずは防衛室の預かりとなる。ただ安心しろ、酷いことはされない。連中にとってお前は私の所有物であり大切な計画の要だからな。むしろ気に入られて歓待を受けることもあるかもしれない。お前をくれてやるつもりは更々ないが、少しくらいあそこで良い夢を見るのもいいだろう。公安局に対する最後の仕上げを終えたら私がお前を迎えに行く。それからは表舞台から消えた者同士、闇の中で死ぬまで一緒だ」
鼻歌を歌い出しそうなほど陽気な口調で、彼女は私を引っ張りながらタラップへと近づいていく。
抵抗という抵抗もなく、私はそれに従い呆然とコンクリートの地面を眺めながら足を動かした。
これで本当に終わりなのだろう。
鉄の板に足をのせながら漠然と思う。
長く続いた私の苦しみと救いへの足掻きは、この鉄の階段を登り切ることで終端に辿り着く。
これまで生きてきた全ての無意味がここに帰結するのだ。
私として、「コマ」として生きてきた人生に幕を下ろして光の下から永遠に去ることになる。
なんとも呆気なく下らない終わり方だ。
長距離マラソンの目的地が誰もいない草原の真ん中にあると知った時のような徒労と失望が私にとってのゴールテープだった。
そしてその細い布を切った先は、果てしのない無感と停滞の日々が待ち受けている。
彼女の手の中で道具として扱われるだけの日々。
自己も尊厳もない、無機物であることを認め支配を受け入れるだけの日々。
ただしそこには辛いことも苦しいこともない。
ただそこに在るだけの道が私には用意されている。
これもきっと私の犯した罪の代償なんだろう。
尾刃局長や、公安局のみんなや、自分自身へと犯した罪の。
その報いであり、そして同時に彼女なりの救いが、きっとこの未来なのだ。
私は全てをそう受け入れて、その未来へと向かうことに同意した。
人形としての私の新たな生の、その初めの一歩をいま踏み出し
「そうはさせない」
耳元に一陣の風が低く鳴った。
火薬の弾ける音と臭いがにわかに立ち上って、短い爆発音の後、足元の薄い鉄の地面が激しく揺れて傾いた。
咄嗟に手摺を掴もうと伸ばした手は空を切り、更に何かにぶつかられて体のバランスを崩す。
あっという間に私の足は確かな反発を失ってその身は勢いよく宙に投げ出された。
気付けば、私は腰のあたりを誰かに抱えられて空中を落下していた。
見開く左目の視界には白い点がちりばめられた藍色の画板が広がり、その端から端を斜めに裁断する濡烏色の線条の束が縷々と流れている。
長い一瞬の中で幽玄な美しさすら感じさせて揺れるそれが誰かの髪だということに思い至る前に、着地の衝撃に私は身を竦ませた。
私は抱えられたまま再びコンクリートの地面に降り立ち、脇の下を支えられながらゆっくりとそこに足を着けた。
突然のことに思考が追い付かず、緩慢と揺れる頭に真横上から低く落ち着いた声が掛けられる。
あのカビ臭いアパートで散々耳にした、最早馴染みすらあるそのイケメンボイスは、紛れもなく彼女のもので。
「済まない、遅くなった」
「……サオリ、さん…………?」
見上げた視界いっぱいに広がる彼女の顔は毅然としていて、自らの力に疑いなく、そしてあのいつものいまいち感情の読み取れない眼差しを私に向けていた。
「どう、して」
「決まっている。お前を助けに来た」