※アニメ放映前に書かれたものなのでアニメ版の内容は反映させてません。基本ゲーム版準拠です。
また、一部設定にミスや齟齬がある可能性が大いにあります。
特に学園内の施設(中でも文芸部の部室の所在)や位置関係、人間関係等は把握不可能な点が多く、補足のためにオリジナル要素が入っています。
※主人公(プレイヤー)役は面倒なので『主人公』という名前です、ほぼ出番はありません。女性キャラオンリーで本編が進みます
※元々旧2chにでも投稿しようかと思って書いたSSなので一般的な小説・SSとは違う形式になっています。ご留意ください。
特に人物の容姿の描写が極端に少ないです。
☆☆☆ 文芸部部室
夏目「うっ……眩しい……」
文芸部の部室から出た途端、廊下の窓から差し込む爽やかながら強烈な初夏の陽射しが私の目を眩ませた。
うす暗い部室でついつい小説を読み耽ってしまい、約三十分。体はすっかり暗闇に順応し、明るい外の世界を拒んでいる。
こんな暑さでもよその文化部は変わらず活動しているらしい。近くにある陶芸部の部室からも、
??「これ先輩が作られたんですか?」
??「えぇ、今回は焼きが上手くいったのよ。コゲも無いし、見た目も完璧でしょ?」
??「はい。ぜひ頂きたいぐらいです」
??「それじゃあこれを片付けたら、ね」
そんな陶芸トークが聞こえてきた。
恐らく陶芸部員の笹原野々花先輩と、彼女と仲良しである私の隣のクラスの椎名心実さんだろう。
夏目「はぁ、暑いしジメジメしてうっとうしいなぁ……。でも仕方ないか」
そんなため息を吐きながら図書室に向けて歩き出す。
手提げには本が五冊。試験期間の気分転換用に借りたものだ。恋愛小説を中心に読む私にとっては珍しくミステリのシリーズ物である。
図書委員である村上先輩からオススメしてもらったこのシリーズは、普段ミステリを読みなれない私にも読みやすくとても面白かった。
ミステリというと『殺人事件があって』、『探偵が推理して』、『犯人当てをする』というイメージが強い。だけどこの作品は人がほとんど死なず、日常を過ごす中で出会う小さな”謎”を解き明かすという一風変わったものだった。ミステリ界ではこういう作品群を『日常の謎』というジャンルでくくるらしい。
『日常の謎』、私はこういうものが好きだ。なぜなら、私たちが過ごすごく普通の日常にも何か驚くべき事実が隠されているような気がするから。
そう、今まさに私が歩いている廊下にも何か謎が隠されているのやも……。
夏目「……なんてね。まさかそんな事があるわけ」
そう一人ごちながら階段を下りた、その瞬間だった。
夏目「え……ちょ……。大丈夫? って主人公くんじゃない!?」
私の目に仰向けで倒れている男子生徒の姿が飛び込んできた。
それもよくよく見てみると、その男子生徒は見知った顔というおまけ付きである。
夏目「どうしよう、こういう時ってまず何をすれば……」
オロオロと周りを見渡し、近辺に誰もいない事に軽く絶望したあと、まずは脈を計ってみることにした。
大丈夫、少し早いが正常に動いている。まだ生きているということだ。さて、次は呼吸だけど……。
夏目「あれ? もしかして、呼吸がなかった場合って……人工呼吸?」
人工呼吸。そのイメージを脳に浮かべた途端、私の顔がストーブのように熱くなった。
夏目「主人公くんと……人工呼吸……」
緊張でかすかに震える手を主人公くんの顔の上に乗せる。何となく気恥ずかしさから顔、特に口からは目線をそらしながら。
夏目「呼吸は……有り、と」
ふぅ、と息をつく。安堵のため息が八割。残る二割は……考えないでおくことにする。
夏目「さて、どうしたものか……」
軽く顔を叩いて名前呼んでみるも、主人公くんは多少身じろぎをする程度で意識を取り戻す気配を見せない。さすがにこのままにしておけないが……。
夏目「……無理よね」
主人公くんの脇の下に手を差し入れて「えいっ」と力を入れてみるも、彼の体がほんの少し持ちあがったところで早くも私の上腕二頭筋が悲鳴を上げてしまった。
主人公くんは中肉中背で男子としては運びやすい方だろう。だが、女子でしかもインドア派筆頭の非力な私が一人で保健室まで運ぶのはあまりにも難易度が高すぎた。
休み休み引きずってなら行けなくもないだろうけど、さすがにそれは可哀そうだし。
夏目「むぅ~、一体どうすれば……」
すると、その場で頭を抱えていた私の耳に階上から女子の声が届いてきた。
???「うちの道場で他流試合することになったんで、中国武術対策にぜひスパーをお願いしたいんですが」
???「お安い御用アルね。なんならお得意の跳歩崩拳を披露するヨ!」
???「うわー面白そう。わたしも見に行ってもいいかい?」
あの声は確か……。
天の助けとばかりに、私は声のする方へ向かった。
☆☆☆ 保健室
夏目「ありがとう、助かったわ」
大山「いやーそれほどでもないですよ。お役に立てたなら幸いッス!」
李「三人がかりならお茶の子サイサイアル」
熊田「うちらにとっては怪我人を保健室に叩き込むのなんて日常茶飯事だしね」
あの時天の助けのごとく通りがかった三人は学内でも有名な武道家三人娘だった。
それぞれ、空手部1年の大山さん、中国拳法部2年で同じクラスの李さん、柔道部2年の熊田さん。
三人とも力持ちかつ人体の運び方を熟知していて、あっという間に主人公くんを保健室まで連れてきてくれた。
大山「それにしても外傷もなく気絶してるとは……。何があったんでしょうね」
李「発勁でも食らったアルか?」
熊田「いやいや、私は絞め技と見たな。着衣が乱れてないところから熟練者のスリーパーホールドに一票」
夏目「……一番可能性の高い体調不良という選択肢が欠けてない?」
佐伯「はいはい、バカ言ってないでどいてどいて」
ベッド横で閑談していた私達の中に保健委員2年の佐伯さんが割って入る。
李「不好意思。ごめんアルね」
大山「おっと、すみませんです先輩。それじゃあ、私たちは部活に戻らせてもらいます」
熊田「んじゃね。あ、どんな技しかけられたか分かったらメールかヒトコトで教えてー」
そう言うと三人はガヤガヤと保健室を出て行った。
佐伯「さて、看護を始めようか。……って言いたい所なんだけど」
夏目「けど?」
佐伯「気絶した原因が分からないんじゃどうしようもないなぁ。ねぇ夏目さん。主人公くんが病気してるとか聞いた?」
夏目「ううん、特には聞いてないわ」
佐伯「そっかぁ。外傷なし、顔がやや紅潮していて発汗・熱はあるけど平常の範疇、脈拍もやや早いけど正常。顕著な脱水症状も特に見られないし、これじゃ寝かしておくだけしかできないよ」
校医である神崎先生がいればもう少し詳しく分かったのだろうけれども、折悪く職員会議で席を外しているらしい。いざという時は呼んでくれと言われたらしいが、今の主人公くんの様子はそこまで緊急を要するとは思えない。
念のため一番可能性の高い熱中症の応急処置だけはしているけれど、それ以外は打つ手なし、と佐伯さんはベッドに眠る主人公君を見つめている。
鈴河「んむ。じゃあ急に眠くなってきて寝ちゃった、とかどうかにゃー?」
夏目「え、鈴河さんいたの?」
ふいに隣のベッドから声がしたかと思うと、カーテンの向こうから見知った顔が現れた。
水泳部2年の鈴河さんだ。
鈴河「部活前にちょっと昼寝をね~。今日は天気が良いからついついウトウトと……」
佐伯「天気の良し悪し関係無く毎日のように来てるじゃない……」
鈴河「にゃはははは」
正岡「あの、鈴河さんは私の話し相手をしに来てくれてるんです。そんなに責めないであげて……」
鈴河さんが座っているさらに向こうのベッドから、今度は正岡先輩まで現れた。
線の細さから見て取れる通りの病弱体質で、頻繁に保健室へ運び込まれる有名人だ。
佐伯「正岡先輩、めまいはもう大丈夫ですか?」
正岡「ええ、少し寝たらだいぶ良くなりました。それよりも、主人公くんが倒れたとか……」
主人公くんが寝ているベッドの反対、入口から最も遠い窓際のベッドでさえ私たちの会話は筒抜けだったらしい。
まぁ、声のボリュームが一般人よりも1~2メモリほど違う体育会系娘が三人もいたら必然かもしれないが。
佐伯「はい。でも原因がサッパリ掴めなくて」
鈴河「確かてんかんは持ってないよね? 薬飲んでる様子もなかったしにゃー」
正岡「じゃあ過労とか、でしょうか? 何の症状もないとなると」
鈴河「主人公くんはイベントごとに忙しく立ち回ってるからねぇ。変質者ぶちのめしたりー。色んな人に差し入れ配ったりー」
正岡「私のクラスメイトに聞いたところではプールの清掃などにも顔を出していたとか。感謝と同時に体を心配されていましたね……。『疲れてるみたいだから今度お菓子でも差し入れしてあげようかしら』なんて言われてました」
佐伯「あとは軽いものだと起立性低血圧とか。これなら寝てれば治るけど……」
鈴河「立ちくらみとか起こすやつかにゃー」
正岡「脳や循環器系は他の症状が出ないことも多いですからね……。病院で精密検査も視野に入れた方が良いかもしれません」
病弱なだけに様々な病気の情報に詳しい正岡先輩と、看護師志望の佐伯さん。さらに、意外な事に小さい頃は病弱だったらしく病気の知識がある鈴河さん。
さすがにこのメンバーだけあって、先ほどの格闘談義よりは格段に真相に近い(と思われる)議論が交わされている。
それにしても、探偵が推理しているかのようなこの状況。まるでミステリだ。
ミステリ……
夏目「あ、しまった」
そういえば私は元々図書室に本を返しに行く予定だったのだ。主人公くんはしばらく起きそうもないし、返しに行くなら今だろう。
夏目「佐伯さん。私ちょっと図書室まで本返しに行ってくるから、主人公くんをよろしくお願いします」
佐伯「了解。任せて~」
正岡「あ、はい。行ってらっしゃい」
鈴河「はいはいー。さて、私もそろそろ部活に出ようかにゃー」
保健室を出て今度こそ図書室に向かう。陽射しは変わらずジリジリと廊下を焼いていた。
☆☆☆ 図書室
観音開きの大きなガラス戸を開けると、むせるほどの紙とインクの匂いが香ってきた。
紙を擦る音のみが響く静謐な空間。そして返却カウンターにはいつもの顔。あぁ、やはりここは落ち着く。
夏目「返却お願いします」
村上「あ、夏目さん。どうでした、このシリーズ」
図書委員会の村上先輩がにこやかな笑顔で本の感想を聞く。というのも、このシリーズは村上先輩のオススメで借りた物だったのだ。いち本読みとして感想が聞きたくなる気持ちはよく分かる。
夏目「とても面白かったです。良い気分転換になりました。ただこの巻だけはちょっと文章が重かったですね」
シリーズの中の一冊が国文学の論文を小説にしたような内容だったのだ。しばらく重い文章は読みたくない。
村上「それじゃあ……このシリーズはどうですか? 同じくミステリですが、ライトノベルぐらい文章が軽くてかつ連作短編集なので読みやすいですよ」
そう言って村上先輩はワゴンに載った文庫本を差し出した。表紙には有名イラストレーターの絵柄で白衣の美少女が描かれている。
ペラペラと数ページめくってみると確かに文章は読みやすく、しかも各章ごとに扉絵までついていた。
村上「不可思議な病状を訴える患者を天才美少女ドクターが診察していく、有名医療ミステリです。とても面白いですよ。特に主人公との凸凹コンビが……」
そこまで口にした瞬間、バタンと勢いよく戸が開かれた。
望月「美少女!? 美少女がいるの!?」
目を輝かせながら物凄い勢いで図書室に飛び込んできたのは、『金髪の見目麗しい(しかし中身はそれと反比例して残念な)美人』と噂の有名人、望月先輩だった。
あらゆるイベントでカメラを構えながら美少女を追う姿は校内ではあまりに有名で、『体育祭で変質者(カメコ)が出たという一報が出た際、真っ先に疑われた』という不名誉な武勇伝を持っている。
望月「どこ? その美少女ってのはどこに……」
望月先輩は周囲をキョロキョロ見回しながら手に持ったカメラで村上先輩を激写するという実に器用な事をしていた。
望月「んむぅ~。文緒ちゃんはいつ撮っても絵になるわ~!」
村上「あの、望月さん……。図書室では静かにしてもらえますか。あと撮影は禁止です」
望月「あらごめんなさぁい。ついついテンションが高まっちゃって。で、美少女っていうのは」
村上先輩が先ほどの本をスッと差し出して、望月先輩に表紙を見せる。
望月「早とちりだったってわけねぇ、残念。でも……」
望月先輩は村上先輩を、そして私を見て、ニヤリと笑みをこぼす。
望月「うふふふふふ~。いいわねぇ~。文系美少女たちの瀟洒な語らい! 絵になるわ~。よし、レッツパーリィ!!」、
そう言うが早いか、目を爛々と輝かせた望月先輩はカメラを構えてにじり寄ってきた。全身を舐め回すようないやらしいその視線は、彼女が本当に同性なのかと疑いたくなるほどにおぞましい。
村上「あの、望月さん。先ほども言った通り図書室内での撮影は……」
夏目「わ、私写真とか苦手なんで。その……」
望月「大丈夫大丈夫。恥ずかしいのは最初だけよぉ~。すぐ病みつきにさせちゃうんだからぁ♪ 室内がダメなら一緒に外で情熱的なアバンチュールを……」
―――ガラッ
九重「お邪魔しま……あっ」
玉井「やっぱりここにいた。確保ー!」
望月「あぁっ! 見つかったぁ!」
間一髪とはまさにこの事だろうか。突如現れた先輩たちが、今にも私たちを手込めにしようと……違った、被写体にしようとしていた望月先輩の首根っこを掴み、引き離してくれたのだ。
九重「今日は夏の大会前に各部活の活動風景撮る予定でしょ? 観念して早く来なさい」
玉井先輩はゴルフ部、九重先輩は確かビリヤード同好会だったはずだ。珍しい部活に美人な先輩がいる、という事で校内では特に目立つ存在の仲良しコンビである。
望月「い~や~っ! 撮るの撮るのぉ~っ! 文系美少女撮るの~っ! 」
玉井「はぁ。あんまグズると新聞部部長(クライアント)にチクっちゃうよ?」
望月「げぇっ、それだけは止めて~。砂夜ちゃん、敵に回したらすんごく怖いんだからぁ」
砂夜、という名前を聞いて私にまで戦慄が走った。
神楽坂砂夜。新聞部部長である彼女は学園内の事なら知らない事は無いとまで言われていて、その情報(ネタ)を盾に学園を裏で支配しているとも言われている怪物だ。
私も以前、寄稿していた小説の〆切の件でその恐ろしいサディスト性を存分に味わっている。望月先輩をもってしてもあの女王は苦手なのか、と妙に納得できてしまった。
九重「はいはい。それじゃあ早く行くわよ」
玉井「まずゴルフ部よろしくね。で、運動部終わったら室内系の部活だから」
望月「ぐぬぬ……、仕方ない。ここは額の汗が光る爽やかスポーツウェア美少女を撮ることで満足するわ。アデュ~!」
二人に引きずられるような体勢で退室していく望月さんを見て、村上先輩がほぅ、と安堵のため息をもらした。
村上「嫌われるよりははるかに良いんですが……。さすがに常時あのテンションで迫られると疲れます」
夏目「……お疲れ様です」
聞いた話によると、こんなんでも村上先輩と望月先輩は親友同士なんだとか。どこでどう間違ってこの奇縁が生まれたのか、はなはだ疑問である。
村上「さて、話を戻しましょう。この本、どうです?」
夏目「そういえば本の話してましたね。それにしてもまたミステリ……ハマってるんですか?」
村上「えぇ。今ちょうど図書室でミステリフェアをやっていて、それに乗っかって色々読んでみたら……。気分はもう名探偵です」
そう言うと村上先輩ははにかんだような笑顔を浮かべた。淑やかに見える先輩がチラリと見せたそんな子供のような無邪気な笑顔はとても魅力的で……。ヤバい。今、望月先輩の気持ちが少しだけ理解できてしまった。
夏目「えっと……。あ! そうそう、ミステリと言えばですね。ついさっき不思議な事が……」
今感じた感情を誤魔化すかのように、私は違う話を切り出した。
村上「えっ、主人公君が!?」
夏目「えぇ、今保健室で寝てます」
村上「そうですか。今日は完全下校時間近くまで図書室の仕事を空けられないので、もし主人公君が起きたら代わりにお大事にと伝えてくれませんか」
夏目「分かりました。……ところで、最近ミステリにこってる先輩から見てどう見ます? この事件の真相」
そうアドバイスを求めてみる。
先ほど勧めてくれた本―――”医療”ミステリ―――の事もあるし、何より私よりもはるかにミステリ、及びその他の様々なジャンルの本を読破している先輩ならまた違った意見が聞けるだろうと期待してのことだ。
村上「ええっと、さすがにお話を聞いただけでは推理のしようが……」
それもそうだ。浅慮な自分を恥じる。
村上「ただ一つ、まず現場を詳しく調べるのが基本だと思うんです。病気にしろ事件や事故にしろ、何かしら証拠があるやもしれないですから」
夏目「そういや……。主人公くんを運ぶのに夢中で、現場はサッパリ調べてなかったです。アドバイス感謝します」
村上「いえいえ、少しでもお力になれば」
そう微笑む村上先輩はやはりとても魅力的なのだった。
☆☆☆ 本棟一階廊下
保健室に戻るにも時間がほとんど経ってない関係上、事件が進展してない可能性が高い。どうせ借りた本を部室まで置きに行かなくてはいけないし、それならば村上先輩のアドバイスに従って現場検証をしてみよう。
と、主人公くんが倒れていた現場に来てみたのはいいのだが……。
クロエ「本当にいたんですヨ!! サスガ日本ですネ! 今なら間に合うかも……追いかけましょう!!」
不知火「落ち着いて下さい。あれは何かの見間違いで……」
夢前「どちらにせよもう消えちゃいましたし~。今から追っても仕方ないですよ~」
黒と金の綺麗なコントラストが何やらじゃれあっていた。
うち二人は見覚えがある。一人は同じクラスで華道部の和美人不知火さん、そして彼女と仲良しで有名な園芸部1年の夢前さん。通りがかったのに知らぬふりするのも不義理なので、声をかけてみる事にした。
夏目「えっと、不知火さんと夢前さんと……」
クロエ「クロエ・ルメールですよぉ」
夏目「その、クロエ先輩。いったいどうしたんですか?」
不知火「うむ、ちょうど良かった。彼女の説得に参加してくれないか? このままでは校内を駆けずり回ることになってしまう」
夏目「説得? えっと、いったい何のこと?」
クロエ「見たんです! ワタシは確かに見たんですヨ! ニンジャを!」
夏目「……はぁ?」
三人の話をまとめると、こういうことだった。
日本文化好きのクロエ先輩が部員の不知火さんの案内で華道部を見学した折に、花に興味を持った。そこで不知火さんの親友で園芸部員の夢前さんを連れて、今度は園芸部を見学しようということになったらしい。華道部の使っている和室から特別教室棟に渡ってここを通過しようとしたちょうどその時、怪しい影が颯爽と飛び出しかと思うと、まっすぐ特別教室棟の方へ走り去っていったのだという。
夏目「で、その怪しい影って?」
不知火「一瞬のことで私もよくわからなかったのだが、なんというか……ひたすら黒かった。それしか思い出せん」
夢前「同じくです~。黒い人影としか……」
クロエ「あの黒い影はニンジャです! ワタシは詳しいんです!」
不知火「いやいや、現代日本にニンジャは実在しない。いいね?」
クロエ「アッ、ハイ」
夢前「だいたい、ニンジャが学園にきますか? おかしいと思いませんか? クロエさん」
イベントごとに変な扮装をした変質者が現れるこの学園で何を言っているのか、というツッコミはさておき。頼まれたからには説得に付き合おう。
夏目「クロエ先輩。残念ながら、史実の忍者は黒装束じゃなくて柿色の服を着ていたんです。黒系統でもせいぜい紺色程度で……」
不知火「もしあれが忍者だとしても、それは誰かのコスプレだってことだな」
クロエ「そうなんデスか……。ううっ、残念……」
不知火「ま、まぁその……。今度美味しい和食を作ってくるから元気を出してください」
夢前「そうですね~。そろそろ夏野菜が取れる時期なので、五十鈴ちゃんと鍋しぎでも作ってきますよ~」
本気でしょげてるクロエ先輩と、それをフォローする二人組。そんな三人をよそに。私はその黒い影とやらが気になっていた。
まさか、主人公くんの気絶に関係が……?
夏目「不知火さん。私、その黒い影ちょっと追いかけてみるわ。もし変質者なら通報しないといけないし」
不知火「待て、一人で追うのは危険だろう。何なら私たちも」
夏目「ううん、部室に荷物置くついでにちょっと見回る程度だから。特別教室棟は部活動中の文化部が結構いるし、何かあっても叫べば大丈夫……だと思う」
不知火「そうか。じゃあすまないが、頼む。くれぐれも気をつけてな」
ええ、もちろん。と三人を置いて歩き出した。
☆☆☆ 特別教室棟一階
POP体でデカデカと『疲れたあなたに! 元気炭酸、好評発売中!』と書かれた自販機の立ち並ぶ渡り廊下を抜けてドアを開けると、特別教室棟特有の喧騒が耳に入った。
遠くに聞こえるは合唱部のコーラスと吹奏楽部のラッパ音、少し近い所からは軽音楽部。特に、軽音楽部の部室からは風町陽歌さんの歌声が響いている。彼女は確か軽音楽部内で『にゅーろん★くりぃむそふと』とかいうバンドを組んでいるんだっけか。
彼女の少しハスキーな歌声をBGMにしながら、廊下をキョロキョロ見回しながら歩いていく。そうして様々な特別教室を通り過ぎていくうち、一つの教室が目に留まった。廊下に面したガラス張りの壁、中には幾台ものPC。全生徒に開放されているPCルームだ。
ここのPCは一応インターネットにも繋がっているのだが、検閲ソフトだかなんだかが働いていてほとんどのサイトが見れない。もちろん、ゲームなどもインストールできないようになっている。よってこの部屋はこの時間帯、特に閑散としていた。
……はずなのだが。
甘利「きゃあっ! チャースピ決められたぁ! レールガンはやっぱり難しいですねぇ」
姫島「ふふふ、まだまだ湧き防止が甘いのだよ甘利くん」
掛井「高所落下ハンターで25点! 死んだスピの酸でダメージはさらに加速した。ひゃっはー!」
モニターには思いっきりゲーム、それもややグロテスクな画面。遊んでるのはゾンビオタク女子甘利さん、ゲームオタクできのこ系女子姫島さん、ちょっと言動がヤバいオタク系女子掛井さんの三人だ。
……学校で一体何してんだか。
中を覗き込むと、彼女らの他にも二人PCをいじっている。うち一人は同じクラスの女子だった。一人はパソコンの事なら何でも知ってるハッカーという噂の東雲さん、そして私と同じA組の化学部湯川さん。
夏目「少し、怪しい影について聞いてみるか」
特別親しいわけではないが、見知った顔である。PCルームの構造上怪しい影を目撃した可能性も高い。
―――ガチャリ
夏目「失礼します。ちょっと聞きたいことが……」
姫島「ん? おおう、そこにいるのは真尋さんじゃないか。フォークの補給でもしに来たのかね?」
掛井「ハス太くん! ハス太くんはどこに!?」
いつもの事だが、何を言っているのだろうこの菌類たちは。
東雲「夏目さん? 珍しいな、どうしたんだい?」
湯川「同じ文化部でもここで顔を合わせるのは初めてですな。何か御用ですか?」
夏目「えぇ、ちょっと聞きたいことがあって……。怪しい、黒い影を見ませんでした?」
「「「「「 ……は? 」」」」」
~ かくかくしかじか ~
姫島「おいおい、主人公のやつ気絶したのか。まさか栄養失調じゃないだろうな
掛井「栄養失調? 何か心当たりがおありで?」
姫島「昼飯の弁当からおかずのコロッケとウインナーをパクった」
夏目「……なんて極悪非道な」
姫島「仕方ないだろー。ここ数日キノコのバター炒めばかり食ってんだから」
掛井「相変わらずキノコ好きですね~」
姫島「それがさ、数日前に親が山菜取りに行ってキノコ大量に採ってきてなー。だってーのに採ってきた両親とも食わねーっつうんだよ」
掛井「それはそれは」
姫島「しかも某青いハリネズミ並に超絶足が速いキノコなもんで、まとめて調理して冷蔵庫にぶち込んで晩飯に弁当にと少しづつ消費してるってわけさ」
東雲「豪快な事すんなぁ、おい」
姫島「しかし、いくら好物でもこう毎日続くとさすがにキツい。ので、コロッケのお礼に主人公にも押し付……トレードしたのだ」
もうちょっと本音を隠す努力をしてほしい。
東雲「まぁそれだけで栄養失調になる事はないだろうから、別の原因だろうな」
掛井「もしかして、主人公君の事を狙うイケメン男子によって一服盛られて……。ふふふ、良いですねぇ。妄想が止まりません!」
甘利「主人公先輩……もしそのまま起きなかったら甘利がホルマリン漬けにしてコレクションしますからね。きゃっ♪」
湯川「ホルマリンは個人だと入手は難しいですぞ。化学部から少しくらいなら融通できますが」
夏目「……お願いだからまともな日本語で話してくれない?」
東雲「こいつらはいつもこんな感じだ。慣れることだね」
もういや、この人たち。
姫島「にしても黒い影? そんなコ○ンの犯人みたいな奴見てないぞー」
掛井「私たちはゲームに夢中でしたしね」
甘利「ひたすらゾンビを愛でてましたからー」
夏目「うん、まぁ期待はしてないわ」
まだ話が通じそうな東雲さんと湯川さんに視線を移すも、その二人も申し訳なさそうに目を伏せている。
東雲「んー。悪いけどボクも作業に夢中だったんだよね。それも、廊下に背を向けた状態で」
湯川「同じくです。我輩も廊下の黒い影とやらは見ておりませんなー」
夏目「そっか。残念だけど仕方ないわね、他を探してみるわ」
そのまま他の教室に行こうと思ったが、少し気になったことを聞いてみる。
夏目「あの。ここのPCってゲームとかできないやつよね?」
東雲「ん? あぁ、ボクが使うことになりそうな学校のPCは全てアカウント管理やフィルタリングにちょっとした細工がしてあるんだ。一部のPCには家で余ったグラボやメモリをこっそり増設してある。ま、それに関しては誰かさんの依頼なんだけどな」
さすが学園きってのハッカーはやることが違った。今度、せめてYouTubeぐらいは見れるように改造を頼んでみようか。
姫島「私たちがこうしてゲームできるのも頼れる友のおかげだな。……おっと、モロトフ発見」
掛井「おぉ、心の友よー、ボエー。あ、ハンティング誰かお願いします。私自信ないんで」
いつの間にか件の三人はゲームに戻っていた。しかし学校だというのにくつろぎすぎである。ゲームをしながら、片手にはクッキーまでつまんでいる有様だ。
夏目「あれ、そのクッキー……手作り?」
キーボードの傍らに置かれているクッキーは市販のものではないらしく、ビニール製の簡素なラッピングバッグに入っていた。
甘利「ゾンビでお菓子と言ったら個人的にはトゥインキー一択なんですけどねー。これも結構いけますよ、食べます?」
トゥインキー……あぁ、あの映画か。いや、それはともかく。
夏目「えと、このクッキーは甘利さんが?」
湯川「いえいえ、我輩が作ったものです。大量に作ったので皆さんにおすそ分けしていたのですよ」
東雲「意外だろー? 白衣にビン底丸メガネなんて恰好のくせして乙女な趣味持ってんだぜ?」
湯川「製菓は化学の一環ですからな。料理もそうですが、分量や手順を厳守した上で起こす化学変化、というのは化学実験以外の何物でもありませぬ」
なるほど、その言葉には一理ある。
湯川「今朝少し疲れ気味だというので主人公くんにも渡したのですよ。このクッキーはわずかに生薬なども混ぜておりますゆえ疲労回復効果もありますからな」
夏目「しょ、生薬!? それ……大丈夫なんですか?」
もしや、そのクッキーが倒れた原因ではないのだろうか。
……とも考えたが、冷静に考えてみればそれは違うだろう。なぜなら、
湯川「大丈夫? 安全性の事ですかな? それなら、ここで同じものを食べている皆さんが証人ですが」
甘利「普通の美味しいクッキーですよー」
東雲「うん、特に体調が悪くなったりとかはないな」
姫島「グリーンとレッドのハーブ入りクッキーと思って食べてるぞー」
湯川さんの言うとおり、この場にいる人間は全員元気そうだ。まぁ、いくら生薬入りとはいえクッキーを食べたぐらいで気絶なんてありえないだろうとは思っていたけれど。
夏目「そうよね。疑ってごめんなさい」
姫島「てっきり学園物ではお約束のジャイアンシチュークリエイターと勘違いした、と言うわけかー?」
夏目「じゃ、ジャイアン……? えぇ。大体そんなところです」
姫島「HAHAHA! そんなアニメみたいな奴現実にいるわけないぜー、なぁボブ!」
掛井「ですよねー! HAHAHA!! そんなの絶対ありえないぜーキース!」
東雲「またコアな漫画のネタを……」
ボブ? ダメだ、この人とはまともに会話が成立するとは思えない。
湯川「実は購買で季節もの入れ替えセールをやっていましてな。バレンタイン・ホワイトデーフェアの際に余った小麦粉やクッキー型やラッピングバッグが安くなっていたのです」
夏目「水野さん、また仕入れ量をミスったのね……」
購買部の女性職員の顔が思い浮かぶ。
姫島「あの人割とフィーリングで物仕入れるからな―。あの中国人留学生の手作り肉まんとか売り出したときはビックリしたぞー」
あぁ、そんなこともあったっけか。数量限定でやたら人気だったためにすぐ売り切れたとか。
夏目「さて、それじゃあ私は不審人物探しを再開します。お邪魔しました」
東雲「あいよー。そんじゃね」
湯川「はい。お達者でー」
甘利「さよならですよー」
姫島「おう。アリーヴェデルチ(さよならだ)。……で、掛井の、なんでさっきから押し黙ってるんだ」
掛井「いえ……さっきハンターがエリスに馬乗りになってるのを見て……その……下品なんですが……勃」
―――バタン
掛井さんの言葉を遮るように急いで廊下に出てドアを閉める。ダメだ。あの空間にこれ以上いると私こそ気絶してしまう。
ひとまず私は、怪しそうな他の部室を調べることにした。
☆☆☆ 特別教室棟二階 マンガ研究部 部室
一階に異常はなかったので、我が文芸部のある二階にまでやってきた。そして、私はいきなり当たりを引いたらしい。
夏目「物音……?」
ある部室の前を通り過ぎようとしたその時、ガサゴソという物音がしたのだ。
部活動時間中の部室で物音がすることに何故違和感が? と思われるかもしれない。
だが実はこの部屋―――マンガ研究部―――が今日は無人のはずだという事を、私は知っているのだ。
小野寺「今日は夏の祭典に備えて部員みんなで作戦会議があってねぇ、部員の家でお泊り合宿なんだ」
共に校内新聞の〆切の件で神楽坂先輩に弄ばれた、いわば戦友と言っていい小野寺先輩。
彼女と偶然部室前で鉢合わせした時にそんな会話を交わしていたのだ。
つまり、今マンガ研究部部室にいるのは不審者とみて違いない。
夏目「よし、開けるわよ……」
本の神様に申し訳ないと思いつつ、文庫本五冊を入れた手提げをブラックジャック代わりに構え、ドアノブに手をかける。
もちろん体勢はすぐにでも逃げ出せるようなへっぴり腰、すぐに叫べるように唾を飲み込んでノドも整えておく。
夏目「せーの!」
―――バターン
??「わぁっ! だ、誰?! この事はどうか内緒に……」
夏目「神妙にお縄を……って、つぐみ?」
春宮「なんだ、真尋か。良かったぁ……」
私の姿を見て胸を撫で下ろしている不審者(仮)は私の親友、春宮つぐみだった。
夏目「なんでこんな所につぐみがいるの。というか、部活は?」
彼女は陸上部のエースである。放課後はいつも練習漬けなので、こんな所で顔を合わせることなど今まで一度も無かった。
春宮「部活は自主練、走り込み終わって休憩取ってるとこ。で、ここ来た理由は……。あー、うん。真尋にならいっか」
そう言ってつぐみは後ろ手に隠していた一冊の本を差し出した。
夏目「『進化する恋King』?」
装丁を見るに、私もよく読んでいる有名レーベルから出ている少女マンガのようだ。
春宮「うん。これ版権関係で揉めたとかで絶版になった漫画なんだ。古本屋色々探したんだけどどこにも無くてさ、そしたらこの部室に置いてあるっていうじゃん?」
夏目「で、盗みに来たと」
春宮「んなわけないでしょーが!」
夏目「冗談よ。だって『この事はどうか内緒に……』なんていうもんだから」
春宮「それはまぁ……わかってるでしょ?」
夏目「うん。私も同じだからね」
体育会系のサッパリした性格とショートカットの髪型からボーイッシュな印象(ただしその豊満な胸部は除く)を受けるつぐみだが、実は少女マンガ、それも恋愛ものを愛読する少女趣味な一面を持っているのだ。
そして彼女はそのギャップを恥ずかしく思っているらしく、周囲にはひた隠しにしている。
かくいう私も同類で、可愛くない性格をしているくせに恋愛小説を読むのを、それどころか書くのを好んでいるというギャップを恥ずかしく思っているので、周囲には硬派な文学少女というキャラで通している。
夏目「それで、マンガを借りに来たわけだ」
春宮「そういうこと。もちろん、ちゃんと部員に許可は取ってあるよ」
そう言ってつぐみは部室の鍵をチャリ、と揺らしてみせた。
夏目「そっか。それじゃあ、私の探偵作業もまたふり出しに戻るわけね」
髪も着ているジャージも目の覚めるような青であるつぐみを見て『怪しい黒い影』と見る人はいないだろう。
では、『黒い影』はいったいどこへ向かったのだろうか?
春宮「探偵? 真尋、それどういうこと?」
夏目「実は……」
今日何度目かになる事情説明タイムだ。
夏目「……と、言うことがあったわけよ」
春宮「怪しい、黒い影?」
つぐみが訝しげな表情を浮かべる。
夏目「なんだか三人の見間違いな気がしてきたわ。そんな目立つ容姿をしてながら全然目撃情報が……」
春宮「私、それ見た」
夏目「無いってのも怪し……ってうそでしょ!?」
思わず声を荒げてしまった。
春宮「いや、それがね。マン研の部室に入る時、廊下の向こう側の女子トイレに入るのをチラっと見たんだ」
夏目「女子トイレ? で、つぐみはその正体は確かめなかったんだ」
春宮「だってその……。おば……変質者だったら怖いじゃない?」
目をそっぽに向け、子供が言いわけするかのような口ぶりでつぐみがつぶやく。
あぁそういえばこの子、おばけとか幽霊とか苦手なんだった。それを隠そうとして隠せてない辺りが彼女の可愛らしいところである。
夏目「よし、じゃあ確認しましょう。つぐみもついてきて」
春宮「それはいいけど……」
若干尻込みしているつぐみを連れて、廊下に戻る。さて、ようやっと犯人(仮)を追い詰めたわけだけど……。
夏目「えっと、あそこのトイレ?」
春宮「そうそう、人少ないから移動教室の時とか便利な……」
つぐみがそこまで言った時、指差した女子トイレからふらっと、その例の黒い影が現れた。
クロエさん達が言った通り完全に全身が真っ黒で、顔すら判別できない異常な姿だ。
夏目「っ、確保ーーー!!」
私が叫ぶと同時につぐみが無音のスタートダッシュを切っていた。
???「?……?!」
異常を察した不審者がワンテンポ遅れながら手近の階段へ逃げようとする。
つぐみもつぐみで、さすがに陸上部。その快足が10メートルはあった差をどんどん縮めていく。
春宮「よく見りゃおばけどころか完全に不審者じゃないか! 逃がすかこの~!」
不審者を追って階段へ。わずかに不審者の影が三階に見切れている。
―――だが、階段、それも上へと逃げたのは不審者最大の失策だった。
なぜなら……
春宮「よっ! とりゃぁっ!!」
瞬間。階段下で深く沈めたつぐみの体が、まるで弾丸のような勢いで解き放たれる。
十段以上ある階段を、つぐみはなんとわずか二歩で駆け上った。
何を隠そう、つぐみは陸上部とはいっても高跳びが専門。縦の跳躍なら学園内にほぼ敵はいないといっていい。
踊り場の壁を蹴って方向転換し、跳躍時のスピードそのままに今度は三段跳びの要領で細かく二段飛ばしジャンプで階段を刻むつぐみの姿は、それこそ忍者のようだった。
???「うわぁっ! 何その跳躍力!?」
とんでもない勢いで背に詰め寄られた不審者が思わず叫ぶ。
……あれ? この声、聞いた事あるような。
春宮「捕まえたぁっ!」
???「うぎゃっ!」
結局、三階階段からわずか数歩分進んだところで追いついたつぐみが不審者の腰にタックルをしかけ、瞬く間の逃走劇は幕を閉じた。
不審者に馬乗りになったつぐみが、正体を暴かんと背中のジッパーに手を伸ばす。
―――ちなみにその瞬間、私はというと
夏目「は、はやすぎ……。待って……ぜぇ……はぁ……」
二階階段に到達した時点で心肺機能がエンストを起こし、手すりにぐったりともたれかかっていたのだった。
あぁ、情けなや。
☆☆☆ 手芸部部室
優木「どうぞ、紅茶です」
レースのカーテン越しに差し込むキラキラした初夏の陽射しが輝く部室に、香り高いお茶とお菓子のバターの香りが充満する。
お茶を淹れてくれた大きなリボンの一年女子がまるで不思議の国のアリスの世界から飛び出してきたように可愛らしいメルヘンな外見な事も相まって、学校の一室のはずのこの空間がひどく幻想的に思えた。
戸村「サンキュー。いやぁ、全力で走ったからノド渇いたよー」
そう言ってカップを傾けるのはC組の戸村さん。コスプレが趣味で、界隈では有名人らしい。
夏目「ありがとうございます。……ん、おいしい」
春宮「んー。元気炭酸も良いけど紅茶も悪くないね」
優木「ふふふ。気に入っていただけて光栄です」
暖かく美味しい紅茶を一口含んだところで全員が一息つく。
そこで、私から切り出した。
夏目「で、何なんですか。あのタイツ」
言って、傍らのテーブルに綺麗に折りたたまれた真っ黒い全身タイツを指差す。
そう。言わずもがな、この黒い塊は先ほどまで戸村さんが着ていたものだ。
戸村「何って私の着てるものだよ? コスに決まってんじゃ~ん」
春宮「コスって……コスプレ? こんな真っ黒の? 何のキャラよ?」
戸村「ほら、コナ○の犯人役!」
夏目「ーーーッ! コホッ!」
危ない。危うく口の中の紅茶を吹き出すところだった。
姫島さんの表現、的中してたんじゃない。
戸村「最近セクシー系とかガーリー系のコスが続いたからね。ここで一発、ネタコスプレもやろうかとー」
時谷「……まったく。その一発ネタを作るためにどれだけ苦労したと思っているのだね」
バタンと音を立てて隣の準備室から出てきたのは、これまたフランス人形もかくやと思うほどの美少女だった。
時谷小瑠璃先輩。小柄で可憐な外見とそれにそぐわぬ大胆な性格をもつことで有名な、手芸部のエースだ。
手芸部がイベント時の衣装や小物関係を一手に引き受けている関係上、その部長である彼女の学内での発言力は相当な物で、生徒会長の天都かなた、新聞部部長の神楽坂砂夜、手芸部部長の時谷小瑠璃の三人によってこの学園は運営されているとも言われているほどだ。
優木「あ、部長の分も紅茶淹れ直しておきましたよ」
時谷「ありがとう苗。よしよし、マドレーヌも用意してあるな」
優木「えぇ。部長のために常にストックしてありますから」
時谷「……ん? このクッキーは何だ? 市販のものには見えないが」
優木「あ、それはさる先輩からの頂き物です。上手くできたのでおすそわけ、とか」
それを聞いた途端、時谷先輩の表情が凍った。
時谷「……何? 苗、もしやそれ、三年からもらったものじゃあるまいな?」
優木「いいえ、二年生ですよ? 化学部の湯川先輩ですが」
それを聞いて、いつの間にか後ずさりまでしていた時谷先輩がホッと顔をゆるませる。
時谷「それならよし。じゃあ頂こう」
そう言って席に着く。
時谷「さて、話は戻るが。戸村君、もうこういうのは勘弁してくれたまえよ? タイツ、それも全身となると作る方は苦労するんだ」
戸村「いやぁお世話になりました。こういう生地はプロじゃないと無理っすわー」
優木「生地の入手から難易度が高い上に、伸縮の向きとか糸の種類とか、扱いも凄く難しいんですよね。私もほとんど知らない生地なので、部長の作業を見て勉強させてもらいました」
和気藹々とした、そして余人は微塵も入る余地のない裁縫トークが繰り広げられている。
夏目「戸村さん、ずいぶん手芸部と仲が良いのね」
戸村「そりゃもう、win-winの関係ですから」
春宮「win-win?」
時谷「うむ。戸村君には色々と借りがあってね」
一呼吸おいて、時谷先輩が語りだす。
時谷「ほら、我が手芸部はイベントごとに衣装を拵えるだろう? 既存の型紙から起こして、そこから仮縫いしつつ様々なアレンジを加えるのだが、その際着せ替え人gy……こほん、マネキンになる人が必要なのだよ。なにぶん、手芸部のメンバーはモデル体型とはかけ離れた人材ばかりなのでね」
あぁ、確かに。先ほどからにこやかな笑みを浮かべている優木ちゃんはこの学園でも一番の低身長で、144㎝だと聞いたことがある。
当の部長はさすがにそれよりは高いが、それでも一般的な女子高生としてはかなり低い。150㎝届いていないぐらいの背丈しかないだろう。
その分、戸村さんは平均よりやや上のそこそこ高身長かつモデル体型。マネキンとしては丁度良いに違いない。
戸村「で、着せ替え人形になる代わりに私の衣装のチェックや手伝いもお願いしてるわけ」
なるほど。それでwin-winなのか。
時谷「三年にもモデルになりそうな人材はいることはいるのだが……。なかなか協力してくれる人間がいなくてな」
春宮「笹原先輩とかどうですか? 体型良いし凄い親切で優しい、学園の人気者じゃないですか。頼めばやってくれそうですけど」
時谷「う……うむ。確かに彼女はプロポーションも理想的だし、何より性格面も申し分ないのだが。ちょっと事情があってな……」
夏目「事情?」
時谷「私も部長として部員を守らなくてはいけないのでな。彼女をあまりこの部室に近づけたくないのだよ……」
部員を……守る……?
一体どういう意味なのだろう。ああ見えて、案外笹原先輩って凶暴だったり?
笹原先輩がハルクのように変身して部室の中で暴れまわる光景を想像してしまった。いやまさか、そんなわけはあるまい。
時谷「彼女はその……。控えめに言うと料理があまり得意ではなくてな。それを克服しようとチャレンジする姿勢は素晴らしいと思うのだが……。『見た目だけは』上手に出来たお菓子をお世話になった人に配るという事をしでかしてくれるのだよ。悪意がないのがまた厄介でな」
夏目「なるほど。今日みたいにお茶を飲んでる時に手製のお菓子を持ってこられると困る、というわけですね」
時谷「そういうことだ。いつもは主人公くんが実験だ……防波堤になってくれているのだがね」
優木「そ、そんなに凄いんですか?」
時谷「うむ……。あれは美味い不味いという尺ではなく、破壊力という単位で量った方が良い」
戸村「そ、それほどまでに……」
春宮「まさか、笹原先輩にそんな一面があったなんて……」
本当に意外だ。学園の人気者である笹原先輩がまさか料理下手だとは。
というか、主人公くんはまたそんな厄介ごとの処理係をかってでているのか。優しすぎる人だとつくづく思う。
時谷「笹原くんの他にも隣のB組には神楽坂や浅見などモデルに最適な人間が揃っているのだが……。誰も彼も部活で多忙ときた」
戸村「その点帰宅部の私はバイトの時間さえ合えばいつでも呼べるというわけ……ってしまった! バイトの時間!」
戸村さんにつられて黒板横の時計を見ると、そろそろ五時になる所だった。
春宮「おっと、私もそろそろ練習に戻らないと」
夏目「あ、それじゃあ私も失礼します」
さすがにこの流れで一人残るのは気が引ける。
時谷「うむ、君たちならいつでも来てくれて構わんよ。マネキンとして楽しませてもらうがね」
御冗談を。
つぐみならともかく、私になんかマネキンは務まるはずがない。
背も高くないし。
愛想も、目つきも悪いし。
猫背気味でスタイルだって悪いし。
……胸も薄いし。
『失礼します』を自己嫌悪のため息と同時に吐きながら、私はその部屋を後にした。
☆☆☆ 屋上
夏が近いせいか、午後五時を回っても夕日はまだほんのりとしか赤みを帯びていない。
テレビドラマや漫画では夕陽で真っ赤に染まった学校の屋上なんてのがドラマティックな舞台として出てくるが、残念ながら今日はそれに期待することはできなさそうだ。
さて、捜査が完全にふり出しに戻ってしまった私は、考えをまとめるために屋上にきた。
ここは私が図書室の次に好きな場所だ。執筆に詰まったりすると自然とここに足が向き、部活終了時間まで時間を過ごしてるなんてことも少なくない。
新鮮な空気、人気のなさ、そしていつも見るのとは少し視点の違う、俯瞰の街の景色。考え事をするには最高のロケーションなのだ。
夏目「メールは……進展無しか」
ついさっき佐伯さんに主人公くんの容態を聞いてみたのだが、帰ってきたのは変わらずという返信だった。
ただ、気絶しているというよりもただ眠っているような様子らしい。このまま放っておいても良さそうだという。
??「で、何の進展が無いのかしら?」
夏目「……ッ! か、神楽坂先輩! どうしてここに?」
『げぇっ』という声をギリギリで押し殺した自分を褒めてあげたい。
新聞部鬼の編集長、みんなのトラウマ、こと神楽坂先輩がいつの間にか私の背後、屋上入口に立っていたのだ。
しかし、放課後はほとんど部室で編集作業をしている人がなぜこんな場所に現れたのだろう。
ここが私のお気に入りの場所だということは既にバレているので、もしや私を探しに……とも思ったが、それは恐らく違う。校内新聞の原稿の〆切にはまだ余裕があるし、それぐらいしか私と神楽坂先輩には繋がりがないからだ。
となると、もしや主人公くんのことを嗅ぎ付けていて、記事にするために関係者を追っかけているとか?
神楽坂「あぁ、最初に言っておくと主人公くんの事は記事にしないから安心して。夏目さんに出くわしたのは偶然よ」
夏目「そ、そうですか。情報、早いですね」
この人は心眼でも持っているのだろうか。いや、持っているに違いない。
神楽坂「そんなに警戒しなくてもいいじゃない。これでも私は悩める女子高生よ? 悩みを抱えて屋上で一人黄昏たっておかしくはないわ」
……1mmたりとも微動だにしない涼やかな笑顔でそんな事を言われても、こっちは反応に困ります先輩。
夏目「悩み……ですか。珍しいですね」
悩んでいるという事をわざわざ表に出すなんて性格ではないはずだ。そもそも、この万能人間に悩みなんて存在しえるのかすら疑わしいのだけれど。
神楽坂「ええまぁ、ちょっと特殊な悩みなのよね」
そう言うと先輩はブレザーの内ポケットを探り、中の物を取り出した。
神楽坂「お菓子をもらったのだけれどもね。今日は虫歯が痛くて食べられないのよ。捨てるのも気が引けるし……困っていたの」
その手にあったのはどこかで見たようなビニール製のラッピングバッグに入ったクッキー。湯川さん謹製のものに違いない。
夏目「それなら私がもらいましょうか? 捨てるぐらいならその方が良いでしょう」
神楽坂「あら助かるわ。良かった、これで悩みが一つ無くなったわね」
そう言って先輩はつかつかと歩み寄り、私の両手を取ったかと思うとその手にしっかりと包み込むようにクッキーを握らせてきた。
夏目「え、ちょ……。先輩?!」
手をかぶせた状態のまま、先輩の端正な顔が近づく。絹糸のように美しいその髪から艶やかな香りがふわりと薫った。
まるで恋人同士が大事な話をするかのような距離とシチュエーションに心臓と脳がパニックを起こす。
神楽坂「実はね、夏目さん……」
夏目「は、はい!」
も、もしや先輩って実はソッチ系?!
しかし次の瞬間先輩の口から出たのは意外な言葉だった。
神楽坂「それ、湯川さんのじゃないの」
夏目「はい! ……え?」
思わず手の中のクッキーを見る。しかし、湯川さんのクッキーとの違いはわからない。
同じ柄のラッピングバッグだし、形も……これはまぁ一般的な丸型だから同じなのはありえるが。
もしこの場に両方あったとしたら取り違えてもおかしくないぐらい似ている。……そう言えば、湯川さんはこう言っていた。
―――湯川「実は購買で季節もの入れ替えセールをやっていましてな。バレンタイン・ホワイトデーフェアの際に余った小麦粉やクッキー型やラッピングバッグが安くなっていたのです」
なるほど、同じところで買って作ったものだから、ここまで似てしまったのか。
……待って。そもそも、なぜ先輩は私がそれを『湯川さんの』と誤解したことを知っているの?
神楽坂「それね、私のクラスメイトの笹原さんが作ったクッキーなのよ」
笹原先輩……?
―――時谷「彼女はその……。控えめに言うと料理があまり得意ではなくてな。
あぁ、ついさっき聞いた嫌な情報を思い出してしまった。
先輩が両手でしっかりクッキーを握らせたのは、要は茶目っ気のある『エンガチョ』だったのか。
神楽坂「『プール掃除を手伝ってくれた人へのお礼を作ったんだけど、余っちゃって』だそうよ。あぁ、もし食べるなら保健室か自宅をオススメするわ」
そう言うと、神楽坂先輩はきびすを返して屋上から去ろうとする。
だが、私にはその去り際のセリフに聞き逃せない言葉があった事に気づいてしまった。
―――正岡「私のクラスメイトに聞いたところではプールの清掃などにも顔を出していたとか」
―――正岡「『疲れてるみたいだから今度お菓子でも差し入れしてあげようかしら』なんて言われてました」
夏目「ちょ、ちょっと待ってください!」
神楽坂「何かしら? 言っておくけどクーリングオフは受け付けないわよ」
夏目「いやそれは……もう諦めます。それはそうとして……ひょっとして、先輩って正岡先輩と同じクラスですか?」
神楽坂「えぇそうよ。彼女、運が良いわね。クッキーを配りだした時に保健室で休んでいたなんて」
その瞬間、全ての線が一本につながった。
夏目「……先輩、もしかして全部知ってたんじゃ?」
神楽坂「何の事かしら? ふふふ」
今度こそ本当に神楽坂先輩は屋上から去って行った。
対して私は、わかってしまえば実に単純だった事件のてん末に屋上でただ一人脱力感で呆けていた。
つまるところ、主人公くんは笹原先輩の毒クッキーを湯川さんの薬クッキーと取り違え、食べてしまったのだ。
まったく。凝ったトリックも複雑な人間関係も探偵を危機に陥れるスペクタクルも何もない、日常の謎どころか単なる日常の話だったとは。一日中校内駆けずり回ってた自分がバカみたいだ。
さて、そんな間抜けな物語も終わったことだし。後は保健室で事情を説明しつつ主人公くんの回復を待つだけだ。
……いや、待って。何か一つ見落としをしているような……。
夏目「あぁっ!!!!」
その瞬間、私は全力のダッシュで屋上から『そこ』へと向かった。
☆☆☆ ???
私は、ただ暗い闇の底にいた。
一片の光すら射さない、深い漆黒の中にいた。
星のない宇宙のようなこの場所は普通なら恐怖しか感じないだろう。
でも私は、なぜかここに奇妙な安心感を覚えた。
そう、例えるなら母親の胎内で眠る胎児のような、そんな安心感だ。
直感でだけれど。私は確信していた。
ここは恐らく生命の根源。
全ての命が生まれ、そして帰っていくところなのだ、と。
どれくらいの時間がたったのだろう。
ぼうっと上を見上げていた私の目に、突然鮮やかな色彩が飛び込んできた。
花、だった。
白、ピンク、オレンジ、ブルー。
幼稚園児ほどの大きさなそれらが、がくの部分を下にして落下傘のようにひらりひらりと舞い降りてきている。
「綺麗……」
その光景はとても幻想的で、またどこか懐かしく感じる。
そうして舞い降りた花たちは、私の足元に着地したかと思うと奇妙な変態を起こした。
中央の部分が盛り上がり突出したことによって、まるでスカートを履いた人間のようになったのだ。
その花人間たちはおしべとめしべを器用に使い花弁でカーテシーを行ったかと思うと、その場でクルクルと踊り始めた。
白を中心にし、それを取り囲むようにオレンジ、ピンク、ブルーがそれぞれ同心円を描いて、そして入り混じりながら。
ヒラヒラ、ヒラヒラと。
その時になって思い出した。あぁ、この光景は見た事がある。
「ファンタジア……」
1940年に作られたディズニーのアニメ映画。
小さい時このアニメを見た私はこの世の物とは思えぬその美しさに心奪われたものだ。
もしかしたら、私の新体操に対する情熱は心の奥底に根付いたこの美しさへの憧憬から来ているのかもしれない。
今、まさに私はその夢の世界にいる。
「幸せ……」
無限の闇の底を揺蕩いながら、私はその夢幻の世界を楽しんでいた。
☆☆☆ 陶芸部部室前
夏目「ぜぇ……ぜぇ……。ま、間に合って……くれれば…………いいけど」
屋上から二階の陶芸部部室までという長い距離を走ってきたせいで、呼吸もままならない。
だが急がなくては。これ以上、犠牲者を増やしてはいけない!
屋上で思い出したのは、約一時間前の記憶。
そう、ちょうど事件が始まる前のこと。私が部室を出た直後だ。
―――「えぇ。今回は焼きが上手くいったのよ。コゲも無いし、見た目も完璧でしょ?」
笹原先輩のこの言葉は、最初は陶芸の事だと思っていた。だがしかし、事件のことを加味して考えると違ってくる。それは『焼き物』ではなく、『見た目だけは完璧なクッキー』の事だったのだ。
―――バターン!
夏目「失礼しますっ! 笹原先輩、少しお話が!」
ダッシュの勢いのまま、ノックも無しに陶芸部の戸を開け放つ。
笹原「椎名さん! 椎名さん! 返事して!」
あぁ、遅かったか。
部室に飛び込んだ私が見たのは顔を紅潮させて床に倒れこんでいる椎名さん、傍らに散らばったクッキー、そして椎名さんの顔色とは正反対に青い顔をしてパニックを起こしている笹原先輩だった。
夏目「間に合わなかった……。笹原先輩、あなたは大丈夫ですか?」
笹原「夏目さん?! どうしてここに? ……ええと、どう事情を話せばいいの?! まず治療? 病院? ほ、保険証はどこにしまってたかしら!?」
夏目「落ち着いて下さい、事情は全部わかってます。まずはどんな容態かチェックしないと」
椎名さんの横にかがみ込み、脈、呼吸に異常がない事をチェックする。二度目だからさすがにスムーズにいった。
夏目「椎名さん、意識はある?」
椎名「ん……っん……」
最悪一袋丸々食べたであろう主人公くんと違いあまり量を食べなかった事が幸いしたのか。椎名さんは主人公くんより軽い睡眠状態のような、”まだマシ”な状態で済んだらしい。
ほぼ意識がなかった主人公くんとは対照的にこっちの声に少し反応があるし、顔の表情も大分落ち着きリラックスした顔に変わっている。いわゆる半覚醒状態とかいうやつだろうか。
すぐに目覚めてくれれば保健室まで運ぶ手間がだいぶ省けるのだけれども……。
夏目「椎名さん、起きれる? 椎名さん!」
必死に名前を呼ぶ私の声が届いたのか、椎名さんは急ににへらとした笑顔を浮かべたかと思うと、言葉を発した。
椎名「ふぁ……」
夏目「ファ?」
椎名「ふぁんたじあぁ……ふふふ♪」
夏目「ちょ、椎名さん! 椎名さん!? ダメ! よく分からないけどそっちの世界に行ったらダメ! 帰ってきて!!」
アカーン! と、思わず心の中の宮川大輔が絶叫した。
椎名さんの精神は誰にも帰ってこれない混沌と狂気の渦に巻き込まれようとしている。
というかこのクッキー、もしかして大麻でも入ってるんじゃないの?!
椎名「しあわせぇ……えへへ」
夏目「だめー! 返事をして椎名さーん!!!」
脳内物質が絶頂になってしまったのか、椎名さんはついににやけ顔のまま白目をむいてしまった。
だらしなく開いた口からはよだれが一筋こぼれていく。
あぁ……学園のマドンナがなんてひどい事に。どうしよう、もはやこの状態では移動すらままならない。
と、
笹原「お待たせ! 椎名さん! すぐに助けるわ!」
そこに、いつの間にか部室を出ていた先輩が帰ってきた。
夏目「せ、先輩何してたんですか?! 早く椎名さんを運ばない……と……。何持ってるんですか、それ」
笹原「これがあれば椎名さんを助けられるはずよ!」
ドヤ顔の笹原先輩の手には、昨年設置されたばかりのピッカピカなAEDが握られていた。
☆☆☆ 夏目家
夏目「はぁ……。全く、今日は疲れた」
夕食を摂り終えた私は、疲れから思わずベッドに倒れ込む。
今日は本当に色々な事がありすぎた。学校中を歩き回り、二回も全力疾走し、主人公君の回復に付き合い、最終的に帰ったのは完全下校時刻。
文芸部は運動部と違って遅くまで残って練習という事が当然無いので、ここまで帰りが遅くなったのは初めての経験だった。
夏目「まぁ、結局大事には至らなかったから良かったけど」
椎名さんはあの後二十分ほどで目を覚まし、足取りがおぼつかないながらも自分の足で保健室に向かった。
保健室でちょうど職員会議から戻ってきた神崎先生の問診を受けたけれど、特に異常は発見できず。
それから間をおかずに意識が戻った主人公君も同じく問診で特に異常が発見できなかったため、両者ともに今日は自宅静養という事で揃って帰宅。
張本人がいる事もあって私としてもさすがに『笹原先輩の作ったクッキーが原因ですよ』とは言い辛く、黙って顛末を見守る形となった。
―――それにしても
夏目「クッキー一つで人間が昏倒するってどんだけよ」
思わず呟いてしまう。
漫画やアニメなどではよく『マズ飯を食べて倒れる』シーンがお約束として出てくるが、そんなの常識的にありえない。よっぽど体に有害な物質が入ってない限り、せいぜいその場で吐き戻して終わりだろう。
一体どう作ればただのクッキーにそんな攻撃力が備わるというのか。
……そういえば。
ベッドから立ち上がり、ハンガーにかけてある制服のポケットを探る。
夏目「……あった」
赤いリボンで括られたビニール製のラッピングバッグ。中には円形で狐色の物体。
そう、神楽坂先輩から手渡された笹原先輩のクッキーである。
夏目「……」
目を凝らして観察してみるも、当然異常など発見できない。普通によく出来た手作りクッキーだ。恐る恐る、まるで劇薬を扱う様な手つきで袋からクッキーを一つ摘みだし匂いを嗅いでみるも、当然匂いも特に異常はない。強いて言うなら、発酵バターでも使っているのか若干癖のある匂いがする程度だ。
味は……。
夏目「いやいや、ダメでしょそれは」
食べた人間が少なくとも二人倒れているような物をわざわざ口に入れるのは、さすがに自殺行為以外の何物でもない。
だが、何をどう間違えばクッキーが人を倒せるほどの物になるかへの興味は尽きない。好奇心は猫を殺すと言うが……。
夏目「でも、椎名さんと同じく少しくらいなら大丈夫……よね?」
もし椎名さんと同じく意識不明になったとしても、一時間もすれば目覚める可能性は高い。
夕食は食べ終わってるし、今日は宿題も無い。万が一そのまま翌朝まで寝てしまったとしても大きな問題は無いはずだ。
毒物でも入ってない限り、さすがに身体に影響が残る事はないだろう。
夏目「……」
覚悟を決め、震える手でクッキーを口元に持っていき、一口齧った。
―――サクッ モニュ
夏目「!?」
クッキーらしいサクリとした歯触りの後に、柔らかめの粘土を齧ったような何とも言えない食感が私を襲う。
夏目「これ、生焼け……」
表面こそ綺麗に狐色だが、中は完全に火が通ってない。
よくよく見てみると湯川さんのクッキーと比較して少々ぶ厚い。恐らくそのせいで火の通りが悪くなってしまったのだろう。
良く言えばしっとり、悪く言えばネットリとした絶妙に気持ち悪い感触が「お腹を壊しそう」という不安を生んで食欲を減退させる。
そして、肝心の味はというと『普通に不味い』の一言に尽きた。
砂糖の甘さ、バターの香ばしさ、小麦粉の風味。配合がおかしいのか生地が生焼けなためか、それら全てがチグハグに混ざり合い変に甘くて臭いモソモソした物質になってしまっている。
それだけではない。普通のクッキーに使われる食材の味とは別に、奇妙な風味が口いっぱいに広がったのだ。独特の甘みに加え、微かに感じる苦味の様な辛味の様な刺激性の奇妙な風味、そしてチーズの様な発酵物の風味。クッキーでは馴染みがないその味に私は首をひねった。
夏目「何かこの味、食べた事あるような……」
特にこの独特の甘さはどこか覚えがある。手に持っている半欠けのクッキーの香りを嗅ぎ、表面を少し舌でなぞり、うんうん唸りながら、脳の奥底に埋もれた味の記憶を掘り返す。だが、どれだけ考えてもなかなか思い当たらない。
そうこう考えて脳に血を送りすぎたせいなのか、顔が急に火照ってきた。心なしか足元もふわふわし始めた気がする。
夏目(えっ、もしかして何らかの毒素が回り始めた!?)
いつ意識を失ってもいいように大慌てでベッドに横になる。
(命に別状ありませんように! 命に別状ありませんように!)と神に祈りながら胸の前で手を組み目を瞑った。
夏目「……」
二十分は経っただろうか。あれだけ恐れた体調不良は結局起こる事がなく、私はベッドの上でむっくりと体を起こす。
顔の火照りなどの奇妙な感覚はとっくに消え失せている。あれは一体なんだったのだろう。やはり使われていた食材に関係があるのだろうか。
でもあの感覚、以前経験したような……?
夏目「あっ! 分かった!!」
体調不良の記憶からの推測と舌の記憶が合致し、思わず手を打ち鳴らした。そう言えばクッキーに混ぜると美味しいという話を聞いたことがある。
夏目「となると……なるほど。そういう事だったのね」
食材の謎を解いたのと同時に、もう一つの謎『クッキーの攻撃力』までもが氷解した。
あぁ、椎名さんが倒れたのはそういう理由だったのか。きっと彼女には合わなかったのだろう。あれ? となると……。
夏目「う~ん、”それだけ”だと主人公くんの症状があそこまで重かった理由がつかないのよねぇ」
食べた量、主人公くんの体質、両方の条件によっては可能性も無くはない。とはいえ、二時間以上完全に気絶するというのは少し奇妙だ。
主人公くんと幼馴染だという上条るいさんとは同じクラスなので何度か話した事があるのだが、主人公くんに関してそういう話は聞いたことが無い。もしかして、他に何か要因があるのだろうか?
今日、主人公くんを発見してから彼が覚醒するまでの経緯を思い返していく。
夏目「確か階段下で主人公くんを見つけて……武道部三人に運んでもらって……」
保健室、図書室、渡り廊下。その場所で出会った人や会話を思い出す。そうやって一つ一つ順を追っていくうちに、ある人物のある何気ない会話が引っかかった。
夏目「いや待って、まさかそんなわけ……」
大昔テレビだかネットの動画だかで得たある知識から最悪の想像が思い浮かぶ。
脳裏に浮かんだありえない想像に待ったをかけるも、言葉や状況を何度も思い返すとその可能性しか考えられない。
急いで部屋の隅にある本棚から図鑑を抜き出す。小学生の頃両親に買ってもらったその図鑑をパラパラとめくり、目当てのページを見つけた。その項目の内容を一行一行と読んでいくうちに、次第に顔面から血の気が引いていく。
夏目「ウソ……。これ、一歩間違えてたら命に関わってたじゃない!」
急いでスマホを取り出して、主人公くんのアドレスを開き……。
夏目「ってしまった、番号もメールアドレスも聞いてない! こうなったら主人公くんと同じクラスのつぐみを中継してメッセージを届けてもらうしか……」
そうして、私は急いで主人公くんに送る文面をスマホで打ち始めた。
☆☆☆ 読者への挑戦状
櫻井「どうもー。主要キャラなのに出番が無いので急遽ここに出張らされた放送部二年、櫻井明音でーす!」
櫻井「さて、『読者への挑戦状』という事で……。ミステリファンならお馴染み、そうでない方には『古畑任三郎が解決パート前に暗闇の中でやるアレ』と言えば通じるのではないでしょうか」
櫻井「さて、本編の核となる謎『主人公くんは何故気絶したか』に関してですが、ちょっとした雑学知識が必要なのでほんのりアンフェアな事をご留意下さい。知ってれば恐らく瞬殺な謎、だそうです」
櫻井「クッキーの破壊力の元となった『食材』が分かればおのずと焦点が絞れると思います。後は怪しそうな会話から推察できるそうで。先述した雑学知識がなくともこれで辿りつけるかもしれない、とのこと」
櫻井「もし辿れなかったとしてもあなたの推理力の問題ではなく作者の技量の問題の可能性もありますので、どうぞお気楽に推理をお楽しみ下さい」
櫻井「以上、読者への挑戦状(のような何か)でした。それでは続きをどうぞ」
☆☆☆ ???
どうしてそんな物を作ったのか、と問われればそれはもう『冗談のつもりだった』としか言いようがない。
ゲームや物語に出てくる万能薬『エリクサー』を作ってみたかったのだ。
そんな軽い気持ちで、私は禁断の調合に手を出してしまった。
その結果は見ての通り。
あぁ……なぜあたしはあんな馬鹿な事をしたのだろう……。
―――全てが終わった後の真犯人の供述より
☆☆☆ PCルーム入口前
件のクッキー事件の翌日の放課後。私、夏目真尋は『真犯人』を暴くためにこのPCルームまでやってきた。
暴く、と言っても別に鹿撃ち帽にケープを着て虫眼鏡かパイプを片手に推理を披露する、というわけでは断じてない。ただ単に私の推測を確定させるために話を聞くだけだ。
夏目「失礼しま……」
??「ヒャッハー!!! ファッキンビーッチ!!!!!」
夏目「え、え?! 何ごと!?」
入室した瞬間響いたとんでもなく大きな笑い声に驚いて、思わずたたらを踏んでしまう。
東雲「お、おい大丈夫か? 何か今日のお前いつにも増してヤベーぞ」
甘利「これはもしかしてあれですかねぇ、何年か前に話題になったゾンビになるという違法薬物!」
湯川「さすがにそれは無いかと思いますが……。確かにいつもよりタガが外れておりますな」
掛井「誰かエスナを使える方ー! はやくきて~はやくきて~」
昨日の面々が奇声の大本である人物を遠巻きにしていた。
奇声の大本、こと姫島さんはモニターに向かって不道徳なハンドサインを取りながら放送禁止用語を叫び大笑いしている。
正直近寄るのもはばかられるその狼藉っぷりに、どうしたものかと部屋の入り口で釘付けになってしまった。
湯川「おや、夏目殿。何か御用で?」
夏目「あ、こんにちわ。えっと、姫島さんに話があってきたんだけど……。一体どうなってるのこれ?」
そんな私に気付いて声をかけてきた湯川さんに、思わず率直な質問をぶつけてしまう。
掛井「いや、私たちも何が何やらなんですよ」
東雲「ゲームやってたら、何か唐突にハイになってこの有様だよ」
姫島「最高に『ハイ!』ってやつだぁーー!!! WRYYYYYY!!!」
東雲「てめーは黙ってろ」
未だにテンションが収まらない姫島さんがこっちにも絡んでくる。その顔は興奮のためか妙に紅潮していて……。
夏目「……あぁ、なるほど」
その様子を見た私はその理由に思い当たり、一連の事件における自分の推測が当たっていた事を確信した。
夏目「姫島さん、ついさっきまで何か食べたり飲んだりしました?」
甘利「えーと、確か甘利の持ってきたチョコを少しつまんでましたねぇ」
東雲「あと何か凄い物作って飲んでたな。エナジードリンクと栄養ドリンク混ぜて『これが私のエリクサーだ!』とかアホこいてた」
……ビンゴ。
夏目「悪いけど、彼女を保健室に連れていくのを手伝ってくれません? この状態で公共の場所に放置するのはちょっと問題だし」
湯川「それは一向に構いませぬが……。人の来ない場所なら化学室が空いてますぞ。ここから近いことですし、わざわざ保健室に連れていかなくともよろしいかと」
夏目「まぁ心配はないと思うけど万が一を考えて、ね。その辺りも保健室に着いたら話します」
東雲「ん、まぁそれは分かった。……しかし、だな」
姫島「おいぃ? なんだちみらのその目は。さては私を拉致して乱暴する気だな! エロ同人みたいに!」
東雲「なぁ姫島。ちょっと保健室まで来てほしいんだけど」
姫島「は? やだいやだい! あたしはもっとここでゲームするんだい!」
そう言ったかと思うと、姫島さんはまるでおもちゃを買ってもらえない子供の様に床に寝転んでジタバタと駄々をこねはじめた。
勢いでパタパタとスカートがめくれあがり、色々と大変な事になっている。他にPCルームの利用者が居なくて本当に良かった。
東雲「これ、どうやって連れてくよ」
夏目「うっ……」
こんな状態の姫島さんを無理やり連れてくのは色々と厳しい。主に、他人の視線的に。
甘利「うーん、クロロホルムで眠らせてとかどうですか?」
湯川「残念ながら、人一人を眠らすほどの量を吸入させるのは現実的ではありませんな。というか、その手の薬品は高校生が簡単に手に入れられる物ではありませぬ」
掛井「じゃああれですかね、クビの横をビシッ!とチョップして……」
東雲「いや、漫画じゃないんだからさ」
夏目「もういっその事ガムテかなんかで拘束して……」
喧々諤々と解決法を相談してる私たちなど構わずにジタバタしていた姫島さんだったが、急にその動きを止めたかと思うとおもむろに立ち上がった。心なしか、その顔は先ほどまでの紅い顔ではなく青ざめてるように見える。
そして……
姫島「う゛っ。ぎもぢわるい゛……吐ぎそう」
そう呻いたかと思うと、口に手を当てて前傾姿勢を取った。
東雲「ちょおぉーっ!! 絶対に吐くなよ! 少なくともパソコンと周辺機器にだけは吐くな! 床に吐け!!」
夏目「いや、それもダメ! 教室と違ってここはカーペットだから大変な事になるわ! それに確か床下には電気配線が!」
掛井「私にいい考えがある。ごくごく民を学校中から募るんです!」
東雲「アホか! 間に合わねぇよ! というかいねぇよ!」
姫島「もう……無理……。うぷっ」
「「「ギャアアアアアーーー!!!」」」
パソコンルームに三名の悲鳴が木霊した。
☆☆☆ 保健室
神崎「なるほど、そういう事があったわけね。それはお疲れ様」
グロッキー状態の姫島さんをベッドに寝かせ、診察椅子に座り直した神崎先生が言った。
夏目「それはもう、大変でしたよ……」
私を含め、PCルームにいた五人は全員げんなりとした顔でため息を吐いた。
最初の嘔吐に関しては、冷静だった湯川さんと甘利さんがビニール袋とティッシュを用意してくれたおかげでギリギリの所で惨事をまぬがれた。だが、そこからが長い旅路の始まりだったのだ。
姫島さんを保健室に連れて行くため両サイドで肩を貸す形で移動していたのだが、十数メートルごとに姫島さんがトイレに駆け込むせいで片道三~四分の道がその約五倍の二十分以上かかってしまった。肉体的な疲労はともかく、精神的な疲労は計り知れない。
神崎「さて、姫島さんは話せる状態ではないからあなた達から彼女の状態の原因を聞きださないといけないんだけど……。夏目さん、あなたに心当たりがあるのね?」
夏目「えぇ。とは言っても、当たり前ながら私は医者じゃないので推測ではあるんですが……。多分間違ってないと思います」
ちょっとだけ胸を張って答えた。この推理は少し自信がある。
昨日の会話の内容、今日の姫島さんの行動、そしてこの症状。恐らくは……
夏目「急性アルコール中毒、じゃないかと」
「「「急性アルコール中毒ぅ!!!??」」」
その場にいた人間が揃って驚きの声を上げた。
しかし神崎先生だけは私の言葉が想定内だったのか、綺麗に整った眉をピクリともせずに平然と構えている。
夏目「神崎先生は驚かないんですね」
神崎「症状的にはそれが一番近いかなって思っただけよ。気分の高揚や顔の紅潮から一転してめまい、吐き気。典型的ね」
佐伯「さすがです神崎先生。何度も何度も前日のお酒を体に残したまま出勤した経験が活きましたね」
神崎「……ごめんなさい。もうしません」
佐伯さんの冷たい視線と言葉が神崎先生に突き刺さっている。
東雲「いやいや、いくら姫島が破天荒だからって学校で酒飲むほどバカではないぞ」
掛井「確かに姫島さんはちょっとアレな人ではありますけど! 犯罪を犯すほどの度胸は無いです!」
酷い言われようだ。いや、逆に信用されてるのだろうか。
そんな普段からつるんでる二人とは別に、こめかみに指を当てて考え込んでいた甘利さんが口を開いた。
甘利「もしかしてぇ、甘利の持ってきたチョコレートですか?」
普段の言動が突飛ではあるけれど、この察しの良さやPCルームでの冷静な行動から見て甘利さんは頭の回転がかなり早いようだ。
湯川「なるほど。確かにあのチョコレートには洋酒が入っておりましたな」
東雲「あぁそういや確かに! いやでも、それだけで普通酔うか?」
東雲さんが当然の疑問を呈した。
夏目「もちろんそれだけじゃないわ。エナジードリンクと栄養ドリンクを混ぜて飲んだって言ってたでしょ?」
掛井「えぇ飲んでましたけど……。それが関係あるんですか?」
夏目「大アリなのよ。栄養ドリンクの中にはアルコールが含まれる物があるの。さらに言うと、エナジードリンクに入ってるカフェインはアルコールと一緒に飲むと悪酔いしやすいそうよ」
以前新聞部から依頼された原稿の〆切に追われた時に何本か栄養ドリンクを試したが、その時にアルコールが添加されている物があるという事を知った。
そこから興味を持って栄養ドリンクについて色々調べたのだが、その知識がこんな所で役に立つとは思わなかった。
東雲「へぇ、そうなのか。でもそれだって量的には微々たるものだろ? そんなんであそこまで酔っぱらうものなのか?」
湯川「アルコールへの耐性はアルコールを分解するアルデヒド脱水素酵素が欠損しているかどうかの他に年齢や性別、特に体重の影響を受けるそうです。女性であり、小柄で体重が軽い姫島殿はアルコールで酔いやすいという可能性はありますが……」
あまりその説に納得していないのか、湯川さんは歯に物が挟まったような言い方をしている。
確かにチョコレートや栄養ドリンクに含有されているアルコールだけで酔うなんて、普通なら考えられない。
超が付く下戸ならば可能性はあるが……。
神崎「残念だけど、それだけではここまで酔う事はないと思うわ。以前姫島さんは学校献血に参加したけれど、消毒の際に皮膚がかぶれたり赤くなったという話は聞かなかったし」
アルコールの分解能力が低い人、つまり下戸は消毒用のアルコールが皮膚に触れただけで赤くなったりかぶれたりしてしまうという。
これを利用し、皮膚に消毒用アルコールを数滴垂らして絆創膏を貼り数分待つことでその人が下戸かどうかを判別する『アルコールパッチテスト』というものまである。
つまり、姫島さんが下戸の可能性は低いという事だ。
夏目「確かにこれだけだったら姫島さんが酔うなんて事はなかったと思います。ただ、もう一つ重要な要素があるんです」
甘利「重要な要素、ですかぁ?」
夏目「えぇ。そしてこれこそが……昨日、主人公君が気絶した事件に深く関係しているんです」
保健室にいた皆が―――今度は神崎先生も含めて―――驚きの顔を見せる。
東雲「な、なんだってー!」
掛井「本当なのかキバヤシ!」
夏目「いやキバヤシって誰よ……」
よく分からないノリの二人はさておいて、話を続ける。
夏目「種明かしの前に少し確認しておきたい事があるんだけど……ちょっといい?」
カーテンを開き、ベッドで横になっている姫島さんに近づいた。
姫島「なんだいまひろん……。うぇっ」
夏目「えっと、大丈夫?」
姫島「すまんが……もう少しまってぐれ……うぅ」
見るからに辛そうな姫島さんに無理はさせられない。私はカーテンを閉じ、みんなの方へ向き直った。
夏目「……との事なので、まずは昨日の話を整理しましょう」
東雲「しゃーなしだな」
佐伯「姫島さんは私が気にかけとくから気にしないで」
佐伯さんが水の入った吸い飲みとタライを持ってカーテンの中に入っていった。
夏目「昨日の放課後、気絶してる主人公くんが保健室に運び込まれるも原因不明。次いで椎名さんも原因不明の体調不良で保健室に来室。そうでしたね?」
神崎「そうね。結局両者とも完全に状態が回復したから、病院で検査を受ける事を勧めた上でそのまま帰したわ」
甘利「へぇ~、昨日椎名先輩まで保健室に行ってたんですかぁ」
東雲「結局主人公が倒れた原因、分からなかったのか」
神崎「そうなのよ。原因が分からない以上、万が一を考えて保護者を呼ばないといけないんだけど、両者ともしっかり歩けていたし友達が一緒に帰るって言うから引き止めなかったの」
神崎先生の苦々しい顔を見て、その原因を告げなかった自分に良心が痛む。
夏目「その事なんですが……。二人が倒れた原因、これなんですよ」
ブレザーのポケットから件のクッキーを取り出した。
東雲「……クッキー? クッキーなんかで人って倒れるのか?」
掛井「あれ? というかそれ、どっかで見覚えが」
湯川「その外装……。もしや、我輩の作ったクッキーですか?」
よもや自分の作ったクッキーが人を害してしまったのか、と湯川さんの顔に緊張が走った。
夏目「いえ、よく似てるけど別物よ。製作者は……名誉のために名を伏せておきます」
湯川「良かった、別の物でしたか……。いやそれにしても、東雲殿の言う通りクッキーで人が倒れるとはどういう事なので?」
夏目「実はこのクッキー、原材料にある物が混じってるのよ。それが元凶なんだけど……。神崎先生、匂いだけでそれがわかりますか?」
「何故私に?」と訝しげにこちらを見る神崎先生に、袋から取り出したクッキーを一枚渡す。
神崎「匂いだけでってそりゃまた難しい事言うわね。味を確かめられないのは食べると私も倒れるからかしら?」
夏目「あ、一応食べる事は出来ますよ。ただ、中身が生焼けで美味しくないので自己責任でお願いします」
私の言葉を受けて、神崎先生はまずクッキーの香りを嗅ぐ。その香りに覚えがあるのか綺麗に整った眉がピクリと動いた。
そして、その記憶が正しいか確かめるようにクッキーの端を少し齧る。
神崎「なるほど。最初は何で私にわざわざ聞いたのかと思ったけど、そういう事ね」
夏目「えぇ、神崎先生が一番適任だと思ったので」
東雲「おいおい、何二人で納得してんだよ! で、混じってた物って何だったんだ?」
焦れた東雲さんが思わずツッコむ。
神崎「日本酒……いえ、これは恐らく酒粕ね」
夏目「正解です」
酒粕。日本酒を造る際に出る絞りかすであり、甘酒や粕汁、粕漬けやわさび漬けなどを作る原材料だ。
さすが神崎先生、保健室で唯一の成人であり日頃からお酒に慣れ親しんでいるだけはある。
掛井「酒粕……ですか? クッキーにそんな物がなぜ」
湯川「ふむ、聞いた話によりますと、最近酒粕入りのクッキーやクラッカーが一部で人気だそうですぞ。なんでもチーズの様なコクが出て、かつ健康にも良いとか」
佐伯「へぇ、初めて聞いたよ。今度試してみよう」
佐伯さんもお菓子作りの趣味があるのだろうか、それとも保健委員だから『健康』の方に反応したのか。
東雲「酒粕……。なるほど、見えてきたぞ。つまり、主人公の奴と椎名さんが倒れた原因は……」
夏目「そう、姫島さんと同じ急性アルコール中毒。何でも、酒粕ってアルコールが8%も含まれてるそうなの」
神崎「下手なビールやチューハイよりも高いじゃない……。しかも生焼けなせいでアルコールがかなり残留してるし、弱い人なら倒れちゃうでしょうね」
夏目「えぇ。念のためさっき調べたんですが、椎名さんは下戸体質のようでした」
放課後すぐに消毒用エタノールと絆創膏を手に2年B組に向かい、椎名さんにパッチテストをさせてもらったのだ。結果はクロ。見事に皮膚が真っ赤になってしまい、椎名さんには大変申し訳ない事となった。
なお、そのテストをしていてPCルームに行くのが遅れたせいで件の大参事が起きてしまったというオチまで着いている。
夏目「ただ、いくら食べた量が違うとはいえ酒粕だけで主人公くんみたいに気絶する可能性は低いです。チョコと栄養ドリンクだけで重度の急性アルコール中毒になるぐらいに、ね」
東雲「なるほど。それがさっき言ってた『確認しておきたい事』に関わってくるんだな」
夏目「えぇ、そういう事です」
とはいえ、姫島さんがダウンしている今はどうしようも……。
姫島「……ふふふ。それで、私の出番と言うわけだな」
掛井「そ、その声は!」
姫島「待たせたな! さぁ、私に何を聞きたいんだ!」
夏目「いや何そのテンション……。まぁ回復したならいいんだけど」
カーテンを勢いよく開けて現れた姫島さんは、『完全復活!』とばかりに胸を張って自分を親指で指さした。
そのテンションに若干引きつつ、質問する。
夏目「あなたがここ数日食べていたっていうキノコなんだけど……普通のキノコじゃないわね?」
姫島「あぁ。市販されてない、☆3レベルのレアキノコだな」
夏目「ずばり、ヒトヨタケでしょ」
姫島「ピンポンピンポーン、大正かー……うっ」
調子に乗ってクルクル回りながら答えた姫島さんは、そこまで言うとピタリと動きを止めた。
直後、弾ける様な勢いでベッド横に戻ったかと思うと置かれたタライに真っ青な顔を突っ込む。破滅の音が聞こえる前に仕切りのカーテンを閉めておいた。
東雲「アホかあいつは……。で、ヒトヨタケ? 一体どんなキノコなんだ、それは」
湯川「ヒトヨタケ……どこかで聞いた覚えがありますな。あぁっ! なるほど!」
さすが化学部。自然科学系の知識も豊富なようだ。
夏目「湯川さんは知ってるみたいだけど説明させてもらうわね。ヒトヨタケは春から秋に日本のどこででも生えるありふれた……毒キノコなの」
湯川さんを除いた保健室の一同は、明かされた衝撃の事実に思わずどよめいた。
甘利「毒キノコ! なんて魅惑的な響き! 良いですねぇ、ワクワクします」
掛井「毒キノコと知ってそれを食べるとは! さすが姫島の、我々には出来ない事を平然とやってのける! そこにシビれるあこがれれるゥ!」
東雲「というか、確かそのキノコってあいつの両親が採ってきたやつだったよな? しかも、本人達は食べなかったとか。姫島、お前とうとう両親にまで愛想を尽かされて毒殺されそうに……」
姫島「違ぁわい! ヒトヨタケは毒キノコだけど食べれる毒キノコなんじゃい! ……うぷっ」
姫島さんがカーテンの間から顔だけ出して叫び、また引っ込んだ。
佐伯「食べれる毒キノコ? 一体どういう物なの?」
夏目「それについては湯川さんの方が詳しいと思うけど……」
湯川「ふむ、我輩も文献で少し読んだ程度の知識しかありませぬが。何なら解説いたしましょう」
コホン、と咳払いして湯川さんが流暢に語り出した。
湯川「ヒトヨタケにはコプリンという成分が含まれております。このコプリンの代謝生成物はジスルフィラム様作用と言う物を持っていまして、体内のアルデヒド脱水酵素を阻害しますので体内のアセトアルデヒドの代謝がなされず蓄積するという……」
掛井「要約! 要約をお願いします!」
専門用語の羅列に思わず掛井さんがストップをかけた。他の人も頭に?マークが浮かんでいる。恐らく理解できているのは養護教諭の神崎先生ぐらいだろう。
ある程度下調べした私でも、実際に言葉に出して説明されると聞きなれないワードが右から左へ抜けていった。
湯川「要はですな。ヒトヨタケを食べた人間は体内でアルコールを分解する能力が著しく下がるので、たとえ少量でもアルコールを摂取すると酷い悪酔いに襲われるという事です」
東雲「あぁそういう事。つまりあのバカは、未成年で酒飲まないから大丈夫と思ってパクパク毒キノコ食った挙句、添加物のアルコールに気付かんで酔っぱらったのか」
湯川「ちなみにジスルフィラムにはカフェインの代謝を阻害する効果も指摘されていますので、もしかしたら姫島殿の興奮状態はそこから来た可能性もありますな」
やれやれ、と東雲さんが頭に手を当てる。
甘利「へぇ~、世の中には面白いキノコがあるものですねぇ」
神崎「アルコール依存症の患者に処方される抗酒薬と同じ効果ね。あっちは最大丸一日ぐらい効果があるのだけれど」
湯川「恐ろしい事に、体質や食べた量にもよりますがヒトヨタケは一週間近くは効果が続くそうで」
掛井「何、それは本当かね!? それは……気の毒に……」
東雲「まぁあれだ、こいつにはまさに”良い薬”って奴だ」
カーテンの向こうから聞こえる地獄の芳香……違った、咆哮などいざ知らず、わいわいと談笑が始まった。
姫島さんの症状がいわゆる二日酔い状態だけで命に別条がないと分かったからとはいえ、その扱いの悪さは……まぁ普段の素行のせいだろう。
見た感じからして、脱水や嘔吐物による窒息にさえ気を付ければ下校時間までには症状が落ち着いているはずだ。
神崎「それで、それがどう昨日の主人公くんに関わってくるのかしら?」
夏目「主人公くん、昨日姫島さんにお弁当のおかずを強制トレードされたそうなんですよ」
佐伯「そこでヒトヨタケを盛られた、ってわけね」
神崎「そして8%のアルコール入りクッキーを食べてしまい……気絶したと」
そう言って、神崎先生は大きなため息を吐いた。
神崎「危なかった。佐伯さんが主人公くんの容態をちゃんと確認して看護してくれたからいいものの、場合によっては取り返しのつかない状態になっていた可能性もあったわ。良い仕事だったわね、佐伯さん」
佐伯「いえ、私は当然の事をしたまでで……」
神崎「謙遜しなくていいわよ。いつもありがとうね」
照れているのか、佐伯さんの頬が少し紅く染まっている。
看護士志望の佐伯さんにとって今回の件はきっと大きな自信になったに違いない。
東雲「で、姫島。お前まさかヒトヨタケの事主人公の奴に言わなかったのか?」
姫島「だって未成年だぞ。まさか中毒起こすとは思わんじゃん……」
東雲「ったく、今回はさすがに反省しろよ? 自分一人ならともかく、他人を生命の危機に追いやったのはもう擁護できんからな?」
姫島「あぁ、すまんかった……。もう二度とあんな事はしないよ」
東雲「その絶妙に反省してなさそうな某番組ミームやめろや」
姫島「いやマジに、これはもう二度と体験したくねぇしさせちゃいけねぇ……」
姫島さんが息も絶え絶えなのがカーテン越しでも分かる。急性アルコール中毒ってここまで酷い物だったのか……。
そりゃ毎年そこそこの人数が死ぬわけだ。
甘利「ところで、これって未成年飲酒で捕まったりしないんですかね~?」
神崎「未成年飲酒っていうのは基本的に未成年がアルコールを『飲むのを止めなかった保護者相当の大人』と『売った大人』を取り締まる法律だから心配はいらないわ」
掛井「お前が行くべきは警察ではない……病院だ!(ギュッ)」
姫島「け、K先生!」
夏目「いや確かに苗字はKだけども」
この人たち、いつもこんなノリで会話してるのだろうか。
湯川「それにしても夏目殿の推理は見事でしたな。まるで名探偵のようでしたぞ」
夏目「そんな事ないわよ。たまたま運よく推理の材料が揃っただけ」
掛井「いえいえ、材料が揃ったとしてもそれを組み合わせるのには知識とセンスが必要なのですよ。『掛け算』と同じです」
夏目「掛け算……?」
掛け算とは一体どういう意味の言葉なのか……。いや、多分知らない方が良い言葉に違いない。
甘利「もし甘利が血みどろの惨劇を巻き起こしたら、その時現場には絶対いて欲しくない人材ですねぇ。すぐ犯人言い当てちゃいそうです」
佐伯「いやそれは誰でも犯人当てられるんじゃないかな」
神崎「でも本当に助かったわ。昏倒の原因が病気とかだったらすぐにでも病院で精密検査をしなくちゃいけない所だったし。今回の事件の一番の功労者ね」
姫島「ありがとうまひろん。本当に……本当に……『ありがとう』。それしか言う言葉が見つからない……」
掛井「ブラボー。おぉ、ブラボー」
夏目「な、謎解きはもう終わったし私は部室に行きますから! お疲れ様です!」
逃げるように保健室から飛び出す。ああも皆から褒めそやされると、正直恥ずかしさできまりが悪い。
……でも、気分は少し良かった。それこそほろ酔いしてるかのような浮いた足取りで廊下を歩く。雲の上を歩いているような気分で階段を登り、文芸部の部室の前へ。
と、ちょうどその時だった。
笹原「あ、夏目さん。ちょうど良かったわ」
浮かれた気分のまま部室に入ろうとしたまさにその時、陶芸部の部室から笹原さんが顔を出した。
夏目「あ、笹原先輩。どうしました、何かご用ですか?」
笹原「特に用というわけではないんけど……。昨日のお礼を言おうと思っていて」
夏目「お礼?」
笹原「椎名さんが倒れて、あたふたして何もできなかった私を助けてくれたじゃない」
夏目「あぁなるほど。別にお礼を言われる事ではないですよ。結局保健室に付き合った程度ですし」
本当に何もしていない。まぁ蓋を開けてみれば何もする必要が無かったという事が分かったわけだけれど。
笹原「それでね、せっかくだからお礼を持ってきたの」
その言葉を聞いた瞬間、悪い予感で背筋に冷たい汗が流れた。
夏目「いえ良いですから! 悪いですし! そんなお礼なんて!」
笹原「そんな謙遜しなくてもいいのよ。ほんの気持ちだから」
笹原先輩はそう言うと、手提げからビニールのラッピングバッグに入ったマフィンを取り出した。
笹原「マーブルマフィンを作ってみたの。つまらない物だけど食べてみて」
心の中の宮川大輔がまたもや「アカーン!」と大絶叫した。昨日の半生クッキーの不毛な味が舌に蘇る。
でも不味いだけなら受け取っても……。と一瞬諦観がよぎるが、今回が安全な保障は無いわけで。
―――受け取るべきか、受け取らないのならどう言って断るのか。
私の頭は一連の推理をした時より遥かに高速に回転し始めた。
……が、
笹原「その、ごめんなさい。もしかして甘い物苦手だった?」
思考に耽るあまり差し出したマフィンの袋を前にしばし逡巡した私を気遣ってか、笹原先輩は悲しそうな顔でこちらを覗きこんでくる。
その可憐で純粋な顔に抗えるはずもなく。
夏目「いいえ、ありがたく、いただかせてもらいます」
今できるだけ精一杯の笑顔を無理矢理作り出し、先輩のマフィンを手に取った。
笹原「あぁ良かった。今度味の感想教えてね」
そう言うと、天使の笑顔と心を持った悪魔は部室に戻っていく。
一方で私はというと、マフィン?の入った袋を持ったまま廊下で呆然としていた。
(これ、どうしよう)
食べずに捨てるのはさすがに良心が咎める。
実は件の酒粕クッキーに関しても、特に害が無い事が分かったから今夜あたり焼き直して食べる予定だったのだ。
このマフィンも安全性さえ確かめられれば味はともかく食べる事もやぶさかではないが……。
夏目「食べてみるしか、ないわね」
とりあえず、いつまでも廊下に突っ立っているわけにもいかないので部室に入った。
椅子に座り深呼吸。そして何かあった時のためにロックを解いたスマホをテーブルの上に置いておき、マフィンの袋を開ける。
夏目「見た目は……大丈夫そう」
見た感じは普通のマーブルマフィンだ。焦げ茶色と白をベースに、イチゴ味の生地と思しき赤色が渦を巻くように混じりあっている。
だが心の中で予兆……胸騒ぎの様な物を感じた私は、取り出したマフィンの両端を持って二つに割ってみた。
そこにあったのは、まさに混沌だった。
生き物の内臓を思わせる質感を持つぬめった赤と、黒と、青と、黄色と、緑の粘体が、非ユークリット幾何学的にうねり狂った禍々しい模様を描いている。原色の絵の具をそのまま混ぜ合わせたような冒涜的なその姿は、間違っても食品と表現してはいけない何かだった。
夏目「一体何をどうすればこれが練成できるの?!」
笹原先輩は陶芸ではなく今すぐ錬金術を学ぶべきだ。市販されている物だけでこんなものを練成できるのだから、きっと勉強すればもっととんでもない物を生み出すに違いない。
―――いやでも、酒粕クッキーと同じで害はないかもしれないし。
私の心の中の猫はよっぽど好奇心に殺されたいらしい。
危機感をあおるには十分の見た目な物体だというのに、それがどういう物なのかを知りたくて仕方がない。
>「あれは美味い不味いという尺ではなく、破壊力という単位で量った方が良い」
時谷先輩の言葉を思い出す。
破壊力と形容されるほどの食べ物とは実在するのだろうか。
拙いながらも創作に携わる人間として、確かめずにはいられない。
覚悟を決めた私は震える手で半分に割ったマフィンを口元に持っていき、その異形の物体を齧る。
―――そして、私の意識はブラックアウトした。
☆☆☆ 後日談
マフィンの様な物体によって昏倒した私は、マン研に借りた漫画を返しに来たついでに文芸部に立ち寄ったつぐみによって幸運にも発見され、無事保健室に収容された。
もうほとんど症状が回復していた姫島さんの隣のベッドに寝かされ、意識が戻ったのは昨日と同じ完全下校時刻直前。
神崎先生に問診されるも、マフィンを食べた前後の記憶は完全に欠落していた。
鞄を取りに文芸部の部室に戻った事で昏睡した原因たるマフィンの記憶をおぼろげに取り戻したものの、その証拠となるマフィンは入れていた袋も含めていつの間にかどこかへと消えていた。
言うまでも無い事だが、マフィンは自走しない。
となると誰かが片付けたという事になる。だが、つぐみは私を運ぶので精一杯であり他の文芸部の部員は今日は私以外用事で来ない事になっている。そして、他にマフィンを片づけるような人間はいない。
真相は完全に闇の中となってしまった。
もう素人探偵の私ごときが追うべき事件ではない。というか、絶対に関わりたくない。
好奇心は本当に猫を殺す。私は貴重な経験を得た。それだけでいい。
そしてただ一つ、最後に私が言える事がある。それは……
「もう二度と、あんな事はしないよ」
― 終 ―
前書きで触れたとおり、アニメ放映前にガルフレを知らない人間へ向けてキャラ紹介を兼ねたSSとして2chに投稿しようとして書かれ、オチで詰まって塩漬けされていた物をサルベージしたものになります。
詰まったオチは全く別の展開に代わり、内容が1.5~2倍程に増量しました。
なお、当時ハマっていた天久鷹央シリーズに思いっきり影響受けまくっています。
最後に。供養と思って完成させた物ではありますが、少しは気合を入れて書いたので感想などいただけるとありがたいです。