プリンツェッシンの瞳   作:めめん

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 フリーレン様、ディープインパクトは最近の競走馬ではありません。
 ディープの現役時は私、産まれてませんからね。
 それに今年でジャスタウェイが勝った天皇賞(秋)から10年ですよ。

 もうそんなにか。人の時間は早いね。

 ちなみに今年の11月25日でアーモンドアイがワールドレコードを叩き出したジャパンカップから5年です。

 フェルン、それは流石に嘘だよ。
 アーモンドアイが引退したのは去年だよ。



「夢」か「金」か

 世田谷区のほぼ真ん中に位置しているというのに、この寺はいつ来ても静かだな――

 

 寺の境内を手ぶらで歩きながら宮守友作はふとそのようなことを思った。

 

 彼が今日ここに訪れたのは亡き父にとある報告をするためだ。

 古くは江戸時代から続く商人の家系で、当時の関東の武家ともそれなりに繋がりがあったという宮守家の墓は友作の何代も前からこの寺に存在していた。

 そういう縁もあってか、友作もその父も、そして祖父や先祖たちも毎年この寺には結構な額の寄付を行っている。

 

 

「――親父、あの時買った馬の孫が無事に1歳を迎えたぞ。

 順調にいけば春には育成に移せるそうだ」

 

 

 父が眠る墓の前に立った友作は、その両手を眼前に合わせることもなく己の腰に添えたままそう言った。

 

 はたから見れば友作のその姿は間違いなく親不孝者だろう。

 しかし、実際のそれは「正月と盆と命日以外に花も線香も添え物も不要」という亡き父の言葉に従っているがゆえであり、彼は十分孝行者であった。

 

 

「しかしな親父……俺は今でも思うんだよ。

 やっぱり、俺みたいな男には馬主なんか向かないんじゃないかって……」

 

 

 眉間にしわを寄せ一度はあっと大きく息を吐くと、友作はこれまでの人生における自分と「競馬」の関わりを思い返しはじめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――物覚えがある頃から「馬」という動物は嫌いではなかった。

 

 戦後それまで家業として続けてきた商売を畳み、商人として一から出直すことにしたという親父は、当時の財政界とのツテもあり馬主をやっていた。

 

 だがそれは、あくまでも「金持ちのステータス」としてであって、決してダービー馬のオーナーになりたかったわけでも、皇室から下賜される盾が欲しかったわけでも、当然賞金がほしかったわけでもなかった。

 ただ「馬を買えるだけの金を持っている」という証明として、親父は馬主をやっていたのだ。

 そしてこれは親父に限らず、当時の金持ちたちの間ではほぼあたりまえのことだった――と思う。

 

 

 そんな親父が本格的に競馬の世界にのめり込むきっかけとなったのは、やはりあの馬の存在だろう。

 

 

 ――シンザン。

 

 

 戦後初の三冠馬にして、当時の八大競争のうち牡馬が出走できるすべてのレースを制した「五冠馬」――

 

 あの馬の引退レースとなった有馬記念を、親父と俺は偶然現地で見ていたのだ。

 ――「見てしまった」と言ってもいい。

 

 「五冠馬」という伝説の誕生を直接間近――といっても馬主とその関係者用のスタンド席だが――で目撃した親父は、当時まだ子供だった俺でもわかるくらい目を輝かせていた。

 

 

『シンザンを超えろ!』

 

 

 それはシンザンが引退して以降の競馬界におけるスローガンだった。

 その言葉に従うように牧場や生産者は馬を生み、調教師や厩務員は馬を育て、そして馬主たちは馬を買っていく――

 すべてはシンザンに次ぐ伝説――シンザンに勝る伝説を自らの手に掴み取りたいがゆえに。

 

 そして親父も悪く言えばその言葉に乗せられてしまった男の1人だったわけである。

 

 

 最初は俺自身も若気の至りというほどではないが、馬たちが走る姿に親父と2人で熱狂していた。

 先のとおり馬という動物自体は好きだったからだ。

 

 ――だが、年々身も心も大人になっていくたびに少しずつその熱も冷めていき、家業を継ごうと経営者としての勉強も本格化させたことも相まって「競馬」というものに対する見方もがらりと変わった。

 

 簡単に言ってしまえば、馬を本来の用途である「家畜」や「経済動物」という視点から見るようになってしまったのである。

 

 

「――なあ親父。ここらで馬を買うのはもうやめにしないか?

 維持費とか厩舎や牧場への委託料とか……高い金を払ってまで得られるものがなにもないぞ?

 こんな博打をいつまでも続ける意味がどこにある?」

 

 

 ある日――確かハイセイコーによる俗にいう「第一次競馬ブーム」により競馬が「賭博」から「エンターテイメント」へと変わりつつあったあたりの頃だ――俺は親父に対してそうぶちまけた。

 

 競馬に熱狂する親父を通して、この頃の俺は競馬界の表側に隠された裏側――「暗部」や「闇」とも呼べる部分を幾度となく目にしてきたからだ。

 

 馬たちを養っていくために自らの身を削っていった果てに破滅した馬主や牧場経営者たちなどまだ序の口で、競りや庭先取引により莫大な金が動いている陰でそれと同等もしくはそれ以上の裏金が流れていたという実態や、競馬に限らず公営競技という場そのものが権力者たちの税金逃れの温床となっていた現実――

 とにかく布団を叩けば舞い上がる(ほこり)のようにこうした暗い側面が次々と明るみになるため挙げればきりがなかった。

 

 ――もちろん、これらはあくまでも当時の話であって、現在は改善されたりしている。

 言ってしまえば当時はそれだけこの界隈のルールや常識は穴だらけだったということだ。

 

 ともかく、俺は親父がいずれそんな暗黒の深淵とも呼べる領域にまで沈んでしまうのではないかと心配であると同時に恐れていたのである。

 

 

 ――そんな俺の気持ちをわかってくれたのかくれなかったのか、その時親父は笑いながらピー缶から煙草(ピース)を1本取り出してマッチで火をつけてこう言った。

 

 

「友作、俺は博打をしているわけじゃない。

 “夢を買っている”のさ」

 

 

 同じだろう、と俺は思った。

 当然言い返した。

 

 

「賭博キチになっちまったやつはみんなそう言うんだよ」

「だから博打じゃねえっての。

 まあ聞け――」

 

 

 呆れた、と言いたげな顔をしながら親父が紫煙を一度口から吐いて話しを続ける。

 ――というか、この時呆れていたのは間違いなく俺のほうだ。

 

 

「友作、人が本来夢を見ることができるのは子供(ガキ)の頃だけだ。

 人は嫌でも大人になっちまう。

 そして、大人になればなるほど“現実”ってもんを知っていって、気がついたら自然と“夢”を捨てているんだな――」

 

「俺もそうだった。

 今でこそ話せる恥ずかしい話だが、俺は子供の頃は海軍の飛行機乗りに憧れていたのさ。

 俺の場合は親父やお袋や親族のことごとくに反対されて結局こっちが折れちまった形だが……」

 

「自分でも捨て去ったと思っていた“夢”を思い出させてくれたのさ。

 あの日の有馬記念のシンザンはよ――」

 

 

 ――親父が再び口から紫煙を吐く。

 

 

「シンザンのあの飛ぶような走りを見て、俺は子供の頃に抱いていた“夢”が炎のように胸の中で轟々と再び燃え上がっていくのを感じた。

 本当に何十年も若返って子供の頃に戻ったような気分だったのを今でも覚えている」

 

「――この歳になって今さら子供の頃の“夢”を追い求めるなんてことはできねえ。

 だが、あの頃と同じ情熱っていうか……そんな心震わせるものを感じることはできる。

 それをシンザンが――馬が教えてくれたわけだ」

 

「だが、馬も生き物である以上いつまでも走り続けることはできねえ。

 俺の心を振るわせてくれるのは1頭あたり長く持っても4年か5年ってところだ。

 人間の一生と比べたらそんなもん花火みたいなもんだろう」

 

「――俺はあの頃抱いていた熱をいつまでもこの胸の中に宿していたい。

 だからこそ俺は馬という“夢”を買い続けるのさ。

 競馬の世界は“勝つ”か“負ける”かのどちらかだけなのが本当は正しいのかもしれないが、俺にとっては違う。

 俺は俺という人間に――宮守富一(とみいち)に“金では絶対に手に入らないものを与えて満足させてやりたい”んだよ。

 これはレースに勝つことで得られる大金なんかよりも俺にとってはよっぽど価値があるものだ――」

 

 

 親父はそう言い終わると煙草の火を灰皿に押しつけて消し、椅子に深々と腰かけて窓から外を眺めた。

 話はこれで終わりだ、ということなのだろう。

 

 ――俺はなにも言わずに部屋を出た。

 そしてそれ以来二度と親父に「馬を買うのをやめろ」と言わなかった。

 親父の気持ちが理解できたわけじゃない。「言っても無駄だ」と諦めたからだ。

 

 ――少なくともこの時は。

 

 

 

 

 その後も親父は馬を買い続け、自分の馬たちをレースに出して走らせ続けた。

 

 しかし、親父が買う馬はどれも言ってしまえば大した血統ではない安馬ばかりで、テレビや新聞で取り上げられるような大きなレースに出走できたものは一頭も現れなかった。

 

 親父は馬が走る姿を見られることができればそれで満足なのでそれでよかったのだろうが。

 

 

「シービーもいい馬だが、ルドルフはそれ以上にいい馬だな」

「ああ。俺もそう思うよ。

 もし俺も自分の馬を買う時がきたらあいつらみたいな馬を買いたいもんだ。

 賞金を獲得して元が取れるようないい馬をさ――」

「まったく……

 お前さんは本当に“男の浪漫”というものがわからんやつだなあ……」

「生憎と俺はビジネスマンだからね。

 “勝てる戦い”か“負けない戦い”しかしたくない主義なんだ」

 

 

 84年の有馬記念の日も俺と親父は現地にいた。

 

 相変わらずその頃の俺は経営者的な視点でしか馬を見ることができず、パドックを周回するミスターシービーとシンボリルドルフを見ながら親父とそのような会話を交わしていた。

 思い返してみれば随分と皮肉を言っていたものだ。

 

 

「“勝てる戦い”に“負けない戦い”か……

 友作、残念だがそんなものは競馬の世界には存在しないよ」

「ああ。わかってる。

 商売の世界とは違って競馬の世界は“勝負の世界”だ。

 結果としてにあるのは“勝つ”か“負ける”かのどちらかしかなく、“引き分け”とか“痛み分け”なんてものは存在しない。

 このレースだって少なくともシービーかルドルフのどちらかにまた黒星がひとつ増える――」

 

 俺は小休止とばかりに一度口を閉じてシービーとルドルフをじっと見つめる。

 

 相馬眼なんてものは残念ながら俺にはないが、どちらも三冠馬に相応しい素晴らしい馬だということは少し見ているだけでわかった。

 

 ――迫力が違うのだ。

 

 その身から感じる「圧」とでも呼ぶべきものがあの2頭だけは他の馬たちとはぜんぜん違う――

 おそらく馬自身も己がどういう存在であるのかを理解しているのだろう。

 名馬が名馬と呼ばれる由縁はこういうところにあるに違いない、と俺は思った。

 

「正直に言うと、俺はあの2頭のどちらにも負けてほしくはないな。

 あいつらは間違いなくどちらも十年に一度の名馬ってやつだ。

 そんな存在が2年連続で生まれて覇を競わざるを得ないというのは残酷すぎる――

 おそらく後の世においてどちらかはもう一方の引き立て役的な存在として延々語られちまうだろう」

「……そうだな」

 

 パドックに騎手がやってきて、各々が担当する馬の鞍上にまたがっていく。

 

 シービーとルドルフの鞍上にも当然主線騎手が乗った。

 

「――リアリストなお前には馬主は向かんかもな」

「リアリストだって?

 親父には俺がそんなふうに見えるのか?」

「ああ。

 少なくともこの場においてはそう思うよ。

 ここにいるやつらは1人1人理由は違えど、俺同様“夢を見ていたい連中”なんだからな」

 

 

 

 

 ――それからさらに数年の歳月が経過した。

 時代は「昭和」が終わって「平成」となり、競馬の世界の中心的存在もシービーやルドルフからオグリキャップへと移っていた。

 また、俺が正式に親父から家業を継ぎ、馬主の資格を取得したのもこの頃である。

 ただし、馬主の資格を得たのは親父同様馬を買って走らせるためではなく、当初の親父のように「金持ちのステータス」としてだ。

 

 ――同時に、親父に()()()のことがあった場合、親父の馬を円滑に俺が引き継げるようにするためでもあった。

 

 この頃には親父も自分の歳や体のことを意識するようになり、オグリキャップをはじめとしたスターホースやバブル景気などに端を発した「第二次競馬ブーム」真っ只中でありながらも新たに馬を買うことをしなくなった。

 それどころか、それまで自身が保有していた馬を他の馬主や牧場に売ったり、「処分」することのほうが多くなっていた。

 

 この頃には「競馬」の概念はそれまでとがらりと変わっており――それを象徴するのが90年のダービーの「オオノコール」だがここでは割愛する――今まで競馬を「どれだけ大衆から人気が出て市民権を得ても所詮はギャンブルだ」と考えていた俺も驚いたものだが、それ以上に親父のこの変化のほうが驚いた。

 

 

「オグリの引退レースだっていうのに1番人気じゃねえのか……」

「そりゃ競馬がスポーツとして認知されたとはいえ、これまでどおり賭博であることには変わらないからな。

 馬券を買うやつはレースに勝つと思う馬の馬券を買うのが普通だ」

「まあ、ここ2戦は連続で着外で、前走のジャパンカップは11着だもんなあ……」

「……それでも馬券はオグリキャップの単勝を買うのか?」

「あたりまえだ。ここまで競馬を盛り上げてくれた功労者たるオグリに対する俺なりの礼ってやつさ」

「礼ね……」

 

 

 俺は目の前でパドックを周回するオグリキャップを見た。

 

 ――全盛期からはすっかり衰えたとはいえ、最後の舞台において2人引きでパドックを力強く歩く葦毛の馬体からは、確かにスターホースと呼ばれるに相応しい“()()()”を感じた。

 

 それはシービーやルドルフから感じた「圧」とはまた違ったものであったが、俺に改めて「名馬とはこういうもので、こうあるべきだ」と思わせるには十分だった。

 

 

「――それなら俺も今回は親父の酔狂に付き合うとするか」

 

 俺は財布から万札を数枚抜き取ると、それを握りしめながら馬券販売所へと向かって足を進める。

 

 親父は少しばかり驚いた顔をした後、俺から少し遅れる形で自分も数枚の万札を片手に歩き始めた。

 

「どういう風の吹き回しだ?

 お前が勝ち目の薄そうな馬の馬券を買おうとするなんて――」

「俺だって薄情じゃないよ。

 オグリキャップに対しては“今の環境に変えてくれた”という意味で俺も少なからず恩義があるのさ」

 

 

 ――今こうして思い返してみると、我ながら嘘が下手なものだ。

 

 あの時俺がオグリキャップの単勝を買ったのはオグリキャップに対する礼ではなく、親父の()()()を落としてくれた「時間」や「時代」に対する礼だった。

 

 

 ――だからその後のレースでまさか本当にオグリキャップが勝って有終の美を飾ってしまった時は、喜ぶ親父の隣で俺は座っていた椅子から転げ落ちそうになった。

 

 誰にも言ってはいないが、あの時買った単勝馬券は換金せずにいまだに財布の奥底にひっそりとしまってある。

 いずれ後の世において笑い話のネタにできるだろうという意味で持ち続けているいるのであって、決して他意はない。

 

 

 

 

 ――それからまた半年ほどの月日が流れた。

 

 その日、俺は親父と2人で北海道のとある牧場を訪れていた。

 長年親父が馬主として競馬界で養ってきたツテが実ったのか、牧場のほうから親父と俺に対して当歳馬を買わないかという話が持ちかかってきたためである。

 

 先も話したとおり、この頃には親父はもう新たに馬を買わなくなっていたため当初は断ろうと思っていたのだが、「せっかく馬主の資格を取ったんだからお前も1頭くらいは自分の馬を持っておけ」と親父に言われたので、仕方なく東京から遠路はるばる北海道に向かったのだ。

 

 

 ――牧場で俺たちを待っていたのは綺麗な黒鹿毛の牝馬だった。

 

 しかも驚いたことに、この馬の母親はあの凱旋門賞を制した馬で、半兄には中央の重賞を制した馬もいるときた。

 まさに超が付くほどの良血馬だ。

 口には出さなかったが、血統面においても見た目においても親父がこれまで買ってきた馬よりはるかに勝ると断言せざるを得なかった。

 

 

 ――だが、ここでひとつ疑問が浮かぶ。

 

 「これほどの馬をなぜ自分たちに売ろうと思ったのか?」と――

 

 

 長きにわたって馬主をやっていたことから親父が競馬界において少なからず顔と名前が売れていたことは事実だが、どちらかというと「安馬ばかりを買って走らせている物好きな男」としてであって、良血をはじめとした高額馬を買ってデカいレースを勝とうとしている他の馬主たちとは明らかにスタンスが違う。

 

 おまけに、当の黒鹿毛の幼駒の値段として牧場側が提示した金額がこちらが想定していた額よりもはるかに安かった。

 

 ――なにか裏があるな、と思うのが普通である。

 当然俺たちは理由を聞いた。

 

 

 ――やはりと言うべきか、当初は俺たちではなく別の馬主に購入を打診していたらしい。

 それも俺たちに提示した金額よりもはるかに高い値段で売るつもりだったそうだ。

 しかし、様々な理由から最終的に断られてしまったという。

 

 

 まず、母親はともかく父親のほうがいろいろと訳ありな馬だった。

 これまでの産駒にこれといった活躍馬がおらず、一時期は用途変更の危機にあったことに加えて、この馬自体が強烈なインブリード――父と母父がなんと兄弟であり、その母馬の2×3という信じがたい牝系クロス――ゆえに脚部不安を抱えていたのである。

 そんな馬が父なのだから脚部不安が遺伝している可能性が高く、下手をすれば気性難や虚弱体質であってもおかしくはない。

 

 次に、重賞を買ったこの幼駒の半兄も虚弱体質だった。

 父親は違うとはいえ兄に体が弱い馬がいれば「こいつもそうなのでは?」と不安を抱かれるのは別におかしな話ではないだろう。

 

 そして決定打となった理由が、近親――この年のクラシック戦線に参戦していた幼駒の年上の甥にあたる馬の成績不振であった。

 

 なんとその馬、2年前の日高で行われた競り市で税込み約3億6000万円というとんでもない大金で落札されたのだが、いざ走らせてみるとぜんぜん大した馬ではなかったのである。

 俺も当時「3億6000万で落札された馬」の話はテレビや新聞のニュースにもなっていたので知ってはいたが、まさかそれが目の前にいる幼駒の近親だとは思いもしなかった。

 あのニュースが報じられた時の俺は「まあ、今は景気もいいし、競馬ブーム真っ只中だからそういうことも起きるだろう」程度の認識で大して興味を抱かなかったのを覚えている。

 

「“3億6000万もしたのにぜんぜん走らない馬の近親です”なんて言われちゃ、そりゃ買いたいと思うやつはいないわな……」

 

 さすがの親父もその話を聞いた時は思わずそんな言葉を漏らしてしまったほどであった。

 

 

 ――そんな馬であったが、俺はその幼駒を買うことにした。

 

 なぜかと尋ねられても正直俺にも答えようがない。

 単にその馬の綺麗な黒鹿毛に惹かれたのか、それとも牧場に恩を売っておくのも悪くないという考えが無意識に浮かんだのか、はたまた親父がこれまで買ってきた馬たちの合計金額よりも提示された金額がほうが安かったからか――

 

 ともかく、俺はこうして自分の馬を持つことになったのである。

 

「お前もようやく浪漫ってやつがわかってきたみてえだな」

 

 親父はそんな俺を見ながら満足そうに笑っていた。

 

 

 ――余談だが、この時買った幼駒の全姉が翌年中央の重賞を勝ったため、俺は良血馬のオーナーである新鋭馬主して一時期競馬界から注目された。

 俺の顔と名前が知られれば本業のほうの追い風にもなるので、こればかりは本当に運が良かったと思う。

 まだ馬がデビューする前だったのでなおさらだ。

 

 

 

 

「――馬主を続けるか続けないかはお前自身が決めろ。

 お前の人生なんだからな。

 ただ、続けるなら家族や会社のやつらに迷惑はかけるなよ?

 俺だって最低限そうしたんだ」

「おいおい……

 俺に迷惑かけていなかったと思っているのか?

 さんざん振り回しておいて――」

 

 

 親父が死んだのはそれから数年後、95年の5月のことだ。

 世間が年明けに起きた関西の未曾有の大震災やカルト教団の一連の事件などで大騒ぎになっている中、俺をはじめとした親族に見守られながらひっそりと静かに旅立った。

 享年77歳。当時の日本人としてはよく生きたほうだと思う。

 

 

 なお、俺が買った馬はこの2年ほど前に無事中央競馬でデビューしたが、94年の未勝利戦の期間が終了しても勝利を挙げることはできなかった。

 いくら血統が良くても所詮はこんなものだろう、とその時は思ったが、その後地方競馬に転厩させて1年ほど走らせてみてもついに一度も勝利することはなかった時は少なからずショックを受けた。

 ――こうなることも十分覚悟してはいたのだが。

 

 結局その馬は95年を最後に引退し、翌年から生まれ故郷である牧場で繫殖入りすることとなった。

 

「親父の言ったとおり、俺には馬主は向かないな。

 勝つことだけを求めちまう――」

 

 愛馬の引退を決めたその日、俺は親父に言われた言葉を思い出しながらそう自嘲した。

 

 競馬に関わるのもこれっきりにしよう――と同時に決心したのだが、ここで予想外のことが起きる。

 繫殖入りした馬に最初に付ける種牡馬を俺が選ぶことになったのである。

 馬とその所有権は繫殖入りに合わせて牧場側に譲渡したのだが、「はじめて所有した馬なのだから」という彼らの計らいからであった。

 

 ――競馬からはばっさり縁を切ろうと思っていた矢先のことだったので、その時は正直余計なお世話だとしか思わなかったが、人付き合いは続けていても損はないかとも思い、結局お言葉に甘えて選ばせてもらうことにした。

 

 

 選んだ種牡馬はビワハヤヒデ。

 93年の菊花賞を制した葦毛馬で、94年にルドルフ以来のクラシック三冠を達成したナリタブライアンの半兄だ。

 

 ビワハヤヒデにした理由だが――正直特にない。

 

 ただ牧場から北海道で繋養されている種牡馬のリストを見せてもらった際、名前が一番最初に目にとまったのと同時に、あの馬の特徴であったデカい顔が脳裏に浮かんだからである。

 また、同馬はまだ種牡馬入り2年目で、リストにそのことが強調されていたため目にとまりやすかったことも理由といえば理由かもしれない。

 

 

 

 

 東京に戻った俺はその後1年ほど競馬とは無縁の日々を過ごした。

 それこそ、かつての愛馬に種付けをしたこともほぼ忘れかけたほどに。

 

 ――だが、97年の春に突然牧場から「無事に仔馬が産まれた」と電話がきたことをきっかけに俺は再び競馬の世界に足を踏み入れることになった。

 

 

 またしても北海道に足を運んだ俺の前に姿を現したのは、見事なまでに灰色の体毛に覆われた小さな牝馬だった。

 

 普通葦毛の馬は生まれたばかりの頃は鹿毛とほぼ同色の毛をしており、年々それが生え変わるにつれて毛色が灰色、白と変わっていくのだが、その幼駒は生後間もないその時点で今にも白くなりそうなほど灰色の毛をしていた。

 

 

 ――断言しよう。一目惚れだった。

 

 

 この馬は間違いなく将来美しい馬になる、という確信を抱いた。

 走るか走らないかという話ではない。

 この馬をこのまま見過ごすのは――別の誰かの手に渡すのは惜しいと思った。

 

 ――その後のことは語るまでもない。

 俺はすぐさま牧場と交渉し、その日のうちにその幼駒を買った。

 

 こうして俺はやめたはずの競馬、そして馬主を再び始めたのである。

 

 

 俺の予想どおり、その馬――ミヤズシラヒメは1歳の頃には毛が白くなり始め、2歳時には「葦毛」というよりも「白毛」と呼んだほうがいいんじゃないかというくらい全身の毛が白くなった。

 

 シラヒメのその毛色の白さは入厩させた厩舎――せっかくなので母馬を預けていたところと同じ厩舎にした――やトレセンでも話題になり、実力はともかくデビューしたらファンが大勢できそうだなと俺も思っていた。

 

 

 ――それゆえに、ゲート試験を合格してすぐに繫靭帯炎を発症してしまい、長期間にわたる治療が必要だと聞かされた時は母馬が生涯1勝もできなかったこと以上にショックだった。

 

 

 悩んだ末、シラヒメを未出走のまま引退させ繫殖牝馬にすることにした。

 シラヒメの美しさは俺だけが最後まで覚えていればいいか、と俺は自分を納得させた。

 母馬と違い、繫殖牝馬としても俺が所有し続けることにしたのもそういう理由からである。

 

 また、繋養先としてシラヒメを委託する牧場は生まれ故郷とは別のところにした。

 これまた母馬とは違い、シラヒメのことを忘れず、なにかあった時は東京からすぐに会いに行けるよう交通の便がいい――ただし北海道は本当に広いので、「交通の便がいい」ことが「スムーズに東京と行き来できる」ことではないのだが――地にあるサラブレッド生産牧場にしようと決め、その条件に当てはまる牧場を調べ始めた。

 

 すると運が良いことに、若い頃からの知り合いで北海道出身だった者が鵡川にある親族の牧場を買い取ってそこの経営者の座に就いたという話を耳にした。

 それが事実であることを確認した俺は、そんな知り合いの就任祝いの名目も兼ねてシラヒメを彼の牧場に預けることに決めた。

 東京で育んできた会社経営者としてのパイプラインが北海道で活かされることになるのは我ながら面白い話である。

 

 

「――では八代(やしろ)、シラヒメのこと頼んだぞ?」

「ああ。

 といっても、俺はあくまでも牧場自体の経営者に過ぎん。

 馬やその世話に関してはこっちの天野に聞いてくれ」

「どうも。牧場長の天野です。

 宮守さん早速お聞きしますが、次の繁殖シーズンでシラヒメに付けたい種牡馬の希望はございますか?」

「……やはり俺が決めなきゃいかんのか?」

 

 自分でもわかるくらい情けない声を出してしまった俺に対して八代がわざとらしくため息をつく。

 

「そりゃそうだろう?

 オーナーであるお前の希望が優先されるのは当然だ。

 決められんのなら天野たちに決めてもらうが……」

「一応お聞きするが、シラヒメの血統的にお勧めの種牡馬は?」

「そりゃやはりサンデーサイレンスですね。

 種牡馬としての実績は十分なので種付け料はべらぼうに高いですが、産駒の能力の遺伝っぷりはすさまじいの一言です。

 ただ、当然他の牧場やオーナーたちも自分の馬にサンデーを付けようと人気が集中するので、希望しても必ず種付けを実現できるとは限りません。

 繫殖側の発情時期にも左右されますので……」

「一応フジキセキをはじめとした後継種牡馬も何頭かいるが、さすがに父親ほどの実績馬はまだ出ていない。

 さらに言うと後継種牡馬たちにサンデーと同等の遺伝力があるかはまだはっきりしていないので少々リスクがある」

「サンデーの次に人気があり、かつ実績もある種牡馬というとブライアンズタイムになりますね」

「ううむ……」

 

 

 今回はさすがの俺も少々頭を悩ませた。

 

 母馬の時とは違い、産まれた仔はほぼ100%俺が所有することになる。

 ゆえに、馬主としてもシラヒメの仔としてもクズ馬は作りたくない。

 たとえ走らずとも生まれてくる産駒がシラヒメのような美しい馬であれば競走馬以外の価値も出てくると思ったので、俺はそういう観点からも種付け相手を考えねばならなかった。

 

「――やはりサンデーサイレンスしかないか?

 しかし、あれの見てくれは決していい馬とは言えないしな……

 気性も荒いというし、そのあたりが遺伝してしまったら乗馬や繫殖としての価値は下がりそうだ。

 “名馬はことごとく悍馬より生ずる”なんて言葉もあるが……」

 

 椅子に座り、手にしていたカップの中に入っていたコーヒーを口の中に流し込みながら俺は考える。

 

 ――その時、ふと頭の中にひとつの疑問が浮かんだ。

 

 

 俺にとっての「名馬」とはどういう馬だ?

 

 

 ――やはりそれは「見ていて美しい馬」だろう。

 俺は自らの疑問に対して即答した。

 

 シラヒメのような一目見ただけで人を魅了する美しさこそ俺にとっての名馬の極致だと断言できる。

 そもそもシラヒメに出会わなければ俺はこうして競馬界にいまだ足を踏み入れてはいない。

 

 そう。「美しさ」だ。

 俺にとって重要なのは「速さ」とか「強さ」とか「血統」以上にそれに尽きる。

 

 ――そうなればシラヒメに交配させる相手の候補となる種牡馬も絞れてくる。

 

 俺の記憶の中に存在する幾多の馬たちの中で、「良い馬」や「美しい馬」の条件に当てはまる種牡馬――

 

 脳裏をよぎった馬は1頭だけだった。

 

 

「――なあ、シンボリルドルフってまだ種牡馬やってたか?」

 

 

「ルドルフ?」

 

 俺の口から出た馬の名を八代たちが繰り返す。

 

「ああ。ルドルフだ。

 もう種牡馬も引退しちまったっけ?」

「いえ、まだ種牡馬は続けているはずですよ?

 年間の種付け頭数は今では数えられるくらいしかいないそうですが……」

「そうか。それならこちらから繋養先に希望すればいつでも種付けさせてくれそうだな」

 

 繋養先の牧場やルドルフ自身の都合もあるだろうが、と思いながら俺は再びコーヒーに口を付ける。

 

「おいおい宮守、今どきルドルフはいくらなんでも物好きすぎないか?」

「サンデーとか人気ある種牡馬を付けても良い馬が産まれるとは限らんだろう?

 それに、シラヒメの子供ならシラヒメのような美しいやつが産まれてほしいというのがオーナーである俺の願いだ。

 シラヒメほどではないが、俺の知るルドルフは実に美しい馬だった。

 競走馬として“名馬”というものを形にした存在はあれ以外思い浮かばん」

「そういえばルドルフの代表産駒であるトウカイテイオーも馬とは思えないほどイケメンでしたね。

 それに、シラヒメの近親にはルドルフと同じパーソロンを父に持つウインザーノットがいますから配合的にも悪くはないかもしれません」

「なら決まりだ。シラヒメの種付け相手はルドルフにしよう。

 実績も十分じゃないか」

「……お前、自分でも気づかないうちに富一さんに似てきたんじゃないか?」

 

 

 こうしてシラヒメの記念すべき最初の種付け相手はルドルフに決まった。

 

 その後繫殖シーズンに突入すると、俺が予想したとおり他に希望する者がぜんぜんいなかったため、シラヒメへのルドルフの種付けはなんの問題もなくスムーズに終わらせることができた。

 繋養先の牧場で見たルドルフの馬体は当時馬齢20歳とは思えないほどいまだに現役時代の威厳と迫力に満ちており、改めて俺に良い馬だなと思わせてくれた。

 

 

 

 

 ――そしてそれからおよそ1年後、シラヒメは無事に1頭の栗毛の牝馬を産んだ。

 当時のシラヒメほどではないが美しい馬だった。

 

 俺は自分の予想は間違っていなかったと確信し、次の種付け相手もルドルフにしようと決めた。

 天野牧場長をはじめ牧場のスタッフたちも賛同してくれたが、八代だけは「経営者」という観点から当初は難色を示した。

 ――が、どうせ競り市には出さず俺が保有することになるのだからいいか、と結局納得してくれた。

 

 

 その後、ルドルフの繋養先の牧場を通して名伯楽である藤島先生との繋がりが生まれ、彼の厩舎に生まれたシラヒメの仔を預けることが決まったのは意外な展開だったが、それ以外は特に何事もなく順調に時が流れている。

 

 シラヒメとお腹の中の仔も今のところ健康状態に異常はなく、こちらも問題がなければ春には第2仔が誕生するだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――しかし、順調すぎるからかえって怖いんだ。

 シラヒメの仔も美しくて良い馬だが、それゆえに万が一のことがあったらと思うと恐ろしくなってくる……

 競走馬としてデビューさせないほうが価値があるんじゃないか、とも思ってしまったりしてな……」

 

 親父が眠る墓標に対して俺は他の者たちには誰も明かしていない胸の内をぶちまけていく。

 

 

 ――ああ、馬主になることがこんなに心臓に悪いものだとは思わなかった。

 

 

 親父は「金」ではなく「夢」を求めて馬主をやっていた。

 「富一」なんて名前をしていたくせに、馬たちに富や名声、勝利を求めてはいなかった。

 今の俺もそんな親父と同類であることは間違いない。

 

 そんな親父も自分が競走馬のオーナーであることに重圧を感じたことはあったのだろうか?

 もうわからぬことだが、こんなことなら生前に一度聞いておけばよかったなどと悔やんでしまう。

 まさに読んで字のごとく後悔である。

 

 

「――だが藤島先生もあの馬には期待しているみたいだからな。それを俺が裏切るわけにもいかない。

 俺なりにやれるだけやってみようと思う――」

 

 俺はポケットから煙草(ショッピ)の箱を取り出すと、その中の1本に火をつけて墓に添えた。

 今際の際に「もったいないから正月と盆以外は墓に花も線香も添え物もいらん」と言っていたが、おそらくヤニは親父にとって「添え物」に含まれないだろう。

 

 

 俺は親父とは違うから親父が馬たちを通して見ていた夢を見ることはできない。

 これははっきりと言える。

 

 ――だが、親父のようになんらかの夢を馬を通して見ることはできるかもしれない。

 

 あの栗毛の馬は――シラヒメの仔は俺にかつて親父が見たものと同じような光景をはたして俺に見せてくれるだろうか?




●宮守 友作
 ある種の箔付けのために馬主の資格を得たが、競馬を「経営者」としての視点から見てしまうため馬を持つ気はほぼゼロだった。
 そんな彼の運命を大きく変えたのがミヤズシラヒメ。
 そのため、以降どんな馬を見ても「美しさではシラヒメにはおよばない」と断言してしまう一種の親バカになった。
 なお、生まれて間もないお姫ちゃんにも当初同じようなことを言ったため、以降彼女からは塩対応されてしまうことに……

●宮守 富一(とみいち)
 友作の父。享年77歳。
 江戸時代から続く商家である宮守家の当時の長。
 かつては海軍の軍人となって飛行機のパイロットになることを夢見ていたが、唯一の子供かつ男児だったことを理由に両親や親族から猛反対されて諦めたという過去を持つ。
 良くも悪くもシンザンによって人生を狂わされ、大人ながらも子供のような夢を馬を通して見続けていた。
 当時の競馬界では「安い馬を何頭も買っては中央・地方問わず走らせて、勝ち負けなどお構いなしで馬主を満喫していた変わり者」として知られていたらしい。
 彼および友作の所有馬は基本的に「ミヤズ」の冠名を与えられている。

●ミヤズシラヒメ
 友作が馬主として2頭目に所有した馬。
 葦毛だが生まれた時点でその毛色はかなり灰色だった。
 父ビワハヤヒデ、母ミヤズサンサン、母父メイワパッサー。
 未出走ながら友作の人生に大きな影響を存在で、今もなお友作にとっては人生で一番の「名馬」。

●ミヤズサンサン
 友作が馬主として最初に手に入れた馬。架空馬。牝馬。黒鹿毛。1991年生まれ。
 ミヤズシラヒメの母。お姫ちゃんの祖母。
 父メイワパッサー、母サンサン、母父Bald Eagle。
 半兄に1984年、翌85年の函館記念を制した快速馬ウインザーノット(父パーソロン)、全姉に1992年の関屋記念を制したスプライトパッサーがいる。
 母サンサンは1972年の凱旋門賞を制し、その後繁殖牝馬として日本に輸入された名牝。
 凱旋門賞馬の仔であるため当初はとある大物馬主に売られる予定であったが、当時は父メイワパッサーに実績のある産駒がいなかったこと、生まれた91年に近親(甥)の「3億6000万円の馬」ことサンゼウスが盛大にコケたため買い手がつかず、流れ着くかのごとく友作に当初の販売価格よりも大幅に安く買われた。
 良血馬であるが当時の友作は馬主に興味がなかったので、競走馬を引退後は生産牧場に買い戻され牧場所有の繁殖牝馬となった。
 余談だが、ミヤズサンサン自体は架空馬ながら史実でもサンサンは1990年にメイワパッサーを種付けしている(不受胎)。

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