ラブラが入院してから3週間が経った。
治療の経過は良好であり、入院当初に比べて笑顔を見せるようになっている。 時々右足のギプスを外したいと駄々をこねる事があるが、入院が長引いたらアイが寂しくなるぞとアクアが釘を刺してやると、分かりやすいくらいにしょんぼりと項垂れる事もあった。
彼の入院でアイの活動に支障が出ると危惧されたが、それは杞憂となった。 いや、むしろ逆だと言っていい。事故後に開催されたライブ以降、彼女はいつにも増してエネルギッシュに活動を続けている。
それでもラブラへの見舞いをほぼ欠かず行っているので、アクアは彼女にあまり無理をしないようにアドバイスをした。 だが、彼女は「大丈夫」と笑い飛ばした。
なんでも見舞いのたびにラブラから元気になるおまじないをしてくれているそうだが、それが何なのかは内緒だと流されてしまった。
何はともあれ、苺プロは今後も安泰といったところだろう。 一方でアクアとルビーは、
「アクア、紫のクレヨンない?」
「あるぞ、ほら」
「ありがとう」
ルビーはアクアから紫のクレヨンを受け取ると、手元の紙人形へ塗っていった。
二人は幼稚園で行なわれている図工の時間で、家族を模した紙人形を作成している。
紙人形といっても人型に切り抜いた厚手の画用紙をクレヨンで色付けする簡単なもので、出来上がったものを1枚の画用紙に貼り付けて一つの作品に仕上げるというものだ。
「できたっ!」
ルビーは完成した作品を手に取り、誇らしげに笑った。
紫がかったショートの黒髪に、黒と青のグラデーションで彩られた目をした可愛らしい男の子。 そう、ラブラの紙人形だ。
「上手くできてるじゃん」
「うん、我ながら結構いい出来。 そっちは?」
「こっちの分は終ってる。 そろそろ貼り付けるか?」
「待って待って! あと1個作るから!」
ルビーはラブラの紙人形を傍らに置き、新たな紙人形の制作に取り掛かり始める。
「なんか楽しそうだな」
「ま…まぁ出来上がったやつを持ってってあげたら
そう言葉を返したルビーは照れくさそうに頬を掻いた。
ルビーはアクアと同様に前世の記憶を持って生まれた。 血の繋がりこそあれど半分他人のようなものであり、馴れ合うような事はせず兄妹の振りをしてきた。
それは前世の記憶を持たずに生まれたラブラに対しても同様だったが、ルビーは彼に嘗められないように強気な態度でマウントをとろうとする事もあった。
だがラブラは、そんな横柄に振舞うルビーを身を挺して救った。自分への損得勘定など度外視にだ。
それからのルビーは、ラブラを『血が繋がってるだけの他人』から『自分を大切に思ってくれる家族』として認識を改めているようで、アイと同じようにラブラへの見舞いに行っては、彼が退屈しないように話し相手になったり、絵本を読んであげたりするなど姉らしい行動をするようになっていた。
ルビーも姉としての自覚が出てきたんだなとアクアがしみじみ感じていると、不意に彼の体がブルっと震えた。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
「行ってらー」
ルビーにトイレへ行く事を伝えると、アクアは保育室を後にした。
「ったく、この体じゃ我慢するのもしんど……は?」
児童用トイレの入り口前であるものが置かれている。 よく見るとそれは『掃除中』と書かれた立て看板だった。
「マジかよ……」
衛生管理のためとはいえ、今の自分には最悪の状況だ。 もう一つの児童用トイレは2階にあるから階段を上って行っては間に合わない。 込み上げてくる尿意に焦っていると、ある場所を思い出した。
「あそこならっ…!」
たしか幼稚園の裏口近くに職員用のトイレがあったはずだ。 その記憶を頼りに向かっていくと、目当てのトイレが目に入った。 薄暗くて不気味だが、今のアクアからすれば砂漠での遭難でようやく見つけたオアシスのように思え、彼は一目散に駆けていった。
だが、アクアは気づかなかった。
職員用トイレへ駆け込む彼を、遠くから見つめる人影があった事に。
――アクアがトイレへ向かう30分前。
ラブラが入院している総合病院のとある医局で、彼の担当医師を務める男性医師が神妙な面持ちでノートパソコンの画面を見ていた。 そこへ書類を持った看護師が医局を訪れた。
「先生どうしたんすか? 柄にもなく神妙な顔して」
「柄にもなくは余計だよ……いや、気になる事があってね」
「気になる事?」
首をかしげる看護師に、医師がパソコンを見せる。 その画面にはレントゲン写真の画像が映し出されており、患者のレントゲン写真のデータのようだ。
「これは?」
「ラブラくんのレントゲン写真だよ。 ほら、3週間前に搬送された子」
「あぁ、あの子っすか。 確か車に轢かれたんでしたっけ? その子のレントゲンって事は、さぞかし悲惨な――」
画面を次々とスライドさせてレントゲン写真を流し見していく看護師の言葉が途切れる。やがて最後の画像まで見終えると医師へ顔を向けた。
「これって……」
「昨日、別の看護師からラブラくんが右足をひょいッと持ち上げたなんて話を聞いて、気になって検査してみたんだが…どう思う?」
「どうって…ありえないでしょ。 複雑骨折した足が、たった3週間でここまで修復するなんて……」
「足だけじゃない。頭蓋骨と肋骨にいたってはほぼ完治してる。 いろんな患者を診てきたけど、こんなに治癒が早いのは今まで見たことがないよ」
「この子はいったい……」
その時、デスクに置かれたPHSからピピピッと着信音が鳴り、医師はPHSを手に取った。
「もしもし……え、ラブラくんが?」
医師は驚いた顔をすると、PHSをポケットにしまって医局を飛び出していった。
医局を飛び出した医師は、自分に連絡を入れた者のいる場所―――ラブラのいる病室前まで来た。 そこには一人の看護師が病室の戸を背にしており、医師に気づくと安心した顔を見せた。
「待ってましたよ先生…!」
「ごめん、遅くなって。 それで何があったの?」
医師の質問に、看護師はこれまでの経緯を話し始めた。
数分前、今日のリハビリについて説明している最中に、急にラブラが顔をこわばらせたと思うと看護師に掴みかかって来て『ここから出して!』と叫んだそうだ。
看護師はまだ骨折が完治してないから退院できないと伝えると、ラブラはベッドから降りて出口へ這いずって行こうとした。 それを見た看護師が慌てて彼を押さえつけると『アク兄が危ないんだよ! 離して!』と3歳児とは思えない力で暴れ出したのだった。
一人では対応しきれないと感じた看護師は、咄嗟に外出の許可をとってくるから待ってほしいと訴えると、ラブラは暴れるのをやめて『ほんと? ほんとに出してくれる?』と質問した。
彼の質問に看護師が戸惑いながら頷くと、ラブラは大人しく病室で待つことを約束し、今に至る……らしい。
「そのお兄さんが危ないっていうのは?」
「それが…なかなか要領を得れなくて。 でも、あのラブラくんがあそこまで不穏になるの初めて見たので。 それで先生、外出の許可は……」
「いや、すぐには出せないよ。 まずは彼の話を聞いてから判断しないと……彼は中に?」
「えぇ、先生が来るまで入り口を張っていましたので」
「分かった。 後は僕がやるよ」
医師はそう言いながら病室の扉を開き―――その先の光景に我が目を疑った。
なぜなら、ラブラが窓際に置かれたスツールを踏み台に、開かれた窓のサッシへよじ登ろうとしていたのだ。
「何をしてるんだ!!」
医師の怒鳴り声にラブラがよじ登ろうとする姿勢のまま顔を医師の方へ向ける。
脱走しようとした事がばれ、彼の顔に焦燥の色が出た瞬間―――
ズルッ
「 ぁ 」
サッシへと乗せられた左手が滑り、彼の体が
足でもいい、服でもいい、どこでもいいから掴めてくれ。
しかし、そんな切実な思いをあしらうようにラブラの体は医師の手をすり抜け、吸い込まれるように窓の外へと落ちていき―――
ドサっ、と軽い荷物が落ちたような音が病室に届いた。
すぐさま医師が窓の外を覗き込む。
眼下にはセラピーガーデンとして作られた中庭が広がり、そこを散歩する数人の患者。
そして……石畳に横たわるラブラがいた。
異変に気付いた患者たちがラブラに歩み寄り、大丈夫かと声をかける。
すると、横たわる彼の頭を中心に血たまりが広がっていき、それを見た患者たちは慄きながら後ずさっていった。
「せ、先生…ラブラくんは……」
看護師の呼びかけに医師はハッとした。 今は呆けている場合ではない。 急がなければ。
彼はPHSを取り出してナースステーションに連絡を入れると、状況を簡潔に伝え、中庭に応援を向かわせる事と緊急手術の準備をするよう手配をした。
「今から中庭へ向かう! ついて来てくれ!」
「は…はい!」
2,3分ほどで中庭に辿り着いた医師と看護師は目の前の光景に言葉を失った。
そこには石畳に広がる血だまりを囲うように倒れ臥す複数の患者たちがいる。 だが、血だまりに倒れているはずのラブラの姿が無かった。
医師と看護師は患者の一人ひとりを調べるが、どの患者にも外傷は見られず、単に気を失っているようで呼吸も安定していた。
「先生っ…見たところ患者さんに外傷は見られません…!」
「そうか…しかしラブラくんはどこに?」
先ほどラブラが倒れていた場所を見やると、病院の裏門方面へと続く赤い足跡があった。
「君はここに残って、後から来た人に患者さんたちを介抱するよう伝えてくれ。 僕はラブラくんを探してくる!」
「は、はい…!」
医師は看護師に指示し、足跡を辿った。
ギプスをはめた右足を引きずったであろう足跡。3階の高さから落ちたのだ。そう遠くへは行けないはず。
その考えで追跡をしていく医師だったが一向にラブラの姿が見えない。 そして追跡する中である事に気づいた。
先ほどまで引きずるような足跡が次第に規則的なものになり、間隔が段々と広くなっていた。
「まさか、走ってる…?」
馬鹿な、いくらなんでもあり得ない。 思わず口走った言葉に医師は混乱する。
やがて裏門に差し掛かると、門の陰に転がる物体が目に入った。
「これは…!」
その物体が何かを理解した医師は驚愕した。 それは先ほどラブラの右足を固定していたギプスだった。 だが、医師が驚いたのはそこではない。
ポリウレタン樹脂によって固められたギプスが、まるでワニの口のように踵部分まで裂けていた。ギプスカッターなどの器具で壊されたのではない。 力まかせに引き裂いたような壊され方だった。
「なんなんだ…これは」
動揺しながらも追跡を続けようとする医師だったが、少し歩いた所で足を止めてしまう。
敷地内から続いていた足跡が、裏門を超えたあたりで
医師は裏門を飛び出して道路を見渡す。 遮蔽物がほとんどなく、見晴らしがいいというのにラブラの姿はどこにもなかった。
ラブラへの手がかりを失い、医師は陽炎が揺らめく道路を呆然と見つめた。
「ふぅ…何とか間に合った」
トイレを済ませたアクアは職員用トイレの洗面台で手を洗っていた。 職員用なだけあって高さがある分、つま先立ちでプルプル震えながらではあったが。
一通り手を洗うと持参しているハンカチで手を拭き、何の気なしに顔を上げ、
鏡に映る背後の人影と目が合った。
反射的にアクアが振り返る。 その瞬間、大きな手の平が彼の口を頬ごと鷲掴みにして塞ぐ。そして―― 一発の拳がアクアの腹に突き刺さった。
「ッ…!」
アクアは呻き声を上げる事さえできずに意識を刈り取られ、その場に崩れ落ちていった。
その人影は床に倒れ臥すアクアを小脇に抱え、職員用トイレの入り口から廊下の様子を窺う。
廊下に誰もいないことを確かめると、人影はアクアを抱えたまま裏口から外へと出ていった。
誰もいなくなったトイレには、アクアのハンカチが残されていった。