結局私は、キッチンスタッフのバイトを始めることにした。
バイトの面接の際にホールスタッフを妙に勧められたが、予定通りキッチンスタッフとして採用された。
予定通り、というのは、弟と相談して決めたことだ。
愛莉に相談したその日の夜。どうしたものかとベッドでごろごろしていた私はそういえば、と思い出したのだ。
弟こと、東雲彰人がバイトをしていたではないか、と。
「ねえ彰人。バイトしようと思うんだけど、オススメってない?」
「…まずノックもせずに部屋の扉を開けるのをやめろ」
「ごめんごめん。で、オススメは?」
「…接客の多いのは向いてないんじゃねーか。すっげぇストレス貯めこみそうだし」
以上があの日の夜の会話。
接客が向いていないかどうかは不明だが、確かに見ず知らずの人を相手にして不快になってまで頭を下げなくちゃいけないのかと思うと憂鬱になるので、大人しく彰人の言うことに従ったということだ。
幸いホールスタッフも店長も優しい人ばかりだし、初めてのバイトだけど、ここがあたりの部類だということは私でもわかる。
まだ顔を合わせていない人もいるが、多分大丈夫だろう。
あまり長く同じバイトを続けるつもりもないので、数か月で辞めることも店長に話を通してある。短い期間になるだろうけど、それでも歓迎してくれていたのでありがたい限りだ。
そんなこんなで、今日の放課後が初仕事。
最初は仕事を覚えることが最優先だ、とは言われているものの、他人の足を引っ張るのも嫌だし、早いとこ戦力になれるように頑張ろう。
「ま、仕事が好きなんじゃなくて、お金もらってるのに戦力になれてないっていう負い目が嫌なだけなんだけど」
鞄の中に適当に教材を詰め込んで、肩にかける。
いつも思うが、そろそろ高校に指定される教材はどれも分厚いしその分重い。さっさと電子化してタブレット1枚鞄に入れればオッケーな時代にならないだろうか。
そうしたら、教科書を忘れてしまうなんてこともなくなると思うのだけど。
スマホを取り出して現在時刻を確認。一度家に帰ってシャワーを浴びたかったところではあるが、今日はそのまま向かうしかないだろう。
…今日は、と言うか、この時間からバイトに入るなら今後もそうなんじゃ。
「…今日は体育なかったからいいけど…はぁ」
そういえば、そのうち神高祭なるものが始まると聞いた気がする。準備期間中に何も担当しない、なんて生徒がいるのは想像できないし、多分帰るのも遅くなるんだろう。
そうなると必然的にバイトにはあまり出られないかもしれない。
「今は週3で入れてもらってるけど…期間中は土日にした方がいいのかも」
私が採用されたのは夜遅くまでやっているファミレスだけど、学生である都合上23時以降外にいると補導される可能性も出てくるだろう。
25時からはサークルの集まりもあるし、そこまで睡眠時間を削ってまでバイトをしたいとも思わない。
ただ、学校行く前にランニングでも始めようかな、とは思うけど。
「おーい、東雲姉~」
さっさとバイト先に向かおうと廊下を歩いていると、背後から担任の声が聞こえてきた。
この担任、この学校に東雲が2人いて、なおかつ姉弟だからっていう理由だけでわざとこの呼び方をしてくる。
他の生徒は下の名前で呼んでいるので、完全に面白がっているわけだ。
「なんですか?」
「弟いるだろ? その弟が何やら急いだ様子で教室を出ていくもんだから、プリントを渡せなかったんだと。家で会ったら渡しといてくれないか?」
「はぁ…」
「別に仲悪いわけじゃないだろ? 頼んだよ、お姉ちゃん」
「…」
担任に渡されたプリントに目を落として内容を見たところ、先程私ももらったプリントと同じ内容だった。
別に学年が違うから内容も違うわけでもなく、要は保護者説明会と言うやつだ。実際に内容が違うのは説明会に行ってからだろうから、別にこのプリントを渡す必要はないはず。
ため息を1つ吐き出して、カバンの中のクリアファイルに紙が折れないようにしまい込む。
そういえば、彰人はまだ歌を歌っているんだろうか。
<♪>
何も考えられないほどに消耗した体に鞭を打って、バイト終わりの帰り道を歩く。
ぶっちゃけ死ぬかと思った。
私がバイトに入る時間帯が、要は私のような学生が学校終わりに来るような時間帯とも被るのだ。しかも家族もそれなりに来る。
忙しくない時間はいいのだが、ピークの時間帯は冗談抜きで足の感覚がなくなっていたような気がする。
これ、私持つのだろうか。
「…あんまり長く働けないのに歓迎されていた理由が、分かった気がする…」
気がする、と言うか、ほぼそうだろう。
新入りの私でさえこれだけ忙しいのだ。先輩たちの忙しさは私のそれと比にならないはず。
最初こそ余裕があったから詳しく教えてくれていたが、客が増えてからはもう私の自己判断で仕事をするしかなくなっていた。
誰かに聞こうと思っても全員忙しそうに歩いているんだもの。声をかけられるはずもなく。
「誰にも怒られなかった、というより、むしろ褒められたけど…これで調子に乗ってるとそのうち痛い目を見そう」
今日やった仕事をまだ頭の中に残っているうちに、文字に起こしておいて復習をしておかなければならないだろう。
後は、手のケアか。
元々絵描きを目指していることはバイトの面接の際に話をしていたので、皿洗いを担当することは滅多にないだろうけど、唐突に人が来られなくなった、なんて不測の事態に陥った時に私が断れるわけもないだろう。
自分の胸元の服を掴んで、匂いを嗅ぐ。
「…さすがに渡された調理服を着てたから、服にはついてないけど…時間の問題かなぁ」
容易に洗えるような服でバイトに来るのが良いかもしれない。
今はまだ制服に匂いはついていないが、私自身に匂いがついているから移るだろう。多少ならスプレーでどうにかなるかもしれないが、いつかはクリーニングに出さなければいけなくなるはず。
その日のうちに終わる店を見つけられればいいが、休日の間に終わらなければ、先生に相談してジャージで授業を受けることになる。
流石にそんな恥はかきたくない。
「ていうか、お腹すいた」
ずっと調理をしていた影響で、いい匂いをずっと嗅いでいた。今日のご飯は働いて疲れたのもあるが、すごく美味しく感じられるだろう。
「ただいまー」
「あら、おかえり。初めてのバイトどうだった?」
玄関を開けると、何かしら物を取りに来ていたのか、お母さんがいた。
バイトの感想を求められて、思わず苦笑い。
「疲れた。けど、いい体験になると思う。将来は働かなくちゃいけないんだし」
「…そう。それもそうね。絵名は朝は弱いから、そこも直していけるといいわね?」
「別に、用事があるから夜まで起きてるだけで、早く寝たら普通に起きられるって。…もうご飯できてる?」
「ええ。もう食べる? 彰人はまだ帰ってきてないけど、もう少しで帰ってくると思うわよ?」
今すぐ食べたい、と私の胃のメッセージを無視して、首を横に振った。
「先にシャワーだけ浴びようかな。匂い落としたいし」
「そう。…確かに、いい匂いがするわね」
「ちょっとお母さん、恥ずかしいからやめて」
鼻をくんくんさせながら近づいてきたお母さんの顔をおしのけて、脱衣所に入る。
「…お客さんがいっぱい来てくれれば、それなりに動くんだし、痩せるかな…」
<♪>
『えっ、えななんがバイト!?』
『Amiaうるさい』
25時過ぎ。いつものメンバーが集まって作業を始めていたのだが、行き詰っていたのかAmiaこと瑞希が近況を聴きたいと話題を振ってきた。
どうせ私外の2人はいつもと変わらない日々を過ごしているんだろうとあたりを付けて、先に私がバイトを始めたことを告げた所、瑞希が驚いて大声をあげて、まふゆに怒られていた。
『だってだって、えななんがバイトだよ? どういうバイトしてるのかはわかんないけどさ、ちょっと想像つかなくって』
「…まぁ、確かに自分でもイメージつかないっていうのは、わかるけど」
実際数か月前の自分に、バイト始めてるぞ、なんて言っても信じないだろう。
『…バイトって、大丈夫なの?』
「大丈夫って…K、別に危ないことをしてるわけじゃないんだからね?」
『ああいや、そうじゃなくて。…うーんと、なんて言ったらいいんだろう』
そんなに奏は天然というか、外の世界を知らないのか、と思って聞いてみると、奏も言いたいことは違うのだが、ぴったりの言葉が出てこずに唸っていた。
何が言いたいんだか、私には察することはできなかったが、まふゆが多分だけど、と声をあげた。
『えななんがニーゴにあまり来れなくなるかも、って、考えたのかも』
『それって、えななんがいないとさみし~、ってこと?』
『う~ん、そうなる、のかな? でも、声を聞いた限りだと、すごく疲れてそうだったから、作業自体出来ない日ができてもおかしくない。そうなると、今のペースで作ることはできなくなるから…えななんの体が心配になったのも、嘘じゃないよ』
なんだか照れくさい、と同時に、嫌悪感。前者は、奏に対して。後者は、私に対して。
そこまで奏に必要とされる人材でもないことは私が一番知っているのに、その奏に必要とされて、嬉しく思っている。
『…どこでバイトしてるの?』
「え? あぁ、えっと○○ってとこのファミレス。前にオフ会しようって言った時の候補にあがってた場所かな」
その時は確か、4人の家から一番近いから、っていう理由で別の場所のファミレスになったんだっけ。
『へぇ~』
『そうなんだ』
まふゆにそう答えると、瑞希と奏が何か思い立ったような声をあげた。
…嫌な予感。
『えななん、バイトに行ってる曜日を教えてくれる? 毎日活動してるわけじゃないけど、その日は避けようと思うから』
「あ、うん。今は週3でいれてるから、月水金かな。土日はまだ検討中だけど、多分体力的に入るとしてもまだ先になると思う」
『まぁ、バイト入ってる日はえななんは活動できないかもね~。それだったらその日は、セカイに集まって雑談をする日でもいいし。話をすることで何かしらインスピレーションを得るかも』
そんな瑞希の提案に、奏が確かに、と賛同する声をあげた。
ぶっちゃけ活動しないなら寝てしまいたいのだけど…まぁ、みんなの刺激になるならそれでもいいか。
ただ、最初の方は話をしているうちに寝落ちしてしまうかもしれないので、そこは目をつむってもらいたいが。
サークルの活動する曜日を改めて決めた後、結局、この日も私が疲れてるだろうから、という理由で私は早めにあがらせてもらい、通話を終了した。
私が感じた嫌な予感がなんだったのか、最後まではっきりしなかったが…気のせいだったのだろうか。
「あ、わかった。私がシフトに入ってる時に来るつもりだ」
なんで顔見知りの接客をしなくちゃいけないんだ、とため息を吐きだそうとしたところで、そもそも私は客と話さない場所にいることに気が付いた。
ホールスタッフじゃなくてキッチンスタッフとしているのだし。
「…ま、いいか」
3人がファミレスに来て落胆していても、そもそも私が来てくれと頼んだわけでもない。
メッセージを送るか一瞬悩んだが、別にどうでもいいかと考えた私は、そのままPCをシャットダウンさせて、寝る準備を始めた。
明日も学校だ。
「…あ、プリント渡すの忘れてた」