「ねえ」
「何ですか」
「最近言ってたじゃない、私に。イタリア料理屋さんをやってほしいって」
グラスを磨く俺に、カウンター越しに宮さんが話しかけてくる。
神奈川県横浜市、中区は馬車道。夜の10時、都会の中でひっそりと営まれる『BAR・馬のヒヅメ』。
店名にそぐわない、洒落た赤い照明の目立つ店内には、店主の好みでジャズと米米CLUBが交互に流れている。ボトルキープを申告した時には、ゼルダのSEが流れる。看板猫はナルガクルガ(♀・3さい)。
俺は他のバーをテレビなどでしか見たことがなく、同業他社に行ったこともないので分からないが、恐らく他の店もこのような自由な感じなのだろう。やりたいこと、やった者勝ち。
それに、バイト先としては理想だ。時給は1200円、23時からは1500円。研修中は1100円。交通費は2万円まで支給。ネイル、ピアスOKの髪色自由。なんといっても、制服が和服だ。これが一番気に入った。
幸い、俺は顔だけはよかったので、即採用。酒の種類もそこそこ覚えることができ、即戦力として週3で働いている。
カウンターに座った宮さんに、俺は水を出す。
「昼はレストラン、夜はバーってことで、一緒にやらない?」
「お客様、チェイサーでございます」
「真剣に言ってるんですけどぉ。そこまで酔ってませ~ん」
「……今は、あまり考えられませんね」
「まだ心がちょっと、って感じ?」
「いえ、自立しきれてないので」
寂しそうな目をしていた宮さんは、一転、いつもの明るい雰囲気を取り戻す。
「あはは、まだ大学生だものね」
「できたらどんなに良いことか、とは思います」
「えっ!? 乗り気!?」
「この職は、嫌いではありません」
本心だ。彼女とそういったことができたら、俺も少しは生きる意味をそこに投影できるのかもしれない。つまりは、もう少し俺の精神もマシになるかもしれない、ということだ。
それに、俺はこうやってグラスを磨くのも、ドリンクを提供するのも、好きと言えば好きだ。
客と話すには、心の余裕が必要だが。前のように、朝起きて全く身体が動かず、死にたい気持ちしかなくなるようなことは無くなったが、今でも俺の精神状態は焼け野原。完全復帰には、あと数年はかかる。
宮さんの言う『まだ心がちょっと』というのも、間違いではない。なにゆえ今、俺は大学にまともに通いながら週3でバイトができているのか分からない。今にも壊れそうだ、という感情が常に脳内の隅にある。
それは何も真白のせいだけではない。あのクソみたいな部活が──
「アトム~~~!!!」
「邪魔するなら帰ってやー」
「お邪魔しますって言わないとそれは成立しないよ!?」
俺は頭の後ろを掻きながら、カウンターの端を指さす。
「店の雰囲気が崩れる。静かに入れ」
「はぁ~いっ」
真白は、俺が指したところとは数席離れた、宮さんの隣に座る。
「店、将来やりたいのは山々なのですが……こいつがいるので……」
「ああ……」
「えっ、なになに。私の方見て頷いてるけど」
「ふふ、ゴメンね~。私、空気読めない女みたいだったでしょ」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
「やっぱりチェイサーもらうわ。あ、麦茶もよろしく」
「かしこまりました」
宮さんは、グラスの水をくいっと半分ほどいく。
「私以外の人と、何話してたの」
「真白の可愛いところ10選」
「もぉ~!!」
くねくねしている真白の横で、感心したように「へぇ」とこぼす宮さん。グラスを揺らしながら、俺と真白を交互に見て、何かを察したみたいだ。
宮さんは、少し前に真白の通い妻姿を目撃してからというものの、俺らの関係を応援してくれている。今では顔を合わせるたび、「付き合いなさいよ」と言われる始末。隠さなくてよくなったので肩の力は抜けたが、なんだか告白を受理しない俺が悪者みたいで落ち着かないっちゃあ落ち着かないんだよな。
「扱い上手いわねぇ」
「高校の時とは違うあしらい方をしなければならないので、最初は戸惑いましたがね」
俺は真白の方に向き直る。
「お客様」
「はい?」
「ご注文は」
「んーとね、アトムとアフター」
「嫌ではないけどそういう店ではない」
あとそれ、多分ファイナルラウンドで言う口説き文句だろ。こんな入店直後に言う言葉ではないだろ。もうセックスまで持っていける確信のある奴しか言わないだろ。あとそんなに直接的に言わないだろ。知らないけどさ。
「じゃあカルピスサワーで」
「はいよ」
「すごい……『嫌ではない』という意思表明を第一に見せて、機嫌が悪くならないようにしてる……」
この人が隣なら退屈はしないな、とばかりに、宮さんは真白に椅子ごと近づく。
「沙羅田ちゃんはさ」
「なんですか~?」
「いつから鶴嶋君のこと好きになったの?」
「え~? それ聞いちゃいます?」
ええ、それ聞いちゃいますか。真白と全く同じタイミングで言いそうになったが、奥で仕込みをしている店長がやたらと見てくるのでこらえた。私語が極限まで許される職業じゃないのかよ、バーテンって。
「私、もともとアトムのことはあんまり好きじゃなくって」
「嘘ぉ!?」
「本当ですよ。ほら、初対面の人にいい顔するじゃないですか。あの子」
「なんか猫かぶってる時はあるわね」
「そういうアトムの『僕はみんなのことを第一に考えてます』ってところが、なんか人間味なくて気持ち悪かったんですよ」
「うわぁ~、言いたいことは分かる」
喧嘩か? 別にそういう風に過ごしていたことは嘘ではないから、否定はしないけど。
いや、否定はしないけどよ。否定されたくもないんだよな。
「でも、みんなに仲良くいてほしいのは彼の本音だったみたいで」
「えっ?」
「あの性格になってから、分かったんです。彼、どうやら自分を世間の荒波から守るためだけにあの性格を演じてただけっぽくて」
「と、いうと?」
「人間の怒ってるところや悲しんでるところを見るのが嫌いで、身内が喧嘩をしているのが嫌で。彼はとても繊細な、優しい人間っていうのは、昔から変わらないんです」
ちげえよ。シンプルに大きい声出して感情をあらわにしてる人がなんか怖いだけだよ。でけえ声出してりゃ怒ってても泣いてても笑ってても怖いよ。ショッピングセンターで泣いてるガキとか嫌だもん。あれも普通に怖いから。
俺は他人を気遣えるほど余裕がない。自分を取り繕うので精いっぱいなんだから。
「それと私、演技をしてるアトムを見るのは好きだったんです」
「演技?」
「えっ、演者のアトムを知らないんですか!? 2020年は高校演劇関東大会、あの穂村の末裔と互角に渡り合った名演者! 高校演劇第三世代最強との呼び声も高かった、あの!」
「お客様、チェイサーでございます」
真白の前に、音を立ててオレンジジュースを置く。紙パックのまま。彼女は俺のほうを見上げ、頬を膨らませる。かわいい。
「なにぃ? せっかくアトムの武勇伝を語ろうと思ってたのにっ」
「武勇伝って自分の口から語るからカッコいいんだろォ?」
「じゃあアトムが直々に話してくれるワケ?」
「それは嫌だ」
「ほら! だから私がアトムの強さとか優しさとか、いい所たっくさん教えようとしてるんだよ!?」
「俺のいい所なんか顔しかねェよ」
顔は自覚している。生まれてから今まで真面目に褒められたところなんて、この顔くらいしかないんだから。
ちなみに、俺は自分自身の顔の良さがあまりよく分かっていない。いわゆる、自他共に認めているといったような状態ではない、ということだ。しかし他人に褒められた回数が一番多かったのは、間違いなく顔だ。
演技力だけで言えば、高校でも大学でも別にトップと呼ばれるほどのものではないし、また全体的なルックスで言えば普通だ。むしろ身長がデカすぎて、初対面の女性には『表の顔』なしでは怖がられてしまう。
「顔『も』いい! 演技力おばけ! 実はコミュ力あって多才で博識!! えっ、完璧人間!? 抱いて~~!!」
そんな俺にでも、この特殊性癖女は好きだ好きだと言ってくれる。愛してくれる。それがありがたいことだというのは、俺も理解しているつもりだ。
俺と違って、本当はソイツなりのいい所があるのに、見た目だの性格だの身分だのといった生まれつきの要因でパートナーが見つけたくても見つけられない奴だって、この世にはごまんといる。そういった背景を鑑みてみれば、俺は非常に運のいい人間だ。考えすぎかもしれないが。
というか、あまり大声で抱いてだのなんだの言うな。抱くのはいつもお前側だろ。いっつもいっつも上に乗りやがって。
「高校の頃と比べたら、老け込んじまってるけどな」
「それがいいんじゃん!!」
じゃあ俺よりも年上のやつにすればいい、とはこの前言ったが『その年齢でその大人び方だからいいんでしょ!!』と言われてしまった。変な性癖。
「お似合いね」
「え?」
「んえぇ~~~!? そうですかねぇ!? でへ、でへへっ」
「声でけ~。酔ってると尚更」
「演劇人ですからっ」
「桜木花道かよ」
俺たちをからかうように笑う宮さん。真白は面白いくらいに照れているので、思わず俺もつられて笑う。心の中で。いや、表情に出してみようとはしたのだが、バイト中の俺の表情筋というのは思ったよりも固いらしい。
「沙羅田ちゃんも演者なの?」
「はいっ! 高校からやってますっ!」
「ふふ、ホントに声大きいわね。じゃあ、鶴嶋くんは?」
「え? 何がですか?」
「演者。まだやってるの?」
「ん……」
ズキン、と、心臓の奥あたりが痛む。そんなわけはない、それは俺の被害妄想だ、と気を確かにするために、自分用の水が注いであるジョッキを飲み干す。
「いいえ、今はもう……」
「ええ~? 顔いいのに。もったいない」
宮さんは何も知らないなりに、少し深く聞き込もうとしてくる。バーテンダーという職業上、こういったシチュエーションになること自体は、何ら不思議ではない。
過去のトラウマにびくびくして、社会に出ることさえもままならないなんて、親が聞いたらなんと言うだろうか。
分かっている。すべて、俺のせいだ。
俺は今まで散々逃げてきた。生まれついてからの、逃げまくりの負け犬根性がこの苦痛に耐えがたくなり、勝手にありもしない痛みを生み出しているだけだ。かわいそうな人間を『演じている』だけだ。
そう何度も心の中で繰り返したとて、その心の痛みは取れない。いや、普段は麻痺しているだけなのかもしれない。『奴ら』のせいで、心に刺さって錆び付いたトゲが、今になってまた気付いたことで忘れていた痛みにも、また気付いてしまったのだ。
「続けたい、とは……思ってるんスけどね」
ああ、また笑えない。職場でも『表の顔』でいればよかった。
分かってる。こんな質問、日常の中でいつ出てきてもおかしくない。宮さんは、悪くない。それは分かっている。だから、だからこそ、俺は勝手に沈んでいる俺自身を許せないのだ。
生きづらいな。溜息をこぼしそうになった。
「ねえアトム! シフトそろそろ終わりじゃない?」
「あら、そうなの?」
「こいつ、とうとう退勤時間まで覚えだしたよ……」
「えへへ~っ。アフターが目的だからねっ」
うるさい。しかし、シフトの終わりが迫ってきていることは確か。真白、ナイスフォローだ。
助かったことに変わりはない。俺はきちんとレジに真白にサービスしたドリンクの代金だけ入金をする。
「ねえ」
普段通りの、落ち着いた声色で、宮さんが話しかけてくる。少し背中が跳ねたが、平静を装って答える。
「なんスか」
「最後に、写真だけ撮っておきたいの」
「ええっ。そりゃまたなんで」
スマホを懐からにゅっと出す宮さん。その後ろから、見るからにノリノリな真白が顔を出す。
「いいじゃんいいじゃん! 和服バーテン、大バズり待ったなしだよっ」
「それは間違いない!」
「そうかなァ……」
「うん! 是非ともTikTokに!」
動画じゃねェか。クソが。
「アトムっ」
「ンだよ」
「……大丈夫。私は分かってるよ」
真白が俺に耳打ちする。こそばゆい感覚も、近頃はもう気にならなくなってきた。
「お前に何が分かるんだよ」
「ん……アトムは、まだ演者だよ」
「どこがだ」
「魂っ♡」
呆れた。俺は心から、もう一度舞台で何かを演じてみたいとは思っているが、別にまだ演者でいるつもりなんてない。
だって、俺は演劇をやめたのだから。
「遅いなんてことない」
今度は周りにも聞こえるくらいの声量で、真白は俺に優しく語りかける。
「できないなんてこともない」
「ッ……」
「無理はしなくていいから……」
そして、彼女はとうとう俺に抱きつく。背中をゆっくりと撫で、力強くも優しく抱きしめる。俺の胸に顔をうずめた真白は、くぐもった声でつぶやく。
「いつかまた、私と一緒に舞台に立って……」
かつて、俺たちは三年間ものあいだ、同じ舞台に立ち続けてきた。互いに主役を演じることはあまり無かったものの、それなりに、いや、物凄く楽しく俺たちは演っていた。
その頃に、俺は置いていかれている気がした。ふと、真白と舞台に立つ俺を想像してみたのだが、真白だけが現在の成長した姿だった。俺の姿は、高校三年生の頃、惨めにもフラれて人生のどん底にいたころのものだ。
その想像図を、観客席に座って俯瞰的に見ている俺は、今の老け顔白髪。そして、何故か隣には高校生の真白が座っていた。
俺の深層心理が何を思って、このようなBADを出力したのかは、まだ分からない。しかし、なんだか惨めだった。このままではいけない、と思った。
『いいんだよ』
『……?』
高校生の真白の言葉が、反響を伴って俺の鼓膜を揺さぶる。
『鶴嶋くんは、鶴嶋くんの好きなようにしなよ。だって、鶴嶋くんの人生なんでしょう?』
それは、高校三年生の冬、彼女に振られた時に、最後に言われた言葉と同じだった。
はたと、グラスどうしのぶつかる音で、俺の意識はイマジネーションの世界を離れる。奥の陽気な客が、何度目かも分からない乾杯をしたのだろう。
最後に俺の目にうつったのは、暗い観客席でこちらの顔を覗き込む真白の笑顔だった。
「踊ったほうがいいか?」
「うええっ!? いいのぉっ!?」
「これは私たちから見てもレアよ! 鶴嶋君が踊るなんて!」
普段だったら、確実に断っている誘い。しかし、今の俺はなんだかポジティブだ。こういう気分の時にしかできない大胆な行動というのは、誰にでもあるだろう。
真白は俺から離れ、飛び跳ねて喜んでいる。
「というか、アトムは流行りのダンスとか知ってるの?」
「アレだろ、あの……パンケーキ食べたい、だろ」
「ふっっっる……」
「ごめん、さすがに無いわ」
「嘘ォ? いいだろ、別に。古くても」
「今からドリルミックスの槇原敬之流すから、それに合わせて踊って!」
「何そのパワーワード。今って槇原が流行ってるの? え、しかもドリル? ドリルミックスの槇原?」
槇原敬之も、古いっちゃあ古いだろ。曲にもよるけど、少なくともパンケーキ食べたいよりかは。
「ええっ、てか店内? 今?」
「当たり前じゃない、店の宣伝にだってなるわよ!」
「それは店の公式アカウントに流せよ」
「大丈夫! 店長は既に懐柔してあるから!」
ハッとしてカウンターの方を見てみると、おそらくオフショットに使うであろう動画を回すためのスマホ用三脚が出されていた。酔っぱらった客たちも、いいぞやれやれといったムードだ。
「いつの間にッ……」
「はい、3! 2!」
「ちょ、身だしなみくらい──」
「キューっ!!」
俺の性格は、とてつもなく生きづらい。粗野なくせに考えすぎて、考えすぎるくせに面倒くさがり。先延ばし、その場しのぎ、嘘もハッタリもお手の物。本来の俺の性格なんて、そんなものだ。
生きづらい。それは確かなのだ。しかし、その中でも生きてみようとしてしまう。生きてみたいと思うくらいの理由が、俺の日常には数多くある。
三脚のデジカメの裏で、生きがいが笑う。
久しぶりに、人の前で何かのパフォーマンスをしてみたいと思えた夜だった。
ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
tips.BAR・馬のヒヅメ
横浜市中区、馬車道の一等地に店を構える、店長のセンスが光るオシャレなバー。所々にあるバーらしからぬ装飾も、またこの店独自の味である。一風変わった店名には、便座の形が馬のヒヅメに似ていることから、トイレで吐くほど酒を飲んで欲しいという商売繁盛の思いが込められている。名物は店長特製の油そば。なお、店長はこうしてバーを開くまで、バーらしきバーに行ったことがないらしく、内装からメニューまで全てセンスと雰囲気のみで作ったという。