呪術世界の結界術師 作:ペンギンくん
「……先輩?」
目の前を大きな黒い鯉が泳いでいる。
何も考えずにそれを目で追っていると、ようやくと言うように脳が働き始めた。
未だに動きが鈍い頭を手で押さえながら、少しでも状況を理解しようと周囲を見渡す。
正体不明の黒い鯉がずっと漂っているが、敵意を感じない。
不思議な奴だなと思っていると黒い鯉は身軽に空中を泳ぎ、移動をする。
黒い鯉が動いた先には案内板があり、それを見つめている。
「…………」
その動きに釣られて後を虎杖悠仁は追う。
同じように案内板を見て自分が今、どこにいるのか把握する。
「……あんまさっきの場所から離れてないな」
さっきの場所。
それは自身の中で意識が浮上し、肉体の主導権を奪うにまで至った災厄――両面宿儺。
宿儺と先輩である玻座真が戦っていた地上から、そこまで離れていない位置に自分がいることを理解する。
宿儺越しに玻座真によって領域を転用した封印をされたことは覚えているが、その後にどうなったかはわからない。なので自分が何故、ここにいるのかもわからないが……。
「……あれ?」
気がつくと黒い鯉はいなくなっている。
いつの間にと考えていると……何故かその場に座り込んでしまう。
「…………」
体力切れ、ではないことは自身がわかっている。
宿儺に身体を使われていたが、異様なことに怪我どころか疲労感すらない。
だが、今の虎杖悠仁にはただただ動く気力が湧かないのだ。
何でも良いから、何をしたらいいのかわからないが、それでもとりあえず動け。そう心は焦燥感に苛まされているのに、体は動かず、動き始めたはずの脳もどんどん止まっていく。
まるで夏休み最終日に、目の前のまだ手を付けていない宿題を眺めている心境だ。
早く手を付けなくてはいけないのに、どうにも何もやる気にはなれない。
まるで電池が切れたロボットのように全く動けなくなっている。
どんどん時間の感覚が消えていき、案内板に目をやっても何も情報が入ってこない。
「――虎杖君」
ぼうっとしていると、背中から声を掛けられた。
聞き慣れた声であり、そちらを見ると……やはり見知った人物がいた。
「ナナミン……」
「さすがの君も、疲れが出ましたか?」
七海建人。
虎杖にとって五条悟とはまた別の、自身に呪術師とは何かと言うことを教えてくれた恩師のようなもの。
愛用武器である何らかの布を巻いた刃物を片手に、彼は立っていた。
「あぁ、いや……体は疲れてないんだが…………」
「……虎杖君?」
尋ねられても変な返答にしかならず、仕舞には口ごもってしまう。
彼らしくないその姿に七海は訝しく思いつつも、虎杖のことを待つ。
そしてふと、思い至る。
「……宿儺、ですか?」
その言葉に虎杖の体が小さく震える。
無意識のうちに体が震え、まるで親や教師に怒られる子供のように身を縮こまらせている。
先程まで特級呪霊たちが放っていた威圧的な呪力とはまた別の、邪悪な呪力を七海も感じていた。
何らかの理由で宿儺が表面に出て、暴走したのだろう。何だったら今回の事件、首謀者たちは五条悟の封印だけではなく、宿儺の完全復活を目指していたのかもしれない。
今は元に戻っているが……虎杖の様子を見る限り、顕現している間に宿儺はその凶刃を振るうことに尽くしたのだろう。
誰かが傷付くことを許さない少年の心を、どうすれば傷付けられるか……同居人である宿儺は理解しているのだ。
「……多分、敵側の女の子二人。俺と同じぐらいの年齢だと思う」
「…………」
「入れ替わったばかりで何を話していたのかわからなかったけど……その二人を、宿儺は殺した」
「…………」
「それから……呪霊と戦って。その時にも周囲への迷惑とか気にせず戦ってたから、すごい被害が出てた」
「…………」
「呪霊倒して……次の戦いを始めて……それで、先輩が来てくれた」
「玻座真君、ですか」
「うん……先輩が結界で宿儺を止めてくれなかったら、もっと被害が出てたと思う」
玻座真護良。
あまり交流があるとは言えない三年の先輩であるが、特に分け隔たりなく接してくれた人物の一人である。
一級術師の中でも上澄みの存在であるが、いつもは前線に出る予定が無いのどころか高専にすらいることが少ない。
そんな彼が前線に来ている時点で異常事態と言えば異常事態であるが、
(……そもそも、どうして彼は来たんだ?)
五条悟が封印されたと言う、国家規模の危機に繋がる事態に自分たちは奔走している。
それも敵側によって連絡が遮断されており、連絡係を務めていた補助監督たちが潰されている。
五条の封印に応じて来たのは察しているが、それにしては対応が早すぎる気がする。
疑念を抱きながらも、今は目の前の少年に集中する。
「虎杖君」
「ナナミン……俺、怖いんだ」
告解するように、懺悔するように虎杖は口を開く。
「今回は先輩が止めてくれたから大きな犠牲は出なかった。だけど、犠牲者がいなかったわけじゃない。……何より、今回は運が良かっただけで、次はもっと被害が出るかもしれない」
「次の暴走……宿儺の力は、君の体をもう奪えるほどの力を手に入れているんですか?」
「いや、今回は一気に大量の指を食わされたからだと思う。……だけど、それでもまた“次”があるかもしれない」
「…………」
「――そう考えるだけで、怖くなるんだ」
今更ながら、上の人たちが自身を秘匿死刑にしようとしていたことが理解出来た。
大きな被害が出る前に殺してしまおう。
その時は生きようと藻掻いていたが、今は違う。
自分も、上の人間たちの考えが……わかってしまう。
「…………」
あの快活だった虎杖が情けないとすら言える姿にまで落ち込んでいることに、七海は瞠目する。
どれだけ彼が強くても少し前まで一般人だったのだ。そして人一倍、誰かの傷に深い痛みを覚える性格なのだ。
全く関係ない他人、それも敵側かもしれない人間とは言え……その死に心が蝕まれている。
今も惨劇は続いている。呪術師としてその対処のために動かなくてはいけないのに、焦燥感に反して座り込んでしまっている。もう何もしたくない、自分が何かしたらまた悲劇が起きてしまうのではないか。
そう心が恐れて、思考が止まり、体の熱が抜けてしまった。
「……虎杖君」
それで良いのか。そんな彼が見たいのか。
そう思いながら七海は座り込んでいる虎杖と目線を合わせるよう屈みながら、話しかける。
「昔、私は冥さんに移住先について相談したことがあるんです」
「……?」
唐突な話題変換に虎杖は呆然とした表情のまま、不思議そうに七海を見つめる。
「新しい自分になりたいなら北へ、昔の自分に戻りたいなら南へ。そう助言を受けた私は躊躇いもなく南国に行きたいと選びました」
「…………」
「虎杖君。過去にも言いましたが、呪術師はクソです。多くの死を目にし、場合によっては多くの死を自分が作るでしょう」
「…………」
「呪術師に嫌気が差し、一般的な労働に嫌気が差し、そしてまた呪術師になった私は色々な未練を抱えています。先輩たちとの日々や、友人との思い出。……もしかしたら、呪術師になる前の自分にまで戻りたいとすら、その時の私は思ったかもしれません」
そう言いながら今度は立ち上がり、虎杖を見つめる。
そして卑怯だと言うことを自覚しながら、質問をする。
例えそれが、恥ずべき言葉であったとしても……大人として。そして先輩として、彼に聞く。
きっと、ここが彼にとっての分岐点になるだろうから。
「虎杖君。今、君は……過去に戻りたいですか? 宿儺の指を飲み込まなかった、呪術師にならなかった自分に」
「――――」
無理な話だ。
彼が宿儺の指を飲み込んだと言う過去は消せない。
それでも七海健人はいま、彼に尋ねればならない。
心を、まだ奮わせられるか……問わなくてはいけない。
「…………俺は」
一拍、いや二拍の間が空いて虎杖は口を開く。
「後悔したくないし、後悔させたくないんだ」
「…………」
「俺、あの時……伏黒や学校の先輩たちを助けたいって思って……指を食べた。そしてそれで死ぬことが決まったけど……伏黒が俺を死なないよう五条先生に言ってくれたんだ」
「…………」
「過去に戻りたいって思ったら、助けたことを後悔しちまうことになる」
顔から感情が抜け落ちていた虎杖の目から、涙が流れ始める。
一度動いた心は崩壊したダムのように感情があふれ出す。
「でも………………でも!! このままだと、俺は……伏黒が助けてくれたのに、何もかも台無しにしちまう……っ!! もう、何が良いのかわからないんだ……」
ただ何かを否定出来たら良かった。
でも片方を否定したら、否定したくない方まで否定してしまう。
夜蛾学長の前で決めた自分の生き様さえ成し遂げられない、どころの話ではない。もはや自分ではまともに生き方さえ選ぶことが出来ない。
そんな未来をもう見ることが出来ないに対し、汚い大人としてやれることは少ない。
「では……」
少ないながらも……もう自分には、こう言うことしか出来ない。
「では、せめて今は……私を助けてくれませんか?」
「え……?」
七海の言葉に虎杖は顔を上げ彼の顔を見る。
先程までは状況を正しく認識出来てなかった。そして今は涙のせいで視界がぼやけている。
だが焦点が合ってくると現実が見えてきて表情が歪む。
いつもの紳士然とした姿ではなく、上半身が露呈している。特徴とも言える縁のない眼鏡は失われている。そして露呈した体も左側が焼け焦げており、眼窩には闇が覗いている。
「なっ……!? えっ……?」
「落ち着いてください。正直なところ今すぐにでも休みたいですが、すぐに死にはしません」
今まで見えていたものがなんだったのか。現実が見えていなかった自分に、そして今の七海の状態に大きなショックを虎杖は覚える。
それを踏まえ、七海は話を続ける。
「虎杖君。私を家入さんのところまで連れて行ってくれますか?」
「…………」
七海はそう言いながら手を差し出し、そして虎杖はその手を無言で見つめる。
これは、額面通りの内容ではない。
この手を取ると言うことは、前線から退くと言う意味だ。
きっとこの問いかけは、覚悟を伺うだけのものではない。虎杖の心がもう駄目だった時用の、逃げ道だ。
七海建人が負傷したため、彼の護衛として前線から離れた……と言う責任から逃れられるための、逃げ道。
大人らしく卑怯で、残酷なほどにも優しい提案。
「…………」
彼の言葉を聞き、虎杖は一度瞠目してから瞼を開き、立ち上がる。
そして真っ直ぐと七海を見つめて、口開く。
「ナナミン、怪我は……本当に平気なんだよな?」
「えぇ」
「だったら……俺は、
虎杖の宣言を聞き、七海は彼の瞳の奥の心を見極めるよう、さらに注視する。
「誰かを助けるためにとった行動で後悔したくないし……何より、俺のことを生きてもいいって思ってくれた人たちの想いまで捨てることになっちまう。だから……」
右手を握り、その拳を見つめる。
「だから……今まで生きていいって言ってくれた人たちが否定でもしない限り……俺はちゃんと自分の命を使うよ。呪術師として、ちゃんと」
「…………」
呪術師は誰かのために命を投げ出す必要がある。
そしてそれを場合によっては、仲間に強要する必要もある。
いま、自分はそんなクソったれなことを目の前の少年に押し付けている。そんなクソったれなことが嫌いで一度は呪術師から逃げたと言うのに、今はそれを自身が振りかざしている。
「少なくとも、私は君に死んでほしいとは思ってませんよ」
だが、それでも。
そんなクソったれなことでも……今この瞬間だけでも。
目の前の少年の光になるのであれば。
「――あと、私も別にアンタに今すぐ死んでほしい、なんて思っちゃいないわよ」
「え……?」
虎杖と七海の声とは、また別の声がした。
そちらを見ると虎杖と七海を視界に入れるような位置に、その声の主は立っていた。
「……釘崎」
「ちょっと前に玻座真先輩と出会ったのよ。その時に少しだけ話をしたわ。……真希さんと禪院とこの爺さんが重傷を負って動けないから回収して欲しいって」
「それと七海さんのことも連れて行って欲しいって言われました」
仁王立ちしながら虎杖の同級生である、釘崎野薔薇はバカにするような……いや、馬鹿を見るような目で虎杖を睨んでいる。
その後ろには若い女の補助監督の新田明が立っており、彼女たちの付近をふよふよと黒い鯉が泳いでいる。
「あれって……」
「玻座真君の式神ですね。確か本来は探知術式の補助を担当させているようですが、今は皆の案内をしているようです」
最初に自身の近くにいて、次に七海の近くにいて。そして今は釘崎と新田の近くにいる。
離れ離れになってしまった先輩の玻座真が虎杖のことを心配して付けてくれたのだろう。そのことを理解し、虎杖の目元が潤む。
本当に、自分は多くの人に支えられているんだと理解する。
そんな虎杖を見つめながら一歩、釘崎は前に出てとあることを言う。
「その先輩からの伝言。『悪い。ツギハギの呪霊を祓い切れず逃げられた』って」
その言葉に虎杖と七海は目を見張る。
七海は少し目を瞑り、虎杖は目を鋭くする。
「言っとくけど、私は慰めないから」
「……何の宣言だよ」
「だけど、今の言葉で十分でしょ」
虎杖の表情が変わり、釘崎はニヤリと笑みを浮かべる。
それから隣の新田に向き直る。
「ってことで新田ちゃん、私はコイツとそのツギハギの呪霊を祓いに行くから」
「えっ!? マジっすか!?」
「大マジ。ウジウジしているコイツの
そう言いながら虎杖に近づき、体を翻して彼の背中を強く叩く。
その様子を見た七海は二人を見つめ、
「……心苦しいですが、あとは任せてもよろしいでしょうか」
大人として。そして呪術師の先輩として。
そう尋ねる七海に、二人は見つめ返す。
「私は大丈夫。そっちは?」
「……あぁ。大丈夫だ、ナナミン」
もう一度拳を強く握り、自身の気持ちを再確認する。
「行って、ちゃんと帰ってくる」
「待ってますよ」
お互い頷き、背を向ける。
「行きましょうか」
「あぁ……もう。ちゃんと帰ってきてくださいよ!!」
雰囲気的に行くなと言えなくなった新田はその言葉だけを二人に投げ、鯉の案内に従い七海と共に戦場から立ち去る。
それを見届けた後、二人は走り始める。
「ここに来るまでの間に先輩の鯉が最短ルート行かないで大きく迂回したルートがあったから、多分そっちの方にいる」
「動けるのは俺らだけか?」
「さっきも言った通り真希さんと禪院の当主の人はリタイア。ついでに伏黒も気を失っていたところを先輩が連れてきたからそっちもリタイア。その時に先輩から色々聞いて、探知に引っかかったのは地上のパンダ先輩と日下部さん、それと狗巻パイセン。冥冥さんとその弟さんってのは引っかからなかったらしく、先輩の推測だと特級クラスと遭遇して弟の術式で逃げたんだろうって言ってたわ」
「その玻座真先輩は?」
「
「……先生捕まえたやつ、もう動けているのか」
五条悟を封印した特級呪具――獄門彊。
メカ丸の端末によって封印直後、動かせなくなり下手人もその場から動けなくなってたが……さすがに時間を掛け過ぎたらしい。
色々な想いを歯噛みしつつ、後方に居ようが前線に来ようが忙しそうな先輩を心配をしつつ走っていると改札口の前に辿り着く。
平時なら多くの人間が通過する場所であるが、今は誰もいない。そのことに奇妙な感覚を覚えながらも通り過ぎようとして……立ち止まる。
「釘崎」
「わかってる」
虎杖は体に呪力を巡らせ、釘崎は己の武器である金槌と五寸釘を手に構える。
改札口の向こう側、
まるで美術館の中をゆっくりと歩き回るかのように、惚けたような表情をしている。
「よっ、久しぶりに。思った以上に元気そうじゃん」
「――――」
にんまりとした笑顔から、ニヤニヤと嫌味な笑顔に変わった。
まるで夏休みが終わって再会したクラスメイトのように気安い態度でソイツ――継ぎ接ぎ顔の呪霊、真人は虎杖に声を掛けてきた。
それに対し、虎杖の表情が豹変する。
その名は、怒り。
威嚇をする狼のように歯を噛み締め、目つきを鋭くする。
「真人ォォオオオオオオオ!!!!!」
「デケェ声出さなくても聞こえてるよ!! 虎杖悠仁ィ!!!」
吼えながら駆ける虎杖悠仁を、真人は迎える。