弱きを守るは、騎士の誉よな   作:ロイドロイド

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その名はアンリ

「あんた、何者?」

 

 晴れ晴れとした雲が流れゆく好天の下で、一人の少女はそう尋ねた。 長く腰まで伸びた美しい、桃色がかったブロンドの髪と透き通るような白い肌。 そして強い意志を感じる鳶色(とびいろ)の瞳。 倒れこみ、意識を失った見すぼらしい人物とは裏腹に、貴族の象徴たるマントに質感の良いシャツとプリーツスカートを身に纏った少女は、その見るからに怪しげな者の顔を覗き込んだ。

 

「ミス・ヴァリエール、ここはひとまず私が変わります。 下がっていなさい」

 

「ですが、ミスタ・コルベール――」

 

「早く私の後ろに」

 

 中庭に並んだ少年少女の人垣が割れて、奥から中年の男性が姿を現した。 黒いローブを纏い大きな杖を手にした男は、ある程度の焦燥感と警戒心を含んだ声でそう伝えた。 

 

 『サモン・サーヴァント』――メイジのパートナーとなる使い魔を召喚する魔法。 本来であればそのものにふさわしい属性を持つ動物や幻獣が召喚されるはずだったが、彼女――ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールが召喚したのは得体のしれぬ生き物である。 それだけで警戒心は高まるものだが、加えて身に纏った鎧と、すぐそばに落ちた武器が、コルベールのそれを煽ったのだ。

 

――これは一体、何だというのだ? この格好からして、人間か亜人。 剣を扱う事からそれなりの知能はあるようだが…

 

 杖を構え直ぐに行動を起こせるように腰を落として距離を近づける。 道中、落ちた剣を蹴り飛ばし武装解除を忘れぬコルベールは、なるほど()()()()()経験があるようだった。 意識がない事を確認してそのバイザーをゆっくりと上げる。 出てきたのは亜人ではなく、人間である。 黒い髪に、この地域では珍しい茅色(かやいろ)の瞳。 歳は二十に届いてはおらぬ、少年から青年期に移り変わるという程。 このトリステイン魔法学院の三学年あたりと同じ年であろうか。 

 

 コルベールはしばし考え込んだ。 見てくれは戦に敗れた傭兵か、卑しい盗賊のそれ。 よく言っても敗走した騎士であり、この学院にふさわしき高貴なる者とは言い辛い。 とても、由緒正しい公爵家三女の召喚した使い魔とは思えないのだ。 

 

 緊張を上回る好奇心。 コルベールはその好奇心に急かされ、衣嚢(いのう)の中を漁った。 多くはナイフや医薬品と言った、戦いで使うものである。 見かけ通りに物騒な事をしていたのだろう。 よく見ればうす汚れたボロ布のフードに隠された黒鉄のそれは、魔法でつけられた後の様な傷跡があった。 そして、内側のポケットに隠されたそれ。 メイジの象徴である(ワンド)を見つけたコルベールは、随分と面倒な者を召喚してしまったものだと、召喚者を哀れんだ。

 

「ミス・ヴァリエール、こちらへ来なさい」

 

「あの、ミスタ。 これは一体、どのようにすれば」

 

「『コントラクト・サーヴァント』を。 さぁ、早く」

 

「こ、これとですか?」

 

「そうだ。 この春の使い魔召喚の儀はとても神聖なもので、やり直しは出来ない。 君が望むと望むまいと、使い魔を選ぶことは出来ないからね」

 

 使い魔召喚の儀式において二度目はない。 この少年が気を失っているうちに契約をしてしまわなければ後々面倒ごとになりかねないと判断したコルベールは、ルイズをそう急かした。 

 

「でも、人間です。 それも平民です!」

 

「たしかに使い魔が人間だった例は聞かないが、仕方があるまい」

 

 その声が通り抜けると、後ろに待機していた生徒たちは声を上げて笑い出した。 その声に憤懣を抱いたルイズは、その人垣を鋭く睨み付けた。 そうまでしても声はやまない。 彼女の高いプライドは既にボロボロで、気迫で人を殺せそうな程の不機嫌さを醸し出していた。

 

「さっさと契約をしちまえよ!」

 

「平民でよかったじゃないか! 高位な幻獣なんか読んでしまった暁には逃げられてしまうからね!」

 

「違いない!」

 

 そんな貴族とは程遠い野次が聞こえてコルベールは「静かになさい! 貴族が友人を貶すものではありません!」と生徒たちを一喝した。 

 

 ルイズはわなわなと肩を震わせながらも、これも仕方のない事なのだ。 と自分に言い聞かせてそれに近寄った。 その表情はとても納得した様子ではなかったが、コルベールからは窺えなかった。

 

「こんなになってるのに、関係なさげに寝ちゃって…」

 

 怒りを抑えながら、震える手でフードを外しその顔を見据えた。 今更気づいたことに、随分と血なまぐさい。 これは恐らく、鉄の錆びた臭いだけではないのだろう。 顔を歪ませながらも、ルイズは魔法を唱え始めた。

 

「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。 五つの力を司るペンタゴン。 この者に祝福を与え、我が使い魔と為せ」

 

 朗々とした声でよどみなく詠唱を終えた少女は、ゆっくりと唇を近づけた。 キスをしても何の反応もなく、そのままコルベールの傍まで下がると、今度は彼の口からくぐもった声が聞こえた。 何か痛みを感じている様子である。

 

 意識は失ったままだが、青年は左手を強く抑えてうめき声を上げた。 手甲が外れ晒された肌から白い煙が上がっている様子からも、ルーンはしっかりと刻まれたようだった。

 

「召喚は難航したけれど、契約の方は上手くいったようだね」

 

 コルベールは裏のない笑顔でそう言ったものだから、ルイズは恨み言をいう気になれなかった。

 

「よかったじゃないか! 『ゼロのルイズ』でも上手くいって!」

 

「バカにしないで!私だって偶には成功するのよ!」

 

 つい、飛んできた嘲笑を含んだ声に反応して叫び返してしまった。 コルベールは再びそんな生徒たちに注意を飛ばし、次にそのルーンをまじまじと見つめた。

 

「ふむ、見たことがないルーンだが…」

 

 慣れた手つきでスケッチを終わらせ、授業の終わりを告げる鐘が鳴り響くのを聞いて、彼は皆を学び舎へと向かわせた。 

 

「ルイズは歩いて戻るんだな!」

 

「その平民を叩き起こして、背おってもらったらどうだい?」

 

 『フライ』の魔法で足早に飛んでいった生徒たちがそう言葉を投げかけるのを横目に見て、ルイズは大きくため息をこぼした。

 

 なぜこんな得体のしれない人間、それも平民を呼んでしまったのだろうか。 農民の格好でなかったからまだよかったものの、見た目は随分ボロボロでみっともない。 その上血なまぐさいのだ。 これでもう少し見てくれが良ければ、立派な騎士にでも見えて許容できるかもしれないのに、これではあんまりである。

 

「ミス、彼は私が救護室に運んでおこう。 君は授業に戻りなさい」

 

 好奇心を隠しきれぬコルベールとは裏腹に、幽鬼のような足取りで校舎へと戻っていくルイズの心中は、察するに余りあるものだった。

 

 

//

 

 ミスタ・コルベールはトリステイン魔法学院に努めて二十数年の優秀な教師であった。 決して明かされぬ前職と『炎蛇のコルベール』という二つ名は彼にとって忌むべきものであり、得意とする『火』の魔法が破壊にのみ利用される今を変えたいと願っていた。

 

 ところでコルベールは、この数日間寝たきりである少年――かのミス・ヴァリエール家三女が召喚した使い魔の事が気にかかっていた。 今は鎧を脱がされて救護室で寝かされている彼だが、どうにも分からない事が多い。 恰好、出自、名前、上げてしまえばキリがないのだが、特に不可思議なのが杖と刻まれたルーンなのである。

 

 少年は杖を持っていた。 見かけは何処にでもあるワンド。 それも普通の貴族が使うものではなく、幼少期に魔法の練習で使う様な小さなものである。 加えて失礼ながらも無断で掛けた『ディテクト・マジック』によれば、彼は少なからず魔力を秘めている。 即ち貴族の血を継いでいるという事であり、恐らくは杖も彼の物なのだろう。 

 

 であるならば剣を使わずとも魔法で戦う事も出来るはずであり、何より杖を隠す必要がない。 

 

「うーむ。 明かせぬ出自か、それとも戦場(いくさば)で敵を油断させるためか」

 

 どちらにせよ、中々に過酷な道を歩んでいるに違いない。 今や名を無くした貴族崩れが傭兵に身をやつすことは少なくない。 何らかの理由で勘当されたり、妾との間の私生児であったりするが故に表に出ないメイジも多いのだ。 つまりは、彼もそうなのだろう。 と、コルベールは様々な書物を漁りながら自答した。 彼は今、使い魔についての資料を探すために図書館に籠っている所だったのである。

 

 学院の本棟、つまりは食堂の真上に位置する図書館は驚くほどに大きい。 その中に蔵される書物の数と言えば、一人が一生をかけても読み切れぬと言われるほどである。 三十メイルにも達するという程の高さの本棚には隙間なく詰め込まれており、入り口から見た光景は壮観である。 それもその筈、この図書館には始祖ブリミルがトリスタニアを築いて以来の歴史書が詰め込まれているのである。 この規模に勝てる物は、ロマリア連合皇国に存在する教皇が治める図書館位の物であろう。

 

 生徒が閲覧することのできる一般の本棚を始めとして多くの区画を探し回った彼だが結局目当ての物は見つけられずに、今は『フェニアのライブラリー』と呼ばれる教師のみが閲覧できる一区画を探していた。 『レビテーション』を唱え、空中浮遊を駆使しながら書物を読み漁る中年の男性。 一心不乱のその姿を誰かが見れば、恐らくは不振に思って警備を呼ぶ程だろう。

 

 その努力の甲斐もあって、遂に彼は目当ての物を見つけることが出来た。 題名は『始祖ブリミルの使役』と称されるもの。 全ての貴族の祖とされる唯一神が用いたとされる魔法や道具、そして使い魔たちについて記された書物である。

 

 パラパラと項をめくり読み進める。 そのうち使い魔たちの伝承の章に移り、コルベールはその鋭い目をより一層細めた。 何度も何度もその章を繰り返し熟読した。 そして何か見覚えのあるものに気付いて、慌てて自身のスケッチと見比べた。 召喚された例の少年の手に刻まれたルーンのスケッチとである。

 

 瞬間、声にならぬ声が喉から漏れ出たかというと、コルベールの体は地面に落下していた。 隅々まで比べるのに集中力を費やしたがために魔法の効力が失われ、浮遊が解かれてしまったのである。 大慌てで魔法をかけなおし、すんでの所で無事足を付けた彼は、散らかした本をそのままに本棟のらせん階段を駆け上がった。

 

 彼は学院長室に無心で走っていったのだ。

 

//

 

 本棟の最上階、つまりは図書館のもっと上に存在する学院長室。 そこに彼はいた。 

 

 オールド・オスマン。 『トリステインにこの人あり』と謳われる程の魔法使い。 数々の偉業を成し遂げ、メイジの権威としてトリステイン魔法学院を治める学院長その人である。 齢は百を超えて三百に至るなど言われており、実際の年齢は公表されていないものの、そう言われても疑われない程の経験を積んだ眼光は、老いた人間のそれではない。 むしろ顔に刻まれた皺がその偉大さに拍車をかけていた。 多くの貴族は彼を尊敬し、また王家の人間でさえ彼には一定の敬意を表するのだとか。

 

 そんなオスマンは執務机に向かい書類を処理しながらキセルを吹かした。 時折「うむ」と独り言をつぶやきながらしばらく煙草をふかすと、今度はその室内の端の机で何やら読み書きをしていた秘書――ミス・ロングビルが杖を振るった。 オスマンの手に握られたキセルが彼女の元に向かって飛ぶと、ミス・ロングビルはおもむろに火を消して机の中に放り込む。

 

「老い先短い人間の娯楽を奪うとは、非情すぎるとは思わんかね?」

 

「あなたの健康を管理するのも秘書の仕事でありますから。 わたくしも心を鬼としているのです」

 

 感情のこもっていない声色でそう返したミス・ロングビル。 オスマンは理知的な女性に近づいていくと、手を動かしたままの彼女にずいと顔を近づけた。

 

「儂としては思い残すこともないのだから、生徒たちの成長を見守ったまま死んでいくことが望みなのじゃがな」

 

「宮殿の皆はまだ死んでもらっては困ると言っておりますが」

 

「こんな老人に鞭を打つとは、敬意が足りておらんな。 うむ」

 

「オールド・オスマン」

 

 羽ペンを動かし続けるミス・ロングビルは決してオスマンの方を向かなかったが、その目が細くなるのを見逃さなかった。

 

「どうしたのかね? ミス…」

 

「煙草がダメになったからと、わたくしのお尻を触るのは止めて頂きたいのです」

 

 オスマンは手を離すと、呆けた顔のまま室内を歩き始めた。 痴呆老人を真似ているのである。

 

「呆けたふりをしてもダメです。 それと、机の下に潜らせたネズミもどかしてください」

 

「なんと。 モートソグニルがそんな所に…」

 

 なんとも悲しそうな顔でオスマンは伏せた。 ネズミの使い魔を呼び戻すとナッツを与えて、今度は情報を聞き出した。 

 

「ふむふむ。 やはり白であったか。 ううむ。 だがミス・ロングビルには黒が絶対だと思わんかね」

 

 彼は自身の使い魔に下着を探らせていたのだ。 自身の一生のパートナーとなる使い魔のそんな事をさせる人間が学院長などと、眉を引くつかせながらロングビルは鋭い眼光を向けた。

 

「オールド・オスマン」

 

 室内に透き通る声である。

 

「何じゃね? ミス…」

 

「次に同じことをやれば、王室に即報告します」

 

「勘違いをしているようだがな、ミス。 王室が怖くてこんなことは出来ぬのだ!」

 

 悟る様に話し出したと思えば、今度はものすごい剣幕で怒鳴った。 齢百歳を超えているとは思えぬほどの迫力、これが別の場面で発揮されたのならば勢いに押されもしただろう。 だが、今は彼女の怒りが勝っていたのだ。

 

「まったく、下着を覗かれたくらいで怒るとは淑女らしからぬ行いじゃ! 恥ずかしがる素振りも見せぬから婚期を逃すのじゃ!」

 

 言うも早くミス・ロングビルの後ろに回ると、再び尻を撫で始める。 彼の老体が投げ飛ばされ、彼女のヒールが食い込むのはあっという間だった。

 

「いた、いたた。 ミス、許してくれまいか。 この通りじゃ。 もうしない、ほんとに」

 

「この! どの口が!」

 

「あいた。 ほんとに、ブリミルに誓うから」

 

 荒い息で怨嗟の言葉を繰り返しながら踏み続ける彼女の表情は形容しがたいものである。 だがそんな時間も突然の来訪者によって中断される。

 

「オールド・オスマン!!」

 

「なんじゃね?」

 

 ドアが勢いよく開けられる寸前で姿勢を正したオスマンは、権威ある格好でコルベールを迎えた。 ミス・ロングビルなど、いつの間にか椅子に座りなおして平然としている。 それは恐ろしい早業であった。

 

「これを! 大変なことです!」

 

 コルベールが胸に抱いた書物、すなわち先ほど見つけたブリミルについての物をオスマンに押し付けた。 古い伝記のようなそれに、何事かと一瞬顔を顰めたが、コルベールの驚き様はただ事ではない。 「大変なことなどありはせぬよ」と口にしながら項をめくりあげる。

 

「この項です! これを見てください!」

 

 コルベールはオスマンの持つ本のある一ページを指さした。 ちょうど終わり際の、資料が載せられた部分である。 

 

「それと! これはミス・ヴァリエールに召喚された少年の手に刻まれた物です!」

 

 自身のスケッチと共に見比べる様、その横に並べてオスマンに見せつける。 

 

 オスマンはルイズが謎の平民を召喚したことを知っていた。 ミス・ロングビルからの報告で、今もなお眠り続けていることも。 そのルーンの模写を目にした瞬間に、先程までのたるんだ目は消えて、恐ろしい程に鋭い表情となった。 コルベールのそれが、戯言ではないのだと知ったのである。

 

「ミス・ロングビル、一度席を外しなさい」

 

 彼女は何も言わずに立ち上がり、退室していった。 彼女もまた秘書、オスマンの変わりようにただ事ではないと悟ったのだろう。 優秀な秘書なのであった。

 

「詳しく説明したまえ。 ミスタ・コルベール」

 

 重々しく開かれた口。 コルベールは一度息を飲んで、ゆっくりと事の次第を話し始めた。

 

//

 

 レーンが、いや、ロスリック家が王家の紋章を掲げることを禁じられ、そして貴族であることを禁じられたのは彼がまだ十三の頃だった。 この年からようやく学び舎へと通う事になる。 その年の出来事である。 

 

 王都ではささやかな噂が流れていた。 どうにも、トリステインの国家転覆を謀り、王家に弓引こうとする大罪人が存在するのだと。 それはただの噂でしかなかった。 だが、トリステインでは長らく戦争は起こっておらず、辺境に追いやられた貴族たちは厳しい税に困窮しているの者も少なくなかった。 不満を持った一部の貴族が反乱を起こす。 それは確かにあり得る出来事だったのだ。

 

 彼の父は生贄に選ばれた。 兵士たちの不満が高まり、巷に不穏な噂が流れている。 ガス抜きと不敬な噂を沈黙させるべくして、父は謀反を企んだ反逆者として追い詰められた。 王都より送り出された魔法衛士隊の精鋭たちと、汚れ仕事を担う密使達が屋敷へと襲来し、行方知れずとなった父を除いた母とレーンは捕えられ、軟禁された。 既に王都にて仕事を任せらられていた兄も一時拘束されたと知らされた。

 

 母と共にチェルノボーグ監獄へと幽閉されてから数か月が経った。 トリステイン城下でも最も監視の厳しいその場所では、日々罪人に対する拷問が行われていた。 下らぬ軽犯罪から、貴族を殺めた大罪人。 そして国家転覆を謀った愚者などは、恐らく悲惨な目に合っていた事だろう。 だが、ロスリック家の二人はまだ関与を疑われているかどうかの段階であり、牢獄では比較的まともな扱いを受けた。 全てが明らかになるまでは貴族であることを考慮され、まともな寝具と食べ物を用意された。 加えて本を読むことまでもが許された。

 

 そんなある日、突然の事。 いつものように就寝時間が差し迫り、寝床に着こうとしていた時間の事である。 己の牢の存在する棟の階段を下る音が響いて、レーンはその手を止めた。 普通であれば、この時間帯に誰かしらが来ることはない。 見張りも貴族の睡眠を見張ることはせずに、朝所定の時間に起こしに来るのみである。

 

 その足音は自身の牢の前で止まった。 ベッドに腰かけたレーンはその目を見開いて、魔法で照らされた入り口を見た。 眩しい光に一瞬目を背け、手で光を遮りながらもそれを見つめた。

 

 男たちがいた。 中央に位置する壮年の男を取り囲むように配置された三人の貴族。 羽帽子に加え、刺剣(レイピア)を模した杖を腰からぶら下げた背丈の高い者たち。 逆光により全てを見ることは出来なかったけれど、それが異常事態であることくらいは少年にも分かった。 

 

 牢獄などという、貴い者が嫌う場所に自ら足を運ぶなど普通は考えられぬ事である。 加えて、その周りの男たちの足さばきも強者のそれであり、並の物では敵わぬという圧倒的な実力者。 そんな兵士に護衛されるのは、一体どれだけの地位についている者なのだろうか。 少なくとも、疑いがかけられた辺境の貴族風情が拝顔(はいがん)など出来ぬ、やんごとない人物であることは確かである。 

 

 故に少年は何も言われずとも首を垂れ、冷たく汚れた床に膝を付けた。 

 

「…我々はこの国の行く末を憂いている。 国王が亡き後、真の忠誠心と誇りを無くした貴族たちが国を闊歩し、下らぬ小競り合いを繰り広げる。 特権階級に縋りつき惰眠を貪る者のせいで国益は損なわれ、今や自浄作用も機能していない」

 

 酷く、冷たい声である。 顔も仰ぎ見ることの出来ぬその方は、疲労を滲ませた声でそう告げていた。

 

――この国を想っている。

 

――下らぬ貴族に呆れている。

 

――故に、態々(わざわざ)穢れたこの地に足を運んでいる。

 

「貴様の父はトリステインに反旗を翻した。 異教徒と結託し混乱を招こうとした」

 

 その男から、父に掛けられた容疑を聞いた。 剣を教えてくれた父。 王家に尽くすことの貴さを教えてくれた父。 そんな父が何故? そう思わずにはいられなかった。

 

「あ奴は捕まれば見せしめとしてつるし上げられるだろう。 一党皆処刑されることも考えられる。 …しかし、使える者を浪費する余裕など我が国にはない」

 

 男は一息ついて、そして再び秘密を語る様に囁いた。

 

「貴様の兄は優秀である。 故に、国益のために生かすことを決定した。 貴様は、どうだ? この地で反逆者の子として死ぬか。 それともトリステインへの忠誠心を示し、母を助け、家の汚名を雪ぐ(すすぐ)覚悟があるか?」

 

 牢の中に差し出された手。 異様なほどにやせ細り、骨の浮かび上がった手である。 想像も出来ぬ激務が、そうしてしまったのだろう。 

 

『トリステイン王家の為に生き、そして死ぬのです。 命を惜しまず、名を惜しみなさい』

 

 聞こえぬはずの母の声が浮かび上がった。 何度も、何度も繰り返し教えられた言葉だ。 裏切ったとされる父が、剣を振るいながらも紡いだ言葉だ。

 

 だから、少年はその手を迷わずにとったのだ。 忠誠心を示す騎士の誓いのように。 薄暗く冷たいこの場所で、そこだけが光に溢れていた。

 

 少年は騎士に憧れた。 それがたとえ、己が父を討つことになる残酷な契約であっても、その憧れは止められなかったのだ。

 

//

 

 随分と長い夢を見ていたようだった。 だというのに、その中身を思い出すことは一切できない。 とても悲しく、そして己が運命を決める大事な事であったはずなのに、それは虚無へと消え去ってしまった。

 

 ただ、冷たい雫が瞳より零れ落ちてその横顔に一筋の痕を残した。 それが拭き取られた時、ようやく自分が深い眠りについていたことを知って、少年はその重たい体を起こす。

 

「大丈夫ですか? どこか痛い所はありませんか?」

 

 白く清潔な布で涙を拭った少女。 マントではなく、使用人としての服を纏ったその少女は、不安げな顔でそう問いかけた。

 

「ここ…は?」

 

「ここはトリステイン魔法学院です。 あなたは…ええと、ミス・ヴァリエールが使い魔の儀式において召喚した平民の方だと聞いてましたが…」

 

「トリステイン? なんでそんな所に…」

 

「ひとまず先生を呼びに行ってきますので! あなたはそのままに休んでてくださいね!」

 

 使用人の少女は話を聞かずに慌ただしく部屋を飛び出していった。 もう一度ベッドに体を寝かし、少年は部屋を見渡した。

 

 石造りの部屋。 一つの窓からは眩い光が差しており、小瓶が入った棚のガラスをきらきらと照らしている。 鼻を透き通るような薬草の匂いからして、ここは負傷した者や体調の優れぬ者を休ませる場所なのだろう。 そして、彼女の残した言葉を思い出した。

 

 トリステイン魔法学院と言えば、このハルケギニアにおいても有数の学び舎であり、国内問わず優秀なメイジを輩出している場所でもある。 加えて彼女は使い魔の儀式と言っていた。 つまり、自分は元からこの学び舎に通っていたわけではなく、使い魔として召喚されたという事である。 

 

「名前…何をしていたんだろうか?」

 

 単語自体には聞き覚えがある。 ここはハルケギニア大陸に存在するトリステイン。 そして自分はメイジの使い魔召喚によって召喚された平民の(しもべ)。 そこまでは分かるのだが、自分の名前と過去はさっぱり思い出せないのである。 身に着けている物はどこにでもある装いであり、判断基準にはならない。 室内にもそれらしいものはない。 もしや自分は素寒貧であったのだろうかと思う程である。

 

 どたどたと、石の床に足音が響き渡った。 ベッドに伏せていたが故に、その振動は地震のようにも感じられる。

 

「おお! ようやく起きたかね! いやはや、三日三晩眠るものだからどうしたものかと思ったが、よかったよかった」

 

 勢いよく扉を開けて入ってきたのは黒いローブを纏った中年の男、コルベールである。 無い髪を撫でながら横になる少年を見つめ、ニコニコと笑う彼は随分と人の好い人物であるようだった。

 

「君、言葉は分かるかね? 自分の名前と元居た場所は?」

 

「申し訳ありません。 この場所は分かるのですが、そういったものはさっぱり…誰かの元に仕えていたことは覚えているのですが」

 

「ううむ。 それは貴族として主従関係にあったという事かね? それとも…」

 

「いえ、使用人のようなモノだと思います」

 

 コルベールは身に纏っていた鎧と所持品から身元を特定しようとしたが、それは叶わなかったようだった。 辻褄が合わない、要領を得ない様子で言葉を続けた。

 

「思い出せないと思うのだが、君は剣や短刀と言った武器を持っていてだね…もしかすると兵士の様な者かと思ったのだが」

 

「剣…ですか? 自分のような者が?」

 

 見当もつかないと言った様子で、少年は自らの手を見つめた。 綺麗とは言い難い、ごつごつとした手はどちらかと言えば使用人や仕事をする側の物であり、戦を生業とする兵士の物ではない。 そう思われたのだ。

 

「兎に角だ。 今ミス・ヴァリエールが学院長室に呼ばれているはずだから、我々も行こう。 君を呼び出した術者がそこに居るのだ。 何か、分かるかもしれない」

 

 記憶が無い少年も、召喚した主には何らかの関係があるかもしれない。 そう考えて、手に持った衣服を手渡した。 

 

「使用人の服だが、下着で歩き周る訳にもいかないからね」

 

「心遣い、感謝いたします」

 

「そんなに畏まらなくても、私はしがない教師でしかないのだから」

 

 コルベールは笑うと、杖を手にして「外で待っていますから」と告げ廊下へと消えた。 記憶の中にうっすらと浮かぶ貴族とは、自らの行いを省みぬ傲慢な者だと認識していた少年にとって、この手の人は初めてに等しいものだった。

 

//

 

「やはり、進級の件はどうにもならないのですか?」

 

「まぁ、落ち着きなさい。 今すぐ退学どうこうなるものでもないのだから」

 

「はぁ…」

 

 学院長室、オスマンの目前でため息を漏らしたルイズは不安そうに視線を下げた。 このトリステイン魔法学院において、『サモン・サーヴァント』は勿論使い魔を呼び出すための儀式ではあるのだが、同時に二学年への進級試験も兼ねているのだ。 使い魔を無事召喚できれば実戦科目においても不備はない。 そう判断されて漏れなく進級出来るのだが、今回ばかりはそうもいかない。

 

 まったく、随分と厄介な者を召喚したものだと、オスマンは心の(うち)で呟いた。 彼女、ミス・ヴァリエールはトリステインでも有数の公爵家。 それも王家に最も近いと呼ばれている力のある貴族であり、その子供たちは皆優れた才能を持つと評判である。 

 

 だがしかし。 何というか、非常に棘のある言い方をしてしまえば、ルイズは無能だった。 そんな家に生まれておきながら、三歳の子供でも成功するというコモン・マジックの類も失敗する始末。 授業で魔法を使う事があればもれなく爆発し、使い魔召喚の際も彼が召喚されるまでの数十回、この学院長室にまで爆発の振動が来る程だった。

 

 彼女が怠惰である訳ではない。 実技が駄目なだけであり、証拠に座学はいつも頂点。 礼儀作法は公爵家で躾けられただけあって、文句のつけようがない程だ。 暇があれば図書館や自室で勉強をしているし、喧嘩っ早い短気ではあるものの、その真面目さは教師全員が認めている。

 

 故に、教育者として温情を与えたい。 幸いにしてルーンは無事刻まれている。 であれば直ぐにでも進級を認めたいところなのだが、刻まれたルーンがルーンである為に急ぐわけにもいかない。

 

――コルベール君も焦ったものじゃな。

 

 彼は優秀な教師であり、実力にも優れる。 その()()の経験からも危機察知能力に優れる彼だが、今回はそれが仇となった。 目を覚まさぬ内に契約を結んだことで有無を言わせず主従関係を結ぶ。 確かに合理的な判断ではあるが、受ける側はどう思うだろうか。 

 

 尊厳を損なわれ、あまつさえ焼き印ともとれるルーンを強制的に刻まれる。 使い魔はそのルーンによって主人に対して悪意や敵意を持つことは無いとされるが、それがどこまで本当なのかは誰にも分からない。 よりにもよって全ての武器を使いこなし、千人もの兵士を薙ぎ払ったと言い伝えられる『ガンダールヴ』の物が、少年に刻まれてしまったのだ。 もし反旗を翻したとなれば、学院の教師でもただでは済まない。

 

「着いたようじゃの」

 

 目を閉じて熟考していたオスマンがそう呟いて数秒、部屋の扉が鳴らされた。 「入り給え」と朗々とした声が響いて入ってきたのは、コルベールと例の使い魔である。

 

「目が覚めたのでお連れしました。 ええと…どうにも記憶を失っているようでして名前までは」

 

「名乗れぬご無礼をお許しください」

 

 少年は膝をついたが、オスマンは「ここでは要らぬよ」と止めさせた。 ルイズは怪訝な表情で見つめたまま、何かを発言することは無かった。

 

「まずはだ。 儂はここの長を務めておる、オールド・オスマンである。 君がミス・ヴァリエールに召喚された子で間違いはないかな?」

 

 言いながら、オスマンはルイズに視線を促した。 顔のみしか見ていない彼女だったが、間違いない事を認め頷いて見せた。

 

「そう伺っております。 名乗り返すことが出来ずに申し訳ありません」

 

「君に責はあるまい。 無い罪を咎める程落ちぶれてはいないつもりじゃよ」

 

「寛大な御心に感謝します」

 

「ふむ。 礼儀正しい少年でよかった。 ひとまずは話が出来そうじゃな」

 

 第一印象としてはまずまずといったところだろう。 しっかりと会話は出来ているし、礼節を欠くこともない。 異常なほどの遜り(へりくだり)方は、()の家が厳しい立場であったからなのだろう。 

 

 言って、オスマンは話を続けた。 ルイズの隣に立った少年を見据えて、羊皮紙の内容を読み上げていく。

 

「難しい話は無しじゃ。 この儀式は進級試験を兼ねてるものでな。 ミス・ヴァリエールが進級するためにも君に使い魔…まぁ、付き人や使用人の様なモノじゃな。 それとして働いてほしかったのだ。 無論無理強いはせぬよ。 君にも君の権利があるだろうし、決して譲れぬ矜持も。 だが、もし君が応えてくれるのなら儂は君の衣食住に加え給金も出そう。 どうだね? 彼女もこのトリステインでは有数の公爵家であるから不便利することは無いじゃろう」

 

 そう話す間にも、ルイズはスカートの裾を握りしめたままだった。 ようやく、まともに成功したと言える魔法であるにも関わらず問題となっているのだ。 その心中は察するに余りあるものだろう。 加えて退学となれば、彼女は家での立場が無くなり、即嫁行きという事になりかねない。 それではあんまりというものだ。

 

 そんな事を思っていると、少年は発言の許可を求めた。

 

「一つ、よろしいですか?」

 

「うむ。 なんじゃね?」

 

 茅色の瞳がオスマンを見つめた。 どこか遠く、いつかに見た事のある目に見えたが、歳故に思い出すことは叶わなかった。

 

「仕事をしていない時、本を読ませてほしいのです。 思い出せないのですが、本を読むのが好きだったような気がして」

 

「そ、そんくらいなら私が買ってあげるわよ! 何がいいの! 言ってごらんなさい!」

 

「これ、落ち着きなさい。 そんな事せずとも図書館への出入りの許可証を書こう。 それでよいかね?」

 

 静かな部屋にルイズの声が響いた。 息が詰まる思いで咄嗟に声が出てしまったのだろう。 オスマンはそれを(たしな)めた。

 

 本校の方針として図書館は貴族しか立ち入れないが、それくらいなら安いものである。

 

「ありがとうございます。 むしろこんな者を使い魔として雇っていただけるなら、光栄なことです」

 

「そうかね。 だが、こうも思わんか? 召喚されねば記憶を失わずとも済んでいたかもしれない。 もし記憶が残っていたとして、君はこの提案を受けていたと思うかね?」

 

 つまりは、彼女のせいで君は過去を失ってしまったのだと。 老人は言った。

 

 それは、非常に意気地の悪い老人の質問だった。 ルイズに至っては絶望で顔を染めており、コルベールは「悪い癖が出た」と頭を押さえる程である。 

 

 間を置かずに少年は答えた。

 

「それこそ、確証もないのに断定などできません。 元より記憶を無くしている身だったのかも。 同じように、無い罪を咎められませんよ」

 

「では、迷いはないと?」

 

 今度は笑みを浮かべながらの質問だった。 少年は一息ついて、またしてもはっきりと答えた。

 

「誰かのお役に立てるのなら、悔いはありません。 名も知らぬ両親も、きっとそれを望んでいるはずです」

 

 そこまでの奉仕の精神は、もしかしたらルーンに拠るものなのかもしれない。 それはオスマンにとって都合の良い捉え方であったが、彼の言葉から嘘は読み取れなかったのだ。 オスマンはそこで、互助の精神というものを思い出した。 古き良き時代。 貴族が一方的に平民を圧するのではなく、互いに出来ぬことを補い合って社会を築いていたあの時代。 今となっては失われたそれが、故も知らぬ少年によって再び思い出されたのだ。

 

「あいわかった…君の決断に感謝をしたい。 ミス・ヴァリエールも、それでよろしいかね?」

 

「は、はい。 使い魔になってくれるなら私はそれで…」

 

「うむ。 ならば契約は正式に完了したとしてよいだろう。 ――最後に私から君に、贈り物をしたいのじゃが。 いいだろうか?」

 

 その言葉に、ルイズは要領を得ないと言った様子で首を傾げた。 図書館を自由に使わせるという許可は既にもらっているのだから、それ以外に何があるというのだろうか。 お金でも、宝石でもないだろう。 

 

「生活するのに名前無いというのでは不便というモノじゃ。 そこで私から君に、名前を送りたい。 アンリ――古い言葉じゃが、貴き者という意味じゃ。 君にピッタリだと思っての」

 

 このハルケギニアにおいて、貴族から名を受けるというのは大変な名誉に当たる事である。 領主から、貴族から、王家から。 歴史において名を授かるというのはつまり、信頼と忠誠心を認め、そのものも地位を確立する事なのである。 それが平民に与えられるというのは、滅多にない事柄なのだ。 

 

「勿体なき名前です」

 

「昔儂を救ってくれた恩人の名でな。 気に入ってもらえたのなら幸いじゃ」

 

 心なしか、隣に立った少年は嬉しげにその名を噛み締めているようだった。 だが、ルイズにはその気持ちが分かった。 オールド・オスマン程の者に認められ名を授かることは、ルイズにとっても羨ましい事である。 いつか自分も、誰かに認めたもらえたならばと、思わぬ日は無い。

 

「さて。 後は我々老人が出しゃばる事もないじゃろう。 今日は二人で親睦を深めなさい」

 

 出た行ったルイズの足取りは、入ってきたときとは打って変わって快調なものだった。

 

//

 

 その日の晩の事であった。 授業は無く、皆が自室で使い魔との絆を確かめ合っている時間。 ルイズも同じように、ランプだけが灯った部屋の中でそれを行っていた。

 

「それで、あんたは何者なの?」

 

 開口一番に出た言葉は、またしてもそれであった。 同じ意味で言ったわけではない。 オスマンとの会話を踏まえて、それでもなお納得がいかないからそう質問したのであった。

 

「そう言われましても…オスマン氏から頂いたアンリと名乗るしか出来ません」

 

「よく分からないのよ。 あんたは字が読めるしそれなりの礼儀も知ってる…ま、私から言わせればまだまだだけど。 つまりはそれなりの躾がされてるって事よね?」

 

 ご主人様は随分と頭の回転が早いものだと、アンリは心からそう感心した。 緊張して青ざめた顔色をしていた彼女だったが、裡ではしっかりと情報を整理し、判断を下せていたのである。

 

「どうなんでしょうか?」

 

「質問に質問で返さない! あんた、あんな重そうな鎧着てたんだし、ほんとは貴族だったりしない?」

 

 想像もしていなかった言葉に、「鎧?」とアンリは聞き返した。

 

「そうよ。 あんた聞いてないの? 随分とぼろぼろの鎧着てたでしょ」

 

「いえ、ミスタ・コルベールからは武器を持っていた事しか」

 

「そうなの? 所持品の中に身元が分かる物とかは? 家名とか部隊とか」

 

「聞いてみない事には…」

 

「なら明日聞いてみなさい。 私は疲れちゃったから先に寝るわ」

 

 眠たげに言いながらも彼女は制服を脱ぎ捨て、恐らくは寝間着としているネグリジェ姿になるとベッドに潜り込んでいった。 貴族は同等の立場の者しか人として扱わないと知ってはいるものの、男と女ではまた別である。 単に度胸が据わっているのか無頓着であるのか。 彼女が脱ぎ捨てた制服を畳むアンリには分からなかった。

 

「それ、洗濯しておいて。 それと朝になったらその桶に水を汲んどいて。 それと…ありがと」

 

「いえ。 おやすみなさい。 ミス・ヴァリエール」

 

 返事の代わりに聞こえたのは、万時に疲れ切ったような、それでいて草笛のような小さな寝息だった。 慣れぬ事ばかり、加えて人生の機転が一気に来たものだから疲れ切ったのだろう。 アンリとて、同じようにベッドがあったのならすぐにでも寝れてしまいそうなものだった。

 

 主人がベッド代わりに寄越した藁を敷いて、壁に背を預けてアンリは目を閉じた。 膝を抱くようにして眠る姿勢は妙に落ち着いたのだが、支えとする何かが欠けていたのだろう。 右肩のぽっかりと空いた空間に違和感を覚えながら、少年は襲い掛かる睡魔に身を委ねた。

 

 夜の帳は下り、未だ起きている者は、ガラス越しに不気味に輝く双子月だけのように思われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




アストラのアンリさんから拝借いたしました。
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