夜明け、そして目覚めとは。 人は皆美しく神聖なものと言うが、多少の悲しみや切なさを含んでいると少年は考えていた。 彼の目覚めはいつも、結末を知る事の出来ぬ夢の終わりと共に訪れる。 そして、夢の内容を思い出すことも出来ぬのだから、決して良いものだとは到底思えない。
使い魔となった少年――アンリは早朝に目覚めた。 窓ガラスの向こうから来る光は丁度藁の上を射しており、存分に眠った訳でもないのに体は目覚める。 当然としてまともな寝具で寝た訳でないのだから、体はギシギシと油を差さぬ鎧のように重い。
豪勢な天蓋着きのキャノピーベッドで眠るご主人様。 ルイズはその幼さを残しながらも美しい寝顔に、可愛らしい寝息を立てながら夢を見ているようであり、時折寝言を漏らしている。 時刻は早朝と言えど、それは仕事がない貴族にとっての早朝であって、学院に勤める平民たちにとってはただの朝に過ぎない。
窓より見える使用人たちに倣って、アンリも洗濯籠と桶を持つと中庭を目指した。 女子寮の重厚な階段を下っていき、部屋から見えた南側に位置する場所を目指し、ちょっとした城程の大きさの敷地を抜けると、そこには
とりあえずは洗濯を済ませようと水を汲んだがいいものの、肝心の石鹸や香料と言ったモノは全く手元にない。 加えて洗濯板もないのだから、どうしようもない事に気付いてしまう。 手洗いではまず汚れは取れないし、立派な召し物も皺が出来てしまう。 どうしたものかと考えている時であった。
「何か悩み事ですか?」
少女の声であった。 様子のおかしなアンリに気付いて声をかけたその少女は、奇しくも彼の世話を焼いてくれたメイドの子であった。
「ミス・ヴァリエールの使い魔の方ですよね? 昨日もお会いしたんですが、覚えてますか?」
「勿論。 お礼を言い忘れてたからどうしたものかと思ってたんだけど」
「そんな。 お互い助け合う仲ですから気にしないでください。 それ、洗濯物ですよね?」
水に沈められたシャツとスカートを認識して、少女は尋ねた。 アンリは何も言わずに頷く。
「よければ一緒に洗いましょうか? 貴族の物でしたら傷つけると大変ですから」
「よかった。 女の人のは洗ったことが無かったし、道具もないしで迷ってたんだ。 ありがとう。 ええと、君の名前は…」
「シエスタです。 この学院で貴族の方々のお世話をさせてもらっています。 あなたは?」
「アンリ。ただのアンリだよ。 昨日使い魔になったばかりだから何も知らないんだ。 もしかしたら助けてもらうかもしれない」
「気にしないでください。 さっきも言いましたけど、平民は助け合わないといけませんから」
シエスタの言葉と笑顔は非常に眩しいものである。 今の時代、助け合わねばやっていけないとは知りつつも、初対面の人にこう優しく出来る人はそう多くないだろう。 アンリは心からの感謝を抱きつつ、彼女の持つ荷物を肩代わりしてついていった。
「アンリさんは何処からいらっしゃったんですか?」
洗濯物を干していると、シエスタはそう切り出した。
「多分ハルケギニアのどこかだとは思うんだけど。 色々思い出せなくて」
「それって、記憶喪失ってことですか?」
「どうだろう。 常識的なことは覚えているし、思い出せないのは名前くらいなモノだけれど…」
有り体な言い方をすればそうなのだろう。 「可愛そうです…」と表情を曇らせる彼女には申し訳ない事だったが、本人にとってはそこまで重要なことではなかった。 どうしてか、記憶を失い誰かも知らぬ人の使い魔になったというのに、それに従うのには何の抵抗もなかったのだ。 むしろ喜びを感じる程であり、この現状に喘ぐこともない。
それがルーンの効果であることは未だ少年の知らぬ所であった。 自身の左手に"それが"刻まれていると気付いたのは、顔を洗って水分をふき取ろうとしたその時だったのである。
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シエスタに洗濯を肩代わりしてもらい、その他諸々の仕事を手伝い戻ってきたアンリが最初に行ったのは、主人を夢から覚ます事であった。 朝食の時間までは半刻、つまりおおよそ一時間も無いという頃であり、準備に時間のかかる場合間に合わぬ可能性があったのだ。 未だ気持ちよさげに眠る少女の毛布を剥ぐと、彼女は飛び起きるように目を覚ました。
「なにごと! あんた誰!」
「おはようございます。 ミス・ヴァリエールの使い魔のアンリです。 お忘れですか?」
目は覚めても脳までは覚醒していない様であった。 自身が召喚した使い魔の顔と名を忘れている少女に、濡れた布を渡す。 ルイズは大人しく受け取り、顔を拭き始めた。
「もう少しで朝食の時間になりますが」
「ええ、そうね…とりあえず制服、取って」
椅子に掛けられたマントとそれらを指さして取る様に命じた後、ルイズはネグリジェを脱ぎ捨てた。
「次は下着」
さしものアンリも、それには顔を逸らさずには居れなかった。 確かに、彼女は昨日男がいるにも関わらず寝間着に着替える所業を見せたが、まさか肌まで見せるとは思いもしなかったのだ。 従って、従者ではあるものの諫言せざるを得なかった。
「いくら使い魔でも、未婚の女性が肌を見せるものではありませんよ。 僕は侍女ではないのですから」
そう指摘されて、彼女はバツが悪そうに顔を逸らした。
「そうね。 アンリって名前だから女だと勘違いしたわ。 着替えるから一度出て頂戴」
「顔は会わせたでしょうに」
眠たげにそう漏らした彼女に従って廊下に出る。 既に時間もそう早くはなく、同じ階層の生徒たちは食堂を目指している時間である。 皆女子寮に男がいるのを見て一瞬怪訝な視線を見せるものの、部屋の主が誰であるかを知ると、「ああ、あのルイズのね」と呟いて気にせず流れていく。 当たり前の事だが、ルイズが平民の男を召喚してしまったというのは既に学院全体に知れ渡っているようであった。 シエスタも知っていたし、厨房で働く者も皆気を使っていつでも来いと言ってくれたのだ。
「あら、あなたはあのルイズの?」
聞こえた声は先ほどのそれと同じだが、違うのは面と向かって掛けられているという事であった。 褐色の肌。 ルイズよりも随分背は高く、170サント程しかないアンリにも並ぶほど。 少し背の高いブーツなど履けばすぐに追い越してしまうだろう。 加えて一番目を引くものと言えば、その年頃にしては大きすぎる程の胸だろうか。 さぞ同級生の男たちの視線を引くだろう物を持つ彼女は、それを自身の象徴として目立たせているのである。 同性であっても目のやり場に困るそれは、アンリとて例外ではなかった。
ひとまず、アンリは優雅に一礼をして見せた。 相手が貴族であるから敬意を払わないわけにもいかないし、視線を逸らすのにも丁度良かったのである。
「ミス・ヴァリエールの使い魔となりました。 アンリと申します」
「あら、ご丁寧にどうも。 あたしはキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。 長いからキュルケでいいわ。 よろしくね、使い魔さん」
すると彼女も名乗り返して見せた。 どうにもこの学院は平民貴族と隔てない人の割合が多いようだった。 コルベールを始めとしてオスマンも。 そしてその秘書のロングビルも、恐らくは貴族であろうに軽蔑した感情を露わにすることは無かった。
「それで、ルイズはどうしたわけ?」
「今着替えてる最中です。 僕はその、男ですから」
「ふーん。 あのまな板ルイズなら、男がいても気にしなさそうな気がするけど」
その鋭い指摘には、アンリも苦笑を漏らすしかなかった。 ルイズは彼女、キュルケについては何も言わなかったが、それなりに互いの事を知っている仲らしい。 そう話すキュルケの後ろで静かに本を読む少女、随分背の低いその子はそんな二人を気にせずに、ただ項をめくり続けていた。
「ほら、あなたも本ばかり見てないで名乗りなさいな」
「…タバサ」
「アンリです」
キュルケに促されてようやく名乗った少女。 雪のように白い肌に、アンリは惹かれていた。 それは病的に白く、見覚えのある色だったのだ。 それは誰で、いつ見たモノだったろうか。 そう考える間もなく、背にした扉がようやく開いてルイズが出てきた。
「あら、おはようルイズ」
「ええ、おはよう。 キュルケ」
嫌そうに顔をひきつらせたルイズであったが、挨拶は一応返したようだった。
「人間を召喚したっていうから驚いたけど、中々に良さげじゃない。 礼儀を弁えた従者っていうのは色々貴重よ? まぁ、フレイムには及ばないけどね」
言うと、その後ろより大き目な鱗を持つ岩のようなそれが姿を現した。 ごつごつとした肌に蛇のような長い舌。 尾の先からは赤い炎が漏れ出ており、微かに空気を温めているようであった。
「あんた、『火』系統だものね。 お似合いじゃない」
「そうよ、こんな立派なサラマンダーだと好事家も値段をつけられないでしょうね」
「なによ。 見た目だけじゃないの?」
ルイズは悔しげにそう漏らしたが、キュルケには効かなかったようである。 特に言い返すこともなく、勝ち誇った笑みを浮かべて、
「まぁ、ゼロのルイズにしては上手くいったんじゃない? 一応は成功したみたいだし、おめでとうと言っておくわ」
「別に、あんたなんかの祝辞はいらないわよ。 ほら、さっさと行きましょ。 こんな色バカに付き合ってたら日が暮れるわ」
「色気のないあなたに言われたくはないわね。 まな板ルイズ」
「何ですって? あんた、やる気なの?」
売り言葉に買い言葉。 瞬く間に火花を散らし始めた二人を止めようと中に割りいるよりも前に、タバサの杖先からは冷えた風が生まれていた。 温かい春と言っても朝であり、石の廊下は直ぐに熱を失い始めた。 温まった二人を冷ますにはぴったりの魔法である。
「急がないと遅れる」
そうタバサは告げて、足早に階段を下っていく。 遅れて二人も仕方なしについていくのを見て、アンリも送れぬように足を速めた。 こういった時、やはり魔法を行使できるというのは便利なのである。
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トリステイン魔法学院の食堂は本棟の中にあった。 異様に長いダイニングテーブルが並ぶのは三列。 それぞれ学年ごとに分かれているのだろうか。 その長さと言えば百人は優に座れる程である。 色の違うマントが三色、テーブルごとに決まった色が並んでいる。
奥の階段を上った先、バルコニーのように作られた階層は教師の席なのだろう。 見覚えのある教師たちが雑談に興じているのが見える。
「どう。 驚いた?」
ルイズは自慢げに、己の使い魔へと言い放った。
「ええ。 こんなに広い食堂は見たことがない…と思います」
「学院は魔法を学ぶだけの場所じゃないの。 貴族に相応しい礼儀も身に着ける必要がある」
「それにふさわしい場所もという事ですか」
「そうよ。 この『アルヴィーズの食堂』は本来使い魔は入れちゃいけないんだけど、あんたは特別に許可をもらったわ」
椅子を引かせながらも彼女は続けた。 この食堂では、中央に位置するオブジェの人形。 アルヴィーズ達が夜中、人のいない場所で踊るのだとか。 そんな事を話すうちに椅子が生徒たちで埋まると、今度は中階の教師たちが何やら話を始めた。 それは、始祖ブリミルに対する感謝の意である。 その合唱がされる間、膝をついてそれに倣ったアンリは、ルイズが視線で机の下を指していることが分かった。
低い姿勢のまま、アンリはその先を見た。 小さな皿がぽつりと置いてある。 それは、机の上に所狭しと並んだ豪華な料理とは対極的な、それも服役する囚人に与えられるような粗末なスープがあった。
「…これは?」
「し、仕方ないでしょう。 人が来るとは思ってなくて用意できなかったのよ。 貴族と同じ席に着かせるわけにもいかないし…明日からの物はは相談しておくから」
貰えるだけましであるというのは分かっている。 ただ、こう床に置かれてはあまり美味しそうにも見えなかったので、思わず聞き返してしまったのだ。 ルイズも流石にと思ったのか、そう弁明をした。
「ありがたくいただきます。 食堂にいるのも何ですから、中庭で食べる事にします。 授業の時間は?」
「鐘が鳴るから、その前に行くわ。 噴水の前で待ってて」
「分かりました」
スープ皿と堅いパンを手に、貴族の視界になるべく入らないように姿勢を低くしたまま使い魔は外へと消えていった。
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食事の時間は終わり、授業の時間になった。 教室の前方、その中心には教卓があり、生徒の机はそこから円のように放射状に広がっている。 比較的後の方に入ってきたルイズたちを見た生徒たちは、くすくすと面白いものを見るように笑い出した。 本人は気にしていないのか、いつもと変わらぬ凛とした表情で後ろの席へと座った。 無論、使い魔のアンリに座る席は無いので、一番後ろの壁に沿って立つ形である。
その教室には様々な使い魔たちがいた。 猫や犬、鳥と言った愛玩動物から、キュルケのサラマンダーやバグベア、名も知らぬ魔法生物たちを従えた生徒は皆誇らしげに座っている。 その中でも、やはり人間を従えるのはルイズだけだった。 ただ、彼らの笑いに籠っていたのはその珍しさだけではなかった。 もっと単純な、嘲笑と言った歪な感情がそこにはあったような気がした。
そんな事を考えているうちに扉が開くと、中には教師が入ってきた。 コルベールとは違う、紫のローブで身を包んだ女性の教師である。 ふくよかな体と優しげな表情は、この教室に平穏な空気を齎しているように見えた。
そんな教師は教室を見渡して全ての生徒を視界に収めたかと思うと、満足した様子で言った。
「皆さんの使い魔召喚の儀は無事成功したようですわね。 わたくし、この春の時期に様々な使い魔たちを見るのが本当に楽しみなのです。 中には、変わった使い魔を召喚した者もいた様ですが」
ミス・シュヴルーズの流した視線はアンリに止まり、少年は一礼をした。 それを見て満足げに微笑む教師は、やはり人に安心を齎す人物であった。
しかし、そんな配慮が可能な出来た貴族とは違い、子供とは未熟である。 教室のどこかで「ゼロのルイズ!」と声が上がると、たちまち焚きつけられたようにその声は大きくなった。
「どうせ、その辺歩いてた平民を捕まえてきたんだろ!」
「それとも、家の従者でも連れてきたのか?」
根拠のない下らぬ物言いである。 記憶を失っているために言い切る事は出来ないが、アンリとルイズはあの日召喚されるまで互いを知らぬ関係であったし、無理矢理連れ去られたわけでも金で雇われたわけでもない。
そんな主に対する侮蔑は許してはならないものである。 そんな事は一切ないと言い切るために足を進めようとしたのを、ルイズは手で制し立ち上がった。
「あんたらの言う不正なんかしてないわ! きちんと成功した結果こいつが来たのよ!」
「嘘つくなよ! 『ゼロのルイズ』! 魔法に失敗したんだろ!」
それに釣られて教室中の生徒は笑い出した。 子供の悪意とは厄介なもので、それはいとも簡単に伝搬するものだった。 言葉で人を殺せることを知らないのである。
「ミセス・シュヴルーズ! かぜっぴきのマリコルヌが私を侮辱しました!」
先ほど揶揄した小太りの少年、マリコルヌであろう彼は納得がいかないと言った様子で立ち上がった。
「かぜっぴきだって!? 僕は『風上』だ! 君の『ゼロ』とは訳が違うぞ!」
「そのガラガラ声は聞いてるとムカムカするのよ!」
そんな二人のやり取りにため息を漏らしたミセス・シュヴルーズは杖を振るった。 瞬間、先程までいきり立っていた二人は強制的に着席させられた形になる。
「お二人とも、みっともない口論は止めなさい。 貴族とは、互いを尊重しあうものです」
「ですが! 僕のかぜっぴきは中傷ですけど、彼女のゼロは事実です! 成功した試しがない!」
マリコルヌは『ゼロ』と叫んだ。 これがまた、アンリの頭の片隅に残り続ける違和感だった。 朝も、昼も。 アンリを目にした生徒たちは皆「ああ、『ゼロ』のルイズの」と謎の枕詞をつけて話す。 そのゼロとはいったい何なのだろうか。 少なくとも、彼女にとって口にされて嬉しいものではない事が分かる。 誰かに言われる度に青筋を立てて言い返す、彼女の剣幕を見ればそれは確かだった。
彼の、そんな言葉を聞いてまた、数人の生徒は顔を見合わせて笑った。 そして再び教師の杖が振るわれると、今度は口に土の塊が張り付くことになった。
「あなた方はこのまま授業を受けなさい。 言う事を聞かなかった罰です」
言って彼女は咳払いをすると、教卓の上に石を置いた。
「皆さんご存じかと思いますが、わたくしの二つ名は『赤土』、『土』系統の魔法を得意としてます故、一年間土系統の魔法を教えることになります。 魔法における基本、四大系統は既に習っていますね? ミス・ヴァリエール」
「はい。 ミセス・シュヴルーズの『土』を始めとする、『土』、『水』、『火』、そして『風』の四つになります」
「よろしい。 流石はミス・ヴァリエールです。 それに加えて、失われた『虚無』の五系統の魔法が存在すると言われております。 わたくしの『土』は、その中でも基本となる物です」
ミセス・シュヴルーズはその解答に満足げに頷いて、講義を続けた。
「『土』の魔法は万物の組成を司っています。 金属の加工や農作物、この建物も『土』が無くては作れませんし、綺麗な水を作るのにも必要です。 分かりますね?」
そんな説明に、アンリは関心を示した。 魔法の系統に関しての知識は何故か知っていたものの、詳しい活用法などは知らぬままだったのだ。 例えばどんな魔法があるのだとか、何に使っているのだとか、そんな事は初めて学ぶものだった。
『よかったじゃないか。 風は、隠密に役立つぜ』
ふと、そんな声がしたような気がしてアンリは振り返った。 そこには誰もおらず、ただ扉があるのみである。 ただの気のせいにしては嫌に鮮明に聞こえたのだが、生徒は皆集中して話を聞いているためにそんな人物は見当たらない。 直ぐに視線を直して授業に集中した。
「この講義では、皆さんに『錬金』の魔法を唱えてもらいます。 一年生の時に習ったからと油断している人もいるでしょう。 ですが油断は禁物ですよ」
シュヴルーズは机に置かれた石に向かい短く魔法を唱えた。
一瞬光った小石は、元の石ではなく黄金色を放つそれに代わっていた。 それが、『錬金』の魔法だった。
「そ、それ、ゴールドですか?」
キュルケは震えた声で質問した。
「ただの真鍮です。 ゴールドを作れるのは『スクウェア』クラスのメイジだけですから…」
彼女は続けた。 大きく咳ばらいをして、もったいぶった様子で、
「わたくしはただの『トライアングル』ですから…」
魔法を扱えるメイジの中にも枠組みが存在する。 それは最初に話した系統の四つだけでなく、その者の格を示す『ドット』、『ライン』、『トライアングル』、『スクウェア』である。 点、線、三角形、そして四角形を意味するそれらの言葉は、メイジが加えることのできる魔法に要因しているのだ。 『火』に『水』を足せるなら『ライン』。 それに『土』を足せるなら『トライアングル』。 そして『風』を加えられるのが『スクウェア』。 単に一つの魔法を使うのは簡単であるが、他の系統に加えるのは非常に難しい行為であり、到達点とも呼べる『スクウェア』に達するまでのメイジは少ないとされる。 彼女の言う『トライアングル』も、かなりの実力者に相当するのだ。
では、ルイズは幾つまで足すことが出来るのだろうか。 そんな疑問が生まれるのは当然の事であった。 己を使役するメイジの実力を知りたいと願うのは、ごく普通の事なのである。 今更実力どうこうで意見を変えるつもりもなかったが、アンリはその好奇心を抑えきれなかった。
低い姿勢を取って、羊皮紙にペンを走らせる彼女に静かに問うた。
「…ミス・ヴァリエールは、どのクラスなんです?」
随分と嫌そうな顔をして、彼女は口を開いた。 だが、帰ってきたのはその返答ではない。
「静かになさい。 授業中よ」
機嫌が悪いとすぐに直ぐに分かる程のモノである。 まずったと思いながらも後ろに戻ったアンリだったが、その少ない会話に気付いた者もいた。 ミセス・シュヴルーズである。
「ミス・ヴァリエール。 私語は慎みなさい」
「すいません…」
「自信があるのならあなたにやってもらいましょう」
「え?」
「『錬金』の魔法は知っていますね? この石を望む金属に変えてみなさい」
ルイズはそう言われたものの、中々応じようとはしなかった。 傍から見ても自信がないというのが分かるほどに、応える声は弱々しい。 そんなものだからシュヴルーズも待ちかねて、今度は少し強めに言い放った。
「ミス・ヴァリエール! どうしたのですか!」
「ミス・ヴァリエール? 呼ばれてますが…」
それでも、ルイズは立ち上がらない。 ペンと羊皮紙を机の上に放ったまま、もじもじと下を見つめるだけであった。
仕方なしに、本人の意思とは別に己が事を収めるべきだと判断して、アンリは主人の体調不良を訴えようとした。 その時である。 前の椅子に座ったキュルケは、少し困った顔で教師に告げた。
「先生」
「何でしょう、ミス・ツェルプストー」
「ルイズは止めた方がいいと思います」
「何故でしょう。 彼女は座学の成績も大変良いと聞いていますが…」
「危険です」
キュルケは、これ以上ない程簡潔に述べて見せた。 そんな発言に、先程まで嘲笑を漏らしていた生徒たちですら頷いて見せた。 アンリにはこの状況が理解できなかった。
「危険? そんなことはありませんよ」
「先生はルイズを受け持つのは初めてだと思いますが、本当に危険なんです」
「大丈夫です。 わたくしが側にいますからそんな事にはなりませんよ」
「ルイズ、頭がいいなら自分の力量も分かるでしょう。 やめて頂戴」
朝とは比べ物にならない程、余裕のなくなった表情でキュルケはそう言葉を投げた。 が、
「わたし、やります」
その言葉は、今のルイズには届かなかった。 散々馬鹿にされて、その上
横で見守るシュヴルーズは大丈夫ですと言い聞かせるように、ルイズの気持ちを落ち着かせていた。
「あなたは大変な努力家であると教師たちの中で評判ですから、恐れる事はありませんよ。 例え失敗してもそれは糧になるのです。 さぁ、錬金したい金属を強く浮かべて、杖に言葉を乗せるのです」
ルイズはゆっくりと頷いて見せた。 その手の震えからは強い緊張が読み取れて、音が聞こえるのではと思う程に。
彼女の仕草はとても優雅で、美しいものだった。 授業を受ける際の真面目な顔は、それはそれは使い魔から見ても凛々しい物であり、誇りに思える程であったが、こうして杖を構えて魔法を使う様も素晴らしいものである。 詠唱は朗々と行われ、杖の振るい方にもなんら問題はない。 緊張していると言っても杖先は揺れておらず、練習を繰り返していたことが分かる程。 彼女のそれは洗練されていた。
しかし。 しかしである。 アンリがそれを熟練していると思う裏腹に、生徒たちは全員机の下に隠れ始めた。 先ほどキュルケの後ろにいたタバサに限っては教室を静かに出ていった。
それは何故だろうか。 そう思うのもつかの間、ルイズが詠唱を完成させ杖を振り下ろしたときだった。 石がかたかたと震えて色を変えようとした時である。 何かが爆発したときのように、眩い光が視界を遮った。 否、本当に爆発したのである。 朝の日差しよりも随分と強い光に、耳をつんざく激しい音。 そして、爆風は机に置かれた勉強道具を吹き飛ばしていた。
光と煙が晴れた頃である。 恐る恐る視線を教卓に移すと、側にいた二人は黒板の側にへたり込んでいた。 マントとローブは破れて素肌が見えてしまう程。 髪の毛をチリチリにし、石と教卓は吹き飛んでしまったのか姿は見えない。 生徒たちの悲鳴が聞こえ、使い魔たちが暴れ出している。
割れたガラスから使い魔の鳥が飛び出し、蛇がネズミを丸のみにし、火トカゲは口から炎を吐き出している。 この教室はまさしく地獄だった。
だが、我が主人は大したものだった。 そんな地獄絵図を気にすることなく立ち上がり、顔の煤をハンカチで拭うと、
「少し失敗したみたいね」
被害者たちは当然、烈火のごとく怒りをぶつけた。
「何が"少し"だ! いつもこうなるじゃないか!」
「やっぱり『ゼロ』だ! 魔法が成功する確率は!」
悔しそうに肩を震わせる主人を見て、この時になってアンリは理解したのだ。 彼女が尊敬されず、嘲笑される原因を。
彼女が『ゼロ』と呼ばれる
//
ルイズは今、食堂にいた。 食堂で紅茶とケーキを嗜みながら深いため息をついていた。
時刻は昼食を済ませ、昼休みに突入した正午を過ぎた頃である。 午前の授業は自分の"ミス"のせいで潰れてしまい、結局そのあとは自習する形になって今こうしているのだ。 本来はミセス・シュヴルーズに怒られ部屋の掃除とガラスの張替えを命じられていたのだが、己の使い魔は何か言うまでもなく、「お召し物が汚れてますし、体に何かあってもいけませんから」と言って破れた服の上に上着を被せて、一人で掃除をしていた。
他人から見れば、自分のミスを使い魔に押し付けるとは貴族らしからないと思われる行いだったが、そんな事を省みる余裕はルイズにはなかった。 クラスメイトの前でもああして虚勢を張って見せたものの、内心は悔しさと悲しみで溢れており、泣いてしまいたい程である。 彼女の強い自尊心と矜持が、かろうじてそれを留めたのであった。
机に置かれた教本、一年生から使うそれは『土』系統についての物である。 ルイズはそれをパラパラとめくった。 どのページにも使い込まれた跡があり、何かが書き込まれていない場所などない。 どれも見覚えのある字で、「見ていろよ」と泣きべそを書きながら学んだ証拠であった。
彼女がこの学院に入学したころ、それはそれは期待されたものだった。 名高いヴァリエール公爵家の三女、美しいお嬢様が入学すると話題になって、皆はその魔法の実力を知りたがった。 そして自分自身、子供の頃とは違って成長したのだから、今度こそは使えるようになっているはずと、自身を持って魔法を使った。 あれだけ努力したのだ。 失敗するはずがないと。
結果は今日と同じだった。 だが、魔法は使えずとも美しいからと、多くの男子生徒は交際の申し込みをした。 しかし誇り高い彼女にとってそんな浅ましい男たちは当然気に入らず、肌に手を伸ばすたびに爆発を起こしていたものだから、とうとうそんな目で見る者もいなくなって、彼女は一人になった。 しかし、彼女は優秀だった。 魔法は使えない。 だから何だと言わんばかりに座学は常に最優秀であり、実技以外は総なめしていた。 他の名家の生徒は当然面白く思わないわけで、そんな彼女を目の敵にして『ゼロ』と呼び始めた。 これが、今の二つ名の始まりである。
悔しかった。 努力を認められず馬鹿にされるのが。 ここにいる誰よりも努力したと言える自信があるのに、それは実を結ぶことは無い。 だれでも使える魔法は使えず、それどころか勉強で勝てぬ相手に侮蔑する名で呼ばれる始末。 誰よりも厳しく躾けられ、誰よりも誇り高い自分がそんな事をされて許せなかった。
そして何よりも許し難いのは、ヴァリエール家の名に泥を塗ったことだった。 ルイズははっきりと言える。 父と母は誇り高き貴族、王家に仕えるメイジであると。 そしてその娘たち、エレオノール姉様とちい姉さまも素晴らしいメイジなのだと。 そんな家が、下品な生徒たちに貶められているのが我慢ならなかった。 自分だけが言われるのならば、百歩譲ってもよい。 陰口位、許せるものだ。 だが、家名で一くくりにされるのは許せなかった。
そして、今日上着を被せてくれた使い魔の顔を見ることも出来ず、礼すらしなかった自分。 それはきっと恐れていたのだ。 家に仕える使用人や従者たちが向ける視線と同じそれが、アンリから向けられてしまうのが。 だから、何も言わずに部屋に戻り着替え、やるべきこともやらずここでこうしている。 それは自分が嫌う恥ずべき行為だった。
「なぁギーシュ! 君は今、一体誰と付き合っているんだい!」
「そうだよ! 誰が恋人なんだ!」
下品にも食堂で叫ぶ生徒たち。 数人がワインを片手に一人の生徒を囲んでそれはそれは、楽しそうに談笑している。
中央に位置する、金色の髪にフリル付きのシャツを着た男子生徒。 バラを模した杖を胸に差し冷やかしを受ける生徒。 ギーシュ・ド・グラモンであった。 ルイズと同じく名家である軍人家系、グラモンの三男である彼は
そんな彼は、恋人のいない生徒たちに冷やかしを受けていたのだ。
「君たちは勘違いしているね。 僕は薔薇なんだ。 薔薇は、一人の女性を楽しませるために咲くものではないだろう? 僕は、全ての女性を楽しませるためにあるのさ」
彼は曖昧に言葉を濁した。 自分を薔薇に例える、少しナルシストの入った彼は度々恋人を変えてを繰り返している。 振られても尚それを辞めぬというのだから、むしろどこにでも生えてくる雑草だろう。 と、ルイズは心の裡で呟いた。
もう一度深くため息をついて、ルイズはここから離れようと重い腰を上げた。 こんなに騒がしくては心を落ち着かせて紅茶を嗜むことも出来ないし、そろそろ教室にいる使い魔に昼食を食べさせなければならないと思ったところだった。 ほんの少しも手伝わないでやらせてしまっては、それこそ貴族の名折れであると思ったのである。
そんなときである。 ギーシュが訳の分からぬ高説を垂れている時、彼のポケットから小瓶が落ちた。 紫色の液体を内に宿したガラスの小瓶である。 音を立てて落ちたそれは、他の生徒の目に移った。
「おお、その香水はもしかすると、モンモランシーの物ではないか?」
「そうだ! あの鮮やかな色は、彼女が自分の為に調合するものだぞ!」
「違うよ。 君たち、彼女の名誉の為に言うがね…」
彼が弁明している時であった。 それは間が悪いとしか言いようがなかった。 偶然、彼らにケーキを配膳するメイドの一人がその場を通った。 とても多いケーキと皿で足元が見えなかったのであろう。 足早に通り抜けた少女の足が小さな小瓶を踏んでしまった。 では、踏まれた小瓶は一体どうなるのだろう。
がちゃん。 と少々耳障りな音が響いて瓶は割れた。 中の紫が収まる場所を無くし石の床を伝る。 瞬間、随分と甘ったるい匂いが辺りに充満した。 ケーキの匂いと混ざってそれはそれは、胸焼けする程の匂いだったが、確かにそれはモンモランシーの付けている香水に違いなかった。
生徒たちは固まった。 それはそれは、蠟のように。 メイドの子は何が起きたかわからずに皿を配り、また奥へと急ぎ足でケーキを運んでいく。
そんな馬鹿な男どもの座るテーブルの、少し後ろに座った少女は重々しく立ち上がった。 そしてギーシュの目の前に音を立てて歩み寄っていった。 その少女は一つ下の学年のマントを纏う、綺麗な栗色の髪の少女だった。
「ギーシュ様…」
彼女は大粒の涙を大きな瞳から流し始めた。
「噂は本当だったのですね…私は遊びで、ミス・モンモランシーが本命であったと…」
「彼らの誤解だよ…ケティ。 いいかい、僕の瞳に移るのは君だけさ…」
情けない言い訳であった。 そんな誤魔化し方では、女は納得しない。 ルイズの推測通り、ケティと呼ばれた下級生は見事な
「床に流れる香水が何よりの証拠です! さようなら!」
「ケティ…落ち着いて…」
二発目が飛んでケティはどこかへ走り去っていった。 色んな女子生徒に鼻を伸ばし、乙女心を踏みにじったのだ。 ルイズはいい気味だと思いながらもそれを見ていると、ギーシュは半分放心しながらも頬をさすった。 流石の彼も、ここまでの振られ方はしたことがなかったらしい。
しかし、彼にとっての不幸、いや、己が招いた行為なので自業自得なのだが、それはまだ続いているようだった。 遠くの席より視線を下げながら歩いてくる女子生徒、金の巻髪を持つ彼女はルイズもよく知る人物―モンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシであった。 先ほど床に流れた香水を調合したその人である。
その恐ろしい程冷めた視線に、ギーシュは慌てていた。
「モンモランシー、落ち着いて聞いてほしい。 彼女とはラ・ロシェールの森まで馬をはしらせただけで。 それだけさ」
好意を持った相手と二人で出かける。 それが逢瀬でなくて何だと言うのか。 苦し言い訳を続けるギーシュの笑顔は引きつっていた。 冷や汗が頬を伝る。
「だと思った。 あの一年生に手を出していたのね」
「誤解だよ。 君の薔薇の様に美しい顔を怒りに染め上げないでおくれ。 皆が悲しんでしまうよ!」
よくもまあ、こんな状況でまだ言い訳するものだとルイズも感心した。 しかし、モンモランシーはそれ以上何かを告げることなく、先程打たれた頬とは逆に平手打ちをかまして、
「嘘つき!」
と怒鳴って走っていった。 そんな状況に、先程まで冷やかしていた生徒も流石に閉口した。 それまで喧騒としていた食堂以内が一気に静まって、この状況で歩き続けるのは給仕のみである。
ギーシュはハンカチで汗を拭った。 そして、再び喋り出した。
「あのレディたちは薔薇の存在する意味を理解していないようだね…」
苦し紛れのその言葉に、さしものルイズも聞いているだけで不愉快が募ってしまいそうで、席を立った。 出口へ向かうルイズと、先程不運にも小瓶を割ってしまったメイドがすれ違う。
未だ忙しそうに走る少女、ギーシュは彼女を呼び止めた。
「君、待ちたまえよ」
「わ、私でしょうか?」
少女は困惑した様子で尋ね返した。 その顔に、ルイズも見覚えがある。 シエスタという働き者で、彼女には色々と助けられていた覚えがあった。
「そう、君だよ。 君がモンモランシーの小瓶を割ったが為に、二人のレディの名誉が傷ついた。 この責任はどうとるんだね?」
「そ、そんな。 私、気が付かなくて…」
「気が付かなければ、壊してもいいと? あれは、モンモランシが僕の為に作ってくれた香水なのだよ!」
先程までの繕った冷静さは何処へ行ったのか。 グラスを机に叩きつけながらそう叫んだ。 元はと言えば二股を。 そして自分が落としたのが原因だと言うのに、呆れるほどの言いがかりであった。 だが、これが生徒であれば言い返していたであろう状況であっても、彼女は「申し訳ございません」と謝り続ける事しか出来ない。 何故なら彼女は貴族ではなく、"平民"なのだから。 口答えなどすれば、彼の言葉一つで職を失う事になるのだ。
腹が立つ。 苛立ちが募る。 腸が煮えくり返る。 ギーシュにも、彼を囲う男子生徒たちにも。 言葉では表しきれぬ怒りがルイズの裡へ流れ込んだ。 出口へ向いた足が、自然と喧騒の方へ向かっていた。
「謝罪でどうこうなるものではないよ。 貴族が平民の気を害したらどうなるか。 君も知っているだろう?」
ギーシュの手が、胸の杖へと延びていた。 無論、彼は超がつくほどの小心者・見栄っ張りなので、魔法を使う事はしないだろう。 収まりがつかない状況でどうにかしようと体裁を繕っているのだろう。 だが、ルイズの怒りも同じように留められるものではなかった。
「いい加減にしなさいよ。 元はと言えば、あんたの二股が原因でしょうが。 割ったのはメイドの責任かもしれないけど、他は全部あんたのせいよ」
「そうだ! お前が悪いぞギーシュ!」
そんなごく当然の指摘を受けたギーシュの頬は、赤く染まっていった。
「誰かと思えば、『ゼロのルイズ』ではないか。 君には関係ない事だろう?」
「関係あるわよ。 食堂でこんな不愉快なことをしているから、紅茶が不味くなったでしょうが。 あなたには貴族の誇りってものがないの?」
「君が貴族の誇りを問うのかい? 魔法の使えぬ『ゼロ』が、僕に?」
「魔法の使えない私よりみっともないことしてるって言ってんのよ。 情けない。 あんたが馬鹿をして振られた責任をメイドに押し付けるだなんて、他の誰かに笑われるわよ」
そこまで言われてはギーシュも引けなかった。 ふふっと嘲るような笑いが漏れて、ワインの入ったグラスを揺らし、喉を潤した。
「僕としては、君を笑うよりかは同情するよ。 いくら勉強はできても魔法は使えなくては家に顔向けが出来ないからね。 ヴァリエール公爵夫人もさぞお悲しみだろう」
ギーシュは笑った。 こんな状況でいつもより強気になっていたのだろう。 女子には敬意を持って接すると誓った彼だが、ルイズを哀れみ、そして家の名を口にさえ出してしまったのだ。
ワインを煽ったギーシュの頭の上からワインが降り注いだ。 長い時間を使って整えたであろう髪は崩れ、シャツは滲み、それまで保った優雅さは一瞬で失われた。 ルイズがワインの瓶を頭上で逆さにしたのであった。
この時間、二度目の沈黙が襲った。 誰かが息を飲む音と、髪が吸い取れなかったワインが床に垂れる音だけが響いている。 シエスタもその時は、謝罪の言葉を止めざるを得なかった。
「ル、ルイズ…君は…」
「あんた、こんなくだらない
今度こそ紛れもない怒りが、ルイズの瞳に宿っている。 その比こそ、『ゼロ』と馬鹿にされた時とは比較にならない。 貴族の家名を馬鹿にすることは、言葉通り命を賭けての決闘になりかねない行為である。 何よりも名誉と誇り、そして見栄を重んじる貴族が、名を貶されて黙っているだろうか。 いや、そんな筈はない。
ルイズはハンカチをギーシュに投げつけた。 本来はつけている手袋を投げる物だったが、生憎手元になかったから、手頃な物で代用したのである。
「決闘よ、ギーシュ・ド・グラモン。 あんたはくだらない事をしただけでなく、ヴァリエールの名すらも貶めた。 この代償は払ってもらうわ」
ルイズの言葉には重みがあった。 彼女は素手だが、杖を突きつけられたような圧迫感がギーシュを襲った。 しかし、彼も男であり矜持があった。 決闘、魔法も使えぬ彼女に何ができると言うのか。
「…いいだろう。 僕も男だ。 ルイズ、君の決闘を受けよう」
学院の規則で貴族同士の決闘は禁じられている。 だが、それを指摘する野暮なものはいなかった。 否、学院という箱庭で暇を持て余す貴族たちにとって、二人の決闘は最高の娯楽であったが為に、止めなかったのだ。
「決闘はヴェストリの広場でやろう。 その前に、服を変えてもいいかな? こんな姿では格好がつかないのでね」
「逃げるんじゃないわよ」
「逃げる? 僕が? 『ゼロ』の君から?」
またしても彼は笑った。 そして、「待っていたまえ」とだけ告げて、寮に歩み出した。
騒ぎに巻き込まれたメイド、シエスタは怯え、肩を震わせるばかりであった。 その光景が、ルイズの怒りを断固たるものにしていたのだ。
//
石造りの建物を揺らす振動と音が少しづつ大きくなり始めた。 アンリがそんな細かい事に気付いたのは掃除を間もなく終える。 そんなときだった。 ガラスを替え、箒を済ませ、後は壊れた教卓を新しいものにすれば終了と言ったところ。 シャツの襟を緩め、袖を捲り、使用人の誰かが持ってきてくれた水を飲んでいる頃である。 彼は建物全体が騒がしい事に気が付いた。
「授業は終わってるって聞いたけれど、何だろうか」
ルイズが滅茶滅茶にしてしまった教室は『土』の塔に存在する。 この塔での授業、午前の物は既に終わっていると聞いているし、そもそも今は昼の後の休憩時間であった。 だから、こんな一斉に人が動く出来事とは何か。 そんな事を考えながら喉を潤していると、風に乗った歓声が聞こえた。 アンリはその声に驚き、ガラス窓に張り付くように中庭の先の広場を注視する。
「…ルイズ? なんだ? 何をしているんだ?」
下までは随分と高さがあり、しっかりと確かめる術はなかったが、あの髪の色は正しくルイズの物だった。 自分の与り知らぬところで何か重大なことが起こっている。 そんな予感がして、仕事をほっぽり出したまま少年は階段を下った。 『土』の塔を抜け、『風』と『火』の塔の間に存在する中庭へと急いだ。 丁度今日の朝、アンリが時間をつぶしていた場所であった。
中庭の中心、余計なものが何もない平地を生徒が取り囲んでいる。 故にアンリからはルイズが何をしているのか分からなかった。 ただ、ガチャガチャと鎧の擦れる嫌な音と吹き飛ぶ音が群衆の声に紛れている。 少年には恐ろしい程に繊細なものまで拾う、優秀な耳があったのだ。
アンリはその中に、キュルケとタバサの姿を見つけた。 見つけた途端に他の生徒に対し「失礼します」などと謝罪の言葉を口にしながら、押しのけ、二人の側に迫った。
「ミス・ツェルプストー! これは一体何事です!」
「あら、アンリじゃない。 あんたのご主人なら今あそこにいるわよ」
「だから、何故?」
「決闘」
本を読みながら時折騒ぎに視線を向けるタバサが、そう簡潔に説明して見せた。 キュルケがそれに付け加えるように始まりを告げる。
「ギーシュの奴がね、食堂でメイドの子をいじめてたらしいんだけどほら。 ルイズってばプライドが高いでしょう? 変な正義感で止めに行ってあいつの頭にワインを垂らしたらしくて。 結果はこう」
キュルケは「なんの得にもならないのにね」と言葉を漏らした。 話を聞く最中、何やらひときわ大きい歓声が聞こえ、視線を移したときである。 ルイズに歩み寄る鎧の一つが、彼女の小さい体にその拳をめり込ませていた。 小さな体では受け止めきれずに、彼女は後ろに突き飛ばされる形になる。 見ているだけで痛々しいその姿、アンリの心中は呆れと怒りでごちゃ混ぜになって、敬語で話すことを忘れていた。
「誰も止めなかっただなんて、どうかしてる!」
だからアンリは左手を握りしめてその中心に走った。
//
ヴェストリの広場の中心に二人はいた。 相も変わらず胸元を開けたシャツを羽織ったままのギーシュと、杖を握りしめるルイズである。 ギーシュは怒りを滲ませる少女を見て、ほんの少し気後れしていた。 というよりもこんな騒ぎになるとは思っていなかったので、内心冷や汗を掻いている。
あの状況で杖を抜いたのもほんの脅しであり、魔法を使うどころか首にだってするつもりではなかった。 適当な所で切り上げ、自分の寛大さを誇示しようと思っていたのだが、間が悪い事にルイズが茶々を入れてしまったのだ。 無論、自分がやりすぎたことを理解もしていれば、ルイズに対しての言動も反省している。 ヴァリエール公爵の名前を出してしまったのは勢い余ってであり、彼とて敬意を払っている貴族であるのだ。
しかし、何もかもが遅すぎた。 互いにヒートアップしたものだから引くに引けず、どこか良い所で手打ちにすることなど出来ない。 どこから広がってしまったのか他学年の生徒までが二人を囲んでいるため、今ここで中止を宣言することは不可能。 それをすれば尻尾を巻いて逃げたも同然であり、"グラモン"の名に泥を塗ることになる。 代々軍人家系のグラモン家がそれをするわけにはいかなかった。
「とりあえず、逃げずに来たことは褒めよう。 君にも矜持というものはあったみたいだね」
「冗談、あんたにそのまま返してあげるわよ。 平民のメイドいじめるような奴にそんなものがあったなんて、驚きね」
ギーシュは言葉を詰まらせた。 客観視してみれば、流石にあの行いは無かったと分かっているのだ。 平民とはいえ、女の子。 彼のポリシーに反する行為だった。
「兎に角だ。 そろそろ始めよう。 ギャラリーの皆も待ちきれぬ様子だ」
ギーシュは咳ばらいをして、杖を抜いた。
「グラモン家が三男、ギーシュ・ド・グラモン。 この、『青銅』のギーシュがお相手しよう」
ひらひらと薔薇の杖から花弁が舞って地に落ちた。 彼が一瞬魔法を唱えると、それは鎧を纏った人形へと変化する。 兜に顔を隠したそれは、正しく
「ヴァリエール家が三女、ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール。 ただのルイズよ」
言うが早く、ルイズは杖を振るった。 ギーシュの前に立ちはだかる人形に向け、朝と同じように『錬金』の魔法を唱えた。
バキャッ! と金属がひしゃげる不愉快な音が響いた。 ルイズの失敗魔法が爆発を生じさせ、青銅を捻じ曲げ弾き飛ばした音だった。 先ほどまでの美しい造形は何処へ行ったのか、ギーシュの足元に飛んでくるのは青銅の残骸のみ。 観客たちは息を飲み、そして声を上げた。
「なんだ! ギーシュ! 手加減をするとはずいぶん余裕じゃないか!」
「ゼロの魔法なんかに壊されるなんて、大したことないな!」
馬鹿を言うな! とギーシュは一人心中で呟いた。
今のゴーレムは一切手を抜いたつもりはなかった。 僕は自分の作品には誇りを持っているのだから、そんな事はしない。 それをルイズは、あんな出来損ないの魔法で粉々に打ち砕いたのだ。 しかし、弱みを晒すわけにはいかない。
「先制攻撃はレディに譲るものだろう? 少しは遊ばないと勿体ないからね」
今度は三枚の花弁が待って、横並びに出現した。 これで少なくとも自分にあの爆発が直撃することは無い。 そう思い、彼はほんの少しの余裕を取り戻した。
「あんたのその余裕、どこまで続くか見ものだわ!」
じりじりと滲みよるゴーレムに、今度は『ファイアーボール』をお見舞いする。 これも教科書通りの火球が生まれることは無かったが、それに等しいだけの破壊力は有しているのだ。 むしろ火球が飛んでいくのではなく、空間が急に爆発するのだからそちらの方が厄介というものだった。
今度の一撃は確かにあたったものの、先程のようにばらばらにするだけの成果は得られなかった。 ギーシュがその破壊力を見越して、強度を上げたのである。 鈍重になってはしまうものの、この狭い空間で逃げ回る動きは出来ない。 軍人としてそれなりに教育を受けた彼の作戦なのであった。
「どうしたんだい、ルイズ。 君の魔法では傷一つついていないようだけれど」
彼の宣言通り、ここから数分は距離を離して魔法を放つの繰り返しであった。 何度かの攻撃で崩れるワルキューレ達だったが、それでもその場の土を利用したギーシュにとって作り直すことは苦ではなかった。 それに対し、色々な爆発を生じさせるルイズには多少の疲れが生まれているように見えた。
それも当然、そもそも彼女は体も小さく、運動が得意という訳でもない。 魔法は自らの魔力を源として発現させるものであり、一度の『錬金』と『固定化』で作られたワルキューレ達に比べればその消費量は数倍にも及ぶ。 しかも彼女は、適切に魔法を使えていないため適切な量の魔力を込められていない。 つまり、無駄打ちしているにも等しかったのだ。
そんな膠着状態を見て、どこからか野次が飛んだ。
「もう遊びはいいだろう! ギーシュ!」
「さて、観客もこういっているが。 ルイズ、そろそろ降参したらどうだい?」
「はぁ、はぁ。 降参、ですって?」
未だ余裕のあるギーシュに比べ、走り回ったルイズは肩で息をしている状態だった。 スカートとマント、そして顔の一部は土で汚れている。 色々転げ回るものだから、そうなってしまうのも仕方のない事だった。
「そんな格好では貴族の誇りもないだろう? そうだね。 僕にも反省すべき点はある。 君が一言、ごめんなさいと言えばそれで手打ちにしよう。 どうだい?」
これは好機だった。 ギーシュとて女性に暴力を振るう真似はしたくないし、そもそもこの戦いだって望んだものではなかった。 疲れが見えてきた現在、ここで終わらせれるなら是非もない。
しかし、ギーシュは彼女を見誤っていた。 彼女は確かに繊細で美しい少女である。 多少は気が強い所もあるとは知っていた。 しかし、しかしである。 彼女の努力を支えていた芯がどこまで強いのか、彼は知らなかったのだ。 ギーシュの言葉を聞いた瞬間、疲れを見せたルイズの瞳に、再び闘志が宿っていた。
視線が交差して、そのあまりの気迫にギーシュは視線を逸らした。 彼女は畳みかけた。
「冗談じゃないわ! あんたみたいなやつに降参するくらいなら貴族を辞めるわ! あんたこそ、グラモン家の誇りってもんは無いの!?」
彼女は吠えた。 そのみすぼらしい格好を感じさせぬ、強い意志と怒りを纏った声は、この広場に朗々と響き渡った。 これで互いの家を貶しあった事になる。 ルイズの獅子のようなうなりを聞いて、今度こそ野次は留まる事を知らなかった。 こうなれば、本当にどちらかが倒れるまで事は収まらない。
「仕方ない。 レディを傷つけるのは本意ではないが…」
足取りがふらつくルイズの元に、ワルキューレが迫った。 啖呵を切った彼女の魔法は、ワルキューレに直撃したものの破壊するには至らなかった。 武器を持たぬワルキューレの腕が振るわれ、ルイズに迫った。
ドスンッ! と、その青銅の拳が少女の腹部にめり込んだ。 咄嗟に守ろうと伸ばした手は間に合わず、鈍い音を立てて吹き飛ばされるルイズ。 どこからか、ギャラリーの中から悲鳴にも似た声が漏れた。 ギーシュもやってしまったと心の中で頭を抱える。 しかし、彼女はまだ意識を失っていなかった。 スカートは随分と汚れて体勢は崩したままだが、まだ戦う意思は残っているのか立ち上がろうとしている。 まだ彼女から参ったとの声は上がっていない以上、続けなければいけない。 ギーシュはそのまま、出来るだけ傷つけぬよう気絶させるためにワルキューレを走らせた。
ルイズは未だに立ち上がれない。 こんな痛みを受けるのは初めてだった。 公爵家に生まれたお嬢様の彼女、とある女の子と取っ組み合いはしたことはあっても、金属の塊で殴られたことは無かったのだ。 いくら青銅が脆いとはいっても、金属は金属である。 武器に使われるようなものが柔な肉体に当たれば滅茶滅茶に痛いし、胃の中身を戻してしまいそうな不快感に襲われていた。 でも、そんな無様な姿は晒したくはない。 彼女は歯を食いしばって立ち上がろうとした。 しかし、足の力は抜けて立ち上がれない。 なのに、ワルキューレはすぐそこまで迫っている。
ルイズは来るべき痛みに備えて目を瞑った。 部屋の隅で怯える子供の様に、腕を交差させて防ごうとした。 それでも、最後まで杖を手放さなかったのは彼女の強さだったのだ。
「誰も止めなかっただなんて、どうかしてる!」
ぎゅっと力を入れて待つこと数秒、彼女の耳に入ったのは自分が殴打される音ではなく、仕事をしていた筈の少年の叫びだった。
//
主人に再び腕を振るった甲冑に体当たりを仕掛けたアンリ。 予想外の攻撃を食らったそれは大きく音を上げながら体勢を崩した。 呆気にとられるギーシュと観客、そして肩に奔る痛みを無視して、アンリは主人の元に駆け寄った。
「何馬鹿なことやってるんです! 下手したら、いや、下手しなくても大けがしますよ!」
鳶色の瞳の目じりから雫がこぼれるのを見て、アンリは涙と土埃をハンカチで拭ってやった。 ルイズは震える声で、それでいて未だ折れぬ声で問うた。
「あ、あんた…なんでここに…」
「仕事をしてたら騒ぎになっていたので慌ててて来たんです。 痛むところは? こんな馬鹿げた喧嘩なんて、あなたらしくない」
ルイズはそんな使い魔の物言いに、牙を向いた。
「私の事何も知らないくせに、邪魔しないで! 私はあいつをぶん殴ってやらなきゃ気が済まないの!」
召喚して間もない癖に、私があなたについて何も知らないように、あなたも何も知らない筈なのに。
「一発殴られたくらいで倒れる人に、そんな事が出来ますか! 泣きそうな顔をして!」
「うるさい! 少し痛かっただけよ! 放っておいてよ!」
彼の善意を、そうして突き放した。 突き飛ばされた少年は少しだけ驚きつつも、
「使い魔の仕事には、主人を守ることも含まれてるんでしょう? なら、放っておけませんよ」
「使い魔なんて、契約なんて他に方法がなかったからやっただけよ! 退学にならないために!」
ルイズの心境は滅茶苦茶だった。 大勢の生徒たちの前で醜態を晒している。 その上平民の使い魔にすら気を使われて、これ以上ない位に名誉を傷つけられているのだ。 売った喧嘩にも負けて、自分が貴族である事も証明できていない。 喧嘩を売ったのだって、それは勿論ギーシュの行いを許せないのも原因ではあったが、授業での鬱憤を晴らしたかったからに過ぎないのだ。 食堂で失態を見せつける彼に苛立って仕方がなかったからなのだ。
「それでも、僕は約束を反故にしたくない。 それに聞きましたよ。 あなたはメイドの子をかばったって。 良いじゃないですか、理不尽に傷つく人を助けたんでしょう? 助けるために決闘まで仕掛けて、逃げずにここまで来たんだ。 十分立派です。 それであなたを馬鹿にする人がいるなら、僕が直接文句を言いに行きますよ」
それでも、ルイズは駄々を捏ねるように顔を振った。
「今の私は立派じゃないわ。 ただ苛立ちを振りまいて決闘騒ぎを起こしたただの子供よ。 決闘をほっぽり出して逃げたら貴族じゃない。 私は、貴族を辞めたくない」
ようやく、抜けた腰に力を入れて立ち上がった。 それでも足は震えたままである。 虚勢を張るので精いっぱいなのである。 そんな彼女を支えていると、良い所を邪魔された。 と言わんばかりにアンリへと非難が飛び交った。
「貴族の決闘に水を差すな! 平民!」
「台無しじゃないか! 引っ込んでいたまえよ!」
どいつもこいつも身勝手に好き放題言うモノだ。 暇を持て余した貴族は質が悪いと言うが、正にその通りである。 しかし、意外にもこの場で助け舟を出したのは、決闘相手のギーシュであった。
「まぁ、君たち。 彼は自分の主人が傷つくのを見ていられなくて、飛び出してしまったのだよ。 彼の忠誠心に免じてここは許してあげようじゃないか。 平民だと思ってみていたが、中々どうして、忠誠心に篤いじゃないか。 …ルイズもそろそろ限界のようだし、君が僕と決着をつけるっていうのはどうだい? 主人と使い魔は一心同体のパートナー。 文句はあるまい?」
彼はそんな事を言ってのけた。 痛みに顔を引きつらせるルイズに、とうとう心が痛んで罪悪感を感じ始めたのであった。 暴力はあまり好かないけれど、相手が男で平民ならば、少しはマシになると。 そう思ったのだ。
「ちょっと! あたしはまだ…」
「ミスタ・グラモン、ミス・ヴァリエールを救護室に連れて行っても?」
「僕としても心が痛いからね、許そう」
「なら、誰か…ミス・ツェルプストー! 後でなんでもやりますから、お願いできますか」
「ま、他に親しい友人もいないでしょうから。 しょうがないわね」
快く引き受けて、未だあきらめの悪いルイズを引きずってキュルケは校舎へと消えた。 そして、改めて決闘の相手と見合った。
「では改めて名乗ろう、ルイズの使い魔君。 僕はギーシュ・ド・グラモン。 『青銅』のギーシュだ」
「ミス・ヴァリエールの使い魔のアンリ」
「アンリ君かい。 覚えておこう」
相手が男になったことで、ギーシュの容赦は無くなった。 三体同時に鉄拳が襲い掛かり、アンリもまたその攻撃を避けるのに必死だった。 動きも人間ほどではないがそれなりに早いワルキューレ達、しかしその攻撃は人間の拳よりもはるかに大きいのだから、受けてしまえばひとたまりもない。
隙をついて殴り返してみれば、拳からは嫌な音が響いくと同時に悶絶するような痛みが奔る。 痛みで動きが鈍れば今度はよけきれなくてまともに拳がめり込む。 幸いにしてルイズよりは体も大きく体重もあるのだからすっ飛ばされることは無くても、痛いものは痛い。 何度も食らっていると、骨が折れてしまったのではないかと不安になる程の痛みが全身を襲った。
内の一つが胸に当たって、呼吸が止まりかける。 詰まった息と共に苦痛の喘ぎが漏れて、遂にアンリは体勢を崩した。 そして、顎先を蹴り上げられて視界の中で火花が散る。
昼寝をするように仰向けに倒れたアンリ。 大きく息を吸えば胸が痛み、骨が軋む音が体に響く。 それでも、彼は立った。 それはほとんど意地のようなモノだった。 周りで余興として楽しむ貴族たちも、理不尽を押し付けたギーシュにも、そして何も思い出せぬ自分も、何もかもが気に入らなかった。
主人は泣いていた。 『ゼロ』と馬鹿にされ、努力を認められず、それでもあきらめずに続けた少女を、彼らは嘲笑った。 決して許せることではなない。 許してはならない。 だから立ち上がったのだ。 その執拗な様は、ぼろぼろの姿も相まって周囲の熱を次第に冷ましていく。
あれだけやったら死ぬのでは? と、口の血を拭うアンリから目を背け、ざわざわと波紋が広がった。
「アンリ君、これで最後にしよう。 もしまだ続ける気なら、その剣を取りたまえ。 もしこれ以上は続けられぬと言うなら、主人の代わりに謝罪を。 平民の物では釣り合わないが、君は勇敢にも臆することなく立ち向かった。 これは僕からの敬意だ」
並んだ七体のワルキューレ、その一体が手にした剣。 丁度腰までの長さ程の直剣が、膝をつくアンリの目の前に突き刺さった。
「分かるかね。 それは武器だ。 君たち平民が
それまで決して武器を持たなかったワルキューレ達の腕に、様々な得物が握られる。 剣、槍、斧槍、そして盾を構えた七体が、剣を抜けばすぐさま襲い掛かると、そう威圧感を放っていた。
アンリは突き刺さった剣を見つめた。 武骨な直剣だ。 彼らしくない、飾り気のないそれ。 どこにでもある変哲なロングソードだが、何故かそれには覚えがあった。 思い出せぬ過去、もしかしたら自分はこんな武器を使っていたのかもしれない。 愛用していたのかもしれない。 彼の錬金によって作り出された武器で、覚えなどあるはずもないのに。 こんなにも安心感があるのは何故だろうか。
『随分とぼろぼろの鎧着てたじゃない』
あの日、ルイズはそんな事を言っていた。 もしかしたら彼女の言う通り、過去の自分は傭兵なんかをやっていたのかもしれない。 兵士や戦士の感と言ったモノは全く思い出せないけれど、そんな気がしたのだ。
故に、アンリはそれを取った。 軋む体に鞭を打って、杖代わりに立ち上がった。
「当たるぞ!」
誰かがそんな、悲鳴交じりの声を上げた。 一体の戦乙女が縦に薙いだ斧槍の切っ先がアンリに迫っている。
繋がりを失った腕がくるくると宙を舞った。 あまりにもあっさりと切り飛ばされたそれは地面に沈み、そして片腕をもがれたそれは未だ、立ち尽くしたままである。
舞った腕から血が噴き出すことは無かった。 中身は何もない空洞。 ただ、平民に切りかかったゴーレムのそれがいなされ、切り落とされただけだった。
「…驚いたね」
殺す気などは無かった。 学院で人死になど御免だし、平民とは言え殺すのは後味が悪い。 だから脅しの意味でワルキューレに武器を振らせた。 そしたらどうだ。 先ほどまで為されるがままだった平民は、自分では捉えられぬ速さで斬撃を繰り出し、簡単に一体無力化してしまったではないか。 呆れて、同じ言葉を繰り返すしかなかった。
「ああ…全く驚いたね。 君、ただの平民かと思えばとんだ食わせ物じゃないか!」
今度こそワルキューレに下された命令は、目の前の脅威を排除してしまえと言う、防衛本能が下したものだった。 ギーシュはその業を見て、考えを改めねばならなかったのだ。 もしだ。 もし残りの
その恐怖は余りにも大きかった。 そして容赦なく迫る人形たちを、また一つ、二つと斜めに切り捨てて見せた。 動き自体は大したものに見えない。 しかし、彼はあの剣で同じ青銅を両断して見せた。 ナイフで肉を切る様に、何の抵抗もなくすっぱりと。 素材が同じで固定化されたものをそんな風に出来ると言うのは、つまりそのキレが格段に違うと言う事なのだ。 兵士たちが剣を振るう姿を見たことがあるギーシュにはそれが分かった。 だから彼は、怯えていたのだ。
「ワ、ワルキューレぇ!!」
盾を構えた二体が迫るアンリの目前に躍り出た。 しかしだ、彼は突き出された槍を後ろに避けたかと思うと、今度は両手で握ったその剣を肩の高さにまで上げ、そして水平に構えた。
その姿を好機ととらえ、ギーシュは盾を構えさせたままその距離を詰めさせた。 しかし、彼は剣を振るったこともなければ、剣など平民の武器であると言って真面目に学んだこともなかった。 故に、その構えの意味を知らなかったのだ。
水平に保たれた刃の切っ先が一直線に向いている。 前傾姿勢に落とされた腰。 それはありとあらゆる剣術の基本だと言う。 相手との距離を測り、そして臨機応変に対応するためのもの。 繰り出される下からの薙ぎ払いは盾を崩すために、そして恐るべき勢いの突きは鎧ごと貫くため。
平民の体のどこにそんな力があると言うのか。 ギーシュだけでなく、誰もが目を見開いた。 吹き飛んだ残骸は生徒たちの足元に飛び、塔の壁に深い傷を作り出す。 当たれば間違いなく、己の体はばらばらになる。 それは、狩る側から駆られる側に回った瞬間であった。 彼は恐ろしい、メイジ殺しであったのだ。
残った人形は盾にすらならず、ただの空気と同じように裂かれ、そして遂にギーシュへと迫った。
「…っひ!」
剣だけでなくその足までもが凶器であった。 杖を持った腕を蹴り飛ばされ、主を失った杖は後方へと飛んでいく。 腕が折れたかと思う程の激痛にのたうちまわるギーシュ。 彼の瞳には剣の穂先が映りこんでいた。 それは、ゆっくりと近づいているかのように見えた。
叫び声すら出せず、息の詰まる声が漏れて、咄嗟に頭を抱えた。 青銅が何かに深々と突き刺さる音。 それは幸いなことに、肉体に刺さる音ではなかった。 抱えた頭の数サント横に剣が突き刺さっていた。
「まだ、やりますか」
得意とする人形たちを蹂躙した彼――アンリは満身創痍であったが、杖を失ったメイジ一人を殺すことくらいはなんてことないのだろう。 その先は言わずとも分かった。
「ま、参った…」
そう告げるとともに完全に脱力したギーシュ。 同時に固定化の魔法が解かれ、そこいらに散らばった残骸たちも皆土へと戻っていく。 突き立てた剣を杖代わりにしたアンリは、土と同じようにその場に膝をついた。
土に塗れ杖を失ったギーシュと、体を痣と血の痕で染めたアンリ。 どちらが勝者かは、一見しても分かる物ではなかった。
//
『遠見の鏡』と呼ばれるマジックアイテム。 使用者の想像に応じた、離れた場所の状況を見ることの出来るそれ。 オールド・オスマンとコルベールは、広場の騒ぎを覗き見ていた。 そしてその終わりまで知って、顔を見合わせた。
「勝ってしまいましたな」
「うむ」
「やはり、あれは似ているだけではなくガンダールヴのルーン…」
「そのようじゃの…」
互いに考えるは、今後あの使い魔をどう扱うか。 伝説と呼ばれるその力を宿した少年は大きな価値を持っている。 それこそ、一人の少女には荷が重い程に。
「やはり報告をすべきでは?」
コルベールは平民が貴族を圧倒するその姿を見て、王室に報告することを提案した。 しかし、それは先日既に断られている事であった。
「この目で見て今一度考えたが、ならぬ。 儂の見立てだが、あの少年は元々剣を振るっていた経験もあるようじゃ。 それがガンダールヴの力を得て使い魔となった。 そんな事を知ったら暇な貴族たちは何を考える? ん? 戦に飢えた愚か者どもが焚きつけ、ミス・ヴァリエールと彼は今にでも死地に送られるじゃろうな。 それを君が望むのかね? 『炎蛇』よ」
達観した目。 それがコルベールにとっては恐ろしい程に冷たく見えた。 自分の過去は多く語っていない筈であるのに、全てを見通されているような。 そんな感覚だった。
「…たしかに。 私の浅はかな考えはお忘れください」
「そうじゃろう。 儂とて教え子の手を赤く染めることはしたくない」
始祖ブリミルの左手ガンダールヴ。 最強とされるその人物が使う魔法は強力だったが、それ故に詠唱時間は長いとされた。 その隙を無くす為、敵を殲滅するのがガンダールヴの役目だったのである。 そしてその主は、全ての貴族の始祖、そして虚無であった。
「ミス・ヴァリエールは、優秀なメイジかね?」
その答えは既に知っている。 しかし、聞かねばならなかった。
「…いえ。 聡明な生徒ではありますが」
「魔法の腕は?」
「無能と言って差し支えないかと」
コルベールは冷酷に判断を下した。 彼女の母は風のスクウェアであり、父も優秀なメイジであった。 しかし、他の姉に比べ彼女は無能。 これが意味するものは一体何か。
「ふむ…『ゼロ』…か。 コルベール君、彼女は随分と洒落た二つ名を付けられたと思わんかね?」
コールベールは、彼のその言葉の意味を直ぐに理解した。
「まさか…彼女が?」
「『サモン・サーヴァント』はメイジに相応しい使い魔を呼び出す…か。 なるほど、全ては始祖の意思かね」
彼らの間に言葉はなく、ただ沈黙だけがあった。 パイプから流れた紫煙が水晶を曇らせ、少年たちのその先は見ることは出来ない。