王都トリステインでは頻繁に貴族が行方をくらませる。 そして、時折グロテスクなオブジェが街に出現することがある。
消えるのは大抵役人。 立場上賄賂を受け取ることが多いとされる彼らは頻繁に人員が入れ替わる。 彼らは領民に厳しい税をふっかけ、そして特権を貪る象徴とされる。 貴族ではあるがそのほとんどは下級貴族であり、その給金は上級の者たちには遠く及ばず、下手をしたら豪商の平民に負ける程。 その上戦ともなれば前線へ送り込まれる立場にある。
給金が低いのであれば見栄など張らず、それを踏まえた生活をすればよい。 しかし、多くの貴族は幼少よりも実より名を取れと教わっており、身の程に合った生活ではなく散財をする傾向にあった。 平民程度まで生活を落すのは気に食わないし、他の貴族に見くびられると感じるので、そう出来なかったのである。 加えて王都に出向し務める貴族には誘惑が多い。 酒に賭博に女とあらゆる風俗が揃ったトリスタニアでは、若い貴族たちはほとんど給金を上回る金を浪費する。
そして、彼らは想像するよりも遥かに平民に恨まれている。 無論、慈悲深い真っ当な貴族達は勤めを果たし尊敬されている。 しかし、負担を大きくし過ぎた彼らのせいで不満が積もりに積もった場合、民の反乱が起こる可能性もある。
いくらメイジといえど、戦える数には限りがある。 平民の方が圧倒的に数が多いのだから、人海戦術ともなれば貴族は敗れる。
故に、それを未然に防ぐため、あまりにも無能な役人達は秘密裏に処理されてきた。
重い税で放蕩の限りを尽くす無能な貴族を処刑する。 それが少年に与えられた任務だった。
――彼らは国の利益を損なう存在である。 故に排除したまえ。
少年は『風』の魔法で光を屈折させ姿を朧げに隠し、音を消して家屋の屋根に潜んだ。 対象の貴族は朝方まで酒場で浪費の限りを尽くしている。 今の時刻は未だ霧が晴れぬ時。 対象たちは決まって週の終わりに、夜から日が昇る寸前まで夜遊びに興じているという。 それも重い税に加え、上級貴族の目の届かぬ所で様々な違反を見逃す代わりに受け取った賄賂で遊ぶのだとか。
少年が仕事を伝えられるのは決まって下品な酒場か、娼館の一室だった。 貴族、傭兵、平民、トリステイン人、ゲルマニア人、そして他にも多くの人間が混じる場所は、隠し事をするのに丁度よかった。 それも、堂々と渡すわけではない。 渡し方もいつも違っていて、机の下に紙が貼りつけられていることもあれば、料理の皿の下に隠されていることもある。 今回指令書を渡してきたのは、酔った平民に扮した男だった。 食事を摂っていた少年にぶつかると、酔った口調で一言謝罪し、少年の手の内に小さな紙を握らせた。
――今朝方、七番通りで二体。 青いマントに金の錫杖。
たったそれだけの文であったが、何をすべきなのかは経験より理解できた。 今夜は二人。 これで何人目だろうか。
あの日、母を牢より出す代わりにこの仕事に従事してから約半年の時が過ぎていた。 最初はそう苦労することは無かった。 任される仕事と言っても巷で騒ぎになる噂の真意を確かめたり、貴族の動きを見張る程度。 血を見ることはあっても死人は出ず、まだ日の上がっている時間帯に街に顔を出すことも許された。 勿論ただ働きでもない。 普通の貴族程もらえるわけではなかったが、宿を行き来して暮らせる程度の給金はあった。 表に出ない仕事である為、屋敷へと幽閉された母を見ることは叶わなかったが、日々変わる見分役の男は時折母の様子を教えてくれた。
しかし。 二か月ほど経ってからその生活も大きく変わることになる。 仕事の時間帯は次第に夕から夜、そして朝に変わった。 穏便に済む任務も次第に減っていき、その終わりには何人か死ぬことも多くなる。 指令書にかかれる文字は少しずつ減っていったが、その重みは随分と増していった。
初めて人を殺めたのは、その頃だった。 機密文書を持ち出した貴族の追跡、そして逃げ場所を特定することが彼に与えられた任だったかが、彼は失態を犯した。 隠密に用いた『風』の魔法。 精々ラインに届くかどうかの技量しかなかった少年の痕跡は、格上のメイジにいとも容易く看破された。 トリスタニアよりそう離れていない森の中の小屋にまんまと誘い込まれた彼は、待ち伏せを食らい肩を風の槍によって貫かれた。
相手は追手が子供であることに酷く驚いたものの、必死だったのだろう。 当たれば致命傷になりかねない攻撃魔法が殺到し、追い込まれた。 追跡がばれた時点で引き返し、報告を待つべきであったのに、彼はそのことにすら気付けなかったのだ。 そして、利き腕を潰され逆に追い詰められる形になる。
それは偶然、奇跡と呼んでも違わない出来事だった。 相手もこれ以上騒音を出せば場所が割れることを知っていたのだろう。 その貴族は軍人であったゆえに、魔法だけでなく剣の腕も優れていた為、腰のサーベルを抜き少年に切りかかった。 魔法の腕の悪さを見て、魔力の温存を図ったのかもしれない。
相手が油断したが故に、少年は生き延びた。 魔法の腕を早々に見限られ、剣に時間を費やしたが故に、弾いた剣先を踏みつけ、体勢を崩した男に剣を突き立てることが出来た。 それは偶然だったのだ。 そして血に濡れていたのは死体だけではなかった。 切りつけられ、魔法も食らっていたのだから少年も無傷ではない。 偶然相手が持っていた水の秘薬があったから、拙い水の『治癒』で血を止めることが出来た。
『殺せとまでは言われていないぞ』
駆け付けた男に言われた第一声はそれだった。 この時、まだ少年は理解していなかったのだ。 この世界においては命など安いものであると。 己が死んだところで変わりはいるのだと。 かつて夢見た、誇りに殉ずる騎士になどなれない事を。
その日からだったろうか。 眠るとき、剣を抱かねばいけなくなったのは。 横になって寝るのでは直ぐに動けない。 だからベッドではなく、その脇に背を預けるように眠るのが習慣になった。 彼の居場所では、寝首を掻かれることなど日常茶飯事であったのだ。 誰よりも彼が、それを理解していた。
//
己の過去に思いを馳せていると、小雨が石を叩く音のほかに革靴の音が混じっていることに気付き、彼は息を潜めて窺った。 朝もやと灰色の空で視界は酷く悪い。 雨が降った山中と見間違うほどの白さであったが、少年には非常に優れた耳があった。 古くより、『風』のメイジは音に敏感だと言う。 空気、つまりは風の振動を読み取ることができ、そして隠密に向いているとされてきた。 出来損ないのメイジであったが、風に目覚めただけマシだったと言える。
彼らはいた。 酔いが回りふらふらとした足取りの彼らは足元の泥濘に気付かないのか、石の地面を外れて靴を汚すことを構わず歩いている。 向かう先は王城付近の詰め所。 王都に仕える貴族たちの宿舎の方向である。 これより先は交代の衛兵がいるために、進まれれば面倒になる。 幸いにしてこの路地は入り組んでおり、その上視界も悪いのだから叫び声さえ上げられなければまずバレることは無い。 従って、この曲がり角が仕掛ける場所であった。
もう一度、フードを深くかぶり息が白くならぬように呼吸を止めた。 足音が近づいてくる。 二歩、三歩、そして四五と、彼らは警戒することなく足を進める。
彼らは完全に油断していた。 このトリスタニアで、我々が命を狙われることは無いのだと。 もしそんな不届き物がいたとするならば、杖の一振りで殺してしまえばいいのだと。 いや、そもそも命を狙われている事すらも知らないのかもしれない。 彼らは別に、ブリミルを蔑む異端者でもなければ、アルビオンで蠢く害虫ども――レコン・キスタと呼ばれる宮廷革命運動家でもない。 彼らに情報を売った裏切者でもなく、ただ特権階級の座に胡坐をかくだけの、とんだ小物に過ぎない。 上の監視が厳しくなったものの、公職に就く自分たちが表立って弾劾されることもないと思っていたのだろう。
だからこそ、その幕切れはあっさりとしたものだった。
家屋の屋根になど注意を向けるはずもなく、ただ足を進めた彼らは、雨に交じる足音に気が付かなかったのだ。 剣を抜いた少年が屋根より飛び降りる音も、実際に刃が食い込む瞬間まで気が付いていないに違いなかった。 痛みに一瞬驚く一人の貴族は、慌てて腰の杖に手をかける。 しかし、返す刃はそれすら許さない。
下腹部に刺さった剣のその柄を両の手で切り上げれば、鎧など纏わぬ人間の肉体などあまりに脆い。 喉元まで切り裂かれ声を出すことなくその場にひれ伏し、そして物言わぬ骸になり果てる。
そしてもう一人、すぐそばを歩いた連れが倒れこんだ事に気がつきはしたが、酒により判断能力を奪われ咄嗟に動けなかった最後の一人。 少年は腰より
どちらも痛みは一瞬だったに違いない。 そもそも酒で神経は大分鈍っているのだから、どんな死に方でも大して変わらないのだろう。 ただし、貴族として暗殺で命を落とすと言うのは、名誉ある死とは言えない。 少年は剣の血潮をふき取ると、もう一度死体を見つめ、そして空に魔法を放った。 それは目立つものではなく、後処理をする者、そして監視役にしか知らされぬ魔法であった。
彼らは直ぐにやってきた。 死体に目もくれず、ぴちゃぴちゃと水音を鳴らして少年へと歩み寄った。
「杖はどうした」
「ここに」
「ご苦労。 しかし派手にやったな。 まるで屠殺の後だ」
見分役の一人は、家屋の壁にべったりと張り付いた血潮を見て呟いた。 喉元を掻っ切ったものだから、血圧によって噴き出した血が辺り一面に飛び散ってしまっている。 いつの間にか強くなった雨に紛れて、下り坂を赤い水が下っていく。 少年の纏った血除けの外套はその勤めを果たし、半分ほどは赤く染まっている。
彼らは杖を確認すると何も言わず、死体を運び始めた。 ここからが、彼らの仕事なのだった。 こんなちんけな貴族が殺されたのだ。 その役目はどうせ見せしめなのである。 彼らは死体を弄繰り回し、研究機関であるアカデミーに死体を回すか愉快なオブジェを作る事を命じられているのだ。 「メイジの死体は貴重だ」と以前誰かが言っていたが、今回は研究目的でなく、彼らはその遺体を辱め、比較的人の通りやすい場所で解体を始めた。
見ているだけで吐き気を催す光景だが、彼らは既に何の感情も抱いていないらしかった。 ただ笑う事も愚痴を溢すこともなく仕事をする彼らを遠目に、少年も足早にその場を離れた。 やるべき事は終わり、また指令が届くのを待つのみである。
殺された彼らは正しく生贄だった。 我々は常に見張っているのだと。 襟を正さねば貴様らもこうなるのだと。 故に、彼ら刺客達は恐れられ、そして抑止になり得たのだ。
//
ここ最近の目覚めはそのほとんどが体の苦痛を伴うものだった。 召喚された際は倦怠感と頭痛を。 藁で寝た際は筋肉の強張りを。 そして決闘の後の目覚めは、左腕に奔る激痛と体中の青あざで目が覚めた。
「これ、折れてるんだろうか」
包帯で巻かれ安静にされた腕。 中に硬い添え木は感じられぬものの、それなりにきつく締められている。 動かそうと思えば動かせるが、当然ながら痛みは残ったままである。 体を起こせば筋肉痛と胸の痛みが体を襲った。 ズキズキと、そして熱を持った打撲痕がシャツの下から覗いている。 そう、確か自分は、決闘騒ぎに乱入してかなり手痛くやられてしまったのだ。
彼が目を覚ましたのは夜中である。 昼のあの雑踏と喧騒は幻のように消え、この室内に聞こえるのは何やら可愛らしい寝息と、窓の外から聞こえる鳴き声。
「きゅるきゅる~」
それは竜であった。 赤と白の月に照らされながら、その青き鱗を有した竜が鼻を鳴らしながら空を飛んでいる。 少年には動物の声も感情も分からなかったが、それでもこの幻想的な光景と歌声は、かの竜の楽しげな心情を映し出している様に見えた。
『昔から体が弱いせいか、動物ばかりとお話しするようになったの。 そうしているとね、彼らの声が聞こえるようになるのよ』
ズキリ、とまた頭が酷く痛んだ。 それは寝すぎたから故か、それとも頭部に打撃をもらったせいだったのか。 考えても答えは出てこないので、アンリは固くなった体を起こしてパキパキと鳴らした。 そして、ベッドの枠に体を乗せたまま眠る少女を見つめた。
それはルイズであった。 寝間着ではなく制服に身を包んだままの少女は、疲労を宿したままの表情で唸っている。 よく見て見れば、ベッドには天蓋がついているし家具の配置にも覚えがある。 ここはルイズの部屋だったのだ。
常識的に考えて、使い魔がベッドを使って主人が床同然の場所で寝るなどあってはならぬ事だった。 従って、ベッドから降りて少女を起こそうと近づいた。 裸足であったので、床はひんやりと冷たかった。
「ミス・ヴァリエール、ミス・ヴァリエール、起きてください。 アンリです」
「はぇ…あんた…起きてたの?」
寝ぼけ眼をこすり、ルイズはようやく事態を理解し始めた。 そして、少し驚いた様子で聞き返した。
「あんた、怪我はもういいの?」
「え? ああ、体は動かせます。 左腕が少し不便ですけど、折れてはいないみたいなので。 ミス・ヴァリエールこそ、そんな所では風邪をひきますから。 僕は救護室にでも寝かせていればよかったのに」
「だって…あんたは私の使い魔じゃない。 使い魔の面倒を見るのは当たり前でしょ」
彼女の中で、少しの変化が生まれた様だった。 昼はその時の心情もあって酷く突き放した物言いであったが、今はそれが失われていた。
「それは感謝しますが…もしかしてこの傷も、ミス・ヴァリエールが?」
充てられた包帯や服の着替えなど、明らかに決闘の時とは違っているので誰かしらが変えてくれたものだった。
「私は別に何もしてないわよ…傷はモンモランシーが、馬鹿が迷惑かけたからって『治癒』をしてくれたものだし、着替えもあのシエスタってメイドが寄越したものだわ。 私がやってあんたが爆発でもしたら笑えないもの」
思い出してみれば、自分は相当派手に殴られていた。 その時は骨折もしていたし、下手をしたら致命傷になりかねない傷を負ってもいたのかもしれない。 それなのに多少痛いで済んでいるのは、確かに水の『治癒』のお陰らしかった。
「ベッドを貸していただくなんて、それだけでも十分ですよ…そのお二方にはお礼をしなければ」
「あんたどこ行くの?」
部屋から出ようと扉に近づいたアンリを、ルイズは引き留めた。 時間は深夜、普通で歩くような時間帯ではない。
「顔でも洗おうと水を汲みに」
「バカ。 そんくらいなら私が行くわよ」
「長い時間横になってたから、体が硬くてしょうがないんです。 直ぐに戻りますから」
藁の横に置かれた靴だけを履いて、アンリは了承を待たずに外に出た。 理由はそれだけではない。 昼の事について、自分でも整理をしたかったのだ。
あの時、それまで手も足も出ずに一方的にやられるだけであったのに、あの剣を握ったときから全てが変わった。 並の速さはあった青銅の一振りがいやにゆっくりに見えたし、全身の痛みも意に介さず駆け回る事が出来た。 そして何より、剣など振るったこともなければ手にしたこともなかったはずなのに、僕は体の一部のように扱えたのだ。
「本当に傭兵だった? それとも、こいつが?」
包帯で吊るされた左腕。 その手の甲に刻まれた読めぬルーン文字が、剣を握ったとき一瞬光ったように見えた。 しかし、その後があまりに早かったせいで確かめる暇もなかった。 だが、記憶を失う前の体が動きを覚えていたにしては、あまりにも無茶な動きであることは確かだったのだ。
頭から水を被り、そして熱を冷やした。 井戸に背を預け座り込む。 本当に色々なことがあって疲れたのか、一度下した腰はもう一度上がる兆しを見せなかった。
ふと、ルイズの部屋の小窓を見つけて目をやった。 先程までついていたランプも消えた事から、彼女も諦めて横になったのだろう。 アンリも戻る気力がわかず、その場で眠る事に決めたのだった。
目を閉じる前に一度だけ空を見上げた。 楽しげに空を飛んでいた青き竜は、いつの間にか姿を消していた。
//
次の朝の事だった。 いつものように強い日差しと多少の冷たさの中で目覚めたアンリが顔を洗い、部屋に戻ろうとした時だった。
「出歩いちゃダメじゃないですか!? 怪我だって治ってないでしょう!」
使用人の中に混じったシエスタがこちらを見つけると、仲間に洗濯籠を押し付けてアンリの元に飛んでやってきた。
「おはよう、シエスタ。 昨日はなんだか色々助けてもらったみたいで…」
「そんなこと言ってないで、怪我は大丈夫なんですか!?」
「左腕がこの通りだけど、他はもう」
多少強がって問題は無いように装った。 痛い事には痛いが、我慢できない程ではない。 まるっきり嘘ではなかった。
「ほんとに…みんな心配してたんですよ。 あんなボロボロになって、ミスタ・グラモンに殺されるんじゃないかって」
誰が見てもそうなるはずだった。 とは、口が裂けても言えなかった。 そんな軽々しく口にしては、シエスタはきっと怒るのだ。 彼女は、他人の為に怒れる人間なのだ。 彼女をかばったルイズと同じように。
「多分思い上がってたんだ。 貴族の使い魔になれて、喧嘩くらいなら勝てるんじゃないかって。 でも、このありさまだ」
自嘲するように笑って見せれば、彼女は悲しげに笑みを浮かべた。 やはり、誰かを悲しませないようにするのは苦手だった。 もしかしたら以前の自分はそうでなかったのかもしれないが、多分きっと、苦手だったに違いない。
「よく寝たからか、お腹が空いてしまって。 ミス・ヴァリエールが起きる前に朝食を済ませたかったんだけど…」
「なら、厨房へいらしてください。 マルトーさんが一緒に酒を飲もうって言ってましたから」
彼女に手を引かれてもう一度厨房へやってくれば、そこは戦場であった。 それぞれの担当から絶え間なく指示が飛ばされており、白衣に身を包む料理人たちは忙しなく料理を続ける。 料理長のマルトーも、怒声を飛ばしながら自身も大鍋を混ぜていた。 そんなマルトーだったが、入ってきたシエスタとアンリを見るや否や、厳しい表情とは打って変わって随分嬉しそうに笑った。
「おお! よく来てくれたな! "我らが剣"よ! 怪我はもういいのかい?」
聞き覚えのない名称が聞こえたが、「ええ。 後は腕だけです」と答え、視線で促される席に着いた。 「そうかい! そうかい!」と叫んで近づくマルトーは、四十を過ぎた随分と大柄な男である。 オールド・オスマンと私的な交友があるらしく、本人から直々に料理長を依頼されたこともあって、彼の料理の腕は一流であった。 羽振りの良い平民であり、給料はそこいらの貧乏貴族よりもよっぽど多いとか。 加えて魔法学院に勤めている割に、一部を除いて大の貴族嫌いであった。
いや、近くで接するからこそ嫌いなのかもしれないとアンリは思った。
「味見は済んでるぜ! 朝の遅い貴族よりも一足先に食っちまいな!」
「ありがとうございます」
失礼ながら、出された朝食は先日のルイズにもらった物とは比較にならなかった。 何なら、貴族の食卓に並ぶものよりも質がいい。 そして、味も当然素晴らしいものだった。
「凄く美味しいです。 多分、こんなに美味しいものは食べた事が無いんじゃないかな」
「そうかい! 嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか! どれ! 左腕が駄目なら俺が食わせてやろうか! 俺が嫌ならシエスタだな!」
「そこまでしてもらわなくても、使おうと思えば動かせますから」
包帯より腕を抜いて、スプーンを握ってそのまま食べて見せた。 素早く動かさなければ、思いのほか痛みは無い。 また一つ学びを得たのだ。
「お、おお。 左で食うたぁ随分と器用だな。 それに食い方も偉く上品だ」
「よく覚えてないんですけど、勤め先が厳しかったのかもしれませんね」
「どっちかというと、貴族の食い方に見えるがな?」
「名前すら覚えてませんから」
「そうだったな…悪い事聞いちまった」
「謝らなくても、そのおかげで美味しいご飯が食べれましたから」
マルトーは感激していた。 水を飲むアンリの背をバシバシと叩き、そして泣いた。
「アンリ! お前ってやつはいい奴だな! 気に入った! いつでも食べに来い! 俺は、この腕がついている限りいつでも飯を作ってやる!」
最後にワインを飲んで、マルトーは厨房に戻っていった。 アンリも食事を終え皿でも洗おうかと思ったが、きっと毎日やっている彼らの方が早く、その気遣いは役に立たない。 食器を預けると部屋に戻っていった。 そして、鍵が開いたままの扉を開け、またルイズを起こした。 きっと、帰ってくるのを待つために開けたままだったのだろう。
「ミス・ヴァリエール、朝になりましたよ」
//
蒼髪の少女、タバサは空を飛んでいた。 正確に言えば彼女が自身の力で飛んでいたわけではなく、己が使い魔である竜、『シルフィード』の背に乗っていたのである。 背びれを背もたれにしながら本を読む少女は、何を考えているか分からぬ表情をしている。
シルフィードはきゅるきゅると鼻を鳴らした。 それは、朝から空を飛んでいたためにお腹が空いたと主人に伝えるものだった。 しかし、主人は読書を邪魔されることを嫌う。 機嫌を損ねてしまえばご飯は抜きになってしまうかもしれない。 そう悩んで、結局シルフィードは
有り体に、彼女はものすごく小さい。 歳は十五に上がったと言っていたが、それよりもいくつか下に見える程に背丈はなく、体も細いのである。 成長が止まっているようであった。
可愛げのない赤縁眼鏡の奥の、髪と同じ蒼い瞳は他者を寄せ付けず、雪や氷のように冷たい。 本のページをめくりはするものの、楽しんでいるのかつまらないと思っているのかすら、その瞳からは読み取れないのだ。 だが、その冷たさの中にも美しさが際立っている。 体の幼さとは相反して、その静けさの中に宿る大人びた気配、達観や悟りにも似たものが、大人びた雰囲気を生んでいた。
しかし。 しかしであった。 そんな美しいご主人様な訳だが、食欲は我慢できるものではなかった。 怒られるだろう。 もしかしたら、躾として杖で叩かれるかもしれない。 しかし、シルフィードはまだ子供であり、我慢が出来なかった。 数秒待って、「もう我慢できない」と呟いて、シルフィードは主人に食事を要求した。
「ごはん。 ごはん。 お腹空いた。 お肉かお魚食べたいのね」
竜が喋った。 幻獣は非常に高い知能と誇りを持った生き物であるが、それでも人の言葉を話すことは無い。 しかし、シルフィードは朗々と人の言葉、ハルケギニア語を口から放っている。 トリステインに存在する高等研究機関、王立魔法研究所――通称アカデミーで魔法生物や幻獣を研究する者や賢者であれば、シルフィードの正体に気付くかもしれない。
今や歴史書などの書物にしか残らぬ、伝説の種族。
タバサが手にする本も、それに関しての物であった。 伝説の、韻竜についての伝承。
途中まで目を通したあたりで、跨った使い魔が騒がしくしているのに気づいて、タバサはようやく使い魔の顔を見つめた。
「お姉さま、ごはん。 食べたいのね」
タバサは再び本に視線を落した。 目的地までは半分も至っていないので、もう少し鞭うつことにしたのだ。
「無視するなんて酷いのね。 ダメならダメでお話しましょう」
「もう少し、後少ししたら」
「むー…何を読んでるの?」
「あなたの種族について」
「うれしいわ。 わたしについて知ろうとしてくれているのね」
「知っておかなくては、いざというとき戦えない」
シルフィードはそれだけで空腹を忘れてしまう程に単純だったが、理由は随分殺伐としたものだった。 だが、それでもシルフィードは大層喜んだ。 一人っ子であったが故に、主人を親愛していたのだ。
「それでもうれしいわ。 ああ、お姉さまに呼び寄せた日もとてもうれしかったわ。 お姉さま、覚えてる?」
「覚えてる」
「お姉さまはわたしに名前をくださったの! シルフィード! 凄くいい名前! 大昔の風の妖精の名前だわ!」
ばたばたと嬉しそうに羽根を羽ばたかせた。 しかし、背に乗っているタバサは本など読める状況では無かった。 それも構わず、シルフィードは楽しそうに話しを続ける。
「お姉さまはわたしを呼び寄せたのに、あの桃色のおチビったら変な人間を呼び寄せてたわ。 風の匂いがしてたけど、みっともないのね」
「風の匂い?」
「お姉さまと同じ匂いなのね!」
『ゼロ』と呼ばれる少女が呼び出した少年、初めて姿を見た時はその恰好から傭兵かと騒がれたものの、結局は平民という事で落ち着いた彼である。 つい先日貴族と決闘騒ぎを起こし、すんでの所で素晴らしい剣裁きを見せた彼から、同じ『風』の匂いがしたという。
「彼は、メイジ?」
「うーん。 分からないのね。 凄く嫌な臭いがしたから直ぐに嗅ぐのやめちゃったもの。 血の臭いだなんて、お肉にでもかぶりついたのかしら」
タバサは詳しく調べることは叶わなかったが、彼からは血の臭いがしたという。 あんな物を持ってたのだから、それなりの事はやってきたのだろう。 もしかしたら、自分と同じように"そういった"仕事に就いているのかもしれない。 しかし、あの朝少しだけ言葉を交わしたアンリという少年は、そういった者が身に着ける嫌な瞳を持ち合わせていなかった。 その差が理解できずに、彼を怪しんでいたのだ。 しかし、あの動きはただものではない。 それだけは確実だった。
「おにくー、おにくー。 るるー」
「うるさい」
「しつこく言わないと、お姉さまはわすれるもの」
「お城に着いたらごはん」
「うれしい! けど、またお城なのね。 あのお城、何だか嫌な感じがする。 お姉さまとお喋りもできないし」
「喋れば面倒」
率直にタバサは答えた。 絶滅したと言われる種族なのだ。 その正体を知られればあらゆる機関が殺到して、シルフィードを連れていくかもしれない。 従って人前で話すことは許されない。
「凄く嫌なお城なのね。 人も空気も、澱んでいる感じなの」
風竜とは風と密接に関わる。 故に澱んだ空気やじっとりとした場所を嫌う。 城と戦は切っても切れない存在であり、血なまぐさい調略が巡る場所である為、シルフィードは嫌っていたのだ。
主人の不機嫌を読み取ったシルフィードは、流石に静かになった。 不機嫌な顔である。 しかし、いつもあんな顔をしているのだから、怒っているのか笑っているのかも分からない。
使い魔として、主人にはいつも笑っていてほしいものだ。 だから、いつかはあの雪のように冷たい表情を太陽のように照らしてあげたいのだ。
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ガリア王国――それは始祖ブリミルの子孫が興したとされる国の名である。 交わる二本の杖を紋章として、王城ヴェルサルテイル宮殿を中心に王都リュティスが広がっている。 他の国に比べ、人口は約一千五百万と非常に多く、魔法先進国でもある。 貴族の数も多く、空軍の規模も練度も高いため、軍事国家として知られている。 また、
そんな国の王都リュティス、人口が約三十万とハルケギニアでも最大規模の都市。 そのすぐそばに位置した王城ヴェルサルテイル宮殿。 王家がクラスに相応しい、巨大で壮麗、見る者に圧倒を与える宮殿は祖先の王が森を切り拓いて築いた物であった。 中心のグラン・トロワと呼ばれる大理石で組まれた立派な建物で政を行うは、現国王のジョゼフ一世。
そこから少し離れた場所に位置するプチ・トロワと呼ばれる小規模の宮殿が、今回タバサが呼び出された場所であった。
「平和だね、全く。 何の面白味もないじゃないか」
小さな宮殿のベッドの上で、一人の少女は退屈そうに声を漏らした。 年のころは十七と言ったあたり。 誰かに似た蒼いブロンドの髪に、髪と同じ色の鋭い瞳に持っている。 その色は、ガリア王家の血を継ぐものであることを端的に示す、分かりやすい証明であった。
肩まで伸びた髪は恐らく、侍女に世話をさせているのだろう。 丁寧に櫛で梳かれ、風に揺れて美しく光を反射させている。 その上には無駄に大きく、そして豪勢な冠が乗っている。
誰が見ても、彼女は王族であった。 しかし、その仕草は決して上品であるとは言えない。 ベッドに転がり、時折冠を遊ばせている。 そして体を起こしてみれば、今度は唇を舌で拭って見せた。
ただし、その美しい少女の下品な仕草は、何故か彼女によく似合っていた。 妖艶さと少しの恐ろしさを含んでいた。
そんな少女は現国王ジョゼフの娘、イザベラ王女である。
イザベラは寝そべったまま、ベッドの天蓋についた紐を引こうとした。 しかし、寝そべっているが故に腕が届かない。 仕方なしに杖を抜くと、姿勢を正すことも億劫だと言わんばかりに魔法を行使した。 そして、直ぐに侍女たちがやってきた。
「お呼びですか」
「あの人形はまだかい?」
"人形"と呼んだ彼女の声は、顔を見なくとも分かる程の不機嫌さを宿していた。 普段世話をする侍女たちは、その声のあまりの恐ろしさに肩を震わせていた。
「いえ…まだシャルロット様は…ひっ」
侍女の一人が"シャルロット様"と呼んだ時である。 それまでの気だるげな雰囲気だったイザベラは怒りに空気を揺らして飛び起きた。 そして、侍女に詰め寄った。
「今なんて言った! お前!」
「も、申し訳ございません。 イザベラ様…」
謝罪を告げ姿勢を低くする侍女の耳を引き、イザベラは顔を持ち上げる。
「いいかい! シャルロットなんて奴はいないんだ!奴は"人形"だ! 誰かに遊ばれる事しか出来ない人形なんだ! 覚えの悪い頭だね!」
イザベラはそのまま彼女を突き飛ばす。 そして遂に、ベッドに立てかけられた杖へと手が伸びた。
「あ、あぁ…」
粗相を起こした使用人に杖が抜かれた時。 それはほとんどの場合死を意味する。 それか死にはしなくとも、今後まともに生活できぬほどの怪我は覚悟しなくてはならないのだ。 この時代、貴族の機嫌を損ねるとはそういう事であった。 故に、侍女は絶望の表情を張り付けて、顔を覆った。
「覚えの悪い頭は、私が直してあげようか。 最近『水』系統で面白い魔法を見つけてね。 その練習がしたかったのさ」
イザベラは乱雑に積まれた本を掴んだ。
「人を従順にさせ、意のままに操る魔法さ。 どうだい? 面白そうだろう?」
『水』系統の魔法はもっぱら傷を治す魔法が有名だが、それだけではない。 水を応用した攻撃魔法もあれば、身体と心に関わる魔法もある。 伝承にも残る様に、人を正しく人形のように操る事の出来る魔法だってあった。
「お許しを…もう致しません…どうか、お慈悲を…」
跪いて許しを請う侍女。 他の二人はそれを見守る事しか出来ない。 下手に擁護すれば、同じ目に合って共倒れになるのは目に見えているのだ。
しかし、その姿を見て溜飲が下がったのか、イザベラは杖を下して少しだけ微笑んだ。
「まぁ、反省してるなら許してやらんこともない。 もうやるんじゃないよ」
侍女は深々と頭を下げて退出していった。 その時である。 外に控えた衛士隊の一人が誰かの到着を告げた。
「シュバリエ・ド・ノールパルテルが七号、到着!」
ところで、このガリア王国にはいくつかの騎士団がある。 "薔薇園"とも呼ばれる美しい宮殿にちなんで、各方角の花壇を名前とする騎士団である。 南薔薇花壇騎士団、東薔薇花壇騎士団などなど。 しかし、北には唯一花壇が存在しない。 従って北が名前に入る事は本来ない。 筈なのだが、それは表向きであった。
他の三つの騎士団が舞台を彩る役者たちであるなら、"北"を名乗る彼ら、
そして、随分と前からそこで仕事をこなす七号と呼ばれた少女。 タバサを待っていた頃だった。 侍女はシャルロットと呼んだが、それは本来口にしてはいけぬ名前なのである。 彼女も誰かと同じように、名と名誉を奪われた人間なのであった。
そんな七号ことタバサを、イザベラは意地の悪い顔で歓迎した。
「私を待たせるなんて、随分と偉くなったもんじゃないか」
イザベラは怒る訳ではなく、楽しそうに笑った。 そして、もう一度タバサを見つめた。
自分と歳はそう変わらない。 しかし、その小さい体には自分よりも一回り、二回りも大きな魔力を秘めているのだ。 そして、魔法の才にもありふれており、既にクラスはトライアングルと来た。 それ故に、王女になるべきは彼女だと口にする者もいた。 ――そんな連中は既に消されてしまったが。
そんな怒りはとうに忘れた。 少なくともイザベラはそう思っていたが、未だ劣等感を拭えぬが故にこうしてタバサをいびっている事もまた理解していた。
「まあいいだろう。 お前たち! さっさと服を持ってきな!」
侍女にそう言い放つと、彼女たちは仕事をするべく駆け出していった。 そして、そうする間に。 イザベラは己の冠する王家の象徴をタバサに…否、王女シャルロットの頭へと被せた。
「そら。 お前の欲しがっている物だよ。 ずっと被ってるものだから肩も凝るし、首だって痛くなる。 お前も少しは味わいな」
宝石が
「もしかしたら、今頃これを被ってるのはあんただったのかもしれないのにねぇ。 シャルロット」
表情は相変わらず嘲るような笑みを浮かべたままであるが、事実を知る者が聞けばそれは、どうしようもない程に冷酷で残酷な仕打ちだったに違いない。 そのまま駆け付けた侍女たちにドレスを着せられるタバサに、イザベラは続けた。
「よく似合ってるじゃないか。 今回の仕事を教えるからよく聞きな」
侍女たちは足早に部屋を去っていく。 そしてイザベラは『探知魔法』を掛けた上で二人きりであることを確認すると、何者かの名を呼んだ。 入り口でずっと待機していたのだろう。 一人の騎士が姿を現すと、イザベラに対して優雅に礼をして見せた。
「東薔薇騎士団、バッソ・カステルモール、ただいま参りました」
若いその男はまだ二十歳を過ぎたあたりだろうか。 歳に似合わない髭は随分と立派であり、婦女子とすれ違えば目を奪われるほどであろう。 それほどの美男子であった。
「人形に化粧をしてあげなさい」
「御意」
短く頷くと、彼は腰から杖を抜いた。 使い込まれてはいるものの、その身は青く輝く、見事な杖であった。 その仕草と洗練された振りからも、彼が相当の手練れであることが窺える。
カステルモールは静かに魔法を唱えた。 タバサに杖が振り下ろされると、その体に変化が表れていく。 自身の体に違和感を覚えて少し、ベッド脇の姿見を見て見れば、その顔は目の前の王女にそっくりである。
『フェイス・チェンジ』という呪文であった。 水と風の二つを掛け合わせた系統魔法。 名の通り顔を替えることが出来る高度な魔法は、古くから諜報や撹乱の任務に用いられてきた。 タバサも覚えたいとは思っていたが、まだ成し遂げられてはいない。
背丈は違う。 顔だけしか変えられないのだから、当然と言えば当然だ。 しかし、イザベラはタバサの眼鏡を取り上げどこかに投げると、大声で笑った。
「くっくっく…瓜二つじゃないの! これなら少し休暇に行ってもバレなさそうだねぇ。 背も小さいし痩せてるけど、まぁ年取った貴族たちは気付きもしないさ」
そして、その蒼髪をくしゃくしゃと撫でた。
「過去の遺物でも、この蒼い髪は変わらないものね。 王族の象徴…笑ってしまうわ」
酷く可笑しそうに笑うイザベラ。 それとは対照的に、タバサは変わらず無表情であった。
//
首都からかなり離れた地方の小都市であった。 王女に変装させられたタバサと侍女に紛れたイザベラは、馬車に揺られ道を進んでいく。
「見たかい! あの業突く張りの貴族共ときたら、誰も気づいていないじゃないか!」
王女の御付きの女官として味方をも欺いた彼女は随分と愉快そうに話している。 元から王族に相応しき気品というものが損なわれた彼女故に、身なりが変わってしまえば町娘にしか見えない。 それは本来恥ずかしい事なのだが、イザベラはそうは思ってもいないらしかった。
「久しぶりに笑わせてもらったお礼に、任務を伝えてあげるわ。 今向かってる場所の領主、アルトーワ伯なんだけどね。 何だが最近色々と目に余るらしくてね。 税の支払いは滞ってるし宮殿にも足を運んでいない。 ま、謀反を企てている可能性があるのよね。 そして今回私はその誕生日を祝う園遊会に招待されている。 分かるかしら? きっとこれは罠なのよ。 王女の私…今はあんただけど、それを人質にとって革命を起こそうって魂胆ね。 だから私は、誘いに乗ってやることにしたのよ」
タバサは表情を変えないものの、話を聞いていた。
「騎士団の長は頭もよくなくてはね? 多少戦えるからと言って図に乗らない方がいいわよ?」
どうでもいい事をぺらぺらと喋るものだ。 とタバサは感心していた。 しかし、カステルモールはその態度を不敬と見たのか、杖を抜きタバサへと突き付けた。
「貴様、人形風情が王女を愚弄するか」
「やめな。 こんなところで騒ぎなんてまっぴらだ」
割り入った騎士に憤りを感じたのか、イザベラの眉は吊り上がった。
「失礼いたしました。 この者が目に余る態度でしたが故」
随分な忠誠心だと、イザベラもまた呆れたため息をこぼした。 しかし。 今の王宮内でイザベラに心から忠誠を誓っている者は存在しない。 目の前で怒って見せたカステルモールも怪しいものだ。 そのために、イザベラが騎士に向ける視線は冷めていた。
「まぁいいさ。 これを聞けばその貼り付けたみたいな顔も少しは変わるだろうからね。 ――地下水って聞いたことがあるかい? 何でも仕事を選ばない凄腕の傭兵って話の奴がね、この件に関わってるって言うんだよ」
タバサは頷いた。 今までもタバサは様々な任務をこなしてきた。 裏社会に関わるうちに何度も耳にした名前。 それが『地下水』である。 蜃気楼のようにどこにでも現れ、対象を静かに暗殺する刺客。 証拠は露のように消えてしまう為に、誰もその姿を見た事は無いと言う。
「そいつは『水』の使い手だっていうのよ。 体どころか心さえも掌握してしまう水…"雪風"はそれと戦って勝てるかい?」
「分からない」
自分を弱いとは思わない。 曲がりなりにも多くの任務を達成してきたのだから、この荒んだ世界を生きるだけの力は持っているはず。 しかし、タバサは人を殺めた事がない。 それに対し、敵は多くの対象を葬ってきた凄腕のメイジだと言う。
まともにぶつかればただでは済まない。 それだけは確かだった。
//
最初の襲撃は、領地にたどり着くまでに一泊した高級宿で行われた。 往復で考えると約一週間にも及ぶ旅行だったのだが、流石に馬車での移動である為一日でたどり着くはずもない。 王家の紋章を掲げた馬車と衛士たちが街へ着くと、すぐさま彼らは体を休めるべくして宿へ入った。 そして、イザベラ――それに扮したタバサは最上階の、一番豪華な部屋へと通された。
馬車での移動は骨が折れる。 ここ最近はシルフィードに乗って旅をしたものだから、気疲れは更に大きかった。 侍女たちに「疲れたから一人にしてほしい」と伝えると、いつもとは違う王女に戸惑いながらも、彼女たちも部屋へと戻っていった。
タバサはその重苦しい冠をベッド脇に置くと、ドレスも脱がずにベッドへと倒れこんだ。 そして、夢を見ていた。
彼女がまだシャルロット・エレーヌ・オルレアンであった頃。 そして、その可愛らしい笑顔が絶えなかった頃。
父と母がいつものように猟へ出ていた日であった。 少女は二人から色々な話を聞く事が楽しくて仕方がなかった。 その日も領地内の森へ向かった二人を見送り、美しきラグドリアン湖を一望できる窓の側で本を読み、帰りを待っている時であった。 彼らが返ってくるはずの時間が来ても、誰も屋敷へは帰ってこなかった。
森を見て見れば何やら貴族や騎士たちが慌ただしく馬を走らせており、その顔はどれも切迫していた。そして遂に返ってきた母は、蒼白な顔色で言葉を交わすことが出来ない状態で送り届けられた。 それは陽もすっかり暮れ、夕闇が差し迫る程の頃である。
『家に帰ったら、また魔法を見てあげよう』
それが、少女と父が最後に交わした言葉であった。 父が身罷ったと聞いたのはそれから程なくした頃――
浅い夢に、思いを馳せていた時であった。 彼女の部屋の扉を叩く音が三度、その音がタバサを夢より引きずり出した。
「誰?」
自身の背よりも大きい杖を手に、タバサは扉に問いかけた。
「カステルモールでございます」
その男と言えば、一日中イザベラの側に回っていた男だった。 プチ・トロワ、そして馬車で随分な物言いをした彼だが、こんな夜に何の用だろうか。 暗殺をするのなら態々素性の知れた相手を寄越すことはない。 しくじったとき、直ぐに関連性を疑われてしまうのだから。 しかも彼は、東薔薇騎士である。 手頃の刺客なら北薔薇騎士に幾らでもいよう。
少しの思考を経たのち、タバサは扉を開けた。
「なんのよう?」
短く尋ねるや否や、彼は周囲に魔法をかけた。 『
「不審なものはいないようで」
安全を確保したのち、彼は帽子を脱ぎ恭しく一礼をすると、己が杖をタバサに差し出した。
「殿下、どうかわたくしめを護衛として側においてくだされ。 全ての露を払わせていただきます。 我ら騎士一同、命を賭してお守りいたします」
あの時と今で、途端に態度が変わっている。 まるで要領を得ない。
「わたしは王女じゃない。 そんなものは必要ない」
「シャルロット様は、今でも真の王女でございます。 今は無きシャルル様の忘れ形見。 その方をお守りできると言うならば、我らこれ以上の名誉はございませぬ」
「その名は捨てた。 それに、あの時守れなかったあなたたちに、今更それが出来るとは思わない」
タバサは別に、そんな棘のある強い言い方をするつもりはなかった。 しかし、彼は亡き父の名を出した。 今更になってその名を出されたところで何もかもが遅すぎるのだ。 父を守れなかったうえに、彼らは母様まで…
「承知しております。 我々はシャルル様にあれ程目をかけて頂いたにも関わらず、お守りすることが出来ませんでした。 忘れもしない。 私がまだ騎士見習いであった頃…」
カステルモールは、その目じりに涙を浮かばせた。 握りしめた拳からは、無念と後悔の念が聞こえる様である。 涙を浮かべたまま、彼は再びタバサを見た。
「我々東薔薇騎士団はシャルロット様に忠誠を誓っております。 もし、今一度機会をくださるのならば、今度こそお守りして見せます。 決起を考えているのであれば…」
彼が言い切る前に、タバサは杖を返した。 王位を取り戻すために反乱。 いや、革命を起こすなど、タバサにとっては考えられぬ事だった。 欲しいのは王女の立場でも国でもない。 ただ、父と母だけが居ればよかったのだ。
「そんな物の為に、大勢が死ぬ必要はない。 これ以上ここにいれば貴方も疑われる」
カステルモールの忠誠心は確かに本物であった。 いや、彼の決起という言葉に反応し了承したと言うならば、反逆者として捕まえる手前だったのかもしれない。 だがあの瞳は嘘を語っているようには見えなかったのだ。
「おお…わたくしめを気遣って下さるなど…」
再び涙を流した彼は、差し出したままの手にキスをすると、礼をして外に消えた。 あの様子では、断っても無断で護衛をするのだろう。 多少鬱陶しいと感じない事もないが、あれで気が晴れるのなら構わないとも思ったのだ。
そして、彼が去ってまた一刻。 とうとう月の輝きが増して本すら読めるのではないかと思う程の光が窓を射した頃であった。 廊下から何やら耳障りな音が聞こえてくる。 滑車が木版に当たる音であった。 その音は部屋の前で止まり、施錠された扉を意にもせず誰かが入ってくる。
タバサはその異常な事態に対応できず、ただ扉を見る事しか出来なかった。 入ってきたのは一人の女。 それも日中タバサについていた一人の侍女である。 その時は何の違和感も覚えぬ女であったが、この時間帯にティーポットといくつかの菓子を乗せたワゴンと共に、一言も話さないと言うのはあまりに異常であった。
侍女はにっこりと微笑を浮かべて。
「お茶をお持ちしました。 良ければこちらのお菓子も」
「あなたが地下水?」
となれば。 この違和感と結びついて出される結論はそれしか無かった。 イザベラはその暗殺者について、水の使い手であるとしか言わなかった。 では、彼女がそうなのであろうか。
「はい。 あなたのような方に名を知られているとは光栄なことです。 シャルロット・エレーヌ・オルレアン」
タバサの本名を明かした上で、彼女はカップに紅茶を注ぎ、クッキーと共に差し出した。 一瞬カップに手をかけたものの、地下水は『水』である。 何を施したか分からぬ物を口にするなど、愚の骨頂である。
「心配せずとも、ただの紅茶ですよ。 殺すつもりなら態々知らせてやることもないでしょう?」
確かに。 こんな音の鳴り目立つものを手に来る必要がない。 メイジならば窓からだって近づくことは出来るのだ。 であるならば。
「誘拐? 人質にするのが目的?」
「ええ。 それが依頼ですから」
「アルトーワ伯から?」
地下水は否定も肯定もせずただ微笑を浮かべた。 それなりの場数は踏んだ目標だと聞いたが、交渉術というのは鍛えられていないどころか、年相応だったらしい。 地下水は言葉を返した。
「あまりお答えは出来ませんが…そうですね。 出来れば大人しくついていただきたいものです。 貴き者の肌には傷を付けたくありませんから」
侍女――地下水は一礼して立ち上がった。 その時。 タバサは反射的にワゴンを蹴り魔法を唱え、杖を振るった。
「ラナ・デル・ウィンデ」
室内のばらけた空気が詠唱により纏まり、視界がぶれる。 空気の塊は術者の命令に従い大きな槌へと形状を変えると、佇む地下水へと暴力的に迫り、そして壁を叩いた。
しかし、その者は体をひねりワゴンを躱すと、続けて飛来する風の槌――『エア・ハンマー』をも右手を軸に転がる事で回避して見せた。 ワゴンの陰になる様に放った魔法だが、相当の手練れであることに間違いは無いようだった。 あれ程の動きは、戦ってきた相手の中では見た事がない。
しかし。 感心している暇もない。 風の槌が避けられたことを知るや否や、タバサは次の魔法を放った。
「デル・ウィンデ」
風の刃である。 『エア・カッター』はカーテンや室内に斬撃の痕を刻みながら地下水に迫る。 しかしこれも、咄嗟に机を盾にすることで致命傷だけ回避すると、一滴の血を流すこともなく凌いで見せる。 結局風の刃が切り刻んだのは壁や床だけであり、タバサは杖を構え直した。
間違いなく強敵である。 室内という事もあって近づかれてしまえば一撃で持っていかれる可能性もある。 そのために魔法を唱え続けなければいけないが、捉えることの出来ぬ魔法をいくら唱えても、魔力が尽きて意識を失うのが関の山である。
無表情ではあったが、間違いなくタバサは焦燥の念を抱いていた。
「流石に王家なだけはある。 油断すれば倒れていたかもしれません」
焦るタバサとは裏腹に、地下水は楽しんでいる様子だった。
「これだけ派手にやれば人だって来る…早めに終わらせましょう」
地下水は杖を構えるようにして、右手に持ったナイフを前に出した。 そして紡がれたのは…
「イル・ウォータル・スレイプ・クラウディ」
青白い靄、雲と言うべきそれがタバサの周囲に生じた。 まともに立っていられぬ程の猛烈な眠気が襲うが、彼女はすんでの所で堪えて見せた。 『風』のトライアングルであるタバサ故に、風の系統魔法に打ち勝つことが出来たのだ。 そして、驚きと共に背中を冷や汗が伝った。
あの侍女は平民だったはずである。 加えて目の前にいる地下水は杖など持っていない。 のにも関わらず、杖と詠唱を必要とする系統魔法を使って見せた。 先住魔法であれば、まだ姿かたちを変えて人間を装っている可能性も考えられたが、そうではない。
そう考えるうちに、再び地下水が右手を構えた。 その呪文はタバサも知っている。 彼女もよく使う得意とする魔法であった。
室内の水分と言ったモノが凝縮され、高密度の氷の結晶となってタバサを襲った。 『ウィンディ・アイシクル』と呼ばれる水と風のトライアングルスペルである。 横跳びで回避したタバサであったが、氷の矢は腕を掠めた。 ドレスが破れ、血が腕を伝っていく。
「流石。 大抵は対処できずにまともに食らうが、あなたは別格だ。 念のために急所は外しておきましたが、その心配もいらなかったようだ。 でも、次は当てます。 痛い想いをしたくなければ杖を投げる事だ」
今度こそ追い込まれた。 次に使われる呪文は一体? どう避けるべきか? ぐるぐるとタバサの脳は回転していたが、一つだけ分かるとすれば、室内の水分は既に、魔法で消費されている。 他系統の攻撃魔法では音が大きすぎる。 間抜けでなければ、風の攻撃魔法を使うと読んだタバサは、飛来するであろう何かに備え、風の防御壁を展開させた。
予想通り飛来した風の刃。 壁に散らされたそれは窓を割り、ベッドのシーツを引き裂くに至ったが、タバサには当たらない。 しかし驚くべき点は他にあった。 割られたポットとカップより漏れ出た水が固まり、もう一度地下水の目の前に出現した。 氷の矢が、再びタバサを襲おうとしたとき。
割れた窓から何かが顔を出した。 続いて訪れた風の塊は地下水を吹き飛ばすと、手にしたナイフを落し、小さな悲鳴を上げて床に倒れこむ。
「きゅいきゅい。 大変なのね。 おねえさまが怪我してるのね」
その大きな頭はシルフィードであった。 危機を察知して先住魔法を使い、タバサの窮地を救ったのである。 しかし、礼を言う間もなく物音に気が付いた衛士達は部屋に駆け付けて、声を上げた。
「姫殿下? ご無事ですか!」
「お怪我をされているぞ!」
彼らは東薔薇騎士ではなく、イザベラの護衛としてついてきた衛士であった。 直ぐにタバサが腕に負った怪我を治療し始めると、他の者が倒れる侍女を抱え起こす。
「おい! 貴様! 王女を襲うなど、許されぬことだぞ!」
ようやく目を覚ました侍女は状況を掴めていなかったが、荒れた部屋と囲んだ衛士達に目を向き、軽く悲鳴を漏らした。
「ひっ」
「今更驚いたところで誤魔化せはせぬ。 貴様が何者かたっぷりと締め上げてやる」
「隊長殿、その者は向かいの部屋にいた王女の従者です」
何やら彼女の素性を知っている者が、凄む隊長を諫めた。 どうにも先程までの地下水と侍女での辻褄が合わない。
「何? では貴様、裏切ったと言うのか?」
「わ、わたくしは何も知りませぬ…先ほどまで部屋で寝ていたはずなのです…」
「兎に角こちらに来い。 話は別室で聞く」
「待って」
次に隊長を止めたのはタバサだった。 乱暴につかんだ腕を話させると、膝から崩れ落ちた侍女に視線を合わせようと屈んだ。
「彼女は多分、操られていた」
イザベラは馬車の中で言っていた。 水系統のメイジである地下水は、体だけでなく心まで操ってしまうのだと。 彼女の変わりようを見れば、それが演技ではないことなど一目瞭然。 侍女もまた被害者であったのだ。
「私が話を聞く。 あなた達は外に」
「ですが…」
「三度は言わない。 早く外に」
タバサの感情はささくれ立っていた。 疲れもたまった夜中に襲撃されたのだ。 だからイザベラの顔でそう不機嫌に言ってしまえば、仕える騎士と衛士も察して退出していく。 侍女と二人きりになったタバサは、無事だった椅子を持ってくると座らせて、いくつか質問をした。
「お許しを…」
「咎めることは無い。 それより、教えてほしい事がある」
身を乗り出したタバサ――イザベラの顔をしているのだから皆そう認識しているわけだが、それに恐怖した侍女は後ずさり、怯えた。 普段の彼女の恐ろしさを理解しているのだ。
「ブリミルに誓う。 あなたには危害を加えない…あなたは、眠る前に何をしていたの?」
「わ、私は食事を終えて直ぐに部屋に戻って…そのあとは眠ったはずなのですが…」
しかし目が覚めてみれば、この部屋で彼らに詰め寄られていたという。 つまり、襲った時の記憶がすっぽりと抜けている。 寝ている最中に地下水に何らかの魔法をかけられたのであろう。
そう判断したタバサは一言礼を言うと、侍女を部屋へと戻した。 そして再びベッドに倒れこむと、疲労の混じったため息を漏らす。
暗殺者が身内にいるのならば、これほどに厄介なことはない。 今晩これほどの騒ぎになったのだから同日に仕掛けてくることは無いだろうが、それにしても眠れたものではないのだ。 故に、眠る事を諦め頭を休める事だけ考えた。
そしてタバサがそうしている頃。 騒ぎが収まって宿舎に戻った衛士達は警戒を深めて、外を哨戒しようとしていた。 口にするのは王女への陰口である。
「にしても、いつもだったら魔法が飛んできてもおかしくない形相だったが、あのヒステリック娘に何があったってんだろうな」
誰かが聞けば打ち首ものだが、夜中に叩き起こされて使われれば、愚痴だって溢したくなるものだった。 相棒を務める衛士はいつものように乗っかる事も相槌を打つこともしないので、不審に思った彼は後ろを歩く仲間を見つめた。
「おい、どうしちまったんだ。 何かあるのか?」
彼は王女の部屋に転がっていたナイフを見つめていた。 しかし、聞いても「何でもない…」と返すばかりで、話になりはしない。 ため息をついて再び歩き出した。
「そう。 何でもない。 気にするな」
ようやく多少まともな言動をするようになってついていった彼だが、一瞬ナイフの刀身に移った顔は、笑っているように見えた。
//
紆余曲折あったものの、出発してから二日後の夕方には目的地であるグルノープルに到着したタバサたちは、現地の民から盛大な歓迎を受けた。
領主であり、そして謀反の疑いをかけられたアルトーワ伯は街の門まで態々老体を運び、そして王女一行を出迎えた。 王家でも分家に当たる血族の彼は、タバサやイザベラと同じく蒼い髪を有していたが、それは歳故か多少色が落ちており、くすんだ水の色のようにも見えた。
アルトーワ伯は深々と一礼し、そして歓迎の意を伝えた。
「ようこそグルノープルまでお越しくださいました。 この老骨、生きているうちに再びイザベラ様を拝見することが出来て大変光栄でございます」
そういった彼は、浮かべた笑顔の裏に怪訝さを宿しているように見えた。 彼は老人とはいえ王家の血を継いでおり、幼少より何度かイザベラを見ている。 もしかしたら変装がばれてしまったかのもしれないと思ったが、今の立場は王女である。 カステルモールの掛けた『フェイス・チェンジ』は相当高位なものの探知魔法でしか見破ることは出来ないし、そもそも王女にそんな不敬な事が出来るはずがない。 探知魔法を掛けるとは即ち最大の侮辱であると同時に主君に疑いをかけるという事なのだから。
タバサの心配は杞憂で終わった。 アルトーワ伯は人の好い笑みを浮かべて皆の苦労を労うと、自身の屋敷へと案内をする。 園遊会は明日の予定であったが、それなりに立派な庭園では既に会場が設営されていた。 使用人と一部貴族たちは忙しなく足を運び、多くの荷物を搬入している。
王都と違い何もない地方の貴族は、誕生日や何か祝い事があるとこういった催しを行う節があった。 田舎貴族は暇なのである。 既に勤めを果たした老人が多く、互いに交流を持つことと言ったら茶会やダンス、演劇や詩歌の催しが開かれることが多い。
タバサは前日と同じく屋敷内でも一番上等な部屋へと通された。 今現在一番権力を持つのはイザベラに扮したタバサである為それが当然ではあるのだが、普段受けない扱いと地下水の事でタバサは既に疲労困憊であった。
「それで、あんたはアルトーワ伯をどう思う?」
侍女の格好をしたイザベラはカステルモールを連れて部屋へ押し入ると、単刀直入に尋ねた。
「ただの貴族」
良くも悪くも、あの老人は普通の貴族に見えた。 何か野望を抱いているようにも見えないし、悪意を抱く瞳でもない。 ただ年寄りの娯楽を楽しむ地方の貴族である。
「ま、あんたにはそう見えたかもしれないけどね。 ああいった奴ほど腹には一物抱えてるのさ。 それよりも一昨日例の地下水に襲われたんだろう? 騎士たちも噂していたよ」
意地の悪い笑みを浮かべているイザベラ。 言葉にしていないものの、言外に『どうだった』と聞いているのだ。
タバサは無言で頷いて、「かなり手ごわい」と漏らした。
「そうだろう? 私はいつもああいった手練れの連中に狙われているのさ。 留学してるあんたには分からんだろうけどね。 いい機会だ。 私の恐怖をとくと味わうがいいさ」
下品な笑いを漏らして退出していく様は、やはり侍女にも王女にも見えないものだった。 底意地の悪い姑の様であると、タバサは心中漏らした。
「あのような物言いを止めることが出来ない自分に恥じるばかりであります」
片膝をついたカステルモールは項垂れた。 進言した護衛の件もイザベラに嘲笑され、一蹴された様子であった。
「あなたが悪い訳ではない。 何をしても無駄」
イザベラがいるのでは何を模索しても通るはずがない。 彼女はあれで悪知恵が回る人である。
「もったいのうお言葉でございます…」
一礼してカステルモールは退出した。 会場の警備体制を確かめるべく廊下を抜けた彼は、一人の護衛隊の騎士とすれ違う。 ぶつぶつと小言を言いながら歩くその男は、些か呆けているようであった。
「おい。 貴公」
怪しさが滲み出たその男を、カステルモールは多少威圧を含めた声で呼び止めた。 呼び止められた男は、慌てる様子無く上官に対する礼をすると、手にしたナイフを差し出した。
「これは?」
「は。 先程会場にて拾ったナイフであります。 なにかあるのではないかと思い報告申し上げようと」
「ふむ…」
怪しむことなくそれを受け取ったカステルモール。 少しの間手で遊ばせてみたそれは、ついこの間どこかで見た覚えがあった。 しかし。
「後で預かろう。 今はお前が持っていろ」
そう言って返してやった。
そして、騒ぎが再び起こったのはその夜の事であった。
夜真意を確かめるべくアルトーワ伯の部屋へと訪れたタバサは、イザベラを装ったままいくつかの質問をした。 何故王都に顔を出さなかったのか。 税の支払いを滞らせている理由は何か。 どれを聞いても返ってくるのは悲痛な回答である。
「腰を痛めたとご報告申し上げた筈です! 今年は不作で、その件もお伺いを立てましたぞ! 疑うのであれば、今帳簿を持ってまいります!」
老人は蒼白な顔で杖を振るうと書棚の一冊が手に収まり、それをタバサへと手渡した。
「これでもお疑いになられますか! ならばいいでしょう! この老骨の首を、ジョセフ王の前へ突き付けるがよろしい! さすれば我が忠誠心が疑いようのないものだと知るでしょう!」
アルトーワ伯はタバサに自分を殺すよう、攻撃呪文を促した。 しかしタバサが一向にそうしようとしないので、自害するべく己が杖を向けた時である。 察知したタバサは、風で杖を吹き飛ばした。
「我が忠誠心に殉ずることを邪魔だてされますか! ならばこのナイフで…」
すぐそばの果物ナイフを手にしようとしたとき、タバサはその手を握り視線の高さを合わせた。
「あなたの忠誠心には疑うところがありません。 私の誤解です。 申し訳ありませんでした」
イザベラを装ってそう謝罪すると、彼は侮辱と王女に謝罪させたことを気に病んだのか、おいおいと泣き出した。
このような人間が謀反を起こすとは到底考えられない。 では一体、誰がこんな手の込んだ芝居を開いたのか。 タバサの脳裏には、当該する人間が二人ほど思い浮かんだ。 現国王とその王女である。
「…」
積もりに積もった恨み言が、タバサの中で渦巻いていた。 今までの蛮行もそうであるが、目の前で惨めにも泣き崩れる老貴族を見た時、それを父に重ねてしまったのだ。 『王位を脅かす存在』として何の野望も抱かぬ父は、何の罪も犯していないのに命を奪われた。 そして今、同じように消される可能性を目の前の老人は帯びていた。
――許せない。
彼女の怒りは他人とは違い、熱ではなく冷気を帯びていた。 冷えた夜の風が窓より吹き込んで、タバサの顔を歪ませた。 怒りを露わにしたタバサは、やはり彼女と血がつながっているのだろう。 自室で不機嫌な時のイザベラに酷似していた。
そして、空気に震えを読んだタバサは咄嗟に風の防御壁を展開した。 突如飛来した風の刃は一瞬それに阻まれたが、先日とは込められていた魔力が違っていた。 容易く壁を貫くと、タバサの寝間着とベッドのレース、そして壁を切り刻んだ。
「これはこれは。 こんな夜に紳士の部屋を訪れるとは…」
一人の衛士が扉より姿を覗かせている。 仮面で素顔を拝むことは叶わない。それでもこの魔法の質を見る限り、これが地下水の本当の姿なのだろう。 タバサは普段の抑揚のない声でなく、怒りを含んだ声で尋ねた。
「誰に雇われたか白状して」
「傭兵とは信用が全てなのです。 敵に情報を漏らすものがいるとすれば、そいつは既にどこかに埋められていますよ」
つまり。 返答はNOであった。 アルトーワ伯も考慮すれば、下手な攻撃魔法は彼を傷つけかねない。 しかしそんな躊躇いは刺客である地下水には関係がなかった。 彼は恐るべき反応速度で杖を構えると、既に詠唱を済ませていたであろう攻撃魔法をすぐさま放った。
『アイス・カッター』が再び防御壁を貫こうとしていた。 タバサも横跳びでそれを避け、カウンターとして『ウィンディ・アイシクル』を放つ。 熟考する暇もなく、ただ得意とする魔法が浮かんだので咄嗟に唱えたのである。 しかし。
地下水は微動だにせず次の魔法を唱えた。 『ファイア・ウォール』。 炎のヴェールが体を囲うと、タバサの氷の矢を瞬時に溶かした。 地下水はやはり、戦いのセオリーを知っている。 魔法に対してはそれと対になる反対魔法を放ち、少ない魔力で相殺する。 場慣れした戦士そのものだった。
そのまま迫る炎を逆に押し返してやろうと、タバサは後ろに飛びながら『アイス・ストーム』を唱えた。 火を巻き込んだ熱風が一目散に地下水へと襲い掛かったが…
「ぐっ!」
彼もそれを読んでいたのか、同じく『アイス・ストーム』を唱えて見せた。 ほんの少しの間せめぎ合った烈風だが、ついにはタバサの物が押し負けて吹き飛ばされる。 割れたガラスと本が部屋を舞い、ランプを消して夜の闇へと誘った。 体を打ち付けたタバサは軽く息を漏らす。
「雪風と言えど、流石にまだ子供と見える。 シャルロット・エレーヌ・オルレアン」
その時だ。 タバサの中での疑惑が完全に結びついた。 あの日、イザベラに扮したはずの自分の真名を見破り、そして二つ名を知っている。 つまりは王家に深くかかわる人間から依頼を受けた事は確かであった。
「イザベラ…」
タバサは小さく呟いた。 しかし、孕んだ怒りは先の比ではない。 それこそ言葉だけで人を殺せてしまいそうであった。 血のつながった従妹でありながら、何故ここまで非道な行いが出来るのか、タバサには分からなかった。 分からないけれど、それでも許せぬ行為である。 断罪すべき行為である。 白い肌に赤みが差した。
「おお、怖い怖い。 ですが気迫で人は殺せません。 一緒に来てもらいましょうかね」
膝をついたタバサに杖を向けながら近づいた地下水。 しかしそれよりも早く、ドアから飛び込んだのはあの男だった。
「やらせはせぬ!」
杖に風を纏わせて、カステルモールは地下水の胸を貫こうとした。 しかし、地下水は笑みを浮かべたまま机でそれを防ぐと割れた窓から一目散に飛び出していく。 気を失ったアルトーワ伯と傷を負ったタバサを視界に捉えると、カステルモールは叫んだ。
「衛士たちよ! 王女を狙った不届き物が潜んでいる!」
その声に反応して、屋敷は喧騒に包まれた。 そして窓より顔を出したシルフィードは、破れた寝間着を身に着けるタバサの姿に気付いて悲鳴を上げた。
「おねえさま!? いったいぜんたいどうしたのね!?」
「今出ていった男を追う」
「そんな! 傷だらけなのに!」
「いいから!」
そんな剣幕で怒鳴る主人を、シルフィードは見た事がなかった。 臆病な竜はそれを嫌がったが、主人がその気では従うほかない。
タバサを背に乗せると、身を案じるカステルモールを置いて夜の街を飛んだ。 タバサは既に、地下水の風を把握していたのだ。
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「ガリアに来てまで殺しとは。 嫌な役回りだ」
屋敷そばの地下水道内で、革靴の音を響かせる者がいた。 出で立ちは平民ではない。 品のある短いローブは一昔前の貴族の様な装いだった。 右に手にするは中の長さ程度の魔術師の使う杖。 そして左手には使われたばかりの短刀。 ダガ―が血を滴らせていた。
「用済みになって態々ガリアの人間を使ったのか?」
苛立ちを隠さぬ様子で、その男は再び靴を鳴らした。 その足元に斃れるは、赤の衛士服に身を纏った貴族である。 そう、今さっきタバサとアルトーワ伯を襲撃した地下水その人であった。 しかし赤く染まっているのは元からその色だったからではない。 腹部より溢れた血がマントにしみ込んで、それが流水に反射してそう見えているのだ。
「…あんたも、俺を殺しに来た口か」
普段から地下水道には陽が入らず、ランプもしくは魔法で照らすしかない。 彼は腰にランタンを吊り下げていたが、それでもその奥に潜む人など見えるはずがない。 加えた彼女は隠密に長けた風なのだ。
そう。 逃げた地下水を追跡したタバサは、風の痕跡を辿りこの地下へと辿り着いた。 シルフィードを外に置き、魔法で蓋を外すとその中へと飛び込んだ。 そして足を進めてみれば微かな光が見えたので、すぐさま陰に潜んだ。 だからその人物に気取られるはずなどなかった。 少なくともタバサはそう思っていた。
「出来るなら殺したくない。 こちらに争うつもりは毛頭ない」
「…あなたは誰? 地下水?」
そう尋ねられた男は、その名前に憶えがあった。 地下水。 そう、それはガリアで名を馳せているという腕のある傭兵の名前であったはずだ。 彼はトリステインの人間であるが、似た稼業故にその名を知っていた。 同じ闇に巣くう人でなしの名であったはずだ。
「ガリアの刺客を指しているのなら、俺ではない。 倒れているこいつなら申し訳ないが…」
視線を下げて骸を見つめた。 彼が地下水路を歩いている時、こちらを見るや否や攻撃を仕掛けてきたのでやむを得ず無力化したのだった。 かなりの手練れであったのか、使う魔法はどれもトライアングル級であり、手加減する余裕がなかった。 故に、一撃で仕留める他なかった。
彼はそうタバサに告げた。 『ライト』で照らされた彼は、光をうっとおしそうに眉を顰める。
タバサが戦った侍女と、そして衛士。 思い出してみれば、彼らの瞳は虚ろでありそこに意思は宿っていないように思えた。 しかし眼前の彼は鈍くではあるが、光を伴っている。 陰鬱としている瞳は、困窮する民や心的外傷を負った兵士によく似ていた。 希望を失っている瞳であった。
「この妙なナイフは微かに魔力を秘めているようだが…」
死体の手の先に握られたナイフ。 男は視線を落とすと、膝を濡らしながら布越しにそれを掴んだ。 再び『探知』を掛ければやはり魔力を帯びている。 その掛けられ方と言えば、武器に対する固定化やエンチャントと言ったモノではない。 むしろ精霊や亜人、魔法生物に近いものだった。
興味を惹かれ、男はナイフを握った。 少しの間遊ばせるように振るうが何のことは無い。 ただのナイフである。 飾り気も上品さもない、それこそ人を切るための物。 そう思っていると、握った手から何やら不愉快にも思える違和感を覚え、男は咄嗟にナイフを手放した。 石と擦れ、甲高い金属音が水路に響く。
「っち! いてぇじゃねぇか! すんでの所で離しやがって!」
男の怒鳴り声が響いた。 しかし、その声を上げたのはローブの男ではない。 タバサの風も、男の目も他の何物も捉えていない。 二人は目を見合わせた。
「あなたが、地下水」
「そうさね。 ガリアの傭兵、地下水と言えば俺の事を言うだろうね」
ナイフが喋っている。 彼こそが意思を備えた短刀、インテリジェンス・ナイフであった。 多くの人間を葬ってきた手練れの傭兵、姿形が明かされぬ彼の正体とは、文字通り人ではなかったのだ。
「…驚いたな。 意思を持った武器が暗殺稼業などと」
「寿命ってもんが無くて暇なのさ。 ガリアは俺のお得意様でね」
「ガリア…」
男は自らが殺めた男を水より引き上げると顔の汚れを落とし、目を閉じてやった。 そして、膝をついて祈った。
タバサはそんな男を見た事がなかった。 暗殺者と言えば物言わぬ国の刃である。 その歩き方と音の消し方を見れば、彼がそうなのだろう。 しかし、彼らは普通死体には興味を示さない。 喜びもなければ憂いもなく、そして慈悲もないのだ。 だから普通は死者に祈りなど捧げない。
「気でも狂ってるのか? 刺客が殺した人間に祈りを捧げるなんて見た事はねぇぜ」
ナイフはタバサの心情を代弁した。 膝をついた彼は立ち上がってこちらを見つめ返したが、その表情は変わっていなかった。
「…仕事以外で要らぬ殺生をしたんだ。 許されることではないが…」
最後に手を組んでやると、男は再びタバサへと瞳を向けた。 地上での騒動が地下まで聞こえてきている。 故に、男は素早く立ち去ろうとしていた。
「待って」
「…?」
「私を殺さないの?」
てっきりタバサは、その鬱屈として不満をため込んだ様子の男は自分を殺すために送られてきたのだと思った。 最初の言葉も油断させるための罠だろうと。 しかし、彼は本当に何もせずに立ち去ろうとしたのだから、つい口に出てしまっていたのだ。
男は訳が分からずに、多少呆れた表情を見せた。 貼り付けた様な暗い顔ではない。
「…おかしな奴だな。 態々自分を殺すかどうか聞くだなんて」
「…はっきりさせておきたかっただけ。 でも、あなたの陰で地下水を捕えることが出来た」
タバサは短く一礼をした。 言葉にはしなかったが、それは確かに感謝を伝えるものであった。 衛士一人が犠牲となったことは喜ばしい事ではないが、これでこの騒動の黒幕は絞り込めたのである。 地下水は傭兵であり、そしてガリアからの依頼を受けていると判明した。 そうなれば動かせる人間はおのずと限られる。
イザベラである。 彼女が地下水をけしかけ、タバサの暗殺を謀ったのであった。 どこまで本気かは分からない。 彼女の事だ。 これもほんのお遊びにすぎないのかもしれない。 そう考えると、タバサの心中は穏やかでないものになる。 怒り、恨み、殺意。 どこまでも暗く薄汚く、どす黒い感情が渦巻いて、己の周囲に風が吹いた。 杖を握る力が強くなった。 何より彼女は、国に仕える兵士一人の命をその茶番で奪ったことになる。
「みだりに人を殺すなよ。 それが誰であれ、どんな理由であれ…」
タバサの心中を読み取り、男はそう言い聞かせるように呟いた。 その表情は、己の過去を見ているようである。 男は今度こそ足を進めた。 地下水を拾う事もなく、そして少女に一瞥もくれることなく。
「あなたの名前を教えてほしい」
刺客に名を問うことなど無意味である。 誇りを持たぬ殺し屋、人斬りは貴族の様に名と口上を述べることは無い。 名を残すこと自体が汚点であり、そして存在そのものが恥であるから。 しかし、タバサは聞かざるを得なかったのだ。 死者を弔い、そして間接的に助けとなった彼の名を。
男は一度だけ足を止めた。 しかし、やはり振り返ることは無かった。
「…オーベックだ。 家名は無い。 さあ、もう行けよ。 きっと何か、使命があるんだろ」