『トリステインの王家には、美貌はあっても杖が無い。 杖を握るは枢機卿。 灰色帽子の鳥の骨』
それは今のトリステインの政治、王家の状況を揶揄する如き小唄である。 この国において先王が崩御した後、王位は空虚なままに留まっていた。 太后であるマリアンヌは、家臣や国民によって「女王陛下」と呼ばれ続けながらも結局は王妃としての立場を堅持し、即位することは一切なかった。こうして経るうちにそのような呼び声も遠のき、喪に服して数年。 王女であったアンリエッタもまた、その王位を引き継ぐことなく、この国の最高指導者であるべき王は存在しないままである。
そんな下世話な歌を、あたかも街女が口ずさむかのように奏でるのは現在のトリステイン第一王女、アンリエッタ・ド・トリステインである。 そしてその歌声に聞き入る者は、枢機卿でありながらも『鳥の骨』として知られるマザリーニ。
彼らが乗る馬車には、王家の紋章に加えて聖獣ユニコーンを模したレリーフが刻まれ、宝石や金属で華麗に飾られていた。その行く先は、トリステイン魔法学院である。
「姫様、そんな街女の歌うような小唄など口にするものではありませぬ」
「いいではありませんか。 あなたの助言通り、ゲルマニア皇帝に嫁ぐことを決めたのです。 歌の一つくらい唄って聞かせる権利はおありでしょう?」
今、トリステインは極めて難解な境地におかれていた。 というのも、血脈にブリミルの血を引く子孫が築き上げた『白の国』アルビオンで内戦が激しく燃え上がっているのである。 この混沌の中で台頭しているのは、宮廷の変革を掲げる組織である『レコン・キスタ』。 彼らは王家を転覆し、エルフたちから奪われたと称する『聖地』を奪還することを誓っており、そのために妄言を垂れ流し、王家に対して弓を引いていた。 しかし、その組織の躍動は凄まじく、貴族層までをも巻き込むほどの力を持ち、アルビオンの王家を瓦解させるかのような圧倒的な脅威であった。 軍の報告によれば、明日にはその権威が崩れ去る可能性すらあるとの事。
然して彼らが王家を倒そうと図るならば、始祖ブリミルが授けし三つの王権の中において、次なる狙いの対象はやはりトリステインであろう。 既に王を失い、誓った忠誠の対象が曖昧な状況となり、国内では些末な政治抗争が勃発し、残る多くの貴族は個々の富の増大に心を奪われている。 昔ながらの戦闘経験に裏打ちされた魔法使いとは異なり、攻勢にさらされれば敗北が避けがたい状態。 したがって、急遽他国との同盟が欠かせない事態となった。 そして、その解決策として提案されたのが、王女による政略結婚であった。
「しかし、そうため息を溢すものではありません。 王族たるもの、常に誇り高くあるべきなのです」
「民草はあなたを王と思っているようだけれど?」
「何を妄言を。 私はトリステインに仕える僕でございます」
ロマリアの出自を有する者であるマザリーニは、事実上トリステインの宰相に相応しい地位にあった。彼はブリミル教の厳格な戒律に則り、聖職者として最高位の枢機卿の冠を戴いていた。 年齢は四十程であり、歌に揶揄られる通り、その手足は骨が浮き出るほどに細く、同時に脆弱であった。 強く掴まれたならば、その骨は容易に砕けてしまうであろう。
彼は先王に仕え、非常に有能で忠誠な臣下であり、あらゆる政治的な課題に手腕を発揮した。 王国の発展と栄枯盛衰を支えるため、彼は己の命をかけて奉仕し、その重圧故に齢四十を越えたとは思えぬほどに、体重と髪色を失っていった。 狡猾で冷酷と評されることも多かったが、それは傾いたトリステインを再び栄えさせるために、手段を選ばざるを得なかった結果であった。 その評判は民衆からは芳しくなかったが、太后マリアンヌや先王からは彼ほどの信頼を置かれた者はいなかった。
そして、彼の卓越した能力は非常に高く、貴族であろうと平民であろうと、才能を持つ者は彼に仕えることを信条としていた。 そして、愚かな恋愛騒動にため息をつく王女の前で、マザリーニもまたその苛立ちを露見させぬように努めていた。その理由はもちろん、アルビオンに関する事案に連なる、別の重大な問題が存在していた。
――猟犬が一匹、姿を眩ませた。
数年前のある出来事により幽閉され、それを契機に刺客としてマザリーニに引き抜かれた一人の貴族。 前評判は芳しくなかったが、これらの数年で彼は転化した。 物静かで貴族独特の傲慢さを持っておらず、多岐にわたる技術を修得し、マザリーニが指揮する中で優れた暗殺者となった。 国内の騒乱を収めるだけでなく、潜り込んだ鼠たちをも排除する役目。 魔法の才能はなかったが、国の進展において彼は重要な寄与を果たしたと言えるだろう。
しかし、ある日、そんな猟犬は突如として姿を消した。 彼が指令された凶悪犯の抹殺。 命を惜しんだが為に逃げたわけではないだろう。 隠密の者を送り込んでみれば、対象は既に始末されていたのだ。 これまでにも同様の任務は幾度もあった。 逃げるには遅すぎ、母親を人質にされている彼には、そんな選択肢が考えられない。 彼の隠れ家に向かった者によれば、金や私物はそのまま残されていたとのこと。 どこに逃げようが金が必要であり、逃げた先でなおかつ働かねばならない。 可能性があるとすれば、同様な人斬りを生業とする傭兵か、金で雇われる刺客の仕事しかない。
マザリーニは眉間に皺を寄せた。 今後の戦乱を逃れるためには、ますます彼ら暗部の助けが欠かせなくなるだろう。 公然と軍を指揮することができないのならば、情報収集の任は彼ら、陰の使者たちに委ねざるを得ない。 そしてその少年は若さゆえに、愚鈍な貴族より情報を収集できる唯一無二の利点を持っていた。 マザリーニは必要以上の情報は渡さなかったが、情報が漏れる可能性は否応なく存在する。 もしも裏切られれば、ただちに排除する必要があった。
しかし、そういったマザリーニの慎重さに、アンリエッタはただため息をつくばかりであった。 無理にでも新たな風を取り入れるためにカーテンを少しめくり上げると、マザリーニは窓を開けた。 その視線の先には、グリフォンに跨った一人の若き貴族が立っていた。精悍な顔立ちで、魔法衛士隊の象徴であるマントに身を包み、周囲への警戒を怠ることなく慎重に行動している。
トリステイン王家の杖であり、同時に盾でもある魔法衛士隊。 その中で一躍傑出した存在として君臨するのは、グリフォン隊の指揮を執る隊長、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドである。 その二つ名は『閃光』。 ワルド子爵として知られる彼は、辺境に生まれながらもその非凡な才覚をマザリーニに見いだされた、一際優れた天才の一人である。 上級貴族たちから構成される魔法衛士隊の中でも、彼らは選りすぐりの者たちで構成されており、若き貴族たちの中で畏れと憧れの的であった。
「
このようなワルドは窓が開いたことを素早く認識すると、馬車にグリフォンを近づけた。 空いた窓よりマザリーニが顔を出す。
「殿下は気分が優れない様だ。 何か気晴らしに成り得るものを探してはくれまいか」
「御意」
彼は命を受け、鷹のような目で周囲を見回す。 そして街道のすぐそばに、一輪の花が咲いていることに気づく。 目標を捉えた彼はグリフォンを走らせ、腰から下げた刺剣のような杖をすらりと引き抜き、簡単なルーンを唱える。 小さな風が巻き起こり、花を摘むと崩れぬように固定化を掛け、そして馬車に近づいた。
窓から差し込もうとしたワルドであったが、マザリーニがそれを手で制する。
「ワルド子爵。 殿下自らが受け取ってくれるそうだ」
「身に余る光栄でございます」
恭しく一礼したワルドは王女の乗る側にグリフォンを回すと、窓の前で待機した。 ゆっくりと開かれた窓より、アンリエッタは手を差し出す。 花を受け取った後でもう片方の手を出すと、ワルドは感動した様子で甲にキスをする。
「あなたのお名前は?」
「魔法衛士隊、グリフォン隊隊長、ワルド子爵で御座います」
「ワルド子爵、あなたは立派な貴族でいらっしゃいますわね」
「卑しき従僕で御座います」
「最近はそのように謙虚な物言いをする貴族も減ってしまいました。 かの偉大なるフィリップ三世の治下には、皆忠誠を誓ったものですが…」
アンリエッタは歌劇じみた様子で、顔を覆った。
「もしもの時、頼りにしてもよろしいのですか?」
「勿論であります。 例えこの身が滅びようとも、殿下が呼ばれた場所に赴いて見せます」
ワルドはもう一度礼をして、職務へと戻った。窓を閉じたアンリエッタはマザリーニに耳打ちをする。
「あの貴族は使えるのですか?」
「『閃光』と呼ばれる彼は、あの年で隊長に着くだけの実力があります。 正面からの魔法の打ち合いで彼に敵う風は、かのアルビオンにもそういないかと」
「ワルド…ラ・ヴァリエール公爵領のすぐそばだったかしら」
アンリエッタは己の記憶の淵を覗き込んだ。 絡まり合った糸が解けゆくように、色とりどりの思い出が彼女の心を駆けめぐる。 そして、やっとのことで、この数日の曖昧なやりとりのなかから、肝要な事柄を思い起こした。
「枢機卿。 かのフーケより宝物を取り戻した貴族をご存じ?」
マザリーニはトリステインの国内の事であれば、火山付近に生息する竜の鱗の数でさえ知っているのだ。 これから学院に赴く理由の一つに彼らの存在がある。 従って、間髪入れずに答えた。
「勿論であります。 ヴァリエール公爵家が三女とゲルマニアのツェルプストー家令嬢。 そしてガリアの留学生であります」
実はその他にもう一人、オールド・オスマンより報告を受けている。 伝説とされる使い魔の力を有したメイジ。 その特徴が密書に詳述されたものと、使役する猟犬とが奇しくも一致していた。 故に、彼は予定を変更して自ら確かめるべく、こうして馬車を向かわせているのだ。
//
宝を奪還してから早や十日。 女神の名を冠した『フリッグの舞踏会』も幕を閉じ、幸せそうな恋人たちが学院に溢れてから数日。 その陽気な雰囲気とは裏腹に、アンリはどこか晴れない気分に浸っていた。 その原因は、ある噂話に端を発していた。
『ルイズが召喚したのはどこぞの没落貴族である』
すべては、フーケの騒動に同行したキュルケのおしゃべりが発端だった。もともと暇を持て余した生徒たちは、特に娯楽が限られているため、女子も男子も時間があれば集まり、些細な話題をめぐらせることが日常だ。 好みの異性や家の財政事情、教師の陰口といった内容が延々と繰り広げられる。
そんな中にキュルケが持ち込んだのは、あの日アンリが魔法を使って見せたという事である。 厳密にはタバサの持つナイフの力を借りてと言うのが正しいのだが、広まるうちにそんな情報は擦れて消え、結果残ったのは元貴族のメイジであるという事。 生徒、教師、そして使用人の平民にその噂が流れるのは一瞬であった。
ギーシュを始めとする幾らか仲の良い生徒たちからは、「君、魔法が使えるんだってね」や「元貴族なら教えてくれればよいのに」と言った事を言われ、仕事の関係でよく接していた使用人たちは公然と距離を取り始めた。
さらに、あの日以来、ルイズは何かしらの理由で不機嫌な様子で、まともな意思疎通は洗濯や掃除の指示など極めて限られたものだけだ。 彼女の気性の激しさはよく知られており、アンリも無用な口をきかず、謙虚に頭を下げることしかなかった。
そんななので、幾らアンリと言えどこの状況を不愉快に思って不満をため込んでしまうのも仕方がなかった。 夜、仕事を済ませると部屋にいるのは憚られるので、塔の上で夜風に晒されながらデルフリンガーを抱いて寝るか、運動がてら剣を振るのが習慣になっている。 それか仕事を終えた日中、図書館で本を借りるか。
夜の静寂に混ざる中、時折、竜に跨り帰還するタバサの姿を見るのが、彼の特異な日課となっていた。 眠りについている塔の上でさえ、彼女の竜の風切り音が、何か異様な響きをアンリの耳に刻み込む。 彼女は頻繁に学園を離れ、数日後に戻ってくることを繰り返していた。 月明かりに照らされる彼女は、時折無傷であることもあれば、服が焦げたり破れていたりと、なんらかの痕跡を抱えて帰還することが多かった。 怪我をしていないように見えるが、その外見からは想像もつかないような困難を経て帰還しているようだ。
彼女の素性や背景については謎に包まれており、多くを明かそうとしない。 それゆえ、見かけた際には自然と彼女の後を追い、何かしらの親近感を覚えているのかもしれない。 彼女も図書館を利用することが多いが、それでも会話は極端に少ないままだ。
「あの嬢ちゃんが気になるのか?」
「あの竜…こっちに気付いているみたいだ」
「そりゃ、風竜ってやつだろ。 頭も目もいいし、風の反射で色んな物の位置を把握するって話さ。 相棒の事も感知してるんだろうよ」
どうにも、デルフは多くの事を知っているようだった。 前から六千年生きた剣であると豪語しているだけあって、武器の事から戦の事、他にも色々と暇潰しに話す。 未だ『使い手』というものが何か判明していないのが玉に瑕だが、話し相手が他にいないのではしょうがない。 今最も信を置けるのはルイズでもオスマンでもコルベールでもなく、無機物の剣であることは不思議な事であった。
その日も体の汚れを落とした後で、コルベールより返却されたローブを纏い、デルフを支えとして眠る。 何故か、不思議なほど心地よい安らぎを感じているので、以前はこうして眠っていたのかもしれない。
//
ルイズは夢に身を委ねていた。 その夢は、最近ではなく、少し前の出来事を辿っていた。
魔法学院から少し離れた場所、馬で数日かかる領地。 それはラ・ヴァリエール公爵家の領地だった。 つまり、彼女の実家での夢。 そして、少女の頃の夢だった。
幼い頃、十にも満たない少女のルイズは、広い邸宅の中で響く母の厳しい声から必死に逃れていた。
その声の主は母親。 魔法が使えなかった少女のルイズは、姉と比較され、度々説教を受けていた。 母は美しく、凛とした女性でありながら、同時に厳格な母親でもあった。 小さな頃から聡明なルイズは、母がなぜ怒っているのかを理解していた。自分を嫌っているわけではなく、むしろ将来を心配してのことだと。 しかし、大好きな母が呆れや諦観の表情を浮かべるのはどうしても我慢ができず、説教を受けるたびに家を飛び出して一人でいることが多かった。
『まだお説教は終わっていませんよ!』
今日もその厳しい声を耳にしながら、ルイズは屋敷から逃げ出していった。 探しに出た使用人たちは、ルイズが植木に隠れていることに気づかない。
『ルイズお嬢様も難儀だな。 上のお嬢様はあんなに魔法が出来ると言うのに…』
そんなことを言う一人に、他の誰かが諫めの言葉をかけた。 聞かれればタダでは済まない、そんな言葉である。
ルイズは悔しくてならなかった。 自分がなぜ魔法を使えないのか、彼女にも理解できない。 努力を怠っているわけではない。 ただ、できない。 エレオノール姉様も、ちい姉様も大好きだ。だから嫉妬することも逆恨みすることもできない。
ルイズは危うく見つかる寸前で、その場から駆け出した。
向かう先は広がる中庭の池だった。小さな湖の中央に東屋があり、小さな桟橋には小舟が停泊している。 船遊びのための小さな舟だ。 しかし、大きい姉は成長し学問に打ち込むようになり、もう一方の姉は体が弱く外に出ることができない。 父は仕事で家にいないことが多く、母はそんな事をしていられないと奔走する日々であった。
故に、その池と船を気にする者はルイズ以外にいなかった。 説教を受けても訪れる者はなく、常に誰も来ない池のほとりで、小舟に身を委ねて浮かぶのである。 予め用意した毛布に包まり、目を閉じる。 そして声を出さずに涙を流し、どうして魔法が使えないのかを考える。
その日もそうしていると、何分かかかったのか、数時間かかったのか。 夢の中だからはっきりしない。 池の向こうの草むらの中から湿った足音が聞こえてきた。 水分を含んだ水草を踏む音。 気づくとルイズの前に、一人の貴族が佇んでいた。
羽帽子を被った一人の青年。 ルイズより一回り年上で、堂々たる貴族だった。 深くかぶった帽子で目元は隠れていたが、ルイズはすぐに誰かと分かった。
「子爵様、そこにいるのですか?」
声に出すと同時に、ルイズは慌ててハンカチで目元を拭った。 涙が伝った痕の残った顔を、婚約者に見せたくなかったのである。
「泣いているのかい? ルイズ」
靴が濡れることも構わず、その青年は足を進めた。 水面が揺れ、波が小舟に伝わる。
「いやですわ、子爵様。 恥ずかしい」
「そんなことは無いよ。 泣いている君も、なんていうか綺麗だ」
ルイズはとうとう恥ずかしさに耐えられず、俯いた。 赤らんだ顔が熱を帯びていることが、自分にも分かった。 ワルド子爵は、将来を約束した仲だ。 正式に誓いを立てたわけでなく、酒の席で両親が取り決めた約束のようなものだった。 しかし、純真なルイズは小さな恥ずかしさに押し潰されそうになって、顔をそむけてしまう。
「ルイズ。 僕のルイズ。 君は、僕のことが嫌いかい?」
彼は優しげな微笑を浮かべ、尋ねた。 ルイズは顔をそむけたまま、
「そんな事はありませんわ。 でも、まだ小さいから分かりません。 結婚するなんて、考えたこともありませんから」
満足そうに口元を緩めた彼はに釣られ、ルイズも笑みを漏らした。 そして小舟に手が差し出される。
「お手を。 レディが濡れてはいけないからね。 もうじき晩餐会が始まるし、今日は冷える」
しかし。 ルイズはその気遣いを嬉しく思いつつも、手を取ることは無かった。 視線は未だ、船の底を向いている。
「また怒られてしまったんだね? 大丈夫、僕からとりなしてあげよう」
未だ肩を震わせるルイズを、子爵は抱き上げた。 横抱きされて、ようやくその瞳を窺うことが出来た。 彼の瞳は優しく、そして温かな熱を持っている。
ああ、彼は間違えるはずもない。 ずっと憧れていた…
「ワルド…さま…」
//
朝もやが晴れぬ、名を明朝とも称するべき時刻―。 その瞬間、ルイズは珍しく使い魔に起こされる前に、自身の寝室で目を覚ました。 ネグリジェに身を包んだ彼女は、まだ酣眠から覚めたばかりで、身体を大胆に起こしながら深い欠伸を漏らした。 そして、寝ぼけた瞳をこすりながら、新しい一日への序章に身を投じるのだった。
「…水」
その言葉と共に、彼女はベッド脇の棚に手を伸ばすが、手は虚しく空を舞い、何も感じられない。 置かれているのは水差しのみであり、顔を拭くためのタオルや桶などは用意されていない。 よく見れば、部屋で眠っているはずの使い魔も、無駄に大きなおしゃべりな剣の姿も見当たらない。
「何処に行ってんのよ、あいつ」
起きて早々に眉間に皺を寄せて不機嫌な声を漏らすが、そうしたところで進展はない。 そもそも聞いている人間が自分だけなのだから当然と言えば当然である。 故に、仕方なくもう一度眠る事にして、再びベッドに倒れこもうとした。 その時である。
ガチャリ。 と、施錠していた筈の扉の鍵が解錠される音が室内に響いた。 それまでぼうっとしていたルイズであったが、危機感を覚え慌てて棚の杖を手にする。 もしかすると、寝込みを襲おうとする不逞の輩かもしれない。 杖を握る手は震えていた。
「だ、誰!」
「おはようございます。 ミス・ヴァリエール。 起きていらっしゃったんですか」
気が気でないルイズとは正反対に、入ってきた使い魔は平然としていた。 背に剣を担ぎ、桶を持った手とは逆に杖を持っている。 アンリである。
「まだ寝ていると思ったので。 不躾ながら『アンロック』を使わせていただきました。 お許しください」
『アンロック』――名の通り鍵を開ける魔法である。 メイジならば誰でも使う事の出来る初歩の魔法。 この学院において他人の部屋に使う事は重大な規則違反に当たるのだが、アンリはそれを知らなかった。
「…あんた、規則違反よ。 見つかったら大ごとだわ」
「申し訳ありません。 以後自重します」
懐に杖をしまい水の入った桶とタオルを手渡すと、続いて下着とシャツ、制服を椅子に掛けていく。 そして背を向けて部屋を出た。 後ろで呼び止める声がした気もなかったが、彼は聞こえないふりをしてその場を後にする。 本当は余り魔法を使っている所を見られる気は無かった――というのもゴーレムに魔法を唱えることが出来たのは、あくまであのマジックアイテムのお陰という事にしたかったのだが、オスマンは隠しておくことを良しとしなかったのか、ルイズにそのことを伝えた様であった。
舞踏会が終わったその日の夜、ルイズがアンリに最初に掛けた言葉は、「あんた、メイジだったのね」というどこか冷めた、いや、内にありありと複雑な感情を孕んだ物であった為、触れないようにしてきたのだ。 加えて最近の噂話が、ルイズのその苛立ちを増長させていたに違いない。 キュルケの話が嘘でないとすれば、主人が使えない魔法を使い魔が使えてしまう事になる。 メイジ、いや、貴族としてそれほど不名誉な事は無いであろう。 アンリの腫物に触るような扱いが、余計に怒りを促していたのかもしれなかった。
「嬢ちゃん、カンカンだったぜ。 放って置いていいのかい?」
「むしろ今は何を言っても無駄だよ。 落ち着くまで一人にさせたほうがいい…」
彼女の視線に入れば、おそらく何かを言われるだろう。 お互いに良い展開にはならないだろうから、大人しく引き下がることにした。 腰袋から本を取り出し、行儀悪く歩きながら目を通した。
この数日、まともに会話をしたタバサより借りた初歩魔法に関する教本である。 先程使ったアンロックを始めとして、コモンマジックやドットレベルの魔法が簡易的にまとめられたその本は、古い記憶を失くしたアンリにとって大変役立つものだった。 どこか、触れた記憶のあるものである。 そう。 昔に呼んだことがきっとある。 そんな本だ。
朝や夜の時間帯。 皆が寝静まり外を出歩かない――自ずと視線が減る時間になると、アンリは本を持って杖を振るった。 使える魔法の確認である。
コモン・マジックの類は問題なく唱える事が出来た。 物置の鍵を解錠したり、ライトで照らしたり。 使い魔としてどこまで魔法を使う事になるかは分からない。 そもそもいつまでこの役目を果たすことになるのかも。 しかし、そうであるからこそ。 自分がどこまで魔法を使えるのか、知っておくべきだと思ったのだ。 任を解かれればいつまでもこの場所に甘んじておくわけにはいかない。
「心配しなくても相棒にはそれなりの剣の腕があるさね。 傭兵でもやれば食っていけるさ」
「傭兵…ね。 金で命のやり取りをすることはしたくないな」
命とは、必ずしも貴賎を問わず、尊い存在である。 喪失されるとその尊厳も共に奪われ、故人だけでなく、遺された者も悲嘆にくれる。 こうした事態が戦場において日常的に発生することは異常な状況であり、その中で生き抜く傭兵たちもまた異質な存在である。 その行為は確かに忌避すべきものである。
美辞麗句の中でこれを理解しているとしても、傭兵といった存在は社会にとって不可欠であり、将来的にも無くなることはないだろう。 現代においては直接的な戦争がないとはいえ、小規模な諍いが発生することはあり、その都度犠牲者が出る。 兵士や貴族にも限界があり、その限界を超えるとき、戦場に立つのはやはり傭兵である。 彼らにも背後にある事情があり、必死に生きるために命を賭けて金を得ている可能性がある。 アンリには、こうした存在を否定する資格はないのだ。
//
さて、アンリが朝の労働を終え、昼の給仕の職務までの間、書籍に耽りながら余暇を過ごしていた頃。 彼は石畳に響く整然とした革靴の音を聞いた。 今はまだ授業を行っている時間であり、生徒の物ではないだろう。 彼らが生じる音とは少しばかり違う、ある程度の重みをもった音はきっと、大人たちの物だ。
それは教師によるものであった。 デルフを置き屋上より降り、階段を下ったアンリは使用人たちに交じる教師の姿を見た。 コルベールである。 彼はいつもとは違う、礼装とも呼べるマントを羽織っており、似合わない鬘を被っている。 コルベールは廊下の側のアンリを見つけ、駆け寄った。
「ああ! アンリ君! 君も装いを直した方がいい。 これより王女殿下が学院にいらすのだ。 いつもと同じ格好では何か言われてしまうかもしれないからね。 ではまた」
口早に言って走り去ったコルベールは、きっと授業中の生徒と教師に知らせに行くのだろう。 走っていた訳を知ってそう推測したアンリもまた、上着を部屋に置いてきたことを思い出し、ルイズのいない間にとって来ようと心算した。 廊下を抜けて女子寮へと入り、そして今朝と同じように鍵を開ける。 結局、鍵を預けてもらうことなく、自らの手段で寮に入らなければならないのだ。 そうした辛抱を受け入れつつも、彼は中に入り、白いシャツに上着を羽織り、回収したデルフを収め、外からロックを施して建物を後にした。
忙しくなることを予想した通り、使用人達は慌ただしく仕事をしていた。 急な報せだったのだろう。 皆の顔にはあまり余裕はなく聞こえるのは指示の大声と足音のみ。 アンリも中に混じり、掃除と来賓の準備で無駄話をする余裕はなかった。 大まかな作業が終わったのは昼に差し掛かる時間帯。 正装に着替えた生徒と教師が整列して今か今かと待ち構えている。
そして遂に、魔法学院の門をくぐって王女の一行は姿を現した。 整列した生徒は予定通り皆杖を掲げ、画楽隊は音楽を奏で始める。
学院の玄関口となる本塔、その入り口ではオスマンがいつになく真剣な面持ちで迎えようとしている。 馬車の側より召使が現れると、靴を汚さぬようにと絨毯を引き始める。 そして衛士が、王女の登場を告げた。
「トリステイン王国第一王女、アンリエッタ姫殿下のご入来!」
その声と共に最初に馬車より降りたのは、マザリーニ枢機卿である。 麗しき王女を期待した生徒たちは気を落したが、マザリーニは意に介さずに馬車の横に立ち、続く王女の手を取った。
そのお姿に、生徒たちは歓声を上げる。 教師の制止を振り切り、「アンリエッタ様万歳!」と声を上げる生徒に、アンリエッタは優雅に手を振った。
「ふーん。 中々に綺麗なお姫様だけど、あたしの方が上じゃないの」
キュルケは横に立つルイズに対し挑発の意を込めて言葉を投げかけたが、相手の本人は真剣に姫を見つめ、反論の影もない。 キュルケも気になってその視線の先を確認すれば、映し出されたのは一人の貴族であった。
羽帽子を被った凛々しい青年。彼は幻獣に騎乗し、ルイズ以外の女子生徒たちからも熱い注目を集めているようにも見受けられる。確かに、その青年は端正で、この学園の少年たちに比べれば相応の魅力があるだろう。 加えてその所属もトリステイン一の精鋭が集う魔法衛士隊。 花嫁になりたいと考える婦女子は幾らでもいるのだろう。 しかし。 その魔法衛士隊を真剣な目で見つめているのは女だけでない事に気が付いたキュルケは、呆れた様子で呟いた。
「いやだわ。 ダーリンてば、もしかして男色の気があるんじゃないでしょうね」
使用人としての彼の行動に注目すれば、彼は自らの職務を一時放り投げ、その立派な騎士たちに心奪われている。微かに燃えるような熱を秘めた瞳は、まるで恋に落ちた少女のようであった。 そっちの気を疑われても仕方のない。 その表情はまさにそういったものだ。
「ねぇタバサ。 本ばかり読んでないでさっさと行きましょ。 午後の授業もお休みだし」
少女は他国の王女には興味を抱かず、変わらずにただ本に耽るばかりだった。 彼女の手を取り、王女の行く先に集まる生徒たちの騒がしさを避けながら、キュルケは寮へと足を向けた。 ルイズはまだ、あの魔法衛士隊の貴族に見入ったままであった。
その晩、アンリは主の異変に気づいた。 通常通り部屋の掃除を終え、寝間着を整えて主の指示を待っていると、何かがおかしいことに気づいた。 従来のように簡単な会話すら生じていないことに気づいた使い魔は、己が主の表情を確かめようとした。
呆けている。 虚無を見つめている。 しかし、呼吸だけは忘れていない様であった。 時折瞬きも忘れてはいないようだ。 ただし、使い魔の存在を意識せず、話しかけられていることにも気づいていないようだ。 主はへそを曲げて無視しているわけではないようだが、意識が遠くに飛んでいるような様子だった。
「ミス・ヴァリエール? どうかなさいましたか?」
「失礼をば」と口にしつつも、肩を軽く揺らしてみたり、彼女の額に手を当ててみても何の反応も示さない。 朝は通常通りと言っても、不機嫌な雰囲気は漂っていたが、それでもなお、以前はできていた会話が成り立っていた。 顕著な変化が現れたのは、王女殿下が訪れた後のことだった。
どうしようかと頭を顎に手を当てていると、ドアが三度ノックされた。 誰かが来たのだろうかと思案していると、そのノックには一定の規則性があることに気づいた。 最初に二度、それに続いて三度。 その音を聴いていると、ルイズは一瞬我に返ったようで、アンリを押しのけるとマントを整え、ドアを開けた。
姿を現したのは、黒いフードを深くかぶった少女だった。周囲を警戒しながら、彼女は後ろ手で扉を閉めた。
「…貴女は?」
少し緊張した声色でルイズが尋ねると、その少女は静かにしなさいと、口元に指を立てる。 そしてマントの隙間から杖を取り出し、短くルーンを唱える。 それは『
「今は何処に耳が、目が光っているか分かりませんからね」
マジック・アイテムや魔法によって覗いている輩が居ない事を確認すると、ようやくその少女はフードを脱いだ。
現れるは紫に近い髪色。 青く透き通った瞳を持つ彼女は、驚くべきことに現王女アンリエッタ姫であった。
「姫殿下!」
ルイズの声が驚きに変わり、アンリも慌てて首を垂れる。 柔らかく微笑んだアンリエッタは、ルイズに優しく言葉を掛けた。
「ああ、随分と久しいですね。 ルイズ」
//
アンリエッタがルイズの部屋を訪れていた頃。 マザリーニもまた一人学院長室を訪れていた。 相対するは当然、オールド・オスマンである。 古く交友があった二人は酒瓶を空け、そして最近の動向を報告しあう。
「戦は避けられませんな…しくじればトリステイン本土が攻め込まれる」
「…外道ながらも戦を経験したアルビオンの叛徒共が相手では、勝ち目などないじゃろうに」
オスマンは断固として戦局の希望が乏しいことを深く悟っていた。然しながら、これは単に彼の見解に留まらず、国家の本質を了解する者であれば皆が同様の結論に至ることであろう。反逆者であり、厭戦主義者として扱われたくないため、多くの者が表立っては口に出さないだけの事実である。実証として、多くの臣下たちは戦乱を回避するために現在も奔走しているものの、その情勢は楽観的とは言い難い。
抵抗勢力であるアルビオン王家が崩れれば、無論にして"レコン・キスタ"が猛威を振るって侵攻してくることは避けられない。しかしながら、この国の多くの住民がその敗北の必然性を理解しているとは言い難い。彼らは一様に高らかに「王家に背いた反逆者たちを討ち果たせ」と叫びつつも、戦闘力を有する魔法使いや兵士が極めて不足しているこの国で、実際に何が成し遂げられるのかは疑問符が付きまとう。
「彼らアルビオン空軍はこのハルケギニアでも有数の精鋭。 規模もトリステインとは比べ物になりますまい。 だから、今すぐにでも手を打つ必要がある。 …彼は今、どこに?」
「使い魔の少年ならば、主人に仕えている頃じゃろう。 まさか本当に、彼が?」
オスマンにとっての聖職者の概念は、深い温かみを湛えた瞳と穏やかな父性を兼ね備え、道徳的な偉容を有する人間であった。然るに、現実に臨む彼の視線が、その理念からの逸脱を目の当たりにし、道徳的価値観の背反を如実に示唆している。
オスマンは、聖職者を疑念深い眼差しで見つめた。往時の輝きを失い、残るは冷酷なばかりの瞳。これはまさに、トリステインの現状に注視した結果生じた変容である。彼は真剣であり、国家を維持するためにはどんな不正規手段をも辞さない覚悟が彼に備わっていたのだ。
「…とてもじゃないが、あの少年が勤めを果たせるとは思わんがね」
「やはり、あなたもそう思いますか。 オールド・オスマン。 あなたほどのメイジがそう思うのなら、並の兵士など気にも留めないでしょう。 子供が暗殺者であるなどと」
謙虚に述べれば。 オスマンにとってのアンリという少年の印象は、まさに彼が冷酷な殺人者ではあるまいというものであった。兜の下に隠れるのは年若き少年であり、率直に言えば、彼はどこにでもいる一般の若者であった。軍人や戦士に見られるような圧迫感もなく、視線に込められた鋭さも全く感じられない。 剣を操る巧みさは、おそらくガンダールヴの異能に由来するものだろう。 しかし、それでもアンリの外見や振る舞いには普通の平民の特徴が色濃く残っていた。
また、アンリが身につけていた黒鉄の鎧と武器は、明らかに使い込まれた痕跡があった。 そしてマザリーニの語った内容に対するオスマンの信頼感は揺るぎないものだった。マザリーニの口から発せられる言葉に虚偽の痕跡はないと、オスマンは確信しているよた。
「彼の真価は魔法ではなく、剣にある。 もし貴方が言うように伝説の使い魔の能力が彼に宿ったとするならば…」
「メイジ殺しとして脅威に成り得ると。 だが空軍相手では剣を振るえてもどうしようもあるまい」
「彼は暗殺者です。 艦を出される前に始末させるか、内部に潜り込ませるか。 やりようは幾らでもある」
「子供にそんな真似をさせるつもりかね」
「子供にだって人は殺せる。 それは貴方もご存じでは?」
マザリーニの目が細くなった。 常識を問いかけるように。 しかし、オスマンの躊躇に対し、マザリーニは毅然として続けた。
「今のご時世、戦えるメイジは必要です。 そうでなくとも、指導をするものが。 貴方を指南役として召集すべきとの声も上がっております」
「このような老いぼれが。 かね?」
「戦を経験したメイジは貴重です。 ましてや貴方はプロフェッサーとも呼ぶべきお方。 プライドの高い魔法衛士隊の連中ですら、貴方には頭が下がるでしょう」
齢百を越える老練なるオスマンは、厳しい戦厄を数度にわたり堪え抜き、その果てに人を殺戮せざるを得ない境遇に遭遇していた。 こうして、"トリステインにこの人あり"という名声が鳴り響く以前、未熟でありながらも情熱に満ち、若気の至りながらも通常の貴族としての忠誠心や愛国心を胸に秘めていた彼は、戦争への志願を当然の如く果たし、厳しい戦況に立ち向かっていた。
古びた旗が揺れる戦場で刻み込まれた記憶は、今尚なお彼の眠りを嘆かせる。彼の精神と技術は熟達を極めつつあるが、かつて放たれた魔法が如何なる敵対国の兵士たちを灼き、凍らせ、切り刻み、最後には灰燼と化させたことへの後悔が、彼の内面に深く根を下ろしている。 これは長きにわたる領土戦争の如き過酷な光景であり、志願した仲間たちもまた、若き日のオスマンと歳を同じくして戦火に身を投じた。 彼らが迎えた死の瞬間の表情と声は、未だに若かった頃のオスマンの心に刻まれ、深い傷跡を残すのには十分だった。
戦争の嵐が過ぎ去った後、彼はそれに堪え切れず、更なる魔法の知識を求めるためと言って戦後の魔法衛士隊の職を辞し、孤高の旅路に身を投じた。
「私はあくまで枢機卿。 軍を直接的に動かすことは出来ません。 だから彼らのような存在は必要不可欠になる。 彼を明け渡してもらいたい」
「既にミス・ヴァリエールと契約を結んでおる。 儂が言ってどうこうなる問題ではない」
マザリーニはグラスを置き、しばし考え込んだ。 ラ・ヴァリエールと言えば王家に最も近い血族であり、夫人は貴族内でも大きな権力を持つ。 今のトリステインを支える主力の上級貴族と言っても差し支えない程、大きな影響力を持った存在なのだ。 故に、手荒な真似を働くわけにはいかない。 理不尽にもその使い魔を奪ったとすれば、娘可愛さに何をしでかすか分からない親でもある。 今、彼らの力を失う事は避けたい。
「王女は昔からヴァリエール嬢の顔見知りです。 今も恐らくは、昔話に興じている事でしょう。 頼まれれば、断れはしますまい」
「そこまで読んで?」
「身内と言えど、目を張り巡らせなければ生きてはいけないのですよ。 歴史上、国外の敵のみで滅びた国は存在しないのですから」
アンリエッタがルイズの部屋を訪れ、そしてマザリーニが密かに会合を行っていた少し後の事。 アンリは部屋より離れ、一人屋上にいた。 何やら昔話に花を咲かせていることを知り、下賤な者が居てはいけないとのことで、自発的に逃げてきたのだ。 かといって行く場所もなく、いつものように屋上へと来た彼は、剣の錆びを落していた。 部屋に放置していたデルフへの詫びの気持ちを込めて、表面を磨き上げていたのである。
「悪かったよ。 回収する時間もなかったんだ。 こんなに兵士が巡回するんじゃ振るってやる訳にもいかないしな」
王女は学院に数日滞在することになるらしいとの事を、アンリは使用人により聞いていた。 それに伴って王女に何かが起きれば警備の首が飛びかねない。 という訳で、学院を取り囲むように警備体制が敷かれている。 これで剣を持って外に出ようものなら、その場で殺されても文句は言えない。 かといって屋上で剣を振るうのもいけない。 従って磨くことくらいしかすることがないのだ。
いくら磨けど表面にこびりついた錆は落ちそうにない。 油を差すだけでは意味がないだろう。 かれこれ三十分経つが結局のところ何らかの進展は得られなかった。
アンリは道具を纏めて少し休息を取ろうとしたとき。 音もなく何者かが側に立っていることに、少年は気付くことが出来なかった。 記憶を失う前であれば警戒心を無暗に解くこともなかったのだろう。 しかし。 今現在の彼はそういった危険事とは程遠い立場であり、経験も一度しかなかった。
結局その誰かの存在に気が付いたのは、首を締め上げられる苦痛、そして呼吸が出来ぬ苦しさにより意識を刈り取られる寸前であった。 薄れゆく視界の中で必死にもがき眼前のデルフに剣を伸ばしはしたけれど、その何者かは剣を弾き、遂に気を失うまで武器を手にすることは無かった。
「まさか。 本当に国内に潜んでいるとは…正気か」
今しがた一人落とした人間。 オーベックは信じられぬと言った表情で呟いた。 彼――平民の装いで気を失った少年は元々同業者であった。 そんな少年はある日姿を眩ませた。 とはいってもこの界隈ではよくある事なのだ。
仕事に対する嫌悪感から逃れるためか、あるいは次は自分が標的にされるだろうと予感したのか。 仕事中に仲間を殺害して逃走する者や、国外での諜報活動中に機密情報を持ち出して亡命する者は古くより存在した。 しかし、このような行動に出る者は、制度上、裏切りを防ぐための監視者――家族を人質に取られた者や、もしくはその仕事を好いている者――が付けられる。 怪しい動きを見せれば即座に裏切り者と断定し、制裁としてその場で処罰されるか、再教育が施されるかが選択されることがほとんどであった。
そして、その少年に最後に与えられたのはガリアに近い場所での討伐任務だった。 多くの者が彼がそのまま国外に逃げるだろうと予想し、そのために鼻が利く猟犬であるオーベックもガリアに送り込まれもした。
しかし、驚くべきことに、裏切り者と見なされた少年はなぜか未だ国内に潜伏しており、なおかつこうした貴族の学び舎に身を寄せていた。 これはまったく理解しがたいことであり、オーベック自体が彼の正気を疑っていた。 そして彼の知る少年――レーンと名乗っていた刺客は、異様なほどに優れた耳を持ち、雨の中で歩く兵士たちの足音の数を正確に判別し、背後から飛んでくる矢を見事に叩き切るなど、簡単に接近を許す人間ではなかった。
「相棒! 起きろ! 殺されるぞ!」
――インテリジェンス・ソード? こんな短期間で二つも…
喧しく喚く剣を拾い上げると"それ"はよりうるさく金具を鳴らしたが、オーベックは鞘を固く固定し黙らせる。 この短い期間で知性を持った武具と見えるのは二度目であった。 一度目はガリアで、そして今度はトリステイン。 それも逃げた筈の少年が持っている。 知的探求心が旺盛であった彼にとって非常に興味深い物ではあったが、今はそんな事を考えている場合ではなかった。
オーベックがこうして学院を訪れ、そしてただの使用人を気絶させたのには理由がある。
学院を訪れ、ただの使用人を気絶させた理由は明確だった。 目の前で意識を失った"レーン"が本当に裏切ったのか、その真意を確かめるためだ。 もし彼が裏切り者であるならば、即座に処刑しなければならないし、何らかの理由があるのなら――酌量の余地がほとんどないとはいえ――彼の身柄を拘束して連れ帰る必要があった。
オーベックの見る限り。 逃げるという選択をしたのであれば辻褄が合わないし、国内で慎ましく生きるというのは正気の沙汰ではない。 ましてやここは温室育ちの貴族が通う学び舎なのである。 不審な人間を雇う事はせぬし、直ぐに王都へ報せが来るはずである。 結果こうして陰の者が動いているわけだから、そうなのだろう。
つまりは正気とは思えない"何か"が起こったのだ。 薄い紙切れ一枚の指令だったとしても、彼は真相を質す義務がある。 固く結ばれても尚、声を出そうとする剣に囁くように伝える。
「心配しなくても殺しはしない。 …もっとも、上がどう判断を下すかは知らんが」
如何なる事情があったにせよ、想定外の事態が起きたのなら一度王都に戻り報告をするべきだったのだ。 彼はそこまで愚かではない。 では、この事態を引き起こした原因とは一体何なのだろうか。
//
あの日。 己が両親の持つ領地よりよっぽど広いあの森の中で彼が教わったのは、如何に命という物が尊いかと云うことだった。
そして、カトレアと云う女性が如何に強い女性であるかと云うことを知った。
その森に位置する離宮は、茶を楽しむために建てられたものらしい。 離宮の下で、彼女は小鳥を優雅に愛撫していた。 その様子はまさに聖母のようで、母性に満ち、寛容で美しい。 小鳥もただ撫でられることで、従順に反応していた。
否。 その小鳥は既に生き絶えている。 老衰か、病気か、それとも外傷によるものか。 水メイジでも無ければ大した知識も持たないレーンには分からなかった。 そして彼女は、静かに語った。
「みんな、私がここに来ることを嫌うのよ。 何でかしらね」
遠くに控える侍女たちにその言葉が届いているのかどうかは不明だ。 しかし、彼女たちはここに行くと伝えられた瞬間、確かに表情を曇らせていた。
「動物達と触れ合うのはとても楽しいのに。 この子達は私に元気と勇気を与えてくれるもの」
どうせ死ぬのなら、あの窮屈な部屋ではなく外の世界で死にたい。 高熱を出し虚な意識のまま飛び出したカトレアは、この場所で遂に倒れたと云う。 そして、そのまま死んでしまうと思った時。 彼女の側にきて顔を撫でたのは、周囲に生息する動物達であった。
「あの時思ったのよ。 これだけ小さな子達が頑張って生きてるのに、私は諦めてなんかいられないって。 やっぱり姉妹ね。 姉さまとルイズに似て、負けず嫌いだったみたい」
彼女は少しおかしそうに笑った。 そして亡骸を、仲間の鳥達に返してやる。
「ここに来る時、いつも何かしらの動物が亡くなっているの。 だからみんな、私を死に引き合わせたくないのかもしれないわ」
彼女は強い女性だ。 しかし同時に、どこか触れてしまえば崩れ落ちてしまう脆弱さを持っている。 もし、動物達の死に触発されて自害でもしてしまったのなら。 侍女も姉妹も、両親も。 それ故に彼女をこの森から遠ざけているのかもしれなかった。 彼女が死んでしまったのなら。 きっと自分は酷く狼狽える事はしないだろう。 何故なら逢ったばかりなのだ。 公爵家という遠く及ばぬ立場でありながら傷の手当てをしてくれて、そしてレーンを認めてくれたカトレア。
とても善い人だ。 優しい人だ。 かけがえのない人なのだ。 でも、結局はそれだけなのだ。 死ぬべき人ではない。 しかし、死んでしまったら悲しみはすれど、塞ぎ込むことは無いだろう。
「でも最近、悪いことばかりじゃないわ。 ルイズは十になったし、私の体も調子がいいの。 きっとこの子達が力を分けてくれたのね」
動物たちに優しげな視線を向ける彼女。 しかしその言葉とは裏腹に、どこか表情は浮かばない。
それもそのはず。 彼女誰よりも家族を愛している。 だからあの祝福の場に誰よりも居たかったはずなのだ。 招待された貴族達より、そしてレーンより。 あの場でルイズを抱き上げて愛情を注げたのなら。 彼女はきっと気を落すこともなかったのだろう。 それが出来ていたなら、どこの馬の骨とも知れない、貧乏貴族とこうして散歩をすることもなく、あの輝かしい空間で談笑していたに違いない。 一度それを想像してしまえば、彼女を憐憫に思う気持ちが裡より溢れ出てしまいそうになった。
しかし、彼女はそうした結末を望んでいないだろう。 例え死に際にあっても、彼女は最愛の家族に囲まれて静かに逝くことができれば、それが幸福であると感じているのだ。 笑顔で見送ってほしいという彼女の望みは、その強靭な精神からくるものだろう。 まだ十二歳のレーンにとって、死への感情は恐ろしく冷淡なものであり、彼女のその望みを十分に理解できていない部分もあるが、それでも彼女の勇気には敬意を表さざるを得ない。 過去に読んだ物語においても、誰しもが死ぬことを望まず、最期には残された者たちへの惜別の言葉を残す。 その際、「死にたくない」という言葉を抱え込むことのできる人間が、果たしてどれだけいるのだろうか。 想い残された人々を思いやりながら別れを告げることができる人間が、果たしてどれだけいるのだろうか。
少なくともレーンには出来ないだろう。 這いつくばって、惨めに喚き散らして。 それでも無様に命乞いをしてしまうかもしれない。
『命を惜しまず名を惜しめ』
幼少よりそう教えてきた父と母。 強き姉と、賢い兄も死の間際、きっとそれを破ることは無いのだろう。 カトレアの価値観とは全くもって逆であるが、その芯の強さはそれに負けていなかった。
だからこそ。 レーンは彼女に対する憐れみではなく、尊敬と憧憬の念を抱いたのだ。
きっとそれは。 彼にとっての初恋であったに違いない。
//
彼は目を覚ますと、見覚えのあるようでないような、赤茶に煤けた天井が目に飛び込んできた。 寝て休息をとるためだけの、少し前に宛がわれた部屋の中だ。 部屋は必要最低限の道具と衣服しかなく、生活感はほとんど感じられない。人がいなければ、この場所は空き家と間違われてしまうだろう。
レーンは体を起こすと、違和感の正体を理解した。普段とは異なり、ベッドに背を預ける体勢ではなく、仰向けに眠っている。 これまでほとんどなかった光景だ。最初に視界に入るのは本棚で、それが天井ではないことに違和感を感じた。見覚えはあるものの、直ぐに思い出せなかったのだ。 そして、自分の体にはどこか違和感があり、齟齬のある記憶が頭をかすめた。 寝起きの頭は混濁しており、立ち上がると姿勢を崩し、机ごと倒れこんでしまう。
水差しが割れ、ズボンに染みが広がっていく。
「…なんで今ここに」
かすかに覚える、あるいは全くの無意識のままに外での使命を果たしていた筈だった。 対象を暗殺し、任務を完了しようとしたその後の記憶は、記憶の海に消えてしまっている。 身に纏った衣服は不明瞭で、貴族の使用人に変装しているような様相を呈していたが、その出自や目的は完全に記憶の底に埋もれてしまっている。 変わり果てた現状においても、新たな飼い主に従属していることを感じ取っていたが、その関係性に疑念を抱くほどの記憶は薄れてしまっている。
「派手な目覚めだな」
木製の扉がキィと軋む音を響かせながら、部屋に一人の男が姿を現した。 右手には何かしらの袋を握りしめ、物騒なナイフが光を帯びていた。 あまり要領を得ていない様子のレーンを一旁に置き去りにし、男はもう一つの机に袋を不器用に放り投げる。
「飯だ。 一先ず食えよ。 直ぐに出るぞ」
「きっと説明してはもらえないんでしょうね」
「紙切れ一枚で全部分かるものかよ」
前後の記憶はあいまいだが、オーベックという男については理解している。 飯を寄越して見せた彼は乾いた笑みを浮かべ、羊皮紙を手渡してきた。その紙には差出人も宛先も書かれていなかった。 しかし、レーンも理解していた。 いつものように仕事が舞い込んできたのだ。
異変があるとすれば、死体の処理を主としていたオーベックがここにいることと、自身の記憶が曖昧であることだ。 彼らが引き受ける仕事では、実行者と後処理担当者は基本的に接触しない。 お互いに最低限の情報を与えられ、捕虜とされた際に万が一を避けるための措置だ。
彼の皮肉に同調しながら、レーンは食事を始めた。 そして、指令書を確認すると、自身の名前はあるが、彼のの名前はどこにも見当たらなかった。 レーンは尋ねた。
「あなたの名前が無いようですけど。 この後は?」
紙には、単にトリステインの特定の場所で合流するよう指示されていた。 その後はアルビオンに向かうようにと。 つまりは現地の者に指示を仰いで行動しろという事なのだろう。 これまでの彼の仕事とは異なり、前例のない特異な事例であった。
「別行動だ。 手筈通りならアルビオンで合流らしいが…上はどうも、俺たちを殺したいらしい」
「まさか、王党派に付いて敵を殲滅しろなんて指令、下すわけじゃないでしょうね」
「殺し屋風情が敵に囲まれてどう戦えというのだ。 一対一で戦ってくれる騎士道精神があるなら、こんなに追い込まれちゃいないさ」
少し前の報せによれば。 アルビオンの王党派は千人を切る勢力しか有していない一方で、レコン・キスタは万単位で数を誇っているとのこと。 この格差はあきらかで、歴戦のメイジたちであっても、数の優劣は致命的な影響を与える。 単独で一人を討っても、多勢に無勢になるのは時間の問題だ。 辱めを受けるくらいなら、自決する方が尊厳があるとも言えるだろう。
レーンはそんな事を思っていると、
「馬を用意してある。 任務は明日の明朝開始だ。 お前は今より魔法学院へ急げ」
オーベックはこれ以上何も伝えず、ドアの向こうに姿を消した。 その足取りから察するに、彼もまた時間が迫っていたのだろう。 それに倣い、レーンも異変に疑念を抱くことなく支度を始めた。 通常であれば、ここ一か月の記憶が曖昧である以上、こんな状況に対して疑念を抱かずにいられるはずはない。 だが、彼が知っている過去では、どんなことがあってもあり得る場所であるという確信があった。
従って、ゴミをまとめていたレーンもまた、薄汚れたボロ布のローブを身にまとった。 武具を取り付けるための金具がびっしりと配置され、いつものように腰袋などを装着していった。
クローゼットの傍らに佇む大剣を見つめ、レーンはようやくその存在を思い出す。 記憶を辿れば、彼はその剣を携えていたはずだった。 絞め上げられた縄をほどくと、剣は畳みかけるように声を発した。
「一時は殺されると思ったが、とにかく無事でよかったねぇ。 それであいつは、あの陰鬱な男は誰なんだい?」
「ご同業だよ。 何でも行方知れずだった僕を連れ戻しに来たらしい」
「同じ人斬りでも、傭兵じゃなくて殺し屋だったとはねぇ。 ま、俺は振るってくれればなんでもいいんだがね」
「嫌でも振るう事になるだろうね。 これから行くのは戦場だって話だ」
デルフを背中に背負い、抜ける位置に微調整する。 そして手ごろな剣を一本手に取り、腰に差し込む。 続いて短刀を数本を鞘に収め、逆腰に装備する。 これで彼の準備はほぼ整った。
丁寧に包まれた杖を見つけると、それを手際よく左手の手甲の裏に差し込む。 魔法を使うには利き手である必要もなければ、唱えるための装飾的な動作も不要だ。 右手で剣を振りながら、左手の中に忍ばせた杖を活用できれば、それで十分なのだ。
魔法が掛けられていないことを軽く確認すると、レーンは部屋の扉の鍵を閉め、夜の街に姿を現した。目深くフードを頭にかぶり、姿をうまく隠して街を進む。
時刻は既に深夜。チクドンネの裏通りから更に陰に潜む隠れ家から出て、レーンは少し離れた森で木に繋がれた馬を見つける。 馬を数回撫でつけた後、背に乗り、駆けだした。 トリスタニアから魔法学院までは馬で四時間の距離。 寝ずに馬を駆使すれば、明朝までには目的地に到達できるだろう。
この長時間の移動は都合が良い。なぜなら、彼は今後の身の振り方を考慮する必要があったからだ。
//
朝もやが微かに立ち込め、厩で馬の鞍を整える様子が広がる中、そこにはルイズとギーシュの姿も混じっていた。 普段の制服に加え、乗馬用の靴を履いた彼らの準備は、まるで長く厳しい旅路が待ち受けているかのような雰囲気を醸し出していた。
果たしてどれほどの長丁場になるのか。 もともと体力に自信のないギーシュは、そのことを聞くことができなかった。 それでも彼は王女の前でグラモン家の名を出した以上、引き返すことは許されなかった。 そうでなければ、生涯を通じて臆病者と罵られ、肩身の狭い思いをすることになるだろう。 貴族にとってはそれは到底我慢できぬことである。
こうして馬での旅になったのは、昨日のアンリエッタ王女の語った事が発端であった。 ルイズの幼いころからの友人であり、遊び相手であったアンリエッタは、ゲルマニア皇帝との婚礼を控えながらも、最大の問題を抱えていた。
アルビオン王家の王子であるウェールズ・テューダーはアンリエッタと従兄弟の関係にあり、彼らは深い絆で結ばれていた。 しかし、アンリエッタはゲルマニアとの同盟を揺るがしかねない手紙を送ってしまったのだ。 その話を聞いたルイズは友情と忠誠の心で、アンリエッタの助けになりたいと即座に了承した。 アルビオンが戦乱の渦中にあることを知りつつも、忠誠が勝ったのだ。 そしてその話を隠れて聞いていたギーシュも、美しき王女の訴えに心動かされ、彼女に同行することを決意した。
もしこの場に理性的な第三者がいれば、おそらく引き留めるであろう。子供が戦地に身を置くなど無謀きわまりない行為だ。 しかし、その場にいるべきアンリが不在だった。 主人を諫めるべき彼は、幸か不幸か姿の見えぬままである。
「なあルイズ。 彼は…アンリ君は置いて行ってしまうのかい?」
霧に包まれ、気分がどんよりと重い中、ギーシュは何か気晴らしを試みるものの、それが偶発的にルイズの感情に触れてしまったようだ。 彼は女性慣れしており、彼女がますます機嫌を損ねていくのを敏感に感じ取っていた。
「別に。 放って置いていいわよ。 そもそもあれだけ大事な場面で居なかったのはあいつじゃない。 朝になっても何処にもいないし」
「それはまあそうなんだけれど…彼はあれで、中々に役に立ちそうじゃないか」
「あいつに負けたあんたよりかは、腕も立つようだしね」
「…その事は掘り返さないでおくれ」
決闘の一件については、既に本人とシエスタに対する謝罪は行っていた。 しかし、今となっては自身の行動がどれほど情けなく、愚かであったかを理解しており、それを指摘されれば何も言い返せない。 頭が上がらないのである。
余計に重くなった空気に影響され、自分の行いに悔いを感じたギーシュは、自身の使い魔であるジャイアントモールを抱きしめながら、地面に座り込んでしまった。 その様子はなんとも言えない情けなさを帯びている。 更に、これからの行き先には連れていけない事を知らされて、彼は涙を流しながら頬ずりを始めた。
しかし、なにやら好物を鼻で嗅ぎ分けたのか、ジャイアントモールのヴェルダンデはギーシュを押しのけ、準備していたルイズを押し倒すとあちこちを嗅ぎ始めた。
「ちょ、ちょっと! あんたの使い魔、どうかしてよ!」
服を乱された彼女は慌てて抵抗を始めたが、中々に体の大きいモグラはそう簡単に剥がれない。 のたうち回り服を汚す様を見たギーシュは少し頬を赤らめた。 スカートの内が少し、見えていたのだ。
「ヴェルダンデは番に君を選んだのかもしれない」
「馬鹿言ってないで! 蹴っ飛ばすわよ!」
モグラはルイズの上半身、それも指先に鼻を押し付け、宝石のついた指輪にぴったりと張り付いた。 ギーシュは納得がいったかのように数度頷いて、
「なるほど。 ヴェルダンデは宝石が好きだからね。 きっと僕の為に見つけてくれたのだな」
「姫様から頂いた指輪になんて無礼な! 早くどかしなさい!」
ルイズがそう叫んで、ギーシュもそろそろどくように促そうとしたとき。
深いもやを切り裂いた風が、ルイズにまとわりつくモグラを吹き飛ばした。
「だ、誰だ! 僕のヴェルダンデを!」
自身の半身とも呼べる友が攻撃を受けて、激昂したギーシュは喚き杖を抜いた。
風の向こうには、一人の長身の何者かが立っている。 羽帽子を被った貴族。
「無礼な!」
驕ったギーシュは薔薇の杖を振るうものの、得意の人形が出現するよりも先に、杖そのものが吹き飛ばされてしまった。 手の内より排除したのは勿論、見合った貴族である。
「僕は敵じゃない。 枢機卿…いや、とある御方から君たちの旅路の同行を命じられている。 これから戦場へ行くというのに、やはり学生だけというのでは危ないからね。 しかし密命という事で大々的に動くわけにもいかぬ。 そこで僕が指名されたという事だ」
その男は帽子を取ると一礼をした。 よく躾けられていて、様になっている。
「トリステイン魔法衛士隊、グリフォン隊隊長、ワルド子爵だ」
ギーシュは躍起になっていたが、相手が魔法衛士隊に所属していることを知ると、彼の気迫は一気に萎えてしまった。 魔法衛士隊といえば、トリステインの貴族たち全てが憧れを抱く存在だ。 ギーシュもまた例外ではない。
「手荒な真似をしてしまったね。 婚約者が襲われているというので、つい急いでしまったのだ」
ギーシュは言葉を耳にし、隣のルイズを見つめた。 先ほどまでの不機嫌な表情はどこかへ消え去り、彼女は恥じらいながらも顔をうつむけ、その赤みを隠そうとしている。 これまでの学院生活で、こんな様子の彼女を見たことはなかった。
「ワ、ワルドさま…」
「久しぶりだね! ルイズ! 僕のルイズ!」
笑顔で駆け寄ったワルドはその勢いのままルイズを抱き上げた。 頬を染めたままのルイズは少し恥ずかしそうにしている。
「お久しぶりです。 あの、友人の前ですので…」
「ああ、少し興奮しすぎてしまった。 許してほしい。 それにしても、相も変わらず羽のように軽いね、君は」
賛辞ともとれる言葉を送った後で、ワルドはようやくルイズを下した。 そしてギーシュと向き合った後で、
「失礼ながら、名前をお聞かせ願えないか」
「ギーシュ・ド・グラモンです。 ワルド子爵」
「グラモンというと、元帥閣下の?」
「息子であります」
「それは、失礼を働いてしまった」
ワルドは再び帽子を取り、丁寧に礼をした。 その後、彼は周囲を見渡した。 学生たちもその様子に倣うが、何も見当たらない様子だった。
「ふむ。 君の使い魔は見えない様だけれど…人間だというので少し期待していたのだが」
「知りません。 あんな奴」
吐き捨てるように言ったが、ワルドの返答は予想しているものではなかった。
「ならば、彼は招かれざる客という訳かな」
腰の杖に手をかけたワルドは、濃霧の向こう側を見つめた。 先程までの穏やかな表情ではなく、警戒心と殺気を含んだものである――を向けて、問いかけた。
「姿を現したまえ。 出なければ敵とみなし、僕の風が君を切り裂くぞ」
二人が気付けなかった視線に、彼は気付いていたのだ。 慌てた二人も杖を抜き、彼と同じ方向に向けて息を飲む。
少しして、ようやく馬の蹄が地面を叩く音が聞こえてくる。 そして、手綱を握りながらこちらへ来る人影が。 いつの間にかルイズの手は震えていた。 察したワルドが一歩前に出る。
「僕の後ろに」
頷いて、ルイズは彼を盾にするように下がる。 そして遂に、その人影は止まった。
「名乗りたまえ。 僕は魔法衛士隊所属のワルド子爵だ」
息を飲み、ルイズとギーシュはそのやり取りを見守った。 その人影は深くかぶったフードを取り、抵抗の意思がない事を示す為か、膝をついた。
「アンリと申します。 ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール様に仕えさせていただいている、使い魔であります」
//