空手道場もといヤマブキジムの朝は早い。
夜明けと同時に雨戸を開き、道場の掃除に取り掛かる。
水道は使わない。鍛錬のためにわざわざ残してある井戸から水を汲み、骨まで凍えそうな水に雑巾を浸して何度も何度も往復するのだ。
鍛錬の汗と水をたっぷり吸い込んだ木目は艶々と光り、磨くうちに自分の顔まで見えるようになる。
同じ要領で廊下や奥の間も磨きあげる。
空手大王と師範代のイサミさんはここで寝起きしているらしい。2人の私室は放っといていいそうなので、それ以外の部屋全てが清掃区域だ。
掃除を終える頃には2時間が経ち、みんな汗みずくになっている。
井戸水を豪快に浴びたのち、軽いランニングとストレッチを行うのだ。
格闘技は柔軟性がないとケガをする危険性が高まるから、みんな筋肉ムキムキの見た目とは裏腹に例外なく体が柔らかかった。
「ほらほらアシタバ! 息を吐け息を!」
「長座体前屈がコの字だぞ! せめて脛を握らんかい!」
「ぷふーっ! ふぶーっ!」
やんややんやと野次られながら、顔を真っ赤にしてストレッチを終えると、ようやく朝ごはんの時間だ。
炊きたての白米に味噌汁、たくあん、玉子焼きの質素な献立だが、これが涙が出るほど美味い。
ちなみに料理は当番制である。
今朝の担当はケンさんだ。
師範の方針で玉子焼きは甘い味と決められているそうだが、ケンさんはいつも砂糖を入れすぎ、表面を焦がしてしまう。
「すまん! 焦がした!」
「またか!」
「いつもじゃねえか!」
みんな笑いながら、それでも綺麗に平らげる。
勿論俺もだ。
多少焦げてようが、貴重なたんぱく質なのだから。
食事を終え、皿洗いを済ませたらいよいよ稽古だ。
午前いっぱいは人間同士の組手を行い、午後からポケモンバトルの時間となる。
格闘技ド素人の俺を指導してくれるのは、師範代のイサミさんと彼の相棒のアサナンだった。
「このアサナンは師範より譲り受けた個体でしてね。
まだまだ修練が足りていませんが、あなたの兄弟子としていい手本になるでしょう」
イサミさんはどんなときも、静かに流れる大河のようにゆったりとした口調を崩さない。
彼との組手は、どんどん自分の体の動かし方が分かっていくのが楽しかった。
〇〇〇
午後は、道場の壁を背にして座り、1vs1のシングルバトルを見学する。
最初のふたりは師範代が選び、勝者は次の相手に挑戦できる勝ち抜け方式だ。
5人に勝てば師範代と戦う権利を得られるが、俺がこのジムで寝泊まりするようになってから2週間、ただの一度もイサミさんが負けるのを見たことがない。
彼の強さは群を抜いていた。
攻められれば柳に風と受け流し、無駄のない足さばきで相手を翻弄する術に長けている。
相手が疲弊し、集中が途切れた瞬間を狙って攻撃を繰り出すのだ。
護りは堅牢、攻めは苛烈。
格闘ポケモンの真髄を見た気がした。
俺は周りから駆けだしトレーナーだと勘違いされているので、ヌメラとオーガポンの2体だけを、1日おきに鍛錬に参加させている。
ダブルバトルだったら絶対選ばない組み合わせだ。
頭上のルギアはまだ小鳥だから戦わせられないと言ってごまかした。嘘じゃない。半分は。
イサミさんは、この勝ち抜けバトルだけはやらせてくれなかったけど、ヌメラとオーガポンにも手厚い指導を与えてくれた。
最初は不安だった。
ヌメラは
案の定、最初はイサミさんに反抗的な態度を示した。
けれど師範代は決して感情的になることなく、あくまで優しく諭したのである。
「
だけど、いいのかい?
同じように彼を愛しているオーガポンのステラくんは、僕の指導でどんどん強くなっているよ」
「ぬっ!?」
額の触手がぴくりと揺れる。
犬猿の仲たるオーガポンが自分の先を行っていると言われ、ヌメラは激昂した。
ぬえぬえ喚く龍の子を片手で制しながら、
「どうする? 恋敵と同じ高みに……いや、それより上の次元へ昇りたくはないか?
弱いままでいいなら好きにするといいけど……」
そう、最後に
以来、イサミさんの教えを素直に聞き、退屈な基礎練習もきちんと繰り返している。
その結果。
ヌメラはこれまで力任せに叩きつけるだけだったパワーウィップを、相手の関節に巻きつけ、締め上げて、行動不能にすることもできるようになった。
いわゆるサブミッションである。
相手からすれば、殴ってくるのが縛り上げてくるのか寸前まで分からない悪魔的二択を迫られるに等しい。
これに毒や粘液攻撃を組み合わせれば、さぞかし凶悪無比なコンボになるだろう。
俺は感心し、感動した。
ワガママ放題のヌメラを、この短時間で手懐けるなんて。こういう教え方もあるのだと、格闘技とは別のところで勉強になった。
オーガポンだって負けちゃいない。
かつてはむやみやたらに振り回していた棍棒を無駄なく捌く手法と、蹴りを主体とした体術を身につけ、近接戦闘力が格段に向上した。
さらに新技も獲得したことで、物理アタッカー……特に格闘タイプに強く押し出せるようになったのである。
カブトプスを始め、闘弱点が多い俺のパーティを完璧に補完してくれるポケモンになった。
(ああ、早く勝ち抜き戦やりてえなあ)
いまのヌメラとオーガポンがどこまで強くなったか知りたい。
そんな気持ちを見抜いたかのように、師範代は俺の名を呼んだ。
「アシタバさん。そしてケンさん。
本日は、客分のあなた方が当ジムの稽古で何を学んだのか、見せていただけますか?」
俺とケンさんが、勝ち抜き戦の最初のふたりに選ばれたのだ。顔を見合せ、同時に立ち上がった。
〇〇〇
道場の中央で向かい合う。
イサミさんがするりと片手を挙げた。
「1vs1の1本勝負。────はじめ」
「いけっ、
「ぶちかませオコリザル!」
強面の猿が拳を打ち鳴らし、オーガポンを睨めつけた。
典型的な威嚇行為である。
だが生憎、うちの鬼姫は負けん気が強い。
威嚇されて怯むどころか、むしろ戦意が上がっていた。
「ぽにぃ」
オーガポンが不敵に笑い、得物を肩に載せた。
いつでもかかってこいという
望み通り、オコリザルが先制した!
床を踏みつけ、オーガポン目掛けて突進する。
そのまま強烈なパンチを見舞った!
殴られた小鬼はたたらを踏み……ふつりと
残像──否、身代わりである。
剛拳をすかされたオコリザルが瞠目した。
「ぽーにおっ」
明るく可憐な声が、
身代わりを目くらましにして素早く床に這いつくばり、死角の顎下に潜り込んだ本体が発する声だと、気づいた時にはもう遅い。
がら空きの顎めがけて、オーガポンが蹴り上げる。
相手の
「な……」
ケンさんも、周囲で見ていた門下生たちも絶句した。
よもや、一撃とは。
動揺が四囲を駆け巡る。
「あれが初心者のポケモンか……?」
「身代わりの発動が速すぎて見えなかったぞ」
「ケンのオコリザルは弱くない。
それをああも易々と……」
「何者だ」
(…………まずい)
さすがにこれで初心者は無理がありすぎたか。
師範代すら若干困惑しているのが分かる。
でもいまさら撤回するのもなあ。
慌てふためく俺に救いの手を差し伸べてくれたのは他でもない、ケンさんその人だった。
「まさか初手カウンターとは!
いやあ強かった! 完敗だ!」
オコリザルに傷薬を塗布してやりながら、ケンさんが俺を見つめた。彼の瞳は、きらきらと輝いている。
「君が毎日特訓をしていたのは知っている。
その成果が今日、存分に出たな!
素晴らしい蹴りだった!」
虚勢ではない、本心からの言葉だと、魂で理解出来たとき。俺は、彼の懐のデカさに脱帽した。
肉体を見ればわかる。
彼がどれだけの時間を鍛錬に費やしたか。
相棒のオコリザルがマンキーの頃から、朝も夜も夏も冬も、一緒に頑張ってきたんだろう。
普通なら、負けた直後は悔しくて堪らないだろうに。
一瞬で気持ちを切り替えて対戦相手を讃える。
誰でも出来ることじゃない。
尊敬の念が、胸を熱くした。
「悔しいが、負けは負けだ!
私とオコリザルはこれからもっと強くなってみせるぞ! その時はまた、よろしくな!」
「は、はい! よろしくお願いします!」
ごち、と拳を合わせあう。
こういうトレーナーになりたいと、心底憧れた。
次はオレが、いやおれがと門下生たちが名乗りをあげる中、聞き慣れない間延びした声が割りこんできた。
「ほいじゃあ、次はおれとやろうやぁ」
「師範……!?」
滅多に感情を表に出さないイサミ師範代が、目を丸く見開く。
一体いつ入ってきたのか、全身こんがり日に焼けた褐色肌の男が、門下生の中にしれっと混じっていたのだ。
背丈はさほど高くないが、がっちりした肩幅と頑丈そうな四角い顎が、偉丈夫の風格を漂わせていた。
彼こそが、ヤマブキジムジムリーダーにして空手大王の異名を持つ、リュウ師範だった。
たったいま武者修行から帰ってきたところらしい。
(師範代すら気づかないレベルで気配を消せるのかよ)
それだけで、只者でないことがわかる。
落ち着きを取り戻したイサミさんが溜息をついた。
「まったく……相も変わらず神出鬼没ですね」
「げっへへ。なんだよ気づいてて知らんぷりしてたんじゃなかったのかよお」
リュウ師範は笑いながら、俺とケンさんにじっと目を据えた。冴え冴えと光る眼差しに、意識するでもなく背筋が伸びる。
「ふん……見どころのある奴らじゃねえの。
お前ら、名は?」
「アシタバです」
「ケンです! お噂はかねがね!」
ボサボサに伸びた眉がぴくりと跳ねた。
「ケン……? お前さん《グレンの空手王》か。
3年連続優勝の」
「──!
私のような若輩者をご存知とは……!」
ケンさんが感激に瞳を潤ませた。
後で知ったことだが、グレン島というのは昔から空手が盛んで、年に一度開かれる大会に優勝することは大変な名誉なのだそうだ。
優勝者は空手王の称号を授与されるが、ケンさんはそこで3年連続優勝し続け、殿堂入り*1してしまったから、空手大王と畏れられるリュウさんに稽古をつけてもらいに来たと語った。
師範がふふんと鼻を鳴らす。
「それに勝ったか……見たとこ格闘のかの字も知らねえあんちゃんとそのポケモンっ子が、よ」
「ぽに?」
話に飽きて俺に抱きついていたオーガポンが目をぱちぱちさせる。
次の瞬間、場の空気がびりっと震えた。
師範から噴き上がった凄まじい闘気によるものだ。
「楽しめそうだ。なぁ?」
オーガポンが俺を庇うように立ち、棍棒を構えた。
リュウ師範は立ち上がるや、獰猛な笑みと共にボールを投げ──ようとして、師範代のイサミさんに止められた。
「師範。彼はポケモンを育て始めたばかりの初心者、あなたと戦うには力量が足りなさ過ぎます。
勝負にならないでしょう。
彼がいくつかジムを制覇してきてからでも遅くはないのではありませんか。
それに、道場に入る前に、まずは身を清めてきていただきたい。率直に申し上げて、ひどく臭います」
「大丈夫だってほんのちょっとやるだけ」
「師範」
「…………わーったよぉ」
イサミさんの有無を言わさぬ態度に、師範は渋々道場を出ていった。
途端、張り詰めていた空気が緩む。
「……あのひと、めっちゃ強いな」
独り言のつもりだったが、オーガポンは真顔で頷いた。
というわけで82話。
ずっとオリキャラが出張ってて申し訳ない。
どうしてもリュウとケンって名前使いたかったんや……
元ネタはもちろんアレです。
みなさん格闘ポケモンは何がお好きですか。
作者はなんやかんやでサワムラーかなあ。
エンブオーも捨てがたい!
よければ感想高評価おなしゃ!