ハジマリ
―――見渡す限り、荒れた平地があった。
草木が生えてはいるものの所々枯れており、道路なども見られるが手入れされている様子は全くない。
気がつけば、そんな場所に一人倒れていた。
覚醒し始めた意識を鮮明にしようと体を起こして頭を振り、現状を察したのか大きく溜息を吐いた。
「頭が痛い話だよ。ミイラ取りがミイラになるとは、まさにこの事だね」
固い地面の上で寝ていたからか、所々体が痛い。体を伸ばせば背中からボキボキと音が鳴る。一呼吸置いて服に着いた土を払い落とし、辺りを見回す。
枯れかけの木や道はあるものの、人が居た。通ったと思しき痕跡は見当たらず。少しではあるが霧が出ている。
自分以外の誰も居ない世界に、表しようのない不安感、孤独感を感じる。
しかし、今行動しない理由にはならない。頬を両手で挟むように叩き、自身を鼓舞する。きっとここには行方不明者達がいるはずだ。正気のまま生きているのだとしたら。助けを待っているのだとしたら。探しにきた自分が動かずに誰が動くのか。
地図はない。ここが何処で、どの辺りにいるのかはわからない。だが、わからないとしても手掛かりを探すしかない。
同じ場所をぐるぐる回るのは嫌なので、地面に都合よく転がっていたいくつかの石を砕けたアスファルトの上に横一列に並べる。何かがあれば、この石の列は崩れているだろうし。自分の元いた場所が少しは把握できるようになるかもしれない。
幸いなことに、霧はまだ濃くない。そして日もまだ高い位置にある。少しは探索する時間がありそうだ。
道路に沿って移動しつつ、手頃なサイズの石があれば拾い集める。
空には雲がかかり、一帯の雰囲気は暗いままだが慣れた道を散歩しているような気分だ。以前に似たような道を通ったことがあるんだろうか?
(妙に既視感のある場所だ。私が生きてきた二十六年間の内に体験したどんな経験よりも意味不明。理解の及ばない事象に遭遇していると言うのに、軽く歩き探索してみれば案外そうでもない。何処か覚えのある風景だ)
しかし、何処で見たかわからない。記憶に残っていない景色。
たまにある歪んだ標識も、砕けたアスファルトの道も全てに覚えがある。思い出そうにも記憶に何か靄がかかっている様な違和感と、脳をぐちゃぐちゃにかき混ぜられる様な不快感に襲われる。
(思い出せない。いや、
襲って来た吐き気や頭痛を堪えて前に進む。一歩踏み出したその時、忌避感のある臭いが風に乗ってやって来た。
前の職場で何度か嗅いだことのある。鉄の様な臭いに顔を顰め、拾っておいてある石ころを手に持つ。この臭いは知っている。考えるまでもない。―――血の匂いだ。それもそこまで時間のたっていない。
大きな野獣が居るのか。それとも、生き物を襲うナニカが居るのか。
下手な行動はできない。
辺りを警戒しながら少しずつ後ろに下がる。
現状を知り、行方不明者達を探し出すには生きることが大切だ。危険だとわかっている場所にわざわざ行く必要はない。
来た道を引き返して元いた場所付近まで下がる。しかし、元いた場所には大きな何かが居た。
遠目に見てもわかるほど大きい。
上向きに歪曲しながら伸びる大きな牙に、遠目に見ても巨大だと分かる体躯。正直、あんな物に襲われたら生き残れる自信はない。
見ているだけでも強い威圧感を放つソレは、こちらを見て鼻息を荒くしている。
「規格外過ぎじゃあ、ありませんかねえ」
ソレとの距離は、わずか十メートル。
体長三メートル弱の巨大なイノシシが、こちらを見て鼻息を荒くしている。目は血走り、いつ襲いかかってくるかわからない。
「異種格闘どころか、異種族格闘なんてやったことないんだけど」
そんな独り言をぼやきながら、対応できるかはわからないが構えを取る。武道というのは、獣相手ではなく人間が相手であると想定しての動きが多く。獣相手には自力が違う分あまり有効打にはならない。
普通の獣相手であっても厳しいというのに、目の前にいる規格外サイズのイノシシが相手だ。かなりの体重差があることは明白。焼石に水どころか、活火山で沸き立つ溶岩に氷一つ投げ入れるぐらい意味のない事だろう。
「フゴッフゴッ!」
「――っ! ぐっ!」
イノシシは四肢に力を入れ、一直線に走ってくる。咄嗟に両腕で急所を守りつつ斜め後方へ飛ぶ。
イノシシがぶつかると同時にかなり強い衝撃が体を突き抜け、腕からゴキッ!と嫌な音が鳴り、そのまま弾き飛ばされた。
吹き飛ばされた後、背中から着地して転がりながら距離を取りつつ体制を整える。
胸部を守っていた左腕に目をやる。だらりと力なく垂れ下がり、詳しく見なくても動かしてはいけないことが分かる。
(左腕はもう使えなさそうだ。かろうじて受けはしたから呼吸までは持っていかれなかったが、次にあれをいなせないのは確かだ)
おそらく骨が折れてるだろう。じわりじわりと痛みを感じ始めるが、それを気にするほどの余裕はない。
突進を避けられる範囲にはいない。確実にイノシシの方が早く動き、こちらはそれに対応しなければいけない。
そして、イノシシが大き過ぎるために通常の個体よりも牙の位置が高く、彼女の胸のあたりにある。イノシシ特有の突き上げが直撃してしまえば、いくら頑丈な服を着ているとはいえ致命傷は免れない。
非常に興奮しているイノシシ相手にできることなどない。抵抗すれば逆上して余計に手がつけられなくなるし、逃げようにも時速四十キロで三メートル弱の推定体重四百キロの巨体が追いかけてくる。逃げられる気がしない。
近くにイノシシから逃れられそうな高台はないし、気を逸らそうにも石ころでは数秒の延命がやっとだろう。
「シュー、シュー」
イノシシの興奮状態が少し治ったようだ。威嚇音を鳴らし始めた。運はこちらの味方をしてくれたようだ。
向き合ったまま、背中を見せないようにゆっくりと後ずさる。刺激してはいけない。確実に2度目は耐えられない。額から冷や汗を流し、後方の安全確認をしながらその場から離れる。
追いかけてくる様子はない。こちらを睨み、敵意がないことを悟るとどこかへと去って行った。
「―――ふぅー。生き残った」
視界からイノシシが居なくなり、安心したためか体の力が抜け、倒れ込んでしまう。イノシシが居なくなったというだけで、現状を把握できていない事は全く変わらない。変わらないのだが、このまま立ち上がって移動する気力はない。
アオォォオオーン!
割と近くで遠吠えが聞こえた。野犬がいるらしい。
「……はあ。目覚めて早々終わりだな。詰みだ、詰み」
こちらに向かっくる複数の足音が聞こえるような気がする。狙ったようなタイミングだ。やはり、こんなところにいる時点で運など味方してくれてはいないんだろう。
少し遠くの坂上から野犬達がこちらを見下ろす。いや、まだ遠目に見えるそれは野犬よりも大きい。
「オオカミか。日本にはもういないはずなんだがな」
オオカミ。日本の固有種であるニホンオオカミは既に絶滅している。オオカミが、ましてや野生のオオカミが居るはずがないのだ。
(さすがは神隠し。もはやなんでもありなんだな)
オオカミ達が涎をを垂らし、彼女を取り囲みながら忍び寄る。逃げる気力はない。それに、逃げ切れる自信もない。
オォォオン! 一匹の合図と思しき鳴き声と共に襲いかかってくる。
一匹が足に噛みつき、一匹が腕に、また一匹が腹に噛み付く。着ている服のおかげか、牙は肌に届いていないようだが飢えた猛獣の顎の力を舐めてはいけない。
ベキゴキャッ!
腕を噛み砕かれた。
不思議と痛みは感じない。まるで自分が遠くにいるような。自分がこの光景を俯瞰しているような。そんな感覚だ。痛みも感じない。声が、今の光景が遠く感じる。
『あれ? あまり絶望していない?』
不意にそんな声が聞こえる。男とも女とも言えない不快に反響した声。
(死神でもいるのかな。死神の名に恥じない禍々しさだ)
声の主をかろうじて視界に捉える。そこには、首にマフラーを巻いた古いマネキンのような見た目の何かがいた。おそらく死神だろう。
(いや、違う。アイツは死神なんかじゃない。アイツは――)
何者なのか解った瞬間、目の前が真っ暗になった。