「えーーーー! 真珠くんも帰っちゃうのーー!」
病院に似つかわしくない明るい声が、白い壁と床に反響して跳ね返る。午前の検温を終えた看護師たちは、すでに慣れているのか、苦笑をうっすら浮かべてそのまま通り過ぎた。ここ最近はずっとそうだ。うちの病棟でいちばん元気な“患者”は、よりにもよって産婦人科の個室にいるアイドル――星野アイ。
彼女はベッドの上で体育座りのまま、頬をふくれさせていた。病衣の上から薄手のカーディガンを羽織り、胸元には安全ピンで留めたキーホルダーが揺れている。星のハイライトを宿した瞳が、今にも涙腺を決壊させそうな勢いでこちらを見上げてくる。
「オーボーだ。私の癒やしを連れ去るなんて! この鬼畜、変態、アホ社長」
「おい、物騒な語彙を並べるな。お前が言うとシャレにならん」
「ごめんね。お姉ちゃん」
そう言って、僕――真珠は、姉みたいな存在のアイに小さく会釈した。三者三様、という言葉はこういう時のためにあるのだろう。ベッド脇のパイプ椅子に座るのは、斉藤壱護。苺プロ社長にして、僕たちの“保護者代表”。呆れ顔で頭をかく指には、さっきまで資料をめくっていた癖が残っている。
「真珠だって学校がある。仕方ないだろう」
「うーーー。」
「ミヤコのメールを思い出せ。『マシロニウム(=真珠成分)が欠乏して死にそう』って、わけのわからんSOSが昨日から三回も来てる」
「え、ミヤコさん、子離れできるのかな?」
「いや、お前こそ弟離れを少しは――」
「え? する気ないけど?」
即答である。アイは胸を張り、勝ち誇った顔で言い切った。僕はというと、二人の応酬の火種が自分だという事実がこそばゆくてたまらず、椅子の座面でつま先をもぞもぞ動かした。
コンコン、と控えめなノックがして、扉が開く。
「んん、お二人さん。ここは病院ですよ。お静かに」
白衣のポケットからペンライトが二本、体温計が一本、まるで定位置のように覗いている。雨宮吾郎先生。高千穂町立病院、産婦人科医。白衣の胸ポケットには、定位置みたいにペンライトが二本と体温計が一本、きちんと顔をのぞかせている。高千穂町立病院の産婦人科医――雨宮吾郎先生。
僕を驚かせないよう、いつもわざと大げさに声の調子を落としてくれる。その低さは角がなくて、耳にやわらかい。言葉より先ににじむ気遣いが伝わって、僕はこの人が好きだと思う。
「「す、すみません」」
壱護さんとアイがハモった。先生は苦笑してから、僕の目の高さに膝を折る。
「こんにちは、真珠くん。今日も元気そうだ。……飴、いるかい?」
「せんせ、大阪のおばちゃんみたいになってる」
「患者さんにウケる決め台詞の一つだよ。ほら、きょうはハッカといちごとレモン、三択」
魔法のポケット。僕がそう言って笑うと、先生も肩を揺らした。産婦人科には小さい子がよくやって来るから、いつでも渡せるようにしてるんだ、と以前聞いた。僕は迷ったふりをして、結局いちごを選ぶ。ビニールがこすれる小さな音と、キャンディの角が舌に触れる固さ。甘さがじわっと広がって、胸のつかえが少し溶けた。
「壱護さんは、今日お帰りですか?」
「ええ。妻に仕事を頼みっぱなしでして。決裁も滞ってる。落ち着き次第またこちらに戻る予定ですが」
「そうしてあげてください。星野さんも、心強いでしょう。……真珠くん、君も元気でね」
「うん。雨宮先生、お姉ちゃんをお願いします」
「はは、どっちが年上かわからない会話だね」
「せんせ、それ、どういう意味?」
むっと頬をふくらませるアイと、それを見て楽しそうに笑う大人二人。僕はその光景に包まれながら、抱きしめてくるお姉ちゃんの腕の重みを受け止めた。胸の奥に、温かいものがにじみ出す。失ってしまった日常の温度。いつも夢の中で探していた、あの感覚。
――たしかにここにある。
◇
結局、アイが「あと五分」「もう五分だけ」とゴネ続けた結果、面会時間ぎりぎりまで病室にいた。俺と入れ替わりで看護師さんが入ってきて、血圧、体温、浮腫のチェック。アイが「だいじょぶ。私、強いから」と胸を張るたび、看護師さんは「はいはい」と微笑んで、でもスケールの目盛りは抜かりなく確認していく。
屋上に出て、タバコに火を点けた。紫煙が揺れて、夏の名残りの空の色に薄く溶ける。喫煙本数は劇的に減らした。そう何本も吸う気はない。けれど仕事と世間と感情の綱渡りをした夜には、どうしても一本だけ、指先に重さがほしくなる。
――すぐに消すか。
火皿の先に一瞬迷いがよぎった時、屋上の扉がきしんだ。
「あぁ、壱護さん。やっぱり屋上でしたか」
「雨宮先生。……何か、ありました?」
「いえ。病室を覗いたら、真珠くんが星野さんに捕獲されてましてね。いるとしたら、ここかと」
冗談めかして言いながらも、先生の目は真面目だった。俺はタバコを唇から離し、指で火をあっさり揉み消す。もったいない、と喉の奥で独り言のように呟いて、灰皿に押し当てる。わざわざ探しに来たということは、子どもには聞かせられない話題なのだろう。
「星野さんの件ですが――良かったのですか?」
やはり核心はそこだった。十六歳の妊娠――しかも双子。相手は現役アイドル、B小町のセンター。暴露という名の火種がひとつあれば、世論も仕事も将来も一気に焼け落ちる。壱護は彼女の“保護者代理”であり、会社の社長でもある。守るべきものはあまりに多い。だが、守る順番だけははっきりしていた。 十六で妊娠、しかも双胎。彼女は現役のアイドル、B小町のセンター。暴露ひとつで世間も仕事も、何もかも吹き飛ぶ。“保護者代理”であり、会社の社長でもある。守るべきものは多すぎる。
「正直、納得はしてません。あいつが少しでも迷うそぶりを見せてたら、止めるつもりでした。……でも、坊主――真珠の言葉を聞いて、思うところがありましてね」
「思うところ、ですか」
先生はフェンスにもたれ、耳を預ける姿勢になる。俺はしばしの間を置いてから、短く息を吐いた。
「詳細は伏せますが、前にも話した通り、真珠は俺の実子ではありません」
――そういえば、そうだった。
三人の空気があまりにも“家族”のそれで、口にされるまで忘れていたのだろう、と吾郎は思う。
「……あいつは五歳の頃、ある事件に巻き込まれて、死にかけたことがあるんです」
どんな言葉を返せばいいか。想像以上の重さに、吾郎は一瞬だけ喉が詰まった。
「そのときの主治医から、精神面に気をつけるようにと言われました」
「……真珠くんに、そういう兆候が?」
「それが、ないんです。急に暴れることも、夜に泣き出すこともない。たまに悪い夢のあとに目を
こするくらいで。むしろ、やたら賢くて、空気を読むのが上手い。……上手すぎる」
言い終えた壱護の声に、かすかな氷の気配が混じる。
賢さは生存戦略にもなる――吾郎の胸にひやりとした感覚が走った。気配を読み、顔色を見て、自分の立ち位置を半歩滑らせる。それは大人でも難しい術だ。子どもがそれを身につけるには、たいてい代償が要る。実際、吾郎にも覚えがあった。ときどき真珠の輪郭が一瞬だけ薄くなる、目の前にいるのに遠くへピントが流れるような瞬間。
短い沈黙ののち、吾郎は言葉を選んで口を開く。
「無責任に聞こえたら申し訳ありません。医者として――それも産科医としては、正直なところ断言はできません。小児メンタルは私の専門外ですから。ただ、個人的な意見としてひとつだけ言わせてもらうなら、頼れる大人がそばにいる事実は、ことは心強いと思いますよ。真珠くんは、あなたを信用している。私は、そう見ています」
「そう……でしょうか?」
「ええ。星野さんとあなたと一緒にいるときの、あの笑顔は作り物ではないと思います」
壱護は小さく息を吐き、口元にだけ薄い笑みを乗せた。
「そういうもの、ですか」
「ええ、もちろん断言はできません。成長の節目で遅れて出ることもあります。ですから――もし“薄くなる瞬間”が増えた、眠りが荒くなった、……そうした変化があれば、すぐ教えてください。こちらからも心療科に声をかけておきます」
「ありがとう。先生」
礼の言葉は短いが、肩の力がわずかに抜けていた。吾郎は「いえ」と首を横に振り、白衣の袖口を整える。風がまたフェンスを鳴らし、二人の間の沈黙は、さっきよりもやわらかかった。
◇
行きと同じ道を、今度は三人ではなく二人で帰る。アイの笑い声のない車内は、驚くほど静かだ。沈黙が嫌いなタイプではないが、今日は妙に空気が軽く、でも隙間が広い。助手席の窓を少し開けると、風が髪を揺らしていった。
長いドライブを終え、玄関の鍵を回す。「ただいま」と言う前から、足音が近づいてくる。
「真珠くん、おかえりなさい」
ミヤコさんが奥の居間から飛び出してきた。僕のリュックを受け取るより早く、両腕でぎゅっと抱きしめてきた。
「ただいま、ミヤコさん」
抱擁には匂いがある。甘い柔軟剤と、今夜の夕飯の予告のような香り――だしの匂い。肩口に落ちる彼女の手が、いつものリズムで僕の背中を撫でる。ゆっくり三回、やや強めに二回、最後に軽くひとなで。僕の身体はそれをよく覚えていて、緊張が緩む。
「おう、ミヤコ。色々任せっぱなしで悪かったな」
「壱護、おかえり。書類は机に置いてあるから、あとで全部目を通してね」
「え、俺、今帰ってきたんだけど」
「知ってる。私にできることにも限度があるもの」
ぼやきながらも、僕を抱く腕は緩まない。撫でる手も止まらない。僕だって、この温もりからすぐに離れる気はない。長距離移動の少し冷えた身体に、家の温度がじわりと染みていく。
「はぁ……こりゃ、アイより子離れできなさそうだ」
「え? する気、ないけど?」
アイと同じ返しを、同じ速さで。僕とおじちゃん――壱護さんは目を合わせ、笑い合った。台所からは味噌汁の湯気がふわりと流れてきて、机の上には山積みの書類と、三人分の箸置き。生活と仕事と“家族”の輪郭が、同じテーブルの上に無造作に並んでいる。
血がつないでくれたものは、ここにはない。けれど、確かに感じる絆がある。肩に残る手の重み、玄関の湿り気、キッチンから聞こえる鍋蓋の小さな震え。僕はその一つひとつに耳を澄ませ、胸の奥でそっと名前をつけた。
――これが、家だ。