僕は一般人です   作:~のほほん~

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姉、それとも

点滴の雫が一定の間隔で落ちる。消毒液の匂いが薄く漂い、窓の向こうにはよく晴れた宮崎の空と、濃い緑の稜線。自然に囲まれた病院の一室で、B小町のセンター・星野アイは今。

 

「ね~、せんせ。暇だよ〜」

 

めちゃくちゃ暇を持て余していた。

 

「出産予定日も近いんだ。無理したらいけないよ?」

 

「ひまひまひまひまひまぁ〜、早く真珠君来ないかな?」

 

入院してからというもの、外への散歩や電話、育児の本などでどうにか時間をつぶしてきた。だが出産予定日まで残り一週間を切り、ついに「安静」を言い渡される。

 

最初は「一週間くらいだし」と高を括っていたが、ものの数時間で音を上げた。

 

「はぁ、そういえば私ってそんなにジッとしてられるタイプでもないんだよねぇ」

 

「そんな気がするよ」

 

「でしょー。というわけでせんせ」

 

「はいはい。休憩が終わるまでで良ければ話には付き合うよ」

 

「やったー。せんせありがとう!」

 

数週間、同じ病棟で顔を合わせるうちに、アイと吾郎のあいだにはそれなりの信頼関係が構築されていた。もっとも実態は、アイのワガママに振り回される吾郎(奴隷ファン)という関係性に近いが。

 

「そういえばせんせって兄弟はいるの?」

 

「いや、僕は一人っ子だよ」

 

「そっか~。面倒見が良いから下にいるかと思ったんだけどなぁ」

 

「産婦人科医は子供の相談を受けることも多いからね。それでじゃないかな?」

 

「なるほどね!じゃあ私が困ったときも助けてね」

 

「あはは、それは光栄だね」

 

「あ、信じてないでしょ〜」

 

病室に笑い声が柔らかく響く。のどかな時間――だからこそ、雨宮吾郎は次の言葉の重みを受け止め損なった。

 

「せんせからみてさ。真珠君は普通の子供?」

 

ささいな違和感の棘に、そっと指先が触れるような問い。星野アイの直感は何かを指し示している。だが言語化はできない。だから言葉は曖昧になる。

 

曖昧な問いは、しばしば意図を取り落とさせる。

 

「それはどういう意味だい?」

 

「なんて言ったら良いかわからない。でもせんせから見て、問題はない?」

 

吾郎の脳裏に、あの夜に交わした会話がよみがえる。

 

【はい。先生から見て真珠はどうですか?】

 

具体性のない、けれど切実な問い。産婦人科で発達に関する相談は多くはないが、皆無ではない。専門外だとわかっていても、親は“わからなさ”として不安を持ち込む。そこでしばしば生じるのは、誠実さゆえのすれ違いだ。

 

片や、あの昏い瞳への不安を。

片や、医療者としての見立てを。

 

どちらも真剣だからこそ、言葉は空中に溶けていく。人が人を理解するのは、それほど難しい。

 

「そうだね。斉藤さんにも同じようなことを聞かれたな」

 

「社長に?」

 

「【先生から見て真珠はどうですか?】と。僕としては特に行動に不可解なところはないし、文脈もしっかりしていると感じたんだが」

 

「じゃあ、あの目は?」

 

「目かい?」

 

昏い瞳――子供特有の無邪気なきらめきではない。夕日の光が消え、夜が迫る空の色。すべてを呑み込むような深さ。見た者を引きずり込む夜闇の瞳。そう、まるで………

 

(いや、こんなことを子供相手に思うなんて。僕はどうかしてるな)

 

過去を知らないからこそ、男はその連想を雑念として打ち消す。子供がそんなことを考えるはずがない――そういう固定観念で思考に蓋をする。

 

「まぁ、特徴的な目だなとは思うけど」

 

「そっか~。思い過ごしなら良いんだけど」

 

「僕の方でも友達の先生に聞いてみるよ。心療科にも伝手があるからね」

 

コンコン、と扉が鳴る。向こうから、いつもの看護師の声。

 

「先生。いつまでサボってるんですか?もう診療の時間ですよ?」

 

「っと、じゃあ僕はこれで。くれぐれも動きすぎないようにね」

 

「えー、もう行っちゃうの〜。つまんなーい」

 

吾郎は頭を下げ、部屋を退室する。廊下に出ると、悪戯好きで口の悪い、馴染みの看護師が足並みを揃えた。

 

「先生なにかありましたか?」

 

「え?」

 

「皺寄ってますよ?」

 

「なんでもないよ。さて、午後も頑張りますか!」

 

(まるで゛死に場所を求めてる゛なんて。この歳にもなって中二病かな)

 

馬鹿馬鹿しい――と心中で笑う。だが、いったん得てしまった答えは頭から離れない。靴の裏に貼り付いたガムのような不快感を抱えたまま、吾郎は午後の業務へ向かった。

 

「先生」

 

「ん?なんだい?」

 

「やっぱりロリコンだったんですね」

 

「いや、本当にやめて。その言葉はいつもより刺さるから」

 

 

黄昏時。雲のない空に、夕焼けの名残の光が長く伸びるころ。

 

星野アイは、いつからかこの時間が苦手になった。この色を見ると、義弟の真珠のことを思い出し、よくない考えが巡り出す。ベッド脇の台には、一枚のはがき。差し込む橙が、その白さをほんの少しだけ温めていた。

 

――あの子は、なぜあんなに優しいのか。

――あの子は、なぜ母親を亡くしたのに、悲しみではなく誇らしげに母を語れるのか。

――あの子は、なぜあんな昏い瞳を持ってしまったのか。

 

なぜ、なぜ、なぜ。

 

答えを持つ人に聞けばいい――ミヤコさんや社長なら知っている。だが。

 

「悪いな。それに関してだけは教えられねぇ。本気で聞く覚悟があるならミヤコに聞くんだな」

 

社長は私に甘い。もう激甘だ。普通なら、こんな事態になったアイドルなんて切り捨てればいいのに、面倒を見てくれている。勝手に父親像に重ねているのは、内緒。

 

そんな甘々な社長が、珍しく真顔で言った。いつもの調子なら食い下がっただろう。けれど、あの目はそれを許さない――それだけは、なんとなくわかってしまった。

 

最初は、ただの興味だった。

私と同じ過去を持つ子なのかもしれない。勝手に自分を重ね、優しくすることで、アイシテルを知らなくても救われるんじゃないか――ひょっとしたら、私だってアイシテルを知れるんじゃないか。そう思っていた。

 

でも、彼と私では決定的に違った。彼は愛を持っている。そして、

 

【僕はお姉ちゃんのことを嫌いにならないよ】

 

私は、その愛に、その優しさに、救われてしまった。

 

妊娠がわかったとき、嬉しかった。同時に、怖かった。あの瞬間、すべてを失ってしまうかもしれない――幼いころの、寂しさを嘘で隠し、誰にも助けを求められなかった私に戻ってしまう気がしたから。

 

あの言葉に゛嘘はなかった゛。だから、本当に嬉しかった。子供の戯言と片付けるのは簡単だ。けれど、その温もりと優しさが、確かに私の心に染み込んだ。

 

お腹の内側で、小さく、とくん――と胎動が響く。手を添える。暖かさが掌にひろがる。

 

まだ、私はアイシテルを理解できていない。

 

だけど、この胸に灯った暖かさだけは、失いたくない。

 

――もう、私は一人じゃない。

 

その病室には、もう嘘の仮面で喜び、怒りを嘘で隠し、哀しみを嘘で塗り固め、楽しさを嘘で演じる偶像(アイドル)はいない。

 

怨念も欲望も、一つの感情へ収束していく。

 

そこにいるのは、ただの「姉」か。それとも、まったく別の少女か。

 

この感情は、なんなのか。

人は、これをなんと呼ぶのか。

 

あぁ、そうか。

 

これが【愛】なのか。

 

物語は進んでいく。

 

進んだ秒針は戻らない。

 

進むしかないのだ。

 

本来交わるはずのない「遺物」によって、物語の流れは別の位相へと導かれていく。

 

 

「師父、見つけました」

 

「やっとか?場所は?」

 

「はい。どうやら日本の子供のようです」

 

「僥倖僥倖。捉えれば俺の地位も盤石になるな」

 

「ですが、まだ特定には時間がかかるかと」

 

「無問題。全ては゛繋がる者゛のために。」

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