僕は一般人です   作:~のほほん~

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命の重み

「んふふ〜」

 

星野アイは本日、ご機嫌である。昨日から担当医・雨宮吾郎より安静を言い渡され、散歩やストレッチが制限されたため、ベッドの上で暇を持て余していた。しかし――

 

「真珠君が入れてくれるココアは安心するな〜」

 

飲み慣れたココアの匂いが、白い壁をやさしく塗り替える。出産予定日が近づいたため、真珠は壱護と一緒に、ふたたび宮崎の地に足を運んでいた。

 

「お姉ちゃん。体調は大丈夫なの?」

 

「少しだけ気持ち悪さがあるけど、大丈夫だよ? でも、もうすぐこの子達に会えると思うとワクワクしちゃうな~」

 

そう言うと、お姉ちゃんは優しくお腹を撫でる。大切な宝物を扱うみたいに、そっと指先で縁どる。その姿だけ見れば元気そうだが、いつもより白く見える肌からは、わずかな血の気の薄さがうかがえた。

 

「お姉ちゃん」

 

「ん? なぁに?」

 

「もうその子達のお名前って決まってるの?」

 

「決まってるよ。真珠君みたいに優しい子になってほしいからね。少しだけ名前を真似てみたよ」

 

「?」

 

「あれ? 知らなかったかな」

 

「じゃあ、真珠君には特別に先に教えてあげるね。実は……「星野さん入ってもいいかい?」っと、せんせだ。どうぞ~」

 

扉が数回ノックされ、白衣の吾郎が入ってくる。

 

「失礼するよ。真珠君、こんばんは」

 

「先生、こんばんは」

 

「あれ? 少し身長が伸びたかな?」

 

「そうかな?」

 

「あっ! 私も思った!」

 

「やっぱり少し伸びてるよね!」と僕の頭を撫でるお姉ちゃん。その横顔は、いつもよりも柔らかい。

 

「子供の成長は早いからね。もしかすると小学生を卒業する頃には、星野さんよりも大きくなってるかもね」

 

お姉ちゃんの手が止まり、きい、と油の切れた機械のように動きが渋くなる。視線が吾郎先生へすべる。

 

「え? そんなに早いの?」

 

「まぁ、中学生くらいになると成長期を迎える子が多いからね。僕も中学の時には160以上はあったからね」

 

どこか悲壮感を漂わせるお姉ちゃんに、僕はなんとも言えなくなる。なぜこんなに落ち込むのか、真珠にはわからない。けれど、当人には深刻な問題なのだろう。

 

「真珠君はこのサイズ感がいいのに。私の腕に収まるくらいがちょうどいいのに。」と、ぶつぶつ呟きつづけるお姉ちゃんをよそに、吾郎先生は話題を切り替える。

 

「それじゃあ星野さん。今日、僕は一度帰宅するけど、何かあったらすぐ来るから。もし来れなくても他の先生もいるし安心して「ヤダ、せんせがいい」まぁ、善処するよ」

 

医者として、その信頼は嬉しい。口元が自然とゆるむ。

 

「それじゃあ」

 

「先生、おやすみなさい」

 

 

病院を出て、近くの自宅へ向かう。産が無事に終われば、繋がりは薄れて、ただのアイドルとファンの関係に戻る――そう思っていた。

 

「あんた、星野アイの担当医?」

 

病院を出たところで、声をかけられる。声のする方へ振り向くと、ひとりの男性が立っていた。逢魔時はすでに過ぎ、あたりは山の暗さが濃く沈んでいる。

 

「星野アイ? 何の話ですか?」

 

「しらばっくれるな! ここにいるのはわかってるんだ!!」

 

関係者以外に知られるのはまずい。いったんしらばっくれるが、男はさっきとは比べ物にならない声量で怒鳴った。

 

(関係者ではないな。そもそも、なぜ彼女の本名を知ってる? ここにいる間は偽名を使っていた。男性病棟とも離してあるから、すれ違うこともないはず。……まさかストーカー? このタイミングで? なぜ出産間近に現れた?)

 

瞬時に仮説を立て、極力、星野アイの負担にならない動線を探る。

 

「おい! 答えろ! ここにいるんだろ!!」

 

「患者のプライバシーを明かすことはできない。君はどなたかの関係者かな? 君の名前を教えてくれないか?」

 

なるべく相手を刺激しない言葉を選ぶ。だが、名を問うた瞬間、男の肩に緊張が走った。

 

(しまった!)

 

思った次の瞬間、男は薄暗い林へ駆け込み、陰に溶けた。吾郎は反射で追う。

 

「くそ、どこいった?」

 

スマホのライトであたりを掃く。だが、この暗さでは焼け石に水だ。

 

「うぉ、危なかった。こんなところに崖があったんだな」

 

ライトがなければ足を滑らせていた。けれど、暗闇の中の光は、狙う側からすれば格好の目印でもある。

 

「え?」

 

それは吾郎の声か?

犯人の声か?

それとも、二人の重なりか?

 

答えはわからない。ただひとつはっきりしている。吾郎は“何か”に背中を押され、闇の底へ姿を消した。

 

 

pipipi、pipipi――。聞き慣れた電子音が、意識の底を小刻みに叩く。

 

頭が重い。靄がかかったみたいに、思考がまとまらない。

 

(ここは? この音は携帯か? あ、そうだ。もしかして星野さんに何か――)

 

記憶がゆっくり戻る。急がなきゃ、と体に命じるが、思うように動かない。体温が引いていくのに、なぜか心地よさが混じる。瞼が、鉛のように重くなる。

 

(は……や……………く………もど…ら……なきゃ)

 

意識が途切れる。雲から抜けた月が、暗い林を青白く照らした。

 

カラスが鳴く。不気味な気配の中、血まみれの吾郎が横たわっていた。

 

 

心臓が、どくどくと速く脈打つ。

 

「先生にお電話が繋がりません」

 

「早く、〇〇先生に来てもらって! 〇〇さんはお湯張って持ってきて」

 

この光景を、僕は一生忘れないだろう。忙しなく動く看護師さんたち。いつもは優しい笑顔の人たちが、一切の迷いを捨てて職務をこなしている。

 

そして、お姉ちゃんの顔が、見たこともないほど歪む。痛みのせいだろう、声にならないうめきが漏れる。恐怖で足がすくみ、僕は立ち尽くした。

 

「星野さん! 頑張って!」

 

「うぅぅぅぁぁ」

 

「もう少しだからね! まだ力抜いちゃ駄目よ!」

 

どれくらいだろう。いろんな声が、この無機質な部屋に充満する。眩暈のする光景に目が離せない。心臓が、胸の内側からこぶしで叩くみたいに跳ねる。初めての高ぶりに戸惑いながらも、視線はそらせなかった。

 

何より驚いたのは、お姉ちゃんの姿だった。僕が初めて会ったときに抱いたのは――

 

(まるでお星さまみたい)

 

という憧憬。

 

僕には生み出せない()が、そこにはあった。

人を笑顔にする()があった。

そして何より、美しく見える笑顔()があった。

 

それが嘘なのかどうか、当時の僕には分からない。ただ、あの寒くて冷たい、ひとりでいると“ナニカ”になってしまいそうな衝動――心の底にたまっていたどろどろが、やわらぐのを確かに感じた。

 

そんなお姉ちゃんと過ごすのに、最初は戸惑いが大きかった。知らない人という意味では、ミヤコさんやおじちゃんも同じだ。でも二人は大人で、しかも【親】の意識が強かった。だから甘えやすかった。だから“良い子”でいることも簡単だった。

 

良い子にしていればミヤコさんが抱きしめてくれる。良い子にしていればおじちゃんが撫でてくれる。積み重ねることに意味がある気がした。

 

だけど、お姉ちゃんは違った。大人でも子供でもない、僕が初めて接する距離感。ときにミヤコさんのように優しく、ときに僕より幼く見える。戸惑っているうちに、初めてライブを見たあの日――お姉ちゃんが“アイドル”だと知った。きらきら輝き、すべてを巻き込む台風の目が、目の前にあった。

 

誰かが言った。姉は完璧で、究極のアイドルだと。

 

だが、今、目の前にいる姉はどうだ。僕の前で、こんな顔を見せたことは一度もなかった。僕に向けられるのは、聖母のような笑顔と慈しみだけだった。だから僕は、姉もミヤコさんも、何でもできる神様みたいな人だと思っていた。

 

違うのだ、と気づいた。いや、気づかされた。

この人はすごい人じゃない。僕と同じだ。悩み、苦しみ、もがく――そんな感情を持つ、人間だ。

 

今日、初めて僕は“本当の”お姉ちゃんに会ったのかもしれない。

 

ピタリと音が止む。次の瞬間、歓喜の色が広がった。「オギャー、オギャー」と赤子の声が満ちる。

 

看護師さんが、お姉ちゃんを労う。映画を見ているような、足元がふわりと浮く非現実感が押し寄せる。

 

それでも、僕はこの光景を一生忘れない。

疲れた顔のまま、とても嬉しそうに二人の赤ん坊を抱きしめる姉の姿を。今まで見たことのない色をした姉の姿を。

 

「真珠君」

 

急に名前を呼ばれ、我に返る。看護師さんたちは片付けに入り、さっきまで近くにいた壱護さんの姿は見えない。

 

「どうしたの?」

 

「ごめんね。ちょっと怖かったかな」

 

困ったような表情で、お姉ちゃんが問う。その言葉に、どんな感情が詰まっているのか、うまく掴めない。

 

「社長には止められたんだけどね。真珠君には近くに居てほしかったんだ」

 

「え?」

 

「私には君が何を抱えているのかはわからない。でも君のママは君に会いたくて、こうやって産んだんだよ」

 

意味をすべては飲み込めない。けれど、その言葉は、石の欠片みたいにすとんと胸の底に落ちた。

 

不思議な感覚だった。

でも、嬉しいのは間違いなかった。

 

きっと僕はもう答えを知っている。だけど、それ以上を求めてしまうからこそ、気づかないふりをする。

 

だって、そうしないと僕は良い子(・・・)ではいられないから。

 

「この子達、抱っこしてみる?」

 

「いいの?」

 

「うん。だって今日から真珠君はこの子達のお兄ちゃんだからね」

 

「お兄ちゃん」

 

「そう、お兄ちゃん。よろしくね」

 

お姉ちゃんがそう言うと、看護師さんに手伝ってもらいながら、僕は赤ん坊を抱きしめた。触れた瞬間、自分とはべつの、壊れやすいものの感触が体に入り込む。恐る恐る、しかし確かに首を支え、絶対に落とさないよう胸に寄せる。

 

「ちっちゃいね」

 

「そうだね」

 

「かわいいね」

 

「真珠君も可愛いけどね」

 

パシャパシャとカメラの音。お姉ちゃんは微笑んで言葉を返しながら、僕の顔も枠に入れてくれる。疲労の色は消えていないのに、目尻は温かい。

 

「お姉ちゃん。ありがとう」

 

「なにが?」

 

「分からないけど、言いたくなった」

 

「そっか」

 

無機質な部屋に色が広がる。赤ちゃんを抱く僕の体の内側に、言い表せない感情が湧き上がり、これまで宙に浮いていたような感覚が、すっと消えていく。

 

この日、僕はお兄ちゃんになった。

 

そしてこの日、僕は命の重みを理解した。

 

だって初めて、゛ハルカナミライ(・・・・・・・)゛を考えてしまったのだから。

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