キーンコーンカーンコーン――天井の丸いスピーカーが震え、教室の空気がわずかに揺れた。
チョークの粉が光をまとって宙に浮き、机の天板には手のひらの汗が薄く残っている。
「斉藤くん、またね」
「うん、バイバイ」
近くの席の高橋さんに手を振り、筆箱を鳴らしながらカバンの口を閉める。肩に食い込むストラップを直して廊下へ出ると、いつもの日常が足元に戻ってきた――お姉ちゃんの出産が無事に終わり、僕はまた“ふつう”へ帰ってきたのだ。
「すみません、雨宮とはまだ連絡が取れてなくて」
「せんせ、どうしちゃったんだろ?」
あの日から、雨宮先生は僕たちの前から姿を消した。病室で別れたとき、こんな終わりになるなんて思いもしなかった。
「ああ、あの先生がまさか音信不通とはな」
「今までこんなことはなかったんですが…」
少し変わっているけれど、善い人だった。彼が僕に向ける「色」はやわらかく、心配と安堵がまじり合っていた。たぶん、先生は僕が――そう思いかけて、言葉は胸の中でほどける。
「また先生に会えるといいなぁ」
「そうだね〜。まだお礼も言えてないし」
「はい。体調を崩して家で寝込んでるだけかもしれませんし、連絡がついたらこちらからお知らせしますね」
もし、もう少しだけ関わっていられたら。
この気持ちの答えに、手が届いたのかもしれない。
この願いがおかしいことは、分かっている。
それでも、願わずにいられない。もう薄れはじめている記憶の人に。会いたい。温もりを感じたい。あの声を――
願っている。今も、昔も、これからも。
けれど、あの子たちと出会い、姉のほんとうの姿を見たあの日から、胸の奥に小さな違和感が生まれた。認めてはいけない願いが。
それを認めたら、僕は僕を許せない。
だって、認めたら、もうママに会えないから。
*
あれから数週間が経った。
出産しても入院は続く。赤ん坊のケア、お姉ちゃんの回復、書類の手続き――病院の廊下には消毒液とコーヒーの匂いが混ざる。
「おい、坊主。俺は少しやることがあるから、アイのところにいてくれるか?」
それらの書類は、すべて壱護さんが片付けていた。おじちゃんはすごい。一緒にいる時間が増えるほど、それがよく分かる。休むときはだらしないのに、仕事が始まると顔つきが変わる。
「その書類は……」
「いつもお世話になっております。ええ、ええ。うちの〇〇をよろしくお願いいたします」
「じゃあ日程を調整しろ。〇〇は安売りしなくていい。時期見ながら……」
飛行機の中でもパソコンを打ち、隙間時間に電話が鳴る。手伝いたいのに、何をしているのか分からない。それが胸の奥で小さな渋滞になっていく。
「どうした?」
知ってか知らずか、壱護さんが僕の顔をのぞき込む。
おじちゃんの「色」は不思議だ。ママやミヤコさんやお姉ちゃんと違う、別の温度を持っている。その色を見るだけで、胸の内側がすこし熱くなる。
「いや、えっと。何か手伝えることないかなぁ〜って」
「ん?」
「おじちゃんも疲れてるのにいつも仕事してるでしょ? だから何かお手伝いしたいなって」
一瞬、ぽかんと口があいた。
「なるほどな」とうなずいて、壱護さんは少し照れたように僕の頭を撫でる。
「お前は十分、よくやってくれてるよ」
「え?」
「お前が来てくれるようになってから、タレントも事務もみんなやる気がすげぇんだ」
「俺が参っちまうくらいにな」
からん、と自販機に硬貨が落ちる音。ボタンが軽く沈み、缶がコトンと落下する。
コーヒーとココアを一本ずつ。
「ほらよ」
「ありがと」
アルミ缶の冷たさが掌に沁みる。
「うちの事務所はよ、まぁ結構ちっちゃいんだよ」
「うん、知ってる」
「はっきり言うなよ」
「だって事務の人とかも給料少ないって言ってたよ?」
「聞かなかったことにしとこ。坊主には夢はあるか?」
「夢?」
「そう。将来やりたいこととかさ」
「僕は………」
「俺にはあるんだよ。夢がな」
おじちゃんの色に、ふっと光が宿る。瞳の奥に力が集まる。
「俺はよ、アイをドームに連れて行く」
「ドーム?」
「あぁ。お前が見たやつより、もっと大きな場所で、もっとたくさんの人を集めたライブだ。金かけりゃできるってもんじゃねー」
その真っすぐさは、校庭で走る子たちの目と同じ。
ただただ楽しそうで、迷いがない。
「あいつだからできる」
それは確信。
「俺の夢を叶えてくれる」
それは熱望。
「だからあいつに俺は期待しちまうんだ」
それは焦がす願望。
「他の人たちは?」
「あ?」
「おじちゃんが夢を見たのはお姉ちゃんだけなの? B小町はお姉ちゃんだけじゃないよ?」
「それは分かってる。だがな坊主、夢を見るのと夢を叶えるのは違うんだよ。大人になれば分かるだろうが、どうしても捨てなきゃいけないものが出てくる」
コーヒーを一口ふくみ、短い沈黙。
「大人になると、見たくねえもんが増えちまうんだよ」
決意、熱意、意欲、そして少しの堕落――いくつもの色が、顔の影に重なる。おじちゃんの色が、わずかに悲しみに傾くのが視えた。
「じゃあ、僕が拾うよ」
「は?」
「おじちゃんの諦めた夢は僕が拾うよ。おじちゃんがみたい夢は、僕が叶えてあげる」
色が変わる。
悲しみではない。僕の胸を高鳴らせる、あの見たことのない色が、静かに広がっていく。
「だから、おじちゃんの夢は僕が叶えるよ」
それが、いまの僕にできる恩返しだ。僕を“いま”に繋ぎ止めてくれた人へ、返せる唯一のものだ。
どう受け取ってくれたのかは分からない。けれど――
「クソ生意気なこと言うようになったな」
その震えた声が嬉しそうだ、ということは、はっきり分かった。