僕は一般人です   作:~のほほん~

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矛盾

キーンコーンカーンコーン――天井の丸いスピーカーが震え、教室の空気がわずかに揺れた。

チョークの粉が光をまとって宙に浮き、机の天板には手のひらの汗が薄く残っている。

 

「斉藤くん、またね」

 

「うん、バイバイ」

 

近くの席の高橋さんに手を振り、筆箱を鳴らしながらカバンの口を閉める。肩に食い込むストラップを直して廊下へ出ると、いつもの日常が足元に戻ってきた――お姉ちゃんの出産が無事に終わり、僕はまた“ふつう”へ帰ってきたのだ。

 

「すみません、雨宮とはまだ連絡が取れてなくて」

 

「せんせ、どうしちゃったんだろ?」

 

あの日から、雨宮先生は僕たちの前から姿を消した。病室で別れたとき、こんな終わりになるなんて思いもしなかった。

 

「ああ、あの先生がまさか音信不通とはな」

 

「今までこんなことはなかったんですが…」

 

少し変わっているけれど、善い人だった。彼が僕に向ける「色」はやわらかく、心配と安堵がまじり合っていた。たぶん、先生は僕が――そう思いかけて、言葉は胸の中でほどける。

 

「また先生に会えるといいなぁ」

 

「そうだね〜。まだお礼も言えてないし」

 

「はい。体調を崩して家で寝込んでるだけかもしれませんし、連絡がついたらこちらからお知らせしますね」

 

もし、もう少しだけ関わっていられたら。

この気持ちの答えに、手が届いたのかもしれない。

 

この願いがおかしいことは、分かっている。

それでも、願わずにいられない。もう薄れはじめている記憶の人に。会いたい。温もりを感じたい。あの声を――

 

願っている。今も、昔も、これからも。

 

けれど、あの子たちと出会い、姉のほんとうの姿を見たあの日から、胸の奥に小さな違和感が生まれた。認めてはいけない願いが。

 

それを認めたら、僕は僕を許せない。

だって、認めたら、もうママに会えないから。

 

 

あれから数週間が経った。

出産しても入院は続く。赤ん坊のケア、お姉ちゃんの回復、書類の手続き――病院の廊下には消毒液とコーヒーの匂いが混ざる。

 

「おい、坊主。俺は少しやることがあるから、アイのところにいてくれるか?」

 

それらの書類は、すべて壱護さんが片付けていた。おじちゃんはすごい。一緒にいる時間が増えるほど、それがよく分かる。休むときはだらしないのに、仕事が始まると顔つきが変わる。

 

「その書類は……」

 

「いつもお世話になっております。ええ、ええ。うちの〇〇をよろしくお願いいたします」

 

「じゃあ日程を調整しろ。〇〇は安売りしなくていい。時期見ながら……」

 

飛行機の中でもパソコンを打ち、隙間時間に電話が鳴る。手伝いたいのに、何をしているのか分からない。それが胸の奥で小さな渋滞になっていく。

 

「どうした?」

 

知ってか知らずか、壱護さんが僕の顔をのぞき込む。

おじちゃんの「色」は不思議だ。ママやミヤコさんやお姉ちゃんと違う、別の温度を持っている。その色を見るだけで、胸の内側がすこし熱くなる。

 

「いや、えっと。何か手伝えることないかなぁ〜って」

 

「ん?」

 

「おじちゃんも疲れてるのにいつも仕事してるでしょ? だから何かお手伝いしたいなって」

 

一瞬、ぽかんと口があいた。

「なるほどな」とうなずいて、壱護さんは少し照れたように僕の頭を撫でる。

 

「お前は十分、よくやってくれてるよ」

 

「え?」

 

「お前が来てくれるようになってから、タレントも事務もみんなやる気がすげぇんだ」

 

「俺が参っちまうくらいにな」

 

からん、と自販機に硬貨が落ちる音。ボタンが軽く沈み、缶がコトンと落下する。

コーヒーとココアを一本ずつ。

 

「ほらよ」

 

「ありがと」

 

アルミ缶の冷たさが掌に沁みる。

 

「うちの事務所はよ、まぁ結構ちっちゃいんだよ」

 

「うん、知ってる」

 

「はっきり言うなよ」

 

「だって事務の人とかも給料少ないって言ってたよ?」

 

「聞かなかったことにしとこ。坊主には夢はあるか?」

 

「夢?」

 

「そう。将来やりたいこととかさ」

 

「僕は………」

 

「俺にはあるんだよ。夢がな」

 

おじちゃんの色に、ふっと光が宿る。瞳の奥に力が集まる。

 

「俺はよ、アイをドームに連れて行く」

 

「ドーム?」

 

「あぁ。お前が見たやつより、もっと大きな場所で、もっとたくさんの人を集めたライブだ。金かけりゃできるってもんじゃねー」

 

その真っすぐさは、校庭で走る子たちの目と同じ。

ただただ楽しそうで、迷いがない。

 

「あいつだからできる」

 

それは確信。

 

「俺の夢を叶えてくれる」

 

それは熱望。

 

「だからあいつに俺は期待しちまうんだ」

 

それは焦がす願望。

 

「他の人たちは?」

 

「あ?」

 

「おじちゃんが夢を見たのはお姉ちゃんだけなの? B小町はお姉ちゃんだけじゃないよ?」

 

「それは分かってる。だがな坊主、夢を見るのと夢を叶えるのは違うんだよ。大人になれば分かるだろうが、どうしても捨てなきゃいけないものが出てくる」

 

コーヒーを一口ふくみ、短い沈黙。

「大人になると、見たくねえもんが増えちまうんだよ」

 

決意、熱意、意欲、そして少しの堕落――いくつもの色が、顔の影に重なる。おじちゃんの色が、わずかに悲しみに傾くのが視えた。

 

「じゃあ、僕が拾うよ」

 

「は?」

 

「おじちゃんの諦めた夢は僕が拾うよ。おじちゃんがみたい夢は、僕が叶えてあげる」

 

色が変わる。

悲しみではない。僕の胸を高鳴らせる、あの見たことのない色が、静かに広がっていく。

 

「だから、おじちゃんの夢は僕が叶えるよ」

 

それが、いまの僕にできる恩返しだ。僕を“いま”に繋ぎ止めてくれた人へ、返せる唯一のものだ。

 

どう受け取ってくれたのかは分からない。けれど――

 

「クソ生意気なこと言うようになったな」

 

その震えた声が嬉しそうだ、ということは、はっきり分かった。

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