「いや〜、久しぶりの我が家は落ち着くねぇ」
「何が久しぶりだよ。引っ越したばっかりじゃねぇか」
玄関に外気の匂いが残っている。私は双子を抱え、新しく借りたマンションの敷居をまたいだ。宮崎の病院をようやく後にして、東京へ戻ってきたばかりだ。
「宮崎の星が見れなくなるのは寂しいねぇ」
と、口では呑気なことを言いながら、胸の奥にはまだ病棟の静けさが残っている。
ベビーベッドに赤子たちを寝かせ、まだ糊気のあるソファに腰を落とす。沈み込む座面が、立ち上がる気力を吸い取っていく。
「わぁ〜、これ良いソファだね」
「だろうな。〇〇家具の商品だからな」
「え?」
中卒の私でも知っている大手の名。値段は知らないが、“お値段以上”のあの店よりは確実に上だと分かる。
「社長、私のこと好きすぎじゃない?」
「馬鹿野郎⁉ そんなこと外で言うなよ? そいつは真珠の坊主からだ」
「またまた〜。真珠君が買えるわけないでしょ」
「買っちゃいねぇよ。お前が宮崎にいる間に、あいつはあいつで頑張ってんだよ」
「頑張ってるって。変なことしてない?」
「あ〜、どうせすぐに知るだろうから言っておくが。無理強いはしてないぞ?『早く言って』――はい」
(こいつ、真珠のこととなると本当に分かりやすいな)
姉弟仲が良いのは嬉しい。けれど少しブラコン気味なのが心配でもある。今さらだけど。私はソファの縁に手をかけ、背もたれから体を起こす。
「あいつは本格的に芸能界の裏方の勉強を始めたんだよ。しかも今時珍しい半住み込みでな」
「それ、大丈夫なの?」
「あぁ。一応、俺とも旧知の仲のやつだしな。頭はイかれちゃいるが、まともな部類のやつだよ」
「その言葉だと心配しかないんだけど」
「もう少ししたら――『ピンポーン』。っと、噂をすれば。あとは本人からでも聞いてくれ」
「お前は座ってろよ」と社長は言い、玄関へ向かった。久しぶりの弟を迎えに行きたいけれど、ソファが私を離してくれない。私は小さく息を吐き、やっと立つ。
「あ、おじちゃん。お邪魔します」
「おう。来たか」
玄関から真珠君の声。変わらない響きに、安堵がさっと広がる。
「あれ? おじちゃん帰るの?」
「あ、あぁ、帰りはしないぞ? ただ一緒にいるとあいつが怒りそうだしな。終わったらまた電話くれ」
「え、ちょっとまって! お姉ちゃんに伝えてないの?」
真珠君が慌てている。あの子は滅多に取り乱さない。物静かで話しかけやすい。最初はあの“瞳”に少し怯えたけれど、今はいい関係を築けていると思っていた。だから、この慌て声は――初めてだ。
「あ、ちょ。おじちゃん。逃げないで」
「逃げてない逃げてない。てか力強くなったなお前!」
「ふふん。伊達に鍛えてないからね」
「もぉ〜、何やってるの? って」
「「あ」」
扉を開けると、玄関でわちゃわちゃしている二人。少し嫉妬して、でも早く会いたくて、私は一歩踏み出す。
社長と同じくらいの背丈。けれど顔と手に、無数の絆創膏。
「ま、真珠君。どうしたのその怪我!」
「あ、いや。これはそのー」
私から目をそらす義弟のこめかみに、冷や汗がつっと落ちる。転んだ傷じゃない――そう分かってしまう種類の擦過と打撲。胸の奥から、怒りが沸く。
「誰にやられたの?」
「いや、これはね」
「誰にやられたの?」
「お、おねえちゃん。怖いよ」
「誰にやられたの?」
「お、おい。アイ。まずはこいつの『誰にやられたの』――聞いちゃいねぇな」
社長が視線を泳がせる。私は顔を寄せる。キスしそうな距離。真珠のまぶたが一度、強く閉じた。
「はぁ、こいつ体を鍛え始めたんだよ」
「あ、おじちゃん!」
「坊主、ミヤコのときもそうだが、それだけの怪我だ。隠し通すのは無理があるぞ」
「それはわかってるけど」
(なるほど。ミヤコさんのときも、この流れがあったんだ)
正直、驚きはない。あの人は真珠君を息子のように可愛がっている。目に入れても痛くないほど。黙っているはずがないし――まして、許すはずもない。
「真珠君。教えてくれないかな」
「実はね……」
どうやら“丸山さん”という人に現場のノウハウを教わるうち、自分の体が足りていないと分かって、鍛え始めたらしい。その人は格闘技の経験もあって、ついでに教わっている、と。
「身体を鍛えるのは分かったけど。格闘技までやらなくて良いんじゃないかな?」
「え、えっと」
「こんな傷だらけになって」
私は顔を伏せ、指先で真珠の手や頬の絆創膏をそっとなぞる。ガーゼ越しに、体温を感じる。その傷を触れるだけで不安が胸の中で膨らんでいく、
「だってよ。坊主。ちゃんと全部伝えないとな」
「全部?」
社長がニヤニヤと口元をゆるめる。真珠は恨めしそうに社長を見上げ、それから私を見て、諦めたように息を吸った。
「僕ね、いざってときにお姉ちゃんやミヤコさんを守りたいんだ。まだまだ子供だからお金とかは無理だけど、守ってあげれる男になりたい」
「真珠君」
鼓動が早くなる。胸の内側がじわっと熱くなり、目に水がたまる。
そんな言葉、私に向けられたことはなかった。信じて身を預けることができたなら、どれほど幸福だろう。
【あなたなんて! 産まなければ良かった】
酒に酔った母の声が、不意に蘇る。結局、母は迎えに来なかった。私は愛されていない。だから“アイシテル”が分からない。分からないけど――
「真珠君。ありがとう」
この子の言葉だけは、否定したくない。たとえ、その瞳があのときの私と同じ色でも。真珠の言葉には、嘘がない。
それはそれとして。
「凄く嬉しいよ。だけど、私に黙っていたのは何でなのかなぁー?」
「お、お姉ちゃん?」
「お姉ちゃん悲しいなぁ。現場の仕事の話とか格闘技の話とか、電話では一度も聞いたことないんだけどぉ?」
私はそのまま抱きしめる腕に、少しだけ力を込める。真珠は焦って社長を見る。
「まぁ、お前が悪いわな」
社長はそれだけ言って、台所へ消えた。
(あぁ、ちゃんと私は今、嘘をつけているだろうか)
腕の中でわたわたする義弟を抱き直しながら考える。私はこの子の“姉”として、ちゃんとできているだろうか。
答えはまだ分からない。けれど――この温もりを、しばらく離したくないと思ってしまう。