僕は一般人です   作:~のほほん~

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母親なんだ

芸能界にアイが復帰してから数ヶ月が経った。

朝の光がテーブルの木目をなぞり、コーヒーの湯気に甘い香りが混ざる。ここしばらくは――平穏と言っていい。

 

B小町は、アイがいなくなってから低迷していた。けれど、ある日を境にそれぞれが個性を立てはじめ、いまは“アイだけのグループ”ではない。ファン層は分かれる。だが、それが強みになった。

戻ってきた直後は、メンバーからの謝罪も含め、いくつかの厄介ごとがあった。それでもテレビに呼ばれる数は増え、人気は着実に戻っている。

 

「今月の給料、三十万………」

 

「いや、結構多いでしょ」

 

「まぁ、前と比べても増えてるけどさ〜」

 

「お姉ちゃん、急にどうしたの?」

 

「いやね、世の中結局お金って気付いたの」

 

「嫌なことに気づいたわね」

 

「この子達を幸せにするためにももっと私が稼がないと」

 

アイはルビーを抱いた腕の力を少しだけ強める。その声は、笑っているのに芯が真面目だった。けれど――

 

「じゃあそのアイスやめたら?」

 

「無理だね」

 

「節約という発想を持ちなさいよ」

 

高いアイスを食べながらだと、説得力は皆無だ。

アイスの木べらが、カップの縁で小さく鳴った。言葉の説得力は木べら程度だが、ミヤコは知っている。アイが高いものに飛びつく性格じゃないことを。化粧水も服も気張らないし、外食は滅多にしない。何より、声帯から睡眠まで、自己管理の徹底ぶりは職人めいている。―双子の世話のために家へ足繁く通うようになってから、アイのプロ意識の高さがいっそう際立った。

天性の才といわれていたものの努力の正体を知ったときに、B小町の子たちと差ができるはずだ。と納得したものだ。

 

「はぁ、レッスンいってきまーす」

 

「あ、じゃあ僕も丸山さんのところに行ってくるから」

 

「じゃあ途中までは一緒だね〜」

 

玄関を出る前に「いい子にしてるんだよ」と双子へ声をかけ、二人は出ていく。扉が閉まる音が遠のくころ、ルビーが口を開いた。

 

「ねぇ、アイドルって100万くらいもらえるものじゃないの?」

 

まだ一歳にも満たない赤子が流暢に話している。普通なら卒倒だが――

 

「んなわけ無いだろ」

 

「無いの⁉」

 

ルビーが目を丸くする。ミヤコはいつかの自分を思い出す。驚きすぎて、ソファの肘掛けに額をぶつけ、気絶しかけた日を。今は、笑って受け止められる。慣れは、案外、救いだ。

 

真珠が来たばかりの頃は、借りてきた猫みたいに静かだった。大人の顔色を読むのが上手で、我儘を言わない。母親代わりとしては、もっと困らせてほしいとすら思った。彼の“我儘”はせいぜい「ココアを買ってほしい」とか「格闘技を習いたい」とか、その程度だ。だから、余った母性を、このしゃべる双子に注げるだろう――と、思っていた。

 

「キャー、ママの今のターン見た⁉ 表現力やばすぎない⁉」

 

「おい、ルビー。ミヤコさんが起きたらどうすんだ」

 

めっちゃ喋ってる。しかも流暢に。

 

「え、夢?」

 

ここで素知らぬ顔をしていればよかった。なのに私は――その瞬間から、この“神の使い”を名乗る赤子たちの下僕になった。

 

「あ、いいこと思いついた。ファンが持ち回りで肝臓を売ればいいんだ」

 

「おい、お前の考え方が終わってんじゃねーか」

 

遠い目をしながら、私は思う。「真珠君の可愛さが際立つわね」と。

 

「うちの事務所で三十万はあの子達にとってかなりの大金ですよ?」

 

「でもママって仕事あんまりないよね」

 

「だな。今日もレッスンに行ってるし。おい!もっと営業かけろ」

 

「そうは言っても、以前のB小町であればアイさん単体を売り出して仕事を埋めることもできますけど、今は無理ですよ」

 

「以前のってどういうこと?」

 

「今のB小町はそれぞれがファッションやトーク、歌唱力において才能があります。アイさんが絶対的なセンターということは変わりませんけどね」

 

B小町は変わった。壱護のやり方も、かつての“単独推し”から自然と離れていった。

真珠君が丸山さんと知り合ってから、メンバー宛のオファーが急に増えた。芸能界特有の闇に触れたのでは、と壱護を問い詰めもしたが、違った。

出先で会う人に、うちのタレントの良さをその場で語る――それだけ。知らなかった一面への興味が生まれ、オファーに繋がっていた。かなり信じがたかったが、事実だった。

 

真珠君の吸収は異常に早い。話術、人の顔、好み、交わした話――まるで復習したかのようにすらすらと出てくる。だからこそ、話題に上がったタレントの名が、相手の記憶に残る。

天才――そう言って片付けたくもなった。だが、違う。

 

「え?」

 

コツがあれば私も知っておきたい。仕事に活かせるかもしれない――そんな甘い考えでたずねたとき。

 

「いつも思い出すようにしてるんだ。流石にずっとは覚えてられないよ」

 

ポケットから取り出した手帳の罫線は、隙間がないほど文字で埋まっていた。ページの角は少し柔らかい。彼はそれを見せながら、笑う。

 

「こうしておけばすぐに思い出せるから。前にミヤコさんが教えてくれたでしょ?」

 

普通のメモだ。社会人の基本として教えたこと。けれど彼は、そこに書いたことを全部暗記し、忘れたら暗記をやり直していた。

 

「た、大変じゃないの?」

 

「大変だよ。だからやっぱりミヤコさんたちは凄いよ」

 

この子にとって“大変”は、やめる理由にならない。できるまで続ける。その笑顔が、少しだけ痛い。

なぜ私は、この笑顔の正体に向き合わなかったのだろう。

彼が天才ではないと分かっていたのに。

一緒にいたいと願っていたのに。

私は、一度として、そのことに向き合わなかった。

 

 

「はぁ」

 

「お姉ちゃん、大丈夫?」

 

「んー、やっぱり気分乗らないなぁ」

 

「あんまり考えすぎるのも良くないよ?」

 

「そうなんだけどね〜。やっぱり考えちゃうよ」

 

改札口の手前で、アイは長めに息を吐いた。朝のラッシュがとっくに終わった駅は、床のタイルに薄い光が差している。エスカレーターの金属が微かに油の匂いを返した。

 

「お姉ちゃん変わったよね」

 

「え?」

 

「なんかこうシャンとした感じがする」

 

「しゃん?」

 

「んーと、だらしなくない感じ?」

 

「え、私だらしなかったの⁉」

 

「あ! 服装とかじゃないよ。朝起きて来ないとか、髪の毛ボサボサとか、あとは――」

 

「あ、はい。私が悪かったのでやめてください」

 

「怒ってるとかじゃないよ?」

 

「えー、絶対怒ってるでしょ」

 

「もう慣れたし、怒らないよ」

 

なんでもないように言う義弟に、泣いたほうがいいのか笑うほうがいいのか分からなくなる。情けなさはある。けれど、迷惑をかけるなんて今さらだ――と、息を吐く。

 

「それで私がシャンとした、だっけ?」

 

「うん。アクアとルビーが来てから凄くママみたいになった気がする」

 

「ママって真珠君のお母さんの?」

 

「優しくて温かいのはいつもと変わらないけど、なんて言ったらいいかな」

 

彼は少し首を傾げる。私は、真珠の母のことを詳しくは知らない。ミヤコさんや真珠の話から、私とはかけ離れた人のように思っていた。似ていると言われても、すっとは飲み込めない。

 

「あ、目だ。目が似てるんだ」

 

「目?」

 

「そう。アクアとルビーを見るときの目がママと似てるんだよね」

 

納得した顔で先に歩く背中。私はその言葉が胸に引っかかったまま、笑顔を作って並ぶ。

 

私はまだ“アイシテル”が分からない。

だから、あの子達にも“アイシテル”と言ったことがない。

その言葉が嘘だと分かったとき、私は私を許せなくなる気がするから。

 

だけど――少しだけ、いまの言葉で勇気が出た。

 

そっか。私は――

 

母親なんだ。

 

言葉にはならない。けれど、確信に似た温度だけが胸に残る。

黄昏の光みたいな、その温度。今日は、少しだけ頑張れそうだ。

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