望みが絶たれると書いて、絶望。
その言葉の意味は知っている。けれど、それが体温を持って胸に落ちるとき、人はまだ「人」でいられるのだろうか。
慈しみ、憎しみ、喜び、悲しみ、楽しみ、怒り——
どれも、どこかで幸福と手をつないでいる。
あなたは知っているだろうか。
幸福というものの
僕が五歳のころ、幸福は音もなく消えた。
その日は朝から何も特別じゃなかった。保育園の砂場は濡れていて、雲は薄く、先生は笛を首から下げていた。帰り道の電柱は長い影を落として、僕の歩幅はそれを跨ぐたび少し得意になった。
ただひとつ違ったのは——その日、初めて「絶望」という言葉の重さと、「恐怖」という感情の形を、身体で知ってしまったこと。そして、かけがえのない「愛情」という言葉の意味を、うすぼんやりと理解してしまったこと。
幸せは、ときどき、とても唐突に終わる。
僕の家は、どうやら「ふつう」と違うらしい。
それは、周りの子どもたちや、そのお母さんたちの視線で、子どもなりに察していた。よそよそしく、でもどこか「かわいそう」を混ぜた目。母子家庭、というらしい。何がいけないのか、僕にはわからなかった。
「真珠、遅くなってごめんね」
夕焼けが園舎を染めるころ、母は息を弾ませて迎えに来る。髪をひとつに束ね、額に汗を光らせ、それでも笑っていた。
僕は保育園でいちばん遅くまで残ることが多かった。最初は先生が折り紙を折ってくれたり絵本を読んでくれたりしたけれど、毎日となると手が回らない。それでも寂しくはなかった。一人でいる時間は、僕にとってただの「いつも」だったから。
なにより——必ず迎えに来てくれる人がいる。それだけで、十分だった。
「今日の夜ごはん、ハンバーグにしよっか」
「ほんと!」
「ええ。真珠も手伝ってくれる?」
「うん! ママ、丸めるのへたっぴだからね」
「真珠、それは“個性的”って言うの」
「へぇ〜」
「その、信じてない目をやめなさい」
母は笑って、僕の頬をむにむにとつまむ。ハンドクリームと洗剤の混じった匂い。温かい指先。僕はくすぐったくて笑い、母も目尻を下げた。
どれだけ大変でも、笑って迎えに来てくれた。
どれだけ忙しくても、僕との時間を切り取ってくれた。
どれだけ疲れていても、台所に立ってくれた。
だから——目の前の光景が信じられなかった。
『あなたのことを、いつまでも愛しているわ』
それは、母の最後の言葉になった。
玄関のドアが閉まる音。見知らぬ男の靴。台所に残る玉ねぎの甘い匂いに、尖ったアルコールの匂いが混じる。母はいつものように僕を抱きしめ、名前を呼んだ。けれど、その腕から体温がゆっくり抜けていく。冬の窓ガラスみたいに、触れたところから冷えていく。
低い声が、母の背の向こうから落ちてきた。
「てめえにいくら貢いだと思ってんだ」
知らない男がいた。怒っていた。握られた包丁の銀色が、台所の灯りを鈍く跳ね返す。
乾いた衝撃。ぐう、と空気が押し出される音。母の体越しに蹴りの力が伝わる。
「俺はお前をこんなに愛してたのに、“仕事ですから”ってなんだよ」
どうして——僕のママに、そんなことを。
前に出たかった。やめてって言いたかった。でも、身体は怖さに固まって動かなかった。母の抱く力が強くなる。顔は見えない。冷たさが増す。鉄の匂いが鼻の奥に貼りつく。
足元に、温かいものが広がっていく。靴下が重くなる。五歳の僕には、それが何か、わからなかった。
男は罵り、何度も何度も世界が傾いた。時間の感覚はほどけて、音だけが濃くなる。
ふと、音が止んだ。
男がこちらをにらむ。現実感のなさが、恐怖を上回っていた。男は苛立ったように僕の髪を掴む。痛い。反射的に、僕は母の服を握りしめる。離れたくない。離したら、もう戻れない。
頬に走る痛みで、現実が戻る。目の端が焼けるように熱い。男は嗤っている。僕の怯えを見て、笑っている。
嗤いは続き、痛みは重なり、意識はほどけ、視界は涙でにじんだ。
——ママ、たすけて。
母の背は、見たことのない色で濡れていた。
そして僕は、暗い底へ落ちていった。
目が覚めたとき、天井は白かった。
蛍光灯の明滅。消毒液の匂い。シーツのざらつき。首を少し動かすだけで、細い針を何十本も刺されたみたいな痛みが走る。声を出そうとしても喉がうまく動かず、空気だけが漏れた。
「目が覚めたんですね」
白い服の人が顔をのぞきこむ。ナースコールの音、靴音、白衣、スーツ。代わる代わる人が現れて、僕に話しかける。目元を押さえる人、涙を拭く人。どうしてみんな、泣きそうな顔をするのだろう。
——ママは、どこ?
何度眠って何度起きたのか、わからない。目を開けるたび、痛みは別の場所で鳴っていた。眠っているのに、眠気は波のように押し寄せる。海に浮かぶみたいに、遠く近く、世界が行き来する。
少しずつ言葉が出るようになったころ。面会に来る人たちに「ママは?」と訊いた。みんな困った顔をして、何も言わず帰っていった。
ある日。ノック。扉が開き、若い男と皺の深いおじさんが入ってきた。
おじさんはベッドの高さまで腰を落とし、名刺を差し出した。
「警察の○○(まるまる)と言います。いまお話しできるのは二つだけ。どちらも、君が話したくなかったら話さなくていい。途中でつらくなったら、この手を“とんとん”って叩いて止めてくれる? すぐに休憩しよう。お水も用意してあるよ」
ゆっくり、区切りながら、低い声で言う。
「それから、ここにいる看護師さんはずっとそばにいる。僕は君を責めに来たんじゃない。安全を確認したくて来た。いいかな」
僕は、小さくうなずいた。おじさんは続ける。
「一つめ。きのうの夜から今日まで、君の体に痛いことや怖いことが起きないよう、病院と僕たちで守れているか。何か困っていることはない?」
僕は、首を横に振った。おじさんは「教えてくれてありがとう」と言って、少し間を置く。
「二つめ。お母さんと一緒にいた“おとなの人”のこと。思い出したくないことは言わなくていい。覚えている範囲で、声の感じとか、着ていたものの色とか、遠くからでもわかる手がかり——たとえば眼鏡とか、帽子とか——そういう“ヒント”を、あとで紙に一緒に書けるかな。今日は、ここまででもいい」
若い男が口を開きかけたが、おじさんは視線だけで制した。
「最後に大事なこと。君は何も悪くない。困ったら、いつでも止めていい。次に話すのは、君が“いいよ”って合図してくれたときだけ。どうする?」
僕は、おじさんの手の甲を、そっと“とん”と叩いた。今日は、ここまででいい——そう合図したかった。おじさんは小さくうなずき、「ありがとう。よく頑張ったね」と言った。
胸の奥から、獣の声みたいな音が漏れた。自分のものだと気づくまで、少し時間がいった。看護師さんが僕を抱きしめ、「大丈夫、大丈夫」と耳元で繰り返す。白い部屋に、嗚咽だけが満ちていく。
——ああ、この音は、僕が泣いている声なんだ。
どれくらい泣いたのか、わからない。
それから、病室に来る警察の人はおじさんだけになった。おじさんは、何度も、深く頭を下げて謝った。謝られても困るのに、僕は「うん」とうなずいた。この人は、僕がうなずくまでここに座り続ける人だ、と目を見てわかったから。
おじさんは、僕が知りたいことだけを、知りたい分だけ教えてくれた。
——僕は一週間、眠っていたこと。
——あの人は、母の仕事の客だったこと。
——そして、まだ見つかっていないこと。
その間中、おじさんは「ここで止める?」と何度も合図をくれた。僕が首を振ると、それ以上は踏み込まなかった。数日後、約束どおり「紙でのヒント」を書く時間が来た。おじさんはクレヨンと画用紙を置き、「色だけでも十分だよ」と言った。僕は震える手で、黒と灰色を塗った。おじさんは「ありがとう。これは勇気の色だ」とだけ言い、名刺の裏に、困ったらこのベルを鳴らしてねと、小さな鈴の絵を描いた。その夜、枕元で鈴の絵を見て、少しだけ眠れたよ。夢のなかで、ハンバーグは丸くて、温かかった。葬儀のこと、これからの暮らしのこと。言葉は胸の中でから回り、現実はいつまでも紙のように薄かった。
私、斎藤ミヤコには、ひとりの姉がいた。
姉は、太陽みたいな人だった。売れそびれて港区女子をやっていた私のことも、見放さなかった。学生のころから誰からも好かれて、優しくて、どうやっても眩しかった。
眩しいから、嫉妬もした。意地悪を言って泣かせた夜は、最後には私の方が抱きしめられていた。姉が好きだった。たぶん、今までも、これからも。
いつの間にか、姉は未亡人になった。事情は聞かない。聞けない。ある日、姉の部屋のドアを開けたら、見知らぬ子どもがいた。
「姉さん? その子は?」
「みーちゃん。久しぶり」
「久しぶりはいいけど、説明がない」
「この子は真珠。正真正銘、私の子」
「いや、いつ結婚したの」
「男には、逃げられちゃった」
ぺろっと舌を出す。童顔のあどけなさは、年齢を裏切る。呆れ、でも安心した。いつもの姉だ。優しくて、私を甘やかす、世界に一人の姉。
その後、私は斎藤壱護と結婚した。小さな芸能プロダクション。けれど、夢を見るには十分だ。
星野アイという子に出会ったとき、最初は「顔のいい田舎娘」くらいに思っていた。けれど、ある日を境に、目が変わった。立ち方が変わった。ステージに立つと、空気の向きが変わる。
歌う。踊る。笑う。観客の視線を面でさらう。その一瞬に、私は「あ、私の領分じゃない」と悟った。悔しいけど、美しかった。彼女は、私に新しい夢を見せた。
B小町のライブのあと、私用の携帯が鳴る。着信は「姉」。仕事中で一度は切ったのに、すぐまた鳴る。珍しい。嫌な勘が、背筋を撫でた。
「どうしたの、姉さん? 今は——」
「斎藤あかり様のご家族の方でしょうか」
知らない女性の声。病院の、事務的な響き。心臓が、ひとつ落ちた。
「——本日、亡くなられました」
足が勝手に走った。壱護に伝えると、「全部やっておく。いいから行け」と背中を押した。普段は頼りないところもある男だけど、そのときばかりは格好よかった。タクシーを飛ばし、病院へ。
霊安室。白い布。めくると、そこに眠る姉の顔。静かで、きれいで、何も言ってくれない。床が歪んだ。泣いた。どれだけ泣いたか覚えていない。ただ、壱護が幼い子の手を引くみたいにして、家まで連れて帰ってくれたことだけ覚えている。
三日、何もできなかった。けれど、時間は残酷に進む。葬儀、手続き、役所、電話。壱護が、ほとんどを片付けてくれた。
「おい、ミヤコ。行くぞ」
「どこに」
「病院だ」
一瞬、何のことかと思った。壱護は短く続ける。
「お前の姉貴、子どもがいるらしい」
忘れていた。いや、忘れたふりをしていた。あのとき一度だけ会った子。真珠。電話で姉がよく話していたから、嫉妬して、私は距離を置いた。今思えば、なんて子どもっぽい。
「しかも今、ICUにいる。かなりの重傷だ」
言葉が、喉で固まった。
ICUのガラス越し。小さな身体は包帯に覆われ、腫れで輪郭がわからない。包帯のない場所の方が少ない。その現実が、私の浅はかさを照らし出す。
医師の説明は、途切れ途切れにしか入ってこない。
「出血多量、頭部を含む多発骨折、腹部の損傷……」
その間、私の視線はずっと一点を見ていた。そこにいる「命」の形だけを。
「ねえ、壱護」
「ん」
「なんで、私をここに連れてきたの」
「呼ばれたからってのもあるけどな。……お前、姉貴のこと、好きだったろ」
その言葉で、胸の奥に、もうひとつの夢が生まれた。
この子の笑顔が見たい。姉に似た目が、また光るのを見たい。もう一度、姉に会えるみたいに。
壱護が言う。
「いいぞ」
「……え?」
「その子、引き取っても」
意味がわからなかった。うちは弱小プロ。星野アイを養子に迎えただけで手一杯。それなのに、さらにひとり?
「俺もわがままで、アイを迎えた。ひとり増えたところで、変わらんさ」
嘘だ。大変に決まってる。けれど彼は、逃げない方を選んだ。
「お前も、あいつのドームライブ、一緒に見たいだろ」
その誘いはずるい。泣き笑いしながら、私は言った。
「壱護。ありがとう」
一週間が過ぎ、真珠はICUを出た。
病室の扉を開けた瞬間、私は後悔した。期待していた自分を。あの子は姉じゃない。五歳の子どもだ。失ったものを、誰かで埋めようとした自分を、恥じた。
ベッドの上の真珠は目を開けていた。細い腕。点滴。枕元には、折り紙で作った星がひとつ。看護師さんがこっそり置いたのだろう。彼の瞳と目が合う。
深い水たまりをのぞき込むみたいだった。暗い、というより、深い。すべてを映して、すべてを沈めるみたいに。私の浅ましさが、そこで形になる。
私は、ゆっくり息を吸った。笑おうとしたけれど、うまくできない。
「はじめまして、真珠。私はミヤコ。君の——母さんの妹」
震えないよう、丁寧に言葉を置く。
真珠は瞬きをひとつして、目元を少しだけ緩めた。笑顔とは呼べない。でも、確かな「反応」があった。
私は椅子を引き寄せ、ベッドの横に座る。手を差し出す。小さな手が、ためらいがちに指先だけ触れた。温度が重なる。泣きそうになるのを、ぐっとこらえた。
「これから、面倒くさいことがたくさんある。役所、保育園、病院。私、得意じゃない。でも、壱護がいる。仲間もいる。だから——」
言いながら、私は自分に言っていた。
「だから、一緒にやっていこう」
そのとき、病室のドアがノックされた。担当の看護師さんが顔を出し、目だけで「よかったですね」と笑った。
——それが、後に“家族”になる私たちと、真珠との、最初の出会いだった。
そして私は知った。幸福というものの
それは、失われたあとにも残る。誰かに手渡され、形を変えて、また灯る。手の中の、小さな温度から。
いつか、この子が笑う日まで。
いつか、姉に胸を張って報告できる日まで。
私は、何度でも扉を開ける。何度でも、名前を呼ぶ。