僕は一般人です   作:~のほほん~

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鍛錬

ピピピ。

 

目覚ましの電子音が、静かな部屋の天井を軽く震わせる。ミヤコさんたちを起こさないよう、すぐ止める。

時刻は6時00分。冬の空気は冷たく、肺に入るたび頭の靄が引いていく。布団の温みを背に、カーテンを引く。窓の外は曇天。薄い灰色の光が床に落ちる。

 

「今日は曇りか」

 

洗面所の明かりを落としたまま、蛇口の金属の冷たさに指先がすぼむ。

 

「おう、今日も早いな坊主」

 

「おじちゃん、おはよう」

 

鏡の前で剃り残しを探す壱護さんの横で、僕は歯ブラシを取る。ミントの匂いが鼻に抜ける。

 

「にしても、精がでるな?」

 

「??」

 

「いや、今日も走りに行くんだろ?」

 

「うん。今日は公園の周りを走ってくるつもり」

 

「そうか。今日はちょっと早く出なきゃいけないから戸締まりよろしくな?」

 

「あれ?ミヤコさんは?」

 

「ミヤコのやつならまだ寝てる。昨日は遅かったみたいだからな」

 

「じゃあ起こさないようにしないとね」

 

「あぁ、そうしてやってくれ。ドームまで後一週間、あいつに風邪でも引かれたから大変だからよ」

 

「楽しみにしてたもんね」

 

「おう。ミヤコもそうだが、俺の夢でもあったからな。今日もその打ち合わせがあるからもう行くな」

 

「分かった。気をつけてね」

 

「ありがとな」

 

行き際に大きな掌が頭を撫でる。指先の温度が、額に残る。

 

「あ、そういや今日」

 

「どうしたの?」

 

「いやな、アイのやつがお前に会いたがってたからよ。時間があったら連絡してやってくれ」

 

「お姉ちゃんが?」

 

「おう、最近あいつも忙しくて会えてなかったろ?」

 

「え?アクアとルビーとお留守番してたときとか会ってるよ?」

 

「あいつ曰く、マシロニウムが足らんらしいぞ?」

 

「ましろにうむ?」

 

「あんまり気にするな。とりあえずもっと話したいらしい」

 

軽く笑い合って、靴音が遠ざかる。

 

「じゃあ、学校に行く前にでも会いに行ってくるよ」

 

「遅刻しないようにな」

 

「はーい」

 

玄関の戸が閉まる音が、家の朝を締める。

 

 

寒い空気を肺に送りながら、一定のリズムで走る。曇天は低い。胸の奥がざわつく。それでも足は乱さない。吐く息は白い。

 

『いいか?身体を鍛えるっていうのは二つある』

 

『二つ?』

 

頼み込んだ初日、丸山さんは一度は断った。焦るな、と。粘った末、基本ならと折れてくれた。

 

『そうだ。そもそもだがお前は何で鍛えたいんだ?』

 

『それはミヤコさんやお姉ちゃんを守りたいから』

 

『何で守る?誰かに狙われてるのか?』

 

『え?いや、そういうわけじゃないと思うけど』

 

『じゃあ何でお前は力を手にしたい?』

 

まっすぐ見られる。子ども扱いしない眼。そこに憧れる。

 

『だって、いざというときに何もできないから』

 

その日だけ、少し踏み込んだ。

 

『いざ?』

 

『うん。だって簡単に死んじゃうでしょ?』

 

『っ!』

 

『何もできないのは嫌だ。もう守られるだけなのも』

 

俯いた唇が何かを結ぶ。音は拾えない。

 

『よし!わかった!!まずは基礎から教えてやる』

 

『いいの?』

 

『おう、気が変わった。お前が望む力は俺がやる。だからな真珠。お前はお前が正しいと思うことをしろ』

 

『正しいと思うこと』

 

『そうだ。さっきも言ったが鍛えるってのは二つある。1つ目だが筋力トレーニングや持久力トレーニングといったアスリート向きの鍛え方だ。こいつは修練と呼ぶ事が多いな』

 

小さなホワイトボードに太い線が走る。空気が変わる。

 

『だが、お前に教えるのは2つ目の方だ。鍛錬、こいつを教えてやる』

 

『鍛錬?』

 

『おう。かの有名な武芸者、宮本武蔵は千日の稽古を『鍛』とし、万日の稽古を『練』とする。と言ったそうだ。つまり、お前の身体を芯から鍛えるってことだ』

 

『??』

 

『まぁ、今はわからんくてもいい。そのうち分かる日がくる。きっとお前が望んだときにその身体は応えてくれるからな』

 

砂の端に立ち、右足の母趾球で土を捉える。手の甲に冬の風。骨盤を立て、みぞおちをわずかに締める。

 

「シィ」

 

正拳突き。握った指の皮が内側で引きつる。手首は真っ直ぐ、肘は腰骨の前で止める。肩は上げない。伸び切る直前で一拍。衝突の反響が前腕の骨に乾く。戻しは来た道のまま、肘から。

一、二、三。十を超えると背中の内側が温まる。二十で前腕が重い。三十で白い息が濃い。四十で第二関節が熱を持つ。百まで崩さない。それだけを考える。

 

回し蹴り。軸足の踵を砂にねじ込む。股関節を外に“掛け”、膝で円を描く。足の甲ではなく脛でぶつける意識。振り終わりで腰が流れないよう、内ももで制動。砂粒がふくらはぎに跳ねる。

十本、土踏まずが疲れる。二十本、呼吸が乱れそうになる瞬間、短く吐き切る。肩は落とす。視線は一点。三十本、汗が耳の後ろを伝い、襟足に集まる。音が近い。自分の呼吸音だ。

 

前蹴り。臍の下で“畳み”、膝を真っ直ぐに突き上げる。足刀のエッジで押し出す。腰椎が反らないよう腹を締める。着地は静かに。膝、足首、母趾球。

二十で大腿直筋が焼ける。三十でふくらはぎに細い痙攣。やめない。形を守る。形が守る。五十、胃の奥が熱い。七十、喉が乾く。九十、膝が笑う。百。静かに下ろす。

 

両掌を腿に置き、三呼吸。吸う。吐く。吸う。吐く。最後に深く吸って、長く吐く。指先が少し痺れている。痛みではない。熱だ。

背中の汗が風に冷やされる前に、もう一度走る。足音が、体内時計に重なる。

 

 

シャワーの湯気。タオルの糊気。指の節は赤い。熱だけが芯に残る。

ココアを淹れ、食パンを焼く。コップに牛乳。冷蔵庫からヨーグルト。

 

「真珠君、おはよう。今日は早いわね」

 

「ミヤコさん、おはよう。ちょっと目が覚めちゃってね。ブラックでいい?」

 

「ありがとう。いただくわ」

 

湯気越しにコーヒーの香りが広がる。カップの縁が薄く曇る。

 

「ドームまであと一週間だね」

 

「そうね。ここまで長かったわ」

 

「色々あったからね」

 

言った途端、ミヤコさんの表情が一拍だけ曇る。すぐに笑みに戻る。

 

「ふふ、真珠君は本当に姉さんに似てきたわね」

 

「ママに?」

 

「ええ」

 

「えー?どこらへんがだろ?」

 

「そうね。笑った顔とかは似てると思うわよ?」

 

ママの顔を思い出そうとすると、白い空間だけが残る。声も、体温も、年を追うごとに薄れていく。だから、夢の中では復習をする。形と基礎。覚えたものは裏切らない。

 

「あ、もうこんな時間。ちょっとお姉ちゃんのところに寄るからもう行くね」

 

「アイさんのところに?」

 

「うん。おじちゃんがましろにうむ?が足りないって」

 

「あぁ、なるほどね」

 

「気をつけていくのよ?」

 

「はーい。行ってきます」

 

ココアを飲み干し、食器を流しへ。靴を履くと、背中にやわらかな重み。

 

「ミヤコさん?」

 

「なんとなくね。少しだけ良いかしら?」

 

「うん。僕も安心するから」

 

腕の輪が胸の前で重なる。鼓動が掌に伝わる。胸の奥で、熱がふくらむ。

 

「行ってらっしゃい。真珠君」

 

「うん。ミヤコさんまたね」

 

扉を開ける。冷たい廊下の空気が、頬に触れる。

 

 

ソレは、今までに視たことのない色だった。

黒ではない。彩があるのに、底だけが“昏い”。冷たく、皮膚の内側から鳥肌を起こさせる色。

 

お姉ちゃんの玄関先。黒いパーカーの男。掌には白い花。最初は白さだけをきれいだと思った。目を凝らしてやっと気づく。束の中心、ビニールの隙間から、ひときわ冷たい色がにじんでいる。

 

【あなたのことを】

 

ママの最後の言葉が、唐突に胸で反響する。

 

――声を上げろ。今すぐ動け。

頭の命令ははっきりしているのに、踵が床に縫い付けられたみたいだ。足指が靴の中で丸まり、爪が布を掴む。太腿の内側がこわばり、膝が鍵になる。喉は乾いているのに、唾が重い。舌が厚い。息が浅く、胸が浮く。視界の縁が狭まる。音が遠い。

 

ガチャ。

鍵の音。扉が開く。

 

駄目だ!開けないでお姉ちゃん!

心の中で叫ぶほど、ふくらはぎに熱が集まる。流れない。脳が「走れ」と送り続けるたび、筋肉は小さく痙攣するだけ。肩が上がり、肘が体側に貼りつく。手の中の血が引く。掌が冷える。

 

【このクソ女が】

 

過去の音が、現在の空気に混じる。あの日は痛みの輪郭しかなかったのに、今日は恐怖に温度がある。大きな手足が骨と血の上を踏みにじる映像だけが、熱を持って繰り返される。体は逃げ方ではなく、固まる方法を覚えている。

 

動け。

動け。

――動け。

繰り返すほど、身体は小さく震えるだけ。声帯は震えず、呼気だけが喉の奥で擦れる。名前を呼ぼうとして、空気だけが出る。砂みたいな息。

 

男の足先が一歩、ドア枠の影をまたぐ。白い花が玄関の明かりで鈍く光る。包装のビニールが微かに鳴る。その薄い音が、やけに大きい。

 

『真珠君』

 

お姉ちゃんが僕を呼ぶ。

 

「はーい」

 

口だけが先に動く。誰かに引き出されたみたいに。自分の声だと気づくのに半拍遅れる。膝はまだ固い。踵はまだ床。指の根本だけ、わずかに解ける。

 

「アイ。ドーム公演おめでとう。双子の子供は元気?」

 

知らない男の声が、玄関の空気に混ざる。その言葉の温度だけが、場の温度から浮いている。背中に冷えが降りる。鼓動が耳の後ろで跳ね返る。――まだ間に合う。

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