私にとって、今の生活はきっと幸福なのだろう。
頬にかかる髪をそっと払って、並んで眠る子どもたちを見た。布団のぬくもり。浅い寝息。まぶたの薄い光。
アクアは私より頭が良い。大人と話しているみたいに要領がいいのに、真珠君といるときは年相応の弟になる。
ルビーはきっと私に似た美人になる。お遊戯会の踊りは本当に可愛かった。願いがあるとすれば、真珠君とももう少し仲良くなってほしい、それくらい。
私は、まだこの子たちに「アイシテル」と言えていない。
胸の奥にある熱を言葉に替える勇気が足りない。臆病な私は真珠君にもらった勇気だけでは、もう一歩が出ない。
明日なら言えるかもしれないと、明日を信じる。
玄関のチャイムが鳴った。
二人を起こさないように身を起こす。けれどベッドがわずかに揺れたのか、二人とも目をこすって起きてしまう。
「私が出るから、二人共、顔洗っておいてね」
寝ぼけ眼の仕草に、また温かなものが胸に満ちる。その余韻のまま、廊下へ。
今日は頭が冴えていた。考えが澄む。周囲の動きがゆっくりに見える。自分を少し外から見ているみたいだ。
すごく不思議な感覚だった。
玄関のノブに触れるとひんやりした金属の感触が掌から伝わってくる。
この感覚には覚えがあった。
そうだ。抹茶ラテを奢ってもらった、あの日から始まったんだと思う。
社長は、私のような人間をアイドルにした。私は自分があまり好きじゃなかった。今でも、嘘でアイを振りまく私を完全には好きになれない。
それでも良いと言ってくれて、ありがとう。
あの言葉があったから、つまらない日常は終わり、今の家族に辿り着けた。
ミヤコさんにも、ありがとう。最初はB小町は仲良しグループで、私が馬鹿をやると、いつも突っ込んでくれた。私は答えだけを求めすぎて、笑顔を調律し、嘘で距離を広げてしまったのに。グループを壊さず支えてくれたのは、ずっとミヤコさんだった。
鍵を開け、ドアノブをひねる。扉が開く。
その人の顔がゆっくりと視界に入る。長身の男。手には白い花。
あ、確かよく握手会に来てくれていた人だ。
「アイ」
なんで自宅の場所を知っているんだろう?
白い花束が奇麗だなぁ。
「ドーム公演おめでとう」
あ、そうそう確か名前は亮介君――そう思って、笑顔を作ろうとした。
だが、花の奥で光るものが目に入る。
「双子の子供は元気?」
ナイフだ、と理解した瞬間。
――前に出演したときのテレビのクイズ番組の答えがよぎる。
まるですべてがゆっくりと進むような感覚。
みんなへの感謝と記憶の回想。
あの時はどんな感覚なんだろうと思ったけど、これが、走馬灯なんだ。
お腹へ向かう刃先を見つめながら、感謝と懺悔が胸で絡まる。
社長、ごめんね。ドーム、行けそうにないや。
ミヤコさん、いつもアクアとルビーを見てくれてありがとう。ちょっとだけ母親みたいだなって、甘えたりしてごめんね。
ルビーとアクアのランドセル姿、見たかったなぁ。中学と高校の制服も似合うだろうなぁ。
母娘共演とか憧れちゃったりして。アクアは俳優さんになれちゃうだろうな。一緒に映画、出たかったなぁ。
止まらない。
思考は加速しても体は動かない。まるで決められていた物語のようにこれは、きっと刺さる。
確信に近かった。そして私が死ぬということもなんとなくわかってしまった。
あぁ、死にたくない。
【お姉ちゃん】
真珠君の声が、聞こえた気がした。
彼がいたから私は姉になれて、母になれた。
真珠君、私は君に――
伝えたい言葉は続かなかった。
目を閉じる。恐怖を遅らせ、今の幸福を一瞬でも延ばすために。
衝撃。小さな手の圧。重心が崩れ、尻餅をつく。
お腹に痛みはない。驚きが、胸を満たした。
(何が起きたの?)
恐る恐る目を開ける。
そこには、いつもより大きく見える真珠君の背中。
*
「アイ。ドーム公演おめでとう。双子の子供は元気?」
その言葉より先に、身体が動いた。
胸の奥の命令——動け。指がほどけ、足裏が床を噛む。膝がゆるみ、重心が前へ落ちる。
(よかった。ちゃんと動いてくれた)
さっきまで胸を凍らせていた恐怖が、いまは静かだ。冷えた血が一気に巡る。疲れの残る脚にも力が集まる。
僕はあの日から変わっていない。身長が伸びるほど、その答えは濃くなる。生きるためじゃなく、会うために生きている自分。捨てられない願い。
勉強も、運動も、裏方も——やりたいのは本当だ。けれど、みんなのような熱は宿っていない。あれは憧れ。僕には、求める資格がないと、どこかで決めていた。
お姉ちゃんと男の間に、身体を滑り込ませる。
花束のビニールがバサと鳴り、茎の固さが前腕に当たる。花ごとドアに叩きつけるようにタックル。同時に、お姉ちゃんの肩を押し、後ろへ滑らせた。踵が敷居をかく。
男は大きくよろめく。
間に合った——と、肺がひとつ深く鳴る。だが、まだ男の手にナイフ。刃の面が玄関灯を薄く返す。鼓動が波打つ。
「なん、何なんだよ! お前!」
「うっ」
振り下ろし。左目に熱が走る。焼けるような痛み。鉄の味が尾行を抜ける。視界が白く弾け、膝が抜ける。
「真珠君!」
「アイ、なんでなんだよ。子供なんてこさえやがって、俺達を騙しやがって、どうせ俺達のことなんて!」
男の叫び。切っ先はお姉ちゃんへ。
色は濁っている。哀しみを帯びた色。けれど、さっき視た冷たい色とは違う。そこには恐怖だけが混じっている。
「俺達ファンを心のなかで馬鹿にしてたんだろ!」
「そんなことないよ」
「嘘を——」
「嘘じゃないよ」
玄関に光が満ちる。
お姉ちゃんの目が、まっすぐ返す。声の温度が空気を変える。頬の痛みが遠のき、光だけが残る。
「私にとって嘘はアイ。私なりの伝え方であなた達にアイシテルを伝えたいと思ってた。それは今でも変わらないよ」
その言葉はどこまでも温かいように感じた。
——あの日、支えたいと思った。
この輝きを、支えたいと。
「嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だぁぁぁぁぁぁぁ」
男が走る。切っ先はお姉ちゃんへと向け、
「ママ!」
扉の陰からルビーがお姉ちゃんの前に飛び出した。まるで身代わりになるかのように。
お姉ちゃんが何かを叫ぶ。
だが男は止まらない。
また守れない。何もできない。
失意が脳を満たす。
ナンデボクハココデウズクマッテルノ?
胸の底で、黒い輝きが灯る。
【てめぇにいくら貢いだと思ってんだ!! あぁ? 子供なんてこさえやがって】
【クソっクソっクソっクソっ】
あの日の記憶は、どうでもよくなった。
暴力という恐怖も、今日だけは遠い。
今、目の前で奪われることの方が、怖い。
胸の底のドロドロが、形を持つ。
六年、燃えも冷めもしなかった塊に、熱が入る。
いまは、この感情に身を委ねよう。
停まった時間の中、滑るように前へ。ルビーと男の間に体を入れ込んだ。
腹に、顔よりも深い痛み——刃が入る。燃えるような熱が体を犯す。吐息が漏れるが、叫びは要らない。
意志が静かに体を占め、迷いの隙間が消える。
シュッ。
軽く握った拳を、容赦なく喉元へ打ち込む。拳頭が軟骨を叩いた感触。空気の通り道が潰れ、カヒュと細い音がこぼれる。頸が折り曲がり、頭が落ちる。僕の高さまで。
狙いは一点。鼻。
前足で床を掻き、腰を切る。
ドゴン。
短い直線。乾いた衝撃。僕よりもはるかに体の大きい男の上体が跳ね、玄関の砂と写真立てが床へ落ちる。ガラスが割れる音とその中に入っていた砂が星のように散る。
静寂のひと息。
目と目がぶつかる。視線は逸らさない。
何かを言った気がする。覚えてはいない。
ふわりとした浮遊感が全身を満たす。
背後で、お姉ちゃんとアクア、ルビーの声。
——守れた。いや、護れたんだ。
言葉が胸に溶け、喜びが滲む。
ミヤコさんやおじちゃんに、怒られちゃうな。
散った砂と、写真に紅が広がる。
力が抜けた。
いつの間にか目の前のルビーがいて、泣いていた。
この子は、いつでも真っ直ぐだ。泣いて、笑って、喜んで、怒って。
僕の妹は泣き顔も、可愛い。
お姉ちゃんとアクアが慌てる気配がする。
頭の中を靄が支配する。何も考えられるない。嘘のように思考がほどける。
——なんとなく、ママに会える気がした。
あたたかさに身を預け、目を閉じる。
沈む意識の縁で、誰かの声がした気がした。