僕は一般人です   作:~のほほん~

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残された者

診察室の蛍光灯が白く鳴る。

消毒液の匂い。緊迫した空気だけが部屋の中を包んでいた。

 

「俗に言う、植物状態というものだね」

 

医者――英はじめ。真珠の手術を担当した外科のスペシャリストだ。天気の話でもするみたいに告げる。その調子に苛立ちが喉に残るが、続きを待つ。

 

「あの出血の量で生きていられたのは奇跡としか言いようがない」

 

視線は書類へ落ちたまま。責める棘はない。興味というだけが医者の顔には浮かんでいた。

 

「輸血も無事に済んではいますが、あれだけの出血です。脳に甚大なダメージがあっても不思議ではない」

 

「…真珠はこのまま目を覚まさないのでしょうか?」

 

「その可能性も視野に入れていただいたほうがいいでしょうね。もう何日かは様子を見ますが、こればかりは運としかいいようがありませんから」

 

空気が沈む。ミヤコは俯いたまま黙し、アイは視線を落としている。俺も胸がざわつく。だが、ここで感情に寄っても意味がない。

 

「それに彼の体には今回のじゃない傷もありますね」

 

その一言で、俺とミヤコの指先が同時に強張る。星野家にはまだ話していない真珠の過去。

言えば、この温かさが軋む気がした。

 

「それは話さないと治療に大きく影響しますか?」

 

「なんとも言えませんね。私が見てきた症例でも、ここまで酷く壊された形跡のあるクライアントは初めてなもので」

 

「壊された?」

 

置物のように静かだったアイが、反射で言葉を拾う。

 

「英先生、その話はできれば――」「ねぇ。斉藤社長」

 

名前を間違えず呼ばれたことに、一瞬だけ胸が動く。だが、場がそれを許さない。アイの声音もまた。

 

「それってどういうことなの? 真珠君が社長たちの養子になったことと関係があるの?」

 

「それはだな――」「壱護、いいわよ」「ミヤコ、いいのか?」

 

「ええ。アイさんは真珠君を本当の弟のように可愛がってくれてたから。それに、こんなにあの子のために泣いてくれる子に教えないのは可哀想よ」

 

「ミヤコさん」

 

「それに、アイさんももう娘みたいなものなのだもの」

 

「はぁ、分かったよ。お前が良いなら俺は別に止めねぇよ。でも子供たちは――」「私も聞きたい」

 

「いやな、ルビー。あんまり子供に聞かせる話じゃないんだよ」

 

「でも真珠お兄ちゃんにまだ謝れてないもん。やっと謝れると思ったのに」

 

ルビーがまた泣きそうになる。アクアがそっとハンカチで目元を拭う。

 

「俺達も兄さんのことを知りたいよ。...だって家族じゃないか」

 

「アクアまで」

 

「ほぉ、ここまでIQが高そうな子供は初めて見ました」

 

英先生はどこか間の抜けた声で二人を凝視する。「これはギフテッドってやつなのかな? 脳はどんな形なんだろう。見てみたいなぁ」と小声が漏れるが、背後の看護師に小突かれて黙った。

 

「まぁ、俺も警察から聞いた話しか知らんから多くは語れないがな。あいつは五歳の頃にもICUに入っていたことがあるんだ」

 

「五歳」

 

「俺たちと同じくらいか」

 

「アイは知ってると思うが、あいつはミヤコの姉貴の息子さんだ。それを俺等が引き取って養子にしたんだ」

 

そこで言葉を区切る。何から話すべきか、喉で言葉が渋る。

 

「あの怪我だと事故とかではなさそうですねぇ」

 

「英先生。このことは他言無用でお願いしますよ」

 

「ええ。医者として患者のプライバシーは守りますよ」

 

「……あいつは、目の前で母親を殺された後に男から暴行を受けてるんです」

 

時間が止まった。ミヤコは顔を伏せ、静かに泣く。アイもアクアもルビーも、信じられないものを見る目になる。部屋の空気だけが重さを増していく。

 

「その時は搬送された病院はわかりますか?」

 

「確か〇〇病院ですね」

 

「至急、カルテを取り寄せて。それと、その様子だとカウンセリングもあったはずだから、その担当医に連絡を」

 

先ほどまでの飄々とした気配を脱ぎ捨て、英先生は的確に指示を飛ばす。

 

「さて、斉藤さん。カウンセリングは私の担当ではないのでお力になれるかわかりませんが、その頃なにか気になることはありましたか? 例えば言動や行動におかしなところはありませんでしたか?」

 

「カウンセラーの先生から何も症状は伺えないと。一度産婦人科の先生にも相談してみたのですが、気になるところはないと」

 

「何も、ですか」

 

「俺達もPTSDとか少し遅れてやってくることもあるって聞いていたので備えてはいたのですが、そういったこともなく……」

 

伝え終えると、英先生はひとしきり考え、「少し他の医者にも聞いてみようかと思います」と残して部屋を出た。ドアが静かに閉まる。

 

「ねぇ、社長。さっきの話って」

 

「あぁ、嘘じゃねぇよ。警察の話じゃあ、あいつの母親は最後まで真珠を守っていたらしい。その証拠に、あいつの服からはミヤコの姉貴と同じ血液が検出されてる」

 

「じゃあ真珠君は」

 

「そうだよ。あいつは眼の前で、自分の母親がナイフで殺されるのを見てるんだ」

 

「そんなのって」

 

「しかもその後には体が歪むほど殴られたらしい。幸い子供の体っていうこともあって骨とかはきれいに治っちゃいるが、あいつの身体は――」

 

「もういいよ。社長」

 

アイが遮る。これ以上は酷だと判断したのか、ただ顔を上げない。

気が付けば、俺の目から涙が零れていた。

 

静寂。時計の秒針が乾く。

 

「まぁ、前も戻ってきたんだ、また――」

 

「もう帰ってこないわよ」

 

「は?」

 

空気を変えようとした言葉を、ミヤコが否定で断つ。その意味に怒りが込み上がり、思わず詰め寄る。だが、彼女の目を見た瞬間、踏みとどまるしかなかった。

 

「壱護。あの子はね。姉さんとの再会だけを望んでたの」

 

涙が音もなく零れるつづける。ただただ静かに、頬を伝う。

 

「あの子はまだ姉さんとのお別れができてないのよ」

 

「は? 何言って――」「だから!」

 

「まだあの子の中では姉さんは死んでないのよ。わたし達と生活してればその内変わるかとも思ったけど。……でも、無理だった。あの子は姉さんだけを、ずっと、ずっと想って生きてきたのよ」

 

「ミヤコさん。どういうこと?」

 

アイがそっと近づき、背をさする。言葉が降りてくるのを待つ。

 

「あの子が我儘を言わないのは、良い子でいるためだって言ったことがあるの。良い子でいればママのもとに行けるからって」

 

「うん。それで?」

 

「最初は私も、それでも良いと思った。でも違ったの。あの子はあの日から何も進んでない。それどころか、あの日、一緒に死ねなかったことに罪悪感すら覚えてる」

 

「何でそんなことがわかるんだよ」

 

「...壱護はあの子の部屋に入ったことなかったわよね」

 

言われて気づく。確かに、あいつはいつも事務所にいるか、リビングか、アイの家にいた。

だから特に理由もなく入る必要性がなかった。

 

「あなたは知らないと思うけど、あの子の部屋にはね。本棚があるのよ」

 

「だから何だよ」

 

「確か小学校一年生くらいのときだったかしら。手紙をもらったのは覚えてる?」

 

「当たり前だろ」

 

「私も貰ったよ?」

 

「あの子から毎年もらえる手紙。あの手紙はね、姉さん宛にもあったのよ」

 

背筋に嫌な感覚が走る。だが、ミヤコは続けた。

 

「あの子の部屋にある本棚の中にはノートしかないの。最初は日記かと思ってた。でも違った。あれは全部、姉さんに向けて書かれてた手紙だった」

 

「ノートって」

 

「あの子は四年間、姉さんに向けて手紙を書き続けているの。今日あったことや嬉しかったこと、頑張ったこと。それから――」

 

諦めにも似た表情で、顔を伏せる。

 

「起きると姉さんに会えなくて寂しいことを書きつづけているの。……だから、真珠君が戻ってきてくれることはないわ。あの子には、この世界は厳しすぎるもの」

 

 

この世界は残酷で厳しい。嘘と欺瞞で満ち、人を傷つける。

 

だがひとつだけ、勘違いがあった。

 

真珠は主人公じゃない。世界にとっては、ただの歯車にすら届かない。

だから世界線は揺れず、今日も世界は回る――はずだった。

 

しかし、主人公は生きている。

 

この世界を魅了する偶像が終わり、本来の星野アイが産声を上げる。嘘をまとい、欺瞞で魅了し、その瞳で全てを飲み込む究極のアイドル。本来なら愛を知り、死に向かうはずの世界線。

 

それが覆る。

 

嘘も欺瞞も呑み込む、本当の愛を知った少女の瞳が、力強く光る。

 

「大丈夫。絶対に真珠君は戻って来るよ」

 

偶像を演じていた少女はいない。愛を知り、命の尊さを知った少女は前を向く。

 

「だって」

 

恐れはない。私はあの子のお姉ちゃんだから。

 

「真珠くんは私たちのこと大好きだからね」

 

アイの手には、昔、真珠から貰った手紙が握られている。

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