僕は一般人です   作:~のほほん~

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包容

朝ごはんを食べる。リハビリをする。お昼ごはんを食べる。看護師さんが来る。夜ごはんを食べる。お風呂に入る。

 

配膳車のカタンという音。味噌汁の湯気の匂い。壁のバーは少し冷たくて、手のひらがきゅっと縮む。——あの日から、世界はずっとガラス越しみたいで現実味がない。ごはんは温度だけが残り、ひとの声はテレビの向こうの音みたいに遠い。時間だけが進む。痛みはまだ体のあちこちに点々とあるのに、骨の奥まで凍るみたいな、あの日の恐怖はここにはない。

 

眠るのがこわくなった。看護師さんにそれを伝えると、「こわい夢を見たのかな?」と言われた。ちがう。知らない誰かが襲ってくるのは、もうこわくない。こわいのは——

 

「起きたら、ママと会えないから」

 

そう言ったとき、看護師さんの目に水がたまって、ゆっくり赤くなった。お医者さんは何かをこらえるみたいに視線を落とした。ふたりの周りから、青がにじむのが視える。目が覚めてからというもの、ひとの周りに色がにじむように視えるのだ。意味はよくわからない。ただ、明るいとあたたかくて、暗いとつめたい感じがする。どちらが正しいとかはない。視えたからって何が変わるわけでもない。——ママは戻らない。

 

午前はリハビリ。灰色がかった色の理学療法士さんは、ぼくのペースに呼吸を合わせてくれる。バーにつかまって立つと、関節の奥で小さな石が転がるみたいな音がする。「きょうはここまでにしよう。痛みは?」と尋ねられ、「ガラスを踏んだみたい」と言うと、「そっか」と短く笑った。その笑い声だけが、現実に少し重さを与える。

 

その日、看護師さんの後ろから、茶色の髪の女の人が現れた。マスク越しでも、目の形が知っている形に見えた。体が先に動いた。点滴スタンドを引きずって、駆け寄って、抱きついた。

 

——ママだ、と思った。

 

「えっ?」

 

頭の上で戸惑いの声が揺れ、ぼくは顔を上げた。似ている。けれど、ちょっとちがう。目のふちの影、笑う前の小さな間。胸の奥で、なにかがすうっと抜けて、足の力がほどけた。

 

「あ、あれ……ママじゃ、ない?」

 

手がほどける。その人は逃がさないみたいに、でも壊さないように、そっと抱きとめてくれた。彼女のまわりに、薄い橙がにじんで視えた。あたたかい色だった。

 

***

 

「奇跡的な回復力です」

 

医師はカルテを閉じ、私——ミヤコ——のほうを見た。並んだ数値の説明は要点だけに絞られている。

 

「数値上の課題は残っていますが、受傷から二週間でここまで戻るのは非常にまれです。骨は仮骨ができていて、癒合が進んでいます。内臓機能も安定傾向です。もう二週間から一か月ほどで、日常生活に大きな支障はない程度まで回復するでしょう」

 

胸をなで下ろしかけた私に、医師は言葉を選ぶように続けた。

 

「ただし、心の回復には時間が必要です。強いストレスによる『現実感喪失(デリアライゼーション)』や『離人感』に近い訴えがみられます。眠りと“いない”が結びついてしまっている。大人でもつらい状態です」

 

医者は一度私に顔向けなおしながら続ける。

 

「警察からの情報では、お母様の最期の場を感覚として“体験”してしまっている可能性が高い。衣類からはお母様の血液反応も検出されています。身体的暴力も過度でした。……ですからまず、“安全の手順”と“合図”を一緒に作ってください。夜、怖くなったらどうするか。言葉が出ないときに何で知らせるか。息が速くなったら、誰が、何をするか。紙に書いて、繰り返し練習しておくと良いでしょう」

 

一拍おいて、医師はまっすぐ言った。

 

「今は少し落ち着いていますが、ご自身を傷つけてしまう危険性が常にあると心にとどめておいてください。周囲の支えが鍵ですが、対処が難しい場合はすぐに連絡をしてください。」

 

私はうなずいた。離さない、と心の底で決めた。

 

***

 

足に抱きついていた少年が、離れようとする。私は反射的に抱きとめた。姉が昔、私にしてくれたみたいに、背中を小さく円を描くようになでる。彼の手は軽く震えていた。

 

「はじめまして、真珠くん。私はあなたのママの妹、ミヤコ」

 

「……いもうと?」

 

「そう。お母さんは、これからも“お母さん”のままね。私はミヤコ。ミヤコって呼んでいいよ。これからは私も家族。だから、ひとりじゃない」

 

真珠くんの瞳が、こちらを真っ直ぐにとらえ、そこに水がたまっていく。音のない涙がぽろぽろ落ちる。私は言葉を足さず、抱きしめる力だけをすこし強くした。

 

「夜が怖いときは、ことばが出ないときは——私の手を“とんとん”って二回叩いてね。私が必ず行くから」

 

そう告げると、彼は小さくうなずいた。長いまつ毛に、涙がもう一滴だけ残っていた。

 

 

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