夜の帳が下りた街の片隅にひっそりと佇むバー。薄暗い照明の下で、一人の男がカウンターに身を寄せていた。
彼の前には、深みのある木製カウンターに置かれた琥珀色のウイスキーのグラス。液面は灯りを受けて金色にきらめき、静かに時を刻むようにゆっくりと輪を描く。男は思い詰めた表情でグラスを傾け、もう一方の手で煙草を口へ運ぶ。甘苦い煙が静かに立ち上り、店内の空気へ溶けていく。その揺らぎには、かすかな寂寥が宿っていた。マスターである褐色の若い男性は黙々とグラスを磨き、ときおり男へ視線を投げる。
カウンターに座る男の名は、丸山龍。
(……歳を取ったな)
テレビ局での仕事を終えた龍にとって、こうしてバーで飲むのはささやかな習慣だ。物思いにふける姿は、どこか映画の一場面を思わせる。
「おやっさんがそんな顔するなんて……明日は雪か?」
マスターの青年の一言が静寂を破る。旧知の仲らしい気軽な声に、龍は口元をゆるめ、よく知る名を呼んだ。
「……氷室。おかわり」
「はいよ」
空になったグラスを渡し、煙草をひと口。特有の香りが口腔から肺へ落ち、鼻腔から静かに抜けていく。
「お前がバーテンダーとはな」
「似合うだろ?」
「あぁ、少し癪だがな」
氷室と呼ばれた褐色の青年は楽しそうに笑う。その姿がどこか今の愛弟子と重なりさらに口角が緩くなるのを感じる。
「あの火竜とも言われた男の姿には見えねぇな」
「………やめろよ。もう引退したんだ」
「あんたの名は中でも有名だよ。特に狼弎区では英雄だからな」
客が他にいないからなのか氷室の言葉はやけに響いたように聞こえる。
「誰が聞いてるかわからねぇんだ。そこまでにしとけ」
「…悪かったよ。今のあんたにはタブーだったよな」
「俺は二度とあそこには戻らないと決めてるんだ。だから゛将軍゛にもよろしく伝えておいてくれ」
――中。
そこは東京に存在する隔離都市の名称である。表向きは【広範囲に有毒ガスが発生しているため住民はごく少数】とされる。だが実際は多種多様な人間がひしめき、日々の殺し合いが当たり前と化した、地獄のような場所だ。
龍も“中”の出身で、故郷と呼べなくはない。だが表で生きると決めてからは、一度たりとも寄りつかない。
あれは人を飲み込む。一度踏み入った者を、二度と陽の下へ戻さない――そんな意思が宿った魔窟だ。
(……だからこそ俺は芸能界で生きていけてるんだろうけどな)
皮肉めいたその言葉に内心笑ってしまう。芸能界も表の世界じゃ魔窟と言われているが、あそこは正真正銘の地獄だ。あそこにいる人間は吹っ切れたやつとかではない。そもそもとして人間の形をしているだけの別の生物たちが跋扈している。
「にしてもおやっさんがテレビ局でプロデューサーとは驚いたね」
「そうか?」
「そりゃあ驚くよ。だってあの火竜だぜ?」
――火竜。
その名は“中”における怪物の呼び名であり、裏格闘技の世界では伝説とまで言われた存在でもあった。龍の戦いは苛烈を極め、その頑強な肉体は岩のように揺るがず、力は龍が天を舞うかのごとく圧倒的だった。
氷室も、彼の闘いぶりを目の当たりにして鳥肌が立ったのを覚えている。まだその格闘団体に参戦はしていなかったが、初めて見たとき、格の違いを思い知らされた。
「俺もいつかあんたと闘ってみたかったんだけどな」
そう呟く氷室の声は安堵と寂寥感が包まれており、バーの空間に静かに溶け込んでいく。
「俺は今のほうが楽しいんだ。…貯金もあるしな。もう戻ることはないだろう」
「へぇ、そんなに今の仕事は楽しいのか?」
「ああ、楽しいさ」
いつもひたむきに手伝ってくれている愛弟子の顔を思い出しながら、ウイスキーを煽る。
「……氷室」
「ん?」
「俺はもうお前と拳を交えることはないだろう。だけどな、今育ててる弟子は――きっとお前を超えるぞ」
「……おやっさん。弟子なんていたのか?」
グラスを拭きながらぽかんと口を開ける美青年は「闘いしか脳がなさそうなおやっさんに弟子?死なないか?」と失礼なことをのたまっている。
「まだ中学生だけどな」
「いや、若すぎだろ。……まさかおやっ「知り合いの息子だ」……だよな。信じてたよ。うん。おやっさんはロリコンじゃないって」
「ったく。あいつは強くなる」
「おやっさんがそんなに褒めるなんてな。そんなに才能があるやつなのか?」
「才能か。なぁ、氷室。才能ってなんなんだろうな」
「は?おやっさんらしくないな」
「あいつを見てるとそんな気がしてならないんだよ」
「……そこまで褒めるなんて。俺もうかうかしてられないな」
(違うんだよ、氷室。あいつは凡夫だ。身体がでかくなる才能も徒手格闘の才能もない。それなのにーーー)
龍は軽く鳩尾のあたりを擦る。まだ微かに痛みを感じる気がするそこはこの間、真珠と組み手をしたときに効かせられた場所だった。
(…子どもの成長は早いな)
Yシャツの袖から出る腕は太く、肩幅の広さから筋肉質であることがわかる。
龍と真珠が師弟関係を結んでから早二年。
裏方志望の少年はいつしか相棒と呼ぶくらい逞しくなり、頼りがいも出てきた。まだまだひよっこだか、龍が嫌いな書類業務だけは超えられた気がする。
成長を心から嬉しく思いながらも、どこかで危惧する。
強い力は、魔物を呼ぶ。
それは龍の人生経験から来る、直感に近いものだ。ナイフで刺され、死の淵に立ちながらもなお、強さを求める。才能のない身体で努力を重ね、ついには俺に一撃を通した。頑強さに定評のあったこの身体は今も健在。裏格闘技を辞めた今も鍛錬は欠かしたことがない。“中”の出身にとって、死はいつも隣にある。だから、手を抜くという発想が怖くてできない。
その腹筋を、正面から貫いてみせた――愛弟子。まだ齢十四ほどの少年に、龍は畏怖を覚える。
まだ齢14ほどの少年に畏怖を覚える。
(そういえば初めて会ったときもそうだったな)
【それでも良いんだ】
あの日の光景はかなり朧げになってしまったが今でも思い出すことが出来る。
気圧された。
片手で捻り潰せそうな小さい体をした子供から発せられた言葉に畏怖を抱いた。そして興味をもった。
その瞳には何が映っているのか知りたくなった。中に住んでればその瞳が何なのかはわかった。絶望の瞳だと、だけど【支えたい】。その言葉を言える人間に出会ったのは初めてだった。
だから弟子にした。
最初はうろちょろして邪魔に見えた。だが、すぐにその認識を改めることになる。
人がやりたがらない仕事。どんな現場でも、仕事を進める以上、必ず発生する。しわ寄せは若い世代にのしかかり、業務量は増え、負の感情がたまる。結果として進行は遅れ、空気は悪くなり、収録自体にも影響が出る。
真珠は人をよく“視て”いる。困っている、つらそうだ、体調が悪そう――そんな些細なサインを見逃さない。才能と呼べるのかもしれない。だが、彼の過去を知れば、その一言で片付けるのが失礼だと分かる。
真珠はよく動く。知らないことがある、足を引っ張っている――それを自覚した上で、前に出る。あの年で、そこまで“個”が立っているのは珍しいが、それは武器になる。正しい方角を知り、学ぶために挑み、時間をかける。
一度見せればできる天才ではない。けれど、スポンジのように教えたことを吸収し、時間をかけて咀嚼し、自分の血肉に変える。その姿に、龍は確かな好感を抱いた。
(……ふぅ。今日も上手い)
煙草の煙がゆらゆらと仄暗いバーの明かりを漂い、幻想的な空間を演出している。
バーにはいるのは男が二人。
そこにいるのは、“火竜”と恐れられ、血で染まった怪物ではない。優しい顔でグラスを見つめる、ただの人間が一人、静かに腰を下ろしているだけだった。