僕は一般人です   作:~のほほん~

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今日もこれからも

白い空間が広がる。

 

見渡すかぎり白い――その場所に立つのは、初めてではなかった。

 

「…………次」

 

ここにいるあいだは、時間を気にしなくていい。

一言で表すなら、ここは“夢”と呼ぶのが相応しいのかもしれない。

 

ママに会いたいと願っていた頃から、僕はここへ来られるようになった。目を瞑り、水に沈んでいくような感覚。瞼から力が抜け、身体の緊張の糸がほどけると、いつもここに辿り着けた。

 

ここでは、できることしかできない。けれど“僕にできること”なら、いくらでも練習できる。だからここで、丸山さんから教わった基礎を、ひたすら反復する。

 

(………あの時の感覚)

 

それは、いつもの稽古だった。僕の攻めでは丸山さんのガードを突破できず、身体がこわばっていく。

 

力みと脱力。

 

丸山さん曰く、「それができると、できないで圧倒的に地力が変わる」のだという。僕はその“力み”から、まだ上手く抜け出せていないらしい。

 

だけど、あの時。

初めて、丸山さんの表情が変わった。まるで導かれるように、イメージと動きが寸分違わずシンクロした感覚。

 

――当たる。

 

直後、頭の中を駆け抜ける確信。確信は妄想ではなく現実となり、丸山さんの分厚い筋肉を貫く。拳が筋肉の隙間に入り込むみたいに刺さり、確かな手応えが拳から伝わってきた。

この日、初めて、その顔が歪む。殴られた場所を撫でながら、

 

「……成長したな」

 

嬉しそうに笑った。けれどその後、いくら練習しても、あの一撃は再現できなかった。

 

反復する。

僕には才能なんてものはないから。

ひたすらに、繰り返す。

僕は天才ではないから。

 

一つ一つ、丁寧に。気が遠くなりそうになり、早めたい衝動が頭をもたげるたび、理性で押し戻す。

 

凡夫には凡夫なりのやり方がある。

それは、ひたすら努力しろとか、諦めるなという根性論じゃない。

 

“今できる努力”を、集中して、実行する。

闇雲ではなく、正確に目標を定める。

理想を追求し続ける。

前へ進め。と脳がーーーー心が叫び続ける。

 

僕は、カッコいい男になるのだから。

 

不意に、白い空間から浮き上がるような感覚が身体を襲う。

 

(……もう終わりか)

 

この感覚は何度も経験している。焦りはない。重力がなくなったようにも感じる、これは“目覚め”の兆候。

意識が、現実へと戻っていく。

 

*********

 

直後、鳩尾のあたりを何かが貫いた。

 

「グフッ!」

 

唐突な衝撃。クリティカルな一撃に、僕は思わず変な声を漏らす。

 

「あ、やば。やり過ぎちゃった」

 

ここは斉藤家のリビング。

大きめのソファとテーブルが置かれたシンプルな部屋に、三人の子どもがいる。一人は中学生くらいの少年。もう二人は、まだ小学校低学年ほどの少年少女。

 

少し焦った声が耳に届くけれど、痛みでそれどころではない。

お腹に視線を落とすと――金色の髪が少し伸び、宝石みたいな瞳がピンクに輝く。可愛らしい少女が、焦った表情でこちらを見上げている。

 

「……ルビー。お兄ちゃん、もう少し手加減してもらえると嬉しいかも」

 

その柔らかな髪を乱さないように、そっと撫でながら名前を呼ぶ。猫みたいに目を細め、ぐりぐりとお腹に頭を押しつけてくる妹は、

 

「うん! 次から気をつけるね!!」

 

「……それ、昨日も一昨日も聞いた気がするよ」

 

たぶん、あまり気をつけてくれない。

ルビーはあれから少し成長し、小学生になった。幼稚園の頃も可愛かったけれど、いっそう可愛さに磨きがかかり、元来の天真爛漫さも相まって、実に元気に、すくすく育っている。

 

「……真珠お兄ちゃん。重くない?」

 

「羽のように軽いよ」

 

小学生になって、さすがに少し重くはなった。けれどまだ抱き上げられる。脇に手を差し入れて持ち上げると、“たかいたかーい”に、さらに嬉しそうな笑顔が弾ける。こっちまで嬉しくなる。

 

「兄さん、あんまりルビーを甘やかさないでよ?」

 

いつの間にか隣で本を読んでいたアクアが、僕たちをたしなめる。

 

「お兄ちゃん! 真珠お兄ちゃんを見習ってよ!! レディーに“重い”とか絶対言っちゃ駄目だから!!」

 

どうやら体重の話は、以前のアクアとのやり取りらしい。アクアも成長し、知的な雰囲気の美少年になった。その証拠に、僕でも読むのが大変なサイコロ本を平然と開いている。

 

「重いとは言ってないだろ」

 

「おんぶしてくれなかったじゃん!」

 

「僕、ランドセルより重いものは持てないんだ」

 

「絶対嘘じゃん!」

 

この二人は、いつも仲が良い(?)。姉さんも喜んでいる。喧嘩らしい喧嘩をしているのを、僕は見たことがない。まあ、喧嘩になりそうでも、アクアが上手くルビーを甘やかすから、大事にならないだけなんだけど。

 

「……兄さん、なに?」

 

「ん? なんとなく。……アクアはいつも偉いなって」

 

「恥ずかしいんだけど」

 

「まあまあ、ご褒美ご褒美」

 

「むぅ」

 

気づけば、アクアの頭も撫でていた。僕の髪とは違う金色は、一本一本がさらさらで、つい宝石みたいに思えてしまう。

ルビーと違って、アクアはあまり感情を表に出さない。だから基本的に、強引に甘やかすことのほうが多い。姉さんも困っていたけれど、それを話したら、めっちゃ構いに行っていた。アクアも嫌がらないから――きっと、喜んでいる。と思いたい。

 

「私は!」

 

「はいはい」

 

そんなこんなでルビーからも催促が飛び、僕の両手は“さらさらの宝石”を撫でる幸せに満たされた。

 

********

 

ソファの前に、三人分のココアを置くと、真っ先にルビーがマグカップへ手を伸ばす。

 

「熱いから気をつけてね」

 

「うん! ってアチ」

 

「……ルビーは芸人でも目指してるの?」

 

見事な回収芸に、つい笑ってしまう。恨めしそうな目でこちらをにらみながら、ふうふうと冷ます仕草も可愛らしい。

 

「いじわる。私がアイドルになりたいの、知ってるくせに」

 

あらら、拗ねちゃった。

 

「ごめんって。でも、ルビーなら何にだってなれちゃいそうだね」

 

「でしょー!」

 

「兄さん、あんまり調子に乗らせると可哀想だよ?」

 

「ちょっと! お兄ちゃん、どういう意味⁉」

 

「嘘なんて言ってないよ。ルビーもアクアも、二人とも何でもできるさ」

 

「真珠お兄ちゃんって、ほんとにブラコンでシスコンだよね」

 

未だココアと格闘中の妹から、まさかの風評被害。まあ、たしかに人よりふたりを大事に思っているし、超かわいいと思っているけれど、そんな“コンプレックス”ってほどじゃない。……よね?

 

「兄さんはマザコンでもあるけどね」

 

さらに追撃。中学生の多感な時期としては、やや恥ずかしい。けれど、家族が大事で大好きなのは事実。否定しづらい。

 

「普通じゃない?」

 

「「絶対違うね」」

 

どうやら“普通”ではないらしい。

まあ、嫌われるよりはずっといい。今は、この幸せを噛みしめよう。

 

**********

 

あれから三年が経った。

あの日、兄さんが死ぬかもしれない――あの、助けたかった少年が死ぬかもしれない。

 

雨宮吾郎として、星野アクアとして、俺は恐怖を覚えた。

けれど、それは杞憂だった。

けろっと生き返ったかと思えば、ライブに行きたいと駄々をこねる兄の姿に、肩の力が抜けたのを覚えている。

 

アイ。母さんが地方ロケに行くとき、俺とルビーは斉藤家に来ることが多い。

というのも、地方だと泊まり込みが多くなる。さすがに小学生を留守番させるわけにはいかない。

 

苺プロはいまや業界から一目置かれている。ドームライブの成功もそうだが、現在のB小町をはじめ、タレントたちの影響力はかなりのものらしい。

 

ミヤコさんの話では、会社は中規模に成長し、発信力も高く、タレントの発言力も強い。ここ数年で、着実に急成長を遂げていた。だが、その反動も出た。

 

――スタッフ不足。

もともと少人数で回していた苺プロは、急成長に人員が追いつかない。所属タレント数に対してスタッフが圧倒的に少ない。その結果、壱護さんとミヤコさんは常に引っ張りだこ。兄さんも、以前ほどは会えていないみたいだ。

 

「ふんふんふーん」

 

そんな兄さんはいま、夕飯を作っている。鼻歌でリズムを刻みながらフライパンを振る手付きは、手慣れたものに見える。

 

兄さんを“天才”と呼んでいいのか、俺には分からない。目の前の机では、パソコンに苺プロの経理書類がずらっと並ぶ。苺プロがいま辛うじて回っているのは、兄さんが書類業務のすべてを引き受けているからだ。

それが、中学生にできることなのか?

 

兄さんが遊んでいる姿を、俺はほとんど見たことがない。普通なら部活や友達づきあいで忙しい年頃だ。なのに俺たちの世話を焼き、丸山って人のところにも通っている。

 

本当に中学生なのか――そう思うことが多々ある。疑問は、俺と同じ“前世持ち”の転生者なんじゃないか、という考えにまで及んだが――

 

「ねぇ、真珠お兄ちゃんは前世の記憶とかあるの?」

 

「前世??」

 

(何やってんだぁぁぁぁぁ)

 

……ルビーが正面から聞いてしまった。やめろバカ、と心の中で頭を抱えたが、兄さんは少し考えたあと、

「前世はないけど、来世での約束はあるよ?」

と答えた。

 

ルビーはどこか悲しそうで、どこかホッとした顔。俺としては、“来世の約束”が気になって仕方ない。……結局、教えてはくれなかったけど。

 

「アクアー、ルビー、できたよ」

 

「はーい」「今、行くよ」

 

テーブルに並んだ料理は湯気を立て、やさしい香りが成長期の俺の胃と心を揺さぶる。

 

「いただきます」「いただきます」「いただきます」

 

兄さんに追いつくために、俺は俺で“俳優”になる道を選んだ。

 

「アクアの演技。僕は好きだよ?」

 

その言葉が、いまも胸に灯っている。五反田監督に弟子入りし、子役として少しは売れた。けれど時が経つほどに、才能がないことを思い知らされる。

 

――だけど、才能がないからって、諦めるのは違うよな。

 

今日も俺たちは仲良く過ごしている。いつか母さんと共演して、ルビーがアイドルになったら全力で応援に行って、それを兄さんが支えてくれて、いつの日か、みんなでひとつの作品に出たい。

 

幸せな願いが、少年の心を満たしていく。

それは、幸せで、穏やかで、温かな未来。

この幸せが続いてほしい――心から、そう願う。

 

星野アクアは本来、殺された母の復讐を誓う復讐者だ。

しかし、斉藤真珠というイレギュラーの影響で、母は死なず、彼は“復讐の鬼”にはならなかった。

 

その世界線の枝は、切り落とされた。

 

だが、世界は。交わった世界においても、なお彼に、その道を選ばせようとする。

 

幸福には――狂気を。

平穏には――破滅を。

 

夢の時間は、刻一刻と終わりを告げる。

 

そこに、壊れた砂時計はない。ただ進む秒針だけがある。

 

愛を知り、愛を伝え、輝きを生んだ――眩耀のごとき物語は、幕を閉じる。

 

これから始まるのは、出会いと離別、成長と崩落の物語。

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