月明かりが照らす路地裏。
僕は、赤く染まった自分の手を見つめる。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息が上がり、鼓動がうるさい。夏の気配を運ぶ熱のこもった風が、汗ばむシャツの内側を抜け、逆に体温を奪っていく。
(…………なんで。…こんな……)
目の前には見知らぬ男。格好はどう見てもただのサラリーマン――その手には、黒い警棒。
真珠には、その男に見覚えがない。恨まれる覚えも、ない。なのに、この男からは「僕を殺そうとする色」が“視える”。冷たく、胃の底が反転するような色が、薄暗い路地を満たしている。
「……ったく。いいの、もらっちゃったよ」
――数時間前に遡る。
真珠はいつものように帰宅していた。少し眠気を誘う授業を終え、高橋と片寄と途中まで歩き、いつもの角で手を振る。
そう、何も変わらない一日になるはずだった。
「あの~」
「……ん?」
最初に来たのは、気持ちの悪い違和感だった。見た目はごく普通のサラリーマン風の男。だが滲み出る色は、初めて“視る”。まるで生きていない何かの色。
「すみません。斉藤真珠さんですよね?」
「えっと……すみません。人違い……じゃないですか?」
突然の名指しに、警戒心が跳ね上がる。取り繕う僕を、男はにこやかな笑みのまま、カバンからスマホを取り出してみせた。
「でしたら、こちらを見ていただいてもいいですか?」
画面を覗くと、そこには可愛らしい双子。金色の髪――僕には見覚えがある。
(アクアとルビーだ)
二人が初めて行った姉さんのライブの動画。小さな箱のイベントだったが、SNSで“赤子のヲタ芸”がバズり、二十万再生を超えた。検索すれば、今も出てくるはずのやつ。
「この二人に見覚えがありますよね? あなたとこの子たちが一緒にいるところは確認していますから」
男の声が、優しさから、得体の知れない色に変わる。
芸能関係者か? ――なら事務所に連絡が行くはず。ゴシップなら、僕に直接確認しに来るのは不自然。
戸籍上、アクアもルビーも僕の弟だ。一緒にいてもおかしくない。姉さんのことがバレるはずもない。
「この子たちのことでお話したいのですが、あまり人目につくところでは、お互いに困るでしょう?」
含みのある言い方に、正体のない恐怖が増す。飲み込まれないよう、大きく息を吸う。路地裏特有の湿った匂いが、ここが現実だと告げる。
「わかりました」
(余計なことは言わない。このケースで僕の力はまだ無力だ。父さんに早く相談するためにも、できるだけ情報を――)
そう腹を決め、奥へと進む。歩を進めるほど、鼓動は加速し、背中に嫌な汗がにじむ。
「あ」
不意に、男がカバンを落とした。視線が吸い寄せられた、その一瞬――男の姿が視界から消える。
――警笛が鳴る。
反射で飛び退く。
カン! と甲高い音が路地に跳ね、遅れて心臓がどくどく暴れた。さっきまで僕がいた場所に、警棒が叩きつけられている。
「……まさか。子ども相手に避けられるなんてな」
もう、優しさも不気味さもない。無感情の声が、鼓膜を冷やす。
「はぁ。面倒なことになったな」
心底うんざりしたようにため息をつき、警棒をくるくる弄ぶ。
さっきまでと“色”は同じなのに、まるで別人のように見える。
「一体なにし――」
「いいから、死んでくれ」
「くっ!」
踏み込み。空を裂くブォンという風切り音。鉄の塊が頬をかすめる。
(……この人、本気だ)
目が、冷たい。
ーーーママを殺した男とも
ーーー姉さんを刺そうとした男とも違う。
ただ、無感情に“殺すためだけに”動いている。
明確な殺意が、恐怖となって胸を押しつぶす。身体が急に重い。鉛が骨に詰め込まれたみたいだ。
ガン!
反応が遅れ、前腕に直撃。鈍い痛みが骨から体に広がり、目の奥が熱くなる。
避ける。避ける。避ける。
血が出ているのか、動かすたびに、沁みるような痛みが走る。腕が、言うことを聞かない。
――【いいか? 武器を持った相手ってのはな】
丸山さんの声が、頭の奥で鳴る。対武器術を習った日の記憶。
――【武器に頼るやつは、基本“武器側”に偏る。だから、そこを狙え】
振り下ろされる前に、警棒ではなく“肘と前腕”を押さえる。想定外なのか、相手の勢いが鈍り、表情に驚きが混じる。
――【武器を止めたら終わりじゃねぇ。奪えるなら奪え。無理なら“利き手を壊す”。それも難しけりゃ……相手がバランスを崩すまで焦らせ】
失速した腕の外側から潜り、男の顔へ一撃へと腕を伸ばす。
(重い?)
骨を噛んだ拳の感触の裏側に、微細なずれが走る。鉛を詰められたみたいに身体は重い。それでも構わない。重さを踏み殺し、よろめいた相手を逃さず追う。
(くそ。奪えなかった)
警棒は奪えない。男は口元を拭い、すぐに構え直す。
「……おまえ、本当に中学生? 強すぎないか?」
「そう思うなら引いてくれると嬉しいんですけど。今なら警察には通報しない“おまけ”付きですよ?」
再び振るわれた警棒をかわし、今度は脇腹へ。毎回、丸山さんの分厚い筋肉を殴ってるんだ。――この体格なら、効く。
「……グ。くそ」
今――。
畳み掛けようと一歩出た瞬間、また“警笛”が鳴る。
ゴン!
後頭部を殴打の衝撃がはじけ、白い火花が視界の端で散る。世界が一拍ずれて弾み、街灯の輪郭が三重ににじんだまま、地面がぐっと近づく。
遅れて、頭の芯に鋭い線が走り、痛みが花開く。鼓膜の奥で「キーン」と金属音が鳴り続け、血の鉄っぽい味が舌の根に滲む。こめかみを伝った温い一筋が耳の後ろを濡らし、襟元にぽたりと落ちた。
(...な、にが、おきた?)
靴底が砂を踏む音が近づき、影が街灯の輪からはみ出して僕の顔にかかる。革靴の先が小石を押しやり、警棒の黒が視界の上へすっと差し込む。見下ろす男の眼は、冷えたガラス玉みたいに光を返すだけで、温度がない。
「ったく。手間かけさせやがって」
悪態を零すその声は乾いていて、路地の空気よりも冷たかった。
死角から殴られた。と脳が理解するも、身体が動かない。
「クソ、こんなガキにここまでやられるとは思わなかった」
視界が揺れる。鼻の奥がつんと熱く、吐き気が込み上げる。
――僕は、全く足り得ていない。
姉さんみたいな“輝き”も、アクアやルビーの“特別”もない。
父さんみたいに人の上に立つ才も、母さんみたいに人を支える才もない。
高橋や片寄みたいな、普通とは違う“華”なんて以ての外だ。
足りないから、努力した。
足り得ないから、毎日続けた。
自分の血肉になるのが楽しかった。あの人たちの隣で、少しでも見劣りしない存在になりたかった。
アァ、ボクハオワルノカ。
金属の鈍い気配が空気を裂き、世界の速度が落ちる。
――振り下ろされる警棒は、ゆっくり。だけど確実に、頭上へ。
(まだ逃げられる? 腕は痺れてる。視界が揺れる。ここで受けたら、終わる。終わったら――)
胸の奥で、何かが小さく軋む。
恐怖はいつも、体をすくませる名前を持っている。
「やめろ」
「痛い」
「怖い」
それが声帯に上がる前に、別の声が落ちた。
《巫山戯るな》
怒鳴っていないのに、怒っていると分かる熱。どこかで聞いた、けれど誰とも断定できない重さ。外からなのか、中からなのかすら曖昧な声。
《まだ終われるわけない。だってお前は――》
《何者にもなっていないだろう!》
姉さんを支えたいんだ。
「母さん」って呼びたかった。
おじちゃんの落としたものは、僕が拾うよ。
アクア、僕がいない時はよろしくね。
ルビー、大丈夫だよ。
言葉が骨の中に刺さる。
躊躇いは、優しさの名札をつけた怠慢だ。ここで退けば、僕は「守れない自分」を一生抱えて生きることになる。
容赦は、余裕のある者の贅沢だ。今の僕に、贅沢なんて余裕はない。
――諦めたら、駄目だ。まだ、こんなに頭が働いてる。
肺の底に冷たい空気を押し込み、吐く。脳の霧が一枚剝がれる。視界の輪郭が戻る。落ちてくる黒い円弧が、線になる。
「――っ!」
落下する警棒の軌道に、開いた掌を差し込む。
皮膚が焼けるように痛む。けれど離さない。膝でアスファルトを押し、踵で地面を噛む。逃げる足を、踏みしめる足に変える。
奪い返そうと力を込める男の顔を、真正面から見る。
相手の眼球の揺れ、歯の食いしばり、呼気の乱れ――全部、情報だ。
ーーーー全部、使える。
「っ!」
ゆっくりと、握力を増す。関節のきしみが掌に伝わる。
無感情だったはずの顔に、恐怖が刻まれる。
今の僕は、きっと怖い顔をしているのだろう。なぜだか、そう確信した。
優しい男になりたかった。
かっこいい男になりたかった。
だけど現実はそうはいかないらしいから
――だって、こんなにも「この世から“イラナイ”」と思うなんて、初めてだから。
*******
日差しが差し込んでいたはずの路地は、いつの間にか夕焼けに染まり、闇が濃さを増していく。
「ひゅー、驚いたね」
場違いなほど明るい声。振り返ると、染めたような金色の髪をひとつに束ねた男が立っていた。
「その人たちを“全員”倒すなんて」
――この人、かなり強い。
長身痩躯。立ち姿の重心が沈んでいる。存在感は、丸山さんに匹敵。背中をひや汗が伝う。
「……あなたも、この人たちの仲間なの?」
「まさか。ちょっと前から覗いてたけど、助けはいらないと思ってね」
路地のアスファルトには、六人ほどが伸びている。
このあと、サラリーマン風の男の“仲間”が寄ってきた。ナイフ、釘バット、トンファー――いろいろ持って。
僕は、その“腕ごと”壊した。二度と、僕の前に現れないように。……僕たちに――
「はい、これ」
「……これは?」
「整骨院もやってるからさ。もし不調が“あったら”おいで」
差し出された名刺には「暮石整骨院」。
え? この状況で?
「僕も少し“齧ってる”側だからね。こいつらが素人じゃないことくらい分かるさ。それに、最初から見てたから、君が悪くないのもね」
「……だったら、助けてくださいよ」
「いや~、どこまでやれるか見てたら、まさか勝っちゃうんだもんなぁ」
僕、今、頭から出血してますけど? 腕もですけど? え、この人には何が見えてるんだ?
悪びれず笑う顔が、なぜか憎めない。
「さて、じゃあ早いところ捌けようか」
「ですね。……っと、その前に」
僕はサラリーマンの男に近づき、髪を掴む。
「うぅ」
呻き声。――何も感じない。
「さっきの“動画”、どうするつもりだったの?」
「……こんな……ありえない」
「いいから答えて」
「こんなコトしても俺たちは必ず……」
「っ!」
言い終わらせまいとする“圧”が、男の目から立ち上る。
次の瞬間、糸の切れた人形みたいに動かなくなった。情報を引き出せなかったことに、歯がゆさが残る。
「いいのかい? もう少し“痛めて”おいた方がいい気もするけど? あ、もちろん殺さない範囲でね。僕、そういうのNGだから」
「……殺しませんよ。それに、これ以上は必要ないでしょ」
「ふーん。あんまり“優しく”するのもどうかと思うけど?」
「いや、多分これ“折れて”ますし、十分やりすぎてますって」
暮石と名乗った男と、その場を離れる。
「そういうことじゃないんだよなぁ」と暮石さんがぼそり。違和感が喉に残る。けれど、家に帰るまでの言い訳を優先する。
(母さん、まだ仕事だといいなぁ)
できれば、父さんに会ってからがいい。痛む頭を抱えつつ、帰路についた。
夕暮れは夜に変わり、一日が終わりに近づく。
夜空に、一番星が滲む。
希望と励まし。
混乱と喪失。
――それは、始まり。
いったん崩れ始めたものは、
徐々に、
緩やかに、
止めどなく、
着実に、
形を変える。
中学二年の夏。
斉藤真珠は“悪意”を知る。そして――
これは、運命に《呪われた》双子を救う物語。