「ごめんね、姉さん」
僕はすぅすぅと穏やかに寝息をたてる姉さんに毛布をかけ、部屋を退室する。一緒に姉さんが飲んでいたココアも回収し、流し台に捨てた。
「アイは大丈夫そうか?」
「うん。少しお話したら寝ちゃったよ」
「そうか。その方が良いかもしれないな」
流し台で洗い物をしていると父さんから声をかけられる。姉さんが心配だったのだろう。寝たというと安心したように重く息を吐いた。
「壱護!」
突然、部屋の外から母さんの声が上がった。慌てていたため、電話かと思ったが、母はパソコンの画面を凝視して、目を大きく見開いていた。
「どうした、ミヤコ?」
「……これ」
「……くそっ、こんなときに」
父さんは苛立ちを隠せない様子で言葉を吐き捨てる。
僕もその画面を覗くと
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星野アイの子供につきましての質問状
斎藤壱護 様
突然のご連絡失礼いたします。
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要約すると姉さんに子供がいることがバレた。赤ちゃんの頃にヲタ芸を披露したアクアとルビーの動画と父親を名乗る人間がいること。
この二点の確認をさせていただきたいというものだった。
「ふざけろ!こんなときに」
「……でも、無視するわけにもいかないわよね」
「……ああ、悔しいけどな。無視してどうにかなるもんじゃないしな、それにアンチや他のゴシップ共が必ず反応する。事実である以上、下手なところからの公表は避けなくちゃいけねぇ」
着信音が鳴る。
固定電話ではない携帯の着信音。
「……あ?龍?」
どうやら父さんの携帯が鳴っていたらしい。父さんは苛立ちを隠すように一呼吸おいてから携帯に出る。
「もしもし、龍悪いが「おい、壱護。不味いことになってるぞ」…何?」
「局にB小町のアイ関連での疑惑が届いてる」
「その件か、俺の方にも」
「それだけじゃねぇ。一部の出版社と他局は報道準備まで進めてるって話だ」
「なっ!あんな情報だけでか?ありえないだろ」
「俺も信じられねぇが、確かな筋からの情報だ。こっちと合流できるか?俺一人じゃ何社かは回れるが、全部は無理だ」
父さんは奥の扉を見つめる。きっと姉さんを心配しているのだろう。この場を離れたくない気持ちと社長として行かなくてはいけない使命感に狩り立たされる。
「……ミヤコ。すまねぇ」
「いいのね?」
「ああ、俺は父親だからな。恨まれたとしてもあいつの将来を閉ざすわけにはいかねぇ」
「あとは任せなさい」
「おい、坊主」
「うん、
「ありがとな」
父さんはそう言うと、ジャケットを羽織出かけていく。その姿はいつもより大きく見え、炎のように暖かな色が視えた。
*********
「あれ?」
いつの間に眠ったのだろう。
ぼんやりした頭が一気に覚醒し、身体を起こす。
「なんで、私こんなときに寝てるのよ」
ミヤコは異様に重だるくなった身体を起こし、自己嫌悪する。壱護に任せろと言っていたのに、この体たらく嫌になってくる。
「真珠?」
部屋には誰もおらず、私が飲んだであろうココアが置かれている。その横には『ごめんなさい。行ってきます』の文字だけが書かれていた。
嫌な汗が背中を伝う。
立ち上がり、奥の部屋を見るとアイさんだけがまだ眠っている。
他の部屋を探すもどこにもおらず、下の階に居たスタッフの話ではかなり前に出かけていったと。
嫌な予感が募っていく。
「何で。何でこんなこと」
私は台所で見つけたソレを見て、予感が確信へと至る。
「もしかしてアイさんも。
それはあの事件から眠れない日が続いていたことだった。眠れないと仕事に支障をきたすため、病院から処方してもらった薬。
アイさんにその事がバレてから、そういう日は必ず真珠が側にいて一緒に寝てくれるようになった。情けなさもあったが、その体温に安心し、熟睡できるようになったのだから、私も大概だと思う。
私は眠っている娘の頭を撫でる。
そうだった。あの子はそういう子だった。
あの事件が終わったから。あの子にはもう平穏が続くと、この幸せが続いていくと信じていた。
だから油断してしまった。アレから平穏すぎた。
襲われたって聞いて、何で気が付かなかったんだろう。あの子は普通すぎたじゃないか。
【母さん、ママの事件のこと教えてくれない?】
【……】
【ママとね、約束したから。かっこいい男になるって。あの時は何にも考えられなかったけど、今は受け入れたい。ママが僕を愛してくれていたことが分かったから、それも引っくるめて生きていきたいよ】
優しい子なのだあの子。人の痛みを知ってるから、哀しみを知ってるから。失うことの恐怖を体感しているから……
あの子は自分を普通だとよく言う。天才じゃないから、人よりも劣っているから頑張らなくちゃいけないんだと……
何かを求めるように、愚直に、慢心せず努力をしている姿を近くで見ていた。私にとって天才はアイさんのような子だ。でも、それでも真珠が劣ってるなんて一度も考えたことがない。
あの子は、自分が傷つくことを恐れない。きっと天秤にかけもしないだろう。
あの子が来て、もうそろそろ10年になるのね。
きっと、あの日からずっと、あの子の中には燃えてもいない。消化しきれていないモノがあったのだ。
後悔の念が募っていく。
何で気がつけなかったのだろう。
あの子は確かに言ってたじゃないか。
行き場のない無力感と息子に対しての心配が込み上げる。しかし心配は募り、悲しみに変わる。
毎日、毎日。それこそ、何かを恐れているように、狂気にも似たほど愚直に稽古を続ける姿は……
本人は護るためと言っていたけど、私にはなぜか、忘れようとしているようにしか見えなかった。
10年間。
もうあの子は止まらないだろう。もう失いたくないから。
もうその感情を塞き止めることは本人にすら、できはしないんだ。だから、私達を関わらせないように眠らせた。
あの子は私に頼らなかったんじゃない、頼れないんだ。
きっと私は護る対象なんだろう。母親なのに情けない。
外を見ると、夜の闇が広がっている。
こんな日はあの時のことを思い出してしまう。
「お願いだから、無事に帰って来なさい真珠」
母は祈る。
帰ってきたら二度とこんなことしないように怒ろうと、アイさんにも一緒に怒ってもらおうと。
それからみんなで美味しいものでも食べに行こう。
祈る。
明るい未来が続くようにと……
待っているのは呪縛からの開放か…
それとも修羅道か…
********
僕は眠った母さんを見つめる。
多分母さんは僕が何をしようとしているかに気づいてしまうから。
僕は財布から昔に貰った名刺を取り出し、携帯からその番号へとかける。
「……真珠少年。久しぶりだな」
「ええ、ご無沙汰してます阿古谷さん」
あの事件から阿古谷さんとも交流が続いていた。警察組織ということもあり、忙しい人だが、定期的に連絡しては身の心配をしてくれている優しい人だ。
「君から連絡とは珍しい」
「すいません。お忙しいところ」
「いや、ちょうど休憩に入ろうと思ってたところだから問題ない」
休憩って。もう夜なんだけど……
と思いつつも、要点だけを相談した。
「僕の弟と妹が誘拐されたかもしれません」
「……続けろ」
「今日、僕も襲われました。上手く逃げられましたが」
「そうか。君が無事で良かった」
電話口から安心したような呼気が聞こえてくる。相変わらず優しい人だが、これからお願いすることに躊躇いが生じてしまう。
「阿古谷さん。僕に協力してもらえませんか?」
曇天が光を閉ざす。
輝きが見えぬ心にドロドロとした重たい感情が広がっていく。
心に冷たいナニかが広がっていく。
紙に『ごめんなさい。行ってきます』と書き残す。
母さんは眠る。
外へ出た僕の頬を、暖かな風の温度が触れていく。
黒い輝きが心に灯る。
少年は闇の中へと消えていく。