ママの葬儀が行われると聞いた。
もとは身内だけで見送るつもりだったという。けれど電話は途切れなかった。名乗らない声が「最後だけは」と言い、会社の名札を外した人たちが小さく頭を下げる。断っても、また来る。そのたびに玄関にうっすら線香の匂いが残った。
ミヤコさんは最初、断っていた。サングラスをかけた怖そうなおじさんと一緒に、玄関先で丁重に辞退していた。それでも、みんな引かなかった。
門の外に、薄い青が集まって見えた。冷たい色だけど、濁っていない。
「ミヤコさん」
「真珠くん? どうしたの」
「あの人たちも、葬儀っていうのに出させてあげられる?」
ミヤコさんが目を丸くする。隣のサングラスのおじさんが、低い声で言った。
「おい、坊主」
思わずミヤコさんの後ろに半歩隠れる。この人のまわりには、やわらかい橙がにじんで視える。ほんとうは優しいのに、見た目が怖い。——柄が悪い、と心の中でだけ悪態をつく。
「ふふ、壱護、怖がられてるわね」
「おい、笑うなよ。ここまで露骨だと俺も泣くぞ?」
「真珠くん、この人は私の旦那の壱護。仲良くしてやってね」
「……壱護さん。よろしくお願いします」
「お、おう。よろしくな、真珠」
壱護さんが手を差し出す。その瞬間、記憶の底で別の男の手がちらりと重なって、体が先に動いた。ぼくは、差し出された手から反射的に身を引いてしまう。
「あ、ごめ——」
「謝らなくていい」
遮った声は、思ったより柔らかかった。
「あんなことがあったんだ。怖いのは当たり前だ。……すまんな」
壱護さんは、かえって頭を下げた。どうしてこの人が謝るのかわからない。固まっていた肩が、少しだけゆるむ。するとミヤコさんが、横から明るい声で言った。
「じゃあ今日は、真珠くんが“撫でる側”になってみよっか」
「お、おいミヤコ」
「大丈夫。触られるのが怖いなら、まず“自分から触る”。嫌だったら“とんとん”で止める合図、ね」
壱護さんは頭をがしがしかき、観念したみたいに少しかがんだ。ぼくはためらいながら手を伸ばす。初めて触る男性の髪はごわごわしていて、手触りがいいとは言えない。でも、掌の奥のほうが不思議と温かくなった。
「それで、真珠。さっきの話、本当にいいのか?」
「……?」
「葬儀はな。人が増えれば、そのぶん時間もかかるし、真珠がしんどくなるかもしれない」
「ぼくは大丈夫。おじさんたちは大変じゃない?」
「いや、もともと葬儀は大勢で見送るのが普通だ。段取りは大きくは変わらん」
ミヤコさんと壱護さんが、むずかしい顔で目を合わせる。二人の色は変わらない。むしろ、ぼくに向けられる橙が、ほんの少し濃くなった。
***
黒い喪服の背中に、汗が一筋だけ落ちた。ヘアピンが思ったより重い。受付の白い名簿にペン先が触れた瞬間、手の震えが自分にもわかった。
式場には白い菊と百合が飾られ、薄墨色の幕が静かに垂れている。焼香の煙は細い糸のように天井にのぼり、風のないところでゆるくほどけた。僧の読経が低く響き、木魚の音が間を刻む。黒い喪服、擦れる数珠の音。姉の写真は、いつものようで、いつもより少しやさしい笑顔をしていた。
参列者は途切れなかった。仕事の同僚、昔の友人、ご近所の方まで——
「彼女の言葉に救われました。職場になじめなくて……」
「彼女の行動を見て、人を信じてみようと思えたんです」
「ずっと憧れていました」
「ずっと、好きでした」
語られる姉への想いが、香の煙と混ざって場を満たす。誰も、真珠くんの父親のことは知らないようだった。「気づいたら妊娠していて、気づいたら生まれてたのよ」と笑いまじりで言う人に、私は小さく首を振る。軽い怪談みたいに扱う話ではない。姉は節度のない人ではない。そんなふうには、絶対に。
白い香炉の前に列が伸びる。三歩進んで、立ち止まる。指先で香をつまみ、額に寄せ、静かに落とす。木魚の間合いだけが、誰にも共有される時刻のようだった。
真珠くんは最前列の端で、小さな手を合わせ、写真をまっすぐに見つめている。何を思っているのだろう。——怖くて、私は聞けなかった。
式の合間、そっと声をかける。
「真珠くん、大丈夫?」
彼は小さくうなずいた。
「大丈夫だよ。みんなは、ママにちゃんとお別れが言えたんだね」
五歳とは思えない言い方だった。どこか納得と、どこか空白の混ざった声。「ママはね、挨拶は大事って言ってた。挨拶は、人と人とをつなぐ言葉だからって」と続ける彼に、私は「そう」とだけ答えた。胸の奥が、音を立てずに沈んだ。
出棺の合図が近づく。係の人が小声で段取りを伝え、私は自動的にうなずく。香の煙がかすかに喉に貼りついた。
——私は気づかなかった。彼の言葉の主語に。
「みんなは」
真珠くんはそう言った。みんなは、ママにお別れが言えた。では、彼は? 彼自身は——。
私は声をかけようとして、喉の奥で言葉がほどけた。彼の小さな肩が、ほんの少しだけ上下する。伸ばしかけた私の指先は、空気を撫でただけで、宙に残った。
***
退院の説明を受け、書類にサインをして、手続きの窓口をいくつか回った。受付で、制度の案内が綴じられた紙束を受け取る。
病室の最後の荷物を紙袋に入れる。忘れ物がないか目でなぞる。鈴、画用紙、クレヨン、折り紙の束。枕元の星は、そのまま置かせてほしいと真珠が言った。
看護師さんたちが見送りに来る。真珠は一人ひとりに「ありがとう」と言った。声は小さいのに、まっすぐ届く音。私はそのたびに頭を下げた。何度でも、いくらでも。
エントランスの自動ドアが開く。外の空気は少しひんやりして、少し甘い。車寄せの白線。タクシーの屋根のランプ。私は深呼吸をひとつしてから、真珠の手を握った。
「行こう」
真珠は私を見上げ、まぶたをぎゅっと一度つむってから、うなずいた。彼の手は温かい。私はその温度を掌で確かめながら、病院の外へ一歩踏み出す。
この子は、もうひとりではない。私も、もうひとりではない。どちらも正しく、どちらも心もとない。けれど、その心もとなさを分け合えることが、いまの私たちにできるいちばんのことだ。