私は今、幸せだ
星野アイは心の底から今の生活を気に入っている。
「え〜、この後ダンスの練習したいのにぃ〜」
「そんなこと言っても、お前受験勉強しなきゃ不味いだろ?」
「……やってるよ?」
「目を見てから言えよ」
「やってるよ」
「誰が鏡を見ろって言ったんだよアホ」
アクアとルビーは健やかに成長し、いつも元気だ。口論をすることはあるが、兄妹仲は良い様子だ。アクアがしっかりお兄ちゃんをしてくれているおかげっていうのもあるが、二人とも昔から頭が良いからなのか、酷い喧嘩になったことはこれまでに一度もない。
「アホじゃないもん!」
「偏差値40だからって勉強しないで落ちたら、恥ずかしすぎるぞ?」
「め、面接重視だから」
この間、しっかりと
しかしそこはお兄ちゃんなアクアに論破され続け、ルビーの目は逃げ回る。
あ、走って逃げようとして
「逃さないぞ?」
「は、放してぇ〜」
「ほら、教えてやるから」
一瞬でアクアに取り押さえられ、連れて行かれてしまう。
「ふふ」
そんな光景を見ていたら自然と笑ってしまった。
この胸の奥に広がる温もりは、何度感じても馴染み深く、心地よい。
「どうしたの姉さん?」
「んー?二人とも可愛いなって思ってね〜」
髪を乾かしてくれていた真珠君が不思議そうに見つめてくる。髪を撫でるその手は昔よりも大きくて、どこか安心するような温かさが伝わってくる。
斉藤真珠は大学生となり、その姿は一段と背が高くなった。かつてのあどけなさは消え去り、今ではどこか大人びた雰囲気が漂っている。
昔に負った目の傷は薄っすらとだが、たしかに
『ごめん。ごめんね、真珠君。私のせいで、……私が』
初めてのドームライブが幕を閉じた後、真珠君が目を覚ましたことには喜びがあった。しかし、その喜びの陰に、彼の視力を奪ってしまったという後悔が、私の心に重くのしかかっていた。
彼に嫌われることが怖かった。
もう会えなくなることよりも、拒絶されることが恐ろしかった。
もう姉として一緒に過ごせなくなると考えるだけで、胸が締め付けられるような思いだった。
だけど、それでもーー
出会ってからずっと私の家族にいてくれた人。
私に愛を気づかせてくれた人。
そして、私が初めて愛したいと思った人。
嘘をもう重ねたくなかった。
彼だけには汚くて、卑しくて、愚かな私を見て欲しかった。
『?????』
謝罪の言葉を聞いた真珠君は、それはもう首を傾げていた。
『お姉ちゃん、何の話?』
『……え?』
『それよりさ!お姉ちゃんドーム凄かったね!』
待って、ちゃんと謝らせて
私のせいで君は命を落としかけたんだよ?
『もうキラキラで、みんな笑顔で、輝いてて!』
そんな嬉しそうにしないで、怒ってよ
もう会いたくないって
もう嫌いだって
『約束、守ってくれたんだよね』
約束なんて、本当は放り出したかった。
ミヤコさんの言葉を聞いた時、君の気持ちが痛いほど理解できてしまったから。死んでもお母さんに愛されたいって。
『ありがとう、お姉ちゃん!すっごく楽しかった!!』
あぁ、駄目だ
【最近壁にぶつからなくなったよ】
嫌われたくない
【え?自転車とか危なくないかって?なんで?人の気配がするからすぐわかるよ?車は音がうるさいからね】
側にいてほしい
【僕は姉さんの弟だよ?将来とかはよくわからないけど、諦めないよ。......欲張りだからね】
君に幸せになってもらいたい
私が君を幸せにする。
そう心に誓った。
だけどーー
現実は非情だ。
奪われ
失い
悲しみ
壊れ
真珠君はそれでも前を向き続けてきた。
夢を閉ざされても
絶望を味わっても
その瞳だけは変わらなかった。
「姉さん、終わったよ?」
「……え〜、もう終わり?」
「これ以上やったら傷んじゃうよ」
考え事に没頭していたせいか、気がつけば癒しの時間はとうに終わっていた。名残惜しさから軽く抗議してみるが、相手は困惑した表情を浮かべながらも、手際よく片付けを始めている。
その手には、数えるのも馬鹿らしくなるほどの細かい傷が刻まれている。かつての柔らかさを失い、今では厚みを感じさせる拳。
(……君は今でも
それは失うことへの恐怖。はたまたもっと違うものなのかもしれない。
ずっと一緒に生きてきた。
仕事で会えない時はあったが、家に帰るとアクアがいて、ルビーがいて、そして真珠君がいてくれた。
だからこそ、彼がその拳を握り続けることの意味を知っている。
彼の願いにして呪いの言葉
「あ、そういえばさ、姉さん」
拳を握り続ける先に幸福があるのだろうか?
「今度、僕が所属してる格闘技団体でトーナメントがあるんだけど」
みんなで一緒に行かない?
その答えは決まっている。
アクアやルビーに問う必要もない。
君はもう私たちの家族なんだから……
「もちろん!」
その言葉に胸が躍った。
彼がようやくこちらに歩み寄ってくれたのだ。
私たちを巻き込まないために、ずっと闘い続けてきた彼がーーーー
しかし、私は改めて思い知らされることになる。
私たちは真珠君がどんな世界で闘ってきたのか、どれほど彼を理解していなかったのかを。
「もう少しで約束を果たせるよ」
「え?」
約束?なんのことだろうか?
真珠君との約束を忘れることなんて今まであっただろうか?
だが、彼は嬉しそうに笑っている。
その笑顔だけで、私は十分に幸せを感じてしまう。
ーーーーーーーーーー
『ん~~』
それは記念すべき日
『二人とも本当に可愛いねぇ』
『トータルで言うとママのほうが可愛いけどね』
『だから何の対抗意識?というか兄さん、いい加減写真撮るのやめてくれ』
アクアとルビーが小学校に上がり、ランドセルを背負っている。その姿に大興奮している姉さん。
僕?そんなの写真を撮ってるに決まってるでしょ?
『……なんかデジャヴを感じる』
アクアが遠い目をしながら何かを悟っているが、その姿もまた良い!
あ、アクアが逃げた。
『真珠お兄ちゃん!私はどんどん撮っていいよー』
写真を嫌がるアクアと撮られたがるルビー。二人は本当に面白いぐらい真逆な性格している。
『任せて』
っと、この貴重な瞬間を残さなければ!
って痛!
『はぁ、少しは落ち着きなさいよ』
『か、母さん痛いよ』
後ろを振り向くと、呆れた顔で母さんと父さんが立っている。その手を見るとチョップされたらしい。
『少しは落ち着きなさい』
『つーか、真珠。絵面だけみると変態だぞ?』
『はぁ~』
『な、なんだよ』
『父さんはわかってないね。いい?アクアとルビーのこの瞬間は今しかないんだよ?明日には数ミリ身長が変わってるかもしれない。そんな違いもわからないの?』
『兄さん、怖いよ』
『目が据わってんぞコイツ』
『最近、アイさんに似てきたわねぇ』
『え〜?私こんなに変じゃないよ?』
めっちゃみんな言ってくるじゃん。
え?普通だよね?
僕、間違ってないよね?
一人だけ会話に混じらずに、写真を撮られ続けているルビーを見ると、彼女は笑顔で
『お兄ちゃんは変じゃないよ?』
『ルビー』
『でも、すっごいキモい♪』
『コイツ、トドメ刺したぞ』
ルビーはそれはもういい笑顔で宣言する。
どうやらボクはキモいらしい。
あ、でも今のルビーの表情はすっごい可愛い!!
『メンタル強すぎない?』
『まぁ、兄さんだしね』
〈それでは本日のゲスト!星野アイさんです。〉
それは姉さんが出ていたある番組。バラエティ×グルメ系の番組らしい。美人が美味しそうに食べるシーンが受けるのか。それとも番組の華形としてなのか。
〈そういえば、夕凪さんお子さん産まれたんですね!おめでとうございます〉
『いいなぁ』
姉さんはぼんやりと眺めながら、その言葉を呟く。
『姉さん?』
『今ね、すごく楽しいの。真珠君のおかげでこうやって、アクアとルビーのランドセル姿を見れたしね』
嬉しそうなのに悲しい色。
『でも、たまに思うんだぁ。二人には好きなことを我慢させてないかな?とか、ちゃんと母親ってできてる『絶対、大丈夫だよ』』
『ほら、あの二人の笑顔は姉さんがいなきゃ、絶対見られないよ』
後ろでは、母さんがアクアの役者用写真を撮っているらしく、ルビーを筆頭に盛り上がっている。
アクアは渋々ながらも付き合っているが、何処か楽しそうにも感じる。
『……そうなのかな?』
『そうに決まってる。少なくても僕は姉さんが何度聞いてきても、自信を持って答えられるよ』
それは揺るぎない自信であり、確信だ。
この先、どんな事が起きても、姉さんがあの子達を悲しませることはないだろう。
『…いつかちゃんと母親だって言えるようになりたいよ』
それは、一つの願いだった。
姉としてではなく、母親としての願い。
姉さんの視線の先にはアクアとルビーがあり、その隣には母さんと父さんが立っている。
『でも、それは欲張りすぎかもしれないね。今でも十分幸せなのに……』
姉さんはそう呟きながら、そっと僕の目元に手を伸ばした。彼女の優しく柔らかな手からは、ほのかにハンドクリームの香りが漂い、その香りに少し照れくさくなる自分がいた。
『……そうだね』
その想いを叶えるだけの力がないことが歯痒く感じる。
『ほれ!2人ともこっち来い。写真撮るぞ』
父さんが家族写真を撮るために、どこからか三脚を持ってくる。その動作を見守りながら、僕たちは顔を見合わせ、カメラの前へと歩み寄る。
僕の隣には姉さんがいて。
僕の前にはアクアとルビーがいて。
後ろには母さんがいる。
『よし、じゃあ動くなよ』
タイマーをセットし終えた父さんがシャッターを押し、急いでこちらに駆け寄ってくる。シャッター音が響き、写真が撮られた。
『姉さん』
『ん?』
『…欲張りは悪いことじゃないんじゃないかな?』
『え?』
写真を確認するみんなの様子を見つめながら、僕は改めて思った。
欲しなければ
手に入らないものしか、この世にないということを
『姉さんが、ちゃんと家族だって言える世界を僕も求めるよ』
これは約束だ
姉さんへの
そして自分自身への
『これはみんなの願いだから』
きっとあの子達ももっと堂々と姉さんに授業参観や運動会、入学式や卒業式に参加してほしかっただろう。
父さんもそれをさせてあげられないことを後悔していた。
母さんは自分が母親と呼ばれ、姉さんが呼ばれないことを少しだけ気に病んでいた。
『だから約束』
それは子供ながらの稚拙で、途方もない願い。
『僕ももっとみんなの笑顔が見たいから』
だけどその瞳に映る熱は確かに存在する。
ーーーーーーーー
「…どうしてこんなことに」
スーツを着た青年は毒づく。
そこは簡素とは言い難い、広々とした部屋だ。
ソファに身を沈めた青年は、目を閉じ、ゆっくりと天井を仰いだ。
彼の名は四条帝。
日本有数の財閥である四条グループの次期後継者候補の一人である。
遡ることに数時間前、急遽開かれた重役会議にて聞かされた同盟宣言。
その場には見知らぬ男が一人。
その男の圧は計り知れず、その身から漂う邪悪な気配に警戒心を高めた。
「私の右腕となれば、新たな地位を約束しよう」
速水勝正。
日本でもトップクラスの資金力を誇り、経済力・影響力は強力無比である。
数年前までの四条グループであれば、この提案を断るだけの力があった。しかし3年前の四宮との経済抗争より四条家も大きな被害を伴っていた。
「四宮の者たちを潰したくはないのか?私が会長になった暁には協力するぞ?」
それは悪魔の囁き。
四条グループとは四宮家の分家に位置しており、数十年も前に袂を分かっている。
四宮と四条。
それは因縁であり、怨念。
「さぁ、軍門に下れ!!四条よ!!共に新たな社会を築こうではないか」
未だに根強い恨みは、その悪魔の言葉に耳を傾ける。
「ちょ!ちょっと待ってください!」
「どうした、小僧?」
「ッ!!四宮とは確かに対立していましたが、今は違う!3年前のあの日、僕たちは変わったんだ!」
そう、三年前のあの日。
一人の少年が四宮と四条を変えた。
その拳によって、切り開かれた未来。
だからこそ、帝は諦めない。その眼圧に気圧されても、その目を逸らさない。
帝とて高校卒業から遊んでいたわけではない。四条を新たな四条とするために、人脈を、政治を、そして力を磨いてきた。
しかしーーー
相手は百人会という組織を掌握する。まさに経済界の怪物。
「いやいや、帝くん。何を言っているんだい?」
「そうだよ。これで四宮は終わる。」
「ようやく我々の時代となるんだ」
まるで示し合わせたかのように、四条家古参の有力者たちが声を上げる。その熱はどんどんと広がっていく。
もう勝負はついている。
政治とは戦う前に勝敗が決している。
「我々は勝利する!!」
(クソ!!もう根回し済みってか!!!)
逆転の筋道はなく、四条は東洋電力の軍門へと下った。
「……合わせる顔がねぇな」
あの月夜、全てを賭けて戦ってくれた友がいた。
これは友人との約束にして誓い。
【俺が絶対に四条を変えてみせる】
だが、その夢は潰えた。
もう成す術はない。
その後、次期後継者候補の中で特に四宮に恨みを募らせている叔父が主導権を握った。
情けない自分に対して怒りが募る。
もう諦めるしか...
【諦める?……なんでそんな事する必要があるのさ?】
それはあの日の記憶。強烈に刻み込まれた記憶。帝を帝たらしめる言葉。
広々とした倉庫の中、薄暗い照明の下に、数十人のヤクザが静かに立ち並んでいた。冷たい空気が肌に触れるたびに、緊張感が一層高まる。彼らの鋭い眼差しがこちらに突き刺さり、まるで獲物を見据える猛禽類のようだった。黒いスーツに身を包み、整然とした姿勢を崩さずにいる彼らの存在は、まるで一つの巨大な生物のように感じられた。無言の圧力が、空間を支配していた。
絶望的な戦力差。
だが、この状況において一人だけーー
【死んでもいないのに諦める必要なんかないよ。迎えに行くって約束したしね】
まるでそれが当たり前のように
少年は拳を握った
【そこを退いてもらうよ】
「……すまねぇ。…………………真珠」
その小さなつぶやきは誰に聞かれることもなく、部屋へと消えていく。
無力な自分を
また間に合わなかった自分を
【お礼?】
まだ諦めたくない
【じゃあさ、僕が困ったら助けてよ】
あいつなら絶対に諦めない
【頼んだよ、帝】
だから、まだ勝負はこれからだ
四条帝は立ち上がる。
自身の夢のために。
そしてもう諦めないために....