あれから――星野アイ、もといお姉ちゃんと出会って半年が過ぎた。
最初の頃は、ママからの「おはよう」がなくなった現実が、朝起きるたびに胸の奥を冷たく締め付けた。
枕元に差す光がやけに白く、布団の温もりだけがやけに重たく感じられた。
目を開けても、もうあの声は聞こえない。
朝の匂いも違う。
幸福感というものは、なくして初めて、その輪郭がはっきりするのだと知った。
けれど――。
「真珠君、おはよう」
今は、別の声がそこにある。
ミヤコさんだ。
いつからか、僕を起こすときは必ず「おいで」と言いながら抱きしめてくれるようになった。
言葉にできない気持ちも、何も聞かずに受け止めてくれる。
僕自身が分からないこの重たさを、理解してくれるような気がした。
ママとは違う温もりだ。
甘い匂いではなく、ほのかに石鹸と柔軟剤の混ざった香り。
それなのに、胸の奥までじんわり広がっていく安心感があった。
「おはよう、ミヤコさん」
「朝ごはんはパンでもいいかしら?」
「うん。僕も手伝うね」
「ほんと、真珠君はいい子ね。それに比べて……」
視線の先、ソファの上でぐったりしている壱護さん。
「し、仕方ねぇだろ……昨日の相手は今後も付き合いが長くなりそうだったんだから」
声はしゃがれ、顔色は悪い。二日酔いだ。
「一昨日も同じこと言ってたわよ」とミヤコさんがあっさり切り捨てる。
「佐藤社長、フランケンシュタインみたい〜」
「俺の名前は斎藤だ。クソアイドル。つか、社長がしんどそうにしてるのを見て笑ってんじゃねぇ」
「え〜、だって社長。私が言ってもベロンベロンになるまで飲むじゃん」
「ぐっ……」
「それに最近、若い女の子も呼んでるでしょ〜。メンバーの子がドン引きしてたよ?」
「なんでお前らが知ってんだよ……いや、あれは仕事の関係だって!」
壱護さんはチラチラとミヤコさんの様子をうかがいながら、必死に弁解を続ける。
ミヤコさんは特に動じず、食パンを取り出していた。
「おじちゃん、これどーぞ」
「おう、ありがとな」
カップスープのしじみ味噌汁を手渡すと、「あぁ、染みる……」と小さく息をつき、僕の頭を軽く撫でてくれた。
一緒に暮らし始めた頃は、この大きな手が少し怖かった。
でも、諦めずに僕に関わり続けてくれるうちに、その重みは安心に変わった。
「なぁ、坊主。なんでミヤコは“さん付け”なのに、俺は“おじちゃん”なんだ?」
「あれ? だってミヤコさんがおじちゃんだって」
壱護さんがミヤコさんを振り返る。
「おじちゃんじゃなくて、叔父さんのことよ」と説明され、「あぁ、そういうことか」と納得していた。
「でも、おじちゃんか〜……まだ三十代なんだけどな」
「立派におじさんじゃん」
「うるさいぞ、アイ」
ケラケラと笑うお姉ちゃんと、微妙な顔をする壱護さん。
朝の光がカーテンから漏れ、テーブルに柔らかい影を落としていた。
この家に真珠君が来てから、朝が少しだけ賑やかになった。
あの子は笑うと可愛い。けど、その笑顔の奥に、薄く冷たい影があるのが分かる。
食卓に座っていても、ふと遠くを見るような目をする。
私には、その目がやけに懐かしかった。
……あの日、鏡の中で見た、光のない自分の瞳と同じだったから。
「真珠君、できたわよ」
席につき、手を合わせる。
「いただきます」
温かいパンとスープ。
テーブル越しに交わされる笑い声。
ママと会えなくなってからの寂しさは変わらない。
でも僕を大事にしてくれる人たちが、ここにはいる。
……それでも。
どうしても、何かが足りない気がしてならなかった。
心の奥底に、ドロドロとした何かがある。
重く、冷たく、ゆっくりと渦を巻きながら沈んでいる。
時々、その塊が暴れ出したくなる。
音が聞こえる。
沸騰しかけた水のような音が、胸の奥で小さく弾ける。
金属の匂いが、喉の奥までじわりと上ってくる。
名前も知らない、真っ黒な“それ”だ。
考えてはいけない気がして、ずっと見ないふりをしてきた。
でも、“それ”は消えない。
笑っている時も、食卓で手を合わせている時も、確かにそこにある。
そして僕は――。
……それが、いつ暴れ出すのかを知らない。