その言葉を耳にすると、真っ先に思い浮かぶのはおかあさんのことだ。幼い頃、おかあさんから受けた暴力は、言葉だけだったが、言葉は鋭い刃物のように心を傷つけ、今でも奥深くに刻み込まれている。それは、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せる。
今でも怖くて、痛くて、辛くて、悲しい気持ちになる。
そんな痛みを初めて和らげてくれたのは――君だったんだよ。
《さぁ!選手入場です!!》
君の身体に傷が増えるたび、胸が締め付けられるような思いがした。
涙を流す姿を見れば、私まで悲しくなった。
心が折れそうになっている君を目の前にすると、どうしようもなく苦しくて、何もできない自分が嫌になった。
だからこそ、君にはもう傷ついてほしくなかった。
何があっても、絶対に。
《身長173cm、体重76kg!!拳願仕合戦績82勝0敗!!!企業獲得資産額、98億6千万!》
「それじゃあ、ちょっと行ってくるね」
「……本当に行くの?」
私の問いかけに、真珠くんは困ったように笑った。小さい頃から、何かを誤魔化すときにはいつもその笑顔を浮かべる。
「真珠」
「何、母さん?」
「……無事に帰ってきなさい」
「.......約束できないなぁ。でもーーー勝ってくるよ」
その言葉には、迷いのない決意があった。母親であるミヤコさんの言うことをいつも素直に聞いていた真珠くん。
そのマザコン気質が少し心配になることもあるけれど、私はそれも彼の良さだと思っている。
けれど、今回ばかりは違った。母の言葉に対しても、真珠くんはいつものように誤魔化す笑みを浮かべたものの、その奥に見える強い意志に気づいてしまった。何があっても自分の選んだ道を行く――そんな覚悟を感じてしまった。
その笑顔が、どこか切なく見えたのは、気のせいだったのだろうか。
《この漢、デビュー戦以来の負け知らず、その勝利数、驚異の82勝!!先代の滅堂の牙を倒した漢!!現最強に引導を渡せるか挑戦者!!柏木造船所属!!『超越者』斎藤真珠!!!》
ーーーーーーーーー
遡ること8時間前。
「ごめんなさい」
「相変わらず、くじ運良くないね」
「うぅ、あまりそれを言わないでください。気にしてるんですから」
拳願島に到着して一日が経過した。
どうやら昨夜、楽しく過ごしている裏ではトーナメントの組み合わせを決めていたらしい。
柏木渚はそこまで運が良いとは言えない。
間が悪いとも言えるが、学生の頃から色々と巻き込まれやすかった。
「絶対にあなたにだけは言われたくないです」
「そのしれっと心読んでくるのやめてね?怖いから」
「あなたの考えていることが分かり易すぎるんですよ。そもそも学生時代からあなたはいつもそうなんですよ。どんくさいように見えて、いつも周りに手を貸して、そんなんだから損をするんです。別にあなたが損をする分にはいいんですけどね?部長として部員がーーーーー」
スイッチが入ってしまった。
僕こと斎藤真珠は柏木渚に頭が上がらない。というのも学生の頃から助けてもらっていたということもあるが、編入した秀知院学園というところは結構特殊な場所だった。
かつて貴族や士族を教育する機関として創立され、200年の歴史を持つ由緒正しい名門校。貴族制が廃止された今もなお、富豪名家に生まれ、将来国を背負うであろう人材が数多く就学している。
つまるところお金持ちの学校である。
そんな場所に弱小レベルの芸能プロの息子が編入してきた。それはもう目の敵どころではない。特に幼等部から大学までの一貫校のため、生徒の多くは幼馴染であることが多い。人の嫌悪感は伝播するかのように広がり、一瞬にして孤立した。
「ですから、あなたは放っておけないですよ。今回だって『ちょっと助けてほしいんだよね。この大会に出たいからスポンサーになってよ』なんて言うから、軽い気持ちでお父様に相談したら大ごとになりますし」
「……お父さん、喜んでたでしょ?」
「そりゃもう!おかげさまでね!」
興奮するとタメ口になるところは変わらないなぁ。
どうやら一昨日、船で会ったときはお淑やかでいられたみたいだが、昨日父親の付き添いで色んな人へと挨拶回りをして疲れたらしい。
彼女は頑張り屋だからこそ、こういう捌け口を用意しなくちゃいけないのだが、翼のやつは何をやってるんだか。
「それで大丈夫なんですか?」
「大丈夫か?」と問われても、正直、何とも言えない。
今回のトーナメントは、普段出場している拳願仕合とはまったく異なる。数日にわたる連戦形式で行われるこのルールは、ある意味で僕にとってかなりのアドバンテージとなる可能性がある。だが、それも「勝てれば」の話だ。
不安要素はいくつかある。その中でも耳にした噂――あの氷室さんが無名の闘技者に敗北したという話は、特に引っかかる。氷室さんははっきりと強いと言える。だからこそ、他にはお願いできないグレーな頼み事を任せる事ができていた。それが無名の相手に敗れるということは、このトーナメントのレベルの高さを如実に物語っている。
分かってはいたことだが、トーナメントはハイレベルな闘いになるのは間違いない。
どんな戦略を取ろうとも、一瞬の油断が命取りとなる。
だからこそ勝負に絶対はない。だが負けるつもりなど毛頭ない。誰が相手だろうと必ず勝つ。たとえーーーーー相手を殺すことになったとしても………
「まぁ、正直なところトーナメントの順番はどうでもいいからね」
「また適当な」
「失礼な、ちゃんと考えてるさ。それにこればっかりは運だからね」
「……そう言ってもらえるのは助かりますけど。勝てますか?このトーナメントでも優勝候補である滅堂の牙に」
第十六試合
斎藤真珠vs加納アギト
「……勝つよ。必要なことだからね」
ーーーーーーーーー
「………」
湧き上がる歓声、白熱する会場。
その熱狂的な雰囲気は、どこかドームライブで感じた高揚感に少し似ていた。
だが――目の前で起こった出来事に、言葉を失ってしまった。
《勝者ッッッ!!!今井コスモッッ!!!》
アナウンスが響き渡り、さらに会場が沸き立つ。
格闘技の試合は、これまで年末の番組で何度か目にしたことがある程度だった。正直なところ、あまり見たいとは思えない類のものだったが、アクアが画面に釘付けになって熱心に観ている姿を見て、「男の子なんだなぁ」と微笑ましく思ったのを覚えている。
殴り、殴られ、血が飛び散り、それで歓声が上がる。
その光景に、正直なところ馴染めなかった。
私はそこまで共感能力が高い方ではない。
それでも、それを差し引いたとしても思ってしまうのだ――「どこが面白いのか?」と。
だが、そんな格闘技の試合にもルールがあった。
「……ッ!ミヤコさん!」
初めて目にする裏の試合。
そこには、ルールというものが存在しなかった。
安全に配慮した階級制もない。
格闘技という競技としての決まり事すら、ここでは無意味だった。
目の前で繰り広げられているのは、無秩序なまでの暴力だった。
相手を倒すことだけを目的とし、どんな手段も許される。正当性も、美しさも、この場には一切存在しない。
その光景に、身体が凍りつくような感覚を覚えた。これが〝闘い〟なのか――そう思わせるほど、荒々しく、冷酷で、容赦のない現実がそこにあった。
名前を呼んだだけだが言葉を、ミヤコさんは既にわかっていたのだろう。
それでも、正面の試合をじっと見つめたまま、何も言わずに黙っていた。
その横顔から伝わるのは、複雑な感情の渦――
どれも止めどなく溢れそうで、こちらまで圧倒されそうになるほどだった。
だから、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。ただ静かにその横顔を見つめるしかなかった。
ふと隣に目を向けると、ルビーは手で口元を覆い、息を詰めている。
アクアはというと、まるで全てを知っていたかのように、冷静な表情で会場へと視線を向けていた。その落ち着きが、逆に不気味に思えるほどだった。
そして真珠くん――。
どこまでも真剣で、私の視線に気づくことすらないほど試合に集中していた。
その顔は、今まで見たことがないほど冷たく感じられた。いつもの柔らかい笑みの面影はなく、そこにあるのは鋭い緊張感と覚悟だけ……
甘くみていた。
怪我をして帰ってきたときには驚いたし、心配もした。それでも試合という言葉はどこかで
なぜ気がつけなかった?
なぜ教えてくれなかった?
なぜ、なぜ、なぜ……。
「なぜ」の連鎖が止まらない。頭の中で無数の疑問が渦を巻き、自己嫌悪と後悔だけが膨らんでいく。
気づけば、胸の中に負の感情が溢れかえっていた。
いつも隣で笑っていた弟が、こんな危険な場所で闘っているなんて、どうして気づけなかったのだろう。
アクアとルビーがいて、真珠くんがいる。みんなと過ごす日々が何よりも大切で、それだけで私は――幸せだったのに。
どうしてその幸せにひびが入ることに気づけなかったのか。
自分が見過ごしてきたものの大きさに、ただ圧倒される。後悔はどうしようもなく積もり続け、胸を締め付けていた。
「真珠がこの場所にいるのは
唐突にミヤコさんは呟いた。隣にいる私だけが聞こえる声量で続ける。
「母親として
ミヤコさんの表情は変わらない。
だけど、その顔はさっきよりも少しだけ優しく和らいでいるように見える。
《それではこれより第二試合をーーー》
試合が進んでいく。
それはまるで壊れた砂時計のように、現実というのは止まらない。
また〝暴力〟が目の前で繰り広げられた。
ーーー
第三試合 呉 雷庵 vs 茂吉・ロビンソン
その試合は、他の試合とは明らかに違っていた。
初めて、私は――〝また〝殺す〟という言葉の意味を実感してしまった。
《放り投げたぁぁ!!体格で勝る茂吉選手をボールのように投げ飛ばしてみせた雷庵選手、恐るべき怪力です》
昨日友だちになった鞘香ちゃんの声が聞こえてくる。その解説を聞きながら、私は思い出してしまった。
小学生の時に誘拐されたときのことをーーー
あのとき本気で死ぬことを覚悟した。殺されることへの恐怖よりも兄が死んでしまうことのほうが、また兄を失うかもしれないことのほうが怖かった。
試合が行われるステージから遠く離れた観客席にいるにもかかわらず、その場に満ちる゛ソレ゛の正体が、肌を刺すように伝わってくる。
星野ルビーは、その゛ソレ゛の正体を知っていた。
だからこそ、隣にいる母親よりも、ほんの少しだけ冷静でいられるのだろう。
その冷静さは決して余裕からくるものではなく、むしろ理解しているがゆえなのかもしれない。
もう、我慢できなかった。
「真珠お兄ちゃん。駄目だよ!絶対だめ!」
説明なんてできなかった。
ただ、隣で試合を観ている真珠お兄ちゃんに向かって、叫ぶように伝えた。
突然、席を立ち叫んだせいで、周りの人たちは驚いた顔でこちらを見ていたが、そんなことを気にしている余裕なんてなかった。
アクアも何か言ってくれるはず――そう期待した。
だけど、兄は苦虫を噛み潰したような顔をしたまま、試合をじっと見つめているだけだった。
後ろにいるママとミヤコさんの顔は、振り返る余裕もなく、見えなかった。
だけど、私と同じように止めてくれると思っていた二人も、
それでも、みんなが同じ気持ちでいることだけは分かった。
止めなきゃいけない。
この人を――
「ごめんね」
真珠お兄ちゃんは静かに謝りながら、私の髪を優しく撫でた。その手は、昔から変わらず温かくて、優しい手だった。
それなのに、その手を感じるのは、きっとこれが最後かもしれない――そんな不安が胸をよぎる。
そして、真珠お兄ちゃんは立ち上がり、無言で席を離れていく。
「真珠お兄ちゃん!!お願いだから聞いてよ!」
「聞いてるよ?」
それでも兄は微笑みながら、淡々と答える。
「それより、少しだけ急がなきゃ。」
――急がなきゃ?
その言葉の意味が全然分からない。けれど、そんなことよりも、私はただ、この人にもう傷ついてほしくなかった。
斎藤真珠は強い。
それは、私が誰よりもよく知っている。
あのとき、私を救けてくれたときから。
ずっと家族のために、大切な人のために、全てを護るため、その拳を握り戦い続けてきたことを知っている。
優しくて、脆くて、まるでいつでも壊れてしまいそうな人だということも知っている。
「今回も、誰かのためなんでしょ!」
私は叫んだ。抑えきれない感情が、言葉となって溢れ出す。
「もう、真珠お兄ちゃんが頑張らなくていいんだよ!」
だが、私の声が届いているかどうかも分からない。
ここにいる人たちを見れば、それがどれだけ〝普通〟じゃない場所なのか、嫌でも理解させられる。
纏う雰囲気――そんな曖昧なものではなく、もっと明確に、目に見える違いがそこにある。
筋肉の付き方、身長、全てが異常で、真珠お兄ちゃんよりも〝強そうな人〟がうじゃうじゃといる。
こんな場所で、真珠お兄ちゃんは――また、壊れてしまうんじゃないか。
その考えが頭を離れないまま、私はただ兄の背中を追い続けた。
気がつけば、試合の入場ゲートに着いていた。
そこには昨日一緒に遊んだエレナちゃんと迦楼羅ちゃんがいる。二人の表情は対照的で悲しみと怒りが目に見えて分かってしまう。
その二人の視線の先には〝暴力〟が広がっていた。
地面に叩きつけられ、首を絞められるエレナちゃんのお兄さんは必死そのもの。
今すぐにでも試合を止めてしまえばいいのに審判は何をやっているのかと思ってしまう。
「止めたくても止められないんだよ」
「え?」
真珠お兄ちゃんも二人の隣で試合の行く末を見守っている。
「拳願仕合は戦闘不能もしくは降参を宣言しなければ試合を止められないだ」
「そんなの!関係ないじゃん!!もう決着は」
「ついてないよ。茂吉さんはまだ諦めてない」
わからない。
わからないよ、真珠お兄ちゃん。
何でこんなところにいるの?
何で今になって私たちに教えてくれようとしたの?
何でまた危険なところに行こうとするの?
「もうやめてーー!!兄様ッッッ!!!兄様ッ!!」
「……エレナちゃん」
痛いほどエレナちゃんの気持ちが分かってしまう。
あの場所にいるのが、もし真珠お兄ちゃんだったら。
考えるだけで、不安で胸が苦しくなって、目頭が熱くなる。
「ま、負けないでぇぇぇぇ!!!!兄様ッッッ!!!」
エレナちゃんのお兄さんはまるでその声が聞こえていたのかように柔らかな笑みを一瞬浮かべた。
これが物語なら大逆転になったのかもしれない。
星野ルビーは知っている。
『また捕まったーッ!!』
悲劇が起こる。
それは突然で、まるで決められていたことのように、誰にも止めることができない。
ゴキン
生々しい音が広い会場に木霊する。
熱狂は嘘のように消え失せ、静まり返る。
『………に…に………い……さ…ま………?』
エレナちゃんの声だけが、私の耳に届く。
さっきまででていた大声が嘘のように、壊れてしまったかのようにか細く、消えてしまいそうな声。
ぐらんっ
首が後ろに倒れた直後、まるで振りかぶるようにさらに持ち上げた。
何をされるかなど想像がついてしまう。
『〜〜〜〜〜〜!!!に……』
『それま』
その姿を見続けることが私にはできなかった。人が死ぬ姿をーー否、殺されるところを見続けることを反射的に拒んだ。
次に何が起こるのか。
また嫌な音が聞こえてくるんじゃないかと耳も防ぐ。
だけど、会場から聞こえてきたのは悲鳴ではなく、怒号だった。
『で!!!!』
『真珠ッ!!!邪魔すんならテメェから殺すぞッッ!!!!』
審判の人の決着の合図。
そして真珠。その名前が聞こえた。そんなはずない。
さっきまで隣りにいたはずの真珠お兄ちゃんはいつの間にかエレナちゃんのお兄さんのところまで移動しており、あの男の手から解放していた。
ーーーーー
(なにをしやがった?)
呉雷庵は困惑していた。
何をされたかが全く分からなかった。
少しだけ顔を反らし、
ただその一瞬だけで手からの重みが消えた。
「早く担架を!!」
こちらのことなど見向きもせず、真珠は大声で審判に指示を出している。
無性に腹が立った。この男は、いつだってそうだ。
初めて会ったときから、斎藤真珠という男は、自分とは正反対の存在に思えた。そのことが、どうしようもなく苛立たしかった。この男の態度も、言動も、そしてその存在そのものが気に入らない。
「オイ!!!無視とは偉くなったもんだなぁ!!!」
雷庵の怒声が響き渡る。だが、真珠は振り返ることすらしない。
この男――ジジイの友人。つまりは、呉一族にとって最重要な客人である。
雷庵にとって呉一族の事情などどうでもよかった。だが、住み慣れたこの場所を追われることを考えれば――天秤にかけるまでもない。
苛立ちを抱えつつも、雷庵はその怒りを飲み込むしかなかった。
だが――ようやく、その時が来た。
こんな試合に出場したのも、トーナメントなんていう面倒くさいものに参加しているのも、ただ一つの理由のため。
コイツをブチ殺せると思ったからだ。それだけだ。
「雷庵」
ゾワッ。全身の毛が逆立つような感覚が走る。
名前を呼ばれた瞬間、雷庵は一瞬で本能的な危険を察知した。
フルスイングで殴り飛ばすつもりだった腕を、咄嗟にガードへ回す。
ドゴン!!!
形容しがたいほどの衝撃が腕から脳へと響く。腕を通して全身に伝わる重さ――雷庵の表情が一瞬で変わる。
(は、はぇ!!……なんだ、この重さは!?!?!?)
骨に響くどころか、全身を叩き潰そうとする圧力。思わず息を呑む。
これが斎藤真珠という男の〝一撃〟だと理解した。そして魔人は笑みを深めた。
(鈍ってねぇ。それどころか遥かに強くなってるじゃねぇか)
船上での闘いを見たときはガッカリした。
これがあの時の呉の里に乗り込んできた漢と同一人物なのかと。
あの理不尽なまでの力
冷徹で、光を映さないの瞳
殺すことに躊躇いのない殺意に
同類がいることに最初こそ喜びを感じた。
だがあいつは妹を助け出すと、一気に腑抜けた。
お人好しで、甘ちょろい、ただの凡夫。
なぜそれほどまでの力を持ちながら、弱いやつを気にする?
弱いやつの味方をして何になる?
「おもしれぇ!!!!!」
この漢を蹂躙する。
完膚なきまでに、圧倒的な差を刻みにつける。
このモヤモヤを晴らすにはそれしかなかった。
「いや、やらないよ?」
その言葉だけを残して走って、 逃げられた。
は?
呆気にとられるほど、 一瞬だった。 少し前までの張り詰めた空気はどこへ行ったのか。 気づけば、あいつは雰囲気ごとその場を離れていた。
その事実を理解するまで、 雷庵には少し時間が必要だった。
そして--
「はぁ」
また逃げられてしまった。呉の里の時も何度か挑発したが、あいつが乗ってきたのは一度だけだ。
斎藤真珠は無益な闘いは絶対にしない。
だから、 全力で逃げられてしまえば--あいつは死んでも闘わない。 それがあいつの流儀だということは、雷庵も理解している。
「…アホらし」
イライラしていた怒気も
皆殺しにしたいという殺気も
その全てを持って行かれてしまった。
虚脱感だけを残して、雷庵は拳を握り締めながら、ただ静かに息を吐いた。
ーーーーー
「…死んだら、死んじゃったらどうしようもないじゃん!!!」
「ぐす...ルビーちゃん」
『.......ルビー』
真珠お兄ちゃんが、試合を終わらせた。
戻ってきた真珠お兄ちゃんにはもっと他にかけるべき言葉があったかもしれない。
私の叫び声に二人も反応する。
目の前の二人に嫌われても、この人に嫌われてしまったとしても、もう言葉など選んでいられなかった。
「もう嫌だよ。真珠お兄ちゃんが傷つくところ見たくないよ」
「ルビー」
そう言いながら抱きしめてくれる兄の身体は大きくて温かかった。
「ごめんね。みんなにはこれ以上隠し事をしたくなかったんだ。だから来てもらったんだけど、怖かったよね。本当にごめん」
「違うよ!そういうことじゃ!
「人にはやらなきゃいけないことってあると思うんだ」
静かに、何かを教えるように。理由を語ってくれる。
この人なりの理由は、私には意味が理解できないほどの重みを感じる。
「いつか死ぬ時が来ても笑って死ねるように。ーーー僕にとってこの大会に出ることは必要なことだったんだよ」
あぁ、この目はもう無理だ。
止められないんだ。そう悟ってしまった。
片目から覗く昏い瞳。
それは初めて命をかけて差し伸べてくれた時の瞳と一緒だったから。
だから私はーーー感情を吐き出すためだけに、兄の胸の中で泣くことしか無かった。
ーーーーーーーーー
斎藤ミヤコは「やはり」という言葉が正しかったことを痛感した。
《さぁ、次は第十二試合ッッッ!!》
アナウンスが試合を進行していく。
周りの熱狂している声がどうも現実感がない。
見据えなくてはいけない現実が受け入れがたい。
少し前にアイさんに「私の責任だ」ということを伝えた。それは間違っていないだろう。
社長が責任を負うだけでは、到底足りなかった。
いや、もしかすると、私自身の対応が間違っていたのかもしれない。
初めて経験する社長としての業務。
管理、資金の調整、責任の重さ、そして圧倒的な重圧――。
その全てが、一挙にのしかかってきた。私の準備不足が露呈し、その結果が今の状況を生んでしまったのではないかという疑念が頭を離れなかった。
あのとき、もっと適切な判断ができていれば、もっと冷静に対応していれば。そんな「もしも」を何度も反芻しながら、私はただ胸の奥に残る苦しさに耐えていた。
全ての契約を白紙に戻されて
契約していたタレントは他に引き抜かれて
急に辞めてしまう社員も出たりして
倒産なんて言葉がずっと頭の片隅にあって、寝れない夜が続く日々だった。
頭がパンクしそうだった。もう何もかも嫌になりそうだった。壱護の馬鹿を恨んだ。手のひらを返した芸能界を憎んだ。
『ッ!!真珠、どうしたの!?怪我してるじゃない!!』
『あはは、階段で転んじゃってさ。それよりも母さん、お疲れ様』
『お疲れ様って、あなた。』
あれはもう深夜を回った頃だっただろうか。
真珠は高校生になってからも、事務員として働いてくれていた。
母親としては、学生生活をもっと楽しんでほしいと願っていた。けれど、本人が望んで働いている以上、それを止めることもできなかった。そして何より――真珠の存在が苺プロにとって欠かせない支えとなっていた。
真珠がいるだけで、事務仕事に回す人員を大幅に削減できた。あの時期の苺プロにとって、その働きは本当に頼もしかった。何よりも丸山プロデューサーの下でも働くおかげで新しい契約にも繋がっていた。
だからこそ、少しの夜遊びくらいは許していた。
真珠はいつもしっかりと連絡をくれたし、その責任感のおかげで大きな不安を抱えることもなかったのだ。
しかし、その日は違った。真珠が怪我をして帰ってきたのだ。
顔には明らかに手当てをした痕跡があり、その傷を見た瞬間、胸が締め付けられた。
――その怪我は、到底「階段で転んだ」などというものではないことは、一目で分かった。
『それよりも母さん、はいこれ』
『それよりもって……あなた、これどうしたの!?』
真珠から封筒を受け取ったものの、怪我の方が心配でそれどころではなかった。
だが、当の本人はその傷のことを、まるで気にしていない様子だった。
この子にとっては、ただの些細な出来事に過ぎないのだろう。
それよりも――「はやく、はやく、開けてみて」と訴えかけてくるその目。
期待に満ちた瞳は、まるでサプライズプレゼントを渡す子供のように輝いていた。
正直、疲労もあり「明日にしよう」と思っていた。だが、そんな表情をされたら断れるわけがない。私は仕方なく封筒を開けた。
中に入っていたのは、複数の企業からの契約書だった。
アイを筆頭とした苺プロのタレントに対するCM契約、イメージガール、専属契約――どれも新規の案件だった。
『ちょっとコネができてさ。苺プロの話をしたら、契約したいって話を出してくれたんだよね』
その言葉を聞いたときの私には考える余裕なんてものはなかった。
ただ、ようやく解放される。
疲れていて、いつも不安に怯えて、冷静に考える余地なんてなかった。だから――あの契約書がどんな方法で手に入ったのかなんて、気に留めもしなかった。その言葉を言葉の通りに受け取ってしまったのだ。
『ましろぉ……ありがとぉ……』
気づけば、私は泣きながら感謝の言葉を口にしていた。
この子に感謝を伝えてしまった。
それがどれほど残酷な言葉だったのかも知らずに――何よりも大切で、愛おしい息子に。
あれからも、真珠が次々と契約を取ってきてくれるようになった。
そのおかげで、苺プロは倒産という危機を何とか乗り越えることができた。
苺プロのタレントたちも、それぞれが忙しくも生き生きと仕事に打ち込めるようになり、会社全体に活気が戻ってきた。細かいドタバタは相変わらずあったけれど、壱護がいた頃のような明るい雰囲気を取り戻すことができた。
――守ることができた。そう思い込んで、私は安心していた。
だが、それは私が守っていたわけではなかった。
そのことに気づいたのは、真珠が初めて骨折で入院したときだった。
知らない人たちが、次々とお見舞いに訪れてきた。
その時、私は耳にしてしまったのだ――拳願仕合、契約、闘技者、雇用といった、不穏な単語を。
背筋が凍りついた。
点で感じていた疑問が、次々と線で繋がり、一つの嫌な仮説が頭をよぎった。
そんな突拍子もないこと、あるはずがない――そう思いたかった。
試合の報酬として契約を取ってきているなんて。
そんなこと、あり得るはずがない、と。
しかし、真珠はすぐに教えてくれた。
全てを。
本当なら、私は怒るべきだったのだろう。
けれど――あの時の私は、怒るどころか、自分の情けなさに打ちのめされていた。
自惚れに、後悔に……そして、何も気づけなかった自分自身に。
ーーーーーー
「それで兄さんは今度は何を隠してるの?」
「アクア?そんないつも隠し事をしているみたいに言わないで?」
第十三試合が開始された頃、俺と兄さんは控室に移動し、軽いストレッチをしていた。母さんとミヤコさん、ルビーは柏木造船のご令嬢と安全な場所で待つことになった。
なんでもある企業グループが裏工作をし始めたらしい。それは過激なものらしく、兄さんのお願いということもあり、試合前まではそっちの方で観戦することになった。
「別に隠し事なんて本当にしてないんだけど」
「ふーん」
「あ、全然信じてないでしょ」
「母さんを不安にさせて、ルビーを泣かせておいて?」
「ぐっ」
「ミヤコさんなんて『私のせいよ』って自分のことを責めてたけど?」
「ぐ、ぐふっ」
兄さんは昔からメンタルが強い。それはもうネットで誹謗中傷されようが、高校で悪質なイジメを受けようが、全く気にしてない。
そんな兄の弱点は家族である。もっと言えば兄が大切に思っている人たちが悲しむことを嫌う。それが自分のせいだと分かると落ち込んでしまう。
まぁ、試合前に伝えるようなことでもないが、俺だって思うところがないわけじゃない。これくらい許してもらわないと割に合わない。
「まぁ、なんにせよ。無事に戻ってきてくれよ」
「……うん」
泣きべそをかきながら、素直に謝罪をする兄の姿を見ると罪悪感が芽生えてしまうが、ちゃんと伝えておかないといけない。
だってこの人はーーーー
大切なものを〝中〟ではなく〝外〟に置いてしまう人だから。
自分自身をもっと大切にしてもらわなくてはならない。
俺たちのためにも。
「一通りストレッチも終わったし、軽くスパーリング付き合ってよ」
「いや、兄さんの動きについていけるわけねぇだろ」
「軽くでいいからさ」
「はぁ、わかったよ」
上着を脱ぎ捨て、構えを取る。
全力の速度で縦拳を繰り出した。
ポスン、ポスン――確かに当たっている感触はある。だが、その衝撃が全く伝わってこない。
まるで手応えを奪われたような、不思議な感覚に囚われている。
本当に、この兄に勝てる人間がいるのだろうか?
それとは別に、かつて〝普通〟であった兄がこれほどの力を身につけるまで、どれほどの努力をしてきたのか――その想像が胸を締め付ける。
アイには抱けない。
けれど、弟として、一人の男として憧れ。
そして――雨宮五郎として、胸中に渦巻く不安。
誰にも吐き出せない、この矛盾した感情。
それがモヤモヤと嫌な思考を募らせ、頭を支配していく。
その思いを振り払うように、蹴りなども織り交ぜて攻撃を続けるが、一向に当たる気配すらない。
全てが軽くいなされてしまう。
「……何でアクアのほうが汗だくなの?」
「はぁはぁはぁ、.......聞くな、ルビー」
一撃も当てられず、酸欠気味のアクア。
対する加減を知らないバカ兄貴は、なぜか満足げな顔をしている。
「あなたねぇ、少しは加減をしなさい!」
「いやいや、加減してるよ?ほら、アクアも元気そう」
「もうほとんど倒れてるけど!?」
「真珠?とりあえず正座しましょうか?」
「え、いやこれから試合「ん?」あ、はい。すみません……」
真珠が慌てて謝る中、アクアはフラフラになりながらも苦笑いを浮かべていた。
――そう、これから始まる壮絶な戦いの前に、こんな平和(?)な場面があったそうだ。