「――さぁ、刮目せよッッッ!!! 遂にこの時が来たッッ!! 最終試合、全拳願会員が、全格闘技ファンが、そして歴史そのものがこの瞬間を待っていたッッッ!!!」
闘技場を揺るがす絶叫。マイクを通した実況の声が、五万人の観衆の熱狂をさらに沸騰させる。
「東方ッ! かつて『絶対不敗』を誇った前・滅堂の牙を唯一その手で屠り、拳願仕合の常識を根底から覆した超越者――! 斉藤真珠ぉぉぉッッッ!!!」
地鳴りのような歓声。対するは、静寂を纏って現れた巨大な影。
「西方ッ!! 言葉はいらぬ、ただこの戦績を見よッ! 百五十七戦無敗、拳願仕合の頂点に君臨し続ける『現・最強』! 滅堂の牙―― 加納アギトォォォオオッッッ!!!」
どちらが勝っても敗れても、今日、一つの無敗神話が灰に帰る。
爆発的な「牙」コールがドームの空気を物理的に震わせ、鼓膜を執拗に叩きつける。その喧騒の渦中、真珠は目の前の巨躯に視線を留めた。
「……あの、加納さん。一つ聞いていいですか。何でそんなに傷だらけなんですか?」
つい先ほどまでなかったはずの、生々しい裂傷。
まだ血の滲む傷跡をいくつも刻んだアギトの姿に、僕は思わず尋ねた。
「……王森に、代われと言われてな。牙を継ぐ者がその程度の『迷い』を抱えたままでは、奴
「あぁ、なるほど。……手荒い激励ですね」
「………」
アギトはそれ以上、語らなかった。相変わらずの寡黙さ。だが、その沈黙の奥底に渦巻く圧倒的な威圧感は、これまで真珠が対峙してきたどんな「怪物」とも異質だった。
百五十七勝、ゼロ敗。
その数字が積み上げてきた絶望の山。そして今、ドームの底から地鳴りのように響き渡る『牙・コール』が、この漢が拳願仕合という歴史においての絶対的王者であることがわかる。
だが、王者はその熱狂を背負いながら、ただ真っ直ぐに僕だけを見据えた。
「……斉藤真珠。俺は今、お前という存在と闘えることを、心の底から嬉しく思うぞ」
アギトが不意に、地を這うような重低音で告げた。その瞳に宿るのは、格闘者としての純粋な法悦。
「俺の持つすべて――『武』も、『無形』も、この命が尽きるまで全て使わせてもらおう」
ビリッ――ッ。
空気が爆ぜた。
物理的な衝撃を伴うほどの殺気が室内に充満し、真珠の全身の産毛が逆立つ。肌に触れる大気が痺れるように神経を逆流し、心臓が肋骨を突き破らんばかりにドクン、ドクンと激しい警鐘を鳴らす。
『帝王』――拳願仕合の王座を、その拳一つで守り続けてきた男。
その男が、僕のような「凡人」を自称する少年に向かって、最大限の敬意と、剥き出しの闘争心を捧げている。
だからこそ、真珠の答えは決まっていた。
「……そうですか。そこまで言ってくれるなら」
守るための「慈愛」を殺し、殺すための「機能」へと意識を切り替える。
瞳から温度が消え、脳内の演算回路がアギトの筋肉の収縮、呼吸の揺らぎ、発汗のタイミングさえも数値化し始める。
「――ふっ」
ゾワゾワッ……!!
加納アギトの背筋に、生まれて初めての、得体の知れない「悪寒」が走った。
歴戦の経験が、細胞の一つひとつが、目の前の少年の「変質」を察知し、強制的に最大出力の臨戦態勢へとシフトさせる。
外野の喧騒は一瞬で消失し、視界の色彩さえも削ぎ落とされた。残ったのは、網膜に焼き付く斉藤真珠という名の「深淵」のみ。
青年が、静かに嗤った。
慈愛に満ちた聖母のようでもあり、獲物の最期を愉しむ処刑人のようでもある、歪な微笑。
――そして、まるで示し合わせたかのように。
審判・チーター服部の振り下ろされた手が空を切り、開始の合図がドームに響き渡る。その刹那、二つの「無敗」は爆発的な加速を以て、互いの間合いをゼロへと塗り潰した。
斉藤真珠は、その冷徹なまでの観察眼で加納アギトという存在の本質を理解していた。
加納アギトという男が、なぜ「最強」であり続けられるのか。その本質が、あらゆる武に適応し、それを超克する「無窮の進化」にあることを。
だからこそ。
その「進化」という絶対の強みこそが、この瞬間に限っては唯一の綻びとなる。
もし、この漢を相手に真正面からの打撃戦を挑み、長期戦を演じたとするならば。
たとえ百回の試行を重ねたとしても、僕が勝利を掴める確率は片手で数えるほどにも満たないだろう。試行錯誤の果てに僕の手足は砕かれ、加納アギトという「進化する災厄」の糧として吸収されて終わる。
加納アギトの特筆すべきは、「無形」と呼ばれる変幻自在の構えから繰り出される適応力。だが、その進化を完成させるためには、不可避のプロセスが存在する。相手の攻防を知り、その理を脳に刻み、最適なカウンターを構築するための「観察の時間」だ。
その傲慢とも言える「王者の習性」こそが、真珠が唯一賭けた、針の穴を通すような勝機だった。
だからこそ、勝機は、この一撃にしかない。
適応を許す前の「初見にて倒す」。
「……ッ!」
真珠の左肩が大きく回る。
全速、全霊。自らの肉体を崩壊させかねないほどの過負荷をかけた、弾丸のような左フック。
空気が爆ぜ、衝撃波が観客席の最前列まで届くほどの圧巻の一撃。加納アギトの瞳が鋭く光り、その「無形」の揺らぎが完璧な反応を見せた。
バキィッ、という嫌な音が鼓膜を打つ。
アギトは真珠の左拳を最小限の動作で捌くと同時に、その手首を蛇のように捕らえ、容赦なく関節を外した。
普通なら、そこで戦いは終わる。激痛と恐怖に、凡百の闘技者なら意識を飛ばす場面。
だが、斉藤真珠にとって、自らの左腕は勝利を釣るための「安い餌」に過ぎなかった。
(――信じてましたよ、あなたが『完璧な迎撃』をしてくれることに)
左手首を犠牲にすることで生まれた、コンマ数秒の硬直。
アギトの意識が「外した左腕」に僅かに傾いたその刹那、真珠の右手が、死角から吸い込まれるように突き出された。
それは、格闘技の「突き」ではない。
解剖学、人体の構造を知り尽くした者だけが辿り着ける、最適解の「一撃」。
真珠の指先は、手刀よりも細く、メスよりも鋭利に研ぎ澄まされていた。
アギトの強靭な大胸筋。それを支える鉄壁の肋骨。
だが、どれほど鍛え上げられた肉体にも、構造上の「隙間」は必ず存在する。
真珠は、自らの指の関節を意図的に脱臼させ、リーチを数ミリ伸ばすと同時に、呼吸の合間にわずかに開く肋骨の隙間を――まるで絹針が布を縫うような滑らかさで潜り抜けた。
鎧の内側に侵入した指先が、帝王の鼓動を司る中枢――洞結節を直接撃ち抜く。
「……ッ!?」
加納アギトの瞳から、光が消えた。
月影が太陽を呑み込む蝕のごとく、世界は音もなく闇に沈む。
「適応」も、「進化」も——人体を巡る電気信号そのものが、無慈悲に断ち切られていた。
最強を冠した漢の巨躯が、糸の切れた人形のように、ゆっくりと崩れ落ちる。
攻防にして、わずか数秒のことだった。
ドサッ――。
帝王の巨躯がマットに沈む音は、驚くほど小さかった。
五万人を飲み込んだドームから、音が消える。
誰も叫ばない。誰も息をしない。
ただ一人、審判のチーター服部だけが、何度も瞬きを繰り返しながら、倒れた王者と立ち尽くす青年を交互に見比べていた。
「……しょ、勝者――」
震える声が、マイクを通してドームに落ちる。
「勝者ッ! 柏木造船所属――斉藤、真珠ぉぉぉッッッ!!!」
一拍。ーーーそして、爆発。
屋根を突き破らんばかりの絶叫と怒号と歓声が、四方八方から雪崩れ込んでくる。つい先ほどまで「牙」を讃えていた同じ喉から、悲鳴にも似た「真珠」の名が吐き出されていく。
だが、その渦の中心で。
斉藤真珠は、勝ち名乗りにも、熱狂にも、一瞥すらくれなかった。
外された左腕を体側へ自然に下ろしたまま、ただ静かに立っている。遠目には、一糸の乱れもないように見えただろう。
(――十秒)
脳裏で、冷たい数字が刻まれていく。
真珠は膝をついた。
脱臼させた右手の指先を、自らの膝頭に押し当てる。
ゴキッ。
骨と骨が噛み合う鈍い感触。遅れて痛覚が脳を焼くが、眉一つ動かさない。外された左手首は、だらりと垂れ下がったまま放置した。そちらは後でいい。
「お、おい……斉藤選手……?」
服部の困惑した声を背に、真珠はアギトの胸に右手を添えた。
鼓動はない。
当然だ。止めたのは、自分なのだから。
――月食。
肋骨の隙間から洞結節を撃ち抜き、心臓を巡る電気信号を断つ技。
月食とは、眩い光が、静かな影に呑み込まれる現象だ。
相手が最も強く輝く瞬間――その絶頂を真正面から迎え入れ、己の影で覆い尽くす。真珠が左腕を差し出したのは、そのためだった。加納アギトという光が『完璧な迎撃』として最も眩く輝く、その一瞬を喰らうために。
光が強ければ強いほど、それを呑む影もまた深くなる。
(――十一秒)
胸骨の下半分。指先で位置を確かめる。
左手は使えないが、片手で十分だ。
打ち込む角度、深さ、そして止まった心臓が最も「目を覚ましやすい」瞬間。そのすべてを、真珠は闘う前から知っていた。
【壊し方を知っていれば、治し方も覚えられるからね】
かつて英先生が、何でもないことのように教えてくれた言葉。
あの頃の僕は、マッサージのやり方が知りたかっただけなのに。今ではそれが、人を壊すための知識と、人を生かすための知識の、両方になってしまった。
皮肉な話だ、と思う。
ーーーけれど、それでいい。
(――十二秒)
ドンッ――!
右の拳が、アギトの胸骨を打ち据える。
破壊のための打撃ではない。止まった拍動を、外側から叩き起こすための一撃。
巨体がビクンと跳ねた。
……反応はない。
歓声の質が、変わり始める。
観客席の誰かが「おい、死んでんじゃねぇのか」と叫んだ。リングサイドに控えていた医療班が、慌ただしく駆け寄ってくる気配がする。
(まだだ)
真珠は顔色一つ変えず、二度目を構えた。
呼吸を一つ。
慈愛を殺した瞳のまま、ただ正確に。
ドンッ――!!
「――――ッ、カハッ!!」
加納アギトの喉が、大きく鳴った。
弓なりに反った胸郭が、空気を貪るように膨らむ。そして、真珠の掌の下で――ドクン。
確かに、一つ。
ドクン。ドクン。ドクン。
止まっていた鼓動が、再び時を刻み始めた。
「……おかえりなさい、加納さん」
その瞬間、極限まで研ぎ澄まされていた真珠の瞳に、ふっと柔らかな温度が戻った。
命を刈り取るために最適解を弾き出し続けていた冷たい演算回路が、静かに電源を落とすように閉じていく。
そうして絶対的な機能《マシン》が眠りについたあと、空っぽになった胸の奥に響くのは、いつだって不器用で優しい師の――丸山さんの声だった。
【お前はお前が正しいと思うことをしろ】
―――だから、殺さない。命までは奪わない。それが、選ばれなかった凡人である自分が、唯一手放さなかった『武』の形だから。
その顔に浮かんだのは、いつもの――困ったように笑う、ただの青年の表情だった。
ドームが、二度目の爆発を起こした。
――――――――
医療班が担架を広げる。その喧騒の中で、焦点の合わなかったアギトの瞳が、ゆっくりと真珠を捉えた。
「……何を、した」
掠れた声。それでも、地を這う重低音は変わらない。
「心臓を止めて、また動かしました。それだけです」
「…………」
アギトは、しばらく天井の照明を見上げていた。
百五十七戦。積み上げてきた無敗の山が、たった数秒で崩れ去った。その事実を、脳が、身体が、ゆっくりと咀嚼していく。
「見えなかった」
ぽつりと、かつての王者が零した。
「お前の右が……俺には、最後まで見えなかった」
「見せなかったんです。見られたら、あなたは必ず対応しますから」
真珠は、だらりと垂れた自分の左手首に視線を落とした。
「正直に言いますね。あれは初見でしか通用しません。もう一度やったら……たぶん、僕が負けます」
謙遜でも、慰めでもなかった。
百回闘えば、勝てるのは片手にも満たない。その計算は、闘う前から何一つ変わっていない。
アギトの目が、わずかに見開かれた。
そして――
「……ふ」
鉄面皮の口元が、確かに緩んだ。
それは敗者の顔ではなかった。目の前に、まだ登るべき山があると知った者の顔。生まれて初めて「負け」を知り、それゆえに初めて「先」を得た男の、どこか子供じみた笑みだった。
「ならば――その二度目を、待とう」
「……お手柔らかにお願いします」
真珠は苦笑して立ち上がった。担架で運ばれていく背中を見送りながら、外れた左手首を右手で掴む。
ゴキン。
「……痛ったぁ……」
思わず漏れた声は、さっきまで帝王を屠った怪物のものとは思えないほど情けなくて。
最前列の観客が、ぽかんと口を開けているのが見えた。
花道を引き上げる途中、真珠はふと、ドームの上層を見上げた。
ガラス張りの観覧室。あの向こうに、家族がいる。
きっと母さんは怒っているだろうし、姉さんは泣いているかもしれない。ルビーには、また嫌な思いをさせてしまった。
右手を、小さく上げる。
届くかどうかもわからない、ささやかな合図。
そして、視線を少しだけずらした先。
別の観覧室の硝子越しに、一つの人影が見えた。
そこから滲み出る、ねっとりと絡みつくような色を、真珠は視る。
濁った、焦げついたような――あの色だ。
(……まだ、一回戦ですよ。速水会長)
真珠は視線を切り、静かに背を向けた。
関係者用の通路へ続く扉が、背後で重く閉じる。
それだけで、あれほど鼓膜を叩いていた歓声が、嘘のように遠ざかった。
蛍光灯の白い光。コンクリートの冷たい匂い。
一歩。
二歩。
三歩。
(――もう、いいかな)
そう思った瞬間、膝から力が抜けた。
ずるり、と壁に背を預けたまま、真珠の身体が床へ滑り落ちる。
「――ごふっ」
喉の奥からせり上がってきたものが、灰色の床に赤い花を咲かせた。
口いっぱいに広がる鉄の味。息を吸うたび、右の脇腹に焼けた杭を打ち込まれるような激痛が走る。
(……やっぱり、持っていかれてたか)
――あの一瞬。
指先が洞結節に届く、ほんの刹那前。
加納アギトの『無形』は、左手首を極めると同時に、すでに次の一手を放っていた。貫手のために伸び切った右腕。その下に生まれた、がら空きの脇腹へと。
月食がその心臓を止めた後も、拳は止まらなかった。
主の意識を失ってなお、慣性だけを乗せた一撃は正確に、真珠の肋骨を打ち砕いていたのだ。
言うなれば、ただの流れ弾。
だが、意識が闇に沈んでなお敵を穿つ――それこそが、百五十七戦を無敗で積み上げてきた男の身体だった。
(右の肋骨が三本。折れた骨が肺を少し傷つけてる。……でも、呼吸はまだできる)
冷静に自分の身体を診ながら、真珠は――嗤った。
「……は、はは」
笑うたびに、折れた肋骨が軋む。それでも、込み上げてくるものを止められなかった。
左手首の脱臼と、肋骨が三本。
それが、最強――加納アギトと闘った代償。
本気で、そう思う。
もしあの一撃が数センチずれていたら。もし月食が、コンマ一秒でも遅れていたら。もし――二度目の攻防があったなら。
床に転がっていたのは、間違いなく自分の方だった。
百回闘えば、勝てるのは片手にも満たない。
その一回を、今日、引き当てただけだ。
「……ほんと、化け物だなぁ」
血の混じった息と一緒に、そんな言葉が零れる。
カツン。
不意に、通路の奥から足音が響いた。
一人ではない。規則正しい革靴の音と、それを追いかけるような、いくつもの乱れた足音。
「――斉藤様」
金属のように冷徹で、それでいて礼節を弁えた声。
片原滅堂の直轄護衛者、三番隊隊長――J。
「御老公の命により、ご家族をお連れいたしました」
その黒いスーツの背後に、見慣れた顔が並んでいた。
母さん。姉さん。アクア。ルビー。
四人の視線が、床に座り込んだ真珠と、その足元に広がる赤い染みを捉えて――凍りつく。
(あ、まずい)
真珠は反射的に、いつもの顔を作った。
困ったように眉を下げて笑う、あの顔。
小さい頃から、何かを誤魔化すときに必ず浮かべてしまう、あの笑顔を。
「……あはは。見られちゃった、か」
誰も、笑わなかった。
ルビーの唇が震えている。アクアは拳を握りしめたまま、何かを堪えるように奥歯を噛んでいる。姉さんの大きな瞳には、もう溢れそうなほどの涙が溜まっていて。
そして母さんは――ただ真っ直ぐに、僕を見ていた。
【無事に帰ってきなさい】
【……約束できないなぁ。でも――勝ってくるよ】
試合前に交わした言葉が、脳裏をよぎる。
守れた約束は、半分だけだ。
「……ただいま、母さん」
だから真珠は、血に濡れた口元のまま、もう一度だけ笑った。
拳願絶命トーナメント、第一回戦・第十六試合。