意識が途切れていたのは、ほんの数分だったらしい。
目を開けると、そこはまだ、あの薄暗い通路だった。
口元には酸素マスク。
いつの間にか駆けつけていた医療班が、慌ただしく真珠の身体を確かめている。
「斉藤選手、すぐに医務室へ――」
「……大丈夫です」
担架を広げようとする手を、真珠は右手でそっと制した。
「医務室は、いりません。治し方は、自分で分かってますから」
「し、しかし……!」
「……正気か、兄さん」
脈を取っていたアクアが、低く唸る。
「うん。あとで、ちゃんと説明するよ」
困惑する医療班に、Jが静かに目配せをする。それだけで、彼らは一礼して通路の奥へと下がっていった。
真珠は壁に背を預けたまま、マスクを外して、小さく息を吐く。
「――真珠くん」
姉さんが、目の前にしゃがみ込んでいた。真珠の右手を、両手でぎゅっと包み込む。
その手が、小さく震えていた。
「ねぇ、真珠くん」
いつもの、明るく弾むような声ではなかった。
「どうして、こんなことしてるの?」
「……姉さん」
「あんな怖い人たちと、命がけで殴り合って。血を吐いて、骨まで折って」
星のような瞳が、真っ直ぐに真珠を射抜く。
「お仕事でも、お金のためでもないよね。真珠くんは、そんなことのために誰かを傷つけたりしない。……私、それくらいは分かるよ」
握られた手から、小さな震えが伝わってくる。嘘をつくのが誰よりも上手な人の、嘘のひとつも混じっていない声だった。
「そうだよ……!」
ルビーが、堰を切ったように声を上げた。
「試合の前にも言ったじゃん……! もうやめようよ、トーナメントなんか! 次の試合だって、そんな身体で出られるわけないじゃん!」
「ルビー」
「やだ! 今日だって、本当に死んじゃうかと思ったんだよ!? 今だって、そんなに血だらけで……っ。また、あの時みたいに、お兄ちゃんの心臓が止まっちゃうんじゃないかって……!」
言葉が、嗚咽に呑まれていく。ルビーにとって、それは決して大げさな言葉ではなかった。幼い頃、刺された兄の心臓が一度止まったことを、この子は今も覚えている。眠り続ける兄の手を握りながら、目を覚ますのを待ち続けた日々を、忘れられずにいる。
「……帰ろうよ。みんなで、東京に帰ろう? ねぇ、お願いだから……」
姉さんも、何も言わずに頷いた。その瞳が、同じことを願っていた。
もう帰ろう。
何もかも放り出して、みんなで、あの家に。真珠は口を開きかけて――閉じた。
言えるはずがなかった。
帰った先に待っているのが、あの家の平穏ではないことを。
沈黙が落ちる。
ルビーのしゃくり上げる声だけが、薄暗い通路に響いていた。――その沈黙に、加わらない者が二人いた。
母さんは、真珠の傍らに膝をついたまま、唇を固く結んで、じっと真珠を見つめている。アクアは、真珠の脈を取っていた手を止めたまま、何も言わない。
――――――――
(……やっぱり、そうか)
星野アクアは、黙って兄の横顔を見つめていた。ほんの少し前まで、硝子越しに見下ろしていた闘技場。
決着は、一瞬だった。
開始の合図から、わずか数秒。
最強と謳われた滅堂の牙が崩れ落ち、兄さんはその傍らに静かに立っていた。
会場のほとんどの人間には、そう見えたはずだ。斉藤真珠が、傷ひとつ負わずに最強を屠ったのだと。
アイもルビーも、きっとそう信じていた。歓声の渦の中で、二人はただ、兄さんが無事に勝ったことを喜んでいた。
けれど、俺の目は小さな違和感を拾っていた。勝ち名乗りを受ける兄さんの左腕が、ほんの少しも動いていなかったこと。膝をつき、立ち上がるたびに、右の脇腹をかばうように重心がわずかにずれていたこと。前世で医者として、数え切れない身体を診てきたからこそ気づけた違和感。
目の肥えた闘技者たちなら、きっと同じものを見ていただろう。
それでも――ここまでだとは、思っていなかった。
通路の先で、壁に背を預けて座り込む兄さんを見つけたとき。その口元から、赤いものが零れ落ちたとき。隣で、アイとルビーが息を呑む音が聞こえた。
ミヤコさんが駆け寄るのと同時に、俺も兄さんの傍らに膝をついていた。呼吸の深さ。胸郭の動き。唇の色。右の脇腹にそっと指を這わせると、本来あるべき骨の連なりが、指先の下でいくつも途切れていた。
「……右の肋骨が三本、折れてる。呼吸のたびに、胸の動きが左右でずれてる……肺も傷ついてるな。左手首は、脱臼したのを自分で嵌め直したのか」
淡々と、事実だけを並べた。感情を挟めば、声が震えてしまいそうだったから。その言葉を聞いた瞬間の、アイとルビーの顔を、俺はきっと一生忘れない。
血の気が引いていく、という言葉の意味を、初めて目の当たりにした気がした。呉雷庵と茂吉ロビンソンの試合を見て、ここがルールも何もない場所だということは、二人ももう知っていた。
それでも、どこかで信じていたのだ。兄さんだけは違う、と。
賀露の一撃をまともに受けても、平然と服の皺を伸ばしていた兄さんなら。今日もきっと、何事もなかったように帰ってくるのだと。その兄さんですら、例外ではなかった。一瞬で終わったように見えたあの試合の裏で、兄さんは骨を砕かれ、血を吐きながら、それを誰にも悟らせずに歩いて帰ってきたのだ。二人がそれを思い知ったのは、きっと、あの瞬間だった。
そして――俺には、もう一つ気づいていることがあった。
全部を知っているわけじゃない。けれど、気づかないはずがなかった。
試合前の控室で、俺は兄さんに聞いた。今度は何を隠してるのか、と。
兄さんは「隠し事なんてしてない」と笑ってごまかした。試合直前まで、アイやルビーを柏木造船の令嬢と一緒に安全な場所で待たせたのも、ある企業グループが過激な裏工作を始めたから――兄さんが教えてくれたのは、それだけだった。
そして、ルビーに『人にはやらなきゃいけないことがある』と語ったときの、あの昏い瞳。
斉藤真珠は、無益な闘いは絶対にしない。
その兄さんが、命を懸けてまで、この島に来た。
答えは、一つしかなかった。
(俺たちのため、なんだろ。兄さん)
だから、言えなかった。帰ろうなんて、言えるはずがなかった。それを口にした瞬間、兄さんがたった一人で背負っているものを、踏みにじってしまう気がしたから。
――――――――
どれほどの時間が経っただろう。いつまでも続く沈黙を破ったのは、意外な人物だった。
「――差し出がましいことを、申し上げてもよろしいでしょうか」
少し離れて控えていたJが、静かに一歩、前に出た。
「御老公より、言伝を預かっております。『隠しごとを抱えたまま勝ち抜けるほど、この先は甘くないぞ』と」
金属のように冷たく、それでいて礼節を弁えた声が、通路に響く。
「そして、斉藤様がこの大会に身を投じられた理由を、ご家族にお伝えする許可も頂いております」
全員の視線が、Jに集まった。
「斉藤様は今、東洋電力会長・速水勝正より――」
「Jさん」
真珠の声が、それを遮った。折れた肋骨が軋むのも構わず、壁から背を離そうとする。
「待ってください。それは、僕が――」
「真珠」
静かな声だった。けれど、その一言で、真珠の動きが止まる。母さんの手が、そっと真珠の肩に置かれた。
「もう、いいの」
「……母さん」
「もう、隠せないわ。……ううん。もう、隠させない」
母さんは、腫れ上がった真珠の左手首に、そっと自分の手を重ねた。
「あなたが私たちを大切に思ってくれているのは、分かってる。痛いくらい、分かってる」
その声が、かすかに震えた。
「でもね、真珠。あなたが私たちを大切に思うのと同じくらい――私たちだって、あなたが大切なのよ」
「……っ」
「あなた一人に全部を背負わせて、知らないふりをして、ただ帰りを待つだけなんて……そんなの、もう家族じゃないわ」
母さんの目から、一筋の涙が零れ落ちた。この人が泣くのを見たのは、いつ以来だろう。真珠は、ゆっくりと周りを見回した。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたルビー。手を握ったまま、離そうとしない姉さん。すぐ隣で、それでも真っ直ぐにこちらを見ているアクア。
そして、泣きながら微笑む母さん。
……あぁ、そうか。守っているつもりで、僕はずっと、この人たちを置き去りにしていたのか。
長い、長い息を吐く。折れた肋骨が痛んだ。けれどそれ以上に、胸の奥でずっと固く結んでいた何かが、ほどけていくのが分かった。
「……敵わないなぁ」
困ったような笑みではなかった。それは、ようやく荷物を下ろした人間の、少しだけ泣きそうな笑顔だった。
「分かった。……全部、話すよ」
真珠は、Jに向かって小さく頭を下げた。
「Jさん、すみません。ここからは、僕の口から話させてください」
「――承知いたしました」
Jは静かに一礼し、一歩、後ろへと下がった。
「……まず、一番大事なことから話すね」
真珠は、姉さんの手を握り返した。逃げないように。そして、逃がさないように。
「今日――僕の試合が始まる少し前に、アクアとルビーのことが報道された」
時間が、止まった。
「……え」
姉さんの唇から、かすれた声が漏れる。ルビーが息を呑み、アクアの拳が白くなるほど握りしめられた。
「星野アイの、隠し子。……今、ネットもテレビも、その話で持ちきりになってる」
「なん、で……」
「速水会長だよ」
真珠は、静かに続けた。トーナメントの開催が発表される数日前、速水会長に呼び出されたこと。
家族の写真と調査資料を突きつけられ、全てを公にされたくなければ従えと迫られたこと。
そして――それを、断ったこと。
「断れば、いつか必ず流される。それは分かってた。東洋電力の力があれば、報道そのものを止めることはできない」
「……本当のことよ。」
ぽつりと、母さんが言った。
「試合が始まる直前に、事務所から連絡があったの。……アイには、まだ言えなかった」
母さんが口をつぐんでいた理由を、姉さんはそこで初めて知った。
「だから、先に手を打っておいたんだ」
真珠の視線を受けて、Jが一台のタブレットを差し出した。画面には、いくつものニュース記事が並んでいる。
どの記事も、書かれているのは事実だけだった。子どもたちの顔写真も、通っている学校も、どこにも載っていない。
「裏方の仕事をしてた頃から知ってる記者さんや、丸山さんの繋がりのテレビ局の人たち。……本当は、別のことのために、何年もかけて繋いできた縁なんだけどね。事実を報じるのは止められない。だから、事実だけを書いてほしい。子どもたちを追いかけ回すような真似だけは、しないでほしいって、前もってお願いしてたんだ」
ちゃんと契約もしてある、と真珠は付け加えた。
「……それでも」
画面をなぞる指が、止まる。記事の下に、無数のコメントが連なっていた。
――ファンを騙してたってこと?
――アイドルが隠し子とか最悪
――子どもに罪はないだろ
――ずっと嘘ついてたんだな
擁護の声もある。けれど、それを押し流すほどに、否定の声は大きかった。姉さんは、黙ってその画面を見つめていた。
やがて、その視線がゆっくりと、アクアとルビーへ向けられた。
「……アクア、ルビー」
名前を呼ぶ声が、かすかに震えていた。
「ごめんね。……ママのせいで、二人まで」
「ママのせいじゃない!」
ルビーが、弾かれたように首を振る。アクアも唇を引き結んだまま、黙って首を横に振った。
「……そっか」
やがて零れたのは、驚くほど静かな声だった。
「バレちゃったんだ。……ずっと、嘘ついてたもんね、私」
「姉さん」
「ううん、いいの。いつかこうなるかもって、どこかで思ってたから」
そう言って笑った姉さんの顔は――さっき、真珠が浮かべていたのと同じ顔をしていた。
「……違うよ、姉さん」
真珠は、静かに首を横に振った。
「姉さんは、嘘つきなんかじゃない。……それに、こんな形でバレるはずじゃなかったんだ」
「……え?」
「本当はね、ずっと前から準備してたんだ。速水会長に脅されるより、ずっと前から」
真珠は、姉さんの手を握る指に、少しだけ力を込めた。
「僕たちの手で、ちゃんと公表するつもりだった。アクアとルビーが、姉さんの子どもだってこと」
姉さんの目が、大きく見開かれる。
「覚えてる? 家族みんなで、写真を撮った日のこと」
三脚を立てて、父さんがタイマーをセットして、みんなで慌ててカメラの前に並んだ、あの日。
「姉さんは、二人の授業参観にも、運動会にも、入学式にも卒業式にも、母親として行けなかった。外では、ずっと『お姉ちゃん』でいなきゃいけなかった」
「……真珠くん」
「僕は、それがずっと悔しかったんだ」
あの日、真珠は姉さんに言った。
――姉さんが、ちゃんと家族だって言える世界を、僕も求めるよ。
それは姉さんへの、そして自分自身への約束だった。
「だから、何年もかけて準備してきた。記者さんたちとの繋がりも、本当はそのために作ってきたものなんだ。公表したときに、姉さんたちが少しでも傷つかずに済むように。ちゃんと、僕たちの言葉で伝えられるように」
「……私も、知ってたわ」
母さんが、静かに口を開いた。
「社長として、この子から計画を預かってた。……あと少しだったのよ。本当に、あと少しで」
真珠は、唇を噛んだ。
「その『あと少し』のところで、速水会長に横槍を入れられた。僕たちが用意した言葉じゃなくて、『隠し子のスキャンダル』として」
だから、想定していたよりもずっと、火の手が大きくなってしまった。何年もかけて積み上げてきたものが、たった一本の記事で、望まない形に塗り替えられてしまった。姉さんは、何も言えずにいた。星のような瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちていく。さっきまで浮かべていた嘘の笑顔は、もうどこにもなかった。
「……ばか」
震える声で、姉さんは呟いた。
「真珠くんの、ばか。……そんなの、一人で頑張ることじゃないじゃん」
ルビーは、ぎゅっと唇を噛んでいた。アイドルを目指すこの子にとって、『星野アイの隠し子』という肩書きが、これからどれほど重くのしかかるか。分からないはずがない。
アクアもまた、俳優としての自分の名前が、明日からどう語られるのかを考えているはずだった。
それでも――二人は、自分のことを何ひとつ口にしなかった。
「じゃあ……」
ルビーが、震える声で言った。
「じゃあ、なんでお兄ちゃんはまだ闘うの? もうバレちゃったんなら、トーナメントなんて……」
「だからこそ、だよ」
真珠は、真っ直ぐにルビーを見た。
「拳願会には、この国を動かしてる人たちが集まってる。その人たちは今、見てるんだ。東洋電力に脅された斉藤真珠が、どうするのかを」
ここで折れれば、次は別の誰かが同じことをする。家族の秘密を盾にすれば屈する相手だと、そう思われてしまう。
「それに、僕を潰したい、邪魔だと思ってる企業は、東洋電力だけじゃないんだ」
真珠の声が、わずかに低くなる。
「フリーの闘技者として勝ち続けてきた四年間で、僕に煮え湯を飲まされた企業はいくらでもある。ここで僕が負ければ、そいつらは一斉に動き出す。……今度は、家族を狙って」
ルビーの顔から、すうっと血の気が引いていく。
「だから、勝って証明しなきゃいけない。脅されても屈しない。秘密を暴かれても、膝をつかない。……僕の家族に手を出したら、僕が相手になる。それを、拳願会の全員に知らしめるために」
真珠の声は、静かだった。けれど、その奥に宿るものは、加納アギトと対峙したときと何一つ変わらなかった。
「誰を敵に回しても、闘う。そのために、僕はあそこに立ってるんだ」
「……負けるわけには、いかないんだ」
その言葉の続きを、真珠は胸の内でだけ呟いた。今度こそ、姉さんが胸を張って、アクアとルビーの母親だと言える日まで。長い、沈黙が落ちた。
――――――――
斎藤ミヤコは、その横顔から目を逸らせなかった。
(……また、だ)
誰を敵に回しても、闘う。
その言葉を、この子はなんでもないことのように口にする。あの子が裏の世界に足を踏み入れたのは、まだ中学生の頃だった。
壱護がいなくなり、苺プロが倒産の淵に立たされていた頃。契約は次々と白紙に戻され、所属タレントは引き抜かれ、眠れない夜ばかりが続いていた。
ある夜、真珠は顔中に手当ての跡をつけて帰ってきた。
『階段で転んじゃってさ』
そう笑って差し出された封筒の中には、いくつもの企業からの契約書が入っていた。CM、イメージガール、専属契約。どれも、喉から手が出るほど欲しかった新規の案件だった。
『ちょっとコネができてさ』
疲れ切っていた私は、それを疑いもしなかった。泣きながらあの子を抱きしめて――「ありがとう」と、
そう言ったのだ。
その契約が、あの子の血と引き換えだったことも知らずに。真実を知ったのは、真珠が初めて骨折で入院したときだった。
見舞いに訪れた見知らぬ大人たちの口から零れた、闘技者、拳願仕合、契約という言葉。点と点が線で繋がった瞬間の、背筋が凍るような感覚を、今でも覚えている。
あの時、私は怒ることすらできなかった。自分の不甲斐なさに、ただ打ちのめされていた。
あの子を、あの世界へ踏み入らせたのは――私だ。
私がもっとしっかりしていれば。母親として、社長として、あの子に頼らずに済むだけの力があれば。
(それなのに、私はまた)
報道は止められなかった。会社を守ることも、アイを守ることも、子どもたちを守ることも、何ひとつ。その全部を、またこの子一人が、血を流して背負っていた。
母親なのに。守るべきなのは、私の方なのに。膝の上で握りしめた拳が、震えていた。
「……話してくれて、ありがとう」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。その言葉を、この子に向けるのは二度目だった。
一度目は、何も知らずに。
二度目は、何もかも知った上で――それでもなお、それしか言えない自分が、ひどく惨めだった。
「ごめんなさいね、真珠」
「……母さん?」
「あの時、私がもっとしっかりしていれば……あなたは、こんな世界に足を踏み入れずに済んだのに」
「それは違うよ」
真珠は、すぐに首を横に振った。
「僕が選んだんだ。母さんのせいじゃない」
分かっていた。この子なら、きっとそう言うと。いつだってそうだ。全部を自分で選んだことにして、誰にも重さを分けようとしない。
だからこそ、悔しかった。
それでも――ここで泣き崩れるだけの母親で、終わるわけにはいかない。
私は、真珠の手を両手で包み込んだ。
「でもね、真珠。これだけは言わせて」
「……うん」
「あなたが闘技場で闘うなら、私は私の場所で闘う。報道のことも、会社のことも、アイのことも――外のことは、全部、私に任せなさい」
それは、母親として何もしてやれなかった私の、せめてもの意地だった。真珠は少しだけ目を見開いて、それから、ふっと表情を緩めた。
「……ありがとう、母さん。頼りにしてる」
その言葉に、また泣きそうになる。ありがとうを言うべきなのは、ずっと、私の方だったのに。
――――――――
「よっこいしょ」
真珠は壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。
折れた肋骨が軋み、思わず息が詰まる。
それでも、膝が折れることはなかった。
「無理しないで、真珠くん」
慌てて支えようとする姉さんの手を、真珠はそっと制した。
「大丈夫。……それより、あんまり時間がないんだ」
「時間?」
「次の試合は二日後だけど、夜の打ち上げまでには身体を治さなきゃいけない。だから、今から休むよ」
「なんで打ち上げまでに?」
ルビーが、不思議そうに首を傾げた。涙の跡が残る目元に、純粋な疑問の色が浮かんでいる。無理もない。ルビーにとって打ち上げは、試合を終えた人たちが労い合う、ただのパーティーでしかないのだから。
「次の試合まで二日もあるんでしょ? だったら、ちゃんと休んで、ゆっくり治せば――」
「なるほどな」
ルビーの言葉を遮ったのは、隣で黙っていたアクアだった。
「今これだけの怪我を負っている事実を隠すのか」
「……え?」
「打ち上げには、勝ち残った闘技者も、その雇い主も集まる。そこに兄さんが包帯だらけで現れたらどうなる」
アクアは、淡々と続ける。
「滅堂の牙を数秒で沈めた闘技者が、実は満身創痍だった。……次の対戦相手にとっては、これ以上ない情報だ。それに――」
その視線が、一瞬だけ険しくなる。
「東洋電力にとっても、な」
ルビーが、はっと息を呑んだ。
「さすがアクア。ちょっとでも相手に悟らせないようにしないとね」
真珠は、少しだけ嬉しそうに笑った。この場所では、情報もまた武器になる。怪我の箇所、治るまでの日数、呼吸の乱れひとつ。それを知られた瞬間、相手は迷わずそこを狙ってくる。
拳を交える前から、闘いはもう始まっているのだ。だからこそ、何事もなかったような顔で、あの場所に立たなければならない。
「……そんなの」
ルビーが、唇を噛んだ。
「そんなの、ずっと気を張ってなきゃいけないってことじゃん。怪我してても、痛くても、休む暇もないってことじゃん……」
「うん。でも、それが僕の選んだ場所だから」
真珠は、ルビーの頭にそっと手を置いた。小さい頃から、何度もそうしてきたように。
「でも休むって……医務室には行かないんでしょ?」
姉さんの問いに、真珠は少しだけ困ったように――けれど今度は、嘘のない顔で笑った。
「うん。ちょっと、普通じゃないやり方だから」
「普通じゃないって……」
「見てもらったほうが早いかな。……たぶん、びっくりすると思うけど」
真珠は、Jの方を振り返る。
「Jさん。お願いしていた部屋と食事、準備できてますか」
「全て、整えてございます」
Jは、まるで最初からこうなることを知っていたかのように、静かに一礼した。案内されたのは、宿泊棟の一室だった。扉を開けた瞬間、真夏とは思えない冷気が肌を刺した。
壁のエアコンの表示は、十八度。
家具は全て部屋の端に寄せられ、床一面に、青いビニールシートが敷き詰められている。そして、部屋の中央に置かれた長机には――
「……なに、これ」
ルビーが、呆然と呟いた。並んでいたのは、ただの大盛りではなかった。山盛りの白米と玄米。分厚いステーキに、皿いっぱいのレバー。殻付きの牡蠣、塩焼きの鮭と鯖。小鉢に盛られたしらすと納豆。何十個もの卵。牛乳にチーズにヨーグルト。とろとろに煮込まれた牛すじと、手羽先の山。ブロッコリーにほうれん草、山積みのキウイと柑橘。
どう見ても、十人前は優に超えている。
「いただきます」
真珠は手を合わせると、黙々と食べ始めた。速い。けれど、決して乱暴ではない。
噛み、飲み込み、また次へ。
まるで機械が燃料を補給するように、一定のリズムで山が崩れていく。レバーを噛み切り、牡蠣を啜り、鮭の身を骨ごと噛み砕く。白米を流し込み、牛乳を一息に飲み干す。箸が止まることは、一度もなかった。
「……すごい」
ルビーが、呆気に取られたように呟く。姉さんは目を丸くしたまま、空になっていく皿と真珠の顔を交互に見比べていた。
アクアは、その長机を見つめたまま、眉をひそめていた。
(……ただの大食いじゃない)
肉と卵で、身体を作るタンパク質。
小魚と乳製品のカルシウムに、それを骨に定着させるビタミンDとK。
レバーと牡蠣で、失った血を補う鉄と亜鉛。
牛すじと手羽先のコラーゲンに、それを組み立てるビタミンC。
全部に、意味がある。
砕けた骨と千切れた筋肉を作り直すための、計算され尽くした献立だった。三十分後。長机の上には、空になった皿だけが残っていた。
「ごちそうさまでした」
「……どこに入ったの、今の」
姉さんの呆けた声に、真珠は小さく笑う。
「僕の身体はね、新陳代謝がちょっとだけ人より速いんだ。食べたものを、すぐに骨や筋肉に作り変えられるくらいには。だから、治すのに必要な材料を、必要な分だけ全部食べる。それを、六時間で使い切るんだよ」
「六時間……?」
アクアの眉が、ぴくりと動いた。
「兄さん。肋骨の骨折は、くっつくまで最低でも数週間はかかる。肺の傷だって――」
「うん。普通はね」
真珠はそれだけ言って、ブルーシートの上に仰向けに横たわった。
「たぶん、すごく汗をかくし、見た目もちょっとびっくりすると思う。でも大丈夫だから。……六時間くらいしたら起きるよ」
「ちょ、ちょっと真珠くん――」
「おやすみ、みんな」
そう言って目を閉じた次の瞬間には、もう、規則正しい寝息が聞こえていた。
――――――――
異変が起きたのは、兄さんが眠りについて十分も経たない頃だった。
「……ねぇ、アクア。あれ」
ルビーが、俺の袖を引いた。眠る兄さんの身体から、白いものが立ち昇っていた。
ーーー湯気だった。
十八度に冷やされた部屋の中で、まるで湯上がりのように、真珠の全身から薄い湯気が立ち昇っている。
額から、首筋から、汗が玉になって流れ落ち、ブルーシートの上に小さな水溜まりを作っていく。
(……ありえない)
俺は息を呑んだ。前世で医者として積み上げた知識が、目の前の光景を否定する。
……いや。見たことが、ある。
阿古谷清秋と春夫の試合。
闘いが長引くにつれて、春夫の身体は目に見えて削げていった。頬がこけ、筋肉の輪郭が浮き上がり、試合が終わる頃には一回り小さくなっていた。あのときは、極限の消耗だと思っていた。
違ったんだ。
春夫の身体は、闘いながら自分自身を燃やしていた。脂肪も筋肉も、全部を燃料に変えて、あの常識外れの動きを生み出していた。
人間の身体は、そこまでできる。
そして兄さんがやっているのは――その逆だ。自分を燃やすのではなく、食べた全てを燃やして、壊れた身体を作り直している。
そっと、兄さんの首筋に指を当てた。熱い。脈は速く、力強い。まるで全力疾走の最中のように、心臓が全身へ血を送り出している。
それなのに、呼吸だけは深く、穏やかだった。眠りながら、身体だけが闘っている。常軌を逸した新陳代謝が、食べた全てを燃やし尽くし、その熱を湯気に変えながら、砕けた骨を、千切れた筋肉を、内側から作り直している。
医学では、説明がつかない。これは、斉藤真珠という人間が持つ、桁外れの生命力そのものだった。
「……化け物か、兄さんは」
思わず零れた呟きに、答える者はいなかった。
一時間。
三時間。
五時間。
湯気は途切れることなく立ち昇り続け、ブルーシートの水溜まりは、何度タオルで拭っても広がっていった。誰も、部屋を出ようとはしなかった。
ルビーは何枚ものタオルを抱えて、兄さんの額や首筋の汗を拭い続けた。拭っても拭っても、すぐにまた玉のような汗が浮かんでくる。
それでも、その手を止めようとはしなかった。
アイは兄さんの傍らに座り込んで、ずっとその手を握っていた。ときおり小さな声で何かを話しかけては、返事のない寝顔に微笑みかける。
ミヤコさんは、何度も部屋の外へ出て行った。扉の向こうから、低く抑えた声が漏れ聞こえてくる。
事務所への指示。
取引先への連絡。
記者への対応。
外のことは、全部私に任せなさい――
その言葉どおりに、ミヤコさんはその間ずっと、自分の場所で闘っていた。俺は一時間ごとに、兄さんの脈と呼吸を確かめた。
速く、強く、けれど乱れることのない鼓動。それを確かめるたびに、ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった。気づけば、アイとルビーは兄さんの傍らで寄り添うように眠ってしまっていた。
そして――六時間。
――――――――
窓の外は、すっかり暗くなっていた。いつの間にか、湯気は消えていた。
「……ん」
小さな声と共に、兄さんがゆっくりと身体を起こす。
「おはよう、みんな」
あまりにも、いつも通りの声だった。俺は弾かれたように駆け寄り、兄さんの右の脇腹に、そっと手を当てた。
押す。
眠る前なら、それだけで顔を歪めていたはずの場所を。
「……痛くないのか」
「うん。もう、くっついてる」
兄さんは左手首をぐるりと回して、指を一本ずつ握り、開いてみせた。あれほど腫れ上がっていた手首は、跡形もなく元に戻っていた。
ただ、その頬は眠る前よりも、わずかにこけていた。
あれだけの量を、本当にたった六時間で使い切ったのだと分かる。
「嘘……」
目を覚ましたアイが、目を丸くして呟く。俺は、もう何も言えなかった。医学の常識が、目の前で音を立てて崩れていく。
「よし。これなら、打ち上げにも間に合うね」
兄さんは大きく伸びをすると、ぐぅ、と鳴った腹を押さえて、照れくさそうに笑った。
「……ごめん。お腹すいちゃって」
拳願会主催の打ち上げは、島の迎賓館の大広間で開かれていた。天井から吊るされた巨大なシャンデリア。磨き上げられた大理石の床。壁際には山海の珍味が並び、グラスを片手にした財界の大物たちと、スーツに身を包んだ闘技者たちが、そこかしこで談笑している。
数時間前まで、血で血を洗う闘いが繰り広げられていたとは思えないほどの、華やかな光景だった。
真珠は、一人でその中を歩いていた。
家族は、部屋に残してきた。報道の渦中にいる姉さんを人目に晒すわけにはいかないし、母さんは今も、電話越しに自分の闘いを続けている。
アクアとルビーは、そんな二人の傍にいることを選んだ。
糊の効いたシャツに、濃紺のスーツ。歩幅も、呼吸も、表情も、いつも通り。
数時間前まで肋骨が三本折れていた人間には、どう見ても見えないはずだ。
「おい、あれ……」
「斉藤真珠だ。滅堂の牙を、たった数秒で……」
「傷ひとつないじゃないか。どうなってるんだ、あいつは」
すれ違うたびに、囁き声が背中を追いかけてくる。
畏怖、好奇、警戒。
いくつもの色が、真珠の周りで渦を巻いていた。
その中に、ひやりと冷たい色が混じる。
「……星野アイの弟だろう、あれ」
「隠し子の件、聞いたか? よくもまあ、平気な顔で――」
真珠は、聞こえないふりをして歩き続けた。
「斎藤くん」
凛とした声に呼び止められ、真珠は足を止めた。振り返ると、淡い色のドレスに身を包んだ柏木渚と、その父親――柏木造船の社長が並んで立っていた。
「柏木。それに、社長も」
「見事だったよ、斎藤君」
柏木社長は、穏やかな笑みを浮かべて手を差し出した。
「君を推薦した娘の目は、確かだったようだ。おかげで我が社も、ずいぶんと面目が立った」
「いえ。柏木造船の名前を背負わせてもらっている以上、当然のことをしただけです」
握り返した手は柔らかく、けれどどこか、値踏みするような力が込められていた。
「謙虚なことだ。……さて、私は少し挨拶回りに行ってくるよ。渚、あとは任せた」
「はい、お父様」
柏木社長は軽く会釈をすると、人波の中へと消えていった。去り際に一瞬だけ向けられた視線には、娘への信頼と――ほんの少しの、気遣いのようなものが混じっていた気がした。
二人きりになった途端、渚の纏う空気がふっと緩んだ。社長令嬢としての顔を外した、高校の頃から知っている、友人の顔。
「……それで」
渚は、手にしたグラスに視線を落としたまま言った。
「また一人で、全部抱え込んでいませんか」
「え?」
「報道のこと、私が知らないとでも思いましたか。……あなたのことです。どうせご家族にも何も言わずに、一人で背負い込んで、一人で片付けようとしているんでしょう」
図星だった。――数時間前までは。真珠は苦笑して、頬を掻いた。
「それがさ、今日、母さんに『もう隠させない』って言われちゃって」
「……隠させない?」
「うん。全部話したんだ、家族に。速水会長のことも、このトーナメントのことも」
真珠は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「そしたら、なんか不思議と肩が軽くなってさ。母さんが『外のことは私に任せなさい』って言ってくれて。……今、すごくやる気が溢れてるんだよね」
渚は、しばらく何も言わなかった。ぽかんとした顔で真珠を見つめ、それから、深々と溜息を吐いた。
「……あなたという人は」
「え、何か変なこと言った?」
「言いました。滅堂の牙と命がけで闘って、ご家族のことまで世間に晒されて。それで出てくる言葉が『やる気が溢れてる』ですか」
呆れたように眉を寄せる。けれど、その口元は、隠しきれずに綻んでいた。
「……でも、分かります」
渚は、小さく笑った。
「あなたが軽くなったのは、自分の荷物が減ったからじゃないでしょう。大切な人たちが、それを一緒に持つと言ってくれたから。……違いますか?」
「……柏木には、敵わないなぁ」
「あなたの考えていることが、分かりやすすぎるだけです。高校の頃から、ずっと」
その時だった。会場の照明が、ふっと落とされる。ざわめきが波のように引いていき、正面の壇上に、一筋のスポットライトが降り注いだ。
「――皆の者、楽しんでおるかのう」
しわがれた、けれど会場の隅々まで染み渡るような声。片原滅堂。拳願会第五十八代会長にして、この国の経済を牛耳る老人が、護衛者たちを従えて壇上に立っていた。
「くふふ。まずは礼を言わせてもらおうかの。一回戦から、実に見応えのある闘いばかりじゃった」
滅堂は、愉快そうに目を細める。
「儂の牙も、早々に敗れてしもうたがのう」
会場の空気が、ぴしりと張り詰めた。数え切れない視線が、一斉に真珠へと突き刺さる。当の滅堂は、それすら楽しむように喉の奥で笑った。
「じゃが、それゆえに見えたものもある。……そこでじゃ。ひとつ、規則を足そうと思うての」
老人の瞳が、ぎらりと光る。
「二回戦以降――闘技者本人の同意があれば、一度に限り、闘技者の変更を認める」
「看板に忠を尽くすも良し。より良い主を選ぶも良し。……闘技者とて、己の拳の値打ちは己で決めたかろう?」
一瞬の静寂。
そして、会場が大きくどよめいた。
「闘技者の変更だと……?」
「牙を失った会長が、今さら何を――」
「負けた陣営が規則に口を出すなど……」
戸惑いと反発の声が、あちこちから上がる。だが、壇上の老人は意にも介さず、悠然とグラスを掲げた。
「異論は認めん。……主らも、その方が面白かろう?」
その一言で、全ての声が呑み込まれた。真珠は、壇上の老人を見つめた。視える色は、子どものように無邪気で、それでいて底の知れない、愉悦の色。
(闘技者の変更。……このタイミングで、か)
拳願会の闘技者が、皆、所属する企業に忠誠を誓っているわけではない。金のため、名誉のため、あるいはただ強い相手と闘うため。条件次第で主を変える者は、いくらでもいる。
つまりこれは、事実上の――引き抜きの許可だ。
本人さえ首を縦に振れば、別の企業の看板を背負って、再び闘技場に立つことができる。次に闘う相手が、今日まで思い描いていた相手のままとは限らない。
そして――引き抜かれる側になり得るのは、自分も同じだった。つい最近まで、どこにも属さないフリーの闘技者。柏木造船との契約も、このトーナメント限りのもの。滅堂の牙を数秒で沈めた闘技者に、破格の条件を提示してくる企業は、きっと一つや二つではない。
「――顔に出ていますよ、斎藤くん」
隣から、涼やかな声がした。渚は、まるで天気の話でもするように、平然とグラスを傾けていた。そこには焦りも不安も、欠片ほども見当たらない。
「柏木は、心配じゃないの? 僕が、どこかに引き抜かれるかもしれないのに」
「心配? 何をです?」
渚は、心底不思議そうに首を傾げた。
「あなた、乃木会長からの破格の誘いも、あっさり断ったそうじゃないですか」
「……なんで知ってるの」
「さあ、なぜでしょう」
渚は、悪戯っぽく目を細めた。
「お金や条件で動く人なら、私も最初から苦労していません。……それに、誰が相手に出てこようと関係ありません。あなたは勝つんでしょう?」
「……簡単に言うなぁ」
「簡単なことですから。少なくとも、あなたにとっては」
そう言って、渚は柔らかく微笑んだ。社長令嬢のそれではない。高校の頃、ボランティア部の部室で何度も見た、友人の笑顔だった。
「勝ってください、斎藤くん。柏木造船の代表としてではなく――私の友人として、そう願っています」
「……うん。ありがとう、柏木」
渚は満足そうに頷くと、ドレスの裾を翻して、父親の待つ方へと歩いていった。
――――――――
「真珠くん!」
聞き覚えのある、少し上ずった声。振り返ると、人混みをかき分けるようにして、くたびれたスーツ姿の中年男性がこちらへ駆け寄ってくるところだった。
山下一夫。その後ろには、隙なくスーツを着こなした秋山楓と――両手をポケットに突っ込んだまま、のっそりと歩いてくる十鬼蛇王馬の姿があった。
「山下さん。それに、秋山さんと王馬さんも」
「よ、よかった……! 本当に、無事で……!」
山下さんは真珠の前で立ち止まると、肩で息をしながら、その顔をまじまじと覗き込んだ。
「試合は、その、すごかったですけど……ニュース、見ました。アイさんのことも、アクアくんとルビーちゃんのことも……」
その声には、純粋な心配だけが滲んでいた。この島に着いた日、ビーチで家族を紹介したときのことを思い出す。
姉さんを見て目を白黒させ、ルビーの笑顔につられて笑っていた、この人の顔を。
「ご家族は、大丈夫なんですか? それに真珠くんだって、あんな試合のあとで……」
「大丈夫ですよ、山下さん」
真珠は、静かに笑ってみせた。
「家族とも、ちゃんと話しましたから。……心配してくれて、ありがとうございます」
「そ、そうですか……それなら、いいんですけど……」
山下さんは、ほっとしたように胸を撫で下ろした。その目尻には、うっすらと涙すら滲んでいる。自分の借金のことで胃を痛めているはずなのに、こうして真っ先に人の心配ができる。
この人のこういうところが、真珠は好きだった。
「相変わらず、無茶をする人ですね」
隣に立った秋山さんが、淡々と言った。
「乃木会長も、気にかけておられましたよ。……もっとも、表には決して出されませんが」
「乃木さんらしいですね」
「あなたも、あの人も、本当に素直じゃありません」
呆れたような声音の奥に、ほんのわずかな安堵が混じっているのが分かった。秋山さんの色は、いつだって冷静で、それでいて温かい。
そして――王馬さんは、一言も発していなかった。
ただ、じっと、真珠を見ていた。その瞳に宿る熱に、肌がひりつく。視える色は、燃え盛るような赤。本気で自分の夢を叶えようとする者だけが纏う、苛烈な色。
かつて、優香が纏っていたのと同じ色。その赤が、闘技場で見たときよりも、さらに強く、激しく燃え上がっていた。
「……センパイ」
ようやく口を開いた王馬さんの声は、低く、獣の唸りにも似ていた。
「あの一撃、見てたぜ」
「……そうですか」
「いつか、俺にも見せろ」
それは頼みではなかった。宣言だった。真珠は小さく息を吐いて、苦笑を浮かべた。
「王馬さんは、まず自分の試合でしょう」
「分かってる。だから、いつかだ」
王馬さんは、にやりと口の端を吊り上げた。その笑みは、獲物を見つけた獣のようで――けれど、どこか少年のように真っ直ぐだった。
「それと、王馬さん」
「あ?」
「あんまり、無茶な闘い方はしないでくださいね。山下さんの胃が持ちませんから」
「ひぃっ!? わ、私を引き合いに出さないでくださいよ、真珠くん……!」
「……センパイに言われたくねぇよ」
王馬さんは、呆れたように鼻を鳴らした。
「自分の腕を餌にする奴が、よく言うぜ」
「あれは、そうしないと勝てなかったので」
「だったら俺も同じだ。勝つためなら、何だってやる」
真珠と王馬さんの視線が、静かにぶつかる。その隣で、山下さんが胃のあたりを押さえて、青い顔をしていた。
「……そういえば、王馬さん」
真珠は、ふと思い出したように首を傾げた。
「前から聞きたかったんですけど。なんで僕のこと、センパイって呼ぶんですか? 歳だって王馬さんのほうが上ですし」
「センパイはセンパイだろ」
「それ、前にも聞きました」
「なら、それが答えだ」
王馬さんはぶっきらぼうにそう言うと、近くのテーブルから骨付き肉を一本ひったくり、豪快に齧りついた。
「ちょ、王馬さん! それ、まだ取り分けてる途中の――」
山下さんが慌てて手を伸ばすが、時すでに遅し。秋山さんが、こめかみを押さえて深々と溜息を吐いた。真珠は、苦笑するしかなかった。結局、今日も答えはもらえないらしい。
――――――――
(……言えるかよ、そんなもん)
十鬼蛇王馬は、肉を噛みちぎりながら、横目でその青年を見ていた。
俺が欲しいのは、最強の二文字だけだ。
誰よりも強くなる。誰にも負けない。そのためだけに拳を握り、そのためだけに生きてきた。
だが、あの男は違う。家族のため。誰かのため。自分ではない何かのために、己を削り、高め続ける。
俺が求める強さとは、まるで形の違う強さ。
それなのに――目を逸らせない。
その背中を見ていると、どうしようもなく、思い出してしまうのだ。獣同然だった俺を拾い上げた、あの男の背中を。
十鬼蛇二虎。
あの日、二虎に命を救われていなければ、俺は今も「中」の掃き溜めで、ただ喰らうだけの獣として生きていたはずだ。
拳を握る意味を。人として生きることを。
俺を獣から人に変えてくれたのは、二虎だった。
あの男も、そうだった。自分のためではなく、誰かのために強くあろうとした。その強さは、恐ろしいほどに温かかった。
(だから、センパイなんだよ)
本人には、死んでも言ってやらねぇけどな。王馬は、残った骨を皿に放り投げると、もう一度だけ真珠を見た。
――いつか必ず、あんたと闘る。
あの温かい強さが、俺の求める最強に届くのかどうか。それを、この拳で確かめるために。
――――――――
「ましろぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
不意に、会場の空気をぶち破るような大声が響き渡った。周囲の視線が、一斉に声の主へと向けられる。
「シャアアアァアアッッッ!! 見てたぜぇぇぇ! 滅堂の牙をぶっ倒すなんてよぉぉぉ!! 燃えるぜぇぇぇぇぇ!!」
(……この声は)
振り返るまでもなかった。鎧塚サーパイン。
夜明けの村の闘技者にして――なぜか、やたらと真珠と闘いたがる男。そのサーパインが、褐色の巨躯にまとわりつくようにして、こちらへやってくる。
いや、正確には――引きずられている。
「……離れろ、サーパイン」
「いいじゃねぇかよぉぉ! ガオランも挨拶するんだろぉぉ!?」
「挨拶をするのは私だ。お前ではない」
心底うんざりしたような声。それでいて、腕を振り払おうとはしない。
ガオラン・ウォンサワット。
タイが誇る、ヘヴィー級四大団体を制覇した世界最強のボクサー。
そして――二回戦で、真珠が闘う相手。
「騒がしくてすまない」
ガオランは、サーパインを片腕にぶら下げたまま、真珠の前で足を止めた。
「斎藤真珠。……改めて名乗ろう。次の貴殿の相手、ガオラン・ウォンサワットだ」
「お久しぶりです、ガオランさん。サーパインも」
「おうよぉぉぉ!!」
「お前は少し黙っていろ」
ガオランは、静かに真珠を見据えた。その瞳には、王馬さんのような荒々しい熱はない。代わりに宿っているのは、研ぎ澄まされた刃のように冷たく澄んだ闘志だった。視える色は、一点の濁りもない、気高い金色。
「貴殿の試合、見させてもらった」
「……そうですか」
「見事だった。左腕を捨てて、右で心臓を穿つ。牙の『完璧な迎撃』そのものを、餌にしてみせた」
ぞくり、と背筋が粟立った。会場のほとんどの人間には、ただの一瞬にしか見えなかったはずの攻防。それを、この男は正確に見抜いている。
「だが――」
ガオランの拳が、静かに握られる。
「同じ手は、私には通じんぞ」
「……分かってます」
真珠は、真っ直ぐにその視線を受け止めた。
「同じことは、二度とやりません。やれる相手でもないですから」
「ほう」
ガオランの目が、わずかに細められた。
「あの日、ビーチで貴殿に問うたことを覚えているか」
「……はい」
「その続きは、拳で語り合おう」
それだけを告げると、ガオランは踵を返した。
「行くぞ、サーパイン」
「おうよぉぉ! ましろぉ! 次はぜってぇ俺とも闘えよなぁぁぁ!! シャアアアァアアッッッ!!」
嵐のような声を残して、二人の背中が人波の向こうへと消えていく。その後ろ姿を見送りながら、真珠は、無意識のうちに拳を握りしめていた。
(次の相手が、本当にあの人のままなら――)
壇上では、片原滅堂が愉快そうに笑っている。闘技者の変更。一度だけ許された、引き抜きの権利。誰が、何のために、それを使うのか。