翌朝
「――続いては、昨日から大きな波紋を広げている、こちらのニュースです」
朝の情報番組。見慣れた女性アナウンサーが、神妙な面持ちで原稿を読み上げる。画面の右上には、大きなテロップが躍っていた
『タレント・アイ アイドル時代に隠し子』
「タレントの星野アイさんに、二人の子どもがいることが、昨日、一部報道により明らかになりました。報道によりますと、星野さんはアイドルグループ『B小町』のセンターとして活動していた十六歳当時に、双子を出産。これまで、その事実は公表されていなかったということです」
コテージのリビング。大きなテレビの前に、家族全員が揃っていた。
テーブルの上には、真珠が用意した朝食が並んでいる。焼き鮭に、卵焼き、湯気の立つ味噌汁。
夜明け前、真珠は台所に立っていた。壁一枚隔てた向こうから、母さんの声が途切れ途切れに聞こえてくる。「ええ、その件は」「申し訳ございません」「改めてご連絡を」――同じ言葉を、相手を変えて、もう何度繰り返しているのだろう。
(……今日は、母さんに台所は無理だな)
ぐっと腰をひねってみる。昨日あれだけ軋んでいた肋骨は、もう何も言わなかった。真珠は冷蔵庫を開けて、卵のパックを取り出した。鮭の切り身に塩を振り、グリルに並べる。鍋に昆布を沈めて、火にかける。いつもと同じ手順。いつもと同じ匂い。
台所から味噌汁の匂いがしていれば、どんな朝でも、この家はちゃんと「いつもの朝」になる。
……少なくとも、真珠はそう信じていた。
真珠が取り乱さずにいられたのは、いつかこういう朝が来るかもしれないと、ずっと覚悟していたからだ。けれど――本当に迎えたかったのは、こんな朝じゃない。
何年もかけて準備してきたのは、別の朝だった。十六歳で母親になった星野アイが、それでも子どもたちを守り抜き、母親として、タレントとして輝き続けてきた。
非難の声は、きっとある。それでも、協力してくれる記者や番組の人たちの手で、その事実を一つの物語として世に出すはずだった。
若くして母親になった人が、どれだけ孤独で、どれだけ周りの助けを必要としているのか。世間の目を「隠し子」から、そちらへ向けていくはずだった。
姉さんが、胸を張って「この子たちの母親です」と言える朝。その準備が整う、ほんの少し前に。全部、壊された。――奪われた。
お玉を握る指に、知らず力がこもっていた。味噌汁の鍋をかき混ぜている間も、エプロンのポケットの中で、スマートフォンは震え続けていた。
知らない番号からの着信。事務所からの連絡。記者からの問い合わせ。
そして――友達からのメッセージ。
『シロくん、大丈夫? ニュース見た。……事務所のことは、私に任せて。スタッフさんたちとも話して、こっちでできることは全部やっとくから。だから、無理しないでね。落ち着いたらでいいから、顔見せて。今度は私がクレープ奢ってあげる』
片寄ゆらからだった。中学の頃からの親友で、今は苺プロに所属する女優。ここ最近は、ドラマでも映画でも名前を見ない日がないほど、話題沸騰の若手だ。
事務所の看板が揺らいでいる今、真っ先に影響を受けるのは、ゆら自身のはずなのに。いつもなら、余計な冗談のひとつやふたつは混ぜてくる片寄が、今日は一度もふざけていない。それだけで、どれほど心配してくれているのかが分かった。
『ちょっと! ニュース見たんだけど! あんた大丈夫なの!? ……べ、別に心配してるとかじゃないから。アイさんにも、あんまり無理しないでって伝えといて』
有馬ちゃんらしい、照れ隠しの勢いだけで書かれたような文面。姉さんとは、撮影現場で何度か顔を合わせたことがある。だからこそ、他人事ではいられなかったのだろう。
『斉藤。ニュースを見た。俺にできることがあれば、何でも言ってくれ。お前が一人で抱え込むところは、もう見たくない』
『斉藤くん。私にできることがあれば、どうか遠慮なさらずに。……あなたは、すぐに一人で背負い込む方ですから』
白銀と、かぐやさん。どの文面も短かった。けれど、その一つひとつから、送り主の顔がはっきりと浮かんだ。
返信しようとして、指が止まった。『大丈夫』と打つのは簡単だ。けれど、その一言を送る資格が、今の自分にあるのだろうか。
片寄にも、有馬ちゃんにも、白銀にも、かぐやさんにも。僕は何ひとつ話してこなかった。姉さんたちの秘密も、何年もかけて準備してきたことも、自分がどこで、何と闘っているのかも。
本当のことを告げず、何も語らなかった。それなのに、心配されたからといって、今さら甘えていいはずがない。
友達は、対等な存在だ。困っていれば手を貸すし、手を貸してもらうこともある。尊敬できるところを、それぞれがたくさん持っている人たちだ。だからこそ、隠し事をしたまま寄りかかるような真似だけは、したくなかった。
――まだ、頼るわけにはいかない。
全部が終わって、ちゃんと自分の口で話せるようになるまでは。
真珠は、既読がついたまま返事のない画面を、そっと伏せた。それでも、胸の奥はほんの少しだけ温かかった。こうして心配してくれる友達がいる。その事実だけは、後ろめたさとは関係なく、確かにそこにあった。
――そうして作った朝食に、まだ誰も箸をつけていない。いつもなら真っ先に手を伸ばすルビーでさえ。誰も、口を開かない。
テレビから流れる声だけが、やけに大きく部屋に響いている。まるで、お通夜のようだった。
「事務所側は昨夜、『事実関係を確認しており、改めてご報告いたします』とのコメントを発表しています」
画面が切り替わり、スタジオのコメンテーターたちが映し出される。
「いやぁ、正直ショックですよね。当時、アイドルとしての彼女を応援していた人たちからすれば、裏切られたって気持ちになるのも無理はないと思いますよ」
「十六歳ですからね。事務所の管理体制も問われるんじゃないですか」
「ただ、お子さんには何の罪もありませんから。そこは分けて考えないと」
「それはそうなんですけど、当時はアイドルだったわけですからね……」
賛否を装った言葉が、画面の中で飛び交う。けれど、その天秤がどちらに傾いているかは、誰の目にも明らかだった。
「なお、お子さんのお名前や顔写真、通学先などについては、プライバシーへの配慮から、報道を控える方針が示されています」
アナウンサーのその一言に、母さんが小さく息を吐いた。一晩中、電話をかけ続けていた母さんの目の下には、濃い隈が刻まれている。それでも、その一文が守られていることだけは、確かな成果だった。画面の下を、SNSの反応が流れていく。
『ファン辞めます』『ずっと嘘ついてたってことでしょ』『アイドルやってる裏で子育てしてたってこと?』『子どもがかわいそう』『何年応援してきたと思ってんの』
擁護の声も、確かにある。けれど、それを押し流すように、否定の声が濁流となって画面を埋め尽くしていく。
――――――――
ルビーは、ソファの上で膝を抱えたまま、じっと画面を見つめていた。アイドルを目指すこの子にとって、画面の中で語られているのは他人事ではない。かつて母親が立ち、いつか自分が立ちたいと願うアイドルという舞台。その舞台に立っていた頃の過去を理由に、母親が裁かれているのだ。
「……ねぇ、真珠お兄ちゃん」
画面から目を逸らさないまま、ルビーが小さな声で言った。
「これ……ママのこと、いつまで言われるの?」
「……少しの間は、続くと思う」
嘘はつけなかった。
「でも、ずっとじゃないよ。絶対に」
ルビーは、何も言わずに膝を抱え直した。その指先が、膝に食い込むほど強く握られていた。
アクアは、壁にもたれてスマートフォンに目を落としている。画面を流れる文字を追うその目は、恐ろしいほど冷静だった。冷静すぎるほどに。
――アクアは頭がいいからね。きっと、報復するよ。どんなに時間をかけようと。
いつか母さんに零した、自分の言葉が脳裏をよぎる。その静けさが、真珠には少しだけ怖かった。
母さんは、ノートパソコンを開いたまま、メールの対応に追われている。時折震えるスマートフォンに、短く的確な指示を返しながら。
「――はい、苺プロダクションです。……ええ、その件につきましては、現在事実関係を確認中でして。……いえ、子どもたちへの取材は、一切お断りしております。……はい。失礼いたします」
通話を切った母さんは、一度だけ深く目を閉じた。そしてすぐに、また次の画面へと指を走らせる。弱音のひとつも零さないその背中が、かえって痛々しかった。
そして、姉さんは――誰よりも画面の近くに座って、誰よりも静かに、自分のことを語るニュースを見つめていた。
笑ってもいない。
泣いてもいない。
その横顔からは、何の感情も読み取れなかった。
「……姉さん。お茶、淹れ直そうか」
「ん。……大丈夫。ありがと、真珠くん」
返ってきた声は柔らかかった。けれど、その目は一度も画面から離れなかった。真珠は、膝の上で拳を握りしめた。
「――では、ここで街の声を聞いてみましょう」
画面に、見知らぬ人たちの顔が次々と映し出される。
『えー、ショックです。好きだったのに』『まあ、アイドルも人間だしね』『子どもは関係ないでしょ』『正直、もう応援はできないかな』
ぷつり、と。テレビの画面が、暗転した。リモコンを握っていたのは、姉さんだった。
「……はい、おしまい。朝からこんな話ばっかり見てたら、気分まで暗くなっちゃうよ」
明るい声だった。いつもの、少しだけ間の抜けた、テレビの中で見せるのと同じ声。けれど、その声に笑う者は、誰もいなかった。
「ご飯、冷めちゃうよ? 真珠くんが作ってくれたんでしょ。食べよ食べよ」
「姉さん、無理しなくても――」
「無理? してないよ?」
姉さんは、こてんと首を傾げて笑った。テレビの中で何千回と見せてきた、完璧な笑顔で。
そう言って、姉さんは箸を手に取る。
その指先がかすかに震えていることに、気づかない者は一人もいなかった。
真珠は、何も言えずに、その手を見つめていた。