ピンポーン。
張り詰めた沈黙を、場違いなほど軽やかなチャイムが破った。全員の肩が、びくりと跳ねる。
この島に記者が入り込めるはずはない。それでも一瞬だけ、嫌な想像が頭をよぎった。真珠が立ち上がるより早く、扉の向こうから元気な声が響いた。
「ルビー! 起きてるー?」
「……迦楼羅ちゃん?」
ルビーが、弾かれたように顔を上げた。扉を開けると、そこには三人の姿があった。麦わら帽子を被り、ビーチバッグを肩にかけた呉迦楼羅。その隣で、少し緊張した面持ちのエレナ・ロビンソン。そして二人の後ろで、両手いっぱいに浮き輪とパラソルを抱えた、アロハシャツ姿の山下さん。
麦わら帽子の下で、迦楼羅ちゃんがにかっと笑う。その小柄な肩には、大人でも持て余しそうな巨大なクーラーボックスが、ひょいと担がれていた。
「これ、ひいおじいちゃんから! みんなで食べなさいって。……中身、たぶん全部高いやつ」
(恵利央さん、相変わらずだなぁ)
あの呉一族の長が、この曾孫の頼みとなると目尻を下げっぱなしになることを、真珠はよく知っている。その隣で、エレナちゃんが、ぺこりと丁寧に頭を下げた。
「お、おはようございます……」
その声は、少しだけ掠れていた。昨日、闘技場で「兄様」と叫び続けていたせいだろう。目元にも、泣き腫らした跡がうっすらと残っている。視える色は、三人とも、驚くほど温かかった。「おはよう、真珠さん! 海行こ、海!」
「お、おはようございます……っ。す、すみません、朝早くから……!」
山下さんが、パラソルの重みでよろめきながら頭を下げる。
「お二人が、どうしても皆さんを誘いに行くって聞かなくて……その、保護者代わりというか、荷物持ちというか……あ、王馬さんはまだ寝てまして……」
「あ、カルラちゃんにエレナちゃん。……いらっしゃい」
ソファの向こうから、姉さんが顔を上げた。テレビの前で見せていた、あの完璧な笑顔のまま。
「お、覚えててくださったんですか……!」
エレナちゃんが、驚いたように目を丸くする。無理もない。姉さんは、人の名前を覚えるのが本当に苦手だ。何度も共演している相手の名前を平気で間違えては、母さんに頭を抱えさせている。
それでも、迦楼羅ちゃんのことは、初めて会った日からすぐに覚えていた。小さな身体に詰まった、才能の塊みたいな強さ。姉さんは、そういう『光るもの』を持つ人の名前だけは、不思議と忘れない。
エレナちゃんのことは――この島に着いた日の夜、「ルビーのお友達だから」と、ベッドの上で何度も小声で練習していたのを知っている。
「それから……えっと」
姉さんの視線が、パラソルを抱えた山下さんの上で止まった。数秒の沈黙。
「……あ、えっと。そちらも、おはようございまーす!」
名前の代わりに、満面の笑顔。間違えた名前で呼ぶくらいなら、最初から名前を呼ばない――姉さんが昔から使う、得意の手だった。
「や、山下です……」
山下さんの肩が、目に見えてしゅんと下がった。迦楼羅ちゃんは部屋の奥へずかずかと入ってくると、ソファで膝を抱えるルビーの前で仁王立ちした。
「ニュース、見たよ」
その一言に、部屋の空気が再び凍りつく。けれど迦楼羅ちゃんは、まるで天気の話でもするように続けた。
「で? それが何?」
「……え?」
「ルビーはルビーでしょ。アイさんがママだろうがお姉ちゃんだろうが、ルビーが私の後輩なのは変わんないし。だから海行こ」
あまりにも真っ直ぐな理屈に、ルビーがぽかんと口を開ける。ソファの向こうで、姉さんの肩が小さく揺れたのが見えた。ルビーの手を、エレナちゃんがそっと握った。
「ルビーちゃん。……私も、一緒に行きたいです」
「エレナちゃん……でも、お兄さんは」
呉雷庵との試合で重傷を負った兄の姿を、エレナちゃんは誰よりも近くで見ていたはずだ。
「兄様は、もう大丈夫です。真珠さんのおかげで、命に別状はないって」
エレナちゃんは真珠の方を向いて、深く頭を下げた。
「それに、兄様に言われたんです。『今度は、エレナがルビーちゃんの力になってあげなさい』って」
ルビーの瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
「……ずるいよ、そんなの」
震える声でそう呟いて、ルビーはソファから立ち上がった。
「行く。……水着、取ってくる!」
「そうこなくっちゃ!」
迦楼羅ちゃんが、にかっと笑った。
パタパタと奥の部屋へ駆けていくルビーの背中を見送りながら、アクアが、ほっとしたように小さく息を吐いた。真珠は、それを見逃さなかった。
迦楼羅ちゃんは、くるりと部屋の中を見渡した。
「ほら、アクアくんも! アイさんも、ミヤコさんも、真珠さんも! みんなで行くんだからね!」
「お、俺もか?」
「当たり前でしょ」
有無を言わせない勢いに、アクアが助けを求めるようにこちらを見る。真珠は苦笑して、首を横に振った。こうなった迦楼羅ちゃんは、誰にも止められない。
「でも……」
姉さんが、躊躇うように窓の外へ目をやった。
「私が外に出たら、また……」
「大丈夫ですよ、アイさん」
答えたのは、山下さんだった。
「この島には、拳願会の関係者しかいませんから。記者さんもカメラも、入ってこられません。……あ、いや、私なんかが言っても説得力ないかもしれませんけど……」
慌てて付け加える山下さんに、姉さんがほんの少しだけ目を丸くした。
「それに……」
山下さんは、抱えたパラソルをぎゅっと握り直した。
「この島に着いた日、ビーチで真珠くんにご家族を紹介してもらったとき、私、すごく素敵なご家族だなって思ったんです。みんなが、お互いのことを本当に大事にしてるのが伝わってきて」
「……山下さん」
「テレビが何て言ってても、私がそう思ったのは、変わりませんから」
言い終えてから急に恥ずかしくなったのか、山下さんは「す、すみません、出過ぎたことを……」と頭を掻いた。
姉さんは、しばらく何も言わなかった。やがて、ほんの少しだけ、口元を緩める。
「……ありがと」
姉さんはそこで一度言葉を切って、山下さんの顔を、まっすぐに見つめた。
「――山下さん」
確かめるように、もう一度、小さく繰り返す。
「山下さん。……うん。覚えた」
それは、今朝初めて見た、作り物ではない表情だった。
「えっ……あ、は、はい! 山下です!」
山下さんは、なぜか背筋を伸ばして名乗り直した。姉さんが、誰かの名前を自分から覚えようとするところを見るのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
「それにさ!」
迦楼羅ちゃんが、ずいっと姉さんの前に身を乗り出した。
「もし変な目で見てくる人がいたら、私がぶっ飛ばしてあげるから!」
「わ、私も……兄様の代わりに、怒ります……!」
エレナちゃんまで、小さな拳をぎゅっと握りしめている。その真剣な二つの顔に、姉さんは一瞬きょとんとして――それから、小さく吹き出した。
「……ふふ。頼もしいなぁ」
真珠は、母さんの方を振り返った。ノートパソコンを抱えたままの母さんは、困ったように溜息を吐いて――それから、静かにパソコンを閉じた。
「……少しだけよ。電話は持っていくから」
その一言で、決まりだった。それからは、ちょっとした騒ぎだった。
「ルビー、水着どれにするの? 去年のやつ?」
「えっとね、新しいの持ってきたの! エレナちゃんも見て見て!」
「わ、可愛いです……!」
奥の部屋から、少女たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。さっきまでお通夜のようだったリビングに、少しずつ、いつもの音が戻ってきていた。
母さんは寝室で着替えながら、まだ誰かと電話をしている。姉さんは、大きなつばの帽子とサングラスを手に、鏡の前で何度も被り直していた。
残されたリビングで、山下さんとアクアが、なんとなく向かい合う形になった。
「あ、あの……アクアくん、でしたよね」
「……はい」
ぎこちない沈黙が落ちる。山下さんは視線を泳がせながら、上着のポケットから小さな薬のシートを取り出した。慣れた手つきで二錠押し出し、水も飲まずに口へ放り込む。
「……それ、空きっ腹で飲んでます?」
「えっ?」
アクアの視線が、山下さんの手元のシートに注がれていた。
「その胃薬。食後に飲むタイプですよ。それと、水なしで飲むと食道に張り付いて、かえって荒れます」
「え、あ……そ、そうなんですか!? 毎朝、こうやって飲んでました……」
「胃が荒れてる人ほど、それやるんですよね」
アクアは小さく溜息を吐くと、テーブルの上にあった山下さんの缶コーヒーを、すっと遠ざけた。代わりに、真珠が淹れたばかりの麦茶を差し出す。
「コーヒーも、しばらく控えたほうがいいです。……寝る前に考え事、してません? 夜中の二時とか三時に目が覚めて、そのまま眠れなくなったり」
「な、なんで分かるんですか……!?」
「顔に書いてあります」
山下さんは、思わず両手で自分の顔を押さえた。
「く、詳しいんですね……まるでお医者さんみたいだ」
「……医療ドラマに、ちょっと出たことがあるので」
アクアは、すっと視線を逸らした。それをきっかけに、二人の会話は、ぽつりぽつりと続いていった。
慢性的な胃痛のこと。肩こりと腰痛のこと。年々、徹夜が身体に響くようになったこと。
「分かります。当直明けの朝って、本当に何も考えられなく――」
「当直?」
「……役で、です」
「あ、ああ、役で。なるほど……!」
真珠は台所で麦茶を注ぎ足しながら、その光景を少しだけ不思議な気持ちで眺めていた。並んでソファに座る二人の背中は、どう見ても、中学生と五十過ぎのおじさんには見えなかった。まるで同じ職場で何年も苦労を分け合ってきた、同年代の同僚同士のようだ。
(……アクア、なんであんなに話が合うんだろ)
昔から、弟は時々、驚くほど大人びた顔をする。けれど今日のそれは、いつにも増して自然だった。
「……山下さんは」
ふと、アクアが声を落とした。
「どうして、十鬼蛇さんに付き合ってるんですか。兄さんから少し聞きました。……すごい額の借金まで背負ってるって」
山下さんは、きょとんとした顔をした。それから、困ったように笑う。
「……放っておけないんですよ。ああいう、危なっかしい若い人を見てると」
麦茶のグラスを、両手で包み込む。
「私なんて、喧嘩もできないただのサラリーマンです。役に立てることなんて、ほとんどありません。……でも、あの人が帰ってくる場所くらいは、用意してあげたいじゃないですか」
アクアは、しばらく黙っていた。
その視線が、ちらりと台所の真珠へ向けられる。
「……分かります。うちにも一人、いるんで。目を離すと、すぐ一人で無茶をする人が」
「……ああ」
山下さんも、つられるように真珠を見た。それから、深く、深く頷く。
「お互い、大変ですねぇ」
「……ですね」
二人は、まるで長年の戦友のように、同時に溜息を吐いた。
「……ねぇ、なんで二人して僕のこと見てるの」
「別に」
「べ、別に、です」
息の合った即答に、真珠は何も言えなかった。けれど、そっぽを向いたアクアの横顔に視える色は、朝とは比べものにならないほど、柔らかく温かかった。
――バンッ!その空気を、勢いよく開け放たれた扉が吹き飛ばした。
「真珠少年はいるかね!?」
白衣の裾を翻して飛び込んできたのは、英先生だった。その後ろでは、吉沢ここみさんが「先生、せめてノックを……!」と慌てて頭を下げている。
「あ、英先生だ」
鏡の前で帽子を手にしたまま、姉さんがぽつりと呟いた。人の名前を覚えるのが苦手な姉さんが、この人の名前だけは一度も間違えたことがない。良くも悪くも、一度会ったら忘れられない人なのだ。
「……どうしたんですか、先生。朝から」
「どうしたもこうしたもないよ! 医療班から聞いたよ。肋骨三本に肺挫傷、そのくせ医務室への搬送を拒否したそうじゃないか」
英先生は、やれやれと大げさに肩をすくめてみせた。
「まったく、仕方のない患者だねぇ。……仕方ないから、私が診てあげよう」
どこも仕方なさそうには見えないんですが?満面の笑みですが?嬉々として往診鞄を開ける手つきはやけに軽やかで、その目はどう見ても、患者を案じる医者のものではない。心配が、まったくないわけではないのだろう。けれどそれ以上に、この人は純粋に、僕の身体が今どうなっているのかを知りたくてたまらないのだ。
そう思ったときにはもう、どこか嬉しそうな英先生の指が、遠慮なく真珠の脇腹に伸びていた。押す。押す。もう一度押す。
「……おや?」
「ちょ、くすぐったいです」
「ほう。昨日折れたばかりの肋骨が、もうきれいに繋がっている。……真珠少年、君、本当に人間かい?」
「一般人ですけど」
「一般人は一日で骨折を治さないよ」
真顔で返された。……けれど、この人にだけは言われたくない。
「昨日、試合中に首を折られてた人に言われたくないんですけど」
「ああ、あれかい? ちょっと捻っただけだよ」
「首は普通、ちょっと捻ったくらいで、あんな方向には曲がりません」
「曲がったなら、戻せばいいだけの話さ」
英先生は、こきり、と首を鳴らしてみせた。……今、明らかに人体から鳴ってはいけない音がした。
「ほら、この通り」
「やめてください。今の音、絶対に鳴っちゃいけないやつです」
思わず、一歩後ずさる。
「何を怯えているんだい。頸椎の椎間関節が少しずれたから、自分で整復しただけだよ。靭帯は多少伸びたが、周囲の頸部の筋群を常に緊張させて固定している。理論上、何の問題もない」
「理論上の話をしないでください」
頸椎は七つの骨と、無数の靭帯と筋肉で支えられている。あの角度まで捻じれば、普通は神経がただでは済まない。……ちなみに、その知識を叩き込んでくれたのは、他でもないこの人である。
「普通なら、ね。だから先に改造しておいたのさ。頸椎に補強材を少々。ついでに、周りの筋肉も骨の代わりが務まるくらいまで鍛えてある」
「発想がおかしいです」
「何を言うんだい。肋骨を一日で繋げる人間に、とやかく言われたくないねぇ」
「僕のは、ちゃんと食べて寝て治してるだけです。栄養と休養。一番普通の治し方ですよ」
「その普通を一日でやる人間を、普通とは呼ばないんだよ」
「先生の首よりは普通です」
「首だけで比べられるのは心外だねぇ。踵には火薬を仕込んであるし、前腕からは骨の刃だって出せる。私の身体は、まだまだ改良の途中なんだよ」
「それを改良って呼ばないでください。普通の人は、蹴るたびに踵が爆発しません」
……そして、その全部を、この人は自分の手術台の上でやっている。英先生は、そこでふと何かを思いついたように、ぽんと手を打った。
「そうだ、真珠少年。昨日の試合、実に見事だったよ。洞結節を突いて心臓を止め、胸骨への衝撃で刺激伝導系を再起動させる。理屈も手技も、実に美しい」
「……ありがとうございます」
「そこで、ひとつ提案なんだが」
英先生は、自分の胸を、とん、と指で叩いた。
「私の心臓でも、やってみてくれないか」
「嫌です」
「なに、心停止から意識が落ちるまでの主観的な体験を、自分で記録してみたいだけさ。視野の欠け方、聴覚が消える順番、それから――」
「止まったら記録できませんよね」
「だから君に戻してもらうんじゃないか。二回くらい叩けば、だいたい戻るんだろう?」
「だいたいで人の心臓を止めないでください」
「心配はいらないよ。万が一戻らなかったら、自分で胸を開いてペースメーカーを埋め込むさ。前から一度、やってみたかったんだ」
「心臓が止まってる人は、自分で胸を開けません」
英先生は、心底楽しそうに笑った。
「はっはっは。自分の身体ほど、自由にいじれる実験台はないからね」
「……あはは」
真珠の口から零れたのは、乾ききった笑いだった。この人の中では、誰より正確な医学の知識と、自分の身体を実験台にすることへの躊躇のなさが、最悪の形で手を組んでいる。理屈は完璧なのに、たどり着く結論だけが、いつも決定的におかしい。
僕は違う。人体の構造上、できることをしているだけだ。骨は栄養と休養があればくっつくし、止まった心臓は刺激伝導系を叩けば動くし、関節は外れる方向が決まっている。全部、教科書に書いてある。――少なくとも、真珠自身はそう信じていた。
「ひっ……」
山下さんが、麦茶のグラスを抱えたまま後ずさった。胸を開くだの、踵の火薬だの、心臓を止めて記録するだの――朝のリビングで交わされる会話としては、さすがに刺激が強すぎたらしい。顔からみるみる血の気が引いていき、空いた手が、そっと胃のあたりを押さえる。
それから、もぞもぞとポケットを探り始めた。
出てきたのは、さっきアクアに注意されたばかりの胃薬のシートだった。
「……山下さん。だから駄目ですって」
アクアの静かな声に、山下さんの手がぴたりと止まる。
「す、すみません……つい、反射で……」
「……分かるわ」
いつの間にか寝室から出てきていた母さんが、スマートフォンを耳から離しながら、深々と頷いていた。
「こういう朝はね、気づいたら手が勝手にポケットを探してるのよね」
そう言って、自分のバッグから取り出したのは――山下さんとまったく同じ銘柄の胃薬だった。
「あ……それ、同じやつ……」
「効くのよ、これ」
「効きますよねぇ……!」
胃を押さえた大人が二人、しみじみと頷き合う。その間には、言葉では言い表せない連帯感が生まれていた。
「……ミヤコさんも、空きっ腹はダメですからね」
アクアの冷静な声に、二人は揃って、そっと胃薬をしまった。二人に胃薬をしまわせたアクアは、それから、くるりと英先生と真珠のほうへ向き直った。
踵に火薬を仕込んだ白衣の医者と、一日で肋骨をくっつけた兄。二人を交互に見比べて、深々と溜息を吐く。
「……どっちもどっちだろ」
心底げんなりした声だった。ここみさんに至っては、遠い目をして天井を仰いでいる。
「えっ、僕も!?」
思わず振り返った真珠に、アクアは無言で頷いた。山下さんも、申し訳なさそうに、けれどはっきりと頷いた。解せない。
それまで英先生の後ろで黙って控えていたここみさんが、とうとう耐えかねたように口を開いた。
「先生……患者さんの前でその手の話はやめてくださいって、あれほど……」
「何を言うんだい、ここみ君。これは立派な学術的議論だよ」
「朝のリビングでする議論じゃないです。……それに」
ここみさんは、ちらりと英先生の首元に目をやった。白衣の襟の隙間から、まだ生々しい痣が覗いている。
「先生だって、昨日首を折られたばかりなんですよ。人の心配をする前に、少しはご自分の身体を――」
「だから、いじっている最中じゃないか」
「そういう意味じゃありません……!」
ここみさんの肩が、がっくりと落ちる。きっと昨夜も、ろくに眠らずにこの人の傍についていたのだろう。目の下には、母さんとよく似た隈が浮かんでいた。
(……この人も、苦労してるんだな)
とはいえ、今は自分の名誉のほうが問題だった。……味方が欲しい。真珠は、助けを求めるように鏡の方を振り返った。
「……姉さん。僕、普通だよね?」
「えー? 全然普通じゃないよ?」
帽子を被り直していた姉さんが、鏡の前からひょいと顔を出した。一点の曇りもない笑顔だった。
「骨は一日でくっつくし、止まった心臓は叩いて戻すし。あと、たまに目がすっごく怖いし」
「姉さん……!?」
まさかの裏切りだった。
「でも、いいの」
姉さんは、にこっと笑った。
「普通じゃなくても、真珠くんは真珠くんだもん。優しくて、頑張り屋さんで、ご飯が美味しくて。……私の、可愛い自慢の弟。だから、何でもいいの」
最後の一言だけ、ほんの少しだけ声が柔らかかった。不意打ちだった。顔が、じわりと熱くなる。
「……それで全部片付けるなよ」
アクアが、今度こそ両手で頭を抱えた。けれど、その口元がほんの少しだけ緩んでいるのを、真珠は見逃さなかった。
姉さんの義弟全肯定は、こんな朝でも絶好調だった。
英先生の目が、子どものようにきらきらと輝き始める。……嫌な予感しかしない。
「素晴らしい。実に素晴らしいよ、真珠少年! ぜひ一度、隅々まで解剖させてくれないかい?」
「しません」
「じゃあ、せめて血液を一リットルほど」
「多いです。献血でもそんなに採りませんよ」
「なら、骨髄を少々」
「少々で済むものじゃないですよね、それ」
いつものやりとりだった。小学生の頃、刺されて心臓が止まった僕を、この人が手術台の上で繋ぎ止めてくれてから、もう何年になるだろう。それからも怪我をするたびに診てもらい、治してもらい、そのたびに「解剖させてくれ」と迫られてきた。物騒で、頭のおかしい人。けれど、僕の身体のことを、僕以上に知っている人。
だから――英先生の指が、まだ脇腹から離れていないことに気づいた。
「……先生?」
輝いていたはずの瞳から、いつの間にか、ふざけた色が消えていた。
「……前は、三日だったね」
英先生なりに星野家や母さんにこれ以上の心労をかけない配慮なのだろう。
誰にも聞こえないようにぽつりと、英先生が言った。
「君が初めて肋骨を折ったとき、骨がくっつくまでに三日。それだって、医学の常識からすれば十分に異常だった。その次は二日。その次は、一日半」
指先が、とん、と真珠の胸を叩く。
「そして今回は、たった一日だ」
「……速くなってる、ってことですか」
「そういうことだよ」
英先生は、真珠の顔をじっと覗き込んだ。
「正直に言おう、真珠少年。君の身体は、私にも分からない」
珍しく、英先生が素直にそう言った。
「私はこれまで、自分の身体で散々試してきた。代謝を上げる薬も、骨を補強する手術も、痛みを遮断する処置もね。けれど、どれだけいじっても、君のようにはならなかった。君の身体は、私の知る医学のどこにも当てはまらない」
普通じゃない。だからこそ、誰にも分からない。
「だから、ここから先は仮説だ。……医者としてではなく、自分の身体を実験台にしてきた人間としての、ね」
英先生の指が、こつん、と真珠のこめかみを叩いた。
「君の身体は、壊れるたびに『前と同じ』に戻すのを、やめてしまったんじゃないかと思う。壊れたことそのものを合図にして、前よりも強く、前よりも速く作り直す。そういう作り変え方を、身体のほうが覚えてしまった」
「……覚えて、しまった」
「だから、回を追うごとに速くなる。強くなりたいと願うほど、身体はその願いに応えて、自分を作り変えていく」
英先生は、そこで一度言葉を切った。
「ただし、その代償は安くない。作り変えるたびに、脳は尋常じゃない量のホルモンを吐き出しているはずだ。焼けるような痛み、吐き気、眠りの底まで追いかけてくる悪夢。……そうだね、抗がん剤の副作用に、少し似ているかもしれない。普通の精神なら、とても耐えられるものじゃない」
一拍置いて、英先生は続けた。
「真珠少年。イカロスの話を知っているかい」
「……蝋の翼で、空を飛んだ」
「そう。もっと高く、もっと高くと太陽を目指して――翼を溶かされ、落ちていった」
英先生の目が、真っ直ぐに真珠を射抜く。
「君の身体は今、その翼を手に入れかけている。……だがね。求めすぎれば、いつか必ず、太陽に焼かれるよ」
部屋の空気が、すっと冷えた気がした。背後で、盗み聞きをしているアクアが小さく息を呑む気配がする。
「……分かってます」
「本当に?」
「はい。苦しいのは、知ってます」
真珠は、静かに笑った。
「でも、それで強くなれるなら。負けずに済むなら。……僕には、安いものです」
英先生は、しばらく何も言わなかった。
「……それを、副作用とすら呼ばないんだね。君は」
英先生は、小さく笑った。いつもの、どこか壊れたような笑みだった。
「壊れている人間はね、自分が壊れていることに気づかないものだよ。……私が言うんだから、間違いない」
その声には、冗談とも本気ともつかない響きがあった。人の身体を開くことにしか興味がないような顔をして、この人は、いつだって僕の怪我を誰よりも早く診にきてくれた。同じ種類の、どこかが壊れた人間として。
「……ふむ。では、今夜の夕食を一緒にどうかね。君が何をどれだけ食べるのか、記録させてもらうだけでいい」
「それくらいなら、まあ……」
「よし、言質は取ったよ。ここみ君、記録しておいてくれたまえ」
「先生、それ絶対に食事だけで終わらせる気ないですよね……?」
ここみさんが、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。けれど、その目がほんの一瞬だけ、気遣うように英先生の横顔を見たのを、真珠は見逃さなかった。
いつの間にか着替えを終えたルビーたちが、廊下の陰からこっそりと様子を窺っている。
「……ねぇ、ルビー。あの人、真珠さんの何?」
迦楼羅ちゃんの問いに、ルビーは複雑そうな顔で答えた。
「……お兄ちゃんが刺されたとき、手術して助けてくれた先生。命の恩人、なんだけど……」
「なんだけど?」
「昔から、私とアクアの脳みそを見てみたいって、ずっと言ってくるの」
「ひっ……」
「怖っ」
ひそひそと交わされる少女たちの声に、真珠は思わず吹き出してしまった。
「おや、海に行くのかい? いいねぇ。日光を浴びればビタミンDが作られる。骨の再構築には最適だ。……よし、私も同行しよう。経過観察だよ」
当然のような顔でそう言う英先生の後ろで、ここみさんが、もう何度目か分からない溜息を吐いた。賑やかな声が、リビングを行き交う。その真ん中で、真珠はふと思った。
――変わらないものも、あるんだな。
迦楼羅ちゃんにとって、ルビーはルビーのまま。エレナちゃんにとっても、大事な友達のまま。山下さんにとって、この家族は「素敵な家族」のまま。英先生にとって、僕は相変わらず、解剖したくてたまらない患者のまま。
テレビの中の誰かの声じゃない。報道の見出しでもない。目の前の自分たちを、ちゃんと見てくれている人たちがいる。
その当たり前が、今朝は、ひどくありがたかった。
「――ほら、みんな。行くよ」
帽子を目深に被った姉さんが、玄関で振り返る。その声は、まだ少しだけ硬かった。
みんなの輪の真ん中で、姉さんは笑っている。けれど、その笑顔は、今朝テレビを消したときと、何ひとつ変わっていなかった。
――姉さんだけが、まだ、前を向けずにいた。