願流島の海は、嘘みたいに青かった。白い砂浜に、迦楼羅ちゃんの笑い声が響く。
「ルビー、エレナ、いくよー! それっ!」
「きゃっ、冷たい! やったなー!」
「わ、私も……えいっ!」
波打ち際で、三人の少女が水を掛け合っている。さっきまで膝を抱えて画面を見つめていたルビーが、今は髪まで濡らして、声を上げて笑っていた。
その少し離れたところで、アクアが浮き輪を片手に、呆れたように三人を見守っている。
「アクアくんも来なよー!」
「俺はいい。……っておい、引っ張るな!」
あっという間に波の中へ引きずり込まれていく弟の姿に、真珠はこらえきれずに笑ってしまった。
(……よかった)
ルビーが、笑っている。それだけで、胸の奥に沈んでいた重たいものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。パラソルの下では、山下さんがせっせと日焼け止めを塗り直している。
「いやぁ、私、すぐ赤くなっちゃうんですよねぇ……」
「山下さん、背中の真ん中、塗り残してますよ」
「えっ、本当ですか!? うわぁ、手が届かない……!」
結局、真珠が塗ってあげることになった。山下さんは「すみません、すみません」と何度も頭を下げながら、どこか嬉しそうだった。
「……山下さん。今日は、ありがとうございました」
背中に日焼け止めを伸ばしながら、真珠は小さく言った。
「山下さんたちが来てくれなかったら、みんな、まだテレビの前でした」
「い、いえいえ! 私は本当に、ただの荷物持ちで……迦楼羅ちゃんとエレナちゃんが、どうしてもって」
山下さんは慌てて首を振り、それから、少しだけ声を落とした。
「……でも、家族がちゃんと一緒にいられるのって、当たり前じゃないですから。ああいう朝は、一人で過ごさないほうがいいんです」
その横顔には、どこか遠いものを見るような色が滲んでいた。真珠は、それ以上何も聞かなかった。ただ、この人が今日ここにいてくれたことに、心の中でもう一度、頭を下げた。
少し離れたパラソルの下では、英先生が分厚い医学書を広げていた。……と思ったら、その視線は本ではなく、明らかにこちらへ向いている。
「真珠少年。今夜の夕食、忘れないでくれたまえよ」
「分かってますよ」
「……本当に、分かっているといいんだけどねぇ」
隣に座る吉沢ここみさんが、そっと英先生の袖を引いた。そのさらに奥では、秋山さんとくしなさんが、冷たい飲み物を片手に何やら話し込んでいる。いつも隙のない秋山さんがこんなふうに肩の力を抜いているのは、珍しいことだった。
そして――少し離れた岩場の陰。片腕を三角巾で吊った褐色の男と、細身の男が、浜辺全体を見渡すように立っていた。
「……兄さん」
いつの間にか海から上がってきたアクアが、濡れた髪をタオルで拭きながら、真珠の隣に腰を下ろした。その視線は、岩場の二人に向けられている。
「さっきから気になってたんだけど。あの二人、誰だ? ずっとこっちを見てる」
「ああ、氷室さんと金田さん。昨日の夜、打ち上げで護衛をお願いしたんだ」
「護衛?」
アクアの眉が、わずかに寄った。
「うん。報道が出た以上、速水会長がこれで手を引くとは思えないからね。この島の中でも、家族の傍に信頼できる人を置いておきたかったんだ」
「……それ、いつ決めたんだ」
「昨日の夜。打ち上げの途中で」
「俺たちが寝てる間に、か」
責めるような口調ではなかった。けれど、その声の奥に、小さな棘が混じっているのが分かる。
(……そっか)
昨日、全部話したばかりだった。もう一人で抱え込まないと、そう決めたばかりなのに。
「ごめん。……でも、ほら。今、ちゃんと話してるでしょ」
「聞かれたからだろ」
「……う」
返す言葉もない。アクアは小さく溜息を吐いて、それ以上は責めなかった。
「……片方、腕を吊ってるけど」
「その腕を折ったのが、隣の金田さんだよ」
「は?」
アクアが、珍しく間の抜けた声を上げた。
「腕を折った奴と、折られた奴を、並べて護衛にしたのか?」
「うん。二人とも、すごく強いよ」
「そういう問題じゃないだろ……」頭を抱えるアクアに苦笑しながら、真珠は昨夜のことを思い出す。
――打ち上げの喧騒の中。
会場の隅のソファに、その二人は並んで座っていた。
【……おう、真珠か。勝ったな。おめでとさん】
無事なほうの手でグラスを掲げてみせた氷室さんとは、丸山さんの縁で、もう何年もの付き合いになる。裏の調査や、表では頼めないような仕事を、いつも黙って引き受けてくれる人だ。
【……ニュース、見たぞ】
グラスを置いた氷室さんの声が、少しだけ低くなった。
【お前、大丈夫なのか】
それは闘技者としてではなく、昔から僕を知っている人の声だった。
【大丈夫です、って言いたいところなんですけど。……正直、少し焦ってます】
【珍しいな。お前が弱音吐くなんざ】
【だから、お願いしに来たんです】
僕は、二人の前で頭を下げた。
【このトーナメントが終わるまで、僕の家族の護衛をしてもらえませんか】
【俺は片腕だぞ】
【氷室さんなら、片腕で十分でしょ】
【……生意気言いやがって】
氷室さんは、呆れたように笑った。けれど、その目はどこか嬉しそうだった。
【お前が人に頭下げるなんざ、よっぽどだな。……いいぜ。報酬は弾めよ。弟分の頼みでも、タダ働きはしねぇからな】
その隣で、金田さんは信じられないものを見るように目を瞬かせていた。一見すれば、闘技者には到底見えない細い身体。
それでも金田さんは、あの氷室さんに勝ってみせた。そしてガオランさんとの試合では、圧倒的な力の差を前にしても、最後まで弱者の闘い方を貫いてみせた。その姿に、僕は心から敬意を抱いていた。
【金田さんにも、お願いしたいんです】
【……僕に、ですか?】
金田さんの声は、かすかに上ずっていた。
【僕はガオランに負けた身です。氷室さんならともかく、僕なんかに、あなたの家族が守れるとは思えない】
視える色は、灰色だった。自分の力を信じきれない人の、くすんだ色。
【金田さんだから、お願いしたいんです】
【……なぜ】
【ガオランさんとの試合、見てましたから】
金田さんの肩が、小さく揺れた。
【体格も、技術も、全部負けてた。誰が見ても、勝ち目なんてなかった。それでも金田さんは、最後まで目を逸らさなかった。読んで、考えて、持てる全部を使って、喰らいつき続けた】
【……結果は、負けです】
【はい。でも僕には、あれが一番かっこいい闘い方に見えました】
僕は、真っ直ぐに金田さんを見た。
【弱い側の人間が、強い人に勝つために何ができるか。……僕もずっと、それを考えて闘ってきましたから】
【あなたが……弱い側? 滅堂の牙を倒した、あなたが?】
【僕は、ただの一般人ですよ】
【どの口が言ってんだ】
氷室さんが鼻を鳴らす。けれど、金田さんは笑わなかった。しばらく僕の顔を見つめて――その灰色が、ゆっくりと塗り替えられていくのが視えた。迷いの晴れた、静かで真っ直ぐな色に。
【……強い人から、弱者の闘いを認められたのは、初めてです】
金田さんはゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げた。
【お引き受けします。……この身にできる、全力で】
「……ってわけ」
話し終えると、アクアは呆れたように額を押さえていた。
「……兄さんって、本当にそういうところあるよな」
「そういうところ?」
「気づいたら、相手の懐に入り込んでるところ」
アクアは、もう一度岩場の二人に目をやった。それから、ぽつりと呟く。
「……東洋電力のことは」
「うん?」
「俺にも、何かできることはないのか」
その声は静かだった。けれど、膝の上で握りしめられた拳と、海を見つめる冷たい目が、言葉以上のものを語っていた。朝、テレビの前で見せたのと同じ、冷静すぎる目。
「アクアには、アクアにしかできないことがあるよ」
真珠は、弟の濡れた髪に手を伸ばして、くしゃりと撫でた。
「ルビーと姉さんの傍にいてあげて。……速水会長のことは、僕が引き受けるから」
「……兄さんだって、背負いすぎだろ」
「だから、氷室さんと金田さんにお願いしたんだよ。一人じゃ守りきれないものは、ちゃんと人に頼むことにしたんだ」
アクアは、しばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐いて、視線を逸らす。
「……兄さんらしいな」
溜息まじりのその声は、けれど、どこか安心したようにも聞こえた。
「おい、真珠。海に入るなら、俺の目の届く範囲にしとけよ」
氷室さんが、無事なほうの手でサングラスを押し上げながら声をかけてくる。
「護衛対象が一番強いってのも、おかしな話だけどな」
「頼りにしてますよ、氷室さん」
「……ったく。人誑しめ」
ぶっきらぼうにそう言いながらも、その口元はどこか緩んでいた。昔から、この人は真珠のことを、手のかかる弟分みたいに扱う。金田さんは、そんな二人のやりとりを横目に、静かに頭を下げた。
「斉藤さん。ご家族の周りは、我々が見ています。今日はどうか、ゆっくりなさってください」
ビーチチェアに腰を下ろした母さんは、ここに来てからも、ずっとスマートフォンを握りしめていた。
「母さん。少し寝なよ」
「……平気よ。まだ返さなきゃいけない連絡が――」
「電話は、僕が出るから」
真珠がそう言うと、母さんは疑うように目を細めた。
「あなたに任せたら、全部一人で片付けちゃうでしょう」
「出るだけだよ。決めることは、全部母さんに聞く。……もう、一人で抱えないって約束したからね」
母さんは、しばらく真珠の顔を見つめていた。それから、ふっと肩の力を抜いて、スマートフォンを差し出す。
「……すこしだけよ」
そう言って軽く微笑むと、母さんは小さな寝息を立て始めていた。一晩中闘い続けた人の、ようやく訪れた束の間の休息。真珠はそっとタオルをかけて、預かったスマートフォンを握りしめた。
姉さんは、大きなつばの帽子を目深に被って、パラソルの影から子どもたちを眺めている。その横顔は、まだどこか遠かった。
真珠は、クーラーボックスから冷えたお茶を一本取り出して、姉さんの隣にしゃがみ込んだ。
「姉さん。何か飲む?」
「ん、ありがと」
受け取ったペットボトルを頬に当てて、姉さんは小さく笑う。
「真珠くんも、ちゃんと遊んでおいでよ。せっかくの海なんだから」
「姉さんは?」
「私はいいの。ここで、みんなを見てるのが楽しいから」
いつもと同じ、柔らかな声だった。けれど、その笑顔の奥で、色が小さく震えているのが視えた。凪いだ海の底のように静かで――冷たい色。真珠は、それ以上何も言えずに立ち上がった。
――――――――
寄せては返す波の音。
子どもたちの笑い声。
潮風に混じる、日焼け止めの甘い匂い。
朝のテレビの声が、ずいぶん遠くに感じられた。
――好きだったのに。
――もう応援できない。
――ずっと嘘ついてたんでしょ。
画面の向こうの、顔も知らない誰かの言葉。正直に言えば、そんなものはどうでもよかった。
芸能界という夜空で、姉さんはずっと一番星だった。
そして今、同じ指が、同じ口が、その星は嘘をついていたと騒いでいる。けれど、その声はどれも、空のずっと下から上がっているだけだ。
顔も知らない誰かが、届きもしない高さに向かって、石を投げているだけ。
――イカロスの話を知っているかい。
ふと、英先生の言葉が蘇る。もっと高く、もっと高くと太陽を目指した少年は、翼を溶かされて落ちていった。
けれど、僕が欲しいのは太陽じゃない。空の一番高いところになんて、行けなくていい。
欲しいのは、ここにあるものだけだ。波打ち際で弾ける、少女たちの笑い声。その輪に引きずり込まれて、文句を言いながらも口元の緩んでいる弟。パラソルの下で、こっそり胃をさする背中。岩陰から浜辺を見張る、二つの人影。医学書の陰から、性懲りもなくこちらを窺う白衣の視線。ビーチチェアで眠る母さんの、穏やかな寝息。
空の星ほど、眩しくはない。けれど、手を伸ばせば届く場所で、ひとつひとつが確かに灯っている。視える色は、どれも温かかった。
燃えるような赤でも、底の知れない闇でもない。春の日差しのような、柔らかで穏やかな色。
――昔の僕は、空ばかり見ていた。ママがいなくなってから、ずっと。
「良い子にしていれば、ママに会える」――お葬式でお坊さんに言われたその言葉だけを握りしめて、我儘ひとつ言わずに、ただその日が来るのを待っていた。
その「いつか」がどこにあるのかなんて、考えたこともなかった。死ぬとか、天国とか、そういう言葉からは、きっと無意識に目を逸らしていた。
ただ、ママに会いたかった。それだけだった。
……その「いつか」が何を意味していたのか、今ならわかる。あの頃の僕は、蝋の翼で太陽を目指したイカロスと、きっと同じだった。
その先に何があるのかも知らずに、ただ、光のほうへ。そんな僕を、何度も呼び止めてくれたのが、この人たちだ。
初めて腕に抱いた、小さくて、壊れやすくて、温かい二つの命。その重みを知った日、ママに会う「いつか」しか見ていなかった僕は、生まれて初めて〝ハルカナミライ〟を思い描いた。
母さんが作ってくれたご飯。父さんと、たまにやったキャッチボール。変装した姉さんに、着せ替え人形みたいに連れ回された買い物。文句を言いながら飲み干してくれた、ルビーのココア。アクアが貸してくれた、少し難しい本。
知らず知らずのうちに死に場所を探していた子どもに、生きる価値を教えてくれた家族。
イカロスの翼は、父親が一枚ずつ羽根を集め、蝋で固めて作ったものだという。僕の翼も、きっと同じだ。この人たちがくれた温もりを、一枚ずつ、何年もかけて重ねてできている。だから、拳を握る。願いを賭ける。
この翼をくれた人たちを――二度と、失わないために。
そして――浜辺に灯る光の真ん中で、一番星だけが、パラソルの影に隠れたまま、まだ光を失っている。
僕の翼は、太陽に届くためのものじゃない。この小さな灯りたちを守るために。もしも一等星が翼を焼かれて落ちてくるのなら、その光ごと、この腕で受け止めるために。
そのためなら、何度だって飛べる。
――たとえ、
「真珠お兄ちゃーん! 一緒にやろうよー!」
ルビーが、大きく手を振っている。その両脇で、迦楼羅ちゃんとエレナちゃんが水鉄砲を構えていた。
……どう見ても、狙われている。
「はいはい。今行くよ」
真珠は笑って立ち上がり、波打ち際へと歩き出した。三方向から一斉に放たれた水の弾丸。避けようと思えば、いくらでも避けられた。けれど、真珠は避けなかった。
「ちょ、冷たっ……!」
「あはははは! お兄ちゃん、びしょびしょー!」
ルビーの笑い声が、青い空に弾けた。
「真珠さん、隙だらけー!」
「ご、ごめんなさい真珠さん……っ、でも、楽しいです……!」
迦楼羅ちゃんが容赦なく追撃を浴びせ、エレナちゃんが申し訳なさそうに、けれど嬉しそうに水鉄砲を構え直す。
「……よーし。じゃあ、お返しね」
真珠が両手で海水をすくい上げると、三人は悲鳴を上げて逃げ出した。その巻き添えを食らったアクアが、「なんで俺まで……!」と頭から海水をかぶって叫ぶ。
笑い声が、また一つ増えた。波打ち際で弾ける声の中で、真珠はふと、パラソルの方を振り返った。
影の中の姉さんは、まだ、そこから動こうとしなかった。