星野アイは、パラソルの影から、海を見つめていた。波打ち際で、びしょ濡れの真珠くんが笑ってる。ルビーも笑ってる。アクアも、呆れた顔してるくせに、口元だけはちゃんと緩んでる。
(……いいなぁ)
あの子たちが笑ってると、胸のあたりが、ちょっとだけあったかくなる。
大きな帽子に、色の薄いサングラス。いつもの変装。記者なんていないって分かってるのに、なんで外せないんだろ。パラソルの外が、眩しすぎるからかな。
寄せては返す波を、ぼんやり目で追う。
昔の私なら、こんな気持ちにはならなかった。……ううん。ならなかった、じゃなくて、知らなかった、か。
「愛してる」。ステージの上でも、カメラの前でも、何百回、何千回って言ってきた。一回も、ほんとだったことなんてないのに。
お母さんに愛してもらった記憶なんて、ひとつもない。施設の天井ばっかり見上げてた私に、愛の形なんて分かるはずなかった。
だから、嘘をついた。嘘をつき続けてたら、いつかほんとになるかもって。……それしか、信じられるものがなかったから。それをほんとにしてくれたのは、あの子たちと、真珠くん。
夜泣きが止まらなくて、二人を抱っこしたまま朝まで部屋をぐるぐる歩いた日。初めて作った離乳食を、ルビーにぶーって吹き出された日。熱を出したアクアのちっちゃい手を、一晩中にぎってた日。
いつも隣には真珠くんがいた。
眠そうな目をこすって哺乳瓶をあっためてくれて。私が泣きそうになると、何にも言わずに背中をさすってくれて。あんなにちっちゃい手で、私より上手に二人をあやしちゃう。……ずるいなぁ、ほんと。
ルビーが初めて「ママ」って呼んでくれた日。アクアが照れくさそうに「母さん」って言ってくれた日。みんなで並んで、写真を撮った日。
――あ、私、お母さんになってる。
いつ気づいたんだっけ。気づいたら、あの子たちの寝顔を見てるだけで、胸がいっぱいになってた。
それから、もうひとつ。ずっと、ずーっと願ってること。真珠くんと、いつまでも一緒にいたい。
お姉ちゃんとして。家族として。あの子が笑ってる場所に、いつまでも、私もいたい。
嘘ばっかりの私でも、これだけは、一回も嘘にしたくない。
――姉さんがいたから、生きたいって思えた。
いつだったか、あの子がそう言ってくれた。ぎゅってしてくれたから、前を向けたって。
……救われてたのは、私のほうなのに。
だからこそ、この想いはきっと「愛」なのだろう。あの子たちのためなら何だってできる。
ーーーそのはずだった
『ファン辞めます』『ずっと嘘ついてたってことでしょ』『子どもがかわいそう』
波の音に混じって、朝の言葉が戻ってくる。子どもたちの笑い声の、すぐ隣で。そのたびに、胸の一番奥に、ちくって刺さる。何回も。何回も。
手の中のお茶が、いつの間にかぬるくなってた。真珠くんがくれた、冷たいお茶だったのに。
叩かれるのなんて、慣れてるはずでしょ。アイドルの頃も、タレントになってからも、悪口なんて山ほど言われてきたじゃん。
……でも、これは違う。
一番痛いのは――『子どもがかわいそう』。だってそれ、私がずっと思ってたことだもん。
外で「ママ」って呼ばせてあげられないお母さん。授業参観にも、運動会にも行けないお母さん。……こんなお母さんで、ごめんね。
知らない誰かの言葉が、ずっと私の中にあった声と、おんなじ形をしてる。
私の嘘が、アクアとルビーを「隠し子」にした。
ルビー、アイドルになりたいって言ってたな。ママみたいなアイドルになるんだって、目をきらきらさせて。……その「ママみたいな」が、今は、呪いみたいに聞こえる。
アクアは、俳優になりたいって。あの子の、初めてのわがままだった。これからずっと、あの子の名前の隣には「星野アイの隠し子」がくっついて回る。
あの子たちの夢にまで、私の嘘が、影を落としてく。
ミヤコさんは、私のせいで一晩中寝ないで、頭を下げ続けてる。真珠くんが、どれだけ傷つきながら闘ってきたのかも、昨日、知っちゃった。
……ううん。もっと前から、ずっとそうだった。
あの日も。私を狙った刃を、まだちっちゃかった真珠くんが、ルビーを庇って受け止めた。何日も目を覚まさなくて、心臓が止まったって聞いたとき、目の前が真っ暗になった。
――その刃を呼び寄せたのだって、私。
十五歳のときに出会った、綺麗な顔の男の子。神木輝。「輝くん」って呼ぶと、ちょっとだけ照れくさそうに笑う子。
あの頃の私は、愛の形を探してた。真珠くんを、幸せにしてあげたかった。隣で笑ってくれるあの子に、ちゃんと何か返したかった。でも、愛し方なんて誰にも教わったことなかった。
だから、輝くんの寂しそうな目を見たとき、思っちゃった。誰にも愛されたことないみたいな、私とそっくりな目。この子を救えたら、愛が何なのか分かるかもしれない。分かったら、今度こそ真珠くんを、幸せにしてあげられるかもしれない、って。
「愛してる」って言われたら、同じ言葉を返した。それが愛なんだって、思い込もうとした。でも。輝くんにとって、私はたった一人の人で。私にとっての輝くんは、真珠くんと同じ――放っておけない、可哀想な子だった。
そのすれ違いの先で、アクアとルビーは生まれてきてくれた。
父親がいたほうが、この子たちのためなのかなって。そう思って、一回だけ、連絡しちゃった。その一回が、あの日の刃になった。真っ白な病室で、管だらけのちっちゃい手を握って、何回も謝った。目を覚まさない顔に、何回も、何回も。
ごめんね。私のせいだね。
なのにあの子は、起きてからも、一回だって私を責めなかった。……それが、一番苦しかった。
そして、今度も。速水って人が、どうやって私たちのことを知ったのか。真珠くんは、はっきり言わなかった。でも、答えなんて一つしかない。
憎いって言えたら、楽なのかな。
でも、あの人を憎もうとすると、二人の顔が浮かぶ。あの人によく似た金色の髪。あの人から受け継いだ、力強い輝きを放つ瞳。
好きでもなかった人との間に、誰より愛おしい命が生まれてきた。その矛盾を、まだ、どこにも置けないでいる。
――結局、全部、私から始まってる。私がしてきた代償を今みんなが支払わされている。
愛を知りたいなんて思ったから。幸せになろうとしたから。そのたびに、誰かが傷ついてきた。一番傷ついてきたのは、いつだって……
真珠くんと、いつまでも一緒にいたい。
さっきまで、たったひとつのほんとだと思ってたその願いが、今は、すごく浅ましく思える。私が隣にいる限り、あの子はきっと、また無茶をして傷つく。あの子のためを思うなら、離れたほうがいいのかもしれない。
……そう考えただけで、息ができなくなるくせに。
手放すこともできない。でも、隣にいる資格もない。そんな自分が、どうしようもなく、嫌い。
(……ねぇ、私)
波の向こうに、問いかける。
(こんなにあったかい場所に、私なんかがいていいのかな)
嘘ばっかりの私が。守られてばっかりの私が。このあったかい世界の真ん中で、笑ってていいのかな。……答えは、返ってこない。
「姉さーん!」
不意に、名前を呼ばれた。顔を上げると、波打ち際で、ずぶ濡れの真珠くんが大きく手を振ってる。その隣で、ルビーとアクアも、こっちを見てる。
「姉さんもおいでよー! 冷たくて気持ちいいよ!」
あの笑顔、昔から何にも変わらない。嘘をついてたときも、本当のことを言えなかったときも。ずっと、ああやって笑って、私を呼んでくれる。
ルビーが一瞬だけ、迷うみたいに口を閉じた。それから、ぎゅっと拳を握って――大きく息を吸い込む。
「……ママもー! ママもおいでよー!」
息が、止まった。空の下で。誰かに聞かれるかもしれない場所で。あんなに大きな声で、そう呼ばれたのは、初めてだった。アクアも、照れくさそうに目を逸らしながら、小さく手を上げてる。
胸の奥が、あったかくなる。泣きたくなるくらい、あったかくなる。
なのに――そのあったかさが、今は、すごく痛い。
こんなに優しい子たちに、私、何を返せたんだろう。ゆっくり、手を振り返す。
いつもみたいに、笑って。
ちゃんと笑えてるといいな。
――この笑顔、嘘なのかな。ほんとなのかな。……もう、分かんないや。
眩しい光の中で、一番星だけが、静かに、深く、沈んでいく。