星野アイは、パラソルの影の中で、膝を抱えていた。 さっき振り返した手が、まだ少し震えてる。
……なんて言い訳しようかな、
「ママもおいでよー!」
ルビーの声が、まだ耳の奥で鳴ってる。外で、あんなに大きな声で、そう呼ばれたの、初めてだった。
嬉しくて、嬉しすぎて、胸のどこかがきゅうってなって――手を振り返すだけで、精一杯だった。
波打ち際では、ルビーと迦楼羅ちゃんとエレナちゃんが、水鉄砲を構えて真珠くんを追いかけ回してる。
きゃあきゃあ弾む声が、潮風に乗ってここまで届く。アクアはいつの間にか輪から抜けてて、タオルを頭からかぶったまま、岩場のほうで氷室さんたちと何か話してた。
(……行かなきゃ。行って、いつもみたいに笑って、水かけて、「ママも混ぜてー」って……ううん、「お姉ちゃんも」?)
どっちで言えばいいのかも、もう分かんないや。 分かってるのに、足の裏が砂から離れない。
熱い砂に、じりじり焼きつけられていくみたいだった。
だって、行ったら、あの子の顔を見なきゃいけない。昨日、ガラスの向こうで闘ってた、あの顔を。 私のせいでまた傷つくことを選択してしまった彼を。
膝の横には、真珠くんがくれたお茶のペットボトルが転がってる。冷たいうちに飲めばよかったのに、結局キャップも開けられないまま、汗をかいて、ぬるくなっちゃった。
「あ、あの……お隣、いいですか」
遠慮がちな声に顔を上げると、アロハシャツの男の人が立ってた。両手に紙コップを一つずつ。中で麦茶が、ちゃぷんと揺れてる。
えっと――山下さん。 うん、山下さん。
今朝、二回名乗ってもらって、二回目でちゃんと覚えた名前。
「ど、どうぞ。冷たいの、まだ残ってたので」
「……ありがと、山下さん」
名前を呼んだら、山下さんの眉が、ほんのちょっとだけ上がった。それから、照れたみたいに目尻が下がる。
……そんなに嬉しそうな顔されると、こっちがどうしていいか分かんなくなる。
受け取った紙コップは、指先がきんとするくらい冷たかった。一口飲むと、香ばしい匂いが鼻に抜けていく。……麦茶って、こんなに美味しかったっけ。
朝から、何も喉を通らなかったのに。 山下さんはほっとしたみたいに笑って、パラソルの端っこにちょこんと腰を下ろした。
……体の半分くらい、思いっきり日向にはみ出して
る。
「山下さん、半分お日さまに出ちゃってるよ」
「あ、いえ、私はこれくらいで……。アイさんの日陰を取っちゃうわけには」
「……変なの。もっとこっち来ていいのに」
「す、すみません」
ぺこりと頭を下げて、山下さんはほんの数センチだけ影のほうへずれた。数センチ。ほんとに、数センチ。
なにそれ、と思ったら、口元がちょっとだけ緩んでた。 それから二人で、黙って海を見てた。波が寄せて、砂を舐めて、また帰っていく。そのたびに、白い泡がしゅわしゅわと消えていく。
「……真珠くん、楽しそうですね」
「……そう?」
「はい。あ、ほら」
山下さんが指さした先で、真珠くんがルビーの水鉄砲を顔面で受け止めてた。左の手首に、真っ白なテーピング。前髪からぽたぽた水を垂らして、ふにゃっと笑って――それから、ふっと、こっちを見た。
一瞬だけ。すぐに、ルビーたちのほうへ向き直る。
「……今の、見ました?」
「え?」
「真珠くん、さっきからずっと、ああやってこっちを見てるんですよ。水鉄砲で撃たれながら、ちょっとずつ」
――知らなかった。 ううん、うそ。知らなかったんじゃない。見ないようにしてただけ。目が合ったら、きっとあの子は、全部分かっちゃうから。
「アイさんのこと、気になって仕方ないんでしょうね」
山下さんが、温かい顔で笑う。
今度は、真珠くんが砂浜を駆けていく。ビーチチェアで眠ってるミヤコさんのところまで行って、ずり落ちかけてたタオルを、起こさないようにそっと掛け直す。戻りがけに、迦楼羅ちゃんが蹴散らかしていったビーチサンダルを拾って、きちんと揃えて。何事もなかったみたいに、また水鉄砲の輪の中に戻っていった。
「……忙しい子だね」
「ほんとに」
顔を見合わせて、ちょっとだけ笑った。
あの子、昔からああなんだよね。誰かのタオルがずれてると、直さないと気が済まない。誰かが泣きそうだと、黙ってココアを淹れてくる。……自分のことは、いっつも後回しで。
「……私、真珠くんに護衛してもらってたこと、あるんです」
山下さんが、紙コップを両手で包んだまま言った。
(……あ)
船で、真珠くんが言ってた。「この間まで護衛をしてた人たち」って。あとでちゃんと聞かせてもらうからね、なんて言ったくせに、いろんなことがありすぎて、それっきりになってた。 ……山下さんのことだったんだ。
「乃木会長に、急に王馬さんの世話係を任されまして。そのとき一緒に紹介されたのが、真珠くんだったんです。現役の闘技者で、私たちの護衛もしてくれるって」
山下さんは、思い出したみたいに小さく首を振った。
「物腰が柔らかいし、手慣れてるし、てっきり社会人だと思ってたら……二十一歳だって言うんですよ。ひっくり返りそうになりました」
「あはは。あの子、昔から妙に大人っぽいんだよね。……中身は、けっこう子どもなのに」
「そうなんですか?」
「うん。プリン取られると、根に持つし」
山下さんが、ふふっと肩を揺らした。それから、その笑い声が、すうっと細くなる。
「ほんの少しの間だけでしたけど。……あの頃の私、本当にダメで。借金のことばっかり考えて、眠れなくて、胃もずっと痛くて」
「借金……?」
「……五十一億です」
「ごじゅう、いち、おく」
えっと。いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……途中で数えるのをやめた。ゼロが多すぎる。私のライブのチケット、何枚分だろ。……それを考えるのも、やめた。
「あ、で、でも、最初は一億だったんですよ……! 五十億のほうは、この島に来てから知らされまして……」
「それ、どっちも、だいぶだと思うよ……?」
山下さんの肩が、目に見えてがっくり落ちた。……ごめんね、山下さん。
「……その、一億のときです。家に帰る気になれなくて、会社の近くの公園で、夜中にベンチに座ってたら……真珠くんが来て。何にも言わずに、隣に座ってくれて」
「……うん」
「缶のココアを、二本持ってたんです。一本、私にくれて。……なんでココアなんだろうって、ちょっと笑っちゃいました」
「……あの子、昔からココアなの」
声に出したら、少しだけ喉がつまった。知ってる。その「何にも言わずに隣に座る」やつ。甘い湯気と一緒に、黙って隣にいてくれるやつ。私も、されたことがあるから。
「何にも聞かないで、ずっと隣にいてくれました。明け方まで。……次の日、大学だったはずなのに」
「……あの子らしい」
「それで、帰り際に、ひとつだけ言われたんです」
山下さんの目が、海の向こうを見た。
「『山下さん。帰る場所があるなら、まだ大丈夫ですよ』って」
――帰る場所。
ぽちゃん、と。紙コップの中に、小さな石が落ちたみたいな気がした。
「私、離婚してまして。妻とは、もう何年も会ってないんです。息子が二人いるんですけど……」
山下さんは、紙コップの中の麦茶を、じっと見つめた。
「下の子は、ちょっとグレちゃってて。でも、王馬さんにボコボコにされてから、なんだか急に真面目になりまして」
「……え? ボコボコ?」
「はい、ボコボコに…」
「それ、大丈夫だったの……?」
「大丈夫じゃなかったです……。でも、今は前より、ちゃんと話してくれるんですよ。王馬さんのことは、まだちょっと怖がってますけど」
今度こそ、我慢できなかった。肩が勝手に揺れる。山下さんも、つられたみたいに小さく笑う。でも、その笑顔は、すぐにしぼんでいった。
「……上の子とは、もう何年も、まともに話してないんです」
山下さんの声が、一段だけ低くなった。
「昔、あの子が部屋で、何かの実験みたいなことをしてるのを、見てしまって。……頭のいい子なんです。私なんかとは比べものにならないくらい。でも、そのとき、正直……怖くなってしまって」
「……」
「父親なのに、自分の息子が怖いなんて。それからずっと、あの子の部屋の前を、通り過ぎるだけになっちゃって。……あの子は、ずっと部屋にこもったままです」
山下さんの指に力が入って、紙コップが、くしゃりと潰れかけた。
「帰る場所なんて、とっくに自分で壊しちゃったと思ってたんです。……でも、真珠くんにそう言われたら、なんだか、まだあるような気がして」
山下さんは、照れくさそうに頭を掻いた。
「この島に来る前、久しぶりに、あの子の部屋のドアをノックしてみたんですよ」
「……どうだったの?」
「返事は、ありませんでした」
困ったみたいに、山下さんは笑う。
「でも、『行ってくるよ』って言ったら……ドアの向こうで、キーボードの音が、一瞬だけ止まったんです。……それだけで、なんだか泣きそうになっちゃって」
「……そっか」
「真珠くん、あのとき、きっと自分の家族のことを考えてたんだと思います」
山下さんの視線が、波打ち際の真珠くんを追った。
「帰る場所があるから、どこまででも頑張れる。……そういう人なんだなって」
紙コップを持つ手に、勝手に力がこもった。
あの子にとっての、帰る場所。それが私たちだってこと、知ってる。そんなの、ずっと前から知ってる。
なのに。なんでだろ。他の人の口から聞くと、こんなに痛い。 だって、その帰る場所のせいで、あの子は昨日、あんなところに立ったんだよ。骨を折って、血を吐いて、それでも「ちゃんと、勝ってきたよ」って、いつもの顔で笑って。 ……その場所に、私、まだ立ってていいのかな。
「……今からでも、遅くないよ」
考えるより先に、声が出てた。
「え?」
「ご家族と、話すの。山下さん、こんなに優しいもん。今朝だって、テレビが何て言ってても、って言ってくれたでしょ。……あれ、すっごく嬉しかったんだよ。だから、きっと届く」
山下さんは、ぽかんと私を見て――それから、くしゃっと顔を歪めた。
「……そう、でしょうか」
「うん。……たぶんね」
すらすら出てくるなぁ、と自分でも思う。
自分のことは一ミリも信じられないくせに、人のことになると、こうやって綺麗な言葉がいくらでも出てくる。
……これも、嘘つきの得意技なのかな。
ステージの上で、何百回も、何千回も「愛してる」って言ってきた、私の。
「アイさん」
山下さんが、まっすぐ私を見た。
「真珠くんは、きっと――アイさんたちが思ってるより、ずっと、アイさんたちのことが好きですよ」
……知ってるよ。 知ってるから、苦しいんだよ。言葉にできなかった返事を、ぬるくなった麦茶と一緒に、喉の奥へ流し込んだ。さっきまであんなに美味しかったのに、今度は、なんの味もしなかった。
「アイさーん!」
ざぶざぶと海から上がってきた迦楼羅ちゃんが、濡れた髪をぶんぶん振り回しながら駆けてきた。しぶきが飛んで、私の膝にまで冷たい粒が散る。
「山下さん、ルビーとエレナがかき氷食べたいって。売店まで付き合ってあげて。保護者代わりなんでしょ」
「えっ、あ、はい! 今行きます!」
山下さんが慌てて立ち上がって、潰れかけの紙コップを握ったまま走っていく。途中で一回、砂に足を取られてつんのめって……なんとか持ち直した。よかった。
入れ替わるみたいに、迦楼羅ちゃんがどすんと私の隣に座った。小さな身体から、潮の匂いと、甘ったるい日焼け止めの匂いがする。
「アイさん、さっきから全然こっち来ないじゃん」
「ちょっと、日焼けしたくなくて」
いつもの笑顔。いつもの声。首の角度も、目の細め方も、完璧。嘘をつくのには慣れてる。真珠くん以外に、見抜かれたことなんてない。
迦楼羅ちゃんは、何も言わなかった。ただ、じっと私の顔を見て――鼻を、ひくっと動かした。
「……ふーん」
それだけ。 なのに、うなじの産毛が、ぞわっと逆立った。
表情を読まれたんじゃない。声の震えに気づかれたんでもない。もっと奥の、言葉になる前の何かを、くん、と嗅ぎ取られたみたいな。
(……なに、この子)
ルビーの、学校の先輩。小柄で、元気で、ちょっと口が悪くて。今朝なんて、ニュース見たよって言った次の瞬間に「で、それが何?」って、膝を抱えてたルビーを平気な顔で引っぱり出していった子。私が知ってる迦楼羅ちゃんは、それだけのはずなのに。
「ルビーね、ずっとアイさんのこと見てたよ」
迦楼羅ちゃんが、海のほうを向いたまま言った。
「水鉄砲やってても、かき氷の話してても、ちょっとずつこっち見てた。ママ、大丈夫かなって。……さっきの『ママー』だって、すっごい勇気出してたんだから。あの子、アイさんのこと、ママとしても大好きだし、推しとしても大好きだから」
「……ルビーが」
あの子にまで、心配かけてたんだ。ママなのに。笑ってなきゃいけないのは、私のほうなのに。
「だから、私も気になっちゃって」
迦楼羅ちゃんは膝を抱えたまま、少しだけ黙った。さっきまでの子どもっぽい笑顔が、すうっと引いていく。残ったのは、びっくりするくらい大人びた横顔だった。
「……アイさんはさ。真珠さんが本気で怒ったとこ、見たことある?」
「え?」
唐突すぎて、言葉が詰まった。 怒った真珠くん。……思い出そうとしても、出てくるのは、困ったみたいに眉を下げて笑う顔ばっかり。
お皿を割っても、ルビーにわがままを言われても、私が寝坊しても、あの子はいつも笑ってた。 船で、知らない男の人たちを倒したときは? あのとき、一瞬だけ、あの子があの子じゃなくなっちゃう気がして、ぞっとした。……そのあと、こっちに向かってVサインなんか作るから、怖いのなんか吹っ飛んで、かっこいい、かっこいいって大騒ぎしちゃったけど。
でも、あれは、怒ってたわけじゃない。最初から最後まで、いつもの顔のままだった。
「……ない、かも」
「そっか。私は、ある」
迦楼羅ちゃんは、砂を一掴みすくって、指の隙間からさらさらと零した。白い砂が、風に流されて斜めに落ちていく。
「その前に、アイさんにはちゃんと言っとくね」
零れていく砂を見つめたまま、迦楼羅ちゃんが言った。
「私の家、呉一族っていうの。……人を殺すのが仕事の、一族なんだ」
――え。 波の音が、ぷつんと途切れた気がした。
冗談でしょ、って笑おうとした。口の端が半分だけ持ち上がって、そこで止まった。迦楼羅ちゃんの横顔は、少しも笑ってなかったから。
呉。
その字、どこかで――。
昨日の闘技場。自分より大きな男の人を、まるでボールみたいに放り投げてた、あの人。エレナちゃんが、喉が嗄れるまで「兄様」って叫んでた、あの試合。
「……呉、雷庵、さん」
「あ、覚えてたんだ。うん、あれもうちの人。……アイさんが名前覚えてるの、ちょっと意外」
覚えたくて覚えたんじゃない。忘れられなかっただけ。あの試合を見て、私、初めて知ったんだもん。ここは、ほんとに人が死ぬかもしれない場所なんだって。
小さな肩。日焼けした腕。
ついさっきまで、ルビーと一緒に、きゃあきゃあ水を掛け合ってた背中。
その全部と、今の言葉が、どうしても重ならない。頭の中で、噛み合わないパズルのピースが、ぐるぐる回ってる。 迦楼羅ちゃんが、ちらっと私の顔を見た。
それから、お尻ひとつぶんだけ、私から離れて座り直した。 私が怖がってもいいように。逃げたくなったら、すぐ逃げられるように。
……あ。 この子、私のこと、気遣ってるんだ。人を殺す家の子が、隣の私が怖くないように、自分から距離をあけて。
なんで、そんな顔するの。そんなの、ただの優しい女の子じゃん。
「ルビーは、知ってるよ。それでもあの子、ずっと私の後輩でいてくれた」
小さな声だった。波にまぎれて、消えちゃいそうなくらい。
――ルビーはルビーでしょ。
今朝、リビングで、迦楼羅ちゃんがルビーに言った言葉。ママだろうがお姉ちゃんだろうが関係ないって、まっすぐ言い切ったあの声。
あのとき、この子はどんな気持ちでそう言ったんだろう。「呉の子」って知られるたびに、誰かが一歩下がるのを、何回も見てきたのかな。
気づいたら、お尻ひとつぶん、私のほうから詰めてた。
「……迦楼羅ちゃんは、迦楼羅ちゃんでしょ」
迦楼羅ちゃんが、ぱちっと目を瞬かせる。それから――ほんの少しだけ、泣きそうな顔で笑った。
「……やっぱり、ルビーのママだね」
迦楼羅ちゃんは、もう一度砂をすくった。今度は零さずに、ぎゅっと握りしめる。
「うちの家と、真珠さん。一回だけ、本気でぶつかったことがあるの。……ルビーのことで」
「ルビーの……?」
頭の奥で、何かがかちっと嵌まった。 船の上で、ミヤコさんがぽろっと言ってた。前にルビーが攫われたって勘違いしたときは、もっと酷かったわよ、って。あんまり普通の顔で言うから、そのときは聞き流しちゃったけど。
「それって……ルビーが攫われたって、真珠くんが勘違いしたっていう……」
「あ、そこまでは聞いてるんだ」
迦楼羅ちゃんが、ちょっとだけ気まずそうに頬を掻いた。
「うちは、攫ったつもりなんてなかったんだけどね。……まあ、そう見えても仕方ないことは、してたかも。詳しいことは、ルビーが話したくなったら聞いてあげて。私が勝手に話すことじゃないから」
握った拳が、かすかに震えてる。
「そのときの真珠さんね、存在感が、ぜんぜん違った。同じ人なのに。いつもと同じ顔してるのに。そこに立ってるだけで、息ができなくなるの。……私、生まれて初めて、人のことを怖いって思った。殺し屋の家に生まれて、怖いなんて思ったこと、一回もなかったのに」
「……」
「でもね、最後は、いつもの真珠さんだった。優しくて、強くて。……誰も、殺さなかった」
迦楼羅ちゃんの手が、ゆっくり開く。湿って固まった砂が、ぽろりと落ちた。
「ルビーが危ないって思ったら、真珠さんは、世界だって敵に回すんだよ。……ううん、きっと家族の誰でもそう。言うのは簡単だけど、ほんとにそれができる人なんて、どこにもいない」
怖がってる声。でも、同じくらい、憧れてる声だった。
「うちのひいおじいちゃんがね、呉一族の当主なの。千三百年続いてる家の、一番上の人」
「……当主」
私の顔を見て、迦楼羅ちゃんがこくんと頷い。
「うん。……今でも、すっごく偉い人たちが、ひいおじいちゃんの前だと、みんな背筋を伸ばしてる」
少しだけ誇らしそうに、それから困ったみたいに、迦楼羅ちゃんは笑った。
「そのひいおじいちゃんがね、真珠さんのこと、『友』って呼んでるの。……家族以外の誰かをそう呼ぶの、私、初めて聞いた」
「友……」
「まあ、実際はメル友らしいんだけどね。私の写真、真珠さんがこっそりひいおじいちゃんに送ってるの、知ってるんだから」
ぷくっと頬を膨らませた迦楼羅ちゃんは、もう、いつもの迦楼羅ちゃんだった。
……メル友。千三百年続く殺し屋の家の、一番偉い人と。なにそれ。あの子、ほんとに何してるの。
私の中の知っている真珠くんと私の知らない真珠くん。
この数日でどんどん知らない真珠くんが増えていく。
夜泣きするルビーのために、哺乳瓶をあっためてくれたあの子。私が焦がしたご飯も、「おいしいよ」って全部食べてくれたあの子。その同じ手で、千三百年も続く家を相手に、ルビーを取り返しに行ったなんて。 私、あの子のお姉ちゃんなのに。いったい、何を見てきたんだろう。
「……それでね」
迦楼羅ちゃんの声が、少しだけ柔らかくなった。
「全部終わったあと、真珠さん、なんて言ったと思う?」
「……なんて?」
「『帰るよ、ルビー』って」
息が、止まった。
それ、知ってる。あの子の口癖。アクアとルビーをお迎えに行くたび、いつもそう言って、手を差し出すの。
「さっきまで、あんなに怖かったのに。ルビーの手を取って、ふにゃって、いつもの顔で笑ってさ。……で、そのあと急に青い顔して、『早く帰らないと、母さんに怒られる』って」
迦楼羅ちゃんが、くすっと笑った。でも、膝を抱えた腕は、ぎゅっと固いままだった。
「そのとき、分かったの。真珠さんが怪物のままでいないで済むのは、帰る家があるからなんだって。帰りを待ってる人がいるから、ちゃんと、優しい真珠さんに戻ってこられるんだって」
波が足元まで寄せてきて、爪先を濡らして、また引いていく。
「だからさ」
迦楼羅ちゃんが、私の顔をのぞき込んだ。
「アイさんが『私のせいで』って、真珠さんの前からいなくなっちゃったら――真珠さん、どこに帰ればいいの?」
足の下の砂が、引いていく波に、ざあっとさらわれていった。 立ってる場所が、崩れていく。
だって私、さっき、本気でそう思ってた。あの子のためを思うなら、もう離れたほうがいいのかもしれないって。ミヤコさんに頼んで、一人で、どこか遠くに――って。
(……なんで、分かるの)
言ってない。誰にも、言ってないのに。
「……でも、選ばせたのは、私でしょ」
やっと出てきた声は、自分でもびっくりするくらい細かった。
「私がいなかったら、真珠くんは、あんな場所に立たなくて済んだ。怪我だってしなくて済んだ。……違う?」
迦楼羅ちゃんは、少しだけ黙った。 それから、こてん、と首を傾げる。
「それ、真珠さんに言える?」
「……」
「『私のせいで闘わせてごめんね、傷つけてごめんね』って。真珠さんの目、見て言える?」
言えない。
言えるわけ、ない。
だって、そんなこと言ったら、あの子はきっと、いつもの困ったような顔で笑って――
「違うよ、姉さん」って言うに決まってる。
昨日だって、そうだった。それから、私が泣き止むまで、黙って隣に座ってるんだ。
それが分かってるから、言えないの。
「……ごめん、迦楼羅ちゃん」
膝が、勝手に伸びてた。さっきまで動かなかったはずの足も勝手に動き出す。
「ちょっと、散歩してくるね」
「え、アイさん――」
背中にかかる声を、聞こえないふりをした。
逃げてるって、分かってた。
分かってても、足は止まってくれなかった。
どれくらい歩いただろう。果てのない砂浜 。
どこまで歩いても、砂浜は終わらなかった。
右には、どこまでも青い海。左には、どこまでも白い砂。照り返しが眩しくて、サングラス越しでも目の奥がちかちかする。振り返ると、さっきまでいたパラソルが、もう豆粒みたいに小さかった。
――帰りを待ってる人がいるから、ちゃんと、優しい真珠さんに戻ってこられるんだって。
――真珠さん、どこに帰ればいいの?
迦楼羅ちゃんの声が、波が寄せるたびに戻ってくる。消しても、消しても、また。
分かんないよ。分かんない。
だって、全部、私から始まってるんだもん。十六で二人を産んで、それを隠して、アイドルを続けて。あの子は、その嘘の後始末を、ずっと一人でしてくれてたんでしょ。それなのに、私のせいじゃないなんて、そんなの――
ざく、と。 少し後ろで、砂を踏む音がした。 振り返ると、男の人が、つかず離れずの距離を歩いてた。片腕を三角巾で吊ったまま、無事なほうの手でサングラスを押し上げて。風に乗って、かすかに煙草の匂いがする。
「……ついてこなくても、大丈夫だよ」
「仕事なんでね」
素っ気なく返して、氷室さんは私の歩幅に合わせるみたいに、少しだけ足を緩めた。
ざく、ざく、と、二人分の足音だけが続く。
……気まずい。
「……氷室さんは、真珠くんとは、いつから?」
先に沈黙に負けたのは、私のほうだった。
「あいつが中坊の頃からだな。丸山さんの紹介で」
「中学生の、頃から……」
「生意気で、礼儀正しくて、妙に肝の据わったガキだったよ。初対面の俺に、『これから色々お願いすると思います。よろしくお願いします』って、深々と頭下げやがった」
氷室さんが、喉の奥で小さく笑う。
想像できちゃうのが、悔しい。きっと制服のまま、背筋をぴんと伸ばして、きっちり九十度のお辞儀をしたんだろうな。
「……色々って、どんな?」
「そいつは言えねぇ。あいつとの約束だ」
ぴしゃりと閉じられた。それ以上は一歩も入れてもらえない、扉の音みたいだった。
――私の知らない真珠くんを、この人は知ってる。
中学生のあの子が、どこで、誰に、何をお願いしてたのか。私が一個も知らないことを、この人は知ってる。
あの頃の私、何してたっけ。ライブのリハと、ドラマの撮影と、雑誌の取材。帰りはいつも夜中で、あの子のほうが先に寝てる日が多かった。
……それでも、「おかえり、姉さん」って、眠そうな顔で起きてきてくれる日があったのに。
「今日、何してたの」って、聞いたことは、ある。何回も。 そのたびにあの子は、「別に、なんにも」って笑ってた。顔に絆創膏を貼ってる日は、「階段で転んじゃって」。
何度か疑ったことはあった。虐められてないかとか、虐めじゃなくても嫌がらせされてないかとか。だけど真珠くんは「そんなこと全然ないよ」って笑ってて。
私はそれを、ずっと信じてた。結果としては嘘じゃなかったけど、でもそれ以上のことが起こってて、
……信じたかったのかもしれない。あの子が幸せな生活を送っていることを。
悔しいのか、寂しいのか、自分でもよく分かんない。ただ、喉の奥に、小石みたいなのがつっかえてた。
氷室さんの手が、ポケットから煙草の箱を取り出す。片手で器用に一本くわえて、ライターを―― かち、と。火がつく直前で、その手が止まった。
「……チッ」
小さく舌打ちして、くわえた煙草を、そのまま箱に戻す。
「……吸わないの?」
「あいつに言われてんだよ。『家族の前では、絶対に吸わないでくださいね』ってな。……雇い主の言いつけは、守らねぇと」
ぶっきらぼうな言い方。でも、その横顔は、どこか可笑しそうだった。
「……氷室さん、意外と律儀なんだね」
「雇い主が怖ぇんだよ。あいつ、怒るとにこにこしたまま、えげつねぇこと言うからな」
「あー……分かる、それ」
ほんとに分かる。冷蔵庫のプリン、勝手に食べちゃったとき。にこにこしながら「姉さん、明日のおやつ、ないからね」って。あれ、ほんとに次の日なかったんだから。
思い出したら、ふふっと笑いがこぼれた。笑ったら、つっかえてた小石が、ほんのちょっとだけ軽くなった気がした。
「……あいつ、あんたの話するときだけ、いい顔すんだよ」
氷室さんが、ぼそっと言った。
「姉さんが、姉さんが、ってな。耳にタコができるくらい聞かされた」
――あ。 だめだ、これ。 せっかく軽くなったのに、また喉が詰まる。今度は小石どころじゃない。鼻の奥がつんとして、視界の端がじわっと滲んだ。慌てて、海のほうに顔を向ける。
サングラスしててよかった。ほんとに。
真珠くんそんな顔、してたんだ。私の知らない場所で。私の話をするときだけ。
もう。そういうの、本人の前では、絶対しないくせに。
「……ねぇ、氷室さん」
声が揺れないように、一回、深く息を吸ってから言った。
「あ?」
「真珠くんって、氷室さんのお店にも、行ったりするの?」
「たまにな」
氷室さんは、少しだけ遠くを見るような目をした。
「夜中に、ふらっと来るんだよ。注文は昔っから、コーラ一杯だけだ。『今度は酒を飲みに来い』っつったのに、成人しても変わりゃしねぇ。で、カウンターの端で、何にも言わずに座ってる」
「……何にも?」
「ああ。一時間でも、二時間でもな。で、氷が全部溶けた頃に、『ごちそうさまでした』って、きっちり金置いて帰っていく」
氷が溶けて、泡も抜けて、だんだん薄くなっていくコーラ。それを、カウンターの端っこで、ただ見つめてるあの子。 ……どんな顔して、見てたんだろ。
「……そういう夜の次の日は、だいたい、どっかの誰かが、表舞台から消えてる」
「え……」
日差しの中にいるのに、背中がひやっとした。
「勘違いすんなよ。あいつは、誰も傷つけちゃいねぇ。ただ――知られちゃまずいもんを、知られるべき場所に、置いてくるだけだ」
(それって……)
聞き返そうとして、やめた。たぶん、聞いても教えてくれない。それに――聞くのが、ちょっとだけ怖かった。
「……あいつが一番最初に俺んとこに持ち込んだ仕事、何だったと思う?」
「……分かんない」
「携帯一台だ。こいつの持ち主が誰と電話してたか、洗ってくれ、とさ。中坊が、真顔でな」
「携帯……?」
「誰のかは言えねぇ。その先に、何がいたかもな」
氷室さんは、そこで言葉を切って、ちらっと私を見た。 その目が、ほんの一瞬だけ、何かを確かめるみたいに細められた気がした。
……どうして、今、私を見るの?
その先に、何がいたか。速水、って名前が、頭の中でぼうっと浮かんだ。昨日、真珠くんの口から初めて聞いた名前。私たちのことを、テレビにばらまいた人。
……その人に、私たちのことを教えたのは、きっと。
まぶたの裏で、ちかっと金色が光った。アクアとルビーにそっくりな、あの人の髪の色。
まさか。……まさか、ね。 だって、それじゃあ。あの子は、中学生の頃から、ずっと――。
「――なぁ」
氷室さんが、海のほうを見たまま言った。
「俺は、あいつがやってきたことを、少しだけ見てきた。表じゃ言えねぇようなことも、な」
「……」
「ガキの頃から、ずっとだ。誰かのために頭下げて、誰かのために殴って、誰かのために殴られて。……自分のために何かしてるとこなんざ、一回も見たことがねぇ。」
そこでようやく、氷室さんが私を見た。
「あんた、さっきからひでぇ顔してんな」
「……」
「あいつが、あんたにそういう顔させたくて、あんなことやってると思うか?」
息が、詰まった。
「――違ぇだろ」
低い声だった。叱るんじゃなくて、手のかかる妹に言い聞かせるみたいな。
「……分かってる」
やっと絞り出した声が、波にさらわれそうになる。
「分かってるよ。真珠くんが、そんなこと考える子じゃないって。……でも」
「でも、何だ」
「でも、私が許せないの。私のことが」
言ってから、自分でびっくりした。こんなこと、ミヤコさんにも、ルビーにも、言ったことなかったのに。ほとんど話したこともない人の前で、こんなにあっさり。
氷室さんは、何も言わなかった。少しだけ眉を寄せて、私を見てた。困ったような、でも、突き放さない目で。 それ以上、言葉が出てこなかった。
「……ごめんね、氷室さん」
私はまた、逃げるみたいに歩き出した。
背中で、氷室さんが小さく溜息を吐くのが聞こえた。それでも足音は、少し離れたまま、ずっとついてきてくれてた。ざく、ざく、と。置いていかないでくれる音だった。
どれくらい歩いたんだろ。
足の裏が、熱い砂で少しひりひりしてる。
波打ち際に、誰かが立ってた。私を待ってたみたいに、こっちを向いて。
「……ミヤコさん」
「やっと見つけた。人が寝てる間に、どっか行っちゃうんだもの」
少し怒ったみたいに、でも困ったみたいに、ミヤコさんは笑った。いつの間にか、後ろの足音は聞こえなくなってた。振り返ると、ずっと向こうで、三角巾の人影が岩に腰を下ろすのが見えた。
……気を遣ってくれたのかな。
「……ミヤコさん、寝てなくていいの?」
「すこしだけって言ったのに、一時間も寝ちゃったわよ。目が覚めたら、真珠が私のスマホ握りしめて、真面目な顔で電話してるんだもの」
「……出るだけって言ってたのに」
「『決めることは全部母さんに聞くから』って、メモまで取ってたわ。ほんと、変なところで律儀なんだから」
呆れたみたいな声。でも、その目は、とろけそうなくらい優しかった。
「座りましょうか」
ミヤコさんは、波の届かないところに腰を下ろした。私も、その隣に座る。乾いた砂が、太ももの裏にじんわり熱い。
「……ひどい顔ね」
「……さっき、氷室さんにも言われた」
「でしょうね」
ミヤコさんは、ふっと笑って――それから、静かに言った。
「分かるわよ、その顔。……昨日の私も、同じ顔してたもの」
「ミヤコさんも?」
「ええ。あの子がまだ中学生だった頃にね、顔中に手当ての跡をつけて帰ってきたことがあるの。『階段で転んじゃってさ』って。……その手に、いくつもの会社の契約書を持って」
ミヤコさんの指が、砂の上に小さな円を描く。
「私、疑いもしないで、泣きながら『ありがとう』って抱きしめたの。それが、あの子の血と引き換えだったなんて、知らないで。……母親なのに、守られてばっかり。アイが今思ってること、たぶん、全部分かるわ」
自分を責めるその声は、私のと、おんなじ形をしてた。
「……ねぇ、アイ。昨日、通路で、あの子が何て言ったか覚えてる?」
覚えてる。
忘れられるわけ、ない。
壁に背中を預けて、床に座り込んで。口のはしっこに、赤いのがついたまま。小さい頃から、何かを誤魔化すときに必ず浮かべる、あの困ったみたいな顔で笑って。
――ちゃんと、勝ってきたよ。
――ただいま、母さん。
「……『ただいま』って」
「そう。……私ね、あのとき、『おかえり』って言ってあげられなかったの」
ミヤコさんの声が、少しだけ掠れた。
「試合の前に、『無事に帰ってきなさい』って言ったのよ。あの子、『約束できないなぁ』なんて笑って。……ほんとに、半分しか守らないんだもの。帰ってはきたけど、無事じゃなかった。怒りたいのと、泣きたいのと、怖いのとで、頭がいっぱいになって。……一番最初に言わなきゃいけない言葉、言いそびれちゃった」
私も、だ。 私も、言えなかった。あの子の笑い方が嘘だってことだけは、すぐに分かったのに。分かったくせに、
「どうして、こんなことしてるの」って、責めるみたいな言葉しか出てこなかった。
「でもね、アイ。あの子の話を聞いて、思い出したことがあるの」
ミヤコさんは、海の向こうを見た。
「あの子が、分厚い封筒を私のところに持ってきたのは、トーナメントが決まるちょっと前。……中を見たら、根回しなんて、もう全部終わってたわ。記者も、テレビ局の人も。いつの間にこんな人脈作ったのよって、我が息子ながら怖くなったくらい」
「……」
「社長としてこの件はあなたに任せます、なんて格好つけてね。悔しいから、ほっぺた、こねくり回してやったけど」
ふふ、と小さく笑って、ミヤコさんは続けた。
「でも、あれは何年もかけて作ったものよ。きっと考え始めたのは、もっとずっと前。……家族みんなで写真を撮った日、覚えてる? 二人が、ランドセル背負った日」
覚えてる。忘れるわけない。
社長が、どこからか三脚なんか持ち出してきて。タイマーをセットして、慌てて駆け寄ってきて。私の隣に真珠くん、前にアクアとルビー、後ろにミヤコさん。みんなでぎゅうぎゅうにくっついて撮った、あの一枚。
あの日、私、あの子に言ったんだ。いつか、ちゃんと母親だって言えるようになりたいって。
……でも、それは欲張りすぎかもしれないね、って。 そしたらあの子、何て言ったっけ。
――欲張りは悪いことじゃないんじゃないかな。
――姉さんが、ちゃんと家族だって言える世界を、僕も求めるよ。
「あの日から、あの子はずっと準備してたんだと思う。誰に頼まれたわけでもないのに。誰にも言わないで」
「……なんで、言ってくれなかったんだろ」
「言ったら、アイは止めたでしょう?」
「……止めた」
即答だった。止めるに決まってる。あの子が傷つくくらいなら、私なんか、ずっと隠し事のままでよかった。一生、嘘つきのままでよかった。
「あの子も、それを分かってたのよ。……だから、言わなかった」
ミヤコさんが、小さく息を吐いた。
「ほんと、誰に似たのかしらね。大事なことほど、一人で抱え込むところ」
「……ミヤコさんじゃない?」
「……アイにも似てるわよ」
一拍おいて、二人して、ふき出した。笑ったのに、目の奥がじんと熱かった。
「……誰の、ために」
聞かなくても分かってたのに、聞いてしまった。 ミヤコさんは、まっすぐ私を見た。
「あなたよ、アイ。それから、アクアとルビー」
――ああ。
「あの子が幸せにしたかったのは、いつだって、あなたたち。……自分のことなんて、最初から勘定に入ってないの」
ミヤコさんの声が、少しだけ震えた。
「授業参観も、運動会も、卒業式も。アイが『ママ』として、あの子たちの隣に立てる日。……あの子にとっては、遠い遠い、夢みたいな未来だったはずよ。それを現実にするためだけに、何年もかけてきたんだと思う」
ミヤコさんの手が、砂をぎゅっと握った。
「手が届くところまで、引っ張ってきたの。たった一人で。……あと少しのところで、横からひっくり返されちゃったけどね」
波が、寄せて、返す。 授業参観。教室の後ろに並んで、ルビーが振り返って、こっそり手を振ってくるの。運動会。帽子もサングラスもなしで、アクアの名前を思いっきり呼ぶの。卒業式。二人の名前が呼ばれるのを、保護者席で、ハンカチ握りしめて聞くの。 ずっと、テレビの中の話だと思ってた。私には、関係ない世界だって。
それを、あの子は、ずっと。
「……ずるいよ、真珠くん」
声が、震えた。
「そんなの、私、何にも返せない……」
「返さなくていいのよ」
ミヤコさんが、私の手を握った。砂でざらざらしてて、それでも、あったかい手だった。
「あの子は、見返りなんて欲しがってない。……だからね、アイ。私たちにできることは、一つだけ」
「……一つ?」
「あの子の、帰る場所でいること」
握られた手に、きゅっと力がこもる。
「どれだけ傷ついて帰ってきても。どれだけ疲れて帰ってきても。いつでも、何も言わずに休めるように。責めるんじゃなくて、謝るんじゃなくて。……次にあの子が『ただいま』って言ったら、今度こそ、一番に『おかえり』って迎えてあげられる場所でいるの」
おかえり。
たった四文字。昨日、私たちの誰も、言えなかった言葉。
「……うん」
ぽろっと、涙が落ちた。手の甲に落ちて、すぐに乾いていく。
「うん。……なる。あの子が帰ってこられる場所に、なる」
「約束よ」
「……約束」
差し出された小指に、私の小指を絡める。子どもみたいな約束。ルビーとアクアとだって、何回もした。でも、今まで交わしたどんな約束より、ずっと重かった。
――小指をほどいてからも、しばらく、波の音だけを聞いてた。
それから、ミヤコさんが、ふと思い出したみたいに言った。
「……ところで、アイ」
「うん?」
「あなた、あの子のこと――弟として好きなだけじゃ、ないでしょう」
心臓が、跳ねた。
「え、えっと……」
「誤魔化しても無駄よ。何年、あなたたちを見てきたと思ってるの。船の上で、柏木さんのことあんなに睨んでたくせに」
「に、睨んでないし!」
「睨んでたわよ。本人が気づいてないと思ってるの、アイだけよ」
じっと見つめられる。逃げ場がない。アイドルの笑顔なら、いくらでも作れるのに。いつの間にかこの人の前だと、一個も作れない。観念して、膝に顔を埋めた。
「……好き」
自分でもびっくりするくらい、小さな声しか出なかった。
「弟としても、家族としても。……男の子としても。全部、好き」
一回こぼれたら、もう止まらなかった。
「あの子が笑ってると、それだけで一日中しあわせで。あの子が怪我して帰ってくると、私のほうが痛くて。あの子が誰かと楽しそうに話してると、ちょっとだけ、もやもやして。……あの子の隣以外に、私が居たい場所なんて、もう、どこにもないの」
「……」
「あの子が私を必要としなくなっても、たぶん私、ずっとあの子のこと見てると思う。それくらい、好き。……ううん、それくらいじゃ、全然足りないかも」
顔を上げると、ミヤコさんが、ものすごく複雑な顔で苦笑してた。
「……重いわね」
「ひどい!」
「褒めてるのよ、一応」
そう言って、ミヤコさんは笑った。
「……いつから?」
「え?」
「いつから、そういう『好き』だったの」
「……」
すぐには、答えられなかった。
いつから、なんて考えたこともなかった。でも、目を閉じたら、甘い匂いがした。 あの夜の、ココアの匂い。
「……アクアとルビーが、攫われた夜」
ミヤコさんの肩が、小さく揺れた。
「私、奥の部屋で、ずっと泣いてたでしょ。私が幸せになろうとしたから、こうなったんだって。……そしたら真珠くんが、ココアを持ってきてくれたの」
何にも言わずにマグカップを置いて、隣に座って。自分のぶんを一口飲んで、ほっと息をついてた横顔。
「何にも聞かないで、ずっと隣にいてくれて。私が『全部私が悪いんだ』って言ったら、ぎゅって、抱きしめてくれたの」
声が、震えた。
「『言ったでしょ。これからどんな事があっても、僕はお姉ちゃんが大好きだよ』って。……久しぶりに、『お姉ちゃん』って呼ばれた」
「……」
「抱きしめ返したらね。背中が、思ってたよりずっと大きかったの。昔は、私の腕の中にすっぽり収まってた子だったのに。線は細いのに、ちゃんと鍛えてあって。……ああ、男の子なんだなって」
あのときの、熱くなった頬。うるさいくらいの心臓の音。
「でも、そのときは、まだ分かんなかった。家族だもん。弟だもん。好きなのは当たり前でしょって、思ってた」
「……」
「それから、あの子が二人を連れて帰ってきて。ミヤコさんに、いっぱい怒られてたでしょ」
「……ええ。怒ったわね」
「あの子、『めっちゃ怖かった』って言ってたよ」
「……当然よ」
「そのあと、膝枕してあげたの。初めてだったんだよ、膝枕。そしたら、すぐにすぅすぅ寝ちゃって」
傷だらけの顔。左目の、古い傷。
「寝顔を見てたらね。初めて会ったときは、あんなに小さかったのに。守ってあげなきゃって、ずっと思ってたのに。……いつの間にか、私のほうが守られてたんだなって」
ぎゅっと、膝を抱える。
「アクアとルビーに向ける『好き』にしては、熱すぎて。ミヤコさんや社長に向ける『好き』にしては、大きすぎて。ファンのみんなに向ける『好き』にしては……ずっと、消えてくれなくて」
一つずつ、指を折っていく。三本折ったところで、手が止まった。
「……どれでもなかったの。そこで、やっと分かった。ああ、これ、名前を知ってるやつだって」
――それから、眠ってるあの子に、そっと重ねた唇のこと。
それだけは、言わなかった。あれは、私だけの秘密。いつか、あの子のほうからしてもらえる日まで。
……あの夜、寝てるあの子に、約束もしたんだ。隣に立てるように、頑張るからね、って。 なのに私、さっきまで、その隣から消えようとしてた。
ミヤコさんは、しばらく何も言わなかった。 ただ、あの夜を思い出すみたいに遠い目をして――それから、そっと私の背中に手を置いた。
「……そう。あの夜、なのね」
「……うん」
「あの夜は、私にとっても、忘れられない夜よ」
ミヤコさんが、少しだけ苦く笑った。
「目が覚めたら、あの子はいなくて。飲みかけのココアの横に、『ごめんなさい。行ってきます』って書き置きだけ。……まさか母親が、息子にココアで眠らされるなんて思わないじゃない」
「……私も、飲んじゃった。半分だけ」
「知ってるわよ。二人揃って、ぐっすりだったもの」
私も、ミヤコさんも、笑うしかなかった。あの子の淹れるココアは、いつだって、困るくらい優しい味がする。
「……ミヤコさんは、反対しないの?」
「反対する理由がないもの。……心配は、するけどね。主に、あの子の胃袋とか、睡眠時間とか」「ひどい……」
でも、その言い方があんまりにもいつも通りで。ずっと膝を抱えてた腕から、少しだけ、力が抜けた。
ミヤコさんはくすくす笑って、それから、私の頭をぽんと撫でた。
「アイになら、任せられるわ。あの子のこと、誰より分かってるもの」
「ミヤコさん……」
「でもね」
ミヤコさんの声が、少しだけ真剣になる。
「あの子が誰を選ぶかは、あの子自身が決めることよ。私が決めることでも、アイが決めることでもない」
昔からの真珠くんの親友である片寄ゆら。撮影現場で何回か一緒になった、有馬ちゃんの顔も。……それに、たぶん、私の知らない誰かの顔も。あっちこっちで女の子ひっかけちゃってさ、なんて、船でお酒飲んで絡んだっけ。
ちくっと、どこかが痛んだ。さっき言った「もやもや」の、正体。
「だから――」
ミヤコさんは、にっと笑った。社長の顔でも、母親の顔でもない、ちょっといたずらっぽい顔。
「選んでもらえるように、頑張りなさい。……嘘じゃない、ほんとうのあなたでね」
ほんとうの、私で。 ずっと嘘で包んできたところに、その言葉だけが、するりと入ってきた。 嘘は、とびきりの愛なんだって思ってた。そうやって、ステージの上から、たくさんの人に「愛してる」を届けてきた。
でも、あの子にだけは。あの子にだけは、嘘じゃないのを、届けたい。
……欲張りかな。
ううん。欲張りは悪いことじゃないって言ったの、あの子のほうだもんね。ミヤコさんと並んで砂浜を戻ると、パラソルの近くに、ちょっとした人だかりができてた。
いつの間にか先回りしてた氷室さん。岩場から下りてきた金田さん。医学書を小脇に抱えた英先生。アクア。迦楼羅ちゃん。 その真ん中に、真珠くんがいた。まだ濡れた前髪を、おでこに張りつけたまま。
迦楼羅ちゃんと、目が合った。何にも言わないで、にかっと笑ってくれた。
……ごめんね。それから、ありがと。
「――で、勝ち目はあんのか」
氷室さんが、無事なほうの手で真珠くんを指さした。
「相手はガオラン・ウォンサワット。ムエタイの頂点に立って、ボクシングでもヘヴィー級の四団体を獲った男だぞ」
「打撃だけで言えば、間違いなくこのトーナメントの頂点です」
金田さんが、静かに続けた。
「僕は、ほとんど何もさせてもらえませんでした。読んで、読んで、読み切ったと思った次の瞬間には、もう拳が目の前にあった。……あれは、速さだけで、読み合いそのものを踏み潰してくる拳です」
「拳速、重さ、精度。どれをとっても、人体の限界に限りなく近い」
英先生が、なぜかちょっと嬉しそうに付け加える。
「打撃というたった一つを、極限まで研ぎ澄ませた存在。……言うなれば、究極の一だね」
「……究極の、一」
迦楼羅ちゃんが、ごくりと唾を飲んだ。
「……先生、なんでちょっと嬉しそうなんですか」
金田さんが、じとっとした目で英先生を見る。
「だって、究極の一と、常識外れの凡人だよ? 医者として、これほど興味深い組み合わせはないじゃないか。試合のあと、二人揃って私の診察台に並んでくれたら――」
「先生」
「冗談だよ、冗談」
英先生が、ひょいと肩をすくめる。……ほんとに冗談なのかな、あれ。目、ちょっと本気だったよ。
パラソルの手前で、私は足を止めていた。
拳
楽しそうに交わされる言葉の一つひとつが、明日、あの子の身体に向かって飛んでくる。そう思ったら、さっきまで熱かった指先から、すうっと温度が抜けていった。
隣のミヤコさんが、黙って私の手を握ってくれた。小指のところだけ、少し強く。
「先に言っとくぞ。昨日みてぇに、腕を餌にすんのはナシだ」
「やりませんよ。ガオランさんにも釘を刺されましたし。……そもそも、やれる相手じゃないです」
真珠くんが、テーピングを巻いた左手首を、困ったみたいにひらひらさせる。
……餌。腕を、餌に。 聞かなかったことにしたかった。でも、もう聞いちゃった。昨日のあの数秒の中で、あの子が何を差し出してたのか。
「兄さん」
アクアが、まっすぐ真珠くんを見た。
「正直に言ってくれ。勝てるのか」
みんなの視線が、真珠くんに集まる。誰も、何も言わなかった。 真珠くんは、少しだけ考えるみたいに首を傾げて――いつもの、困ったような顔で笑った。
「正直、あんまりないかな」
ミヤコさんと繋いだ手に、思わず、ぎゅっと力が入った。
(……ない? 今、ないって言った?)
「おい」
「……正直に言えって言ったのは、俺だけどさ」
アクアが、額を押さえた。……そうだよね。昨日、もう一人で抱え込まないって約束したんだもんね。だからって、そこまで正直に言わなくてもいいのに。
「でも、三つだけ」
指を、三本立てる。
「勝てる見込みがあるとしたら、三つだけある。……あとは、頑張るしかないね」
その声は、びっくりするくらい、いつも通りだった。 まるで、夕ご飯の献立でも決めるみたいな。「今日はカレーと、お味噌汁と、あと一品どうしよっか」くらいの。 ……なんで、そんな声で言えるの。
「三つ……」
金田さんが、信じられないみたいに呟いた。
「僕には、一つも見えなかった。あの拳の前で、勝ち筋なんて」
「金田さんが見せてくれたからですよ」
真珠くんが、さらっと言う。
「金田さんの試合がなかったら、たぶん、一つも見つけられませんでした」
金田さんの目が、大きく見開かれた。それから、ぐっと唇を噛んで、小さく頭を下げる。
……ほら、また。自分のことより先に、誰かのことを持ち上げてる。
「三つもあるなら、上等じゃないか」
英先生が、ぱんと手を打つ。
真珠くんは、立てていた三本の指を、ゆっくりと握り込んだ。
「上等かどうかは、分かりませんけど」
拳になった右手を、胸の前で軽く持ち上げる。
「――勝ちますよ」
静かな声だった。大きくも、強くもない。なのに、波の音が、一瞬だけ遠のいた気がした。
困ったみたいな顔じゃなかった。何かを誤魔化すときの、あの笑顔でもなかった。嘘を見抜くのだけは得意な私が、どこを探しても、嘘のかけらひとつ見つけられなかった。
金田さんが、すっと背筋を伸ばす。氷室さんは、ふん、と鼻を鳴らして、口の端だけで笑った。迦楼羅ちゃんは、膝の上で小さな拳をぎゅっと握ってる。アクアは何も言わないで、ただ、真珠くんの横顔を見てた。
心臓が、どくん、と鳴った。
……ああ、もう。こんなときに、何考えてるの、私。 英先生だけが、満足そうに目を細めた。
「なに、死なない限りは、私がちゃんと治してあげるよ。」
「……英先生の治療費が高すぎるから遠慮しておきます」
ぷっと、迦楼羅ちゃんが吹き出した。氷室さんが額を押さえて、アクアが深々と溜息を吐く。つられて、私の口からも、変な息がもれた。笑ったのか、泣きそうになったのか、自分でもよく分からない。
冷たかった指先に、少しずつ、温度が戻ってくる。
……そっか。あの子の周りには、こんなにたくさん、あの子を本気で心配してくれる人がいるんだ。私の知らない場所でも、あの子は、ひとりぼっちじゃなかったんだ。
「それで三つって、何だよ」
「えーと、一つ目は――」
そこまで言って、真珠くんは、ぴたりと止まった。 それから、人差し指をそっと唇に当てて、ちょこんと首を傾げて、片目をぱちんとつぶる。
「――ないしょ」
……え。 ちょっと待って。それ、私のやつ。 指を当てる位置も、首の角度も、ウインクのタイミングも。カメラの前で、何百回も、何千回もやってきた、私の。……なんでそんなに完コピなの。
一拍、しんとした。
「うわー……」
迦楼羅ちゃんが、心の底から引いた顔をした。
「……だせぇ」
アクアが、こめかみを押さえたまま吐き捨てる。
「うぜぇ」
氷室さんに至っては、もう真珠くんのほうを見てもいなかった。金田さんは、気まずそうにそっと目を逸らしてる。 四方八方から飛んでくる非難の中で、真珠くんは、お腹を抱えて笑ってた。
「辛辣ぅー」
言葉とは裏腹に本当に楽しそうに。そんな姿を見てみんなの表情も緩んでいく。 ……もう。 気づいたら、私も声を出して笑ってた。だって、ほんとに、似すぎてるんだもん。……私のほうが、絶対かわいいけど。
笑いすぎて目尻を拭ってた真珠くんが、私の笑い声に、ふと顔を上げた。 私とミヤコさんに気づいて、ぱっと顔を明るくする。
「あ。姉さん、母さん。おかえり」
――おかえり。
その一言が、まだ小指に残ってる温度に、そっと重なった。 昨日、私たちは、あの子の「ただいま」に、何にも返せなかったのに。 あの子の帰る場所になろうって、ついさっき、約束したばっかりなのに。
ずるいよ。
先に「おかえり」をくれるのは、いつだって、この子のほうなんだもん。
「……ただいま、真珠くん」
笑って、そう返した。
今度の笑顔は、たぶん――ほんとうだった。
明日。 あの子が、あの扉の向こうから帰ってきたら。どんな顔で帰ってきても。
今度は、私が一番に言うんだ。
――おかえり、って。