夕日が、海を蜂蜜色に染めていた。
西の空はまだ燃えているのに、東の端からは、少しずつ藍色が滲みはじめていた。三つの中身は、結局誰にも話さなかった。英先生は「続きは夕食の席で」と笑って宿へ戻り、氷室さんと金田さんは岩場へ。ルビーたちは山下さんを引っぱって、もう一度売店に消えていった。
僕は一人、パラソルを畳んでいた。
「真珠くん」
振り返ると、姉さんが立っていた。帽子もサングラスも、もう外している。夕日を受けた瞳が、星みたいに光っていた。
「ちょっと、付き合って」
返事をする前に、手首を掴まれた。テーピングのない、右のほう。……ちゃんと選んでくれたんだ。連れていかれたのは、波打ち際だった。
「さっき、おいでって言ったでしょ。だから来たの」
「……ちょっと遅くない?」
「うるさいなぁ」
姉さんは、ふいっと顔を背けた。それから、いきなりしゃがんで、両手ですくった海水を僕の顔にぶちまけた。
「わっ」
「お返し。さっき、みんなに撃たれっぱなしだったでしょ」
「それ、姉さんにやられる理由にならないよね?」
「なりますー。お姉ちゃん特権ですー」
前髪から、塩辛い雫が落ちる。避けられた。でも、避けなかった。
視える色が、昼間と違っていた。
パラソルの下で見た、冷たく沈んだ色じゃない。もっと、あったかい。夕焼けに似ているけど、少し違う。甘くて、柔らかくて、どこか落ち着かない色。
夕焼けの真ん中に、針の先ほどの小さな光が、ひとつだけ灯っている。そんな色だった。……見たことのない色だ。
家族の色なら、全部知っている。ルビーのも、アクアのも、母さんのも。姉さんの色だって、ずっと隣で見てきた。なのに、この色だけは、名前が分からなかった。
「ねぇ、真珠くん」
「うん?」
「今日の私、なんか違わない?」
唐突だった。じっと見る。濡れた髪。少し赤い頬。
「……日焼け止め?」
姉さんの笑顔が、ぴしっと固まった。
「ちがう」
「えー、なんだろ?少し髪を巻いてるとか?」
「ちがう」
「……日焼けした?」
「真珠くんのばか」
ぷいっと、背中を向けられた。耳まで赤い。……怒らせた、のかな。どこで間違えたのか、まるで分からない。
背中を向けたまま、姉さんが小さく息を吐いた。
「……だよね。知ってた」
怒っている声じゃなかった。少しだけ、笑っていた。
「さっきの『ないしょ』」
「……あれは、その」
「下手くそ」
一刀両断だった。
「角度が甘いし、指の位置もずれてる。あとウインクが早い。ファンのみんなは、あそこで一回、息を止めて待ってるんだから」
「そんなに細かいの……?」
「当たり前でしょ」
くるり、と姉さんが振り向いた。一歩。もう一歩。近い。
鼻先が触れそうな距離に、姉さんの顔があった。潮の匂いに、甘い日焼け止めの匂いが混じる。姉さんの指が、僕の濡れた前髪を、そっと横に払った。
そのまま、人差し指を自分の唇に当てる。少しだけ、首を傾げて。
一拍。
息を止めて、待たされる。
――片目が、ゆっくり閉じた。
「ないしょ」
囁くような声だった。ステージの上の顔とは、違った。家でルビーとふざけているときとも、違う。
ステージの姉さんは、何万本ものライトを浴びて光る星だった。客席の全員に、等しく光を降らせる星。
目の前の姉さんは、違う。誰にも照らされていないのに、内側から、静かに光っている。
前から向けられていた顔よりもずっと大人の女の人の顔だ、と思った。
それなのに、目の奥だけが、何かを待っている子どもみたいに揺れていた。心臓が、どくん、と跳ねた。
……肋骨のせいだ。たぶん。三本も折れてたんだから、心臓だってびっくりする。そういうことにしておこう。
「――ね? 本家は、こうやるの」
姉さんは、ぱっと身体を離して笑った。でも、その笑顔は、すぐに少しだけしぼんだ。
「……それだけ?」
「え?」
「なんでもない」
どこか不満そうにしながら姉さんの指が、今度は僕の脇腹に触れた。さっきまでの甘い空気が、嘘みたいに消えていた。
「ここ。まだ痛いでしょ」
「ちょっとだけ」
「ほんとは?」
真っ直ぐに見上げてくる。嘘を見抜くのが、世界で一番うまい目。
「……ちょっと痛いかも?」
「ばか」
今度の「ばか」は、さっきより、ずっと優しかった。姉さんは、テーピングを巻いた左手首を、両手でそっと包んだ。細い指が、少し冷たい。
「無茶ばっかりして。お姉ちゃん、心臓がいくつあっても足りないんだから」
「……ごめん」
「謝らなくていいの。その代わり、痛いときは痛いって言って。お姉ちゃんにだけは」
返事の代わりに、小さく頷いた。それから二人で、しばらく波打ち際を歩いた。ルビーが小さかった頃の話。アクアが初めて台詞をもらった現場の話。母さんがこっそり買い込んでる高いアイスの話。どうでもいいことばっかりで、だから、いつまでも話していられた。
いつの間にか、太陽は水平線に半分沈んでいた。
「あ」
姉さんが、空を指さした。まだ明るさの残る西の空に、ぽつんと、ひとつだけ光があった。
「一番星」
「ほんとだ」
「なんか、ずるいよね。まだ夜になってないのに、一人だけ先に光っちゃって」
「一番星って、だいたい金星なんだって」
「きんせい?」
「うん。夕方、西の空に一番に出てくるから、宵の明星って呼ばれてる。……英語だと、ヴィーナス」
「ヴィーナスって、あの彫刻の? 腕がない女の人の」
「そう。ローマ神話の女神さま。愛と美の女神」
「……愛の」
姉さんが、ぴたりと足を止めた。
「じゃあ、あれ、愛の星なんだ」
「そういうことになるね」
姉さんは、しばらく黙って一番星を見上げていた。それから、ぽつりと言った。
「……私の名前と、おんなじだ」
「え?」
「アイ。愛。……ほら、星野アイ。星の、愛」
言われて、初めて気づいた。星野、アイ。
「……ほんとだ」
「でしょ。何万回も名前を呼ばれてきたのに、今、初めて気づいた」
姉さんは、くすっと笑った。それから、少しだけ真面目な顔になった。
「ねぇ、真珠くん。一番星にお願いごとすると、叶うって知ってる?」
「聞いたことはあるけど」
「じゃあ、真珠くんは何お願いする?」
願いごと。考えるまでもなかった。
「……家族が、ずっと家族のままでいられますように、かな」
姉さんは、何も言わなかった。やっぱり、という顔だった。
「……そうだよね。真珠くんのお願いって、いっつもそれ」
「だめ?」
「だめじゃないよ。すっごく、真珠くんらしい」
姉さんは、波打ち際に視線を落とした。
「でもね。そのお願いの中の真珠くんは、いつも、家族を守る側にしかいないの」
「……」
「知ってるよ。明日も、その次も、真珠くんは止まらない。みんながずっと家族でいられるように、また闘いに行っちゃう。……私が止めたって、止まってくれないもんね」
「……ごめん」
「謝らないで」
姉さんが、顔を上げた。
「そういうところも、全部、好きなんだから」
真っ直ぐな声だった。
好き。
小さい頃から、何度も聞いてきた言葉だ。抱きしめられるたびに。おやすみの前に。ただいま、と言うたびに。なのに、今の「好き」は、どこか響きが違った。違う気がするのに、何が違うのか、僕には分からなかった。
「だからね」
姉さんは、一番星に向かって、胸の前でそっと両手を組んだ。
「真珠くんの代わりに、私が、私のお願いをするね」目を閉じる。
「――真珠くんと、ずっと一緒にいられますように」声に出して、そう言った。星に向かってじゃない。隣にいる僕に、聞かせるみたいに。
「……それ、声に出したら叶わないんじゃなかったっけ」
「いいの。お星さまに頼むだけじゃなくて、真珠くんにも、ちゃんと聞いてほしかったから」
目を開けた姉さんが、こっちを向いた。頬は、夕焼けよりも赤かった。それでも、目を逸らさなかった。
「真珠くんが、どこに闘いに行っても。どんなに傷だらけで帰ってきても。私は、隣にいたい」
それはまるで刻が止まったかのようにーーー
「君と、ずっと一緒にいたいの」
姉さんの肩越しに、一番星が光っていた。空でいちばん最初に灯る、愛の名前の星。
でも、僕は、そっちを見ていなかった。見られなかった。星よりずっと眩しいものが、目の前で、僕だけを見ていたから。胸の奥で、名前の分からない何かが、ちかちかと瞬いた。
「……うん」
それしか、言えなかった。姉さんは、ほっとしたように笑った。
「よし。……言えた」
小さな声でそう呟いて、照れくさそうに、濡れた前髪をいじる。それから、わざとらしいくらい明るい声で、くるっと話を変えた。
「そういえばあの勝てる方法の三つ、私にもないしょ?」
「……ないしょ」
「むぅ」
頬を膨らませる。どう見ても、二人の子どもがいるお母さんの顔じゃなかった。
「じゃあ、代わりに教えて。明日、勝って帰ってきたら、ご褒美、何がいい?」
ご褒美。考えたこともなかった。僕が黙っていると、姉さんは指を折りながら、勝手に候補を並べ始めた。
「高い焼肉? 温泉旅行? あ、新しいゲームとか? ルビーとアクアと一緒にやってるやつの続編、もうすぐ出るんでしょ」
「よく知ってるね」
「お姉ちゃんだもん」
少し考えて、僕は答えた。
「……姉さんのご飯が食べたい」
「え」
「姉さんが作ったご飯。なんでもいいから」
姉さんの目が、まんまるになった。
「……焦げるよ?」
「知ってる」
「味、薄いか濃いかのどっちかだよ?」
「それも知ってる」
「卵焼き、絶対ぐちゃぐちゃになるよ?」
「スクランブルエッグだと思って食べるよ」ぷっ、と姉さんが吹き出した。笑いながら、少しだけ泣きそうな顔をした。
「……ほんと、欲がないなぁ」
「あるよ。すごく贅沢なお願いだと思うけど」
姉さんが台所に立って、焦がしたフライパンの前で慌てて、それでも「はい、どうぞ」って皿を出してくれる。それを、家族みんなで囲む。
それ以上に欲しいものなんて、思いつかない。……思いつかない、はずなのに。
ときどき、分からなくなる。その食卓に座っているとき、胸の奥にある温かいものは、何なんだろう。幸せ、と呼ぶのだと、言葉では知っている。でも、本当にそうなのか、確かめ方が分からない。
小さい頃、帰る場所はどこにもなかった。だからいい子でいた。そしたらママが迎えに来てくれるんじゃないかって。父さんや母さん、そして姉さんたちのいる家が、気がつけば息をしていい場所だった。だから僕は、それを守ることだけを覚えた。
守り方なら、分かる。でも、たまにその中にいる自分が何を感じているのかは、今でも、うまく分からない。
姉さんは、しばらく何も言わなかった。それから、こつん、と。僕の肩に、頭を預けてきた。
「……ちょっとだけ、こうしてていい?」
「……うん」
濡れた髪から、潮の匂いがした。沈んでいく太陽が、最後の光で、二人ぶんの影を砂浜に長く伸ばしていた。
「ねぇ、真珠くん」
「うん」
「今、どきどきしてる?」
「……肋骨が」
「肋骨はどきどきしません」
肩の上で、姉さんがくすくす笑った。その振動が、直接伝わってくる。
「……ばかだなぁ、ほんとに」
呆れたような、でも、どこか嬉しそうな声だった。
「明日」
姉さんの声が、すぐ近くで響いた。
「ちゃんと、帰ってきてね」
「うん」
「怪我、してもいいから。……ううん、よくないけど。でも、帰ってきて」
「帰るよ」
姉さんは顔を上げて、僕の目をじっと覗き込んだ。嘘を探すみたいに。それから、小指を差し出した。
「約束」
「……うん。約束」
小指を絡める。細くて、少し冷たい指だった。
「今日はね、いっぱい約束する日なの」
「いっぱい?」
「ないしょ」
今度のは、さっきよりずっと下手くそな「ないしょ」だった。ウインクもしないで、くしゃっと笑っただけの。
なのに、さっきのより、ずっと心臓に悪かった。小指をほどくとき、姉さんが小さく呟いた。
「……いいよ。ゆっくりで」
「え?」
「なんでもなーい」
姉さんは、波を蹴って先に歩き出した。空の上で、一番星が、さっきよりずっと強く光っていた。沈みきらない夕焼けの中で、誰よりも先に。誰に照らされるでもなく、自分の光だけで。波打ち際を歩いていく姉さんの背中にも、同じ光が灯っていた。
視える色は、やっぱり、名前の分からない色のままだった。
ただ――今まで見てきたどんな姉さんより、綺麗だと思った。