岩場から、波打ち際が見える。
西の空に残っていた夕焼けが、少しずつ色を失っていく。東の海の向こうから、宵闇が音もなく這い上がってきていた。
背中のほうから、夜が来る。胸の奥にも、同じ色が滲んでいる気がした。兄さんとアイが、並んで歩いていた。アイが兄さんの肩に頭を乗せて、兄さんは固まったまま、それでも逃げない。
「……何やってんだ、あの二人」
呆れたつもりの声は、思ったより柔らかかった。隣の岩で、氷室さんが鼻を鳴らした。少し離れたところでは、金田さんが置物みたいに浜を見張っている。
あんな顔のアイ、初めて見た。
ステージの上の笑顔でもない。俺たちに向ける、母親の顔でもない。……それを引き出したのも、やっぱり兄さんだ。
ヒーロー。英雄。勇者。
雨宮五郎のときには架空の存在だった。しかしきっと星野アクアにとって斉藤真珠がまさにそれだった。
口に出したことは一度もない。たぶん、これからも言わない。
――攫われたあの夜。ルビーと引き離されて、一人きりになった冷たい部屋で、俺は目と耳を塞いでいた。扉の向こうで、何かが倒れる音。叫び声。死ぬかもしれない、と本気で思った。
肩に触れた手が、ひどく冷たかった。反射的に払いのけて――そこで、見えた。泣きそうな顔をした、兄さんだった。
あの冷たい手が、扉の向こうで何をしてきたのか。そのときの俺は、考えもしなかった。怖かった。それよりずっと、安心した。泣きたくなるくらいに。
……その安心が、今でも許せない。
(安心してんじゃねぇよ)
頭の奥で、もう一人の俺が叫ぶ。
(お前は大人だろう。医者だろう。あの子は、まだ子どもだったんだぞ)
雨宮吾郎。前世の俺。
あの男の声が、ずっと消えない。守られるたびに。兄さんの背中を見上げるたびに。
――助けなきゃいけないのは、俺のほうだったのに。
ポケットの中で、スマホが重い。開かなくても、中身は全部覚えている。東洋電力。速水勝正。役員の名前。揉み消された不祥事。昨日の朝から、ろくに眠らずに積み上げてきた。一番上には、名前のない一行。
――あの男。アイが電話の向こうに「次に私の前に立つ時は、覚悟してね」と告げた相手。俺とルビーに、この金色の髪を残した男。前は、こいつを探して、しくじった。今度は、しくじらない。今度こそ、俺が――
「おい。スマホ、握り潰しそうになってんぞ」
氷室さんの声で、我に返った。指の関節が、白くなっていた。
「……すみません」
「謝ることじゃねぇよ」
しばらく、波の音だけが続いた。
「……氷室さん」
「あ?」
「人を殴るのって、慣れるもんですか」
氷室さんが、ちらっとこっちを見た。サングラスの奥の目は、見えない。
「慣れるさ」
あっさりした答えだった。
「最初の一発は、自分の拳のほうが痛ぇ。骨と骨がぶつかる鈍い音が、しばらく頭に残る。二発目で、相手の頬骨がどこにあるか拳が覚える。三発目あたりで、歯が折れる手応えが分かるようになる」
無事なほうの手で、煙草の箱を弄ぶ。
「で、そのうち、気持ちよくなっちまう。相手の目から光が抜けていく瞬間がな。下手な酒より、よっぽど効く」
背筋が、冷えた。
「――そうなったら、終わりだ。人間やめる一歩手前だよ」
俺は、自分の拳を見た。知ってる。その音も、手応えも、俺は知っている。
――消火器の白い粉が、狭い非常階段に舞っていた。割れた瓶の口が、誰かの腕を裂いた。踊り場を転がっていく奥歯。鉄錆みたいな血の匂い。床に沈んでいく男たちの、くぐもった呻き声。
子役で稼いだ金で、情報屋を雇った。あの男に辿り着くためなら、どんな店にも、どんな路地にも入った。それを、嗅ぎつけられた。「あの星野アクアが、こんなとこで何してんの」と、にやにや笑いながら。だから、黙らせた。
兄さんの背中を追いかけて、身体に叩き込んだものを、全部使った。一度も追いつけなかった背中。でも、逃げ方と、そこにあるものの使い方だけは、兄さんより上手かった。
十何人。全員、床に転がった。
肩で息をしながら見下ろしたとき――俺は、何も感じなかった。怖くもなかった。嬉しくもなかった。ただ、空っぽだった。そいつらの後ろに、龍珠組の名前が出てきたとき、初めて指先が冷たくなった。
終わった、と思った。
ルビーの顔が浮かんだ。アイの顔が浮かんだ。俺のせいで、みんな――
――アクア。路地の入り口に、兄さんが立っていた。息を切らして、汗だくで。それでも、いつもの困ったような顔で。
数日後、兄さんは俺を連れて、龍珠組の屋敷の門をくぐった。あとで知ったことだが、兄さんはあの夜から毎日、組長の一人娘だという人に、学校で頭を下げ続けていたらしい。ほとんど口をきいたこともない相手に。「お父さんに会わせてください」と。断られても、睨まれても、次の日にはまた。
「ノイローゼになるかと思った」
間に立ってくれたその人――龍珠桃さんは、あとで心底げっそりした顔で、俺にそうこぼした。畳の大広間。上座で、組長が肘掛けに頬杖をついていた。
「下っ端の、そのまた下っ端がやらかしたことだ。正直、俺はどうでもいい」
退屈そうな声だった。
「だがな、坊主。こっちにも面子ってもんがある。ガキに看板へ泥塗られて、はいそうですかってわけにはいかねぇんだわ」
襖の陰から、男たちが現れた。一人が、スーツの内側から黒く光るものを半分だけ覗かせる。別の一人が、腰の後ろに手を回す。鞘から刃が滑り出る、乾いた音。背中を、冷たい汗が伝った。兄さんは、動かなかった。畳に両手をついたまま、真っ直ぐに組長を見ていた。
「僕には、謝ることしかできません」
声が、少しも震えていなかった。組長が、面白そうに口の端を吊り上げた。
「謝るだけ、ねぇ。……聞けば、苺プロの社長んとこの坊主どもだそうじゃねぇか。ずいぶん景気がいいらしい。詫びってのは、形で示すもんだぜ。たとえば事務所のほうに、うちの若いのをちょいと顔出しさせるとか――」
軽口だったのか本気だったのかはわからない。たぶん、ほんの少しからかうだけの言葉。
だが、その瞬間。
部屋の空気が、変わった。息が、できない。肌が粟立つ、なんてものじゃなかった。見えない手に、喉の内側から握り潰されるみたいな。黒いものを握っていた男の指が、かたかたと震えだした。刃を抜きかけていた男が、一歩、後ずさる。上座の組長の顔から、笑みが消えていた。兄さんは、何もしていなかった。ただ、そこに座っているだけだった。
「――家族には、手を出させません」
静かな声だった。兄さんは立ち上がると、後ずさった男の手から、するりとナイフを取り上げた。あまりにも自然な動きで、誰も止められなかった。そして、畳の上に、自分の左腕を置いた。
「極道のけじめは、こうつけるんですよね」
刃が、振り上げられた。
「待て待て待てぇッ!」
組長が、上座から転がるように飛びついて、兄さんの手首を掴んだ。
「てめぇ、正気か!?」
「あ、すみません。腕じゃなくて小指でしたね。」
「そこじゃねぇよ!何普通に腕切り落とそうとしてだ!!」
「本気ですよ。今の僕にできるけじめはこれくらいしかないので。これで許してもらえませんか?」
兄さんは、困ったような顔で笑っていた。いつもの、あの顔で。――ああ、この人は、本当にやる。
俺のために。俺がしでかしたことのために。腕一本を、ためらいもなく。
その啖呵と覚悟に、組長のほうが折れた。手打ちは、その場で決まった。……その組長と、今では兄さんが酒を酌み交わす仲だと知ったときは、本気で頭を抱えた。
でも、あの日の俺は、笑えなかった。俺のせいで、俺のヒーローが、腕を差し出した。
それが、どんなことより痛かったし、そして怖かった。ぐちゃぐちゃになっていく感情。俺は何がしたかったんだ。屋敷の門を出た帰り道。俺は、兄さんの顔を見られなかった。
――次は、間違えない。そう吐き捨てて背を向けた俺の腕を、兄さんが掴んだ。
――アクア!
初めて聞く声だった。兄さんが、俺に、怒鳴った。驚いた。それと同時に、腹の底から、熱いものが噴き上がってきた。
怒りだった。
(なんで、あんたが怒るんだよ)
怒鳴られたからじゃない。子ども扱いされたからでもない。
瞼の裏に、さっきの光景が焼きついていた。畳の上に置かれた、兄さんの左腕。振り上げられた刃。いつもの、困ったような笑顔。
俺が勝手に動いて、勝手にしくじって。そのツケを、また兄さんが払おうとした。腕一本で。
(違うだろ。逆だろ)
俺が探していたのは、あの男だ。アイを傷つけて、俺たちの家族を壊そうとする、あの男。そいつを見つけて、俺の手で全部終わらせれば、兄さんはもう闘わなくて済む。
誰かのために頭を下げなくて済む。血を吐かなくて済む。そのつもりだった。
兄さんが背負ってるものを、一個でいいから、俺が引き受けたかった。
俺は――
なのに、結果はこれだ。守るどころか、兄さんに腕を差し出させた。頭の奥で、吾郎が嗤う。
(ほら見ろ。また子どもに守られた。大人のくせに)
悔しかった。情けなかった。何ひとつ届かない自分が、どうしようもなく許せなかった。守られてばかりの側の気持ちなんて、守る側のあんたには分からない。
――そう、思ってしまった。
ぐちゃぐちゃに絡まったものが、出口を探して、喉までせり上がって。一番ぶつけちゃいけない相手に、向かった。――あんたに、何が分かるんだよ!
言った瞬間、しまった、と思った。なのに、止まらなかった。拳が出た。一発。二発。三発。兄さんの頬に、顎に、胸に。俺は弱くない。守られるだけの子どもじゃない。ずっと飲み込んできたものを、全部、拳に乗せて叩きつけた。
兄さんは、避けなかった。一度も、殴り返さなかった。血の滲んだ口元のまま、ただ、俺を見ていた。いつもと同じ、優しい目で。
――ああ、この人は。
絶対に、俺を殴らない。分かった瞬間、拳が震えて、止まった。
「……なんでだよ」
みっともない声だった。視界が、ぐしゃぐしゃに滲んでいた。
――アクアが強いのは、知ってるよ。
兄さんは、迷わなかった。
――でも、心配なんだ。ただ、それだけなんだよ。
それだけ。たった、それだけ。
俺がずっと抱えてきた理屈も、吾郎の叫び声も、その一言で、全部崩れ落ちた。
その夜、俺たちは二人ともボロボロになって、家に帰った。
半グレを殴った拳は、痛くないのに。兄さんを殴った拳は、ずっと、痛かった。……痛いままで、いいと思った。
「兄さんは」
気づいたら、口が動いていた。
「兄さんは、慣れてるんですか」
「さあな。本人に聞け」
素っ気ない返事。でも、すぐに付け足した。
「ただ、あいつは今でも、ひでぇ顔して店に来る夜がある。コーラ一杯、氷が溶けるまで黙って眺めて、帰り際にだけ、いつもの顔を作り直していきやがる」
……知らなかった。
「……仮に、だがな。あいつがまだ慣れてねぇんだとしたら――慣れねぇまま、それでもあの場所に立ってるってことだ。……俺から見りゃ、そっちのほうがよっぽど異常だよ」
異常。ヒーローと同じくらい、兄さんに似合う言葉だと思った。
「……もし、家族を壊そうとしてる奴がいたら。氷室さんなら、どうしますか」
「マスコミの件か?それとも東洋電力か?やめとけ、どっちもお前さんが思ってるよりも根が深けぇ」
「……」
「ただ、まぁ」
氷室さんは少し溜めて、何かを悩みながらも告げた。
「行って、二度と立てねぇようにする。昔の俺なら、迷わずそうした」
やっぱり、と思った。それが正しいんだ。兄さんのやり方は、優しすぎる。
「で、お前はどうしたいんだ」
心臓を、掴まれた気がした。氷室さんが、サングラスを外していた。
「その目、知ってるぜ。昔、鏡の中でよく見た。……龍珠んとこに首突っ込んだのも、その目だろ」
「……知ってたんですか」
「ちっとだけな」
氷室さんは、喉の奥で笑った。
「あいつ、お前に殴られた日の夜、店に来たんだよ。顔、腫らしたまんまで」
「……」
「で、三時間だ。三時間、ずーっとその話。『アクアに初めて反抗された。反抗期かなぁ』とか、『あの右、けっこう効いた』とか、『大きくなったなぁ』ってな。……嬉しそうにずっと話すんだよ」
言葉が、出なかった。あの夜、俺は兄さんを殴った。何発も。それを、あの人は、嬉しそうに。喉の奥が、焼けるように熱くなった。泣くな。こんなところで、泣いてたまるか。
「俺はゴミ溜めで育ったからよ。兄弟喧嘩なんて上等なもん、したことがねぇ。殴り合うのなんざ生き延びるためだけだった」
氷室さんは、サングラスを掛け直した。
「だから、ちっとだけ羨ましかったぜ。お前らが」波が、岩に砕けた。
「一つだけ言っとく。お前が手ぇ汚したら、あいつは自分のせいだと思うぞ。一生な」
知ってる。知ってる、そんなこと。
――心配なんだ。ただ、それだけなんだよ。
あの声が、耳の奥で鳴った。
(……俺は、どうしたい)
あの男を、許したいのか。――許したくない。
速水を、潰したいのか。――潰したい。
じゃあ、そのために、もう一度あの人に、あんな目をさせるのか。アクアの演技!やっぱり最高だよ!え?他の人のほうがうまい?わかってないなぁ、アクアの演技はね――僕に勇気をくれる演技なんだよ……。答えは、まだ出ない。でも、握りしめていた拳は、いつの間にかほどけていた。
「……ありがとうございました」
「礼を言われるようなことは言ってねぇ」
スマホを握り直す。今度は、潰さないように。メモは消さなかった。消せなかった。でも、名前のない一番上の一行だけは、そっとスクロールの下へ押しやった。
今は、まだいい。
この頭は、兄さんの背中を軽くするために使う。……少なくとも、今は。
「アクアー! 真珠お兄ちゃーん! ごはんだってー!」
波打ち際から、ルビーの声が飛んできた。兄さんとアイが、慌てて身体を離すのが見えた。……今さら離れても遅いだろ。
「行ってこい」
氷室さんが、顎をしゃくった。
岩場を下りながら、一度だけ振り返る。氷室さんは、煙草をくわえていた。火は、点いていなかった。
見上げた空から、夕焼けの名残は、もうすっかり消えていた。代わりに、一番星のまわりで、ひとつ、またひとつと星が灯っていく。闇が深くなるほど、星ははっきりと見える。
一番星の少し上に、橙色の光がひとつ、強く瞬いていた。ーーーーアークトゥルス。
宮崎の病院の屋上で、前世の俺が何度も見上げた星。熊の番人、という意味だ。空を巡る大熊の後ろを、ずっと見守り続ける星。
それだけじゃない。あの星は、ほかの星たちと同じ流れに乗っていない。銀河を巡る大きな流れからひとり外れて、斜めに突っ切っていく、はぐれ者の星。
遠い昔に呑み込まれた別の銀河の光を、今も引き連れて旅しているのだと、何かで読んだことがある。
番人で、はぐれ者で、数えきれない光を連れて歩く星。
――兄さんみたいだ、と思った。
任せるでも、頼るでもない。
……今は、信じる。
あの眩しすぎる星が、道を違えないように。