英先生の「記録」から解放されたのは、夜の九時を回った頃だった。
三冊用意されていたノートは、きっちり三冊とも埋まっていた。何が書いてあるのかは、知らないほうがいい気がする。
早坂さんから届いた資料は、宿の事務室のプリンターを借りて、封筒一つ分にまとめた。出かける前に、母さんの部屋の扉を叩いた。
「母さん。ちょっと、出てくる」
「こんな時間に?」
ベッドの端に腰かけていた母さんが、顔を上げた。耳から離したばかりのスマホを、まだ握りしめている。今日も一日、どこかに頭を下げ続けていたんだろう。母さんは、小さく息をついて、スマホを膝の上に伏せた。
「どこへ行くの」
「ラルマー殿下のところ。タイの王子様で、ガオランさん本当の雇い主?……行く理由だけど、明日の試合の前に家族を守るための、交渉をしておきたいんだ」
全部、そのまま話した。
昨日、もう一人で抱えないって約束したから。決めることは、ちゃんと母さんに聞くって。母さんは、しばらく黙って僕の顔を見ていた。それから、小さく息を吐いた。
「本当に良いお友だちに恵まれたわね」
「家族にもね。……みんなと出会えたことが僕の誇りだよ」
母さんは嬉しそうな笑みを浮かべ、見送りの言葉をくれる。
「……行ってらっしゃい」
「止めないの?」
「止めてほしいの?」
「……ううん」
「でしょうね」
母さんは立ち上がって、僕の頬を、両手でむにっと挟んだ。いつかと同じように。
「帰ってきたら、全部話しなさい。一個も隠さずに」
「ふぁい」
「よろしい」
手を離した母さんの目元が、ほんの少しだけ、赤かった。
……気づかないふりをした。
――月が、やけに明るい夜だった。宿舎の並ぶ一角を抜けて、島の東側へ。賓客用の離れが集まる高台へと続く坂道を、僕は一人で登っていた。
小脇に抱えた封筒が、紙の重さ以上に重い。
椰子の葉が、夜風にざらざらと鳴る。坂の中ほどで、足が止まった。
止めた、んじゃない。止まった。
道の先。ぽつんと立った街灯の下に、男が一人、こちらを向いて立っていた。まるで、僕がここを通ることを、最初から知っていたみたいに。
視える色に、息を呑んだ。黒い。昔から、黒い人だった。けれどその奥には、まだ一点だけ、澄んだ光が残っていたはずだった。
今は、違う。
どす黒く濁った色が、男の輪郭からじわじわと滲み出している。その黒の向こうで、いくつもの影が蠢いていた。顔のない影。手を伸ばし、口を開け、声にならない悲鳴を上げ続けている影。
――亡者だ、と思った。
この人が、これまでに裁いてきた人たちの。人を殺し続けた人間の行き着く先が、そこにあった。
「……阿古谷さん」
「待っていたよ、真珠少年」
阿古谷清秋。
警視庁の刑事。若桜生命の闘技者。そして――処刑人。
「明日は、互いに試合だな」
「……はい」
「その前に、君の顔を見ておきたかった」
昔、この人に憧れた。僕が刺されて、病院のベッドで目を覚ましたあと。犯人を追っていた刑事さんが、この人だった。車椅子で病院を抜け出した僕に「おじさん」と呼ばれて、「私はまだ二十代だ」と本気で困った顔をした人。
それからも、忙しい合間を縫って、何度も電話をくれた。体の具合はどうだ。困っていることはないか、と。アクアとルビーが攫われた夜。真っ先に頼ったのも、この人だった。
黙って車を出してくれて、知恵を貸してくれて。
――君が正義の心を失ったら、俺が止めよう。
そう言ってくれた、頼れる大人だった。
いつか、こんな大人になりたいと思っていた。その同じ人が、僕が「捕まえてほしい」と頼んだ人たちを、一人残らず殺した。
父さんの首に、手をかけた。
そして僕は、この人の前で、手も足も出ずに膝をついた。
怒りも、悲しみも、全部ある。
それでも――目の前のこの人を、嫌いになりきれない自分がいた。
◇
真珠少年。少年というには、大きくなったか。
街灯の下に立つ青年を見つめながら、阿古谷清秋は思う。
初めて会ったとき、少年は車椅子に座っていた。腹を刺され、生死の境をさまよい、目を覚ましたその足で病院を抜け出してきた。悪を前に拳を握った阿古谷のスーツの裾を、小さな手がくいくいと引いた。
――喧嘩しちゃ駄目だよ。
あの日、私は確かに救われた。守りたいと思った正義の結果が、目の前で笑っていたからだ。
あの頃の私は、まだ嘆くことができた。
なぜ、奪われる。なぜ、奪われなければならない。
罪のない者ばかりが血を流し、悪だけが笑って生き延びる。その理不尽を、私は嘆いた。嘆いて、嘆いて
――やがて、拳を握った。
殺した。殺して、殺して、殺した。
悪を一つ除くたびに、世界は少しだけ綺麗になるはずだった。けれど、除いても除いても、闇は尽きなかった。
気づけば、私自身がその闇の底に沈んでいた。手袋の下で、指が疼く。最初に感じていたのは、嘆きだったのか悲しみだったのか。
今、この胸の奥で鳴り止まないものは――何だ。渇きか。悦びか。……あるいは、救いを求める叫びか。
斉藤真珠は、濁らない。絶望の底に何度叩き落とされても、優しさを手放さない。悪を前にしてなお、その者のために悲しみ、慈しむことを忘れない。
尊く、儚く――それでいて、決して折れない。
純真無垢なる正義。どちらにも傾かない、天秤のような正義。この青年は、それをその身をもって経験し、体現し続けている。
阿古谷には、それを甘いという言葉で片付けることなど、できなかった。
――私が、とうに失ったものだ。
だからこそ、私は信じている。この手が、裁ききれぬほどの悪に染まり果てたとき。私という悪を最後に裁くのは
――この青年でなければならない。
それ以外に、私が救われる道はない。
◇
「強くなったな」
「……おかげさまで」
「あの夜、私は言った。あと二年、君が成長していたら、どうなっていたか分からなかった、と」
覚えている。肺が空気を拒んで、脚が子鹿みたいに震えて、立ち上がることすらできなかった、あの日のことは。
「二年どころではない時間が経った。あの滅堂の牙、加納アギトを屠った拳だ。今なら、私とも分からんだろう」
「やりませんからね?」
「知っている」
阿古谷さんの口の端が、わずかに上がった。
「――報道を、見た」
声の温度が、一段下がる。
「君の家族が、晒された。速水勝正。……そして、神木輝」
その名前を、阿古谷さんは汚れたものを吐き捨てるように口にした。
「あの男の髪の色を、私はよく覚えている。……君の弟と、よく似た色だ」
心臓が、跳ねた。この人は、とっくに何かを掴んでいる。隠しても、意味はない。
「……アクアとルビーの、父親です」
阿古谷さんは、表情ひとつ変えなかった。
「知っていたのだな」
「ええ。前に、調べたことがあって」
目を、伏せる。
「あの人が、どんな人なのか。……これから、どう関わればいいのか。多分…僕では決着はつけられない」
阿古谷さんは、何も言わなかった。
「あの時、僕が捕まえてほしいってお願いした人たちのこと。覚えてますか」
「……ああ」
「僕は、捕まえてほしいって言ったんです。裁いてほしいとは、言ってない」
「彼らは、悪だった」
「知ってます。でも、あの人たちがもういないって分かったとき、僕はちっとも、ほっとしなかった」
拳を、握る。
「悪いことをした人にも、帰りを待ってる人がいるかもしれない。家族が、友人が、恋人が………。だから僕は、誰も殺さない。殺さないまま、勝ち続ける。それが、僕の武です」
「殺さずに勝ち続けて、それで救えなかった命を、君は数えたことがあるか」
息が、詰まった。数えたことなら、ある。数えるまでもなく、忘れた日なんて一日もない。
「……二人です」
声が、掠れた。優香。それから、師匠――丸山龍。笑った顔も、最後に交わした言葉も、全部覚えている。
間に合わなかった。届かなかった。
あと一歩、あと一秒。何度考え直しても、答えは同じところに戻ってくる。自分が今、どんな顔をしているのか、分からなかった。
阿古谷さんが、わずかに目を見開いた。それから、ゆっくりと視線を落とした。
「……すまない」
低い声だった。
「酷なことを、聞いた」
短い沈黙のあと、阿古谷さんは顔を上げた。
「私は、数えきれなくなった」
「……」
「だから、裁く」
風が、止んだ。阿古谷さんの背後で、亡者たちの影が、ざわりと揺れた気がした。その黒の、もっと奥。何かが、視えた気がした。声にならない、叫び。
誰かに向かって、ずっと手を伸ばし続けているような。助けてくれ、と。
(……これは)
もっと奥を、視ようとした。その叫びの正体を、確かめようとした。途端に、足元が抜けた。
黒が、視界を塗り潰していく。冷たい。重い。底のない水に、頭まで沈んでいくみたいに
飲み込まれる。闇に、黒に塗りつぶされーーー
――――ちゃんと、帰ってきてね。
姉さんの声が、聞こえた気がした。はっと、息を吸う。街灯の光。椰子の葉の音。目の前には、阿古谷さんが立っている。……戻ってこられた。
「真珠少年。もう一度だけ、聞こう」
あの夜と、同じ声だった。走る車の中で、同じことを問われた。
「君にとって、正義とは何だ」
あのとき、僕は答えなかった。胸の中にはあったのに、言葉にできなかった。今なら、言える。
「そんなの、決まってますよ」
真っ直ぐに、阿古谷さんを見た。
「みんなが笑える世界を、目指すことです」
阿古谷さんは、何も言わなかった。視える色は、少しも変わらなかった。
「私の正義は、すべての悪を裁くことだ」
静かな声だった。
「速水も、神木も。この島に巣食う、すべての悪も。……例外はない」
宣言だった。
脅しでも、挑発でもない。この人がこの人であり続けるという、ただそれだけの。
「僕は、家族を護り続けます。誰からでも」
それから、もう一つだけ。
「……いつか、また」
言葉が、少しだけ震えた。
「いつか、また阿古谷さんと、並んで歩きたいです」
阿古谷さんは、答えなかった。それ以上、言葉は続かなかった。話は、終わった。
お互いに、そう分かった。
僕は坂を上り、阿古谷さんは坂を下りはじめる。すれ違う、その一瞬。
阿古谷さんの唇が、かすかに動いた。何かを、呟いた気がした。
けれどその声は、椰子の葉を鳴らす夜風にさらわれてしまった。
僕の耳には、届かなかった。
振り返らなかった。振り返ったら、あの人の後ろに蠢く影たちを、もう一度見てしまう気がした。坂の上で、離れの灯りが、ゆらゆらと揺れていた。
◇
坂を下りながら、阿古谷は、青年の最後の言葉を反芻していた。
――いつか、また阿古谷さんと、並んで歩きたいです。
(…もったいない言葉だ)
並んで、歩く。
想像してみる。陽の当たる道。
隣で、あの青年が困ったように笑っている。少し後ろには、彼が護り抜いた家族がいて、誰かが何かを話し、誰かが笑っている。
私の手はーーーきっと
本当に強くなったな。真珠少年。
その肉体も、そして何よりもその精神。こんな私をも護ろうと言うのか。
……温かい道だ。さぞ、温かい未来なのだろう。
その瞬間。背後で、何かが囁いた。
言葉にならない声。呪いとも嘆きともつかない、無数の声。
一つ一つが、私の名を呼んでいる。
疼く。
渇く。
この声を黙らせる方法を、私は一つしか知らない。
――だからこそ、阿古谷清秋は処刑人なのだ。
温かい道は、音もなく遠ざかっていった。坂の下に、小柄な人影が立っていた。
淡い水色の着物。肩の上で切り揃えられた黒髪。腕時計に目を落としていたその女は、阿古谷の姿を認めると、ほっとしたように小さく息を吐いた。
「予定より、四分十八秒の遅れ。……めずらしいね」
檜山瞬花。若桜生命の社長。
「明日の相手の分析は終わったよ。今井コスモ。今夜中に、目を通しておいて」
差し出された資料を、阿古谷は受け取った。
「――問題ない」
その声に、さっきまでの温度は、一欠片も残っていなかった。
「明日の相手が誰であろうと、私の正義の前に立つのなら、結末は同じだ」
檜山瞬花が、わずかに息を呑む。街灯の届かない坂の下。そこに立っていたのは、もう、あの青年の前にいた男ではなかった。
処刑人が、そこにいた。
ーー少し前。 賓客用の離れ。
ラルマーは、葡萄の房から一粒をもぎ取って、灯りに透かした。
「今宵、客が来る」
控えていた侍従が、わずかに顔を上げる。
「客、でございますか」
「斉藤真珠よ」
日本の報道は、この島にいても耳に入る。星野アイの隠し子。
それを晒したのが東洋電力の速水であることも、ラルマーには手に取るように分かっていた。
あの小僧は、闘技場の中では無類に強い。
だが、外は違う。
一介の闘技者が、日本の電力王に正面から挑めるはずもない。あの事務所を救う手があるとすれば、ただ一つ。
この島で、速水が迂闊に手を出せぬ盾を手に入れることだ。そして、この島でその盾になり得る者は、そう多くない。
「来るさ。余のところへ、必ずな」
くつくつと喉の奥で笑って、ラルマーは葡萄を口に放り込んだ。甘い。奥の間の扉の向こうでは、ガオランが静かに目を閉じているはずだった。
試合の前夜、あの男は誰とも会わない。……もっとも、今宵ばかりはどうなるか分からぬが。
◇
離れの門の前には、褐色の肌をした男たちが四人、並んでいた。
揃いの黒服。腰の後ろに回した手。表情は石みたいに動かないのに、僕が坂を登りきった瞬間から、四人分の視線が一本の糸みたいにこちらへ張りついている。
タイ王室の護衛だ。
一人ひとりが、そこらの闘技者より強い。
「斉藤真珠です。ラルマー殿下に、お目通りをお願いしたくて来ました」
頭を下げると、一番年かさの男が、低い声で何かを無線に告げた。返事は、思ったよりずっと早かった。
「……お入りください。殿下がお待ちです」
待っていた?首を傾げながら門をくぐると、甘い香の匂いがした。通されたのは、広い居間だった。
床には色鮮やかな絨毯。
壁際には金の装飾。
南国の夜風を通すために開け放たれた窓の向こうで、月が海に細い道を落としている。
その真ん中、山のように積まれたクッションに半ば埋もれるようにして、一人の青年が寝そべっていた。若い。僕と、そう変わらないかもしれない。けれど、葡萄を一粒つまみ上げるその仕草ひとつに、生まれたときから人の上に立ってきた者だけが持つ、隠しようのない重さがあった。
視える色は――目が痛くなるような、金。
ぎらぎらと遊ぶように揺れる、悪戯好きの子どもみたいな金色。
「来たか、斉藤真珠」
ラルマー殿下は、葡萄を口に放り込んで、にやりと笑った。
「滅堂の牙を屠った凡人を名乗る青年が、こんな夜更けに余の離れを訪ねてくる。……さて。ガオランの寝首でも掻きに来たか?」
「いえ」
「ほう。では、試合の前に八百長の相談か」
「それも違います」
僕は、膝をついて、封筒を差し出した。
「お願いがあって来ました。これは、その前金です」
「それと、もう一つ。……この件については、日本も国として、東洋電力の不正を徹底的に調査します。そう動いてくれる人がいます」
「ほう?」
殿下の眉が、面白そうに跳ね上がった。指先で軽く合図すると、控えていた侍従が封筒を受け取り、恭しく殿下の手に渡す。殿下は、寝そべったまま、片手で紙をめくり始めた。
一枚目。退屈そうに。
二枚目。三枚目。紙をめくる指が、一度だけ、止まった。それだけだった。殿下はクッションから背を離しもせず、表情ひとつ変えずに、最後の一枚まで目を通した。それから紙の束を膝に置いて、くつり、と笑った。
「……知っておったよ」
「え?」
「東洋電力が、我が国で何をしておるかくらいはな。王室の財団から金を抜き、それを王家に牙を剥く者どもに流しておる。……証拠がなかっただけのことよ」
退屈そうに、葡萄をもう一粒つまむ。
「証拠がなければ、ないで構わぬ。いずれ尻尾は出す。……叩ける羽虫は、叩く。それが余だ」
笑っているのに、目だけが笑っていなかった。
「それにしても――日本が自ら膿を出すと申すか」
殿下は、肩を揺らした。
「くく。余の手間が省けるわ」
それから、紙の束を指先でとん、と叩いた。
「斉藤真珠。これはな、
金色の瞳が、すっと細くなる。
「……貴様、まだ他にも札を持っておるな」
答えなかった。答えないことが、答えになった。
「ふん。……して、何を望む?」
息を吸う。ここに来るまでに、何度も頭の中で並べた言葉。全部、どこかへ飛んでいってしまった。残ったのは、一番最初の、一番単純な願いだけだった。
「家族を助ける、手助けをしてほしいんです」
殿下は、黙って先を促した。
「東洋電力の速水会長が、僕の家族を晒しました。これからも、きっと手を出してきます。闘技場の中なら、僕は自分の拳で守れます。でも、外では足りない。……苺プロと、僕に力を貸してくれた仲間たちを、東洋電力から守ってほしいんです」
「タイ王家の名で、か」
「はい」
「対価は」
殿下の声が、一段だけ低くなった。
「前金だけで王家の盾を貸せと言うほど、貴様は厚かましい男ではあるまい。対価は何だ。金か。貴様の身柄か。それとも、明日の試合を売るか――」
「僕のすべてを懸けて」
殿下の言葉を、遮っていた。
「ガオランさんを、倒します」
――しん、と。部屋の奥で、扉の開く音がした。振り向かなくても、分かった。空気の温度が、一段下がったから。
簡素なシャツ一枚。気負いも、威圧もない。
ただそこに立っているだけなのに、部屋の重心が、すっとあの人のほうへ傾いた気がした。
視える色は、一点の濁りもない金。殿下の眩しい金とは違う。研ぎ澄まされて、研ぎ澄まされて、最後に一本の刃だけが残ったような、静かな光。ガオランさんは、何も言わずに僕を見ていた。長い、長い数秒だった。それから、一言だけ。
「――受けて立つ」
それだけ言うと、壁際に腰を下ろして、腕を組んだ。それ以上、口を開くつもりはないらしかった。
殿下は、目を丸くしていた。それから――
「くっ……くくっ……ははははははっ!!」
クッションの山に背中から倒れ込んで、腹を抱えて笑い出した。笑って、笑って、目尻に涙まで浮かべて、絨毯をばんばんと叩いて。不意に、その笑い声が、ぷつりと途切れた。
「――貴様」
殿下が、ゆっくりと身体を起こした。顔からは、笑みが消えていた。
「余の前で。余の、ガオランを、倒すと申したか」
空気が、重くなった。息がしづらい。肌がぴりぴりと粟立つ。扉が音もなく開いて、さっきの護衛たちが、いつの間にか部屋の四隅に立っていた。腰の後ろに回した手は、もう何かを握っている。ガオランさんは、壁際で腕を組んだまま、ぴくりとも動かなかった。闘技者の威圧じゃない。
これは、何百年も人の上に立ち続けてきた血の重さだ。だから、僕は目を逸らさなかった。
「はい」
「ガオランは、我がタイの誇りだ。この国で最も強く、最も気高い拳だ。それを、貴様ごときがか?」
「知っています」
声が、震えなかったのが不思議だった。
「ガオランさんは強い。たぶん、このトーナメントで打撃において一番強い人です。だから、僕の全部を懸けないと勝てない。……全部を懸けて闘うこと。それが、今の僕に差し出せる、一番価値のあるものです」
そう。これしかないのだ。
ラルマー殿下のことを調べていた。きっとお金でもかけには乗ってくれると思うが、そんな大金などありはしない。だからこそーー
「僕には、殿下に差し出せるような地位も、お金もありません。僕が示せる価値は――力だけです」
殿下の表情が、ふと、変わった。遠い何かを思い出しているような目だった。長い、長い沈黙。月明かりが、絨毯の上で少しずつ位置を変えていく。やがて――殿下の口の端が、ぴくりと動いた。
「……面白い」
それは、小さな呟きだった。
「面白い! 実に面白い!」
二度目は、部屋中に響き渡った。殿下が手を振ると、護衛たちはすっと影のように下がっていった。
重かった空気が、嘘みたいに軽くなる。肺に、やっと空気が入ってきた。
「余に頼みごとをしに来て、余の宝を壊すと宣言する阿呆が、どこにおる!」
「ここにいます」
「そうよな! ここにおったわ!」
殿下はひとしきり笑ってから、紙の束をひらひらと振ってみせた。
「よかろう。斉藤真珠、その願い、聞き届けた。……ただし」
金色の瞳が、すっと細くなる。
「その約定が生きるのは、貴様が勝ったときのみだ」
「……」
「ガオランは負けぬ。ゆえに、これは賭けになる。……余は、賭けが好きでな」
殿下は、膝の上で紙の束を揃えた。
「貴様が勝てば、星野の家、ひいては苺プロダクション、そして貴様に力を貸した者どもまで。このラルマーが、タイ王家の名にかけて庇護しよう。指一本、触れさせぬ」
「負けたら」
「負ければ、この書類は余への手土産として、ありがたく頂戴する。東洋電力には、どちらにせよ余が始末をつけるがな」
にやり、と。殿下は、悪戯好きの子どもの顔に戻っていた。
「それで、構いません」
迷わずに、そう答えた。
「勝とうが負けようが、余はどちらでも構わぬ。……だが」
殿下は、壁際のガオランさんを、ちらりと見た。
「余のガオランが負けるとは、露ほども思っておらぬぞ」
ガオランさんは、何も言わずに目を閉じた。
「ガオランは、手を抜かぬ。あれは、相手がすべてを懸けてくるならば、すべてで応える男だ。……貴様のその言葉が、明日、あの拳の前で砕けぬことを祈っておれ」
「知っています」
立ち上がって、もう一度、深く頭を下げた。
「だから、来ました」
背中に、殿下の笑い声と、ガオランさんの静かな視線を感じながら、離れを出た。門をくぐって、坂を少し下ったところで――膝から、
近くの椰子の幹に、しがみつくように手をつく。手のひらが、汗でびっしょり濡れていた。今さら、指先が震えはじめる。震えは指から手首へ、腕へ、肩へと這い上がって、止まらなかった。奥歯が、かちかちと鳴る。
「……こわ」
声まで、震えていた。胃の底がひっくり返りそうで、思わず口を押さえる。怖かった。本当に、怖かった。滅堂の牙と向かい合ったときとは、まるで違う。拳が飛んでくるわけじゃない。
それなのに、言葉を一つ間違えたら、家族ごと全部を失う気がした。あの部屋にいたあいだ、僕はただ、取り繕っていただけだ。笑いそうになる膝も、裏返りそうになる声も、全部、頭で押さえつけていただけ。
理性なんて、こんなものだ。扉が閉まった途端、全部剥がれ落ちる。しばらく、そのまま動けなかった。深呼吸を、一回。二回。三回目で、ようやく震えが少しだけ遠のいた。見上げると、月がさっきより少しだけ西に傾いていた。――盾は、まだ手に入っていない。
必ず手に入れるのは、僕のこの手で。
◇
扉の閉まる音が、居間に静かに響いた。ラルマーは、しばらくその扉を眺めていた。
「……クルット、か」
ぽつりと、呟く。壁際で瞑目していたガオランが、薄く目を開けた。
「殿下?」
「知っておろう。母を奴隷の身から救うために、たった一羽で天の神々に挑み、不死の甘露を奪った鳥の話よ」
タイの子どもなら、誰もが一度は聞かされる神話だ。神々を相手に一歩も退かず、ついには打ち負かしたその鳥の力と忠義に、ヴィシュヌ神は感じ入り、自らの傍らに迎えた。以来、クルットは王を護る紋となった。
「家族のために、勝てるはずのない相手に挑む。己の価値は、力でしか示せぬと言い張る。……あの小僧は、まるでクルットよ」
ラルマーは、喉の奥で笑った。
「あの札を先に寄越した時点で、賭けなどせずとも乗ってやるつもりだった。……だが、あの顔を見たら、どうにも試したくなってしまってな」
「悪い癖です」
「褒め言葉として受け取っておこう」
ラルマーは、クッションに背を預け直した。
「して、どう見た。お前の明日の相手は」
ガオランは、少しだけ考えるように目を伏せた。
「……強い。ですが、危うい」
「危うい?」
「あの男の強さは、自分を勘定に入れていない強さです。家族のためなら、腕でも、命でも、平気で差し出す。そういう拳は、どこまでも伸びる。けれど――いつか必ず、自分ごと折れる」
「だからこそ、面白いのではないか」
ラルマーは、窓の外の月を見上げた。
「なあ、ガオラン。あの小僧が命を懸けて護ろうとしておる家族とやらを、少し、見てみたくなった」
「星野アイ、ですか」
「アイだけではない。あの事務所ごとよ。血の繋がりもなく寄り集まった者どもが、ああして互いを護り合う。……どこかの誰かと、よく似ておる」
ガオランは、何も答えなかった。ただ、ほんのわずかに、口元が緩んだ。
「英雄というのは、ああいう者のことを言うのかもしれんな」
「殿下」
「分かっておる。勝とうが負けようが、余はどちらでも構わぬ」
ラルマーは、葡萄の最後の一粒を口に放り込んだ。
「……だが、お前が負けるところなど、余には想像もつかんわ」
「もとより、負けるつもりはありません」
「それでこそ、余の剣よ」
窓の外で、月が海に、細い道を落としていた。
――同じ夜。
東京、四宮本邸。
かぐやが本邸の門をくぐったのは、島との通話を終えて、一時間も経たない頃だった。迎えの車の中で、彼女は一度も口を開かなかった。膝の上で、指先だけが何度も組み替えられていた。
深夜の書斎。車椅子の老人は、窓の外の暗い庭を眺めていた。
「……こんな時間に、何用だ」
「お願いがあって参りました、お父様」
かぐやは、書類を差し出した。
「
その呼び方を初めて口にしたのは、三年前。白銀が迎えに来たヘリで四宮を抜け出した、その翌朝のことだった。老人の肩が、ほんのわずかに動いた。
「……
斉藤真珠。
四宮雁庵の息子であり、四宮かぐやの、腹違いの兄。その事実を知るのは、四宮の家の者と、かぐやが打ち明けた白銀御行だけだ。当の本人は、とうに四宮の名を手放している。
斉藤真珠で、あり続けるために。
斉藤ミヤコは、息子が実の父を見つけたことを知っている。そして、あの子がそちらへは帰らないことも。
あの子の帰る場所が、どこにあるのかも。
四宮雁庵は本来、娘が秀知院を巣立つ頃に、その生涯を閉じるはずだった。冷たい父として。四宮という巨大な機構の頂点に座したまま、ついに一度も、子どもたちに父親の顔を見せることなく。
けれど、この世界には、一人の凡人がいた。三年前。四宮と四条の争いに、その青年が身を投じる前の夜。青年は、病床の老人の枕元に座った。雁庵は、その顔を見ようとしなかった。見知らぬ若造の見舞いなど、受ける謂れはない。
……そう思おうとした。
けれど、取り次いだ者の口から「斉藤」という名を聞いた瞬間から、胸の奥の古い傷が、じくじくと疼いて止まらなかった。青年は、しばらく黙って座っていた。それから、静かに口を開いた。
「明日、僕は四宮、そして四条と闘います。……負ければ、たぶん、全部を失います」
穏やかな声だった。明日の天気の話でもするような。
「だから、その前に。どうしても届けなきゃいけないものがあって」
「ママから、預かっていた言葉があります」
齢をわきまえず「ママ」などと口にする、幼さの抜けない青年。耳障りなほどに軟弱な物言いに、雁庵は即座に、相手にする価値もないと断じかけた。
――だが。
「――あなたを愛している。今までも、これからも、永遠に。……だから、体には気をつけてね」
あり得ない。――その思考だけが、雁庵の脳髄を重く、どろりと埋め尽くしていた。ベッドのシーツを握りしめる節くれた指先からじわじわと血の気が失せ、皮下の骨が白く透けて浮き上がる。
間違いない、あれはあの女特有の言い回しだった。語尾をほんのわずかにふわりと持ち上げ、立ち去る間際に必ず、どうしようもなく余計な一言を置き土産にしていく。
「……体には気をつけてね」などと。この四宮雁庵に毒気のない、ひだまりのように温かな響き。だからこそ、反吐が出るほど残酷で余計な慈愛。
指先一つで巨万の富を動かし、日本という盤上のすべてを支配していたはずの男の手は、今やひどく薄汚れた枯れ枝のように毛布の上に投げ出されている。逆らう者すべてを血の底へと沈め、他者の生殺与奪すら意のままにしていた「四宮の総帥」の肉体。
だが、その輪郭は日に日に曖昧に崩れ落ちていた。かつては威圧感だけで周囲の空気を凍らせたはずの胸郭が、今はただ規則的に上がり下がりを繰り返すだけ。微かな酸素を吸って吐き出すだけの、ひどく空っぽな木偶へと成り下がっていくのを、雁庵自身が一番痛感していた。
認知症という白濁した霧が脳髄をじわじわと侵食し、かつての怜悧な知性も、恐怖で塗り固めた威厳も、指の間から乾いた砂のようにこぼれ落ちていく。昨日会ったはずの子の顔すら定かではない。
自分が何者であったかすら、ひどく遠いことのように思える夜がある。だが、どれほど記憶の輪郭が濁ろうとも、決して消え去らないものがあった。それは金庫の最深部に封じ込めた手紙の重みであり、己の傲慢さゆえに自ら手放してしまった、あの「台所」のような、あたたかな日だまりの記憶だった。富も権力も、何一つとしてあの温もりを取り戻す役には立たなかった。
「……茜」
ひゅ、と喉の奥で鳴る微かな呼気とともに、ひび割れた声が乾いた唇から零れ落ちた。自嘲とも後悔ともつかない、酷く人間臭い響きだった。
「お前には……このワシの無様な末路が、最初からお見通しだったのだろうな」
ひどく浅い呼吸しかできず、息がうまく吸えなかった。雁庵は錆びついた機械のように、ゆっくりと首を巡らせる。そしてその時初めて、傍らに立つ青年の顔を真っ直ぐに見た。
茜とは、まったく違う顔立ちだった。けれど、その目だけが。春の木漏れ日をすくい取ったかのように、どこまでも柔らかく、底知れぬほど温かい眼差しを向けている。
雁庵の胸の奥で何十年も分厚く凍りついていたものが、その静かな光の中で、音もなく静かに溶け出していった。不意に、目の奥がひどく熱くなった。視界が滲み、己が声を殺して泣いているのだと自覚するまでに、ずいぶんと長い時間がかかった。
「……お前は、何者だ」
絞り出すような掠れた声で、どうにかそれだけを問うた。青年は少しだけ困ったように眉尻を下げ、ひどく人間臭い、柔らかな笑みを浮かべる。
「ただの、一般人ですよ」
それだけ言って、青年は静かに部屋を出ていった。認めなかった。認めるわけにはいかなかった。
あの目が誰に似ているのかも、
あの言葉が誰のものなのかも、
四宮雁庵の頭は、最後まで拒み続けた。
数日後。四宮の前に立ちはだかったあの青年が、「妹を助けるのに理由なんていらないだろ」と言い放つ、その瞬間までは。
四宮雁庵は、今も生きている。
皺だらけの指が書類を受け取り、ゆっくりとめくっていく。
「星野アイに、四宮の顔を……と」
「ホテルも、化粧品も、宝飾も、服飾も。四宮の名を冠するすべてのブランドの顔として、正式に起用を申し入れます。契約は後日、苺プロダクションと改めて。……ただ、申し入れたという事実だけは、すぐにでも世に出したいのです」
「東洋電力に晒された母親を、四宮が迎え入れる、か」
「はい。それが、四宮がどちらに立つのかの、何よりの表明になります」
「四宮が、一個人のために動くか。それが何を意味するかわかるのか?」
「
雁庵の口の端が、かすかに動いた。
「……
「東洋電力と、正面から事を構えることになりますが」
「とうに構えておるだろう。四条が向こうに付いた時点でな」
老人は、紙の端を指でなぞった。
「して、発表はいつだ」
「明日。お兄様が闘技場に立つ、その直前に」
「……いいタイミングだ」
「はい。拳願会の上の方々は、三年前の幕引きにお兄様が関わっていたことを知っています。……なぜ今、四宮が、落ち目の斉藤真珠に。それとも、あの男にはそれだけの価値があるのか。その問いを、あの島中に投げかけたいのです」
かぐやは、真っ直ぐに父を見た。
「あの人が一番苦しい場所に立つとき、背中に四宮の旗があると、誰の目にも見えるように」
雁庵は、しばらく何も言わなかった。時計の秒針の音だけが、書斎に落ちていく。
「血も繋がらぬ者たちを家族と呼び、その形を、拳一つで守り続けておる」
低い声だった。
「……愚かな倅だ」
倅。
そう口にした父の横顔が、かぐやには、どこか嬉しそうに見えた。かぐやの睫毛が、小さく震えた。この人がその言葉を口にするのを、初めて聞いた。
「儂には、到底できなんだことだ」
雁庵は、ペンを取った。震える手で、それでも迷いのない線で、署名を書き入れる。
「好きにせい。……ただし、声明の文面に一行、加えておけ」
「何と」
「四宮は、家族の形を示し続ける者を支持する。――そう書いておけ」
かぐやの睫毛が、ほんの少しだけ濡れた。
「……ありがとうございます、お父様」
「礼なら、あれに言え」
雁庵は、娘から目を逸らすようにして、窓の外の夜を見た。
「……いや。礼を言うべきは、儂のほうかもしれんがな」
窓硝子に、老人の横顔が映っている。その輪郭に、遠い島で闘う青年の横顔が、静かに重なって見えた。
◇
数時間前、圧倒的な力で他を蹂躙するはずだった“怪物”ユリウス・ラインホルトが沈んだ。弱みを握り、脅して従わせていた“夜明けの村”の闘技者・サーパインの姿ももうない。
東洋電力が周到に用意し、絶対の自信を持っていたはずの手札は、この二回戦の舞台でことごとく灰と化していた。
「ねえ真珠くん、ほんとに大丈夫なの……? 肋骨、ヒビとか入ってない? ほんとのほんとに痛くない?」
「大丈夫だってば、姉さん。ほら、ちゃんと歩けてるし、昨日も海で遊んでたでしょ」
僕は努めて呆れたような声を出し、心配させまいと小さく笑ってみせた。胸の奥に走る鈍い痛みを、悟られないようにそっと息を殺しながら。
本来ならまっすぐ観覧室へ向かうはずだったのだが、どうしても控室の前まで見送りたいと言い出したのは姉さんだった。その極度の心配性に引っ張られるように、母さんとアクア、ルビー、さらには雇い主である柏木さんまでもが、結局は心配そうな顔をして僕の後ろをぞろぞろとついてきている。
薄暗い通路を進み、角を曲がったその時――ふいに、靴の底が床に縫い付けられたように足が止まった。
通路のど真ん中に、漆黒の杖をついた老人が立ちはだかっていた。
顔の半分を覆う、酷く焼けただれた右目の痕。身を包むのは、この殺伐とした空間には不釣り合いなほど上等な仕立てのスーツだ。
その後ろには、まるで肉の壁のような体躯をした男たちが数人、音もなく亡霊のように控えている。東洋電力が飼い慣らした護衛者たちだ。
僕の目に『視える』彼らの感情の色は――どす黒く焦げつき、ねっとりと肌に絡みついてくるような、ひどく不快な色調だった。
「……速水、会長」
無意識のうちに、喉の奥から警戒心を孕んだ声が漏れていた。
「おや。これはこれは」
速水勝正は、皺の刻まれた口の端を不気味に吊り上げた。
持てる手札を全て失い、窮地に立たされたはずの男とは到底思えない、底知れぬ余裕を湛えた笑みだった。
……この男は、まだ何かを隠し持っている。
「あの“滅堂の牙”加納アギトに、よく勝てたものだな。……いったい、いくら積んで八百長を仕組んだ?」
顔の半分を覆う悍ましい火傷の痕を歪め、速水勝正はねっとりとした声で言い放った。隠そうともしない、むき出しの挑発と侮蔑。彼が漆黒の杖をつき直しただけで、背後に控える護衛者たちが一斉に一歩前へ出た。
暴力の気配が重苦しく空気を震わせた直後、僕のすぐ後ろで母さんが、ヒュッと短く息を呑んで身をこわばらせたのがわかった。
無理もない。母さんたちにとって、この老人が全身から立ち上らせる権力者特有の瘴気は、あまりにも異質で恐ろしいものだろう。ここはすでに、光の当たるただの日常ではないのだ。
僕は、背後の家族たちを庇うようにさりげなく半歩前へ出ると、あえて普段通りの、人畜無害で愛想の良い笑みを顔に貼り付けてみせた。
「運が良かっただけですよ」
「ほう? 運、とな」
「ええ。僕みたいな取り柄のない凡夫が、まともにやり合って勝てる相手じゃありませんから。ただの番狂わせです」
僕のへりくだった言葉に、速水は鼻で嗤った。相手は自分に怯え、下手に出ている。そう錯覚したのだろう。老人の濁った瞳に、打算の光が灯る。
「謙遜は美徳だが、過ぎれば嫌味になるぞ。あの
「誰に、ですか」
「苺プロ、だったか。あんな弱小の芸能事務所の器に、貴様ほどの暴力が収まっているはずがない。……どうだ? 今からでも私の下につけ。報酬は今の十倍……いや、百倍出してやってもいい」
それは提案の皮を被った、絶対者の命令。
逆らえばどうなるか分かっているだろうな。そんな圧力が、背後の男たちからむせ返るように放たれる。しかし、僕は貼り付けた笑顔を1ミリも崩さなかった。
「お断りします」
僕の声は、通路の空気を凍りつかせるほどに冷たく、そして静かだった。
「……何だと?」
「先に引き金を弾いたのは貴方だ。そして僕の大切な家族までも巻き込んだ。手打ちにすることはありませんよ」
一切の交渉の余地を与えない、完全なる敵対宣言。
老人の顔から余裕が消え、代わりに屈辱にまみれた苛立ちが浮かび上がった。
「たかだか一勝した程度で、図に乗るなよ若造が。お前のような野良犬を拾った三流の芸能事務所ごと、私の一声でいつでも消し飛ばせるのだということを忘れるな」
蛇のようにまとわりつく視線が、僕を通り越し、背後にいる母さんや姉さんたちへ向けられる。
――その瞬間だった。
僕の内側で、静かに『不可視の引き金』が引かれた。
声のトーンは自然なまま。しかし、そこに込める温度だけを絶対零度まで引き下げて、僕は顔から作り笑いを消し去った。
「……三流の事務所、ですか。ええ、確かにそうかもしれません。だからこそ、自分の手札がどれだけちっぽけで、危ういものか……痛いほど理解しているつもりです」
「何が言いたい?」
「大企業のトップともなると、手札が多すぎて逆に足元が見えなくなるのかな、と思いまして。たとえば……ご自身の足元がすでに、ガラ空きになっていることとか」
満月のように淡く光を宿した右目と、黄昏時のような昏い泥を沈めた左目で、老人の底意地の悪そうな瞳を真っ向から射抜く。
そして、逃げ場のない冷酷な宣告を、正面から叩きつけた。
「速水さんは、どうやら完全に運に見放されているみたいですけど」
「……小僧。調子に乗るなよ」
底知れぬ余裕を気取っていたはずの速水の声が、ドス黒い怒りを含んで一段低く唸った。
「調子になんて乗っていませんよ。ただの事実です。期待していた“怪物”ユリウス・ラインホルトも、脅して首輪をつけていたはずのサーパインも、二回戦でことごとく消えた。……持てる手札を全部失うなんて、ツイてないにも程がある」
「貴様ァ……ッ! 言葉には気をつけろ。ここは表のリングではない。勝敗の裁定を待たずとも、貴様と……その後ろで震えている女どもごと、ここで肉の塊に変えてやってもいいんだぞ?」
速水の眉がぴくりと不快げに跳ね、その眼光に明確な殺意が濁った。背後の護衛たちから即座に一触即発の殺気が膨れ上がる。
だが、僕は一歩も引かず、ただ静かに口角だけを上げて老人の顔を見つめ返した。
「やってみればいい」
吐き捨てるような、ひどく冷たい声だった。
「――僕の家族に指一本でも触れるつもりなら、
彼我の戦力差など関係ない。大切な者たちを守るためなら、自らの命すら躊躇なく投げ捨てる。その一切のブレーキを壊した狂気に直面し、百戦錬磨の怪物である速水の顔が微かに強張った。
凍りつきそうなほど張り詰めた空気の中。
ふいに、背後から戸惑うような声が漏れた。
「真珠、くん……?」
張り詰めた静寂の底に落ちたのは、姉さんのひどく掠れた、震える声だった。
自分の知る優しくて少しどんくさい弟の姿と、たった今、絶対的な権力者に向かって底なしの殺意を突きつけた冷酷な男の背中。その決定的な乖離に心が追いつかず、無意識のうちに彼女がふらりと前へ出ようとする。だが、その華奢な腕を、雇い主である柏木さんがそっと引き寄せるようにして制止する気配がした。
……そうだよね。無理もない。
僕は前を向いたまま、心の中で小さく自嘲した。あんなふうに絶対零度の瞳で人を見下すような真似も、心臓を直接握り潰すような昏い声で誰かを脅しつけるような真似も、暖かく穏やかな家の中では、一度だってしたことがないのだから。僕の手は、家族のために温かい料理を作り、ただ笑って頭を撫でるためだけにあったはずだった。
「驚かれましたか」
凍りついた通路の空気をそっと解きほぐすように、柏木さんが怯える家族たちのほうへ静かに声を落とした。その声音は、狂気と暴力が渦巻くこの裏の世界にあって、彼女たちを「日常」へと繋ぎ止める確かな錨のように落ち着き払っていた。
「……ああ。兄さんが、あんな言い方するところ……俺も初めて見た」
アクアが、信じられないものを見るような呆然とした声で呟く。その聡明な瞳には、今まで全く知らなかった兄の「裏の顔」に対する微かな恐怖と、同時に、彼がどれほどの重圧を一人で抱え込んでいたのかを悟った痛切な困惑が入り交じっていた。アクアの背中に隠れるようにして、ルビーが震える手で彼の服の裾を強く握りしめている気配も、背中越しに痛いほど伝わってくる。
そんな彼らの、飾らない素直な反応に。
柏木さんは口元にそっと手を当てて、くすりと小さく、どこか誇らしげな上品な笑みをこぼした。
「ふふ、無理もありません。皆さんの知る普段の真珠くんなら、あんなひどいこと、絶対に口にしませんものね。争い事を好まず、少し不器用で、家族のことが何よりも大好きな、ただの心優しいお兄さんですから」
そこで一度言葉を区切り、彼女は、決して振り返ろうとしない僕の背中へと慈しむような視線を向けた。
「でも……だからこそなのです。速水さんのような裏で暗躍する人間の悪意や、あなた方ご家族のささやかな平和を理不尽に脅かそうとする『外敵』に対しては――斉藤くんはいつだって、自分の身がどうなろうと構わない覚悟で、あんな風に一切の容赦なく、徹底的に冷酷になれるんですよ」
「それから、速水さんの後ろの方」
僕は、速水ではなく、その後ろに立つ長髪の男から一切目を離さずに言った。声のトーンは、まるで世間話でも切り出すかのように平坦に。
「――『蟲』、ですよね」
瞬間、無骨なコンクリートの通路を支配していた空気が、文字通り凍りついた。
龍旼の涼しげな笑みが、ガラスにヒビが入るように、ほんの一瞬だけピシリと割れた。すぐにまた能面のような薄笑いに戻る。微細な筋肉の硬直。呼吸のわずかな乱れ。素人目には絶対に見抜けない変化だったが、僕にはその一瞬の動揺だけで十分すぎるほどの確信を得られた。
空気が変質したのを感じ取った速水が、杖をつく手を止め、ゆっくりと首だけで振り返る。自身の足元に控える龍旼を胡乱な目で見下ろし、それから、再び忌々しげに僕を睨みつけた。
「……何を、言っている」
威圧するようなその声には、先ほどまでの絶対的な自信に、わずかな疑心暗鬼の染みが混じっている。老獪な怪物の心に、疑念という名の毒が一滴、確かに落ちた瞬間。
「速水さん、人を見る目、ないんですね」
僕は愛想の良い笑みを深め、あえて同情するような口ぶりで続けた。
「あなたは、他者を盤面の駒としか見ていない。力と恐怖で縛りつけ、使い潰すだけの存在として。だから、足元に潜り込まれた毒虫の気配にも気づけない」
右目の満月と、左目の黄昏。二つの異なる瞳で、速水という男の空虚な器を見透かすように見つめる。
「あなたは、人が築く本当の力を知らない。誰かを信じて、誰かに背中を預けて、不器用でも少しずつ積み上げていくもの……その重さと強さを知らない。だから、僕みたいななんの取り柄もない凡夫に、足元をすくわれるんですよ」
老人の顔半分を覆う焼けただれた痕が、屈辱と怒りでひくり、ひくりと醜く引き攣った。自身が絶対の支配者であるという矜持を、一介の若造に泥足で踏みにじられたのだ。
けれど、百戦錬磨の執念は、すぐさまその口元に歪な余裕の形を取り戻させた。
「貴様風情が、この私と同じ土俵に立ったつもりか」
腹の底から響くような、低く、ざらついた呪詛の声だった。背後に控える護衛たちからの殺気がさらに膨れ上がる。
「このトーナメントが終われば、どちらにせよ待つのは破滅だよ。貴様にも、その後ろで震えている貴様の家族にもな。せいぜい今のうちに、安い勝利の美酒に酔っているがいい」
負け惜しみに近いその残酷な脅迫を、僕は涼風のように受け流し、静かに小さく息を吐いた。そして、背後の母さんやアクアたちを庇うように立ち位置を変えながら、速水たちを通り過ぎるべく歩みを進める。
僕は一度だけ足を止め、軽く頭を下げた。
「速水さん」
すれ違いざま。冷え切った通路の空気に溶かすように、僕は老人の耳元へ向けて、微かな声で一言だけ置いていった。
それは、これから始まる本当の絶望を告げる、死神の囁き。
「カードっていうのは、相手がカードを切れなくなってから切るものですよ」
背中に、焦げついた色の視線が突き刺さる。
僕は控室の扉の前で足を止めて、家族のほうを振り返った。
「行ってきます。氷室さん、金田さん。後のことはよろしくお願いしますね」
あえて努めて明るく響かせた声に、褐色の肌を持つ氷室さんは呆れたように、けれどどこか頼もしげに口角を上げた。その隣で、金田さんは静かに深く頷き、細められた瞳の奥で僕の覚悟を見定めているようだった。
「ああ、任せておけ。こっちのことは気にせず、存分にやってこい」
「ええ、ご武運を。ですが、あまり無茶はしないでくださいね」
心強い二人の言葉に、張り詰めていた胸の奥がじんわりと温かくなる。そして、僕は視線を少し下げて、彼を見た。
「アクア。……みんなのこと、頼んだよ。星野家の長男は、君なんだから」
僕の言葉に、アクアはいつもより少しだけ苦しそうな、何かを堪えるような顔をした。
あの日、僕が血を吐いて倒れたときから、彼は誰よりも過敏に僕の危機を察知し、自分なりのやり方で僕や家族を護ろうとしてくれていた。その聡明さが時に彼自身を傷つけていることも、僕は知っている。
「……ずいぶんな無茶振りだな。なら、兄さんも約束してくれ」
「約束?」
「必ず、自分の足で帰ってくるって」
その声の奥にある、黒く濁りそうな感情を必死に抑え込んでいるような響きに、僕は少しだけ胸を痛めながらも、力強く頷いた。
「わかってる。約束するよ」
「……心配性の弟の面倒は、俺たちもしっかり見ておくさ」
氷室さんの軽い調子の助け舟に、強張っていた場の空気が少しだけ緩んだ。
今度は、いつもの顔で笑えたはずだ。重厚な控室の扉を閉めると、通路を渦巻いていた熱狂的な喧騒が、少しだけ遠ざかった。
静寂の落ちた室内では、時計の針が時を刻む音だけが、やけにゆっくりと鼓膜を打つ。
不意に、扉の向こうから地鳴りのような歓声が湧き上がり、分厚い壁ごと空気を震わせて伝わってきた。どうやら、一つ前の試合に決着がついたらしい。
控室に備え付けられたモニターには、『浮雲』こと初見さんが飄々とした佇まいで勝利を収める姿が映し出されていた。
一昨日、僕はあの冷たい通路の床にへたり込んでいた。口から血を吐き、骨折した身体を隠すように、家族に向けて「ただいま」って無理に笑ってみせて。
(……まるで、泥沼だな)
足掻けば足掻くほど、底のない暗がりに沈んでいく感覚が胸を塞ぐ。
姉さんはきっと、すべての発端が自分にあると思い詰めているのかもしれない。自分を護るために僕が拳を握り、傷だらけになっていく姿を見て、胸を痛めているはずだ。
けれど、それは違う。
元凶は僕自身だ。
家族を護りたい、誰一人として失いたくないと願って手を伸ばせば伸ばすほど、手繰り寄せた糸は複雑に絡まり、自らの首を絞め上げていく。
後悔なんてしていない。自分の選んだ道だ、そのはずなのに――死地を目前にして、どうしてこんな未練がましい弱音が湧き上がってくるのだろう。
それでも今日、僕は確かな覚悟を抱いてこの場所に立っている。
折れた肋骨は塞がった。急激な組織修復に伴う炎症の代償として、深く肺を満たすたびに胸の奥底で微かに軋むような鈍い疼きは残っているが、呼吸を乱すほどではない。リングに上がる分には、何一つ支障はなかった。昨日まで骨と腱を無理やり固定していた左手首のテーピングも、今はきれいに剥ぎ取られている。
「斉藤様。そろそろお時間です。お手回りの品をお預かりいたします」
無機質な声とともに、黒服の係員が恭しくベルベットの敷かれたトレーを差し出してきた。
この板切れ一枚のスマートフォンを手放してしまえば、鉄の扉が開くその瞬間まで、愛する家族の誰とも言葉を交わすことは叶わない。外の世界と僕を繋ぐ細い糸が、ぷつりと断ち切られる。
ド ク ン
(あ、あれ?)
そのときあまりにも唐突に心臓が跳ねた。
気持ちが悪い。視界が揺れ、視界がぼやける。
急な出来事に対して、
(な、んだ.............これ)
体に残る違和感。この感じ、一度だけ経験したことがある。だけど思い出せない。
迷いを振り払うように息を吐き、液晶画面を伏せてトレーへと落とそうとした、その刹那。掌の皮膚越しに、微かな振動が短く、鋭く伝わった。
(……かぐやさん)
画面に浮かび上がった名前に、僕は思わず息を呑んだ。
すぐ傍らでベルベットのトレーを構える黒服の係員に、目礼で「少しだけ」と詫びを入れ、通話開始のアイコンを滑らせて耳元に押し当てる。
「もしもし」
『お兄――斉藤くん。今、よろしいですか』
電話口から届いた凛とした声は、途中で言いかけた呼び方を小さな咳払いで隠すように呑み込んだ。秀知院の時と同じ癖だ。周りに他人がいることを瞬時に察したのだろう。
……事実、すぐ目の前で係員が静かに僕の手元を待っている。
「あと数分で、入場なんだ。あまり長くは話せないけど……」
『では、手短にお伝えします』受話器の向こうで、わずかに息を整える気配――一拍の静寂。
『あと三分で、四宮から公式の声明が出ます』
「声明……?」
思わぬ単語に眉を寄せた僕に、かぐやさんは一切の淀みもない、凛然たる声音を響かせた。
『四宮グループは、アイさん、ならびにアクアくんを、系列すべてのブランドにおけるアンバサダー――顔として正式に起用することを申し入れます。ホテルも、化粧品も、宝飾も、服飾も、そのすべてです。……契約の手続きは後日、苺プロダクションさんと改めて執り行います』
――カツン、と頭の奥で何かが弾け、思考が真っ白に染まった。
「……え?」
控室の静寂が、急激に輪郭を失って遠ざかっていく。
『まだ契約合意には至っておらずとも、“四宮が申し入れた”という揺るぎない事実だけを、今、この瞬間に全世界へ発信します。東洋電力の手によって世間に晒され、傷つけられた方々を、四宮が真正面から迎え入れ、庇護下に置く。……それが、四宮の出した答えです』
四宮が。日本経済を牛耳るあの四宮財閥が、世間から「隠し子」とバッシングを浴びている最中の姉さんたちを、グループすべての“顔”に据えるというのか。どれほどの資本とリスクを背負い、どれほど巨大な盾を掲げることになるか、彼女が理解していないはずがない。
『三年前、泥沼と化した四宮と四条の抗争に幕を引いたのが誰であったか。この島に集う拳願会の上層部たちは、誰一人として忘れてなどいません。……その四宮が今、あなたの家族の隣に並び立ちました。
「……どうして、そこまで」
搾り出すような僕の問いに、受話器の向こうの声音が、ふっと氷を溶かしたように柔らかな温度を帯びた。
「妹が兄を、そして兄の家族を護るのに理由が必要ですか?」
義理堅いにもほどがある。いくら恩があるからといって、一人の闘技者の背中を押すためだけに四宮グループ全体を動かして世論を塗り替える人間が、どこにいるというのだろう。
脳裏にふと、昨日見せた彼女の――すべてを企み終えたあとのような、悪戯っぽく微笑んでいた表情が鮮やかによぎった。
『父と、話しました』
「……あの、雁庵さんが?」
思わず掠れた声が漏れた。あの冷徹を極めたような老人が、首を縦に振ったというのか。
『ええ。公式声明の末尾に、父の言葉を一行だけ添えてあります。――四宮は、家族の形を示し続ける者を支持する、と』
受話器越しに紡がれたその一言に、胸の奥底がじんと熱く痺れた。
血の繋がりも、世間体の肩書きも関係なく、ただ「ただいま」と「おかえり」を交わし合える、帰るべき場所。僕がボロボロになりながら、泥を啜ってでも守り抜きたかったその在り方を、よりにもよって、血縁の呪縛の中で孤独に生きてきたあの男が認めたのだ。
「……ありがとう、ございます」
喉の奥がつかえて、ようやくそれだけを絞り出した。
『アイさんにも、お母様にも、まだ根回しは一切しておりません。ビジネスの手順としては最悪の順番だと承知の上です。ですから苺プロダクションの社長さんには、このあと私自ら正式にご挨拶に
「……あはは。たぶん今ごろ、あっちの観覧室は大パニックになってるよ」
頭を抱えるミヤコさんや、目を丸くして大騒ぎするアイの姿が容易に目に浮かび、張り詰めていた口元から自然と笑みがこぼれた。
『ふふ、それは楽しみですね。ですから――皆さんの驚いたお顔の感想は、試合が終わったあとで、たっぷり聞かせてくださいね』
必ず生きて、私の前へ戻ってきなさい。
そう言外に告げる彼女の声は、昨日の唇に差していた鮮やかな紅よりも、ずっと柔らかく、温かな色を帯びている気がした。
『――ご武運を。お兄様』
最後の一言だけは、電波のノイズに掻き消されそうなほど、ひどく小さく、震えるような囁きだった。
ツーツーと無機質な終話音が鳴り響き、画面が暗転する。
静まり返った液晶の闇の中に、ぽつりと、新着のメッセージ通知が灯った。
差出人は、白銀。
時差を考えれば、海の向こうは深い夜の底に沈んでいるはずなのに。
短文のプレビューには、たった三文字だけが刻まれていた。
『勝てよ』
言い訳も、余計な飾りも何もない、不器用な男からの背中を叩くような檄。
「……勝つよ」
誰に聞かせるでもなく、静かに唇を動かした。
迷いは、もう何処にもない。
守るべき家族がいて、背中を支えてくれる仲間がいる。
僕は迷わず画面を伏せ、黒服の係員が差し出す冷たいベルベットのトレーの上に、スマートフォンを静かに置いた。
◇
見下ろすアリーナから微かに伝わる重低音の振動が、防弾ガラスを震わせていた。
巨大な特等観覧室の窓際、ミヤコは革張りの椅子に浅く腰掛けたまま、スマートフォンを耳に強く押し当てていた。
間もなく始まる、拳願絶命トーナメント二回戦の最終試合。
……我が身を削って立ち続けるあの子の闘いが、もう間もなく始まろうとしている。
『――それでね、社長。事務所の人、誰一人として辞めてないから』
受話器の向こうから届いたのは、片寄ゆらの声だった。普段のひょうきんな調子を幾分潜め、いつもより少しだけ早口で、けれど確かな熱を帯びて紡がれる。
『デスクの事務員さんも、現場のマネージャーさんたちも、モデルの子も、配信フロアの子たちも……全員、今もちゃんと苺プロの事務所にいるよ。辞めるどころか、「アイさんのこと、あんな汚いやり方で晒し者にして」ってさ。』
「……そう」
掠れそうになる喉を整え、ミヤコは短く息を吐いた。
数年前、夫である壱護が突然姿を消した、あのどん底の日々が脳裏を掠める。
事務所から一人、また一人と人が去っていった。机の上が片付いて空っぽになっていくたび、立っている床が底から抜け落ちていくような恐怖に苛まれた。あの冷え切った、誰もいない事務所の光景は、今でも油断すると悪夢となって蘇る。
『だから社長、そっちは何も心配しないで。留守は私たちみんなで、絶対に守り抜くから』
「……ありがとう、ゆらちゃん」
胸に巣くっていた氷が解け、ふっと肩の力が抜けた。
本当に、良い仲間たちが残ってくれた。そう実感した、その刹那だった。
『――えっ、待って。社長、嘘でしょ、ニュース!』
鼓膜を突き破らんばかりに、ゆらの声が裏返った。
『四宮が……あの四宮グループが、アイさんとアクアくんにアンバサダーの正式オファーを出したって速報が……! 系列の全ブランド!? えっ、全部ってどういうこと!?』
「……何ですって?」
ミヤコが目を見開いて振り返るより早く、背後でアクアが俊敏な手つきで端末を操作していた。青白い液晶画面に、大手メディアのトップを塗り替える緊急特報の文字が踊る。
『――四宮グループ、星野アイならびに星野アクアへ系列全ブランドの公式アンバサダー就任を正式要請』
画面の端には、異例とも言える四宮総帥の直筆メッセージが添えられていた。
「……は?」
普段はどれほど切迫した事態でも冷徹さを崩さないアクアが、信じられないものを見るように間の抜けた声を漏らした。次の瞬間、ルビーが「きゃあああっ!」と歓喜の悲鳴を上げ、アクアの腕へがむしゃらにしがみついた。泣き笑いの顔で兄の腕を激しく揺さぶっている。
そして――アイは。
アクアの背後から画面を凝視したまま、瞬きすら忘れ、彫像のように硬直していた。
「……え、なにこれ。どういうこと!? なんで!?」
上気したアイの動揺を掻き消すように、ドーム全体を揺るがすアナウンスが響き渡った。
『――長らくお待たせいたしました! 本トーナメント二回戦、最終試合ッッ!!』
アナウンスの咆哮に弾かれたように、アイが窓際のガラスへと駆け寄った。
スマートフォンを右手に握りしめたまま、左手を透明なガラスに押し当てる。
遥か下方、スポットライトが照らし出す入場花道の奥から、見慣れた、華奢で小さな人影が歩み出てくるのが見えた。
真珠だ。
アイは手元のスマホの画面を窓越しに階下へ突き出し、声の届かない距離に向かって口をパクパクと動かした。
――なにこれ!? これどういうこと!?
ここからでは、彼の細かな表情までは到底うかがえない。
けれど、花道の中央に立ち止まったその人影が、「僕じゃないよ」と困ったように、小さく首を横に振ったのがはっきりと分かった。
アイは一瞬だけぽかんと丸い目を瞠り――次の瞬間、額をガラスにくっつけるようにして、吹き出すように笑い出した。ひとしきりお腹を抱えて笑ったあと、アイは額を冷たいガラスに預けたまま、すっと右手を持ち上げた。
握りこぶしから、小指が一本だけ真っ直ぐに立てられる。
指切りの形。
声も、指の温もりも、届くはずのない隔たりがある。それなのに、まるで分厚い強化ガラスを通り抜けて、花道に立つ少年の小指と固く絡み合っているかのように見えた。……昨日の夕暮れ、あの白い砂浜であの子と交わした約束。
ミヤコにも、心当たりがあった。
かつて同じ砂浜で、アイと絡め合った小指の、確かな熱。
どんな嵐が吹き荒れようとも、あの子が帰ってくる場所を守り続けるという、母と娘の約束。
ガラスに寄り添うアイの薄い唇が、静かに、愛おしさを込めて弧を描く。
――いってらっしゃい。
ミヤコは、その華奢な背中を静かに見つめていた。
かつて十六歳で幼い命を宿し、誰にも頼れず孤立無援だった少女が、いま、死線へと歩みを進める最愛の弟に向かって、母親であり姉であるあんなにも美しく、慈愛に満ちた笑顔を向けている。
『社長? もしもし、社長、聞いてる!?』
スマホの向こうから、待ちきれない様子のゆらの声が降ってくる。
「……ええ。ちゃんと聞いてるわ」
目元に滲んだ熱い雫を指先でそっと拭い、ミヤコは凛とした声で微笑んだ。
「ゆらちゃん。……あとで、みんなに特大のお礼を言わせてちょうだいね」
◇
同時刻。ドームの最上層に位置する、冷涼な空気に満ちた貴賓用観覧室の一つ。
東洋電力会長・速水勝正は、手元にある黒塗りの情報端末のディスプレイを、無言のまま冷たく見下ろしていた。
スクロールされる緊急速報の文字。
四宮グループ。星野アイ。そして、雁庵の名で添えられた――『家族の形』。
忌まわしい言葉の数々を網膜に焼き付けるにつれ、かつての火傷によって醜く引き攣れたケロイドの右目元が、ピクリと小さく痙攣した。
「……四宮めが」
低く濁った怨嗟が、静まり返った豪奢な一室に落ちる。
自らの謀略の網をかいくぐり、よりにもよってこの大舞台で堂々と横槍を入れてきた巨大財閥の影。手中に収めかけた獲物の首筋に、冷や水を浴びせられたような苛立ちが黒く渦巻く。
傾けられたロックグラスの中で、大振りの氷がカチリと硬質な音を立ててぶつかり合った。
それきり、男は感情の消え失せた双眸のまま、光の明滅する端末を音もなくテーブルの上に伏せた。
◇
重厚な鉄の扉が、軋んだ音を立てて押し開かれた。
その瞬間――視界を焼き尽くすほどの光と、熱気と、何万もの人間の咆哮が、濁流となって全身へ一斉に雪崩れ込んできた。
『さあさあさあッッ! 大変長らくお待たせいたしました! 拳願絶命トーナメント二回戦、泣いても笑ってもこれが最終、第十六仕合ッッ!!』
実況席の片原鞘香がマイク越しに放つ弾丸のような絶叫が、アリーナの空気をビリビリと爆震させる。
『東ィッッ! 柏木造船代表! この男の進撃を、一体誰が予想し得たでしょうか! 一回戦、百五十七戦無敗を誇る今大会の大本命・五代目“滅堂の牙”加納アギトを、まさかまさかの真っ向撃沈ッ! 歴史を覆す超ド級の大番狂わせ! ジャイアントキリング! 自らを「しがない一般人」と言い張る底知れぬ異形の怪物が、今度は世界の頂点へ牙を剥くッ! 超越者の拳は、果たして世界へ届くのかぁ――ッ!?』
『斉藤ォォォォォ――真珠ゥゥゥッッ!!』
天地を揺るがす大歓声と、未だ信じ切れないどよめき、ざらついた疑念が、ないまぜになった熱風となって頭上から降り注ぐ。
……けれど、さっきまでの空気とは決定的に何かが違っていた。
最上層に位置する貴賓席――日本の政財界を裏から牛耳る大企業の首脳たちが陣取る一角から、僕の全存在を底の底まで値踏みするような、冷徹で鋭利な視線が無数に突き刺さってくる。
四宮の声明は、もうこの会場の隅々にまで行き渡っているらしかった。
『対するは西ィッッ! 八頭貿易代表! 微笑みの国タイ王国より来たる“タイの闘神”! ムエタイの頂点に君臨し、さらにはボクシング・ヘヴィー級四大団体の統一王座をも手中に収めた正真正銘の生ける伝説! 打撃において、この男の右に出る者など地上に存在しない! 世界最高峰の打撃王が今、この願流島に降り立つッッ!!』 『ガオラン・ウォンサワットォォォォッッ!!』
天蓋を吹き飛ばさんばかりの地響きが、巨大ドームを根底から揺さぶった。
すり鉢の底、無機質な闘技場の中央に、褐色の肌を持つ偉容が一人、屹立していた。
真珠の瞳に映るその輪郭には、一点の曇りも不純物も混ざらない、気高い黄金の光が揺らめいている。
昨夜、浜辺で目にした殿下の黄金とは似て非なるものだ。
無駄を極限まで削ぎ落とし、血のにじむ研鑽によって叩き上げられ、最後に研ぎ澄まされた一本の抜き身の白刃だけが残ったかのような、冷涼で静謐な輝き。
迷いなくただ一つの道を究めた者だけが纏う、
頭上の特等観覧室を、僕はあえて一度も見上げなかった。
見なくとも、皮膚の奥で確かに分かっている。あのガラスの向こうに、僕のすべてを懸けて護るべき場所がある。
何度もシミュレーションし、その工程を通りに身体を動かすビジョンはでき上がっている。
事前に組み立てた、針の穴を通すような三つの勝機。それを頭の片隅で、最後にもう一度だけ薄くなぞる。
大丈夫、あたりの前のことを、当たり前にやるだけだ。
そして勝つだけだ。
勝てば、全部無駄になったりしないんだから。
(……帰るんだ)
愛する人たちの待つあの日常へ、自分の足で無傷のまま帰還するために。
胸を張って、笑って、「ただいま」を言うために。