闘技場の中央に立つガオランさんとの間合い、四方を囲むコンクリートの壁、硬質な床の反発力、そして遥か高みにある天井の鉄骨に至るまで、そのすべてを目測の数値へと変換していく。
視界の端々から飛び込んでくるあらゆる情報を、身体の奥底にある精緻な目盛りで拾い上げ、環境のわずかな違和感を一つひとつ解剖するように噛み砕いていく。
(……大丈夫。いつも通り、息はできている)
胸の奥で呟き、ただ深く呼吸を整えて、両足の母趾球で冷たい床の感触をしっかりと確かめた。
見上げる観覧室で祈るように見つめている姉さんたちに、余計な心配をかけさせるわけにはいかない。だから僕は、何事もない平気な顔をして、いつもの柔らかな「一般人」の佇まいを己の全身に張り巡らせる。
背筋をすっと伸ばし、両の掌を軽く握り直した。
才能のなさを埋めるため、千日、万日と繰り返してきた愚直な鍛錬の記憶だけが、極限の緊張で冷え切っていた僕の血を静かに、けれど確かに温め直していく。
観客席の遥か頭上、水銀灯の光を反射する分厚い強化ガラスの向こう側に、身を寄せ合う小さな人影がいくつか並んでいるのが見えた。
これだけ距離が離れていれば、当然、一人ひとりの表情までは判別できない。
けれど、僕の瞳には、彼らが纏う「感情の色」が、輪郭を持って鮮やかに浮かび上がっていた。
――見ている。
僕のすべてを、あの人たちが見届けている。
そう認識した瞬間、冷たい氷のようなものが胃の腑を撫で上げ、喉の奥が窒息しそうなくらいにきゅっと狭まった。
(……もし、負けたら)
脳裏に黒い染みのように広がろうとしたその最悪の結末を、僕は奥歯を噛みしめて力任せに振り払った。
負けたその先に待ち受けている地獄を、僕は知り尽くしている。
東洋電力・速水会長の冷酷な目論見。柏木の家が僕の背中にすべてを預けて背負ってくれた巨大なリスク。今この瞬間も海の向こうで一睡もせず、祈るように画面と対峙している白銀たちの苦悩。そして、もし僕がここに倒れ伏せば、姉さんやアクアたちの名前がどんな下劣な嘲笑とともに世界へ晒され、理不尽に踏みにじられることになるのか。
全部知っている。だからこそ、一ミリ秒たりとも考えてはならない。
怯えて足をすくませたところで、僕の拳がわずか一ミリ速くなるわけでも、相手の打撃が軽くなるわけでもないのだから。
胸の最深部に、頑丈な鉄の蓋をしてある場所がある。
いつからそんな歪なやり方で心を縛りつけてきたのか、もう自分でも思い出せない。
ただ、命のやり取りに身を投じる前には、必ずその蓋が隙間なく閉じられているかを指先で確かめるのが、僕の儀式だった。
今日も、鍵はかかっている。冷たく重い鉄の蓋は、恐怖も雑念も、一欠片たりとも外へ漏らしてはいない。
――大丈夫、ちゃんと閉まっている。
己に言い聞かせるように、左の掌で胸の内側をトン、と静かに叩いた。
そして僕は、“タイの闘神”ガオランさんと真正面から向かい合った。
「両者、握手を」
審判のチーター服部が無機質な声を落とすと同時に、ガオランさんがすっと右手を差し出してきた。大きくて、分厚く、恐ろしく硬質な手だった。
指の付け根には岩の隆起のような胼胝が幾重にも盛り上がり、腱の一つひとつが鋼鉄のワイヤーのように張っている。この手が、幼少の頃から何千、何万、何億回と拳を握り、世界中の強豪を沈めてきたのだと、触れる前からその重みが肌に伝わってくる。
差し出されたその手を、僕は正面から握り返した。
ガオランさんの掌は驚くほどサラリと乾いていて、静かな熱を帯びていた。
対照的に、自分の掌がじっとりと冷たい汗で湿っていることに、触れ合った瞬間の皮膚の感覚で初めて気がついた。
(……照明の熱のせいだ。きっと)
そう自分に言い聞かせながら、奥歯を噛みしめる。恐怖と重圧を誤魔化すための、ひどく情けない言い訳だと心のどこかで分かっていても、そう思わなければ足がすくんでしまいそうだった。
「……昨夜は、失礼をいたしました」
私室での非礼を小さく詫びたが、ガオランさんの切れ長の目元は、ピクリとも動かなかった。
それどころか、握り合った掌のわずかな湿り気と、僕の指先に潜む微細な強張りを検分するかのように、金色の双眸がすっと細められる。
「……浜辺で貴殿に問うたな。闘いとは何だ、と」
「はい」
「答えは、今も変わらないか」
「変わりません」
喉の渇きを押し殺し、迷うことなく告げる。
「……護るためです。僕が闘う理由は、それしかありません」
その言葉を受け止めたガオランさんの瞳から、ふっと温度が消えた。
湖底まで見通せそうなほど澄み切っているのに、一切の妥協を許さない絶対零度の武人の眼差し。わずかな沈黙ののち、彼は静かに、けれど氷の刃を突きつけるような冷徹さをもって告げた。
「護る、か。ならばなぜ、拳を交える前からそのように息が浅い」
「……っ」
心臓を素手で掴まれたかのように、呼吸が詰まった。
「背負うものが重いか。負けるわけにはいかぬか。――ならば教えておこう、斉藤真珠」
絡み合っていた指が、ゆっくりとほどかれる。
ガオランさんは僕の手を離すと、まるで最初からそこに誰もいなかったかのような無機質な目で僕を見下ろした。
「その程度の覚悟とやらでは、私の前では一秒とて立てぬ。私は殿下の剣だ。貴殿が何を背負っていようと、ただ正面から斬り捨てる」
「……知ってます」
困ったように眉尻を下げて、少しだけ笑おうとした。
家族の前で見せるような、いつもの笑みを作ろうとしたのに、頬の筋肉が引き攣って上手く動いてくれない。
「だから、僕も――持っている全部を懸けます」
ガオランさんは、もう答えなかった。
一瞥すらくれず、すり足で静かに二歩後退し、自らのコーナーへと戻っていく。
その背中が纏う気高い金色の光には、昨夜のような温もりなど微塵もなく、ただ触れれば命ごと断ち切られる抜き身の凶器だけがそこに在った。
『両者、握手を交わしましたッ! 闘神と巨人殺し、いよいよ激突ですッ!』
僕も、下がる。一歩ごとに、歓声が遠のいていく。代わりに、耳の奥で自分の心臓の音が、やけに大きく鳴りはじめた。どく、どく、と。
(普段通りに)
『両者、構えてッ!――始めッ!!』
チーター服部の腕が、振り下ろされた。
ガオランさんは、動かなかった。両の拳を顎の高さに置き、左をわずかに前へ。膝はやわらかく、踵がほんの少しだけ浮いている。フリッカースタイル。
褐色の肌を持つその男の肩には、どこにも力みが入っていなかった。
だというのに、ただそこに両足を下ろして立っているだけで、四方の空気が張りつめた氷のように凍りついていく。
剥き出しの皮膚の上を、冷たい鋼の針で一本ずつ撫で下ろされているかのような戦慄。一歩でもその結界に足を踏み入れれば、刹那の間に両断される――そんな不可視の円環が、ガオランさんの足元を中心に、音もなく描かれていた。
一つ目の手。極限の『脱力』。
僕は肺腑の底から、細く長い息を吐き出した。
肩の関節をすとんと落とし、肘を抜き、膝の裏に溜まった強張りを緩める。
打たれた瞬間、その隙間へ衝撃の波を分散させて逃がす。柳の枝が吹きすさぶ暴風を受け流すように、肉体そのものをしならせ、打撃の破壊エネルギーを背骨から足裏を経て冷たい地面へと受け流す技術。
理不尽な暴力に殴られ、蹴られ、床へ叩きつけられても、僕が今日まで生き延びてこられたのは、愚直に磨き上げてきたこの身体の柔軟さがあったからだ。
(まずは、受ける。受け止めて、この人のリズムを測るんだ)
乾いた破裂音が、鼓膜を弾いた。
パシュン、と。
それとほぼ同時、一拍の遅れすらなく、僕の顎の先が跳ね飛ばされていた。
(――え?)
頭蓋の内側で、脳漿が乱暴に跳ねる。
視界のすべてが、閃光に焼かれたように真っ白に弾け飛んだ。
何も見えなかった。
拳が空気を裂いて伸びてくる軌道も、筋肉が収縮する予兆も、撃ち抜いた腕を引き戻す残像すらも。
白濁する僕の瞳に映り込んだのは、まるで最初から微動だにしていなかったかのように、元の構えの位置でかすかに陽炎のように揺らめいている、ガオランさんの左拳だけだった。
(――嘘だろ)
背筋を、氷のような悪寒が一気に駆け上がる。
金田さんの試合で見せたあのスピードですら、この人の限界じゃなかったのか。
あれすらも、世界王者が余興で見せていた速度に過ぎなかったというのか。
バチッ、バチッ、バチィンッ!
瞬きを一つ挟むわずかな間に、視界が三度激しく跳ね上がった。
鼻柱、頬骨、そして左のこめかみ。
「躱せ」と脳髄が狂ったように警報を鳴らすより先に、もう僕の顔面は左右へと歪な軌道で弾かれている。耳朶に届く破裂音のほうが、神経を灼く痛みよりもはるかに遅い。
(は――バチッ!! 速すぎ――バチィンッ!!!)
脱力が、間に合わない。
衝撃を逃がすために、無理やり肩の力を抜こうとする。だが、「力を抜く」という脳の電気信号が筋肉の末端へ到達するよりコンマ数秒早く、次の拳がすでに皮膚の表面を陥没させているのだ。
一発目で跳ね上げられた首が元の位置へ戻る前に、二発目が顎を打ち据え、三発目が鼻骨を軋ませ、四発目が眉間を割る。
衝撃を受け流すどころか、打撃の連打によって首の角度そのものをガオランさんの拳に固定され、サンドバッグのように空中で縫い留められている。
『出たぁッ! 神速のジャブ“フラッシュ”ッ! 見えないッ! 斉藤選手の顔だけが、一方的に弾かれ続けているゥッ!!』
ドームを揺るがしているはずの片原鞘香の甲高い実況が、まるで何十メートルもの深い水の底から届く泡の音のように、くぐもって遠い。
たまらず、無意識に左足を半歩後ろへ引いた。
だが、僕が下がったのと寸分違わぬ呼吸で、ガオランさんが距離を詰めてくる。
まるで磨き上げられた氷の板の上を音もなく滑るかのような、滑らかで無駄のない足運びだった。
コンクリートの地面を擦る擦過音も、全体重を預けて床を踏みしめる重い振動も、何一つとして存在しない。
僕が下がったミリ単位の隙間を寸分狂わず埋めるように、あの神々しく研ぎ澄まされた金色が、死神の影のようにぴたりと間合いを詰めてくる。
(コンクリートの壁まで、あと九歩)
追い詰められながら、頭の隅の冷徹な目盛りが勝手に退路をカウントしていた。
――パンッ、と乾いた炸裂音。
五発目の閃光。
視界が上下左右の感覚を失い、僕の首が骨の可動域を越えるようなありえない角度へと跳ね上げられた。
鼻の奥に、じわりと生臭い鉄の匂いが立ち込める。粘度を帯びた生温かい液体が鼻腔から喉の奥へとろりと垂れ落ち、激しい咳き込みを誘うが、喉を鳴らす隙すら与えられない。
――次の瞬間。
網膜を真っ白に埋め尽くしていた無数の左の残像が、嘘のようにふっと消滅した。
(――右だ!)
眩しい閃光のように視界を焼き尽くしていたフラッシュの残像。
その真裏に広がる漆黒の死角から、鍛え抜かれた右ストレートが、空気を真空に裂きながら真っ直ぐに伸びてきていた。
ボクシング・ヘヴィー級四団体を統一した、命そのものを根こそぎ刈り取りにくる絶対の破壊力。
考えている暇など、コンマ一秒すら残されていなかった。
何千日と繰り返した防衛本能が、僕の身体を勝手に突き動かす。無我夢中で顎を鎖骨へ引きつけ、首を斜め後ろへ力任せに捻り上げた。
バヂンッ!
摩擦熱で皮膚が焦げるような灼熱感が、左の頬を走った。
完全には躱しきれなかった鋼鉄の拳が、頬骨の皮膚と肉を無慈悲に削り落とすようにして滑り抜けていく。
ごしゃり
耳の穴を通らない、鈍く湿った破壊音が頭蓋の内側で直に鳴り響いた。
密閉された水袋を力任せに揺さぶられたかのように、脳漿が激しく揺れ動く。
天井と床、上と下の位置関係が一瞬にして崩壊し、暗闇の中に眩い火花が散った。自分が立っているのか倒れているのかすら分からなくなり、全身を繋ぎ止めていた神経の糸がぷつんと切れたように、両膝ががくんと床へ折れかける。
『入ったァァァッッ!! 世界の頂点を統べた、あの破壊神の右ストレートッ! 直撃を受けた斉藤選手、しかしまだ立っている! なぜ立っていられるのかぁぁ――ッ!?』
鞘香さんの絶叫が、朦朧とする意識の縁を引っ掻いた。
立っていられた理由なんて、僕の技術でも奇跡でもなんでもない。
ただ、ガオランさんが今の一撃を「様子見の軽い繋ぎ」としてしか打っていなかったからだ。
それなのに、インパクトの寸前に急所をほんの一寸ずらすのが精一杯で、掠めただけの風圧と衝撃で頬骨にヒビが入り、脳震盪を起こしかけている。
もしあれが本気の右だったなら、今ごろ僕の頭蓋骨は砕かれ、仰向けのまま冷たい床に転がって、ドームの天井照明を虚ろに見上げていたはずだった。
崩れ落ちそうになる両膝を、震える太ももへ掌を押し当てて強引に制動する。
汗ばんでいるはずの指先は、感覚を失ったように未だ冷たく凍りついていた。
(……受け流して相手を見極めるんじゃ、なかったのかよ)
あまりの格の違いに、心の中で自分自身を嘲笑おうとした。
けれど、引き攣れた頬の筋肉は、いつもの作り笑いすら作らせてはくれなかった。
用意していた三つの勝機のうち、相手の打撃を受け流して観察するという『一つ目の手』は――開始からわずか三十秒で、玩具のように容易く捻り潰されていた。
◇
分厚い特等観覧室の強化ガラスに、無意識のうちに両手をべったりと押し当てていた。
冷房の効いた室内で、ガラスの表面は氷のように冷え切っているはずなのに、強く圧迫された私の手のひらには、冷たくじっとりとした脂汗が滲み出していた。
息を吸うことも、吐き出すことすらも完全に忘れている。
肺腑が酸素の飢餓を訴えて悲鳴を上げているというのに、酸素を取り込んで生き永らえるという生物として当たり前の営みすら、眼下で繰り広げられる惨劇への恐怖によって完全に麻痺してしまっていた。
(……見えない)
瞬きの一瞬すら惜しみ、血走るほどにガラスの向こうの闘技場へ目を凝らしているのに。
リングの中央に立つ“タイの闘神”ガオラン・ウォンサワットが繰り出す拳の軌道が、私には何ひとつとして見えなかった。
そこに映るのは、ただ理不尽で暴力的な「結果」だけ。ひどく残酷な映像の断片として、休む間もなく網膜の奥へ焼き付けられていく。
パシンッ、パシンッ、と。
耳を澄ませば届いてしまいそうなほど乾いた破壊音が幻聴のように響き、真珠くんの顔面が、まるで幽霊に弄ばれているかのように不自然な角度へと何度も激しく弾かれる。
打撃が皮膚を裂くたびに、赤黒い血の飛沫が鮮やかに宙を舞い散った。
どれほど痛烈に殴打されても、必死に地面へ両足を踏みとどまらせようとする彼の華奢な身体が、操り糸を断ち切られた人形のように大きく、痛々しく揺らいでいく。
勝負にすらなっていない。
真珠くんは拳を返すどころか、ガードを上げることすら許されず、ただ一方的に顔面を削り取られている。
彼をこれほどまでに無慈悲に痛めつけ、壊し続けているものの正体が、私の目には何ひとつ視認できない。
その絶対的な力の隔絶が、どうしようもなく恐ろしかった。
顔面を滅多打ちにされ、鮮血に塗れていく真珠くんの姿が頭上の巨大ビジョンへ映し出されるたび、ドームをぎっしりと埋め尽くす何万人もの観客席から、地鳴りのような歓声と狂熱のどよめきが沸き起こっていた。
彼らにとって、これは金を払って楽しむ極上のエンターテインメントに過ぎないのだ。
他人の命と尊厳が削り取られる瞬間を消費し、無邪気に熱狂する無数の群衆。その悪意すらない無責任な熱狂の渦の中心で、真珠くんただ一人だけが、理不尽に、一方的に破壊されていく。
かつて私を庇ってナイフで刺され、冷たい床の上で血を流していたあの子の姿が、鮮烈に重なって脳裏を灼いた。
いつも困ったように柔らかく笑いながら、自分の痛みなど欠片も見せずに家族を守ろうとしてきた真珠くん。
安全なVIPルームから見下ろしているこの冷たく分厚いガラス一枚が、あの子が命を削っている血生臭く過酷な世界と、無力な私とを隔てる、決して越えられない絶望的な断絶に思えた。
助けに飛び込むこともできず、その傷を庇うことも許されない。
私はただ、肺を凍りつかせたまま、震える指先でその冷たい透明な壁を狂ったように掻き毟ることしかできなかった。
そのときだった。
空気を引き裂く重低音とともに、鼓膜を塞ぎたくなるような、あの恐ろしい右ストレートが閃いた。
世界の頂点を極めた拳が、真珠くんの頬を直撃した瞬間――彼の頭部が、人間の骨格構造では到底ありえない凄惨な角度へと跳ね上がった。
(――あ)
首の骨が根元からへし折れ、そのまま頭ごと吹き飛ばされてしまったのではないか。
そんな悍ましい錯覚に目の前が真っ暗になり、私の心臓は、氷のように冷たい手で力任せに鷲掴みにされたかのように完全に凍りついていた。
「ひっ……!」
すぐ真隣で、喉の奥を引き攣らせた小さな悲鳴が弾けた。ルビーだ。
これ以上は一秒たりとも直視できないとばかりに、彼女は血の気の引いた両手でアクアの腕をがむしゃらに掴み、その制服の袖口へ縋りつくようにして顔を深く埋め込んでいた。
妹の震える背中を庇うように抱き寄せながらも、アクアは決して眼下のリングから視線を逸らそうとはしなかった。
普段アクアが身に纏っている、年齢不相応な大人びた怜悧さや冷徹な余裕など、今の表情には欠片も残されていない。分厚い強化ガラスに今にも額を擦りつけんばかりに前傾し、青い瞳の奥に昏い燐光を宿らせて、爪が食い込むほど拳を握りしめながら眼下で繰り広げられる惨劇をただ一心に見下ろしている。
ギリリ、と音が聞こえそうなほど強く噛み締められた唇の端から、限界まで張り詰めた感情を告げるように、ぷつりと一滴の鮮血が滲み出していた。
彼もまた、今すぐ叫び出したいほどの恐怖と激痛のような無力感に圧し潰されそうになりながら、それでも兄の闘う姿を網膜に焼き付けようと、必死に踏みとどまっているのだ。
――だから、私も。
母親である私も、姉である私も、あの子がどれほど無惨に打ちのめされようと、絶対にこの両目だけは逸らさない。
瞬きすら惜しんで見つめる視界の先、リングの床には真珠くんの赤い血が飛び散り、世界の頂点を極めた拳が容赦なく彼の急所を狙い続けている。
胸が痛い。肺腑が引き絞られ、肋骨の内側が焼け付くように熱い。
昨日の夕暮れ、あの白い砂浜で。
少し冷たかったあの子の小指に、私の小指を絡めて固く約束したのだから。
『帰ってきてね』
どれほど血を流しても、どれほどその身体がボロボロに壊れても。
あの子が、泥を啜ってでも私たちの元へちゃんと帰ってくる、その最後の瞬間まで。
この場所で、逃げることなく、その生き様を私のこの両目で見届けると心に誓ったのだ。
代わって傷つくことも、身代わりになって拳を受けることもできない無力な私が、命を削って私たちを護ろうとするあの子に対して捧げられる、たった一つの「祈り」なのだから。
祈るようにすがりついていた私の両掌が、じっとりと滲み出た冷たい脂汗によって、ガラスの冷滑な表面をつるりと滑り落ちた。
きゅっ、と低く擦れた微細な摩擦音だけが、息の詰まるような観覧室の濃密な静寂の中に、吸い込まれるようにして消えていった。
◇
二つ目の手。相手の纏う『色』を読むこと。
裂けた額と頬から滴り落ちる赤黒い血が、睫毛を濡らして視界を朱色に滲ませていた。
僕は痛む右目を極限まで細め、ガオランさんが纏うあの気高い金色の光――そのもっとも外側、大気と肌の境界線で揺らめく薄い輪郭だけをじっと凝視した。
どんな達人であろうと、打撃を繰り出すコンマ数秒の前には、必ずそのオーラの端に感情や意志の「ざわめき」が生じる。
一回戦で死闘を演じた『滅堂の牙』加納アギトさんのときは、攻撃の直前、禍々しい色の芯がきゅっと極小の一点に凝縮した。
金田さんのときは、研ぎ澄まされた思考の軌跡が、星屑のようにチカチカと細かく瞬いていた。
人間である以上、筋肉を収縮させ、重心を移動させ、標的を破壊しようと意図する瞬間に、色の波紋を完全に消し去ることなどできないはずなのだ。
待つ。
息を潜め、神経の針を限界まで尖らせて、その刹那の揺らぎを待つ。
けれど――目の前の金色は、ピクリとも動かなかった。
バチィンッ!
乾いた硬質な音が弾けた瞬間、僕の顔面は真横へと無慈悲に跳ね飛ばされていた。
勢いよく弾かれた頬の内側の粘膜が犬歯に激突し、ぶつりと鈍く裂ける。口内に溢れ出す、生温かく鉄錆びた味。
(……え?)
見ていたし、視ていた。
瞬きすら挟まず、呼吸すら殺して、全神経を彼の輪郭に注ぎ込んでいたはずだった。
だというのに、打たれる前も、拳が放たれた瞬間も、そして肉を穿たれた後ですら――あの金色は、さざ波ひとつ立てていなかった。
バヂンッ!
次いで左のこめかみが叩き割られた。視界の裏側で、閃光のような白い火花が無数に弾け散る。
それでも金色は、何事もなかったかのように凪いだままだ。
悪意も、高ぶりも、殺意すらもない。
ただ「息を吸って吐く」ことと同じ純度で、この男は世界最強の打撃を放っている。
色が読めないのなら、肉体の構造を見るしかない。
地面を捉える爪先の角度、わずかに浮き上がった踵の隙間、そして冷たいコンクリートと靴底の間に生じる、髪の毛一本分ほどの細い影の推移。物理的な身体の連動から次の挙動を割り出そうと視線を落とした、その刹那――。
――金色が、視界から完全に掻き消えた。
「……っ!?」
右か!? 違う、左――!
激痛の走る頸椎を無理やり軋ませて首を振るが、そこには誰もいない。
さっきまでそこに厳然と立っていたはずの巨躯の残像だけが、網膜の奥に陽炎のようにぼんやりと焼きついているだけだった。
地面を擦る摩擦音も、空気を切り裂く風切り音すらもしなかった。僕は、何ひとつ存在しない空っぽの空間に向かって、滑稽な案山子のように両拳を構えていたのだ。
(――しまっ……!)
気づいたときには、すべてが手遅れだった。
ドグォッ――!!
死角である右の脇腹へ、視界の外側から放たれた左フックが、恐ろしい質量を伴って深く、深くめり込んでいた。
ヘヴィー級の骨格が凝縮された岩のような拳骨の硬さが、僕の腹斜筋を無慈悲に押し潰す。
一回戦の激闘で急速に修復されたばかりの脆い肋骨が、内側へ向かって悲鳴を上げながらたわみ、その奥にある、柔らかく重い生身の内臓へと容赦なく達していく。
(あ――)
痛みを脳が認識するより遥かに早く、世界全体が閃光に呑み込まれたように真っ白に発光した。
腹腔の深部をごっそりと掴まれ、冷たい水で濡らした雑巾のように力任せに雑に捻り上げられるような凄絶な感覚。
激痛のあまり横隔膜が痙攣して跳ね上がり、肺の底に残っていた酸素の残滓が、ぐぶ、と泡立った濁った呼気となって喉から強制的に絞り出された。
息を吸おうとする。
けれど、喉と胸の筋肉が硬直して引き攣れ、冷たい空気は一欠片たりとも肺へ入ってこない。
酸素を失った脳から全身への伝達が途切れ、踏ん張りを利かせるはずだった両膝から、急速に力が抜けて落ちていく。
『レバーブローッ!! 入ったァッ! 斉藤選手の身体が、くの字に――』
――倒れるな。絶対に、膝をつくな。
視界の外縁から、どす黒い染みのような闇がじわじわと滲み出してくる。
割れるほどの力で奥歯を噛み締め、砕け散りそうな意識を辛うじて肉体に繋ぎ止めた。崩れ落ちそうになる両足に体重をねじ込み、冷たいコンクリートの地面を無我夢中で踏みつける。足裏の皮膚は痺れきり、それが本当に自分の肉体の一部なのかすら判別がつかない。それでも、ざらついた床を噛む微かな摩擦の感覚だけを頼りに、震える両膝の関節を無理やり固定した。
『――た、倒れないッッ!? あの強烈無比なボディブローを直撃で喰らっておいて、まだ倒れないのかァッ!? 嘘でしょう斉藤選手ッッ!!』
実況の悲鳴にも似た絶叫が、朦朧とする頭蓋のどこかで反響する。
(倒れるわけには……いかないんだ)
胃の腑の底、暗い泥の奥から、甘く冷たい声が囁きかけてくる。
――もういいじゃないか。
――横になりなよ。目を閉じれば、この地獄のような苦痛から今すぐ楽になれるんだから。
(……うるさい、黙ってろ)
激痛で横隔膜が痙攣し、喉が焼けて酸素が肺に落ちてこない。
それでも、立つ。あの人たちの前で、無様に転がるわけにはいかない。
折れ曲がりそうな背骨を軋ませ、前のめりに傾いた身体をどうにか起こそうとした――その、瞬き一つにも満たない刹那。
バチッ、バチッ、バチィンッ!
無慈悲な乾いた破裂音が三度、鼓膜の直近で弾け飛んだ。
右のこめかみ、打ち抜かれた顎先、そして再び跳ね上げられる左のこめかみ。
ガードを上げようと腕に神経を走らせる。
だが、鉛のように重くなった両腕が胸の高さまで持ち上がるより前に、次の閃光がすでに肉と骨を陥没させているのだ。
まるで大人が赤子の頭を指先で突き戻して遊んでいるかのような、絶望的なまでの手数の差。平衡感覚が完全に狂い、足元の地面がぐにゃりと泥のように柔らかくなって、底なしの暗がりへ沈み込んでいくような錯覚に襲われた。
(……先読みなんかじゃ、この人には絶対に届かない)
口腔内に溢れ返る生温かい鮮血を、喉を鳴らして無理やり胃の腑へ飲み下す。ひどく苦く、鉄錆の臭いが鼻腔を満たした。
一回戦の金田さんの試合を観戦していたとき、あの神速のパンチを目にしてなお、僕の心のどこかには「あの速度なら、自分も色を読めば対応できる」という傲慢な過信があったのだ。
だが、それはとんでもない見当違いだった。
僕は見落としていたのだ。ガオラン・ウォンサワットという武人が、相手に合わせて引き上げたギアの、そのさらに奥にある正真正銘の「最速」を。
金田さんは、命を削ったあの試合の中で、すでにすべてを曝け出して僕たちに見せてくれていたというのに。十手、百手と必死に先を読み、相手の思考を読み切ったその極限の果てで、理不尽なまでの地力によって無慈悲に踏み潰されるところまで、全部見せてくれていたはずなのに。
それなのに僕は、愚かにもまだ読もうとしていたのだ。
相手の感情の揺らぎや予兆の「色」を見据えれば、世界の頂点にすら手が届くかもしれないなどと。風にちぎれそうな細い蜘蛛の糸に、汗で滑る指先だけで浅ましくしがみついていた。
(――クソっ! 今さら反省会なんか開いてる場合かよ……!)
どれほど高度な読みを弄ぼうと、極限まで研ぎ澄まされた本物の「武」の前には、そんな小細工など何の役にも立たない。
用意していた三つの勝機のうち、相手の初動を察知して躱すという『二つ目の手』が――指の隙間をすり抜ける乾いた白砂のように、掌からサラサラと零れ落ちていく虚しい音が、僕の胸の奥で確かに響いていた。
◇
硝子張りの貴賓室には、甘い香の匂いが薄く漂っていた。賓客席の最上段に張り出した、王族のための一室。
深い色の絨毯に、磨き込まれた卓。銀の皿には葡萄が盛られ、壁際には殿下の侍従が数人、置物のように控えている。
眼下の闘技場は、ここからだと一枚の絵のように小さかった。窓際の椅子に、柏木渚は背筋を伸ばして座っていた。招かれたのは、試合が始まる少し前のことだ。
斉藤真珠の側の者に、賭けの行方を隣で見届けさせよ――王子のその一言で、柏木造船の令嬢はこの部屋の客になった。
眼下で、斉藤真珠の身体がくの字に折れた。脇腹を抉られたのだと、遠目にも分かる角度だった。
それでも倒れない。膝を軋ませたまま踏みとどまり、そこへまた、玩具のように顔が弾かれる。ドームの床が震えるほどの歓声。その中で、この部屋だけが妙に静かだった。
ラルマーは葡萄を一粒つまんだ。口には運ばない。照明に透かすようにして、指先で転がしている。
「……茶番だな」
ぽつりと落ちた冷ややかな声に、渚の肩がわずかに動いた。
「殿下?」
「クルットを知っておるか」
「……タイの国章にある、神鳥のことでしょうか」
「左様。ガルーダとも呼ぶ。神を背に乗せ、蛇を喰らう鳥の王よ」
葡萄が、銀の皿に無造作に放り戻された。
「昨夜、余の部屋に来たあれを見て、余はその翼を見たと思うた。己の値打ちは力でしか示せぬと、眉ひとつ動かさずに言うてのけた、あの目にな。だが――とんだ買い被りであったわ」
眼下で、また乾いた音が弾ける。こめかみ。顎。斉藤真珠の首が、防御の暇すらなくあらぬ方向へ弾かれる。
「受けて、耐えて、それきりだ。いや、耐えておるのではない。あれは今、ガオランの掌の上で『生かされておる』だけよ」
「……生かされて、いる?」
「分からぬか、柏木の娘。ガオランはまだ、あの小僧の底を値踏みしておるのだ。『滅堂の牙』を破った男がどれほどのものか、手札をすべて吐き出させるためにな。だが、見よ。一合たりとも拳を返せず、ただ突っ立って血を吐いておるだけではないか」
退屈しきったラルマーの声には、憐れみすら混じっていなかった。
「棄権させよ。ガオランが『この程度か』と見切りをつけた瞬間、次の一撃であの小僧の首は飛ぶぞ」
渚は卓の上のグラスへ手を伸ばし――触れる寸前で、指を止めた。その手を、膝の上へ戻す。
「……できません」
「ほう」
「斉藤くん――斉藤真珠とは、いくつか契約を交わしています。十年分の安寧を、彼はとうに私たちに渡してくれました。そのかわり、こちらも約束をしているのです。トーナメントの間、東洋電力に指一本触れさせないこと。そして――柏木造船が、棄権の判断を下すことを禁ずる、と」
ラルマーの眉が、わずかに上がった。
「……己の退路を自ら断ったか。愚かな」
「本人が、そう望みました」
「では、誰ならば止められる」
「……できるとすれば、ご家族だけです」
歓声が、ひときわ高く跳ね上がった。斉藤真珠の膝が沈みかけ、寸前で持ち直す。
ラルマーはそれを眺めたまま、残酷なまでに静かに言った。
「ならば、それは約束ではなく呪いだぞ、娘。お前たちのその盲信が、あの小僧をリングの上で嬲り殺しにする」
渚の睫毛が、かすかに震えた。膝の上で重ねた両手の、その内側。爪が手の甲に食い込んで、指先から血の気が引いている。それでも、顔は上がったままだった。
「斉藤真珠は、勝ちます」
声だけは、揺れなかった。
「私たちに――家族に、勝つと宣言したのですから」
しばらく、どちらも口を開かなかった。やがて、ラルマーが鼻を鳴らした。
「ふん。ならば、その家族とやらがどれほどの覚悟で処刑を見届けておるか、確かめてみるまでよ」
椅子が引かれる。王子が立ち上がると、扉の脇に控えていた二人の護衛が、音もなくその後ろについた。
葡萄の房をひとつ無造作に掴み、ラルマーは振り返りもせずに部屋を出ていった。
扉が閉まる。渚はようやく、膝の上で固く組んでいた両手をほどいた。ほどいた指先が、まだ小刻みに震えていた。
それをもう片方の手で包み込むように、強く握りしめる。
眼下の光の中で、斉藤真珠は、ただ血を流す案山子のように立たされていた。
◇
兄さんには、癖がない。鍛錬に付き合うようになって、もう何年になるだろう。何百回と向かい合ってきた。それでも俺は、兄さんの動き出しを一度も読めたことがない。
肩も、踵も、呼吸も。打つ前と打たない前とで、何ひとつ変わらない。こっちが「来る」と思ったときには、もう床に転がされて、天井を見上げている。
観るのは、闘う前に済ませておく人だ。相手の試合を、足運びを、呼吸の間を、向かい合う前に全部頭に入れておく。
そうして闘技場に立ったら――始まった瞬間に、終わらせる。滅堂の牙のときだって、そうだった。
相手は、ガオラン・ウォンサワット。打撃の頂点だ。
なのに、ガラスの下で、兄さんの顔がまた弾かれた。
構えたまま、動けない。待っているんじゃない。打たれて、下がって、また打たれる。手も足も出せないまま、一方的に追い詰められている。
それに――
(……なんだ、これ)
どこが、と聞かれても答えられない。ただ、何かが決定的に壊れている。いつもの兄さんの動きを、ひどく不器用な誰かが無理やりなぞっているみたいな。
鍛錬で何百回と向かい合ってきた目が、ざらりとした引っかかりだけを訴えていた。
「……おかしい」
気づいたら、口に出していた。
「アクア?」
アイが、ガラスから目を離さないまま聞き返す。母さんも、こっちを振り返った。
「何がおかしいの?」
「兄さんの闘い方だよ」
うまく言葉にならない。それでも、言わずにはいられなかった。
「兄さんなら、とっくに仕掛けられてるはずなんだ。なのに、開始から一度も拳を返せてない。ずっと受けに回ってるなんて、あのガオラン相手に自殺行為の筈なのに……身体が、全然動いてないんだ」
「動いてないって……どういうこと?」
母さんが、眉を寄せた。
答えたのは、部屋の奥でノートを広げていた英先生だった。
「緊張しているのだろうね。もっとわかりやすく言えば、完全に上がっているんだよ、彼は」
ペンを走らせる手を止めもせず、カルテに所見でも書きつけるような、平板な声だった。
思わず、聞き返していた。
「……緊張? 兄さんが?」
優勝候補の滅堂の牙を倒した、あの兄さんが? 俺の、ヒーローが?
見たことがなかった。一度も。怒ったところなら見た。困ったように笑うところは、数えきれないほど見た。
でも、怯えるところも、迷うところも、指先が震えるところも、俺は一度だって見たことがない。
「緊張って……あの、それは、まずいんですか」
母さんの声が、少し上ずっていた。英先生は、そこでようやく顔を上げた。
「致命的だね。真珠少年の防御は、極限の脱力の上に成り立っている。だが筋肉が硬くなっているぶん、力が抜けきるまでに数ミリ秒、余計にかかる。さらに視野も狭窄している。……もっとも」
英先生はそこで言葉を区切り、ペンの先でガラスの下――無傷のまま静かに佇む褐色の闘神を指した。
「仮に真珠少年が緊張していなかったとしても、結果は同じだったかもしれないがね」
「……え?」
しんと部屋が静まり返る。
窓際の壁にもたれていた氷室さんが、苦々しげに顔を歪めて口を開いた。
「……ああ。英の言う通りだ。あいつが家族や友人の全部を背負って、無意識に身体を強張らせてるのは間違いねぇ。だがな、それ以前の問題だ」
氷室さんの組んだ腕に、ぐっと力がこもる。
「見ろよ、あのガオランの足運びと左を。真珠が今まで何万回と反復してきた『基本の型』そのものが、呼吸のタイミングから重心の移動まで、最初から全部見透かされてやがる。小細工や読み合いが通じる次元じゃねぇ。純粋な『打撃の格』が、絶望的なまでに違いすぎるんだ」
言葉が、出なかった。
兄さんが、緊張している。それだけでも信じられないのに、その兄さんが死に物狂いで積み上げてきたすべてが、目の前の男には最初から通用していない?
――まあ、普通のトーナメントだよ。
船に乗る前、港で、兄さんはそう言って笑っていた。大丈夫なのかと聞いた俺の頭に、ぽんと手を置いて。潮風に煽られた前髪の下の、いつもの困ったような笑顔で。
あれは、俺たちを安心させるための言葉じゃなくて。自分に、言い聞かせていたんだとしたら。
……当たり前だ。兄さんだって、人間だ。
怖くないはずがない。緊張しないはずがない。
ただ、俺たちの前でさえ、ずっと鉄の仮面を被って取り繕っていただけなんだ。
それが今、ガラスの下で、無慈悲な暴力の前に剥がされ、引き裂かれかけている。
ガラスに額を寄せたまま、アイがぽつりと言った。
「……そっか」
振り返らない。胸の前で組んだ手の、右の小指だけを、左手がぎゅっと握りしめている。
「真珠くんも、怖いんだね」
怖い。
その言葉が兄さんの名前の隣に並ぶのを、俺は、生まれて初めて聞いた。
◇
(――読むのは、やめだ)
息を吸う。肝臓に、焼けた釘を打ち込まれたような痛みが走る。吐く。もう一回、吸う。
(壁まで――あと七歩)
頭蓋の奥で鳴り止まない警報を無視し、冷徹な目盛りが背後のデッドラインを弾き出す。
ガオランさんが、床の摩擦すら置き去りにするような神速の歩法で、音もなく間合いを詰めてくる。正面から打ち合えば、一秒も経たずに蜂の巣にされる。平面の距離感では、この人には絶対に勝てない。
――なら、残された『三つ目の手』を使うしかない。
三次元の立体機動と、僕の身体が持つすべての膂力を一点に叩き込む奇襲。
迷う暇など、ない。僕は地を蹴り、真横へ低く跳んだ。
四歩。伸ばした右足の爪先が、垂直に切り立つ壁面を強烈に噛む。打ちっぱなしの冷たいコンクリートが持つ無骨なざらつきと、誰かが流した古い血の乾いた感触が、薄い足底越しに神経へ生々しく伝わってきた。
駆け上がる。一歩、二歩――。
重力に抗い、壁面を垂直に蹴り進む三歩目で、視界の世界が不意に九十度傾いた。すり鉢状に広がる巨大な観客席の何万もの顔が、横倒しになったまま、一様に驚愕で間抜けに口を開けているのが網膜に焼きつく。
――壁を、思い切り蹴った。
足裏の母趾球からふくらはぎへ、ふくらはぎから大腿筋へ、そして引き絞られた腰の骨格へ。
才能なんてないと言われながら、毎朝、毎晩、ただ家族を護りたい一心で重いバーベルを持ち上げ、孤独に砂を蹴り続けてきただけの泥臭い肉体が、圧縮された鋼鉄のばねみたいに一気に弾け飛んだ。
宙に、躍り出る。
眼下に広がるのは、一点の濁りもない気高い金色。
ボクサーの距離感には存在しないはずの、真上からの死角。王者の両腕が、顔の前へと上がる。
その、さらに上へ。身体を錐揉み状にしならせながら、左足を真下へと伸ばす。靴底でガオランさんの褐色の左肩を踏み台にし、その反動で真上へ跳んでガードの届かない頭頂部を打ち抜く――!
左の足裏が、ガオランさんの左肩に触れた。
その、瞬間だった。
(――え?)
足場が、なかった。
岩のように硬く踏ん張っているはずだったガオランさんの左肩が、僕の足裏が触れたコンマ一秒の刹那、羽毛のようにふっと下へ沈み込んだのだ。
柳の脱力――僕がやろうとして出来なかった「衝撃の完全な無力化」を、ガオランさんは肩をほんの数センチ落とすだけでやってのけた。
「な……っ!?」
踏み込む力を空振りに変えられ、空中で僕の体勢が大きく崩れる。
それでも、止まれない。
空中で強引に腰を捻り、ガオランさんの頭頂部へ向けて渾身の右ストレートを振り下ろした。
ガツンッ――!!
鈍い音が弾け、手の甲から肘まで、骨が砕けたかのような激しい痺れが駆け上がった。
頭頂部を捉えたんじゃない。
見上げることすらしないまま、ガオランさんが最小限の角度で掲げた左の拳の甲――そのもっとも硬いナックルの角に、僕の右拳が自らぶつかりにいったのだ。
まるで鉄の金床を素手で殴りつけたような激痛に、右手の指がミシリと嫌な音を立てる。
(嘘だろ、真上からの死角なのに、なんで見えて――!)
着地。崩れた体勢のまま床に落ち、足首にずしんと歪な負荷が掛かる。肝臓が悲鳴を上げる。
(退くな、まだだッ!!)
ここで止まれば死ぬ。
着地の反動を無理やり回転力に変え、ガオランさんが向き直るより先に懐へ潜り込む。
膝の裏が突っ張る。壁を蹴った三歩目から、ふくらはぎが言うことを聞いていない。右の肩に小さな棘が刺さったように、腕が自分のものじゃないみたいに重い。
それでも、腰を捻る。肩を回す。師匠に叩き込まれた通り、全身のバネを乗せた全力の左フックを、ガオランさんの無防備な右の脇腹へ向けて振り抜いた!
(――届けッ!!)
メキッ、と。
脇腹の肉を抉る感触ではなく、僕自身の左手首と中手骨が悲鳴を上げる音が響いた。
「……が、あッ!?」
僕の渾身の左フックが叩き込まれた場所には、ガオランさんの右の肘先が、最初から壁のようにピタリと置かれていた。
エルボーブロック。
ボクシングにおいて、ボディフックを破壊するための最も基礎にして冷酷な迎撃技術。僕の拳は脇腹の皮膚に一ミリたりとも触れることすら許されず、鋼鉄の突起のような肘の先端を全力で殴りつけ、自滅するように弾き返されていた。
『な、なんだァッ!? 壁を駆け上がっての奇襲から渾身の左フックゥッ!! ――だ、だが効いていないッ! ガオラン選手、一歩も動かず、肘一つで完全に防ぎ切ったァァッ!!』
歓声ではなく、失望と驚愕の入り混じったどよめきがドームを揺らす。
(なんで……なんでだ! 今の、僕の全力なのに……!)
跳ぶ。壁へ。壁から死角へ。
蹴りを放てば、足の甲がガオランさんの脛や肘の角に的確に合わされて僕自身の骨が削られ、拳を振るえば、空を切るか、硬質な肩の筋肉に滑らされて空転する。
ロープアクションのように立体的に飛び回っているはずなのに、まるで巨大な蜘蛛の巣に引っかかった羽虫のように、僕だけが勝手に体力を削り、関節を軋ませ、自滅していく。
そして――空中で体勢が泳いだその刹那。
ドパンッ!!
迎え撃つガオランさんの左ジャブが、空中にいる僕の鳩尾と顎先を同時に撃ち抜いた。
「かはっ……!!」
空中で身体がくの字に折れ曲がり、僕は為す術もなくコンクリートの床へと叩き落とされた。
背中から激しく地面にバウンドし、肺の中の空気がすべて吐き出される。
(……届かない)
四つん這いになりながら、震える手で床を掻く。
脱力も、色を読むことも、そして最後の頼みの綱だった立体機動と膂力すらも。
用意してきた三つの勝機のすべてが、ガオラン・ウォンサワットという絶対的な『武の頂』の前には、傷一つ、擦り傷一つすら与えられないまま完全に封殺されていた。
◇
――軽い。
右の肘先で弾いた青年の拳の感触を、ガオランは冷めた思考で反芻していた。
壁を走り、己の肩を踏み台にしようとし、頭上から拳を落とし、死角からフックを振り抜いた。
曲芸としては見事なものだ。並の闘技者であれば、あの立体的な攪乱と、小柄な体躯に似合わぬ筋力に翻弄されて膝をついていたかもしれぬ。
だが、ガオラン・ウォンサワットには、そのすべてが最初から透けて見えていた。
(……この程度か)
壁を蹴る三歩目、足がわずかにもつれていた。
着地の瞬間、膝が一拍だけ固まった。
拳を振る直前、右の肩がぴくりと強張り、軌道のすべてを自ら白状していた。
何より――この青年の振るう技には、「自分」がない。
誰か別の達人から教え込まれたであろう型を、恐怖と重圧に駆られたまま、ただ窮屈に、必死になぞっているだけの『借り物の武』。
そんなハリボテの拳が、生涯のすべてを打撃というただ一点に捧げてきた自分の領域に、届くはずもなかった。
眼の前で、血に塗れた青年が、震える膝を叱咤してどうにか立ち上がろうとしている。
その瞳の奥にある、鉄の蓋の向こう側で渦巻いている激しい動揺と焦燥が、今のガオランには手にとるように分かった。
「……マシロ・サイトウ」
ガオランは、静かに息を吐いた。
これまで様子見のためにわずかに落としていた左拳を、本来の高さ――一切の情けを排し、敵を最短で屠り去るための「処刑の構え」へと引き上げる。
「それが、貴殿の言う『護るための拳』か」
金色の双眸に、冷酷なまでの光が宿った。
「ならば――もう、終わりだ」