◇
――倒れない。
血煙の向こう側で、青年が四つん這いからゆっくりと立ち上がった。
ガクリ、と。
右の膝が一度、可動域の限界を超えて内側へ折れ曲がる。骨が軋み、腱が引き千切れんばかりの悲鳴を上げる。
それでも――倒れない。
噛み切った舌と破裂した唇から、ドロリとした赤黒い血の泡を顎伝いに滴らせながら、青年は折れかけた首を無理矢理に持ち上げ、焦点すら定まらないはずの
ガオラン・ウォンサワットは、下げていた右の拳を静かに握り直した。
顎の先端を撃ち抜いた頭蓋の感触も。
肝臓の最深部を抉り潰した臓腑の手応えも。
すべて、この拳に確かに残っている。
世界ヘヴィー級の頂点に君臨してきた巨漢たちでさえ、一撃喰らえば例外なく意識を刈り取られ、キャンバスの上に沈んできた絶対の破壊だ。
だというのに、目の前の青年は、立体機動の奇襲をすべて肘と拳の角で迎え撃たれ、自らの拳と足の骨を砕いて自滅しながら――なおも二本の足で立ち上がってくる。
(……狂気、か)
否。違う。
ガオランには解っていた。この青年の瞳の奥に宿るものは、闘争の悦楽などという浅ましいものではない。
ただ、背後にいる者たちを護る。
その一点の誓いだけで、とうに限界を超えた肉体を無理矢理に縫い留めているのだ。
(ならば――)
ガオランの胸の内に、一点の曇りもない結論が落ちた。
――殺すしかない。
その確信が定まった瞬間、腹の底から余計な熱が消え、頭蓋の奥が絶対零度の氷のように冴え渡った。
憎悪ではない。侮蔑でもない。
それは、一人の武人が不屈の魂に対して捧げ得る、唯一にして最大の『
意識を刈り取って倒すための『ボクシング』では、この男は止まらない。脳が揺れようと、内臓が潰れようと、心臓が脈打っている限り、この男は何度でも屍のように立ち上がってくるだろう。
ならば、完膚なきまでに破壊し尽くすほかない。
四肢を折り、呼吸を止め、命の根源そのものを物理的に断ち切ることでしか、この男の『護るという執念』に引導を渡すことはできないのだ。
(許せよ、サーパイン。金田末吉。お前たちを侮っていたわけではない)
ただ――目の前で死に損ないながら立ち塞がるこの男を『確実に葬る』ためには、競技の拳だけでは足りない。
すうっ、と。
ガオランは、ボクサーの構えを解いた。
顎の前で固められていた両の拳が、額の高さまで静かにせり上がる。
両肘が外側へ鋭利な刃のように張り出し、踵が床から浮く。左の爪先が、遠い異国の処刑場で打ち鳴らされる太鼓の律動のように、静かに、不気味な拍子を刻み始めた。
ボクシングではない。
千年の戦場を血で染め上げてきた、純粋なる殺戮の凶器――『ムエタイ』。
その瞬間、ドーム全体から一切の音が消え失せた。
何万という観衆の歓声が、まるで巨大な見えない手で喉を締め上げられたかのようにピタリと止む。
実況席の片原鞘香すら、マイクを握り締めたまま唇をワナワナと震わせ、声を出せない。
ただそこに『在る』だけで他を圧倒する脅威。ガオランの全身から、皮膚を直接剃刀で削ぎ落とされるような濃密な『死の匂い』が、闘技場全域へ溢れ出していた。
――八つの歳だった。
竹と荒縄で組まれた村祭りの仮設リング。目に沁みる薄荷の塗り油の匂い。初めて他人の頭蓋を蹴り砕いた夜、家族は三日、腹いっぱい白い米を食えた。
それから幾千の死線を潜り抜け、バナナの幹を蹴り裂き、海を渡って拳ひとつで世界の頂点を統べた。
すべては、あの日膝をついて忠誠を誓った唯一人の主――ラマ十四世殿下の『剣』であり続けるために。
故に、手加減など万に一つもあり得ない。
(行くぞ、斉藤真珠。貴殿のその不屈に、私のすべてをもって応えよう)
双方の間合いは、一歩半。
拳は愚か、通常の蹴りすら届かない絶望的な遠間。
青年の重心が、警戒するようにわずかに沈んだ。
次の刹那――ガオランの右脚が、空間ごと消滅した。
否、消えたように見えるほどの神速で空間を横断したのだ。
踏み込みの予備動作すら存在しない。軸足の踵がコンクリートの上で旋回し、骨盤が捻り出され、大木を薙ぎ倒す大斧のように鋼鉄の脛が奔る。
瞬き、一つ。
届くはずのない一歩半の空白を、死神の鎌が丸ごと埋め尽くしていた。
バキャァッ――!!
静まり返ったドームに、太い生木を力任せにへし折ったような凄惨な破砕音が響き渡った。
脛が、青年の左脇腹へ斜め下から深く食い込んでいた。咄嗟にガードへ回した青年の左前腕ごと、その奥の肋骨をまとめて薙ぎ払う。
ボキッ、と鈍い音が鳴り、青年の左腕と肋骨が同時に異様な角度へとたわんだ。
「が、ぁ……ッ!?」
声にならない悲鳴とともに、青年の身体がくの字に折れて宙を舞う。
だが――ガオランは床へ落ちることすら許さない。
右脚が地面に戻るより速く、左の脛が青年の右太腿の外側を無慈悲に刈り取った。肉の奥で太い筋繊維がブチブチと千切れ、青年の右膝が完全に砕けて落ちる。
沈み込んだ顔面へ、神速の『右肘』。
眉間から鼻筋にかけてが鋭利な刃物で斬りつけられたようにぱっくりと割れ、鮮血が霧となって爆発的に噴き出した。
さらに後退しようとする腹部へ、槍のような前蹴りが突き刺さる。
足裏が鳩尾を抉り抜き、後方へ吹き飛びかけた青年の後頭部を――ガオランの両腕が、鷲の爪のように背後から捕らえた。
丸太のように太い前腕で首と後頭部を万力のように挟み込み、肘を極限まで絞って、青年の顔面を胸元へと引きずり込む。
それは逃げ場のない、絶対的な処刑の檻。
ドゴッ! ゴヅッ! ドゴォッ!!
鳩尾へ。砕けた肋骨へ。そして引きずり下ろした顔面へ。
砲弾のような膝蹴りが、一秒にも満たない間に三連打で突き上げられた。
一発ごとに青年の身体がボロ雑巾のように跳ね、口と鼻から大量の鮮血がガオランの胸板へと吐き散らされる。
そのときだ。
腕の中で、青年の両手が動いた。
ガオランの両前腕を、青年の血まみれの掌が必死に掴み取る。自慢の異常な
(――無駄だ)
ガオランの金色の瞳には、微塵の動揺もなかった。
力で剥がそうとするそのベクトルを、ガオランは手首の角度をほんの数ミリ回すだけでいなした。それどころか、青年の腕が力を込めた瞬間を狙い澄まし、左の縦肘を青年の右鎖骨へと垂直に叩き落とした。
メキィッ!!
「あ、ぐ――ッ!!」
鎖骨にヒビが走り、力を込めかけた青年の右腕から、ぷつりと神経の伝達が途切れる。
どれほどの怪力であろうと、極められたムエタイの骨格操作と打撃の前には、赤子の足掻きにもならない。
ガオランは力を失った青年の首根っこを無造作に突き放し、その胸倉へ追い討ちの前蹴りを叩き込んでリングの中央へと蹴り転がした。
◇
息を吸うと、肺の奥でヒュー、と笛のような音が鳴った。
(あ……れ……?)
床の上を二度、三度と無様に転がり、どうにか肘をついて上体を起こす。
胸の中で、折れた肋骨の断面が肺の膜をチクチクと刺しているのが解った。口を開けるたびに、気管からせり上がってきた生温かい血の塊がボタボタとコンクリートの上に零れ落ちる。
右の太腿に、感覚がない。
左の前腕は、蹴りを受け止めた場所から先が紫色に腫れ上がり、指先が小刻みに痙攣している。
先ほど縦肘を落とされた右の鎖骨は、腕を持ち上げようとするだけで、脳髄が白く焼き切れるような激痛を訴えた。
そして何より――割られた額と眉間から滝のように流れ落ちる鮮血が両目を覆い尽くし、視界のすべてがドロドロとした赤黒い闇に塗り潰されていた。
(……なにも、通じない)
首相撲を、力ずくで引き剥がそうとした。
僕に残された唯一の武器である、毎朝毎晩バーベルを挙げ続けて培ったこの身体の膂力なら、強引にこじ開けて一矢報いることができると思った。
なのに、力を込めるより先に鎖骨を肘で砕かれ、ゴミ袋のように蹴り飛ばされた。
前を見る。
赤く滲む視界の向こうで、ガオランさんが静かにこちらを見下ろしていた。
呼吸ひとつ乱れていない。褐色の肌には、僕の拳が掠めた痕すら残っていない。
ただ、絶対的な強者としての憐れみと、冷徹な殺意を湛えた金色の光だけが、処刑人の刃のように揺らめいている。
(……終わるのか? このまま、僕が……?)
駄目だ。
それだけは、絶対に駄目だ。
まだ、僕には丸山さんから教わった『技』がある。まだ出していない奥義が、残っているはずだ。
――『円』。
丸山流、二の技。相手の打撃の重みを掌で吸い取り、回転を加えて返すカウンター。
ガオランさんが、音もなく一歩踏み込んできた。
僕は震える左の掌を胸の前へ掲げ、丸山さんの手の形を必死に作った。
バチィンッ!!
吸い取るどころか、掲げた僕の左手首そのものを、ガオランさんの左ローキックが下から蹴り上げていた。
指の骨が鳴り、構えが弾け飛ぶ。がら空きになった顔面へ、神速の左ジャブが三連打で突き刺さった。
「が、はっ……!!」
(なら、『雷光』だ……ッ!)
丸山流、四の技。全身のバネを締め上げて放つ、神速の連撃。
血を吐きながら前へ踏み込み、感覚のない両腕を無理矢理に振り抜く。一発、二発、三発――!
だが、届かない。
僕の拳はガオランさんのガードの腕にすら届かない。
ガオランさんは最小限の首の傾きと半歩のステップだけで、僕の渾身の連打をすべて虚空へと空振りさせていた。
そして、四発目を打ち出そうと左足に体重を乗せた、その瞬間。
ドスゥッ!!
軸足である左の太腿の内側へ、ガオランさんの鋼の脛が根元までめり込んだ。
「ぐ、あぁぁっ!?」と悲鳴を上げて前のめりに崩れ落ちる僕の顔面へ、下から容赦のない右膝が突き上げられる。
グシャリ、と鼻の奥の軟骨が完全に潰れる音がした。
後頭部が跳ね上がり、視界から光が消える。
(ま、だ……まだ、『月食』が……ッ!)
かつて『滅堂の牙』の心臓を止めた、最後の切り札。
相手の攻撃が極限に達する一瞬の隙間に、指先を滑り込ませる必殺の一撃。
ガオランさんの右肩が動く。右ストレートが来る。
僕は薄れゆく意識の中で、伸びてくる右腕の下へ、揃えた右手の指先を突き出そうとした。
――だが。
ガオランさんは、右ストレートなど打っていなかった。
ただのフェイント。
僕が『月食』の型を作ったその硬直の瞬間を完璧に待ち構えていたかのように、ガオランさんの左フックが、突き出した僕の右腕の肩関節ごと正面から粉砕した。
ゴキッ、と乾いた音が鳴り、僕の右腕が糸の切れた人形のようにダラリと垂れ下がった。
そのまま返す刀で放たれた右の肘打ちが、僕の左のこめかみを真正面から叩き割る。
ズガァンッ!!
世界が、暗転した。
自分がどうやって倒れているのかも解らない。ただ、冷たいコンクリートの床に頬を擦りつけながら、ズルズルと数メートルも滑っていく感覚だけがあった。
『あ……あぁぁ……っ! なんということでしょう……! 斉藤選手の放つ技という技が、一発たりとも、かすりもしないッ! 赤子の手をひねるかのように、すべてが粉砕されていく……! 勝負になっていない! これは……これ以上は、ただの公開処刑ですッ……!!』
鞘香さんの声が、悲鳴のように掠れて震えていた。
熱狂していたはずの何万もの観客席からも歓声が消え、『おい、もう止めろよ……』『死んじまうぞあれ……』という引き攣ったざわめきが波のように広がっていく。
(……ああ。そうか)
血だまりの中に突っ伏したまま、僕はようやく悟った。
『円』の構えを作る一瞬。
『雷光』へ移る重心移動。
『月食』の指先を揃える予備動作。
全部、最初から見透かされていたのだ。
何万回と反復し、自分のものにしたと思い込んでいた丸山さんから習った『技』は、ガオラン・ウォンサワットという本物の『打の極致』の前では、骨格の違う師匠の型を不器用になぞっているだけの、滑稽な『借り物』でしかなかったのだ。
――『お前に、武の才能はない』
あの雨の日、丸山さんが吐き捨てた言葉が、冷たい刃となって脳裏を抉る。
本当だった。
僕には、才能なんて一欠片もなかったのだ。
千日、万日と血の滲む思いで積み上げてきた努力も、手の皮を剥き、爪を割って繰り返してきた鍛錬も、すべては天賦の才と本物の研鑽の前には、塵芥のように吹き飛ばされる無意味な足掻きだった。
右腕は脱臼し、だらりと床に垂れている。
両脚の太腿は筋繊維が断裂し、力を入れようとしても痙攣するだけだ。
肋骨は折れ、呼吸をするたびに肺に血が溜まっていく。
手も、足も、出ない。
打つべき手札は、もう一枚たりとも残っていない。
完全なる、詰みだった。
◇
「――もう、やめてぇぇぇっ!! お兄ちゃんっ、立っちゃダメぇぇぇっ!!」
特等観覧室の静寂を引き裂いたのは、ルビーの喉が張り裂けんばかりの絶叫だった。
今までアクアの背中に顔を埋めていた彼女は、血だまりの中で痙攣しながらなおも指先を動かそうとする真珠の姿を見て、狂ったように強化ガラスへと駆け寄り、両手でバンバンとガラスを叩き始めた。
「死んじゃう! このままじゃお兄ちゃんが死んじゃうよぉっ! ママ! 止めてよ、早く止めてって言ってよぉっ!!」
ボロボロと大粒の涙を零しながら泣き叫ぶ妹の肩を、アクアは抱き留めることすらできなかった。
アクア自身の両足が、生まれたての子鹿のようにガタガタと震えていたからだ。青い瞳は絶望に見開かれ、過呼吸になりかけた浅い息が、ヒュー、ヒューと喉を鳴らしている。
(……嘘だろ。兄さんが、手も足も出ないなんて……)
一回戦で、あの無敗の『滅堂の牙』を沈めた奥義のすべてが、文字通りゴミのように払い落とされた。
策も、技術も、怪力も、何ひとつ通用しない。
眼下のリングで行われているのは、試合などではなかった。圧倒的な捕食者が、羽を捥がれた小鳥をただ正確に、部位ごとに破壊していくだけの凄惨な解体作業だ。
「――邪魔をするぞ」
その地獄のような観覧室の扉を押し開け、タイ王国の若き王子、ラマ十四世――ラルマー殿下が、二人の護衛を従えて足を踏み入れたのは、まさにその時だった。
「斉藤真珠の母御だな。席を借りるぞ」
ミヤコが声を出すより早く、殿下は隣のソファーへどかりと腰を下ろし、ガラスの下で血だまりに沈む真珠を見下ろした。
「……まだ息があるか。ここへ来るまでの間に、とっくに絶命しておると思うたのだがな」
氷のように冷酷な声だった。
殿下は首元から細い金の鎖を引き抜き、その先端に下がる黄金の神鳥――『
「回りくどい話は抜きだ。母御、今すぐ棄権を宣言せよ」
ドクン、とミヤコの心臓が大きく跳ねた。
「柏木の小娘には契約で止められぬと断られた。あれをこの処刑台から引きずり下ろせるのは、家族であるそなたらだけだ。そなたが首を縦に振れば、余の権限で今この瞬間に仕合を終わらせてやる」
「き、棄権……」
「余は昨夜、あの小僧の瞳の奥に、余の国章たる神鳥『クルット』の幻影を見た。囚われの母を救うためだけに単身で神々に挑み、不死の霊薬を奪い取りながらも、己の欲のためには一滴も飲まなかった献身の鳥をな。……生まれた瞬間にあまりに眩しすぎた己の光を、誰をも傷つけぬよう自らの肉体の奥底へ封じ込めた、孤独な神鳥の姿だ」
ガラスの向こうで、血だまりに突っ伏していた真珠が、折れた左腕一本を床に突き立て、亡霊のようにズルリと上体を持ち上げた。
客席から、悲鳴にも似たどよめきが上がる。
「だが――現実を見よ、母御」
殿下の声が、残酷な刃となって観覧室を貫いた。
「あれは神鳥などではなかった。ガオランの拳によって無残に羽を捥がれ、骨を砕かれ、今やただの肉塊と化しておる。これ以上続ければ、十秒と経たずにガオランは『敬意』としてあの小僧の首の骨を完全にへし折るぞ」
パタリ、と。
部屋の奥で、英先生が手元のカルテを閉じた。
その顔からは、いつもの飄々とした笑みが完全に消え失せていた。
「……殿下の仰る通りです、ミヤコ社長。医師として断言します。真珠少年の肉体は、すでに生命維持の限界を超えています。右鎖骨骨折、左前腕不全骨折、肋骨複数本骨折による
「ママァッ!! やめてって言ってよぉっ!! お兄ちゃんを助けてよぉっ!!」
ルビーがガラスに縋りついたまま、喉から血を吐くような声で泣き叫ぶ。
窓際の氷室も、唇を噛み締めて目を伏せた。
「……棄権させろ、あんたたち。これ以上は、俺でも見てられねぇ」
誰も彼もが、終わりだと言っている。
プロである闘技者も、医師も、一国の王子も、実の娘でさえも。
一言でいいのだ。
『棄権します』
母親である自分がその五文字を口にするだけで、真珠は死なずに済む。タイへ行けば、事務所も家族も守ってやると殿下は約束してくれた。
(言いなさい、ミヤコ! あの子を殺す気なの!?)
喉の奥まで、言葉がせり上がってきた。
震える唇が開きかけた――その瞬間。
「……だめだよ、社長」
ガラスの真ん前で、ずっと沈黙を守り続けていたアイが、静かに口を開いた。
掠れた、けれど凛として澄み渡った声だった。
アイは防弾ガラスに額を押し当てたまま、右手の小指を左手でぎゅっと握り締め、祈るような瞳で眼下の弟を見つめていた。
「ここで私たちが止めたら……真珠くんが今まで一人で泣きながら積み上げてきたもの、ぜんぶ、私たちが嘘にしちゃうことになる」
ミヤコは、ハッと息を呑んだ。
脳裏に、一回戦へ向かう前のあの子の背中が蘇る。
『無事に帰ってきなさい』と声をかけた私に、あの子は振り返り、いつもの困ったような曖昧な微笑の下で、絶対に譲らない冷たい瞳をしてこう言ったのだ。
――『約束できないなぁ。……でも、勝ってくるよ』と。
もし今、私たちが真珠の覚悟を勝手に折り曲げたら。
あの子は生き延びたとしても、その魂は今この瞬間に死ぬ。そして二度と、私たちに本音を預けてはくれなくなるだろう。
「……お断り、いたします。殿下」
ミヤコは、血の滲む拳を膝の上で握り締め、絞り出すように告げた。
「あの子は、勝ってくると言いました。……だから私は、母親として、あの子を信じてここで待ちます」
「――正気か、女」
ぞぐん、と。
殿下の双眸が、絶対零度の威圧を放ってミヤコを射抜いた。
「それで、数秒後にあれが死体となって運ばれてきたら、貴様はどうするつもりだ」
「そのときは……私が一生背負い、あの子の後を追います」
狂気にも似た母の瞳を見て、殿下は数秒間、無言で息を呑んだ。
やがて、小さく息を吐き出し、再びガラスの下へと視線を戻した。
「……愚かな家族よ。ならば、その両の目に焼き付けるがいい。お前たちが選んだ結末をな」
◇
膝が、地面についていた。
いつ倒れたのか、分からなかった。耳の奥で、何かが鳴っている。歓声なのか、自分の血が流れる音なのか、区別がつかない。
『ダウンッ!! ついに斉藤選手、膝をついたッ! 立てるか!? 立てるのか!? ……いえ、もう立たないでください! 誰か止めてッ……!』
(……立て)
脚に力を込める。滑る。自分の血で、地面がぬめっている。
顔を上げた。
ガオランさんが、そこにいた。追い打ちはない。構えたまま、ただ静かに、僕が立つのを待っている。
金色が、眩しい。もう、刃の形すらしていない。目を細めても、瞼の裏まで光が染みてくる。
その眩しさの奥に――色が、重なっていた。
いちばん底にあるのも、金だった。裸電球の下で、誰かを食べさせるために握られた、小さな拳。泥と汗と、他人の血にまみれていたはずのその拳が、それなのに、少しも濁っていない。
その上に、何千、何万と打ち込まれた
四角い光の中で、たった一人、高く掲げられた拳。それすらも、
そして、いちばん外側を包んでいるのは――王の前に膝をつき、その身ごと差し出した、剣の色だった。
どこを覗いても、混じり気がない。迷いも、欲も、恐れも、とうの昔に打ち出されて、塵ひとつ残っていない。泥を浴びても、血を浴びても、一度も曇ることのなかった光。
(……ああ)
全部、この人のものだ。借りた色が、一つもない。気の遠くなるような年月をかけて、この人が、自分の身体ひとつで積み上げてきた色だ。
(勝てるわけ、ない)
僕とは、違う。
僕の武は、借り物だ。丸山さんの形を、なぞっていただけだ。
地面についた手から、力が抜けていく。
もう、いいんじゃないか。ここまでやった。よくやった。誰も、責めたりしない――
――ほんとにブラコンでシスコンだよね、真珠お兄ちゃんって。
ふいに、ルビーの声がした。リビングのソファで、クッションを抱えて、呆れたように笑いながら。
――兄さんはマザコンでもあるけどな。
隣で、アクアが本から目も上げずに付け足した。
――聞いても聞かなくても、私達、友達でしょ?
ゆらが、当たり前みたいな顔で言った。
『お前が一人で抱え込むところは、もう見たくない』
白銀の、短いメッセージ。
『あなたは……すぐに一人で背負い込む方ですから』
四宮さんの、少しだけ硬い文字。
夜通しパソコンとにらめっこしていた石上。リスボンの朝の光の中で、ふいと目を逸らした早坂さん。「逃がさないよ、相棒」と笑った藤原さん。
闘技場の外で、今も一緒に闘ってくれている人たち。
――真珠くん!
声が、降ってきた。ガラスの向こうから。届くはずのない声。でも、確かに聞こえた。
――真珠お兄ちゃん!
――兄さん!
ルビーと、アクアの声。
そして――
――ちゃんと、帰ってきてね。
浜辺で絡めた、細くて、少し冷たい小指。
あのとき、姉さんの色は、波打ち際の泡みたいに細かく震えていた。笑っていたのに。いつもの、とびきりの笑顔だったのに。
パラソルの影で、膝を抱えていた姉さん。
――私はいいの。ここで、みんなを見てるのが楽しいから。
芸能界という夜空で、ずっといちばん高いところに輝いていた一番星。顔も知らない誰かに石を投げられて、それでも笑っていた人。報道が出た朝、目の下に隈をつくって、それでも僕にだけは「大丈夫。ありがと、真珠くん」って笑った人。
――真珠くんは真珠くんだもん。普通じゃなくても。
どんなに普通じゃなくても、姉さんだけは、何でもないことみたいにそう言って笑った。
――私の、可愛い自慢の弟。
焦げたフライパン。
――真珠くんは座ってて。今日は私が作るの。
エプロンの紐を後ろ手に何度も結び直しながら、姉さんはそう言った。家族の食卓を知らずに育った人だった。だからなのか、どんなに忙しい日でも、どんなに下手でも、自分の作ったご飯をアクアとルビーに食べさせたがった。
それでも、隣で見ているだけなのは落ち着かなくて、こっそり火を弱めたり、塩の瓶をそっと遠ざけたりした。気づかれて、頬を膨らまされたことも、一度や二度じゃない。
――もう。手、出さないでって言ったのに。
――ごめん。じゃあ、ここで見てるだけにする。
――……やっぱり、卵割るのだけ手伝って。
二人並んで、台所に立った夜。換気扇の音に紛れて聞こえる、サインはBの鼻歌。菜箸で拍子を取る、細い指。焦げる匂いに気づいて、慌てて火を止める横顔。
「はい、どうぞ」
いちばん最初の一皿は、いつも僕のところに来た。味見係、と姉さんは呼んだ。得意げに差し出される、ちょっとだけ――いや、だいぶ焦げた卵焼き。
苦い。でも、どこまでも暖かく優しい味。
ーー美味しいね
そう言うと、姉さんは目を細めて、子どもみたいに笑う。それから残りを大事そうにお皿に並べて、リビングに向かって声を張るのだ。
――アクア、ルビー! ご飯できたよー!
ルビーは「ママのご飯だ!」と飛んできて、アクアは「……焦げてる」と言いながら、一口も残さない。
家族の食卓。姉さんが、ずっと欲しかったもの。
その真ん中で笑う姉さんの顔が、好きだった。ずっと、見ていたかった。いちばん近くで。いちばん、明るいところで。
(……まだ、見てない)
あの浜辺から、まだ一度も。姉さんが、心の底から、何の影もなく、憂いもなく笑うところを。パラソルの影から、まだ、引っ張り出してあげられていない。
(帰らなきゃ)
帰って。もう一度、あの焦げた卵焼きを食べて。苦いね、って言って。姉さんが、笑う。
それを見るまで――死ねない。
「――ぁ、ぁぁ……ぁぁぁぁあああああッ!!」
獣みたいな声が、喉を裂いて出た。肺の中のものを全部吐き出して、そのぶん、空気を無理やり引きずり込む。折れた
(……帰るんだ)
立ち上がる。膝が笑う。肋骨が軋む。それでも、立つ。
『立ったァァァッ!! 立ちましたッ! 斉藤真珠、まだ立つッ!!』
(諦めるな、斉藤真珠。同じ人間なら、勝てない道理はない。たった一度でいい。この一瞬に、すべてを賭けてみせろ――ッ!)
◇
僕は、立っていた。
右腕は肩から外れて、だらりと垂れ下がっている。左腕は、とうに感覚がない。両膝は壊れた
三年前に光を失った左目は、深い闇に閉ざされたまま。たった一つ残された右目の視界すら、割れた額から流れ落ちる血で、どろどろの赤に塗り潰されている。
赤く
ムエタイと、ボクシング。二つの武を、あの人は使い分けているんじゃない。重ねて、溶かして、一本の光にしようとしている。果てしない強さへの
(……きれいだ)
殺されかけているのに、もう、見惚れるしかなかった。
その全身から溢れる黄金の『色』が、ゆっくりと左足を踏み出すのに合わせて、一点に収束していく。僕の命を断ち切るための、最後の輝きへと。
(……ああ。来る)
終わる。
次の一撃で、僕の頭蓋は砕ける。防ぐ腕もない。
(ごめん、姉さん。アクア、ルビー。母さん、父さん……)
負ける。
僕が死ねば、速水会長にすべてを奪われる。みんなを、護れない。
喉の奥から、生温かい血と一緒に、黒いタールみたいな後悔がせり上がってくる。
(……どうして、僕はこんなに弱いんだろう)
苦しかった。
ずっと、ずっと、息が詰まるほど苦しかった。
僕の周りには、いつも『特別』な人たちがいた。
ステージに立つだけで何万人もの心を奪い、世界そのものを照らしてしまう一番星――姉さん。生まれつき鋭い知性を宿したアクア。太陽みたいに真っ直ぐで、眩しいルビー。天才子役と呼ばれた有馬ちゃん。立っているだけで華のある片寄や高橋。そして、この絶命トーナメントという魔窟で出会った、生まれながらの怪物たち。
それに比べて、僕は何だ。
ゼロからイチを生む才能なんて、これっぽっちもない。体格にも恵まれていない。一度見ただけで何でもできる天才でもない。幼い頃に一度壊されたせいで、人より少しだけ身体が丈夫になった――どこにでもいる、不器用な
五歳のあの日、僕の幸福は、音もなく消えた。
台所に残る、玉ねぎの甘い匂い。まあるいハンバーグ。見知らぬ男が振り下ろした包丁から僕を庇って、冷たくなっていく腕の中で、ママが遺した最後の声。
――あなたのことを、いつまでも愛しているわ。
恐怖で指先ひとつ動かせず、ママの血で靴下を濡らしながら、ただ殴られ続けた夜。あの夜から、僕の時間は止まったままだった。
お坊さんが言った『良い子にしていたら、ママに会える』。その言葉だけに、
百点を取ったのも。かけっこで一番になったのも。事務所でみんなの雑用を引き受けたのも。本棚のノートに、誰にも見せない手紙を書き続けたのも。
全部、そうだ。
僕は、生きるために頑張っていたんじゃない。いつか死んだとき、胸を張ってママのところへ行くために――『良い子』を、演じ続けていたんだ。
その空っぽの僕に、あの人たちは、温もりをくれた。
夜が怖いとき。言葉が出ないとき。手を『とんとん』と叩けば、母さんは必ず駆けつけてくれた。柔軟剤と出汁の匂いのする腕で僕を抱きしめて、ゆっくり三回、強めに二回、最後にひとなで。背中を、さすってくれた。
大人の男が怖かった僕に、父さんは不器用な手で、何度も何度も野球のボールを投げてくれた。取れても、取れなくても、大きな掌で頭を撫でて、不器用な笑顔を作ってくれた。そういえばあのとき、母さんも笑ってたっけ。
姉さんは、僕が淹れたココアを、世界でいちばん美味しいものみたいに飲んでくれた。嘘だらけの世界の中で、『真珠くんは、私の自慢の弟だよ』って、本当の顔で笑ってくれた。
アクアとルビーは、小さな歩幅で僕の後ろをついてきて――僕を、『お兄ちゃん』にしてくれた。
三年前のあの日。
姉さんの家の玄関先で、ナイフからルビーを庇って刺されて、僕の心臓は一度、止まった。
あぁ、なんで忘れてたんだろう。
燃えるような紅葉の並木道を抜けた先。真っ白な空間の、
――私がこの名前をあなたにつけたのは、優しい子に育ってほしかったから。長い年月をかけて宝石になる真珠のように。天才じゃなくてもいい。地道に、少しずつでも前に進める子に、育ってほしかったから。
――離れるんじゃない。真珠は、自分の人生を進むの。
あの日、僕はママのお墓の前で、手紙を焼いた。
世界の決まりごとに拒まれても、全身に絡みつく鎖を引きちぎってでも、あの温かい食卓へ帰ると決めた。
姉さんが輝くところを。アクアとルビーが大人になるところを。母さんと父さんに親孝行して、喜んでもらうところを。
――『未来』を見たいと、初めて、自分の言葉で願ったんだ。
なのに。
(……ああ、そうか)
赤い視界の向こうで、黄金が、最後の輝きを放とうとしている。
その光を見上げながら、僕は、ようやく気づいた。
あの日、未来を見たいと願ったくせに。僕はまだ、ずっと、どこかで『いなくなる準備』をしていたんだ。
誰かの前に立って、盾になって。誰かの後ろに回って、背中を押して。照らして、照らして、照らし続けて――そうして、いつか燃え尽きたら、今度こそ胸を張ってママのところへ行けると思っていた。
護りたかったのは、家族の笑顔。
でも、その笑顔の輪の中に――僕は、自分を数えていなかった。
(……違う)
違うだろ。
姉さんが焦がした卵焼きを、苦いね、って笑い合いたかった。
アクアが照れたときに赤くなる耳を、からかいたかった。
ルビーがいつか大きな舞台に立つ日、客席のいちばん前で、手が痛くなるまで拍手したかった。
母さんの背中を、今度は僕がさすってあげたかった。父さんと、いつか一緒にお酒を飲みたかった。
照らしたかったんじゃない。
隣に、いたかったんだ。
あの食卓の、あの椅子に座って。同じものを食べて、同じことで笑って、同じ夜を越えて――みんなと一緒に、年を取っていきたかったんだ。
ドクン、と。
心臓が、一度だけ大きく鳴った。
五歳の夜の恐怖も。刺された日の冷たさも。天才たちの背中を見上げるたびに飲み込んできた、どうしようもない劣等感も。
全部、本物の痛みだった。
それなのに――今、胸の中に溢れてくるこの光と比べたら。
(……ちっぽけだ)
あの食卓の灯りと比べたら。姉さんの笑い声と比べたら。母さんの手のひらの温度と比べたら。
僕がこれまで背負ってきた苦しみなんて、全部、ちっぽけだった。
ガオランさんの右拳が、静かに引かれた。
神の雷みたいな一撃が、僕の顔面を砕くために放たれる――その、コンマ一秒前。
(……僕は、何をしてきたんだ)
静かな問いが、浮かんだ。
丸山さんの武を覚えた。三つの技を繋いで、その場にあるものを使って、組み合わせて。それが自分の自由だと思っていた。型を破った、自分だけの武だと。
違う。守っていただけだ。破ってすらいなかった。丸山さんの型の内側で、その形をなぞって、自分のものだと思い込んでいた。凡人だから。才能がないから。そう決めつけて、どこかで、挑むことをやめていた。
組み合わせるだけじゃ、勝てない。
なら、どうする。
――混ぜろ。
胸の奥に、手を伸ばす。
蓋が、あった。闘う前に、いつも確かめてきた蓋。いつからそこにあるのか、もう覚えていない。
その下に何があるのかは、知っている。ずっと、そこにいた。黒いナニカ。冷たくて、残酷で、どこまでも静かなもの。
五歳の夜に生まれた。
目の前でママが動かなくなって、知らない男の拳が、何度も、何度も、小さな僕に振り下ろされた夜。泣いても、叫んでも、誰も来なかった。だから、泣くのをやめた。叫ぶのをやめた。代わりに、胸の奥が、すうっと冷えていった。
刺されて、心臓が止まりかけた日も。薄れていく視界の端で、刃物を握った男の顔を見上げながら、胸の奥のそれは、ひどく静かに目を開けていた。
姉さんに石を投げる、顔も知らない誰か。ルビーを泣かせる誰か。アクアの指先を震えさせる誰か。母さんに、電話口で何度も頭を下げさせる誰か。
そういうものを見るたびに、それは、温度のない声で
喉を潰せ。骨を砕け。二度と立てないようにしてしまえ。この世から、跡形もなく消してしまえ――と。
壊したい。消したい。殺したい。
それは、誰かが僕の中に置いていったものじゃない。僕だ。残酷で、冷たくて、人を壊すことに少しも
だから、いらないと思った。こんなものは、いらない。こんなものを抱えている僕も、きっと、いらない。
――なのに、可笑しいんだ。
その冷たさは、一度だって、僕のために向いたことがない。壊したいのは、いつも、誰かを泣かせるものだけだった。消したいのは、いつも、誰かの笑顔を踏みつける足だけだった。
それでも、怖かった。自分の中に、こんなものがいることが。だから、蓋の下に閉じ込めてきた。
誰かを、照らしたかったから。姉さんの笑顔を。ルビーとアクアの明日を。灯りの下で、黙ってお茶を淹れてくれる母さんの横顔を。いつもいちばん近くで、照らしていたかった。それが、僕の望みだと思っていた。
照らす光は、きれいじゃなきゃいけない。こんな歪なものが混じっていたら、きっと、誰かを怖がらせてしまう。
――本当に、それだけだったのか。
誰かを照らしているあいだは、自分を見なくて済んだ。誰かの光のすぐ隣にいれば、僕がどんな顔をしているのか、誰にも、僕自身にも、分からなかった。
ちゃんと、己を見つめ直せ。
蓋に、指をかけた。
◇
ラルマーは、
ガラスの下で、青年が立っている。顔は腫れ上がり、血に塗れて、立っていること自体が不思議なほどだ。
なのに。
(……なんだ)
その身体の輪郭が、ほんのわずかに、滲んで見えた。照明のせいではない。汗のせいでもない。青年の内側から、何かが、細く、細く漏れ出している。ひびの入った卵の殻から、光が一筋、こぼれ落ちるように。
(そうか。まだ、雛ですらなかったのか)
ラルマーは、無意識に首元の鎖を握りしめていた。金の鳥が、掌に食い込む。
(――割れるか)
「……殻が、割れる」
ぽつりと、声がした。
ラルマーは、横目でそちらを見た。アクアだった。妹を背中に庇ったまま、ガラスの下を食い入るように見つめている。
「見えるのか、小僧」
「……見えません。何も」
アクアは、ガラスから目を離さずに答えた。
「でも、さっきの話。クルットは、生まれた瞬間に眩しすぎて、神様たちが火の神と間違えたって。――兄さんの背中が、今、そういうふうに見えるんです」
ラルマーの口の端が、ゆっくりと吊り上がった。
「……ふ。聡い小僧だ」
金の鳥を握る指に、力がこもる。
「余は、聡い者が好きだぞ。――目を逸らすなよ。殻が割れる瞬間は、一度きりだ」
隣で、
殻が割れた途端、光が爆ぜた。世界の終わりの業火のような光が、天を、地を、神々の宮殿を、真っ白に塗り潰した。神々は、火の神が世界を焼き尽くしに来たと、一斉に地に伏した――幼い頃、何度も聞かされた話が、耳の奥で鳴っていた。
「……面白い」
誰にも聞こえない声で、ラルマーは呟いた。
◇
引き絞った右拳が、放たれなかった。
ほんの、一瞬。止めたのではない。止まったのだ。
目の前の青年が――眩しい。
血と汗に塗れた、満身創痍の身体だ。膝は笑い、肋骨は何本も折れている。打てば倒れる。そのはずだった。
なのに、踏み込んだ足が、前に出ない。正午の太陽を正面から見上げたときのように、目の奥がちりちりと焼ける。
殿下の首元で、いつも揺れているあの金の鳥。翼を広げ、両腕を天に掲げた、炎の王。
(……クルット)
昨夜、青年が部屋を去ったあと、殿下がぽつりと呟いた言葉が蘇る。
――あれは、クルットよ。
ガオランの背筋を、冷たいものが這い上がった。恐怖ではない。これは、
それでも。
(――ならば、なおさらだ)
武人の本能が、畏れを踏み砕いた。ガオランは、拳を放った。
◇
蓋を、開けた。
真っ暗だった。蓋の下は、どこまでも暗くて、冷たくて、音がなかった。
その真ん中に、小さな子どもが座っていた。五つくらいの、男の子。膝を抱えて、こっちを見上げている。
僕の顔をしていた。ガラス玉みたいな、何も映さない目で。
「……あけたんだ」
子どもが言った。
「うん」
「いらないんじゃ、なかったの」
責めるでもなく、泣くでもなく、ただ確かめるみたいな、小さな声だった。
「ぼくのこと」
「……うん。そう思ってた」
「ぼくがいると、みんな、こわがるよ。ねえさんも。ルビーも」
「知ってる」
「ころされちゃうよ? このままじゃ、また、なにもまもれないよ?」
「……うん」
「ぼく、ママをまもれなかった」
「……うん」
「ゆうかちゃんも。まるやまさんも」
「うん」
「ぜんぶ、まにあわなかった」
子どもの目は、少しも揺れなかった。泣き方を、とうの昔に忘れてしまった目だ。
「だから、ぼくなんか、いないほうがいいんだよ」
――ああ。そうか。
ずっと、そう思ってたんだ。この子は。僕は。
膝を折って、子どもと同じ目の高さにしゃがみ込んだ。
「……そうだね。守れなかった。ママも、優香も、丸山さんも」
言葉にした途端、喉の奥が、焼けるように痛んだ。
「僕は、誰よりも、僕を信じてなかった。君のことも。ずっと、いらないものだって蓋をして、見ないふりをしてた」
子どもが、ぱちりと一度だけ、瞬きをした。
「でもね」
手を、伸ばす。小さな頭に、そっと置く。氷みたいに、冷たかった。
「君がいたから、僕は生きてこられた。冷たくならなきゃ、あの夜を越えられなかった。君が怒ってくれたから、何度でも立てた」
「……」
「君は、いらなくなんかない」
ずっと、誰かにそう言ってほしかった。誰かじゃなくて――僕自身に。
「一緒に、行こう。……あの食卓に」
子どもの目に、初めて、何かが揺れた。
「……ぼく、いて、いいの」
「いいよ」
声が、震えた。
「いてよ。……ごめんね。ずっと、一人にして」
小さな手が、おそるおそる、僕の指を握った。冷たかった手のひらに、ゆっくりと、体温が戻っていく。
パキィン、と。
胸の奥の『鉄の蓋』が、粉々に砕け散った。
(――ああ、そうか)
その瞬間。
頭蓋の奥で、ぷつん、と何かが千切れる音がした。
肉体だけじゃない。生き物が、自分の命を守るために本能で掛けている枷。生まれてから今日まで、僕の脳と身体を縛りつけてきた
ドクンッ!!
心臓が、肺を押し潰すほどの圧で、一度だけ脈打った。
直後――世界から、音が消えた。
色が抜け落ちる。灰色に錆びついた闘技場が、水の底に沈んだみたいに、ほの暗く、ゆっくりになる。
迫ってくるガオランさんの右ストレートが、粘りつく水をかき分けるように、一ミリずつ、コマ送りで網膜に映る。拳の皮膚に浮いた汗の粒。肩の筋肉が、一本ずつ順番に縮んでいく様子。空中に散った僕の血の一粒一粒が、止まった星の砂みたいに、ちらちらと瞬いている。
痛みが、遠い。怖さが、遠い。『負けたらどうしよう』という重さすら、砕けた蓋と一緒に、どこかへ消えていた。
借り物の鎧は、さっき、目の前の
なら。
全部剥がされた、この凡夫の中に、何が残っている?
(……あるじゃないか)
記憶の底の、白い空間を見下ろす。
そこには、星が、転がっていた。
丸山さんが本当に僕にくれたもの。才ある人のための『
毎朝六時。冬の冷たい空気を肺に入れながら、走り続けた歩幅。
公園の砂場。右足の
十で背中が温まり、二十で前腕が重くなり、四十で第二関節が熱を持ち、百まで一度も形を崩さずに引き戻した肘の軌道。
臍の下から真っ直ぐ突き上げる前蹴りの『畳み』。軸足の踵を砂にねじ込み、股関節を開く回し蹴りの『掛け』。
雨の日の稽古で、何度も転んでようやく覚えた、滑らない足の置き方。壁際に追い詰められたとき、肘をどこに置くか。倒れかけたとき、どちらの足で踏ん張るか。息が上がったとき、どこで吸って、どこで吐くか。
アクアと転げ回りながら覚えた、手近なものを何でも使う癖。誰かの背中から盗んだ、名前も知らない足さばき。
眠りの中の白い夢でさえ、何千時間、何万時間と繰り返した基礎。
裏方の現場で、何百人ものスタッフや役者の呼吸と色を見て、手帳の罫線が埋まるまで書き留めた、人の重心と、筋肉の予備動作。
そしてあの日、丸山さんの分厚い腹筋を、初めて貫いた――極限の『脱力』と『凝縮』が重なる、あの一瞬の感覚。
一つ一つは、必殺技とすら呼べない。泥臭くて、ちっぽけで、天才たちが見たら鼻で笑うような、凡夫の足掻きだ。
けれど。
長い年月をかけて、真珠が一枚ずつ層を重ねるように積み上げてきた、あの日々だけは――
絶対に、僕を裏切らない。
脳が、沸騰するように回る。
全部、くれてやる。
丸山さんの円も、雷光も、月食も。母さんの手帳も。楽屋の隅で覚えた、誰かの癖も。家族と交わした、何でもない会話のひとつひとつまで。
鼻の奥の鉄の味。肌を焼く照明の熱。足の裏の、ぬめった地面。折れた肋骨の軋み。毎朝毎晩、重いものを持ち上げて、走って、握って、引いて、そうやって一本ずつ編み上げてきた筋肉。
怖い。痛い。逃げたい。壊したい。消したい。殺したい。理性で押さえつけてきたもの、全部。
考えることさえ、混ぜてしまえ。
混ぜて。混ぜて。混ぜて。
記憶が、混ざる。感覚が、混ざる。万日の鍛錬で編み上げた筋繊維の一本一本が、思考の壁を越えて、どろどろに溶け合っていく。どこからが僕で、どこからが痛みで、どこからが記憶なのか、もう分からない。
蓋の下にいたあの子の冷たい眼と、あの食卓へ帰ると誓った僕の熱い鼓動が、一つに重なる。
陰と、陽が。黒と、白が。光と、闇が。
冷たい僕と、誰かを照らしたかった僕が。
どこまでも溶け合って、一つの円になる。
全部、僕だ。
――そして、全部、僕じゃない。
積み上げてきたものを、一つ残らず肯定する。その全部を、一つ残らず否定する。どちらも本当で、どちらも嘘だ。その矛盾が、頭の芯を、じりじりと焼いていく。
すべてが、遅くなった。
なのに――すべてが、速い。
考えるより先に、考え終わっている。どこへ、どう動くか。一手先も、十手先も、百手先も、もう決まっている。身体が、まだそこに追いついていないだけだ。思考が、肉体を置き去りにしていく。
フラッシュを三つ打ったあと、ほんの少しだけ長くなる息。踏み込む前に、わずかに浮く右の踵。血でぬめる地面。照明の熱で、ゆらりと揺らぐ空気。壁までの歩数。裂けたシャツの裾。指に絡んだ、自分の血。
闘うために覚えたわけじゃない。何でもない毎日の中で、ずっと見て、ずっと覚えてきたもの。その全部が、一枚の地図になって、頭の中いっぱいに広がっていく。
何万回、何十万回と、同じことを繰り返してきた身体だけが知っている答えが、問いより先に、ふっと浮かび上がってくる。
壁も、地面も、ガオランさんの身体でさえ、どれも足場に見える。どの瞬間に、どの筋肉を、どれだけ動かせばいいのか。最善の一手が、全部、見える。
身体の枷が外れる。筋肉が、骨が、これまで一度も出したことのない力を、当たり前みたいに差し出してくる。
怖い。それも、僕だ。
壊したい。それも、僕だ。
みんなの隣にいたい。それも――僕だ。
全部、抱きしめる。そして、そのどれにも、しがみつかない。
一秒前の、僕にさえ。
守は、砕けた。
破も、踏み越える。
この死線の底で、僕は、どんな型からも離れた、僕だけの武へ――至る。
名づけるなら。
形を持たない。だからこそ、何にでもなれる。幾億の名もなき欠片の、果てのない集まり。
――《
混ざって、混ざって、混ざりきった果て。
僕を包んでいた歪な色が、すべてを呑み込む、漆黒よりも黒い闇へと反転する。
――その、深淵のど真ん中に。
ぽつり、と、光が灯った。
一つ。十。千。億。
名もない欠片の一つ一つが、星になって、闇の中で瞬き始める。一つきりでは何の意味も持たなかった光が、隣の光に触れた瞬間、意味を持つ。それが互いに手を伸ばし、繋がって、
満月の、光。
誰かを焼く光じゃない。遠くから照らす光でもない。誰かに見せるための光でもない。
子どもの頃、夜道で見上げると、どこまでもついてきた月。走っても、立ち止まっても、いつも隣にいてくれた、あの光。
照らす者じゃない。
隣を、一緒に歩く者。
それが――僕だ。
その光が、たった一つ残った右の瞳に、静かに、灯った。
ガオランさんの右拳が、僕の鼻先、一センチに迫る。
その金色の双眸が、僕の瞳に宿った月の光を見た瞬間――生まれて初めて、凍りついたように、見開かれた。