ストン、と。
鼻先、一センチ。
頭蓋を砕くはずの神の雷を前に、斉藤真珠は――構えを、解いた。
左腕が、だらりと下がる。肩が落ちる。折れた肋骨を庇っていた背中が、すうっと伸びる。朝の公園の砂場に立つ少年のように、ただ、自然に。
ガオランの全身の毛が、逆立った。
(――なんだ、これは)
構えがない。重心がない。殺気がない。力みすら、ない。打ってくるのか、退くのか、それすら読めない。ただそこに立っている人間の、呼吸のような、自然な揺らぎ。
あるのは、たった一つの光だけだった。
血に塗れた
その光に見つめられた瞬間、ガオランは、生まれて初めて――己の拳の先に、底のない夜空を見た。
(何が起きた?だが………尋常ではない)
青年に起きた変化を瞬時に感じ取るガオランだがーー
ヒュン。
右が、空を切った。
躱されたのではない。青年は、拳の風圧を頬で受け止めたまま、足裏のわずかな
そして、すれ違いざま。
だらりと垂れていた右腕を、踏み込みの遠心力と背中の爆ぜるような収縮だけで、外れた肩へ――叩き込んだ。
ゴキィッ!!
骨と骨が噛み合う音が、ドームに響く。
右足の母趾球が、床を噛む。骨盤が立つ。みぞおちが締まる。感覚のなかったはずの左腕にも、いつの間にか、血が通っている。
公園の砂場で、何十万回と繰り返した、あの形。
完全な脱力が、一瞬で、鋼に変わる。嵌まったばかりの肩の反動すら推進力に変えて――
満月を背負った正拳が、床の底から跳ね上がった。
ドゴォォンッ――!!
「ぐ、おぉぉっ!?」
交差させた両腕のど真ん中を、真正面から撃ち抜かれる。九十キロを超える闘神の身体が、嘘のように宙へ浮いた。三メートル、四メートル――両足が床を離れたまま、後方へ吹き飛んでいく。
ザザザザッ!!
足裏で床を削って、ようやく止まる。
ガードの両腕が、焼けた鉄を押し当てられたように痺れていた。親指の付け根から、血が噴いている。
(……今のは)
型ではない。技でも、ボクシングでも、ムエタイでもない。
ただの、基本の正拳突き。
子どもが、いちばん最初に教わる一撃。
それが――なぜ、これほど重い。
『な……な、な……ッ』
実況席で、鞘香の声が裏返った。
『入ったぁぁぁぁぁっ!! トドメの右を、紙一重で――いえ、躱したのかすら分からないッ!! 斉藤選手の正拳が、闘神をガードごと吹き飛ばしたぁぁぁぁっ!!』
ドームが、爆発した。
◇加納アギトの方は文章量を3倍に増やして。自分の無形と何が違うのか、彼の中に自身の無形の形があることに気がつく。それは進化ではない。観客席の最上段。総立ちの喧騒の中で、腕を組んだまま微動だにしなかった黒木玄斎が、細く閉じていた目を静かに開いた。「……至るか」別の場所で、加納アギトがゆっくりと身を乗り出していた。かつて自分を打ち倒した男の、変わり果てた立ち姿を、滅堂の牙は瞬き一つせずに見つめている。男が纏う空気が一変したのを、アギトは肌で感じ取っていた。特定の型を持たず、あらゆる状況に最適化し続ける自身の『無形』――アギトは最初、彼もまた自分と同じ領域へ足を踏み入れたのかと思った。だが、眼下で闘神と対峙する男の姿は、アギトのそれとは根本的に異なっていた。アギトの無形が「無数の選択肢を内包する獣」であるならば、今の彼が纏うのは「すべてを削ぎ落とした果ての純粋な空白」である。闘技者としての借り物の技も、これまで背負い続けてきた重圧すらも完全に脱ぎ捨てている。あとに残されたのは、特定の型や奥義ではなく、千日、万日と愚直に繰り返してきた名もなき小技と基本の集合体だけだった。それは決して、新たな力を外から取り込むような『進化』ではない。「進化、したか。……いや」低い声が、喉の奥で震えるように笑った。己の内に絶対的な形を持たないが故の『無形』に行き着いたアギトは、その違いに気づき、底知れぬ歓喜に顔を歪める。「還ったのだ。あれは。己の、根に」すべてを捨て去った果てに、ただ反射と環境、身体構造を極限まで利用するだけの境地。それこそが、何の才能も持たない彼が辿り着いた彼だけの『無形の形』なのだと、アギトは静かな戦慄とともに理解していた。
◇
問いが形になるより先に、目の前の空間が、歪んだ。
青年が、懐にいた。
「――小賢しいッ!!」
迎え撃つ左。人類最高峰の
一発目。頬を掠めた。確かに当たった。なのに、手応えがない。拳が触れたときには、もう顔がそこにない。皮一枚と血の一滴だけを置いて、するりと抜けていく。
二発目。手の甲がそっと添えられ、拳の軌道だけが、滑るように逸らされる。
三発目。逆に踏み込まれ、額で迎えられた。弾き返されたのは――ガオランの拳だった。
(――ッ!?)
四発目を放とうと息を吸う。肺が膨らみきる、その半拍。
青年の左の
ズドンッ!!
「が、はっ……!!」
横隔膜が跳ね上がり、肺の空気が根こそぎ吐き出される。
距離を取ろうと放った右のロー。青年は膝をほんの数ミリ緩めただけで、脛の角度を変えて受け流す。軸がぶれたその一瞬、臍の下から真っ直ぐに突き上げられた前蹴りが、脇腹を抉った。返す刀の右肘が、鎖骨へと振り下ろされる。
ドガァッ!!
肩を隆起させて受け止めた。それでも、二歩、三歩と押し下げられる。踵が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
青年は、一秒も与えない。
影を踏むような低いステップで追いすがり、
壁を蹴る音がした。気づいたときには、青年は頭上にいる。肩に、一瞬だけ体重が乗る。振り返るより先に、背中に拳がめり込む。着地と同時に、もう脇腹を抉っている。
右の突きが
ボクシングの足で間合いを支配しようとすれば、床の摩擦と重力を使って一瞬で潰される。ムエタイの重い蹴りで迎え撃てば、当たる刹那に全身を弛緩させて衝撃を霧散させ、そのまま懐に潜り込まれる。
(読めん……!)
速いのではない。遅れているのは、ガオランのほうだ。青年は、ガオランが動くのを見てから動いているのではない。ガオランが動こうと思った、その瞬間には、もう答えを置いている。拳の行き先に、肘の軌道に、踏み込む足の着地点に。
一撃ごとに、重心が変わる。呼吸が変わる。打撃の質そのものが、別の生き物に変わっていく。
なのに――そのどれもに、同じ匂いがした。
冬の朝の、冷たい砂の匂い。
何万回、何十万回と、たった一人で拳を突き続けた者だけが纏う、愚直な汗の匂い。
(……そうか)
拳を交えるたびに、伝わってくる。この一撃は、才ではない。閃きでも、天与の身体でもない。何万、何十万と繰り返した、愚直な反復の
凡夫だ。この男は、紛れもなく凡夫だ。
その凡夫が――積み上げた日々のすべてで、天を超えようとしている。
バキッ! ドゴォッ! ズガァンッ!!
『あ、あのガオランが……一発も返せてねぇ……!』
『さっきまで死にかけてた奴の動きじゃねぇ! ガオランが押されてやがる!!』
『構えが、ない! 斉藤選手の動きに、型がないッ! まるで――まるで、そこにいないみたいですッ!!』
どよめきの中、ガオランの背が、ついに闘技場の壁を叩いた。
ズドンッ!!
左のボディが、肝臓を深く抉る。
膝が、がくりと折れかけた。口から、ごぼりと赤い塊がこぼれる。目に流れ込んだ汗が、しみる。
痛い。苦しい。意識が、白く飛びかける。
世界の頂に立ち、誰一人として対等に拳を交えることすら叶わなかった闘神が、今、一人の青年に呑み込まれようとしている。
自分を勘定に入れない男だと、昨夜、殿下にそう告げた。だが、闘ってみて分かった。それだけではなかった。この青年は、闘いになった瞬間、相手の存在そのものを否定しにくる。細胞の一つ一つまで、まとめて消し去るような。命の芯を、真っ直ぐに脅かしてくる一撃。
あれほど優しい目をした男が。なんという、歪さだ。
人を、超えている。人であることを、どこかに置いてきてしまったものの拳だ。
だというのに。
「……ふ、っ」
血に塗れた唇が、三日月のように吊り上がった。
「ふは……はははははははははッ!!」
壁際に追い詰められ、血を吐きながら、ガオラン・ウォンサワットは――天を仰いで、歓喜に嗤っていた。
ドクン、ドクン、と。
心臓が、かつてないほどの熱を帯びて脈打つ。沸騰した鉛のような血が、全身を駆け巡る。
ああ。
これだ。
――村祭りの泥のリングで、初めて他人の顔を蹴った夜。家族が三日、腹いっぱい米を食えた。拳は、生きるための糧だった。
――四角い光の中で、ベルトを掲げた夜。歓声の中で探したのは、ただ一つの顔だった。拳は、殿下と国のための剣になった。
勝って、勝って、勝ち続けた。
頂に近づくほど、周りから人が消えていった。誰もが、拳を交える前に目を伏せた。交えた者は、一撃で沈んだ。
強くなるほどに、独りになった。
その孤独を、王者の当然の代価だと思っていた。ベルトを腰に巻いたあの夜から、ずっと探していた。己の命を賭けてなお、届くかどうか分からぬ相手。拳を交えるたびに、互いの命の芯がじりじりと焦げつくような闘い。四角いリングの中には、もう、そんな相手はいなかった。
――だが。
目の前の男は、目を伏せなかった。
ボクシングを耐え抜き、ムエタイを受け止め、死の淵から這い上がって――今、真正面から、この闘神の喉元に牙を立てている。
この男と打ち合っている、この瞬間だけは。
(……独りでは、ない)
ようやく、出会えた。己のすべてを叩きつけて、なお倒れぬ男。命を賭けるに足る、ただ一人の敵。
――
胸の奥底から、焼けつくような渇望が噴き上がった。
王国の威信のためではない。殿下の剣としての務めですらない。
ただ一人の男として。ガオラン・ウォンサワットという、一人の拳闘士として――
(勝ちたい……ッ!!)
この男に。どうしても。
拳を、額の高さに上げる。踵を浮かせる。左脚が、遠い祭りの笛と太鼓に合わせるように、小さく拍を刻む。
二十余年のすべてを、この一戦に。
「まだだ……まだ私は闘えるぞ、マシロォッ!!」
その瞬間、ガオランの構えから、ボクシングとムエタイの境界線が――完全に、消えた。
踏み込んでくる真珠の右を、ボクシングのスリップで紙一重に躱す。その全く同じ動きのまま軸足を旋回させ、ボクシングにはあり得ない角度から、ムエタイの横肘がこめかみを薙ぐ。
ガヂィンッ!!
掲げられた左腕が、弾き飛ばされる。肘を振り抜いた反動を、そのまま肩の回転へ。下から神速の左アッパー。右のショートフック。距離が詰まった刹那、予備動作のない左膝を、鳩尾へ。
「ぐ、ぅっ……!?」
月の光を宿した身体が、初めて、後ろへ押し返された。
近代ボクシングが磨いた、一ミリの無駄もない足と拳の回転。
古流ムエタイが磨いた、拳・肘・膝・脛――八つの凶器による全方位の破壊。
競技と殺戮として分けてきた二つの頂が、目の前の怪物に引きずり出されるように、継ぎ目すらなく、一つになる。
人が辿り着き得る、徒手の頂。
ガオラン・ウォンサワットだけの――打の
全身から噴き上がる黄金が、ドームの照明すら呑み込んで、太陽のように燃え上がった。
「来い、マシロ・サイトウッ!! 貴殿のその底知れぬ可能性、この私がすべて受け止め――その上から、叩き潰すッ!!」
◇
(……すごい)
弾かれた左腕の痺れの中で、胸の奥が、どうしようもなく震えていた。
月の光を宿した右目に、ガオランさんの色が映っている。目を焼くような、黄金の奔流。もう、刃なんかじゃない。太陽そのものだ。
さっきまでのこの人は、王の剣として、僕を処刑しようとしていた。
今は、違う。
立場も、重責も、全部脱ぎ捨てて――ただ一人の男として、強さの頂に手を伸ばしている。血を流しながら、子どもみたいに嗤って。
世界の頂点に立った人だ。もうこれ以上、強くなる必要なんて、どこにもないはずの人だ。
なのに、僕なんかを相手に、まだ自分の殻を破ろうとしている。二十余年かけて積み上げた自分を、この死線の真ん中で、一度壊してまで。
(ああ――)
この人も、ずっと、独りだったんだ。
いちばん高いところで。誰も隣に並べない場所で。
だったら。
(僕が、行く)
照らすんじゃない。見上げるんじゃない。
この人の、隣まで。
気づけば、僕の口元も、ガオランさんと同じように、大きく弧を描いていた。
――踏み込む。
ガオランさんも、踏み込んでくる。
真ん中で、ぶつかった。
ドゴォンッ!!
僕の右の正拳と、ガオランさんの右のストレート。拳と拳が、真正面から噛み合った。衝撃が肘を突き抜けて肩で弾け、二人の足元のコンクリートに、
弾かれる。弾かれた勢いのまま、回る。
僕の踵と、ガオランさんの脛が、空中で激突した。
バギィィンッ!!
骨が鳴る。痺れが走る。構わない。もう次を出している。この人も、もう次を出している。
閃光が来る。来るより先に、僕はそこにいない。いなくなった場所から、正拳を返す。返した拳を、前腕で受けられる。受けた腕のまま、縦肘が降ってくる。それを額で迎えて、懐へ。膝。膝を踏み台に、跳ぶ。頭上から肘。振り返りもしない裏拳が、それを空中で撃ち落とす。
バキャァッ!!
床を転がる。ローキックが床を爆ぜさせ、砕けたコンクリートの破片が散弾みたいに頬を切る。手をついた反動で跳ね起きて、頭から懐へ飛び込む。
速い。
さっきより、ずっと速い。
この人は、一合ごとに速くなる。一合ごとに、鋭くなる。僕が追いつくたびに、さらにその先へ行く。
だから、僕も行く。
この人がいる場所の、その先へ。この人の、隣へ。
身体中が、壊れている。肋骨が何本折れているのか、もう分からない。左の手首は、握るたびに骨の奥で砂を噛む。右の太腿は、とっくに感覚がない。
なのに、動く。吐く息に血の泡が混じるのに、肺が勝手に、次の空気を吸い込んでいく。
否――動くんじゃない。動きたい場所に、もう身体が置かれている。
「どうした、斉藤真珠ッ!! 貴殿が視るのは――私たちが往くのは、その先だァァァッ!!」
「――はいッ!!」
叫び返していた。
腹の底から。喉が裂けるくらいに。
腕が痺れる。肺が焼ける。笑ってしまうくらい、強い。
(……ああ)
楽しい。
こんなときに。こんなに、ボロボロなのに。
生まれて初めて、思った。
誰かのためじゃなく。護るためでもなく。
ただ、この人と、ここにいたい。
この人と、どこまでも、行ってみたい。
ゴガッ! バキャァッ! バチィンッ! ズゴォォンッ!!
一秒に二十を超える、打撃の応酬。ボクシングの精密な連打に、ムエタイの斬撃が混ざる。それを、
黄金と、月光。
二つの光が、ぶつかるたびに火花を散らし、混ざり合って、渦を巻く。
二人の立つ場所は、もう誰も踏み込めない、暴風と熱量の渦になっていた。
『………………』
ドームから、歓声が消えていた。
誰も叫ばない。叫べない。何万という観衆も、歴戦の闘技者たちも、実況席の鞘香でさえも、その渦に魂を呑まれて、瞬きを忘れていた。
数分前まで、一方的に殴られ、骨を折られ、這いつくばっていた青年が。表の世界の頂に立つ闘神の全霊を、真っ向から受け止め、一歩も退かずに打ち合っている。
――最初に声を上げたのは、誰だったのか。
「……マシロ」
観客席のどこかで、震える声がした。
「ガオラン……!」
別の場所で、誰かが応えた。
「マ・シ・ロッ!」「ガ・オ・ランッ!」「マ・シ・ロッ!」「ガ・オ・ランッ!!」
小さな声が、隣へ、隣へと伝わっていく。どちらを応援しているのかも分からない。ただ、目の前で燃え上がる二つの光の名前を、誰もが喉を枯らして叫び始めていた。
やがてそれは、ドームを揺るがす地鳴りになった。
――その全部が、遠かった。
音が、追いつかない。
この広いドームに、僕とこの人の、二人しかいないみたいだった。
◇
――あれは、誰?
特等観覧室の強化ガラスの向こうで、真珠くんが動いている。
さっきまで、一方的に打たれていた。顔を腫らして、血を流して、何度も膝をついて。
それが、今は。
速い。目で追えない。
ガオランさんの黄金の拳が空を切って、真珠くんの姿が、ふっと消えては、また現れる。かと思えば、真珠くんの拳も、ガオランさんの強固な腕に弾かれる。
分厚いガラス越しにさえ、骨と骨がぶつかる鈍い音が、お腹の底までずしんと響いてくる。ガラスについた指先が、その振動でかすかに痺れた。吐いた息で、目の前が白く曇る。慌てて袖で拭った。一瞬だって、見逃したくなかった。
暴力が、嫌いだった。
振り上げられる手。自分より大きな誰かの怒鳴り声。小さい頃から、そういうものがずっと怖かった。
三年前のあの日、玄関でルビーを庇った真珠くんの白いシャツが、黒に近い赤に染まっていくのを見た。床に散らばった割れた瓶の破片と、星の砂。
この島に来て、初めて裏の仕合を見たときも、同じだった。
ルールも、決まり事も、正しさも、美しさもない。ただ、相手を壊すためだけの力。誰かを踏みつけて、何かを奪うための力。
暴力は、奪う。奪われたほうには、痛みと、空っぽの穴しか残らない。
――なのに。
ガラスの下の二人は、違った。
血まみれで、骨を折って、それでも、笑っていた。
真珠くんの拳が、ガオランさんに届く。ガオランさんの拳が、真珠くんに届く。
打たれた方が、打ち返す。打ち返された方が、それを受け止めて、もっと強くなって返す。
奪っているんじゃない。渡しているんだ。
自分が何年もかけて積み上げてきたもの。痛かったことも、悔しかったことも、誰にも言えなかった孤独も、全部。
拳に乗せて、相手に渡して。相手はそれを受け取って、自分の全部で、応えている。
(……そっか)
これが、『武』。
真珠くんが、ずっと続けてきたもの。毎朝、まだ暗いうちに家を出て、公園の砂場で一人で身につけようとしてきたもの。
暴力と、何が違うのか。前の私には、分からなかった。
けれど今なら、少しだけ分かる。
暴力は、誰かから奪うための力。
武は――自分の全部で、誰かに応えるための力だ。
怖いのは、変わらない。
真珠くんが血を流すたびに、心臓がぎゅっと縮む。今すぐガラスを叩いて、やめてって叫びたくなる。隣でミヤコさんの手が、私の肩にそっと置かれた。震えているのは、どちらの手だったのか。
それでも、私は目を逸らさなかった。
(……眩しい)
思わず目を細めた。
照明のせいでも、ガラスの反射でもない。それなのに、あの二人のいる場所だけが、内側から発光しているみたいに見えた。
この景色を、私は知っている。
初めてドーム
ステージの上で何万本ものペンライトが、光の波みたいに揺れていた夜。目を覚ましたばかりのあの子が、病院を抜け出して車椅子で観に来てくれた夜。
私は、あの光の真ん中で歌っていた。
みんなに見てもらうための光。嘘も本当も全部まとめて、きらきらにして届ける光。それが、アイドルである私の光だった。
今、あの二人が、あそこにいる。
片方は、金色。どこまでも澄んで、少しも曇らない、太陽のような黄金の光。
もう片方は――白い。
満月みたいな。夜空の星を全部集めて、一つにしたみたいな、静かで、眩しい光。
あの子の光は、見てもらうための光じゃない。
真っ暗な夜道で、誰かの隣を、黙って一緒に歩いてくれる光。
私とは、違う光。
その二つの光が、ぶつかって、混ざって、弾けて、また強く光る。
「……きれい」
声に出ていたかもしれない。隣で、ミヤコさんがこっちを見た気がした。
でも、目が離せなかった。
真珠くんが、笑っている。
いつもの困ったような曖昧な笑顔じゃない。何かを誤魔化すときの、あの笑顔でもない。
あんなふうに笑う真珠くんを、私は生まれて初めて見た。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
怖い。あの子が、どこか手の届かない遠くへ行ってしまいそうで。
それでも――愛しくて、たまらなかった。
右手の小指を、左手でぎゅっと握りしめる。浜辺で絡めた、あの約束。
(帰ってきて)
声にならない声で、祈った。
(お願い。帰ってきて、真珠くん)
◇
ドスゥッ!!
鋼の脛が、脇腹に深く食い込む。肋骨がまた一本、内側でぽきりと折れた。息が詰まる。口から血の泡が溢れ、膝が落ちかける。
――どうして、立つ?
頭のどこかで、誰かが訊いた。
痛い。怖い。もう、十分やったじゃないか、と。
(……分かってる)
僕に、才能なんてない。
――『イカロスの話を知っているかい、真珠少年』
ふいに、英先生の声が蘇った。
『求めすぎれば、いつか必ず太陽に焼かれるよ』
あの人は、いつになく真っ直ぐな目で、そう言った。
僕の翼も、きっと同じだ。
生まれつき背中に生えていた、立派なものじゃない。母さんの抱擁も、父さんのボールも、姉さんが飲んでくれたココアも、アクアとルビーが呼んでくれる声も、丸山さんが教えてくれた基礎も――みんなが一枚ずつくれた温もりを、何年もかけて拾い集めて、必死に固めただけの、不格好な翼なのかもしれない。
目の前で、太陽そのものみたいな金色が燃えている。近づくほどに、肌が焦げる。翼の端から、蝋がどろりと溶け落ちていく。
――それでも。
イカロスは、太陽を目指したから墜ちた。
でも、僕が目指しているのは、太陽じゃない。
この人の、隣だ。
そして、その先にある――家族の、隣だ。
焼け落ちるなら、それでいい。翼がなくなったって、この足で駆け上がる。
あの日、白い部屋でママと約束したんだ。格好いい大人になるって。
(一番、格好いい自分で、いたいから……ッッ!)
ドクン、と。
胸の奥から、何かが溢れ出した。
熱い。鉄の蓋の下にいた、あの子の冷たさとも違う。もっと、ずっと、明るい熱。
想い、としか呼べないもの。
姉さんの笑顔が見たい。
ルビーとアクアに、胸を張っていたい。
母さんに、ただいまって言いたい。
父さんとお酒を飲み交わしたい。
目の前のこの人に、負けたくない。この人と、もっと闘っていたい!
愛情も、情熱も、尊敬も、
この無限に湧き上がる想いを全部、炉にくべる。
その想いが、一秒前の僕より、今の僕を、もっと強くする!
ゴギィッ!!
右フックが、こめかみを掠める。皮膚が裂ける。構わない。回転の勢いを殺さずに懐へ潜り込んで、下から左の掌底を、顎へ。
ガヅンッ!!
ガオランさんの顔が、大きく跳ね上がった。
その瞬間――初めて、あの人の踵が、床から半歩、浮いた。
(――え?)
違和感だった。
顎を打ち抜いた直後、首筋を刈りに来るはずの左肘。これまでの打の極致のリズムなら、確実にそこに刃が飛んでくるはずだった。
その左肘が――コンマ一秒、遅れた。
ヒュン、と遅れて振られた肘を、半歩下がるだけで躱す。
ガオランさんの肩が、見たことがないほど大きく上下していた。汗と血で濡れた褐色の肌。左の拳を握る指先が、わずかに
(――あ)
先に体力の底をついたのはガオランだった。
(嘘だ……まだ、行けるでしょ!? もっとだ! もっと来てよ、ガオランさんッ!!)
右の突き。左の蹴り。肘。掌底。
もっと打ち合いたい。この眩しい人と、もっと高く。そう願って拳を振るうのに――僕の拳が、一発、また一発と、ガードの隙間を貫いていく。
バキィッ! ドゴォッ!!
「が、はっ……!!」
血が飛ぶ。僕の蹴りに、ガオランさんの反応が、追いつかない。
◇
――追いつけない。
霞む視界の中で拳を放ちながら、ガオラン・ウォンサワットは、それを悟った。
心は、叫んでいる。もっと動け。もっと速く。この男を超えろ、と。魂が、血を吐くほどに咆哮している。
目の前の青年もまた、満月のような瞳を輝かせて、もっと来い、と全身で自分を求めているのが分かる。
――なのに。
身体が、動かない。
肺が空気を吸い込めない。鉛を流し込まれたように両腕が重く、床を蹴ろうとする脛の芯から、ぷつり、ぷつりと、力の糸が切れていく。拳を握るたび、裂けた皮の下で、指の骨が悲鳴を上げた。
この一戦の中で、確かに、二十余年かけて辿り着いた頂の、その先へ踏み込んだ。
それでも、青年は、それより速く、それより深く変わっていく。一合ごとに、別の生き物になる。さっき通じた肘が、もう通じない。さっき見せた隙が、もう罠になっている。一秒前の自分を片っ端から脱ぎ捨てて、果てのない夜空へと、駆け上がっていく。
速く、硬く、柔らかく。
伸びしろ、などという生易しいものではない。
天井が、ない。
(――ッッ!!!)
奥歯を、噛み砕かんばかりに食いしばる。
技が劣ったのではない。闘志が折れたのでもない。
ただ、あの底なしの月の光に、ガオラン・ウォンサワットという人間の器が――追いつけなくなっていく。
ほんのわずかずつ、けれど決定的に、黄金が、月の光から引き離されていく。
それでも、口元から笑みは消えなかった。
これほどの男の前で、尽きるのならば。
(――この最後の一撃に、私の二十余年のすべてを乗せるッ!!)
◇
――見えた。
ガオランさんが、最後の力を振り絞って放つ閃光。一つ。二つ。三つ。
息を継ぐ、その半拍。
踏み込む直前に、ほんのわずか浮く、右の踵。
ずっと見てきた。ずっと、覚えてきた。手帳の罫線を一行ずつ埋めるみたいに。毎朝の砂場で、一つずつ。
その全部が、一本の、光の線になる。
――来る。
右の踵が、ふっと浮いた。
世界の頂を獲った、あの右。ガオラン・ウォンサワットという武人の、二十余年のすべてを乗せた、最後の雷。
時間が、引き延ばされる。
拳が来る。黄金の光をまとって、空気を裂いて、真っ直ぐに。
綺麗だ、と思った。
避けない。
僕は、その雷のど真ん中へ、踏み込んだ。
ゴシャァッ!!
右が、額を掠めて、こめかみを抉っていく。頭蓋の内側で何かが軋む。視界の半分が、赤く弾け飛ぶ。
痛い。
でも――止まらない。
ここで止まったら、この人が二十余年かけて磨き上げた拳に、失礼だ。
懐へ。
分厚い胸板が、壁みたいに迫る。
その瞬間、黄金が、反射で動いた。
丸太のような両腕が、僕の首の後ろへ回る。
さっき、僕を檻に閉じ込めて、膝で何度も、何度も砕いた、あの型。意識が
――待ってた。
首に巻きついた前腕を、外側から、両腕で抱え込む。
この人の腕が、僕の首をへし折りにくる。
その腕ごと――僕が、締め返す!
ギヂィィッ……!!
骨と骨が、軋む。
すぐ目の前で、金色の瞳が、見開かれた。
腕を抜こうとする。抜けない。引き剥がそうとする。鉄の門をこじ開けるような、恐ろしい力。前腕の骨が、僕の腕の中で、みしりと鳴る。
(離さない――ッ!!)
さっき、この人がそうしたように。
今度は、僕が、檻になる。
地面を、蹴った。
跳ぶ。両脚で、この人の腰を、宙で挟み込む。足首を背中で組む。全身の筋肉で、締め上げる。膝を突き上げようとした腰ごと、空中で絡め取る。
首に回された両腕は、胸と胸の間に挟んだまま、一ミリも離さない。
拳も。肘も。膝も。脛も。
八つの凶器の、一つたりとも振らせない。
この人の、いちばん得意な型の、その中で。
『プ、
上体を、大きく反らす。
額を――振り下ろす。
ゴギィンッ!!
衝撃が、頭蓋の内側で爆ぜた。目の奥に、白い火花が散る。
――ママ。
もう一度。
ガゴォンッ!!
――母さん。父さん。
『頭突きィィィッ!! 一発! 二発ッ!!』
もう一度。
――姉さん。アクア。ルビー。
もう一度。
――丸山さん。優香。
もう一度!
――みんな。
僕の額が割れる。この人の額も割れる。どちらの血か分からない熱いものが、顔を伝って、滝みたいに落ちていく。鉄の味が、口いっぱいに広がる。
ゴッ! ゴガッ! ゴギャァッ!!
一撃ごとに、名前を呼んでいた。
声にならない声で。
帰るんだ。
あの場所へ。
みんなの、隣へ――!
『止まらない!! 止まらないィィッ!! これは――これは、なんという――ッ!!』
◇
視界が、白く滲んでいく。
額に落ちてくる衝撃が、遠い。痛みも、もう遠い。
ガオランは、ぼやけていく視界の中で、ただ目の前の青年の瞳を見ていた。
右の瞳に宿る、満月のような白い光。
(……ああ)
負ける。
それが、分かった。
不思議と、悔しくはなかった。
ようやく、届いたのだ。
命を賭けて、なお届くかどうか分からぬ相手に。世界王者のベルトを巻いたあの夜から、ずっと探し続けた場所に。
村祭りの泥のリング。母の巻いてくれたバンテージ。四角い光の中の、あの歓声。
そして、殿下の前に初めて膝をついた日。
二十余年のすべてが、この一戦のためにあったのだと、今なら思える。
頂の上で、ようやく――独りでは、なかった。
(見事だ――我が、
ガオランの意識が、ふっと、ほどけた。
◇
腕の中で、ガオランさんの身体から、ふっと力が抜けた。
その瞬間。
胸の最深部で、小さな声がした。
――ころさないの?
さっき手を繋いだ、あの子の声だった。
冷たくて、静かで、どこまでも正直な声。
――いまなら、できるよ。あと一回。のどを、つぶしたら。もう、だれも、ねえさんたちにてをだせない。
僕の額が、勝手に、次の一撃を振り上げかけている。
熱い。頭の芯が、焼けるように熱い。
分かる。この子の言うことは、間違っていない。冷たくて、残酷で、生き延びるための理屈としては、どこまでも正しい。
(……ううん)
――どうして?
(この人は、もう、大丈夫だから)
――……。
(護るのに、殺さなくていいんだ。今の僕たちなら、それができる)
(それにね。帰ったら、みんなの隣で、ご飯を食べるんだ。……君も、一緒に)
心の中で握っていた小さな手に、ほんの少しだけ、力を込める。
(だから――止まろう。一緒に)
ピタリ、と。
振り下ろしかけた額を、寸前で止めた。
無理矢理に押さえつけたんじゃない。鉄の蓋を閉めたんじゃない。
僕が、決めた。僕たちで、決めたのだ。
――……うん。
胸の奥の小さな声が、少しだけ、笑った気がした。
見れば、ガオランさんの瞳の金色が、ゆっくりと沈んでいく。消えたんじゃない。眠るように、静かに凪いでいく。
生きている。
腰に絡めていた両脚をほどいて、崩れ落ちるガオランさんの巨体を、両腕でしっかりと支えた。
重い。僕は、こんなに大きくて重い人と、ずっと殴り合っていたのか。
そのまま膝をつき、ガオランさんの身体をそっと床に横たえる。
ドーム全体が、一瞬、すべての音を失った。
◇
ラルマーは、ガラスに額を押しつけるようにして、それを見ていた。ひやりとした冷たさが、額の汗をさらっていく。
青年の額が、振り下ろされる寸前で、止まっている。
意識を失ったガオランの喉は、がら空きだった。
あと一撃。いや、指一本でいい。それだけで、あの誇り高き剣は、二度と戻らない。この島の掟も、それを咎めはしない。
観客席の誰もが、それを分かっていた。実況席の女も。歴戦の闘技者たちも。ドーム全体が、固唾を呑んで、次の一撃を待っていた。
だが――
止まった。
止めたのだ。
あの青年が。己の、意思で。
首元の黄金の鳥を握りしめていた指から、ふっと、力が抜けた。いつの間にか潰れていた葡萄の汁が、反対の手を濡らしていた。
背後で、誰かが
ガラスのいちばん前で、アイが、小指を握りしめたまま――泣いていた。
「……見たか」
ラルマーは、誰に向けるでもなく、口を開いた。
自分の声が、わずかに震えていることに、気づいた。
「あれは今、
「……霊薬」
アクアの、掠れた声。
「ガオランの命よ」
ラルマーは、ガラスの下から、目を離さなかった。
「あと一撃。それで、誰にも文句のつけようのない勝利が手に入った。この島で、二度と誰にも侮られぬ名が手に入った。そなたらを脅かす蛇どもへの、何よりの見せしめにもなったであろう」
部屋の空気が、震えた。
「――それを、あやつは」
声が、詰まった。
「……一滴も、飲まなんだ」
しん、と。
観覧室が、静まり返った。
「……クルット」
アクアが、呟いた。
「そうだ」
ラルマーは、ゆっくりと頷いた。
「神々と闘い、炎を越え、刃をくぐり、霊薬を奪い取りながら――ただ、母を取り返すためだけに、それを運んだ鳥」
ガラスの下で、青年が、崩れ落ちるガオランの身体を、両腕で抱きとめている。
そっと、壊れ物を扱うように、床に横たえている。
「己の欲のために力を振るわぬ者こそ、神を背に乗せるに足る」
掌を開く。黄金の鳥が、照明を受けて、きらりと光った。
「……余は昨夜、あれにこの鳥を見た。今日、一度は見誤ったと思うた」
ラルマーの唇が、震えるように、
「余の目に――狂いは、なかった」
それから。
ガラスの下で、横たわるガオランの胸が、ゆっくりと、上下しているのが見えた。
生きている。
ラルマーの肩が、小さく揺れた。
深く、長く、息を吐く。それが安堵の息だと気づくまでに、少し、時間がかかった。
「……ガオランめ」
いつもの声だった。いつもの、
「余を……ひやりとさせおって」
その語尾が、ほんのわずかに掠れていたのを。
隣に座るミヤコだけが、聞いていた。
――次の瞬間。
ドームが、割れた。
『――決着ゥゥゥッ!!』
鞘香の絶叫が、すべてを貫いた。
『二回戦最終仕合ッ!! 勝者――斉藤ォォ――真珠ゥゥゥゥッ!!』
『牙を折った巨人殺しが――今度は、闘神を堕としたァァァァァッ!!』
何万という人間が、一斉に立ち上がった。歓声が、地鳴りになる。足踏みが、ドームの床を揺らす。
その轟音の真ん中で――
血まみれの青年が、意識のない闘神の傍らに膝をついたまま、ただ静かに、天井の光を見上げていた。