僕は一般人です   作:~のほほん~

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決着

 

 

 

『——決着ゥゥゥッ!!』

 

 実況の絶叫が、分厚いガラスをびりびりと震わせた。

 その震えが、椅子の背もたれ越しに、ミヤコの背骨まで伝わってくる。

 

 次の瞬間、観覧室が爆発した。

 

「勝ったぁぁぁぁぁっ!!」

 

 いちばん先に叫んだのは、ルビーだった。ソファから跳ね上がり、そのまま隣のアクアの首に飛びつく。

 

「勝った! 勝ったよ、アクア! 真珠お兄ちゃん、勝った!!」

 

「く、苦し……分かった、分かったから」

 

「ほんとに?」

 

「ほんとだって」

 

「ほんとに、ほんとに?」

 

「……ほんと」

 

 ぴょん、ぴょん、と跳ねるたびに、首ごと揺さぶられる。さっきまで袖を噛んで画面を睨んでいた子と、同じとは思えない。

 涙の跡の上に、混じりけのない笑顔が咲いていた。

 

 アクアは、妹にぶら下がられたまま、ガラスの向こうを見つめていた。膝の上の拳は白くなったまま、まだほどけない。

 

 試合のあいだじゅう、小骨のようなものが胸に刺さっていた。

 あの兄が、緊張している。

 その事実を、アクアはどうしても受け入れられなかった。

 

 船の上でも、一回戦でも、何でも卒なくこなして、圧倒的な強さを見せてくれた兄だ。

 

 その兄が、負ける。

 いや、殺されるかもしれない。

 

 ——何度、叫びたかったか。自分でも、わからない。

 ——何度、試合に乱入しようと腰を浮かせたか。

 ——家族を失うかもしれない恐怖が、喉の奥で石のように固まっていた。

 

 そのたびに、隣で祈るアイの背中が目に入って、歯を食いしばって座り直した。気づけば、爪が掌に食い込んでいる。

 

 その小骨が、いつの間にか抜けている。

 遅れて、唇の端がひくりと動いた。笑った、と自分で気づくより先に、声がこぼれる。

 

「……っし」

 

「今の! 今『っし』って言った!」

 

「……言ってない」

 

「言った! 絶対言った!」

 

「……今のは、なし」

 

「ならないよ! 聞いたもん!」

 

 アクアは耳まで赤くして、咳払いをひとつした。それでも、妹を振りほどこうとはしなかった。

 

 窓際では、氷室が壁から背を離し、天井を仰いでいた。

 

「……っだぁぁぁ! ったく、あの野郎! 寿命が十年は縮んだぞ!」

 

 言いながら、ガラスをばんばんと叩いている。強化ガラスでよかった、とミヤコは頭の隅で思った。

 その手が、ふと止まる。

 氷室は額をガラスにこつんと当てた。下の闘技場で、膝をついたまま、ふらふらと顔を上げる青年を見下ろす。

 

「……やりやがったな、真珠」

 

 さっきまでの怒鳴り声とは別人のような、掠れた声だった。

 

 部屋の奥では、英先生がノートを閉じていた。ペンを置く指先が、ほんのわずか震えている。

 

「ふふ。本当に、無茶をする患者だ。このあとはしっかり安静にしてもらわないとね」

 

「先生、よろしくお願いします」

 

 そう答えた自分の膝が笑っていることに、ミヤコは気づいた。笑っているどころか、大爆笑している。

 

(勝った……勝った? 勝ったのよね? 生きてるのよね、あの子?)

 

 ガラスの下で、真珠が倒れたガオランをそっと地面に横たえるのが見えた。それから、膝をついたまま、ゆっくりと顔を上げる。

 動いている。

 生きている。

 そう思った瞬間、膝から下の骨が、全部抜けた。

 

「——あ」

 

 すとん、と。

 ミヤコは、そのまま床にへたり込んだ。絨毯の毛足が、膝の裏にひやりと冷たい。

 

「母さん!?」

 

「だ、大丈夫よ。ちょっと、腰が……」

 

 立とうとして、膝に力が入らない。もう一度、すとんと座り込む。

 社長として何年も人前に立ってきた。どんな修羅場でも、腰を抜かしたことなんて一度もなかったのに。

 

(……今日だけは、許して)

 

 その真横の席で、ラルマーが腹を抱えて笑い出した。

 

「はっはっはっは! 負けた負けた!ーー余の大負けよ!」

 

 手を叩き、葡萄の房をぶんぶん振り回しながら、肩を揺らして笑っている。賭けに負けたはずなのに、欲しかった玩具を手に入れた子どものような顔だった。

 

「余の目は節穴であったわ! あの試合の半ば、興ざめしかけた余を、殴ってやりたいくらいだ!」

 

「で、殿下、お声が」

 

「笑わずにいられるか、母御!」

 

 アクアが、ルビーを引き剥がしながら手を差し出した。

 

「母さん、手」

 

「ありがとう……」

 

 その手に掴まって、ようやく椅子に這い上がる。這い上がる、としか言いようのない動きだった。膝が二度ほど、勝手にかくんと折れた。

 

「生まれたての子鹿だ」

 

「ルビー、言わない」

 

 心臓が、まだ全力で鳴っている。手首に指を当てた。速い。速すぎる。数えようとして、数える前に指のほうが震えた。

 いつの間にか、英先生が隣に膝をついていた。何も言わずミヤコの手首を取り、腕時計の秒針をじっと睨む。

 

「百三十八、ですね」

 

「それ、まずい数字ですか」

 

「ええ。普通は、走ったあとの数字です」

 

 英先生はそこで顔を上げ、にっこりと笑った。

 

「フフッ、あの子の母親も大変なものですね」

 

(……何も言い返せない)

 

 ここ数日だけで、いったい何年ぶん寿命が縮んだのか。数えるのも怖い。

 

「先生。私、あと何年生きられますか」

 

「患者さんの心がけ次第です。あの子(真珠)が大人しくしてくれれば、の話ですが」

 

「……無理ですね」

 

「ええ。無理でしょうね」

 

 ふたり揃って、ガラスの下の真珠を見た。係員に支えられながら、手を振ろうとして、痛みに顔をしかめている。

 

「……あの子、いま絶対『大丈夫』って言ってる」

 

「言ってるでしょうね。」

 

 背後では、ラルマーがまだ笑っていた。それはもう楽しそうに、葡萄の房が、ぶんぶんと風を切っている。

 

 窓に一番近い席で、アイだけが、動かなかった。

 両手を胸の前で組んだまま、ガラスの向こうの真珠を見つめている。肩が小さく震えていた。泣いているのか、笑っているのか、後ろからは分からなかった。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーー

 

 

 ——夢を、見た気がする。

 ずっと前から。

 どんな夢なのかは、覚えていない。

 朝になると、掌からこぼれる砂みたいに消えてしまう。残るのは、白くて静かな場所に立っていたような感触と、胸の底に沈んだ、冷たくて重いものだけ。

 それでも、感じていた。

 ずっと。

 真珠くんは、いつか私たちを守るために、いなくなってしまうんじゃないか。

 食卓で、ふっと遠くを見るあの子を。何度も見てきたから。

 

 私が死んだら、この子はどうなってしまうんだろう。

 考えたくないのに、考えてしまう夜があった。

 理由なんて、わからない。

 ただの勘。お姉ちゃんの、勘。

 

 ガラスの下で、真珠がゆっくりと顔を上げた。

 腫れた瞼。血に汚れた頬。肩で息をして、それでも、まっすぐ前を向いている。

 

 その瞳に、光があった。

 

 難しいことは、私にはわからない。

 でも、満月みたいだと思った。夜を追い払うんじゃなくて、夜ごと抱いて、静かに灯っている光。

 

 何と比べているのか。わからないけど、それでも、身体が先に言った。ちがう、と。

 底のない冷たさじゃない。何も映さない黒じゃない。

 あの子の目は、ちゃんと、ここにいる。

 

 ずっと見ていた。

 殴り合う二人を。壁を蹴って跳ぶ背中を。何度打たれても立ち上がる、あの子を。

 

 暴力は、嫌いだ。いまでも怖い。

 でも、わかった。真珠くんのあれは奪うための力じゃない。誰かを壊すための拳でもない。

 

積み上げて、積み上げて、その先でーー

 

誰かに応えるために握る

 

誰かの隣に立つために握る

 

誰かに想いを伝えるために握る

 

優しくて、眩しく、暖かい、静かな力。

 

それが真珠くんのーー私の愛した人の護る拳

 

 

 

◇

 

 

 

 ガラスの下では、握手を終えた二人が、何か言葉を交わしていた。ドームが割れんばかりの歓声に包まれる。観覧室のモニターが、立ち上がったガオランの横顔を大きく映した。額から血を流しながら、それでもどこか満ち足りた顔で、真珠の肩を叩いている。

 ラルマーの笑い声が、ふっと止んだ。

 

「見よ、ガオランの顔を」

 

 葡萄を弄(もてあそ)ぶ指が、止まる。

 

「あやつめ、満足そうな顔をしおって。負けた男の顔ではないわ。命を使い切った、もう何も悔いはない、と顔に書いてある」

 

「……そう、見えますね」

 

「見えるとも。何年、傍に置いたと思う。読み違えるものか」

 

 それから、誰に聞かせるでもない声で、ぽつりと呟いた。

 

「……次は負けるなよ、ガオラン」

 

 ミヤコは、聞こえなかったふりをした。

 

「アクアくん」

 

「はい」

 

「私は、あの子をイカロスのようだと思った。イカロスは、蝋で固めた翼で空を飛んだ少年だ。太陽に近づきすぎて、蝋が溶けて、墜ちてしまう」

 

 英は、ガラスの下の真珠から目を離さなかった。

 

「あの子は、大切な人たちの光に近づこうとして、自分の身を削っていく。いつも、自分を勘定に入れない。ーーだからいつか焼かれると思っていた。翼が溶けて、墜ちてしまうのではないか。そう思わせる子だったんだ」

 

 それから、ほんの少しだけ、口の端が動いた。

 

「だが、違ったようだ。」

 

 画面の中で、担架を断った真珠が、係員の肩を借りて立ち上がる。

 

「私が思っていた以上に丈夫な翼だったみたいだ。」

 

◇

 

「さて」

 

 ラルマーが、くるりと椅子ごとミヤコのほうへ向いた。

 

「母御。それと、星野アイ」

 

 笑みが消えている。声がひとつ低くなって、部屋の空気が軋んだ。ルビーがアクアの服の裾を掴む。

 

「ひとつ、問う」

 

「……はい」

 

「あの試合の途中、余は貴様に棄権を勧めた。覚えておるな」

 

「覚えております」

 

「貴様は、首を横に振った。あの子が打たれ続けるのを、いちばん近くで見ていながらだ」

 

 ラルマーは、胸元に下げた金の鳥を、指でつまんだ。

 

「……後悔は、あるか」

 

 短く、静かな声だった。責める色はない。ただ、答えだけを待っている。

 ミヤコは、膝の上で両手を握った。

 

「……あります」

 

 思っていたより、早く出た。

 

「何度も、立ち上がりかけました。やめて、って叫ぼうとして。さっきは腰が抜けましたけど、試合中は、立ち上がりかけては、座り直して。その繰り返しで」

 

 ごちゃまぜになった感情が言葉を邪魔する。だけど、母親としての言わなきゃいけないことはわかっている。

 

「あの子は、昔から、自分のことを勘定に入れなくて。止めても、止まらなくて。それでも、止めるのが、母親の——」

 

 声が、詰まった。

 喉の奥で、言葉の続きが引っかかる。握りしめた手の上に、あたたかい掌が重なった。アイだった。何も言わず、ただ、そこにいる。

 

「……母親の、役目なんじゃないか、って。何度も、何度も思いました。今でも、思ってます。止めるべきだったのかもしれない、って」

 

 重ねられた掌を、ミヤコは握り返した。

 

「ですが止めたら、あの子が帰ってくる場所を、私が先に……壊してしまう気がして。母親、なのに。止めるのが、母親なのに。私はずっと、後ろから、見てることしか……」

 

「ミヤコさん」

 

「……でも、見届けると決めたのは、私です。後悔は、あります。何度でも、あります。それでも、決めたのも、私です」

 

 ぎゅ、と唇を噛む。

 

「後悔は、あります。……でも、あの子を信じたことは、それだけは、……嘘じゃ、ないんです」

 

 途中で言葉が崩れて、最後は、ほとんど音にならなかった。

 

「私もね、本当は怖かったよ」

 

 太陽みたいに、穏やかな声だった。

 

「やめてって、何回も言いかけたの。でもね、おかえりって言うって決めてたから。真珠くんが帰ってくる場所に、私たちが先にいなくなっちゃだめでしょ」

 

 小さく笑う。

 

「だって、家族だもん」

 

 ラルマーは、何も言わなかった。

 金の鳥を、親指でゆっくりと撫でている。ガラスの下で、真珠が係員の肩を借りて、一歩ずつ歩いていく。その背を、金色の瞳が、じっと追っていた。

 空調の唸りが、部屋に戻ってくる。誰も、動かない。アクアの膝の上で、握ったままの拳が、静かにほどけた。

 長い沈黙のあと、ラルマーは、ふいと視線を窓の外へ逸らした。

 

「……見事だ」

 

 ぼそりと、それだけ。声は低く、照れ隠しのようにも、独り言のようにも聞こえた。

 ミヤコの目の奥が、熱くなった。唇を噛んで、深く頭を下げる。その背に、アイの掌がそっと触れた。

 

「湿っぽいのは、性に合わんなーー母御よ」

 

 ラルマーは、首元に指をかけた。細い金の鎖が、しゃらりと鳴る。

 外したそれを、飴玉でも放るみたいに、ぽいっと放った。

 

「ほれ」

 

「えっ、ちょ、わっ、わわわっ!?」

 

 両手で受け止めようとして、取り落としかけて、膝で弾いて、もう一度宙に浮いたそれを、最後は胸に抱え込むようにして掴み取った。

 はあ、はあ、と肩で息をする。

 手のひらの中で、小さな金の鳥が鈍く光っていた。翼を広げ、両腕を高く掲げた、人の身体に鳥の顔。まだ、殿下の体温が残っている。

 

「こ、これ、本物の金……」

 

「当たり前だ。余が偽物を下げると思うか」

 

「い、いただけません! こんな大事なもの! お返しします! 国際問題になります!」

 

「ならぬ。断られるほうが、よほど国際問題よ」

 

「そんな理屈ありますか!?」

 

「ある。余が今、作った」

 

 殿下は平然と葡萄を一粒口に放り込み、それから声を落とした。

 

「先刻、貴様らに棄権を勧めた。あの子を信じ抜く覚悟を、軽く見た。余の侮辱であった。許せ」

 

 頭を下げたわけではない。けれど、その声には、たしかに詫びの重みがあった。

 

「それは詫びの印だ。もうひとつ」

 

 金色の瞳が、すっと細くなる。

 

「余は貴様らを見ている、という印でもある。あのガオランを倒した男の家族に、他の者が手を出すなど、余が気に食わぬ。困ったときは、それを見せよ。蛇が寄ってきたときにでもな。余の国の者なら誰でも意味が分かる。分からぬ者には、余の名を出せばよい」

 

(魔除(まよ)け……)

 

 ミヤコは、掌の鳥をそっと握りしめた。重かった。金の重さだけじゃない、何か別のものが、ずしりと乗っている気がした。

 

「……ありがとうございます」

 

「うむ」

 

 殿下は満足そうに頷いた。

 

◇

 

「それと、だ。あれが勝ったら聞かせてやると言うたな」

 

 ——来た。

 ミヤコの勘が、さっきの三倍の音量で警報を鳴らした。

 

「星野アイ、と申したか」

 

「はーい?」

 

 ガラスのほうから、気の抜けた返事が飛んできた。アイだった。振り返りもせず、真珠から目を離さないまま、反射で返事をしている。

 

「アイ! 殿下に『はーい』はやめなさい!」

 

「はっはっは、構わぬ構わぬ」

 

 殿下は、心底おかしそうに笑った。

 

「あの者を、余の国の映画に迎えたい」

 

「…………はい?」

 

 ミヤコの心臓が、一回、止まった。

 

「主演でな」

 

 二回目。

 隣のアクアの肩を、無意識に鷲掴みにしていた。アクアが「いっ」と呻く。

 

「王室が後ろ盾になる。撮影はバンコクと、北の古都と、南の島をいくつか。宮殿の中も、少しなら使わせてやろう。拘束は短く、休みは長く取らせる。ギャラは、八頭の者に紙にさせてある」

 

 三回目。

 殿下が懐から薄い書類の束を出し、ミヤコの膝に落とした。表紙に、アイの名前がある。

 一枚めくる。二枚めくる。

 ゼロが、並んでいた。

 行列だった。ゼロが一列になって、紙の端まで続いても終わらない。数えようとして、途中で目が泳いだ。うちの経理ソフトの桁数は足りるのかしら、と、本気で考えている自分がいた。

 

「……ああ、フランスの連中も、そのうち嗅(か)ぎつけるだろう。アメリカの何とかいう連中も、話を聞きたがるかもしれんな」

 

 四回目。

 ミヤコの身体が、椅子の上をずるずると滑り落ちていく。

 

「母さん! 母さん、息して!」

 

「ママがハリウッドだぁぁぁぁっ!!」

 

 ルビーが、両手を突き上げて叫んだ。

 

「ルビー、まだ何も決まってない」

 

「でも『アメリカの何とかいう連中』って言った! それハリウッドだよ絶対!」

 

「ゼロ、いっぱいだね〜。すごーい」

 

 ガラスのほうから、また気の抜けた声がした。アイは、まだ振り返らない。

 

「アイ、あなたねえ……」

 

「だって真珠くん見てるんだもん」

 

 英先生が、黙ってミヤコの背に手を添えた。それだけで、ほんの少し呼吸が戻る。ミヤコは肘掛けにしがみついて、どうにか体勢を立て直した。

 頭の中が、真っ白だった。社長として何年も修羅場をくぐってきたはずの頭が、うんともすんとも言わない。

 

「母御、聞いておるか」

 

「き、聞いて……おります……」

 

「段取りは、そちらの都合に合わせよう。撮影は、早ければ来年の乾季にでも」

 

「はい……」

 

「細かい話は、また後でな」

 

「はい……」

 

 壊れた人形のように、首だけが縦に揺れる。

 

「母さんが『はい』botになっちゃった」

 

「真珠お兄ちゃんが関わるといつもじゃない?」

 

 アクアが、小声で言った。笑うより先に、同情がこみあげていた。兄のせいで、また新しい胃痛の種が増えた。と

 殿下は、くつくつと喉の奥で笑って立ち上がった。

 

「余は、ガオランを労(ねぎら)ってやらねばな。あれは負けたことがないゆえ、拗(す)ね方を知らん。放っておくと、三日は飯を食わぬかもしれん」

 

 扉の前で、ふと振り返る。

 

「そうだ、母御。あれに、よく食わせてやれ。——良い闘いだった」

 

 それだけ言って、殿下は扉の向こうへ消えた。

 ばたん、と扉が閉まる。

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 

「……母さん。生きてる?」

 

「ギリギリ」

 

「顔、真っ白だけど」

 

「知ってる」

 

 ミヤコは、天井を仰いだ。心臓が、まだ全力疾走している。今日一日で、一生分止まった気がした。

 それでも。

 ガラスの下で、真珠が係員に肩を貸され、立ち上がっていた。ふらふらと、でも、ちゃんと自分の足で。

 

(……勝ったのね、あの子)

 

 目の奥が、急に熱くなった。誇らしくて、腹立たしくて、どうしようもなく愛おしい。

 

(勝ち方が、心臓に悪すぎるのよ……!)

 

 目元を乱暴に拭った。胸元で握りしめた金の鳥が、掌の汗で滑った。

 

◇

 

「——よしっ!」

 

 殿下が去った貴賓室で、柏木《かしわぎ》渚(なぎさ)は、思わず椅子から跳び上がっていた。

 跳び上がってから、はっとして周りを見回す。壁際に残っていた殿下の侍従たちが、揃ってぽかんとこちらを見ていた。

 

「…………」

 

 咳払いをひとつ。すとん、と椅子に座り直し、背筋を伸ばす。膝の上で両手を揃える。柏木造船の娘として、王族の貴賓室にふさわしい、非の打ちどころのない姿勢。

 ——けれど、口元が緩むのは、どうやっても止められなかった。

 侍従のひとりが、そっと目を逸らした。肩が小刻みに震えている。笑いをこらえているのだと分かって、渚の耳がかっと熱くなった。

 膝の上の手を、そっと開く。手の甲に、爪の跡がまだ赤く残っていた。殿下の前で「勝ちます」と言い切ったとき、自分で食い込ませた跡だ。あれほど震えていた指が、今は少しも震えていない。

 

(……勝ちましたね、斉藤くん)

 

 渚はスマホを取り出し、グループ通話のボタンを押した。

 海の向こうは、夜中のはずだ。それでも、呼び出し音が一度鳴り終わる前に、回線が次々と繋がっていく。

 

『——柏木か』

 

 白銀の声だった。

 

「ええ。勝ちました」

 

 一拍、回線の向こうが静まり返る。

 

『勝ったぁぁぁっ!! 斉藤くん、勝ったぁぁぁ!!』

 

 藤原の声で、耳がきんと鳴った。

 

『……っ、よかった』

 

 石上の声が、鼻声になっている。

 

『……当然、でしょ』

 

 早坂の短い一言は、語尾がほんの少し上ずっていた。

 

『……よかった』

 

 かぐやの声は、ほとんど聞き取れないくらい小さかった。

 

『……かぐや』

 

『泣いてないわ』

 

『まだ何も言ってない』

 

 白銀が、小さく息を吐いた。それから、声の芯を固くする。

 

『——全員、聞け』

 

 空気が、変わった。

 

『斉藤が、繋いだ。ここから先は、俺たちの番だ』

 

『石上』

 

『告発資料、送信準備できてます』

 

『早坂』

 

『報道は押さえました。朝刊に間に合います』

 

『藤原書記』

 

『国の調査、朝一で入ります!』

 

『かぐや』

 

『四宮は夜明けまでに、取引先を固めるわ』

 

『柏木』

 

「柏木造船は契約どおり。東洋電力には、指一本触れさせません」

 

 白銀が、短く息を吸った。

 

『——始めるぞ』

 

『はい!』『了解』『やります』『ええ』「はい」

 

 声が、ひとつに重なった。

 通話が切れる。数秒後、渚のスマホに通知が一件だけ届いた。

 

『渚。見ていたぞ。よくやった』

 

 父からだった。

 渚は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。それから、そっとスマホを胸に押し当てた。壁際の侍従たちは、今度は揃って、見ないふりをしてくれた。

 窓の外で、夕暮れが光っていた。その向こうで、反撃の火が、一斉に灯り始めている。

 

◇

 

 観覧室では、まだ笑い声が残っていた。

 ルビーはアクアの腕にぶら下がり、氷室は窓際で、いつもの無表情に戻っている。英先生は腕を組んで穏やかに頷き、ミヤコは胸元の鳥を握ったまま、まだ戻ってこない。

 その輪の中で、アイだけが、ずっとガラスの向こうを見ていた。

 ガラスの下では、真珠が係員の肩を借りながら、ゆっくりと歩き出している。ふらついて、それでも倒れずに。

 あの夢の中の黒は、どこにもなかった。

 満月の光が、そこにあった。

 

(おかえり、を言わなくちゃ)

 

 一秒でも早く。

 あの、愛おしい人のもとへ。

 

 

 

 

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